土地には歴史が宿っている――今まさにその歴史が顕現させられていた。 ここ、法隆寺の空気はいつもと違っていた。いつもならば観光客で賑わっているはずの西院伽藍や大宝蔵院には人っ子ひとりいないのだ。そのかわり、東院伽藍には異様な光景が繰り広げられていた。 八角形の建物、国宝でもある夢殿の側に高さ10m程の巨木が出現しており、夢殿はその枝葉の傘下に入っている。そればかりか、まるでその樹を守るかのように円陣を組んでいるのは――大量の人、人、人! 300人近くの人がうつろな瞳で巨木と夢殿を取り囲んでいる。夢殿を覆うように立っている舎利殿から溢れ出そうなほど、ぎゅうぎゅうに。老若男女入り乱れて、まるで何かに操られているかのようだ。 どうやらこの人々達は法隆寺を訪れた観光客たちらしい。修学旅行生と思われる制服姿の子供たちから杖をついた老夫婦まで、皆、無表情。 辺りにはかすかに小さな鐘の音の高い音が幾重にも響きわたっているのが不気味に思える。 ぶるっ……。 巨木が枝葉を揺らした。見あげればいつの間にか大きな「実」がいくつも成っているではないか。 ぴりり……ぴりり……。 「実」に亀裂が入り始めた。 なにかが、生まれる――!? ふわっ……。 「中身」が落ちるような衝撃はなかった。代わりにふわりと宙に浮き立ったのは、全身を覆う袍(ほう)を纏い、今で言うズボンのような表袴(うえのはかま) 、頭を覆う冠をつけた男性。手には笏を持っている。 その後ろには、同じく袍を纏い、今で言うスカートのような表袴をつけて、柄の長い楕円形のうちわのような形をした棒を持っている女性が数人、産み落とされた。 それだけでは飽きたらず、実は次々と「人」を産み落とす。最初に産み落とされた男性ほどのオーラは感じられぬから雑兵なのだろう、簡素な衣を持ち、手には槍、刀剣、弓などを携えている。いかんせん、数が多い。「廐戸皇子様」 大樹の元から掛けられた女性の声に下を見ることはなく頷き、男性――廐戸皇子は笏を突き出す。「四天王よ、我が戦に勝利を!」 白膠で彫られた四天王が四方に放たれる。と同時にそれまで巨木を守っていた人壁がバランスを崩し、次々と将棋倒しになっていく。 方々から悲鳴が上がる。だが、悲鳴は止まることなく更に増すことになる。それは――。「全軍、出撃せよ。額田部大王(ぬかたべのおおきみ)をお守りするのだ!」 廐戸皇子が指示を出す。と同時に従順な飛鳥の兵士達は空中での停滞から解き放たれ、倒れた人壁を踏みしだく。それだけでは飽きたらず、身動きのできない人々を次々と武器で攻撃しているではないか! 小さな鐘の高い音は、いつの間にか止まっていた。いや、鳴っていてもこの悲鳴と怒号の渦の中では聞き取れたかどうか。「これがこの地に眠る歴史の記憶ね。この地を訪れる人達の抱く、様々な廐戸皇子像の顕現……」 大樹の根本で阿鼻叫喚の地獄絵図を愉しそうに眺めているのは着物姿の女性。たすき掛けをして薙刀のようなものを手にしている。この武器も見た目通りのものではないだろう。「虹子、月子、凪子。私達も行くわよ」「「「はい、織絵様」」」 そっくりな顔をした10歳前後の少女達が手に持っていた鐘をしまい込む。そして少女達が手に創りだしたのは、光でできた牡丹の花。それを振りかぶって――人々に投げる! ボンッ!! 閃光を伴って起こる爆発。光が引いた後、その場にいた人々は動くことはなくなっていた。 たくさんの血を吸って地面が紅色に染まる。 大樹は地中でぐんぐんと根を伸ばし、その血をも吸い込んでいく。 この惨劇は始まりに過ぎない。 これから周囲数キロ圏内は、全てこうなるのだから。 *-*-* 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。 *-*-* 集められたロストナンバー達と机を挟んだ向かいに座る世界司書、紫上緋穂は難しい顔で導きの書を見つめていた。ロストナンバー達がそれぞれ席に着くと、ふぅ、と深い息をついて。「みんな、世界樹旅団が壱番世界の世界遺産で悪さをしようとしていることは知ってるよね」 その言葉にロストナンバー達は頷く。人海戦術を駆使して旅団の企みを突き止めたのは、ほかならぬ彼らなのだから。「『世界樹の苗』が植えられる場所が2箇所、わかったの。もう1箇所については改めて説明するから、今回は日本の物について説明するね」 と、緋穂が机に広げたのは一冊の薄い冊子のようなもの。観光地で配られている、薄いパンフレットのようだ。 そこには「法隆寺」と書かれていた。「法隆寺。ここが旅団が選んだ場所。といっても広いんだよね……その中でも、東院伽藍の夢殿近くに苗が植えられているよ」 法隆寺は聖徳太子と縁の深い寺。夢殿のある東院伽藍は聖徳太子――いや、これは諡号なので廐戸皇子と呼ぶことにする――廐戸皇子の居住地であった斑鳩宮跡に立てられてている。夢殿は国宝にも指定されている。「苗木が巨木に育つと、樹は『実』をつけてそこから色々と生み出すみたい。今回生み出されるのは、廐戸皇子と貴族の女性数人と、大量の飛鳥時代の兵士達。さすがに、普通の人を呼び出しても今回は戦力にならないだろうから、兵士であってもそこそこ強化されていると思ったほうがいいかな」 生み出される廐戸皇子は土地にうず高く積もった歴史や、ここを訪れた人達が思い描いたイメージ。土を通してそれを吸い取った巨木が、それらを顕現している。史実と異なっている部分があるのはそういうことらしい。「廐戸皇子は雑兵とは比べ物にならないくらいの力を持っていると思ったほうがいいよ。具体的にはちょっとわからないんだけど……」 貴族の女性たちも、何らかの役割を担っていると思われる。「要するに、苗木が巨木になる前に消せばいいんだろう?」 一人のロストナンバーの言葉に緋穂は「それはそうなんだけどね」と歯切れが悪い。「苗木を植えた旅団のツーリスト達は、苗木が育つ時間を稼ぐために法隆寺に観光に来ていた人達を使ってるの。夢殿と苗木を護るように円陣を組ませてるんだ。舎利殿から溢れそうなほどの人を」「え……でも、観光に来た方々が自発的に守っている……訳ではありませんよね?」 静かに紡がれたユリアナ・エイジェルステットの言葉に緋穂は頷いた。「何かに操られているみたい。旅団のツーリストの力だとは思うけど……ちょっと詳しくはわからなくて。ただ気になるのは『実』がなるまで鳴り続けていた『小さな鐘のなる高い音』。これ、聞こえなくてもそこそこ遠くまで届くみたいなんだ。これが関係している気がする」 操られたままの観光客を移動させるのは難しい。全力で抵抗するからだ。「みんなが早めに計画に気がついてくれたおかげで、観光客を逃したり救出する時間はあるんだ。もちろん、観光客には危害を加えないで欲しいの」 旅団ツーリストも苗木が育つまでは苗木を護ろうとするだろう。と言うことは居所は予想がつく。だが人垣をかき分けて進むことは無理そうだ。旅団ツーリストと苗木に迫るには別の方法を考え無くてはならない。「苗木が巨木になったら『実』が生るよ。そうしたら、もう人壁は殲滅対象にしかならない。だから、観光客を解放する時間は限られているよ」「旅団の時間稼ぎの一つですよね。でも、そうだとわかっていても、一般の方々を見殺しにするなど――」 できるはずはない。ユリアナの言葉に他のロストナンバー達も頷く。「うん、大変な任務だけどお願い。あと、出来れば伽藍や夢殿は傷を付けないでね。もちろん、みんなの身の安全には代えられないけど」 少し安心したように緋穂は息をついた。「続けて、法隆寺に現れる旅団ツーリスト達について説明するね」 緋穂はメモ書きにイラストのついたプリントを皆に配った。「リーダー格は黒髪をポニーテールにした和服の女性。織絵って言うよ。薙刀を持っているけど、これ普通の薙刀じゃないかもしれないね。特殊能力はちょっとわからないや」 イラストではおとなしそうな表情をしているが、きっと武闘派の女性なのだろう。「彼女に付き従っているのが10歳くらいのおさげの少女三人。そっくりだから、三つ子かな。名前は虹子、月子、凪子。虹子はピンク系の着物、月子は黄色系の着物、凪子は水色系の着物を着ているから、もし区別が必要な場合は参考にしてね」 三つ子の攻撃方法は、掌に創りだした光の牡丹の投擲による爆発。他は現時点ではわかっていない。「もっと詳しく予言出来ればみんなの戦いも楽になるのに……ごめんね、あまりわからなくて」「そんな……」 自らがその地に赴いて事件解決に携わることができない分、なるべく多くの正確な情報を与えたい。 自らが予言した事件で実際に傷ついたりするのは現地に赴くロストナンバー。だから、彼らの任務がつつがなく進むようにとどんなひどい状況でも目をそらさずに『視る』つもり。 世界司書としての職業意識とジレンマが緋穂にそのような言葉を紡がせたのだろう。「行ってきます」 誰からともなくチケットに手を伸ばすと、「……、行ってらっしゃい!」 いつもロストナンバー達の背中を押す、明るい声が返ってきた。========!注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。========
● ターミナルから沢山のロストレイルがディラックの空へと旅立っていった。その行き先は全て壱番世界で、車内には世界樹旅団の企みを阻止するべくロストナンバー達が乗り込んでいる。急を要する依頼であるため、恐らくどの車内も緊張と緊迫感が漂っているに違いない。 このロストレイルは日本の奈良県へと向かう。法隆寺の敷地の中に植えられた苗木を処理するために。 「そういえば聖徳太子の事、最近は廐戸皇子って表記することになってるよね。実在も疑われているとか」 「えっ!? 聖徳太子、実在しなかったのか!?」 歴史ってのは難しいね。そうゆうミステリーも結構好きだけど――コンダクターの花菱 紀虎が呟いた言葉に反応したのはティーロ・ベラドンナ。彼が手に持っているのは聖徳太子の出てくる漫画『豊聡耳(とよとみみ)の皇子様』だ。鞄の中には全18巻が詰め込まれている。 「詳しいことはわからないですけど、でも、聖徳太子のモデルになった人物はいるだろうって言われていますし、問題ないと思いますよ。聖徳太子っていうのは亡くなってた後に付けられた名前だから、廐戸皇子って表記することにしているみたいですけど」 さすがに壱番世界の出身だけあって、紀虎には学校で習うくらいの聖徳太子の知識はあった。ティーロは「へぇ~」と感心したように声を上げる。 「私も、かつて少しだけ廐戸皇子を特集したテレビを見たことがあります」 紀虎と同じくコンダクターのユリアナ・エイジェルステットは外国人だが、ここ数年は日本で過ごすことが多いのだという。 「じゃあ、この漫画読むかー? 面白いぜ」 ティーロはユリアナに1巻を差し出して。ユリアナは礼を言ってそれを受け取った。 「出来れば人質や遺跡保護も頼むとか……あれは煩い」 隅の席で窓枠に肘をついて外を眺めているのは業塵。知人に頼まれて参加を決めたという彼は、深くため息をついた。 そんな彼の耳に入ってきたのは、斜向かいに座るコンダクターの椎橋 楓の呟き。 「……こうも早くに壱番世界が危機に直面するとはね……」 ぽろりと漏れでたのは、本音。つい最近ロストナンバーとして覚醒したばかりの楓には、いつか訪れると言われ、回避方法を探していた危機がすぐに来てしまった、そんなイメージなのだろう。 (平凡な日常って案外壊れやすいものなんだね……つまらないものだと思ってたのに、いざこんな事になると……どれ程それが大切なものだったのかがちょっとだけ分かった気がするよ) 『こんな事』が旅団の大規模侵攻を指しているのかそれとも覚醒を指しているのか、あるいは両方なのか。かつて享受していた日常というものが、どれほど貴重なものだったのか身を持って感じていた。 (なんて、しんみりしててもしょうがないね。……僕は僕にできることをするよ) そう、今できること、するべきことはこれから起こる大虐殺を防ぐこと。楓は人知れずぐっと拳を握りしめた。 それぞれ思うところがある中、黙って腕を組んで目を閉じていた百田 十三が瞳を開けて、口を開く。 「作戦について、各々の考えを確認したい」 その言葉に、一同の表情が更に引き締まった。 ● 普段は観光客であふれている時間帯である。 通常であれば一歩法隆寺の敷地を出ればそこかしこに観光客の姿が見受けられるので、その光景は異常に映った。 南大門をくぐったその時から、人っ子ひとりいないのだ。 しぃん……外の雑踏は聞こえるのに、中は痛いほどの静寂という不思議な感覚。 そんな中に時折鹿の姿が見える。鹿は操られないのだろうか。操る対象を選択できるのか? 旅団員の能力は今の状態では細部はわからない。 「あ、ちょっと行ってきますね。先行ってて下さい」 きょろきょろと何かを探していた紀虎が見つけたのは鹿せんべいを販売している所。財布を出しながら彼は小走りに駆けていく。販売員がいないからといってただで鹿せんべいを貰うのは流石に気が引ける。いや、彼は鹿と戯れたいからせんべいを買いに走ったわけではない。仲間にはその行動の意図を通達済みだ。 「東院伽藍はこっちみたいだよ。行こう!」 緋穂にもらったパンフレットの中の案内図を見て、楓が声を上げる。紀虎以外の五人は楓の先導で走った。時間がない――人質を解放するのも時間が限られていると司書は言っていた。 東院伽藍まではかなりの距離がある。走るのももどかしいが仕方あるまい。この一歩一歩が救いの道となることを願って、進んでいく。 進んでいくと、高い鐘の音が耳に入るようになった。東院伽藍に近づくごとにその音は大きくなっていく。 「うおっ、これが洗脳している鐘の音かっ」 「案ずるな。この音、ロストナンバーは操られない」 思わず耳をふさいだティーロの肩を、十三が叩いた。耳から手を離したティーロは「そういえばそうだったなぁ」と頷いて。 「でも、耳を塞ぎたくなるのはなんだか分かるよ」 「ふむ。禍々しい音であるからな」 楓と業塵もティーロが思わず取った行動に頷いて。自分達に特殊な効果がないとわかっていても、やはり気持ちの良いものではないのだ。 「あ、あそこを通れば夢殿だよ!」 楓の声で目的地が近いことを知る。未だ中は見えないが、無数の人がうごめく気配がする。例えて言うなら、テーマパークの混雑やコンサートやライブの熱気のようなものだ。 「ここかー。ヒデェ趣味だな」 ティーロの言うとおりだ。夢殿を囲むように立っている人達は老若男女問わず、舎利殿にぎゅうぎゅうに押し込められるような形――いや、洗脳されて自分達から集まっている以上、自分達でぎゅうぎゅうに詰まった形だが――になっている。舎利殿の入り口から溢れ出しそうで、中の様子を窺うこともできない。勿論、押しのけて中に入ることもできそうになかった。乗車率120%の満員電車のごとく、身動きさえ取れぬだろう。 「酷い方法ではあるが……ある意味正攻法ではあるな」 人質を盾にするということは業塵の言うとおり、ままあることではある。だが彼が許せぬのは、戦う力も無い、戦いを望みもしない子供を巻き込む旅団。不愉快極まりない。 試しに楓が手前の老人を一団から引き離そうとしたが、老人にあるまじき力で振りほどかれてしまった。火事場の馬鹿力と呼ばれるものが、発揮させられている状態なのだろう。 「ちょこっと情報収集するぜ。よろしくなー」 後半はこの場の風の精霊に向けたもの。ティーロはしばらくの間、風の精霊と会話をして。そして仲間達へと身体を向き直した。 「繰り返す時間はねーかもしれねぇから、よく聞けよ。 この塀みたいなのに囲まれた真ん中に夢殿っつーのがあって、そこに苗木が生えている。 苗木は今3、4メートルくらいで、女性一人と少女三人が守っている。司書が言ってた織絵と三つ子だと思うぜ」 風の精霊が教えてくれた情報をひとつひとつティーロは仲間達に教えていく。仲間達は真剣な面持ちでそれを聞いていた。 「三つ子は手に小さな鐘を持っていて、それを打ち鳴らし続けているらしいぜ。苗木を背にして三角形の頂点になるように立ってる。三つ子が鐘を鳴らし始めてから、人がたくさん集まりだしたらしいぜ」 「それじゃあその鐘を鳴らすのをやめさせればいいんだね」 「だが、人々を何とかせねばのう」 「予定通りに行こう」 情報を受けて予定していた手順を最確認する。だが今の時点では変更する必要はなさそうだった。十三の言葉に四人は頷く。 「オレは予定通り姿を消して、敵の攻撃に注意しておくぜ」 「僕もサポートにまわるよ」 十三が行おうとしている洗脳解除の方法、それを成功させるためにティーロと楓は動く。 「ユリアナと言ったな……車内で話した通り、避難誘導を手伝ってほしい。この銅鐸を預けておく」 「はい、分かりました。頑張ります」 銅鐸を受け取り、ユリアナは真剣な表情で頷いた。 「袁仁招来急急如律令! この銅鐸を持ち、建物の上、五芒の頂点で鳴らし続けろ!」 十三は袁仁という賢い猿を召喚し、彼らに五芒星の頂点で銅鐸を鳴らすよう命じた。音同士が相殺し合えば洗脳が解けるだろう、そう考えたのだ。敵の布陣が五芒でなくともそれなりの効果は現れるはず。 「少女だろうと殺す心算で来れば手加減せぬ。だが情報を得る為に捕獲したいとも思う。どうする?」 役割分担が一段落した頃合いを見計らったように業塵の口から出た言葉はある意味最終確認。 「「「……」」」 だが、他の者はがそれに返してきたのは沈黙。互いの出方を待っているようにも思えるが、それよりもむしろ。 「考えてはいなかったか」 「厳しい内容だからな。捕獲を狙って下手に手心を加えてそこを突かれる訳にはいかない」 そう答えたのは十三。そう思っていたからこそ、あえて捕獲とも殲滅とも意思表示をしなかったのだ。他の者もだいたい同じ考えで、まずは苗木の除去を考えるのに精一杯だったということ。 「それもそうであるな。時間制限がある為困難か」 「最重要な苗木の除去をした後で相手が生きてたら、捕獲に挑戦してもいいんじゃねーか?」 ティーロの尤もな一言でそれは決定し、トラベラーズノートによって敷地内の離れた所にいる紀虎にも伝えられた。 「行け!」 十三の合図で五匹の袁仁が銅鐸を持って飛び行き、ティーロは自らの姿を消した。楓は出てくる人々の邪魔にならぬように入り口横へと避けて風に乗って上り、屋根の影へと身を隠した。いつでも風に乗って飛び上がれるように意識を集中させる。業塵は洗脳の解除された人々に対応するため、やはり入り口を避けるように飛行し、楓と同じく舎利殿の屋根に身を隠す。 カーン……カーン……カーン…… 五つの銅鐸が共鳴するように鳴り始め、高い鐘の音と競合するように混ざり合う。 音は一瞬同類に出会ったかのように馴染みそうになったが、互いにそれをよしとせずに迎合を拒む。 どちらも屈服させられてたまるものかとワァァァンと後を引いて響き渡る。 人壁が、動いた。 ● 法隆寺入口付近で皆と別れた紀虎は、鹿せんべい販売所で大量の鹿せんべいを手に入れていた。勿論、その代金はきちんと置いておく。お釣りは勝手にレジをいじるのも悪いと思ったので、文化財の維持に役立ててもらえればいいやと思ってもらわないでおいた。 「欲しければもっとあげるから、ついておいで」 せんべいを確保してから状況を確認すれば、いつの間にやら鹿の包囲網が出来上がりつつあった。紀虎は慌てて包囲される前に抜け出し、鹿せんべいを見せつつ割って投げつつ、東院伽藍への道をゆく。 (鹿は神の使いなんだよね。廐戸皇子の兵士たちも手だししにくいかなとも思うんだけど…) 春日大社では鹿が神の使いだとされて敬われ、保護されてきた。8世紀に平城京を守る為に、武甕槌命(タケミヤツチノミコト)が白鹿に乗って御蓋山(ミカサヤマ)に来られたとされているからだ。 (あれ……? 廐戸皇子って平城京より前の人だったような……) ふと、歴史の授業を振り返ってみる。廐戸皇子は飛鳥時代の人物であるからして、少しばかり時代が足りないかもしれない。けれどももしかしたら飛鳥時代にも鹿を敬う信仰があったかもしれない。大量の鹿を前にすれば、怯んでくれるかもしれない。 「って……!? 俺が怯んみました……」 少しばかり思考を中心にしたため歩行速度が落ちたのだろう、鹿が、鹿がまた紀虎を取り囲もうとしている。しかも、なんかさっきよりも多い。 「あーもう、走るよ。せんべいが欲しかったらついてきてくださいねっ」 鹿たちにぶつからぬよう隙間を縫って、紀虎は駈け出した。後ろから鹿たちの追ってくる足音が聞こえる。 (修学旅行の時、囲まれて困っている奴いたよな……) ちらっと思い出すが速度は緩めない。後ろから迫ってくる足音って、それが安全なものだとわかっていても怖いものだ。今回は立ち止まったらせんべい欲しさに襲われるのは確かだから余計に。 *-*-* 「この音は何……?」 突然、三つ子の鐘の音に、かぶせるように音が響いてきた。三つ子の鐘の音が聞き取りにくくなっている。織絵は慌てて三カ所に分かれて立っている三つ子を確認した。しかし誰一人として鐘を叩くのをやめてはいない。 「織絵様っ……あの音が邪魔をして、私達の鐘の音の均衡を崩してます!」 「調和がとれませんっ! このままでは、人壁が正気に戻ってしまいますっ」 「苗木はまだ、次の段階へ成長しませんか!?」 同じ声で三人が、順に叫ぶ。織絵は傍らの苗木を見た。半分は超えたが、まだ目的の大きさまで成長し切るには時間が掛かる。それまでは守ってやらねばならない。 「まだよ……まだ、守らねばならないわ」 「でも……」 「わかってる。きっと世界図書館のロストナンバー達の仕業よ。あれも奴らに使役されているんでしょうから」 織絵がキッと睨みつけるようにしたのは、舎利殿の屋根の上で銅鐸を鳴らす袁仁。 「忌々しい」 唇を噛み締めて、薙刀を握り締める。薙刀を振り下ろしたくはあるのだが、苗木を守る為にできるだけ近くに人壁を配置してしまったため、ここからそのまま振っては三つ子達にあたってしまうおそれがある。 「大丈夫よ、あなた達は鐘を鳴らすことに集中して。私が何とかするわ」 不安そうに織絵を振り返る三つ子達を安心させるように笑んで、彼女は口の中で短い呪(しゅ)を唱えた。すると彼女の身体が地面から浮いていく。 (人壁の高さを越えすぎれば狙い撃ちされる可能性がある。薙刀を振れるギリギリの高さを確保しなければ) 冷静に状況を分析し、織絵は袁仁の一匹に狙いを定めた。そして斜め上段に構えた薙刀を振り下ろすっ! シュンッ……! 突出しない高度を保ったため完全に振り下ろすことは叶わなかったが、薙刀の先から袁仁に向かって飛び出したのは不可視の刃。袁仁の喉元を切り裂いたことでその鋭さが分る。 ギャアという叫び声がゴボッという空気の漏れる音と混ざった不快な音がした。袁仁が銅鐸を取り落として屋根から落ちる。 「!」 その様子を十三は見ていた。袁仁が一匹、何かにやられた。急いで首を巡らし、薙刀を持った女性の上半身を人壁の奥に見つけた。 「後少しなのに!」 屋根の上の楓が悔しそうに舌打つ。 彼女の言うとおり、鐘から一番遠くにいると思われる入口付近の人々に変化が訪れていたのだ。固まるように他の人とくっついていたのが、少しずつ身じろぎを始めて。 「袁仁招来急急如律令! 銅鐸を拾って同じ場所で鳴らせ!」 数で言うならばまだ銅鐸の音の方が勝っている。だが十三にしてみれば五芒の位置というのに意味があって。再び一匹の袁仁を呼び出して、先ほどの袁仁と同じ場所に飛ばす。程なく銅鐸を拾った袁仁が屋根の上でそれを鳴らし始めた。 すると。 「正気を取り戻しおったか」 外側にいる者達の瞳の色が変わった。洗脳されている時の濁りきった、自分では何も考えていないような死んだ魚の眼ではなく、生きた人間の瞳に。とすれば、突然正気に戻った人達の混乱は必至だ。このまま正気に戻る人がぬ増えれば尚更。 「同じく反対側も正気に戻っておるだろう。だが」 「反対側には出口がないから、パニックになっているかもね」 頭の中にパンフレットに載っていた舎利殿図を思い描いた楓が業塵の言葉に続ける。 出口が一つの長方形の箱の真ん中に、円形の建物があると想像してほしい。その建物付近に苗木が植えられているので、その建物を囲むように人壁は詰め込まれているのだ。 洗脳解除の効果は鐘から遠い出口側とその反対側から現れているようなのである。 業塵は頷いて。 「儂はそちらの者達を優先的に脱出させよう」 此方側の誘導は頼んだ、とばかりにユリアナを見て、頷く。そのアイコンタクトに気がついた彼女は銅鐸についた紐を握りしめて、頷き返した。 業塵が舎利殿の奥へと飛んでいく。それを見てユリアナはトラベルギアの力で背に妖精の翅を生やし中空に浮き上がる。 カーン、カーン、カーン…… 注意を引くために規則的に銅鐸を鳴らす。 「皆さん、出口まで誘導します。この音を目印に私についてきて下さい!」 わあっ…… まさにそんな音が合うだろう、正気に戻った人達が我先にと舎利殿から飛び出していく。 「押さないで! 慌てると二次災害になる!」 多数の人間がパニックになると恐ろしい。子供や老人もいるのだ、落ち着いて順番に脱出せねば下手すれば死者が出る。屋根に潜んでいた楓が見かねて声を出した。 一方、舎利殿の奥へと飛んだ業塵の目の前でも正気に戻った人々が出口を求めてパニックになっていた。鐘の音に近い者達はまだ洗脳が溶けきっていない。ゆえにいくら出口へ向かいたくても中心に固まっている人壁を抜くことができないのだ。 助けて! ママァ、くるしいよう! 一体どうなっているんだ! 怖い、怖い、怖いっ! 様々な叫びと鳴き声、怒声が渦巻く。鐘の音と銅鐸の音とも混ざり合って、耳障りの良いものとはいえない。 もうこれ以上進めぬというのに押し来る人々。このままでは圧死するものが出る――。 ふわっ…… 業塵の手元から出た蜘蛛の糸が、進もうと押し続ける人間たちを拘束した。そして、反対の手から現れた妖蛍が押しつぶされるようになっていた人々に触れる。すると。 ふっ…… 妖蛍に触れられた人々の姿が消えた。何十匹もの蛍は次々と正気に戻った人々に触れ、彼らを外へと瞬間移動させていく。蜘蛛の糸で拘束された者も、順番に。 「だいぶ洗脳も解けたか」 妖蛍が触れていくごとに地面が見えるようになっていく。かなり見通しが良くなった。この分なら程なく全ての洗脳が解けるだろう。ただ、人間が自分の足で避難をしている反対側はまだ混み合っているようではあるが。 銅鐸の音は鳴り響いている。十三は自分の策がうまく効果を表しているか目を光らせていた。先ほど袁仁がやられてしまってから、いつでも代わりの袁仁を召喚できるように準備していた。 しかし幸いなことに、あれから袁仁は撃破されていない。敵が袁仁を狙うのをやめたのか? 否。織絵と思しき女性の薙刀は袁仁を狙っている。だが。 「二度はやらせないぜ!」 ティーロだ。姿を消しているからして彼の身体を見て取ることはできないが、彼が狙われた袁仁の前で魔法障壁を展開させて織絵の不可視の刃を防いでいるのだ。よく見れば刃が障壁にぶつかる瞬間、小さな光の火花が発生している。 カッ……カッ……! 防がれるたびに織絵は狙いを変えるが、彼女の身体の向きが変わるのが見えるティーロはそのたびに次の対象の前へと瞬間移動して、刃を防いでいた。 「感謝する」 聞こえないとは思ったが、十三は小さく呟いて、次の行動へと移る。気息を整える事で身を軽くして。 「いくぞ」 逃げようとする人の頭の上を軽やかに飛び越えながら、次の符を投げる。 「火燕招来急急如律令! 上から一直線に世界樹に飛び込み火を付けよ……行け!」 呼び出されたのは火炎属性の燕。だが樹の天敵ともいえるそれを、旅団側が見逃すはずはなく。 「はぁぁぁっ!」 飛び来る火燕を身を返すようにして切り裂いたのは織絵の薙刀。その身体は残り少ない人壁から殆ど出てしまっている。最早隠れる意味を失ったのだろう。 十三は後ろに飛び退いて織絵の動向を見る。だが彼女は十三を追おうとはしなかった。 (苗木が育つまでは、守りに徹するのか) 事前の情報通りである。逆に考えれば、旅団が積極的に攻勢に転じたら『始まる』のだろう。 「来た!」 屋根に登ったまま振り向いた楓が上げた声が届いた。耳をすませばどどどどどという足音も聞こえる。それが何かはわかっている。だから楓以外は苗木周辺と旅団員から目を離さないで。 「お待たせ! 楓さん、頼みましたよ!」 息を切らせながら走ってきたのは紀虎だ。後ろや横には鹿せんべいを求める鹿たちが群がっている。彼は舎利殿入り口にたどり着くと、鹿せんべいのたんまり入った紙袋を放り上げた。 「任せて!」 ぶんっ……飛んできた紙袋を、楓は両手を伸ばして見事に両腕に抱える。若干バランスを崩したが、風を使って持ち直したため屋根から落ちるのは免れた。 「……うわ」 ふと下を見れば、せんべいの持ち手が移ったのを理解したのか、鹿達が楓のいる屋根の下に集まってきている。とどかぬせんべいに怨嗟のこもった唸り声をあげるその光景は、なんだか鬼気迫るものがあって恐ろしい。恨みが全て自分に向けられているような……。 一方紀虎は舎利殿の中へ入る前に手に持っていたせんべい数枚を外に投げ、そのまま駆け入る。人壁はかなり薄くなっていたが、まだ一般人がゼロになったわけではない。織絵とティーロの攻防が再開されていた。 「これで飛べるようになるだろう」 出入り口側に戻ってきて、体勢を崩したり転んだりして避難の遅れた人達に妖蛍を使用して瞬間移動させていた業塵が紀虎の側へと寄る。彼が紀虎に憑けたのは蜂。飛行が可能になり、一時的に身体能力が上昇する。ツーリストの紀虎にとってはありがたい。 「よっし、来たなー。俺がサポートして位置を教えるから、狙ってくれ。狙いは三カ所。なるたけ外すなよー」 「っと……ティーロさんですか、びっくりした」 姿を消しているティーロの声が耳元で響き、紀虎はびくっと身体を震わせた。打ち合わせ済みとはいえやはりいきなりだとちょっと驚く。 「了解です」 ティーロが袁仁を守ることをやめたので、織絵の薙刀の繰りだす刃が袁仁に突き刺さる。だが、袁仁には悪いが織絵にはそちらに集中してくれてもらっている方がありがたい。 「共に攻めて隙を突く」 後ろから追い抜きざまに告げて十三が跳んだ。頷いて紀虎も宙へと舞い上がる。高度を上げるごとに苗木の回りにいる少女達が見て取れた。 「魍魎夜界が符術師、百田十三……参る!」 十三が名乗りを上げて織絵を目指してゆく。次々と火燕を召喚しては織絵にけしかけるが、尽く薙刀に斬り裂かれる。相手のほうが上手? 否。 「紀虎、いいか? まずは一番近いピンクの着物からだ。そこから時計回りに3発いくぞ」 「分かりました」 ティーロの指示に紀虎はトラベルギアの扇を取り出す。 「軌道が逸れてもある程度なら俺が修正する。行け!」 「はあっ!!」 扇子が空を切った。扇子から出現した刃のような風はティーロの補助も受けて一直線に虹子の手元を狙う。 「あっ!」 パリッ……! 虹子が声を上げたのと彼女の手元の鐘がまっぷたつに割れたのは同時だった。鐘を割って勢いの削がれた刃は虹子の着物を浅く斬りつける。 「虹子!?」 織絵が声を上げる。だが彼女は状況を確かめることができない。十三が繰り返し呼び出す火燕が絶え間なしに襲い来るからだ。彼女はまんまと引きつけられていた。 「黄色を狙え!」 「はいっ!」 飛んで位置を変えたティーロと紀虎が月子の鐘を横から狙い、刃が鐘を半分にした。鐘を叩いた月子がその音の変化に不思議そうに首を傾げて、半分になった鐘を見つめている。その間に最後の一つ、凪子の鐘を刃が切り裂き、ついでに彼女の腕を切りつけた。 「よしっ!」 紀虎が思わず歓声を上げる。 鐘の音が、止んだ。響くのは、唯一残った一匹の袁仁の叩く銅鐸の音。そして。 ぶるっ……さわさわさわ…… 彼女たちが守る苗木が、枝葉を揺らす音。大きな実が、風に揺れる音。 いつの間にか、10メートル程の巨木に成長した苗木は、実をつけていた。 「きゃぁっ!? 何あれっ!」 洗脳の元凶である鐘の音がなくなったことで、最後の人壁も正気に戻った。そして今の状況を視界に収め、悲鳴と混乱が広がる。 「妖蛍よ」 人質が正気に戻ったことを確認した業塵は、素早く、妖蛍に命じ、人々を瞬間移動させていく。移動させた人々は最終的にユリアナが上手く落ち着かせてくれるだろう。彼女の声は、人々の気持ちを落ち着かせる歌を紡ぐことができる。 「楓さん、今です!」 紀虎が出入口付近を振り返り、叫んだ。 ぴりり……ぴりり……実に亀裂の入る音がする。 「まもなく生まれる。そうすれば全力で戦えるのよ、こちらも!」 火燕を切り裂いて、織絵が涼し気な笑顔を浮かべる。だが人質がいなくなった以上、遠慮無く戦えるのはこちらも同じ。 「虹子、月子、凪子、遠慮なく――」 「いっけぇー!!」 織絵の言葉を遮るように楓の声が響いた。同時に何か塊が織絵達めがけて飛んでくる――中身がパンパンに詰まった紙袋だ。 「鹿、鹿せんべいはあっちだ!!」 次いで放たれた空気砲が紙袋を破る。 「な……っ!?」 ばらばらばら……破れた紙袋から何かが降ってくる。織絵と三つ子が思わず空を仰いだ。 「鹿せんべい、ですか……?」 頭の上に落ちてきた一枚を拾った凪子が不思議そうに首を傾げる。そして事態に気がついたのは、月子。 「織絵様、鹿がっ!」 悲鳴のような声を上げ、三つ子達は固まる。年端もいかぬ少女達が放流されたダムの水のごとく押し寄せてくる鹿達に恐怖を抱いても誰も責められまい。 「怯える前に攻撃なさい!」 若干引きつったような織絵の声が飛ぶ。鼓舞された三つ子がそれぞれの掌に光の牡丹を咲かせていく。 「「「こないでー!!!」」」 叫び声を伴ってそれが迫りくる鹿めがけて投擲された。着弾すれば閃光を伴って爆発し、鹿達はひとたまりもないだろう。 だが。 バンッ!! 牡丹が何かにぶつかったような音が響いた。その時点で爆発するかとも思われたが、牡丹はそのままころんと地面に転がった。 「子供でも容赦はせぬ」 「動物をいじめるのは感心しないなぁー」 業塵とティーロの声がする。業塵がギアを使って牡丹を弾くのと同時に、ティーロが爆発を抑えるために魔力で牡丹を包み込んだのだ。 「幻虎招来急急如律令……斬り裂け!」 十三が続けざまに蜃気楼のような虎を数体放つ。それは織絵を襲うが、今までの火燕とは違って視認がし難く、彼女は避けることも薙ぐこともこれまでのようにはできていない。 さあ、早い所巨木を何とかしてしまおう――動き始めようとしたその時。 ふわっ……! 身体を開いた実から、人間が生まれた。手に笏を持った、古めかしい格好の男性。男はカッと目を見開くと、すっと笏を織江の方へと向ける。 バリバリバリバリッ!! 笏の先から出た光線が、何もないように見える空間を射抜いた。否、そこには幻虎がいたのだ。男が笏を向けるごとに光が迸り、織絵に掛かる負担が軽くなっていく。 「厩戸皇子様!」 「あれが、廐戸皇子……」 「教科書で見たのより、美形だ」 紀虎と楓が思わず呟く。日本人として、一度は学ぶ存在が人々のイメージの創りだした像を含むものだとしても目の前に存在する、それはとても不思議な感覚だ。 「すげー。やっぱりすげー人なんだな!」 視線を廐戸皇子に向けつつも、ティーロは三つ子達の動きを見て、牡丹に対抗している。三つ子達はすでに身体についた鹿せんべいを払っていたが、足元のせんべいに鹿が群がっていて身動きが取れなそうだ。 「見鬼といった所か」 業塵が呟く。見えないものを見る力、幻虎を正確に狙い撃ったことからしてその能力もあるに違いない。 ぼとっ……ぼとっ……巨木に実った実からは、次々と兵士達が産み落とされていく。近くにいた鹿達は本能的に危機を感じたのだろう、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。逃げ道を見失った鹿には業塵が妖蛍を使う。 廐戸皇子が、笏を振り上げた。兵の数はまだ揃いきっていない。それでも攻めへ転じようとしている。 「全軍、出撃せよ。額田部大王をお守りするのだ!」 守るべき者の名は、敬愛すべき叔母のもの。笏が振り下ろされ、兵士達が動き出す。三つ子が牡丹の投擲の速度を早める。 「きりがねぇな……木を何とかすればこいつらも消えるんだろうが」 業塵と共に牡丹の処理にあたっているティーロが舌打つ。爆発されても今は敵のほうが被害が大きいだろうが、閃光の隙に何をされるかわからない。爆発から建物も守りたい。 「炎王を喚んで燃やさせる」 十三が懐から符を取り出した。だがそれを織絵がしっかりと見ている。必ず彼女が邪魔をするだろう。 「ならば兵士達は任せるのである」 とは業塵。早速傀儡蝿を飛ばし、兵士達へ取り付いてその精神を支配する。効果はすぐに現れ、一部の兵士達が同士討ちを始めた。その様子を廐戸皇子は涼しい顔で見守っている。 「じゃあ、織絵さんは僕が引きつける」 楓と紀虎も声を上げた。 「俺もやるよ。その隙にお願いします」 「じゃあ、サポートするぜ」 ティーロが片手で牡丹に対処しながらもう片方の手で楓と紀虎のギアに触れる。ギアを強化したのだ。 「ありがとう!」 「ありがとうございます」 「では、頼む」 十三が口を開いたその時、織絵の声が響いた。 「何の相談? 名乗りまで上げたのにもう攻撃はおしまい? ならこっちから行ってあげる」 織絵が宙に浮いたまま加速する。斜めに落ちるように突っ込んでくる彼女はそのまま十三と交戦するかと思われた。 すっ だが彼女の薙刀が振り下ろされる寸前、十三は狙いから外れて織絵の横をすれ違うように跳んでいた。 「なっ……」 驚きに目を見開いた彼女の目の前には、十三の巨躯に隠れるようにしていた楓と紀虎がいる。 「……僕は今かなり不愉快な気分なんだ。だから本来だったら空気砲をバカスカ撃って君たちを落としまくりたいところなんだけど……」 少女のものとは思えぬ低く抑えた声で言葉を放つ楓。目の前に両手をかざす。 「行きますよ」 扇子を構えた紀虎の耳元での囁きに頷いて。 「「はぁぁぁぁぁぁっ!!」」 ティーロの魔法で強化された風が、織絵を狙う。楓の疾風が竜巻のように織絵の身体を巻き上げ、紀虎の風の刃が風の中でぐるぐると回る織絵に無数の傷を与える。風が、赤く染まったように見えた。 「きゃぁぁぁっ!!」 薙刀が吹き飛んだ。夢殿に突き刺さりそうだったそれは、直前で停止して地面へと落ちる。 同時に、竜巻から解放された織絵自身も、ボロ雑巾のように地面へと落とされた。 *-*-* 「護法招来急急如律令!」 業塵によって操られている兵士達の上を飛び越え、自分の後方に護法童子の符を放った衝撃で十三はさらに加速する。そして。 「炎王招来急急如律令! 世界樹を抱え込み炎上させろ!」 喚び出された巨大な炎の猩々が巨木に飛びつく。炎が、思った以上の勢いで巨木を包む。それを見て顔色を変えたのは三つ子だけではなかった。廐戸皇子は夢殿に寄り添うようにして呪を唱えている。 「雹王招来急急如律令! 屋根の上にのぼり延焼を防げ!」 続けて召喚された氷でできた雪豹が延焼を防ぐべく動き。 「はいはいお嬢ちゃん達、おいたはそろそろおしまいな」 三つ子の隙を見逃さなかったティーロと業塵が、それぞれの能力で三つ子を拘束する。泣き叫ばれても束縛を緩めることなどしない。 パチパチパチ……ミシッ…… 巨木であるため炎が完全につくまでに時間はかかるが、緋燕も召喚して十三は巨木を燃やす。火のついた表皮と葉が音を立てて燃えては落ちる。 「あっ!」 巨木が痛々しい姿に変化していくにつれ、同士討ちしていた兵士達の姿が薄らいでいくのがわかった。思わず楓が声を上げて。廐戸皇子を見た紀虎は、兵士ほどの速さではないが皇子の姿も薄らいでいくのに気がついた。 「なんでだろう……」 きっと皇子はもっと特殊な力を持っているだろう。それを使えば巨木が燃えるのに対抗できるのではないだろうか? けれども彼は夢殿の側に付いたままで。 (まるで、守っているような――) 一同が燃えゆく巨木を見つめている時、紀虎は薄れゆく廐戸皇子を見ていた。ああもう消えてしまう――そう思った時、皇子の口の端が上がった気がした。 「微笑んだ……?」 「何?」 楓の言葉に答えず、紀虎はティーロへと近づく。 「ティーロさん、さっき薙刀、夢殿に刺さらないように弾いてくれたんですよね?」 「いや、あれは間に合わなかったんだわー誰かがやってくれて助かった」 それを聞いて紀虎は急いで皇子を見る。 消えるその時まで、やっぱり廐戸皇子は微笑をたたえていた。 【了】
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