それは「夏のない年」の出来事だったという。 海底火山クワエの爆発による、世界的な異常気象と大飢饉。 難攻不落を誇った、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの三重城壁が、オスマン帝国の若きスルタン、メフメット2世によって破られたのは。 ときに、1453年5月29日。 コンスタンティノープルは、イスタンブールへとその名を変えた。 現在、イスタンブール歴史地区は「遺跡公園地区」「モスク地区」「大城壁地区」で構成されている。大城壁地区には、5世紀初頭にテオドシウス帝によって建設された「テオドシウスの城壁」があり、かつてコンスタンティノープルを完全防御していた時代の名残を未だ留めている。「遺跡公園地区」には、ビザンティン建築の最高傑作アヤ・ソフィア、トプカプ宮殿、地下宮殿など、どれひとつを取っても説明に長文を要してしまう歴史的建造物が目白押しだ。 ――私は、あの街が欲しい。 その宣言をまっとうし、青年は、コンスタンティノープルを手中におさめた。 陥落後、メフメット2世は真っ先に、キリスト教の大聖堂、アヤ・ソフィアへ向かったという。 当時の常識として、完膚なきまでにたたき壊され瓦礫と化す運命だったはずの大聖堂を、しかし彼は、破壊しなかった。聖母子のモザイクを漆喰で塗りつぶし、ミナレットを立てて、コーランの一文をかかげ、モスクへと「改装」するにとどめた。 だから、今、この地を訪れる旅人は見ることができる。 トルコ共和国政府によって漆喰が剥がされ、コーランと聖母子像が並立し、宗教施設ではなく博物館となった、この希有な建物を。 そして、妖精の縄が解けたばかりのロバート・エルトダウンもまた、アヤ・ソフィアに足を踏み入れ、聖母子像を見上げていたのだが。 ……突然。 爆風に似た衝撃が、ロバートを襲う。 直径31mの広大なドームが砕ける。精緻なモザイクがひとつ残らず、破片となり……。 いや。 砕けたのは建物ではなく、『世界』だった。 イスタンブール歴史地区全体が、モザイク状に分解され、再構築されたのだ。 一瞬だけ目を閉じ、再び開いた、そのとき。 ロバートは、自分の服装が、古風だが豪華な、大時代的なものに変化していることに気づく。 纏っているマントの色は、東ローマ帝国皇帝の象徴、王者の紫といわれるロイヤルパープル――「これは……?」 見上げれば、聖母子像のモザイクが輝かんばかりだ。アヤ・ソフィアは、在りし日の「大聖堂」に戻っているではないか。 外が、ひどく騒がしい。 確かめようと一歩踏み出したとたん。 柱から伸びた黄金の鎖が、しゃらん、と、彼を拘束した。 + + + テオドシウスの城壁の上に立ち、ドンガッシュは、イスタンブールを――いや、16万のトルコ兵に包囲されてなお、善戦し、陥落せずに持ちこたえているコンスタンティノープルを見下ろす。 敵側の攻略拠点となるはずだった基地「ルメーリ・ヒサール」の建設が遅れ、城壁を打ち砕くはずの「ウルバンの大砲」はその威力を半減させている。頼もしいジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニは、負傷したものの、怪我は大したことはないようで、果敢に指揮を取り続けている。 そして、トルコ兵がなだれ込むはずのケルコポルタ門は、頑丈に施錠されたままだ。 すべては、世界樹旅団にて『世界建築士』のふたつ名を持つ、ドンガッシュの「仕事」である。「これが、あんたの望んだ世界か」「素晴らしい。ありがとうドンガッシュ」 そのそばに立つ初老の男は、うっとりと『造りかえられた世界』を見渡した。彼の衣装は古めかしいが上品で、いにしえの帝国の大臣でもあるかのような風情である。「これでいい。東ローマ帝国が、他者に滅されることがあってはならぬのだから。……さあ、わたしは、親愛なる皇帝陛下のもとへ赴かねば」 そうとも。 トルコ兵どもに蹂躙されてなるものか。 やがて、アヤ・ソフィアの真横に植樹した、世界樹の苗が実をつけるだろう。 そのときこそ、歴代の皇帝とその軍団が蘇り――従わぬものすべてを滅ぼす。 東ローマ帝国が、世界を支配するのだ。 そのあとであれば、どうなろうとかまわぬ。 「好きにすればいい。俺は建築士だ。施主の望む世界を構築するのが仕事だ」 ドンガッシュは、ふい、と、きびすを返す。「破壊にも殺戮にも、興味はない」 + + + ……ばさり。 図書館ホールの床に、『導きの書』が落ちる。 その場にいたロストナンバーたちは、一様に驚く。 取り落したのは、誰あろうリベル・セヴァンだったので。 リベルが手元を狂わせるほどの、残酷な殺し合いの光景が、予言されていたのだ。 金角湾が血に染まっている。 蘇った皇帝たちが率いる軍団は、知性も理性も残っていない。 三重城壁の内も外も地獄だった。 これはもう、イスタンブールではない。 滅びを迎えぬままのコンスタンティノープルで、理性をなくした皇帝たちが「戦争」ですらない、大量虐殺の指示をしているのだ。 + + + 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。「世界樹の苗の植樹と平行し、ドンガッシュに、『幸運な要因が重なって三重城壁を守り抜いているコンスタンティノープル』という設定で世界構築を依頼した初老の男がいます。壱番世界出身ということではなく、よく似た世界から転移してきたのでしょう。彼がいた世界では、東ローマ帝国は滅びを迎えずに存続し、領土拡大を続けていました。その世界で、彼は皇帝の信任厚い大臣であったようです」 蒼白になりながら、一気に話したリベルは、ふう、と息をつく。「さいわいに……、というのも語弊がありますが、世界構築を優先したせいか、アヤ・ソフィア横に植樹された苗は、他の場所に比べ成長が遅れています。早めに処理すれば、さほどの被害もなく駆除できるでしょう。あとは――」『造りかえられた世界』を、崩壊させてください。 ドンガッシュが造った世界の理に綻びを入れることができれば、歪められた空間は消滅します。 それはすなわち、歴史通りに、コンスタンティノープルを陥落させる、ということになりますが。 一気にスケールが大きくなった依頼内容に、今度はロストナンバーたちが青ざめた。「そりゃまた」「いったいどうやって?」 口々に言い交わすロストナンバーたちに、「不運にもロバート卿がまた巻き込まれ、拘束されてらっしゃいます。救出かたがた、その指示を仰いでいただいてもいいかも知れません。連絡は取れる状態のようですので」 そう、付け足すのだった。 + + + 「おお、皇帝陛下」 その足元に跪いて靴に接吻する男を見もせずに、ロバートは鎖の合間をぬい、トラベラーズノートを広げている。「なるほど。どうやらこの空間での僕の役回りは、東ローマ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世ということか」「どうか、わたくしめに全ておまかせを。この街は滅びませぬ。三重城壁が破られることはありませぬ。持ちこたえてさえいれば、援軍がまいります。歴代の皇帝と、その軍隊が」「この混沌を招いたのは、きみの意思なのかい?」 ロバートの声が聞こえているのかいないのか、大臣は一方的にうわごとめいたことを喋り続ける。「悲願の世界統一をなし得ましたなら、どうぞご自害を。わたくしめもお供します」「それは困るな。そもそも僕は、イスタンブールに観光に来たのだけれど」 いつ僕は、トルココーヒーをゆっくり飲ませてもらえるんだろうね、と、ロバートはため息をついた。 神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。 都の陥落とともに、われ死なん。 逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ! ――皇帝は自決などしなかった。豪華な衣装を脱ぎ捨てて、大剣を手に、16万のトルコ軍に突入したのだ。彼の死は、最後まで抗い、戦った結果だ。「きみが構築した世界は、むしろ皇帝への冒涜ではないのかね?」「おお陛下。何もかも、全てわたくしめにおまかせを」「……聞こえない、か。さて、どうしたものか」 今の僕に必要なのは―― 忠義のあまり常軌を逸した大臣ではなく、冷静に裏切ってくれるひとびとかも知れないね。========!注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。========
ACT.1■陰謀の主役たち 三ツ屋緑郎はさしずめ、皇帝付きの召使いといったところか。 若葉いろのチュニックの上に濃緑のダルマティカがゆるやかに重ねられ、腰の部分には革ベルト。両肩から腕を覆うように上着がわりに巻いたストーラは、ブロンズのブローチで留められている。足元を包んでいるのは小羊の革を編んだサンダルだ。 もとより彼は、染髪とカラーコンタクトを活用した自己演出に長けている。将来的には役者としての活動も視野に入れているだけあって、そのコスチュームも立ち居振る舞いも、ごく自然なものとして馴染んでいた。 「なんか慌ただしくて忙しいけど、皇帝陛下に挨拶するまえに、ひと仕事すませちゃおう。この樹のサイズだったら、普通の雑木駆除の要領でいける気がするしね」 アヤ・ソフィア横で成長しつつある苗木の個体は、樹高5mほど、根元の直径は50㎝程度であろう。壱番世界のニセアカシアに類似した印象を受ける。ニセアカシアは、非常に強い繁殖力と旺盛な成長力を持ち、クロマツの単林に侵入して防風林としての生育を阻害するため、駆除対象となりがちな樹木である。 「そうだね。生命力の強い樹のようだから、根を残さない方法がいい」 緑郎の提案に、水琴窟が奏でる淡く澄んだ響きにも似た、音楽的な声が重ねられる。雪花石膏の精霊がおずおずと人のかたちを取りでもしたような――誰もがはっと息を呑む美貌の少女が、静かに立っていた。 それは、性別と年齢が変化し、貴族階級の、15、6歳の女性のすがたとなったイルファーンだった。 異国の文化の影響が強いビザンティン宮廷独特の、宝石を縫い込んだペルシア緋綿の衣装が鮮やかだ。結い上げた髪には、その瞳と同色の、鳩の血のいろをした大粒のルビーが輝き、エジプトふうの豪奢な首飾りが、ほっそりと白い首を彩っている。ふわりと冠った薄いヴェールが揺れるさまが、何とも神秘的である。 「皇妃……、じゃないよね? 皇帝は独身のはずだから」 あらかじめ把握してきた史実を、緑郎は思い起こす。 皇帝コンスタンティノス11世は2度結婚し、2度とも妃に先立たれている。子どもはいない。3度目の結婚相手としてグルジアの王女を迎えることに決まったものの、花嫁の到着前にコンスタンティノープル包囲戦は開始されてしまったのだ。 「ああ。コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスは、名誉を尊ぶ、優雅でおだやかな気性の紳士だったらしいね。けれど、皆から敬愛され慕われていた皇帝に、実は、記録には存在しない愛妾がいたとしたら……? それも、かつてはオスマン・トルコのハレムにいて、メフメット2世とも浅からぬ因縁を持つ、いわくつきの少女が」 ――我が名はイルファーラ。皇帝陛下より「鳩の血の君」という愛称を賜わりました。 艶然と微笑むイルファーンに、緑郎はうやうやしく礼を取る。 「おそれ入ります、イルファーラさま。どうか皇帝陛下のお側近くにて、無聊をお慰めくださいますよう。ご寵愛のあなたさまをお召しになることが叶うなら、陛下もさぞお喜びでしょう」 兵士の士気低下のために、ロバート卿には見目麗しい侍女を侍らせて、酒宴を延々とやらかしてもらおうと思ってたんだよねー、ちょうど良かった、と、にこにこしてから、 「もうひとり、綺麗どころがいることだしね」 かたわらの、凛とした佇まいの女官に視線を移す。 化粧は薄く清楚に、形の良い唇に紅をひいただけ。耳元を飾るのは、銀と真珠のイヤリング。上質の絹を用いた茜いろのチュニックに、細い銀糸を花のかたちに縫い取った、上品な上衣を合わせている。長く伸びた黒髪は銀細工の留め具でひとつにまとまり、左肩でつややかに波をうつ。胸元には、宝石で象眼された短剣の柄が見える。 蓮見沢理比古だった。 性別変化が起こったわけでもないのに、皇帝が選び抜いた才色兼備の、そして事あらば剣を振るい護衛の任につくことも可能な――女官にしか見えない。 「びっくりするくらいの手違いだよねー。でもこの姿だと、立ち回りしやすくて好都合かな」 理比古はまったく気にしておらず、腕組みをしながら苗木を見上げる。 (植樹、か) もし―― 蓮見沢の家に苗木が根付いたなら、義兄たちも蘇るのだろうか。 そんな利己的なことを期待してしまう自分に、世界樹旅団の侵略を糾弾する資格はないけれど――せめて、ここで生きるひとたちの、現在の生活を護ろう。 本来、植樹とは、豊かな生産のために行われるものであり、その地に住まう人々に実りをもたらし、育むものであるはずだから。 「さて、どう始末する? 雑木駆除といってもいろいろあるが」 ロウ ユエは、駆除の現場を旅団側に気取られぬよう、すでに空間操作に着手していた。しばらくの間、苗木が無事なように見せかけて、時間を稼ぐのだ。 先んじて、外国人傭兵のひとりとして皇宮近くの城壁の守備についていたユエであったが、「勝利を神に祈りに行く」と、礼拝を口実にアヤ・ソフィアに出向き、3人と合流したのだ。 ユエは、薄い金属片を革紐で繋ぎ合わせたラメラー・アーマーと、両刃剣スパティオンという、東ローマ帝国軍でよく使用された鎧と剣を身につけていた。兜がないのは、傭兵ゆえの動きやすさを重視したからだろう。 亜麻布と革紐を組み合わせて髪全体を緩く覆っているのは、日射しの照り返しを避けるために、有り合わせの材料で作成したものだ。いわばユエオリジナルなのだが、布の使いかたが洒脱なため、まるでこの時代の様式に添っているように見えた。 ものはためしとばかりに、ユエは枝の先をほんの僅かに折り、氷漬けにする。空間の歪みを利用すれば、研究用に隔離して安全に持ち帰れるかもしれない。 「引っこ抜いて油かけて焼いちゃうのが一番かなって思うんだけど。こういう樹って、皮剥いで枯らそうとしても新芽でそうだしね」 「抜くとすると、力技になるかな」 イルファーンが思案し、 「だったら、火を生じさせて、根ごと焼き払うとしようか」 ユエが、つ、と、右手を苗木に向ける。 「手伝うよ」 理比古の小太刀【鋼丸】が、炎をまとい始めた。 + + + そして、ニセアカシアに似た苗木は、あっけなく燃え尽きる。 ユエが氷漬けにした小枝を残して。 「ところで、たしか、ドンガッシュに造り替えられた世界というのは、そう長持ちしないんじゃなかったか?」 「たしかにね。時間切れでイスタンブールが元に戻るまで放置するって手もあるよね」 ユエと緑郎はそう言い交わしながらも、囚われの皇帝がいる皇宮に向かう。 「それでも、歪められたこれは、俺たちの歴史じゃないし」 「人道的見地から、というところかな」 理比古とイルファーンが苦笑しながら、その後に続く。 「逆さ吊りの次は、巻き込まれて拘束か。何というか……、ついてないな、ロバート卿」 昇りゆく朝日に、ユエは眩しげに手をかざす。 本来のコンスタンティノープル陥落の時間帯は、とうに過ぎていた。 ACT.2■虚構の中のコミュニケーション 皇宮の窓を通して射し込んだ光が、きらびやかな黄金の椅子に、鎖で縛りつけられている皇帝を照らし出す。美しいタイルで象眼された広間は、しかし、閑散としている。 皇帝はただひとり、そこにいた。 「ロバート卿だけですか? 大臣は?」 理比古は周囲を見回す。人の気配はなかった。 「陸側の城壁の守りを検分すると言って、馬で出て行ってしまったんですよ。僕も、聖ロマノス軍門付近の守備を確認したいからと同行を希望したのだけれど、聞き入れてもらえなかった」 そこまで言ってから、初めてロバートは、この女官が理比古であることに気づいたようだった。 「これはこれは。誰かと思ったら、蓮見沢さんじゃありませんか。新年のジャンクヘブンではお世話になりました。申し訳ありませんね、こんな有様で」 「こんにちは。こんなときになんですけれど、魚釣り大会、楽しかったです。海がお好きなんですよね? よければまた、ブルーインブルーに行きませんか?」 「お誘いいただけるものならば」 なごやかに世間話を始めた皇帝と女官に、召使いが、こほん、と、咳払いをする。 「お話中すみませんー。ええと、ヴェネツィアぶりになるのかな? ホワイトタワーではニアミスし損ないましたもんね。お久しぶりですロバート卿、生きてます?」 「今のところはね」 緑郎をみとめ、ロバートはふっと笑みを浮かべる。 「……たしか、三ツ屋緑郎くんだったね。大東京生命保険のCMを拝見したよ、推理ものの舞台仕立ての。面白い出来だった。きみ、演技が巧いね」 「ああ、あれは、大東京生命さんが、僕が出演した舞台のスポンサーさんだったんでその繋がりで」 「期間中の契約者のなかから、抽選で10名がもらえる6本尾の狼のフィギュアストラップがあっただろう? あれが欲しくてつい、大東京生命保険『ながいきさん』に加入しそうになった」 「いやいや保険加入は無理っしょ? ……って、何ひとの仕事チェックしてるんですか暇なんですかそんなはずないですよね?」 「暇ではないけれど、策士のきみを懐柔して、仲良くすることができるものならと思って」 「はっきり言いますね。ファミリーなのに珍しい」 「どんなに若くても、すでに仕事を持ち、ビジネス現場の第一線で矢面に立って活動しているひとには、直裁に言ったほうが効果的だろうからね」 ロバートと緑郎の間に、ほんの一瞬、火花が散った――ような気がした。 「じゃあ、僕もストレートに行きますよ。しばらくの間、美人の女官さんと愛妾さんを両脇に侍らせて楽しく酒池肉林を繰り広げといてもらえます? 可能な限り自堕落に破廉恥に、斜陽の帝国の皇帝らしく、命賭けてる兵士たちが全員呆れ果てて遁走するくらいの勢いで。その間に、何とか収拾つけますんで」 理比古とイルファーンの背をそっと押しやって、緑郎はユエに目線で合図をし、走りだす。 なにしろ、やらなければいけないことは、たくさんあるのだ。 + + + 「ところで、あなたの設定の背景は、史実をもとにしたのでしょうか?」 たおやかにしなだれかかるイルファーンの酒杯を受けながら、ロバートは問う。 「いいえ?」 「なるほど。だからまだ、配慮とためらいが残っているんですね」 「かなり過激にしてしまったので、痛痒を感じていましたが? ……もしかしたら」 鳩の血のいろをした瞳を、イルファーンは見開く。 「メフメット2世のお手つきで、皇帝の愛妾になった女性が、実在したと?」 「そういうわけではありませんよ。ですが、メフメット2世の『父親』のハレムに献上され、のちに皇帝に求婚されたセルビア王女は実在しました。彼女の名はマーラ。ハレムにいるときでさえキリスト教徒であることを放棄しなかった高潔な王女を、メフメット2世はとても尊重していたようです」 ロバートは言葉を切り、イルファーンに杯を返す。 「スルタンの座がメフメットに移ってすぐ、彼は幼い異母弟を殺害しました。父親が寵愛した女性を臣下に与えるなど、ハレムの女性たちにことごとく冷酷な仕打ちを与えたにも関わらず、マーラ王女だけは彼女の希望を聞き入れ、セルビアに送り返したのです。持参金までつけて」 「じゃあ……、メフメット2世はマーラ王女を、いわば『義母』にあたる女性を、愛していたんでしょうか? では、マーラ王女のほうは義理の息子のことを、どう思っていたんでしょう?」 理比古が感慨深げに目を伏せる。 「今となっては、それはわかりません。ただ、セルビアに帰還したマーラ王女は皇帝の求婚を断り、一生を神への祈りに捧げたということです」 ――メフメット2世の母親は、身分の低い、もとキリスト教徒の女奴隷だったということですから、その影響もあるかもしれませんね。 ロバート卿はそう、付け加えた。 ACT.3-a■噂の流布 ざわり、と。 東ローマ帝国軍に、動揺が走っていた。 + + + すでに多数の兵や使用人が間諜として寝返っている。見誤れば、損をする。 + + + これは八百長戦だ。皇帝は、実はオスマンと通じているのだ。 + + + 皇帝は東ローマ帝国と民衆を差し出すつもりだ。その見返りとして、妖艶なオスマンの美姫と豊穣な領地を得ることになる。 + + + 我らが皇帝の威信は地に落ちた。 兵士たちが血を流している今このときも、美しい女官とうら若い愛妾を閨に引き入れ、美酒をあおっている。このままでは、睦言のなかで息を引き取ることさえ必定。 そんな皇帝に忠誠を誓う意味が、どこにあろうか? + + + メフメット2世は仁の人だという。 敵兵にも情け深い。 降伏したならば寛容に受け入れてくれる。 ならば――決断は早い方がいい。 + + + 熱心に士気を鼓舞しているのは大臣だけだ。だが大臣は少々、常軌を逸している。 あの大臣を差し出せば報奨が貰えるんだ。 俺はすでに、前払いで、召使いから砂金をもらった。 ほら……、こんなに。すごいだろう? ACT.3-b■陥落のために 「皇帝陛下からの賜りもので、疲労回復の薬草を漬け込んであるんだ」 いったん、皇帝のそばを離れた理比古は、そう偽って、傭兵隊長ジョヴァンニに強力な睡眠薬入りのワインを差し入れた。加えて【鋼丸】の「雷」で痺れを与える。傭兵隊長はもう、再起不能だった。 + + + 流言が一定の効果を得たのと平行して、緑郎とユエは次の行動に移っていた。 東ローマ帝国軍の食事に下剤を仕込んだり(註:医務室から失敬した下剤ってことですがこの件に関してはクゥさんに責任はありませんと緑郎さんが仰ってますので!)皇宮近辺の井戸に馬糞を投げ込んだりというのはまあ基本として。 城壁のうえで、オスマン・トルコの旗が燃えている。 それは緑郎の挑発であったのだが、トルコ軍は高揚した。3万の軍隊がいちどきに、皇宮付近の城壁に殺到する。 ユエがあらかじめ行った加熱と冷却により、劣化してもろくなった、その部分に。 どこよりも損傷が激しく、攻めやすい、その部位に。 そう――皇宮付近の城壁は、三重ではなかった。 一重、だったのだ。 + + + 爆発音が轟いた。 ……城壁の、内部で。 メフメット2世が掘り進めていた地下通路が、とうとう貫通したのだ。 城壁に亀裂が走る。 その、内側から。 + + + オウルフォームのセクタンが、トルコ軍のまっただ中に舞い降りる。 その足に結ばれているのは、城壁内の見取り図と、現在の状況をしたためた情報と、詳細な地図。 「戻ってこなくていいからねー!」 緑郎くんはそう言うけれど、雲丸たんは帰ってきちゃいますって絶対。 + + + 必死に城壁の修理を行おうとしていた兵士たちは愕然とする。 材料がまったく、使いものにならなくなっていたのだった。 それを見届け、ユエは最終手段に取りかかる。 ケルコポルタ門通用口の閂を風の刃で切り、壊したのだ。 緑郎が押し開いた門から、トルコ兵がなだれ込む。 門の開放を、理比古のオウルフォームセクタンが、イルファーンの風の魔法が、メフメット2世に伝える。 攻め込むなら、今だと。 ACT.3-c■終焉と、始まりと ケルコポルタ門が崩壊すると同時に、皇宮付近にも流入した兵士たちは、緑郎の思惑どおりに大臣を捕縛した。 特に感慨を込めることもなく、ユエが言う。 「どれだけ待っても、侵略の苗木は実を結ぶことはない。君に援軍は来ないよ。もう、この街は――東ローマは終わる」 + + + 「陛下、これを」 皇帝を拘束していた金の鎖を、理比古はギアで断ち切った。 ユエから借りた両刃剣スパティオンを差し出しながら。 「ロバートさんに死んでほしいわけでは、ないんです。でも、この最後の時に、皇帝陛下が剣を取ることに意味があるんじゃないんでしょうか」 ロバートは頷いて、両刃剣を手に、皇帝のマントを脱ぎ捨てる。 さらに、その身分を象徴する紋章もすべて衣服から引きちぎり――単身、トルコ軍の中に突入した。 ACT.4■伝説と、そして 「イスタンブール陥落については、後日談があってね」 ようやく―― 腰を落ち着けてトルココーヒーを飲むことが可能となったロバート卿は、イスタンブール・カフェで、一同と向かい合う。 「戦禍がおさまったあと、皇帝らしき人物の遺体は発見されたのだが、特定はできなかった。なぜならば皇帝は、第三者によりその身元を証明できるものを『すべて』はぎ取ってしまっていたから」 「それってやっぱり、わざとなんですかね?」 緑郎が指を組み合わせ、顎を乗せる。 「どうだろう? だが、伝説が生まれたのはたしかだ。すなわち、あのときコンスタンティノス11世は死ななかった。今も子孫が生き延びて、いつか東ローマ復興をなし得るだろう、とね」 「ふぅん。僕、ちょっと疑ってたんですけど。あなたが旅団と通じてるんじゃないかって」 何でないことのように緑郎は言い、何でもないことのように、ロバートも返す。 「それは心外だな。なぜ?」 「拘束を解いて抜け出そうと思えば、いつでもできたでしょう? おとなしく逆さ吊りに甘んじていたり囚われの皇帝になったりしてるのには当然、何か裏があるって思うじゃないですか」 「いや? そこまで旅団につきあう義理はないし、そんなにお人好しでもないよ」 だけど、そうだね。 ロバート・エルトダウンは言う。 ――いつになく、真摯な声音で。 「これだけは言える。壱番世界を滅びから救うためならば、僕は何でもするだろうし――誰とであれ、共闘するだろう」
このライターへメールを送る