トラベラーズ・カフェの一角、あまり目立たず人目を引かない隅のテーブルで、一一一は一冊の分厚い本を置き、その上に手を重ねて告げる。「……ホワイトタワーに忍びこんでみませんか?」 息をひそめるようにして発せられたその言葉を聞いたのは、たった4人。「囚人さんから、手紙が届きました……一体誰がどうやってこの本を届けてくれたのかは分かりませんが、確かに私の元に送られてきたんです……そう、招待状はひっそりと本の間に挟まれて」 皆の前にそれを開示する。 誰もが無言のまま、美しい文字の羅列を黙読していった。 彼は言った。 またおいで、と。 彼は言った。 ロバートの叔父であり、エイドリアンの義弟だと。 彼は言った。 自分は、ファミリーを殺したファミリーなのだ、と。「私、もう一度《彼》に会いたいと思ってるんですよ」 そうして今回、一が囚人に《問うべき物語》として定めたのは、ホワイトタワーに囚われ、100年以上の時を地下牢で過ごす《鉄仮面の男》にまつわるものだ。「今回は世界図書館からの許可が出たわけではありません。だから、忍び込むことになります。もし万が一にも見つかってしまったら、その時は、きっととってもものすっごく……怒られちゃうでしょうね」「ずいぶんと大胆なことを考えるのね。でも、ご一緒したいわ」 ティリクティアが無邪気とも確信犯とも言えない笑みを浮かべる。「それに、見つからないように会いに行くというのなら、チカラになれると思うの」「ただし、そうして得たものが果たして真実かどうか、事実が紛れているのかすら分からない、だったね」 前回の同行者たるムジカ・アンジェロの言葉に、一は無言で頷きで返す。 閉じた匣の中に猫はいる。 でも、『本当に匣の中にいるのは猫なのか』すら、疑い出せばキリがないほどだ。 囚人が語る『昔話』は、それほどに不確定要素の満ちている。「きみがそんな行動を取るとは思わなかったな。彼に惹かれているのかい?」「正直、分かりません。私がどんな想いを抱いているのか。でも、知りたいんです。匣の中の猫の生死を、確かめたくて仕方ないんです」「……ホワイトタワーの囚人か……興味はある。俺も同行させてもらいたいんだが、いいか?」「わわ、珍しいですね、由良さん自ら足を向けられるなんて」 意外そうに告げる一に、由良久秀は肩を竦める。「あんたがしおらしくしてるよりは珍しくない、だろ?」「むぅ、失礼ですよ、由良さん! 私だって静かになる時があるんですぅ」 ふたりのやりとりに、ぷふ…っと、思わずティリクティアとムジカが吹き出す。 蓮見沢理比古じゃそんな彼らを微笑ましげに眺めながら、「俺も、いいかな? 知りたいことがたくさんあるんだ」 5人目の同行者として、自らも申し出る。「ただ、それをうまく聞き出せるかどうかは分からないんだけど。何しろ、俺の推理は大抵外れちゃうからさ」「その辺は問題ないだろう……全ては虚構なんだから。そうだろ、ムジカ?」「由良の言う通りだよ。閉じ箱の猫を観測しに行く、そこに正解も不正解もなんだから」「ですよですよ! 大切な事は当てる事では無く考える事だって、囚人さんも言ってくれてますし」 そうして、一は形容しがたい笑みを浮かべる。「それでは、これから作戦会議に移りたいと思います」 かくして、5人のロストナンバーによる、非公式のホワイトタワー訪問は決行された。 不定期に訪れるターミナルの『夜』。 その闇に紛れるようにして、彼女たちは地下牢をめざす。 すべては、閉じた匣の中に横たわる『昔話』に触れるために――* ターミナルに蓄積する、封印されたはずの遠い日の想いの破片。 琥珀の中に閉じ込められた、在りし日の物語。 けれどソレが、本当に自身の目指すべきものなのかは、誰にも分からない。*「やあ、いらっしゃい! よく来てくれたね、ヒメ、ムジカ、それに新しい客人たちも!」 囚人は両腕を開き、若いとも年老いたともつかないくぐもった声で、それでもひどく嬉しそうにロストナンバー5名の来訪を歓迎した。「閉じ箱の中身を観測しに来たのかね? 素晴らしい、実に素晴らしい好奇心だ!」 パチパチパチ、と拍手さえ送ってくれる。 彼の周りには相変わらず書物が積み上げられ、画用紙が貼られ、椅子がひとつだけポツンと置かれていた。 一は彼を正面から見据え、どこか覚悟を決めた者特有の不敵さを持って、告げる。「……私達は、あなたの物語を聞きに来ました。最初の世界司書、その人を殺したのだというあなたの物語を」 今回、ここにパイプ椅子は用意されていない。 今回、ここにレディ・カリスの許可証はない。 今回もまた、真実があるのかの保証すらない。 けれど、それでも、彼らはここに来たという事実に、囚人は満足げに何度も頷いた。「求めるのならば語ろう。ただし、ゆめゆめ忘れてはいけない。コレは閉じ箱の物語、猫の生死に関わる物語でありながら、真実であるのか、虚構であるのか、あるいは一片の事実が紛れ込んでいるのか、それらは諸君らが観測した瞬間に入れ替わるのだということを」 そして100年を超えて捕われた囚人は、鉄仮面の奥に本当の表情を覆い隠したまま、語り出す。 朗々と、黒い鉄仮面の奥から覗く双眸に言いようのない煌めきを宿して、舞台役者のごとくに。 諸君も知っているだろう? ロストメモリーとは、己の記憶をチャイ=ブレに捧げることで0世界に帰属した者たちなのだと。 世界司書もまた、同じ。 では、その世界司書はどのようにして生まれ得たのかは知っているかね? 彼女は――そう最初の司書は女性だった――彼女は、自ら志願した。 それまでの幸福、それまでの想い、それまでのありとあらゆる関わりと絆を《記憶》としてチャイ=ブレに捧げ、世界図書館がより安全に、より正常に、より確実に異世界へ調査に行けるよう、司書としての道を選んだ。 導きの書とは、そうして与えられた道標だ。 しかし、彼女は自ら望んで得た『導きの書』を片手にたるほどにも使えぬうちに、その機会を永遠に失った。 ターミナルの劇場、そう円形の、ヘンリー・ベイフルックが設計したあの場所の大ホールで、彼女は物言わぬ《死者》として見つかったのだよ。 第一発見者は、シェイクスピア戯曲の公演初日を翌日に控え、ゲネプロのためにやってきた劇団員たちだ。 鍵を開け、扉を開き、そこで彼らが見たのは、舞台上に四肢を投げ出し倒れた、衣装である貴族の娘のドレスをまとう彼女の姿であり―― 一見眠っているかのような彼女の首に残る、人間の指の跡だった。 彼女の傍らには小瓶もひとつ転がっていたのだが、ここでひとつ問題がある。 現団員たちが知る限り、その現場に繋がるあらゆる扉と窓は閉ざされ、その鍵は彼ら以外には持っていない、ということになっていた。 つまりは密室。 しかし、彼女は確かに殺されていた、この事実は覆らない。「さて、彼女はいかにして殺されたのだろう? なにゆえに殺されたのだろう? 誰が犯人かは分かっているのだからね、ならばあとはどのようにアプローチを掛けるかが問題ではないかな?」 囚人は笑う。 仮面の下で、おそらくは嬉しそうに、楽しそうに、かつて犯した己の罪に果たしてどのようなカタチが与えられるのか、構築されるだろう物語を期待し、問いかける。「諸君らは、閉じ箱の中身をどのように解釈するのだろう? さあ、聞かせてくれたまえ!」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>一一 一(cexe9619)ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良 久秀(cfvw5302)ティリクティア(curp9866)蓮見沢 理比古(cuup5491)=========
「約束どおり、来たよ」 ヴァイオリンケースを手に、ムジカは囚人に向けて笑みを浮かべる。 「ようこそ、我が友ムジカ。しかし、君はまだ0世界にもロストナンバーであることにも絶望しきれていない。それが実に残念だ。しかし、嬉しくもあるのだよ」 今回はただ好奇心に突き動かされたのだと告げれば、彼はくぐもった笑い声を立てて、肩を震わせた。 「……あんたが、ファミリーを殺したファミリーと名乗った囚人か。話はこいつから聞いているが」 「ああ、よく来てくれたね。いずれ君はここに来るだろうと思っていたのだよ」 「あなたが以前おれに言った《友人》は彼のこと?」 ムジカは由良を見やり、首を傾げて囚人に問う。 前回の訪問時、こちらから投げかけたホワイトタワーに収監されるに至った理由、何をすればここに収監されるのかという問いに、彼は『たいしたことをしなくとも入ることはできる』と告げたのだ。 そして、更に予言めいた言葉を続けたのだ。 ――入りたいかね? だが、君よりもむしろ、君のご友人の方がこの場所には近そうだ ――君の友人はやがて見過ごすわけにはいかない罪を犯すかもしれない 心当たりはふたり。 そのうちのひとりが、いま隣にいる彼だったのだから、確かめずにはいられない。 「閉じ箱の猫を一匹解放してみたいというのなら、そうだ、私が予言した『罪人』はヒサヒデということになるだろう」 持って回った言い回しに、由良は何とも言えない表情を浮かべる。 「俺には、ここに入るつもりは毛頭ないんだが?」 だが、囚人はあえてソレに取り合う素振りは見せず、嗤い、視線を他のモノへ向ける。 「はじめまして、になるのだろうね。ようこそ、アヤヒコ。さて、君のソレはいったいなんだろうか?」 「うちのモノが用意してくれた茶とお菓子です。ティータイムと聞いて、ささやかながら手土産に、と」 にっこりと笑いながら、理比古は一抱えはあるだろうトランク型のピクニックバスケットを囚人に向けて開く。 「ほう?」 中には品の良いティーカップにポット、そしてサブレやシュークリーム、ブラウニーにマカロン、エクレアといったプティガトーが詰まっており、目にも鮮やかだ。 「素晴らしい。本来ならば私が用意せねばならないところだったのだが」 嬉しそうに声を弾ませた彼の前で、理比古は茶会の準備を進めていく。 「俺はロバート卿についていろいろと話を聞かせてもらいたくて」 「ほう、君もあの子に興味を抱いているのだね? しかし、ヒメとは少々方向性が違うようだ」 「……彼が、少し自分に似ている気がしているせい、かな」 ここにはテーブルもイスもない。心地よい風もなく、優雅な薔薇園もなく、気の利く給仕もいない。 だが、チェック柄の大きなピクニックラグを広げさえすれば、それだけで十分、場を作り出すことはできる。 由良は面食らったようだが、それ以外の面々は、抵抗なくラグの上に展開されていく光景を受け入れ、自らもそこに腰掛けていく。 「なかなか面白い趣向となったが、さて、ヒメ、君は変わりないかね? 今日は些か緊張気味のようだ。私の招待状に気づいて二度もここまでやってきてくれた大切な友人なのだから、もっと自由に、リラックスしてくれて構わないのだよ?」 「今回はホワイトタワーに忍び込むという悪い子ヴァージョンになっちゃってるんで、ちょっとドキドキしてるだけですよ」 困ったように笑って肩を竦めると、囚人はまるで生徒を諭すようにそっと頷き、告げる。 「なるほど、しかし、過剰な緊張は見えるモノも見えなくしてしまうものなのだから、肩の力を抜きたまえ」 そこに気遣いを見出してしまったのは、錯覚だろうか。 「では、茶会を始めよう!」 ぱん、と囚人が手を鳴らす。 ソレは同時に、【昔話】として用意された閉じ箱の観測開始を意味した。 「ではまず確認したい。この物語の上で公演されたのだろう戯曲の演目は?」 ムジカが真っ先に口を開く。 だが、囚人はソレを受け、質問そのものを別のモノへと譲った。 「ヒントは既にでているのでね、答えはもう用意されているようなモノではないかな? そう、そこの小さなレディは応えたくてたまらないようだ」 「はじめまして。私はティリクティアというの。話を聞いて、貴方に会いに来たのよ」 「ソレは光栄だ。して、君はここに何を得に来たのだね?」 「貴方に聞きたいことがあって。けれど、その前に私が答えるべきね。貴方が提示した《舞台》の演目は、そう、《ロミオとジュリエット》じゃないかしら?」 ティリクティアは、愛らしく首を傾げ、自分よりずっと目線の高い鉄仮面を見上げて問いかける。 「ロミオとジュリエットなら、私、友達と一度お芝居を観に行ったことがあるわ。あなたが用意してくれたお話は、私の中ではこれしかなかったの」 「ふむ、すばらしいね、ティリクティア。さて、ヒメ、君も気づいていたようだが、どこでそう判断したのかね?」 「キーワードの貴族の娘、傍らに落ちていた小瓶、そしてシェイクスピア戯曲。あまり詳しくはないけれど、連想できるのはそれだけだったから」 「へえ……俺は全然演目が何かなんて考えてなかったから、新鮮だな」 推理談義とはそんなところからも始まるのかと、理比古は感心したように一とティリクティアを交互に見やる。 「演目がそれほど重要なモノか?」 対する由良は不可解だと言わんばかりだ。 そんな彼らに、ムジカは軽く肩を竦め、苦笑する。 「どうやら、ロミオとジュリエットで確定らしい。リア王でも面白いと、おれは思ったんだけどね」 閉じ箱の中で語られる《死者》のモチーフとして、オフィーリアの次にコーデリアを用意したのだとすれば、それはそれで興味深い対比となっただろう、と思う。 「彼が閉じ箱のカタチとして劇場を用意した以上、無意味な《演出》などひとつもないんじゃないかな? つまりは、公演される戯曲そのものにも意図があるはずだってことなんだけど」 そしてソレは、リア王ではなくロミオとジュリエットだったことに意味がある、と考えられる。 「なら、扼殺された女は、《ジュリエット》とでも仮に名付けておくか?」 由良は被写体を見定める写真家の眼差しで周囲を眺めながら、ぽつりと言葉を落としていく。 「指示代名詞ばかりがあふれても、混乱する」 「あ、私も《被害者女性》と呼ぶよりは断然いいと思います」 「私も賛成よ。だって、彼女はまさしくジュリエットなんだもの」 女性陣ふたりの賛同を得て、理比古とムジカからから了承の頷きをもらい、由良は改めて囚人に視線を合わせる。 「それで、最初の世界司書は劇団員でもあったってわけだろ? そしてジュリエットの相手役として、あんたがロミオ役でも仰せつかったんじゃないか?」 「なぜそのように?」 「その大げさな身振り、大仰かつ婉曲な物言い、演技がかった声、挙げ句、これ見よがしにあんたの周りに積まれた本のいくつかはシェイクスピアの戯曲集であり、間には誰かが書いた脚本らしきモノが混ざっている。となれば、あんたを《舞台役者》と考えるのはあながち間違ってもないだろ?」 「ほう?」 面倒くさげに、だがつらつらと、由良は己の感じたことを感じたままに言葉へ変えていく。 「たまたま2人きりで残った。ゲネプロ前夜、主演ふたりだけの稽古の時間を設けたとしても不自然ではないしな」 「あ、そうね、そうかも!」 ティリクティアははじめ、囚人を単なる劇場の関係者として捉えていたが、ロミオ役だと言われれば、その方がしっくり来る。 ゲネプロ前の劇場にジュリエットを呼び出し、貴族の娘の衣装を着せたとして、ではどのようにそう誘導したのかを考えるよりは、ずっとスマートな流れと言えるだろう。 飛び跳ねるような彼女の反応に、思わず隣を見やってから、由良は複雑そうに視線をはずす。 「なかなかに面白いロジックを展開してくれるのだね」 こちらの言葉に、囚人は目を細めたようだった。 それが肯定であるのかは分からない。 だが、自分は現場を見ているわけではない。 「それで? 君ならばどうするかね?」 「殺してから考える。状況が許されたのなら《その瞬間》を逃しはしないだろうが、あえて計画的に状況を作り出してまで実行しようとは思わん」 普段から視覚に頼っている自分にとって、言葉だけのやりとりでは、状況を細やかに分析するだけの情報を得られない。 だからこそ、由良は、探偵然として犯行のロジックを解き明かすのではなく、自身に置き換えて犯行をなぞるしかない。 「そもそも、計画殺人なら証拠の残る素手での《扼殺》なんてしない。扼殺に至るなら、ソレは衝動的なものだ」 そうして、導き出されていく仮定と、疑問点。 「密室なんてのも無意味だろ。だいたい、犯人は密室にする気があったのか? 扼殺すれば指紋が残る、どう見たって自殺とは考えにくい、なのになぜ密室にする意味がある?」 そこで一呼吸。 タバコを探して胸ポケットを探るが、あいにく探り当てたボックスの中身は空だった。ぐしゃりと半ば無意識に握りつぶして再び懐に収めると、由良は続ける。 「今回の舞台として、かの建築家の名をあんたは出した。ヘンリー・ベイフルックが設計したんだとしたら、当然隠し通路のひとつやふたつは存在しているんじゃないか?」 「そうね、モフトピアのお菓子の家にもあったわ。他の報告書でも、隠し部屋や隠し通路が見つかっているもの」 「ミステリの密室に、隠し通路や隠し部屋は御法度じゃないか」 トリックの美しさに欠けると、やや不満げに声をあげたムジカを、由良は一瞥し、面倒くさそうに顔をしかめて、 「指紋を採る技術があったかどうかは知らんが、ないんだとしたら、罪をなすりつけるのに、当時行方不明だった建築家は絶好の生贄だと思うが?」 犯罪に美学など求めていない彼は、単純に可能性を追求する。 しかし、ムジカがソレを許さない。 「ちなみに、密室の構築や殺害方法にトラベルギアや特殊能力の使用も除外させてもらいたいな。それじゃあまりにも【物語】として美しくない」 どこかくつろいだ雰囲気で、紅茶の注がれたカップに口をつけていた理比古が、ふと首を傾げる。 「密室や犯罪に、美学とかルールとかが適用されるモノなの?」 「そうなんですよ、蓮見沢さん。なんと、【昔話】を語るこの【閉じ箱】の中では、どうやら護らなきゃ行けない掟があって、更には、あるものをあるがままに解釈しちゃいけないみたいなんです」 スペアの鍵がたまたま手元にあったから掛けたとか、トラベルギアや特殊能力で鍵を掛けたとか、そういうふうには考えてはいけないモノらしい、と言うのを、一は前回学んだのだ。 物語としての面白味も追求すべきだ、と言うスタンスは、そのまま引き継がれている。 「それと、確かムジカさんは、できるだけ事実に近しいモノで物語を紡ぎたいといってましたよね?」 前回は、登場人物達の年齢などから時系列を検証し、ロストレイルの存在やトラベルギアの存在を否定した。 彼は前提をより正確に把握したがる。 「そう、そういう意味では、話を聞いた時からずっと気になっていたことがある。《導きの書》がありながら、なぜ彼女は――ジュリエットは殺されたのか……彼女は自分の死を予知することはできなかったのかな、ってね」 だから、とムジカは言う。 「もしかすると、劇団員の死体発見時、ジュリエットはまだ生きていて、首の圧痕も偽装だったんじゃないのか、とかね、考えてしまうんだ」 「それって、どういうことかしら?」 「ジュリエットにとっては、全てが予定調和の、たとえばロミオとふたりで仕組んだ、劇団員達へのささやかなイタズラだったのかもしれない、と言う可能性だよ」 「でも、彼女は確かに殺された、と囚人さんは言ってますよ?」 ティリクティアと一の言葉に、ムジカはもっともらしく頷いて、 「いつの時点で彼女が本当に死んだのか、って検証をしておく必要もある」 ジュリエットは舞台の上で死ぬ。 けれど、ソレはただの演技だった。皆を驚かせるための、あるいは初日を迎える前に互いの演技力を確かめるために行為でしかなかったとしたら。 「けれど、そう思っていたのは彼女だけだった。劇団員が死者となった彼女を発見し、それぞれが自分の役割と果たそうと誰かを呼びに行ったり、何かを調査しはじめた中で、ロミオは本当に彼女を絞め殺してしまったんだ」 物語が舞台の上で二重三重に紡がれ、目眩ましとなったのなら、違えることはなくとも情報不足には陥る《導きの書》によって、自分の死を把握しきれなかったとしてもおかしくはない。 「ジュリエットの信頼、ロミオの裏切り、導きの書の予言をも逆手に取った犯行と言ったところだが、さて、諸君らは聞いたことがあるかね?」 そこでふと、囚人は声をあげる。 「殺し方にも《想い》は表れるのだということ。殺すという行為の中に見える感情、殺し方によって見えてくる自身が自己と他者へ向ける感情というものだよ。怨恨か、恋情か、衝動か、憎悪か、恐怖心か、好奇心か、自己防衛か、自己満足か、あるいはそう、狂信か、何者かに導かれてか、というのもあるかもしれないがね」 諸君らは、どのような意味づけをするのだろう。 その問いに、 「私は、被害者となった《ジュリエット》を、エイドリアン氏の後妻と推理します」 大胆な切り口でもって、一が宣言する。 全ては虚構。 ならば思い切った推論もきっと許されてしまうのだから。 「ヒメ、彼女が死者であるという推理はどこによるモノかね?」 「彼女が既にいないと考える根拠としては、彼女の姿を見たものがいない、あなたが湖畔に生きている者は誰もいないと言ったことも推理の材料としました」 あの日、あの茶会の席で、囚人はエイドリアンのチェンバー《ネモの湖畔》を、生きている者は誰もいない場所だといった。 ならば、かの音楽家の収集癖は、真に欲するべき音は既に永遠に失われた、ゆえにその喪失をただ埋めていくためだけと考えることも可能ではないだろうか。 「おれも由良も、湖畔で声を聞いたんだが?」 「音だけなら、あの《蓄音機》さえあれば再生できちゃいますよ」 ムジカの問いに、一はあっさり切り返す。 「それに、後妻さんがロストナンバーだって言うのは、ベンジャミンさんの一件で明らかですし……ソレに、後妻さんと前妻さんの確執だって」 実の母親による哀しい殺害未遂が過去には起きている。 ベンジャミンを手に掛けようとした彼女は、エイドリアンの中に、前妻への想いを感じ取っていたのだろう。 「前妻さんは夫の愛が自分には向けられていないと思って自殺した……でも後妻さんもやっぱり、夫の愛は前妻のモノであって自分のモノではないと思っていた……どこまでもすれ違った想いから、悲劇が連鎖したのだとしたらどうでしょう?」 「動機は?」 「復讐、あるいは報復……少年が父を糾弾したように、あなたは後妻を糾弾したのではないでしょうか? 姉の死の遠因になったことではなく、世界司書となることで記憶を失い、姉の死そのものから目を逸らした行為に対して」 密室をいかにして作り上げたのか、どのようにして殺すことができたのか、細やかな背景を一はあえて考えない。 ただ、動機そのものにのみ焦点を当てる。 「……密室の構築も、結局は、犯行の隠蔽ではなく、密室という《状況》を周囲に知らしめることに意味があったんじゃないでしょうか」 不可能性を浮かび上がらせ、注目を集め、自分の犯行を印象づけるためにのみ、行ったのだとしたら? 「君は何故その物語を紡いだのだね?」 「前回のお茶会の幕引きを担ったから、その続きである物語として」 「面白い」 囚人は笑う。 「ヒメ、君の発想はやはり他の誰よりも“物語的”であり、非常に独創的だ。この間の茶会でのひと時に絡めてくる趣向に心躍らされたよ」 嬉しそうに、楽しそうに、囚人は惜しみない拍手を一に捧げる。 「私が提示した物語の断片に対し、もっとも自由に、もっとも虚構らしく構築されている。ヒメ、君は得がたい存在だ」 彼は拍手する。 惜しみない称賛の拍手だ。 しかし、その姿に一は違和感を覚える。 素直に喜ぶことができない何か、ソレを感じ取り、溜息をひとつ落とすと、 「……そんなふうに褒めてくれるっていうことは、私、どこかで何かを間違っちゃってますね?」 困ったような諦めたような、けれどけっして悔いは混じらない笑みを向けた。 ソレに、囚人はとても友好的に、好意的に、出来の良い弟子へ寄せる愛情らしきモノすら伺わせて、けれどしっかりと指摘する。 「残念ながら、エイドリアンの二番目の妻は今もなお、あの湖畔に住んでいる。息はしているが、さて、君は《生きている》ということをどのように定義するだろう?」 ソレに対する答えを明確に提示するには、一には思考すべき時間が足りなかった。 言葉に代えることで、触れてはいけないモノに触れてしまいそうだとも、感じて、思考を止めてしまったというのもあるかもしれない。 一瞬、落ちる沈黙。 だが、 「生きているってことの意味がどういうモノか、俺には今はまだ答えられないけど、この物語にあえてロミオとジュリエットを選んだって言うなら、そこに意味を見出したいな」 理比古は穏やかに微笑み、言葉を紡ぎはじめる。 「この悲劇が、他のリア王やハムレットのような“登場人物たちの性格や性質によって引き起こされたモノ”ではない、と言う点に、構築されるべき物語があるんじゃないかって気がしてるんだ」 周囲の状況、取り巻く環境、偶然……家同士の確執、思わぬ事件、すれ違った思惑が絡み合い……そう、自分たちが《運命》と呼んでいるのだろうモノによって、ロミオもジュリエットも、悲劇へと導かれていくのだ。 運命に翻弄されたそんなふたりに、閉じ箱の中のロミオとジュリエットを重ねることもできるはずだ。 世界司書になるべく《記憶》を捧げなければ、導きの書は与えられない。 予言の書がなければ、異世界の調査は確実に難航し、いずれ暗礁に乗り上げる日も近かったはずだ。 しかし。 もしもヘンリー・ベイフルックが0世界を発見しなければ、もしもファミリーが世界図書館の設立などしなければ、もしも誰ひとり異世界へ旅立とうなどとは考えなければ―― ジュリエットは、チャイ=ブレに記憶を捧げることなどなかった。 ソレこそが、《運命》ではないか? 自分自身のあずかり知らぬところで蠢く大きな流れに翻弄され、狂わされていった結果ではないのか? 「被害者となったジュリエットが同胞への愛によって司書の道を選んだのだとしたら……彼女の死は、彼女自身に向けられた想いによって引き起こされたモノだと考えられるよ」 つまりは―― 「あなたは彼女を愛していた」 理比古の中で、ソレは揺るぎない事実となって昇華されていく。 「ロミオであるあなたは、ジュリエットである彼女を愛していた……記憶を捧げてなお、彼女は彼女であることに変わりはなかったはずなのに、彼女の中に自分の記憶がないことが、自分と紡いだ過去がないことが、耐えられなかったんじゃないのかな?」 ヒトがヒトを害する。 ヒトがヒトを殺める。 その過ちに手を染めてしまうだけの情動に、哀しいほどに切実な痛みに、胸を掻き毟るような苦しみに、心を寄り添わせ、想う。 「想いの深さは、愛の重さは、時に容易く殺意に転じてしまうものだから……絶望とは常に背中合わせでもあるから」 トリックなんて、本当はなかったかもしれない。 「そもそもロミオは自分の犯行を隠すつもりなんてヒトカケもなかったんじゃないかなって」 「ああ、ソレは俺も思った。被害者をどうするつもりだったのかってな」 理比古の展開に、由良がぼそりと付け加える。 「へえ? さっきは隠し通路の話や、ヘンリーに罪をなすりつけるためとか言ってなかったっけ?」 横からムジカが言葉を挟むが、それは揶揄ではなく、むしろ相手の推理、思考の変化を純粋に楽しんでいるかのように聞こえた。 「アレは、隠蔽する気があれば、の仮定だ。はじめから隠蔽する気がなかったんなら、捕まる気でいたんなら、ただ逃げずに留まっていただけかもしれないだろ?」 鍵を掛けたのは、邪魔が入らないようにするため。 だれも、ジュリエットの殺害現場に彼女以外いなかったとは言ってないのだから、犯人がその場に、例えばすぐには分からなくともどこかにいたという可能性も示唆される。 「あんた、自分の犯行を隠蔽するつもりはあったのか?」 由良の問いに、囚人は答えない。 笑いもせず、首を振るでもなく、ただ微動だにせず、無表情で沈黙する。 そうしていると、彼がたったいままで動き、喋り、ブラウニーを口にした男とは思えず、ただの、鉄仮面を被らされた人形のように見えてくる。 無機質な存在になってしまう。 存在が、不意に遠くなる。 同時に漠然とした不安が押し寄せてきて、ソレが一を不安にさせた。 誰かが口を開く度、囚人の中で何かが組み換えられていくような気がしてならない。 「彼女の本当の死因って何だったんだろう、とも思ってるんだ」 その沈黙を破り、理比古が言葉を紡ぐ。 「安らかな顔だったんでしょ? 首を絞められて、それでも表情を崩さずになんていられるのかな?」 まるで経験者であるかのように、疑問を口にしていく。 「彼女、本当は自分の死期を悟っていて、最後に自分に会いに来てくれたロミオを庇うために、自ら鍵を掛けたとも考えられる」 首は絞めた。 けれど、指の跡が残っていたとしても、ソレが直接的な死因になったとは断定できない。 先程ムジカが提示した推理と重なる部分もあるが、根底に流れ紡がれる感情には大きな隔たりが生まれる。 死因という問題に焦点が絞られていく中、ティリクティアはふと、自分の中できあがりつつある【物語】の存在に気づく。 「やっぱり、貴方は間違いなく彼女を絞殺したんだと、私は思うの……舞台の上で、2人きりの時間に、貴方は彼女を殺してしまった」 でも、と続ける。 「でも、ロミオは、添い遂げることのできないジュリエットを永遠に自分だけのモノにするために殺して、ねえ……本当は貴方も死ぬつもりだったんじゃないかしら?」 傍らに転がる小瓶。 そこから構築される、ティリクティアにとっての物語―― ロミオとジュリエット、たったふたりしかいない深夜の円形劇場。 翌日にゲネプロを控え、全ての舞台装置が揃ったその場所で、ふたりは向かい合い、脚本に書かれた《愛の言葉》を互いに紡ぎ会う。 彼女の中に、愛はない。 彼の中には、愛があった。 台詞を交わせば交わすほどに、ふたりの距離は離れていき、彼の絶望は深まっていく。 情熱を込めて、感情を込めて、ジュリエットはロミオを求め、愛を語る。 情熱を込めて、想いを込めて、ロミオ役の男はジュリエット役の彼女へと、愛を語る。 「……どうして、あなたは……ロミオなの……」 小瓶の薬を煽った彼女が、ゆっくりと床に倒れ伏す。 「……ジュリエット、君は何故ジュリエットなのだろう」 その彼女の白い首筋に、男は手を掛けた。 永遠に失われてしまった《彼女》を、今度は自分の手でもう一度この世界から消し去るために。 彼女の唇が微かに震える。 最後の吐息が、こぼれ落ちていく。 細い首に食い込んでいく長い指。 自分の手の中でゆっくりと失われていく生。 「死してなお、君はなぜこれほどに美しいのだ」 そして、彼は自らもまた小瓶を煽る。 死の後に得られる幸福、誰の力も及ばず、どのような運命からも解放された世界で、添い遂げるために―― だが。 だが《悲劇》は、ロミオが想い描いた通りには運ばなかった。 世界最初の世界司書。 その役割を担う彼女へと、《予言》を求めたファミリーが行方を捜していたとしたら? そして、数多の偶然の上に、その人物は、劇場で倒れ伏したふたりの姿を見つけてしまったのだとしたら? 「発見された時、ジュリエットはもう息絶えていた。けれど貴方は意識を失ってはいても生きていたの。……だからそのファミリーは、彼女をそのまま劇場に残し、貴方だけを連れ去り、貴方の鍵で施錠して、去ったのではないかしら?」 そして、全ての真相を隠すため、ファミリーは囚人をこの場所に閉じ込めた。 「素晴らしい、実に面白い!」 不意に囚人は立ち上がり、ティリクティアと、そして理比古に向けて拍手を送った。 「君達は互いに影響し合いがなら、実に美しい悲恋の物語を構築してくれたのだね! 面白い、ロミオとジュリエットという演目に対し、実に興味深い解釈で挑んでくれた!」 惜しみない賛辞が贈られる。 その瞬間、彼が用意した《閉じ箱》の中身は確定されるのだ。 閉じ込められていた猫の生死が、確定される。 「だが、それのどこに、素顔を隠されるほどの罪がある?」 由良の訝しげな視線は、自身が犯した罪を指折り数えて得た疑問でもあったが、ソレを知るものはここにはいない。 ゆえに、ただの疑問符として提示されるのだ。 「かつての恋人が世界司書と無理心中を図った……まあ、それはそれでスキャンダルだろうが、何故顔を隠す? もしかして、他にも罪を犯していたんじゃないか?」 囚人の罪とホワイトタワーの構想、そのどちらが先にあったのか、気になっていたのだ。 「あ、そういえば……ロミオは、劇中でふたりの人間を殺してしまっているんですよ。そして、追放の刑を受けて、いた……」 ふと口にした自らの台詞に、ぞくりと一の肌が粟立つ。 思わず由良を見上げるが、可能性を指摘した当の本人は、苦虫を噛み潰したようでありながら、恐れや怯えはなく、そう、まるで、同族嫌悪と呼んだ方が近しい表情だ。 何故自分がそう思ってしまったのかも分からず、一はますます自分の感情に混乱する。 囚人は、ソレに答えない。 答えないから、別の問いが重なり行く。 「貴方は、何故この箱庭に留まっているの?」 ティリクティアが問う。 「貴方は何を想い、何の目的があって、長い時をこの中で生きてきたのかしら?」 「そう、あなたが百年以上もここに留まる理由はなんですか?」 理比古が問う。 「ここにいるのが貴方の意思だというのなら、あなたはあなた自身を罰しているの?」 「俺なら、どんな場所であろうと長く閉じ込められるのは心底厭なんだが、何故平然としていられる?」 由良が問う。 「あんたの罪と、このホワイトタワーの構想、一体どちらが先だったんだ?」 「私は、ひとつだけ真実を教えて欲しい」 一が問う。 「貴方は何故、その人を殺してしまったの?」 「これもまた閉じ箱に踏み入る行為だとは分かっているが」 ムジカが問う。 「貴方は、ジュリエットを愛していたのか?」 問いは重ねられ、連ねられ、鉄仮面の男に向けて紡がれていく。 彼はソレを心地よい旋律であるかのように目を閉じて受け止め、余韻を楽しむように、しばしの沈黙に耳を傾けた。 そうして。 彼はゆっくりと瞳を開ける。 「諸君らは想像できるかね?」 ぞっとするほどに深く澄んだ瞳の奥に閃いているのは、絶望を縁取る狂気にほかならない。 まともに見つめてしまったら、自分の気が触れる――そう思わせるに足る瞳が、訪問者であるティリクティアを、理比古を、由良を、一を、ムジカを順に捉えていく。 「自身の生死が自身によって決めることのできない状態、死を望みながらも《死が許されない》という状況がどれほどのものであるのか」 ソレは問いへの答えのようでもあり、はぐらかされたようにも受ける。 「私はただ眠り続けることを拒絶したにすぎないのだよ。自身が眠っている間に、本当に重要なことが始まり、なにひとつ選択できず、なにひとつ行動を起こせぬままに、全て終わってしまうのだとしたら、諸君はそれでも眠ることを選べるかね?」 否、と答えるべき所だろうか。 「なに、中には、何も知らずに眠り続けることを幸福という輩もいるのだろうけれどね」 こちらの返答を待たず、囚人は肩を竦めて、喉の奥でくつりと嗤った。 「さて、他に何か聞きたいことはあるかね?」 「あなたの名を知りたい。前回は聞きそびれてしまったからね」 「名乗ることもできるだろう。だが、二度自己紹介をするのは少々野暮というモノだ。ソレに、君は既に私に名を与えているのだろう?」 「え」 「エドガー……君の名付けたその名で私を呼びたまえ。エドガー・エルトダウン、これもまた暗示めいていて面白い」 一体彼はどこからその情報を仕入れてきたのだろうか、とハッとする。 「この物語にエドマンドは登場していない、だが、エドマンドとエドガーの名が並べば、君の最初に提案した【リア王】の物語が構築され、その物語によって別の昔話が構築される楽しみが生まれる」 ソレはまるで、何かの予兆だ。 だが、深く追い求めることはできない。 「時間よ!」 ティリクティアの声が鋭く刺さる。 彼女は非公式の面会を行う前に、すでに予知を終えていた。 もう間もなく、見回りがここへやって来る。 彼女たちは見つかる前にこの場を辞さなければならない。 「逃げる気はあまりないんだけど」 ムジカのセクタンは、オウルフォームとなって周囲を飛んでいる。 その瞳にも階下へと降りてくる人影が確認された。 自分たちがあと数分の内に辞さなければ、間違いなく、侵入者として捉えられ、場合によっては厳重な処罰が待っているかもしれない。 「あなたの素顔を見ることはできないのかしら?」 急かされるようにして地上へ続く階段に足を掛けながら、ティリクティアは振り返り、問う。 「あなたの隠された素顔を、見たいわ」 彼は首を横に振る。 振って。 「私の顔を知ってはいけない」 意味深に告げたその言葉は、何故か嗤いを含んでいて、戯れに告げた冗談であるのか、あるいは本当に危険であるのかすら判断がつかなかった。 もう間もなく、鐘が鳴る。 侵入者に気づいた者たちが警鐘を打ち鳴らしてしまう。 だから、ティリクティアたちは行くしかなかった。 そんな彼女たちの背に向けて、囚人の声が追いかけてくる。 「ムジカ、ヒメ、ヒサヒデ、ティリクティア、アヤヒコ、諸君らを友人であると私は考えている。だから、またおいで。次に会う時、私が私として存在している保証はどこにもないけれど」 またおいで。 二度と会うことはできないかもしれないけれど。 0世界に覚えた絶望を抱えきれなくなったのなら、偽りの優しさに満ちた無関心の街に痛みを覚えてしまったら、またおいで。 「そしてヒメ、ヘンリー・ベイフルックを連れ戻そうというのなら、気をつけたまえ。君から笑顔が失われることがないように……!」 後日。 とある縁から螺旋飯店に赴く機会を得た彼らは、かの店に並ぶ肖像画の中に奇妙な符号を見出すことになるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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