「《理想郷》を、見てきてほしい」 集まったロストナンバー達へ出し抜けにそう言い放って、虎猫の世界司書は閉じていた瞼を開いた。野生を残した獰猛な双眸が、ぎらりと煌めいて旅人達を見上げる。 ひとつ大きく伸びをすると、灯緒(ヒオ)は丸まっていた身を起こした。太い前肢が、導きの書の間に挟まれた地図の南東部をじゃれるように叩く。何もない、広大な海ばかりが広がる場所だ。「朱昏の東側の大陸――《皇国》の南に、儀莱(ニライ)という島の存在を確認した」 ロストナンバーによる航海で、色とりどりの花と鮮やかな青い空、海に囲まれた、美しい島が発見された。 朱昏では伝承として語り継がれてきた“理想郷”の実在。 長く彼の地と関わり続けてきた灯緒も、骨董品屋の店主も、初めて耳にする話だったようだ。「今回は、そこを調べてきてほしいんだ」 だから、純粋に興味が在るのだと虎猫は言う。「島には幾つかの集落と森林、それから小さな川が流れている。集落は海岸線の近くが多いようだね」 儀莱に初めて到達したロストナンバー達が或る程度島の地理を調べてきたが、帰還するまでの僅かな時間では充分な調査ができなかったらしい。だから今回改めて探索班を派遣するのだと、相変わらずの眠たげな口振りで猫はそう語る。「海沿いの集落には、前回の旅に同行した東国の船乗りたちが未だに逗留している。彼らに話を聞く事も出来るだろうね」 儀莱へ到達し、帰る段になって『国には帰らない』と言い出した男たち。 パトロンとの契約を完遂させられないまま、彼らは未だ彼の地に留まり続けている。その現況を確認してくる事も依頼の一環だ。「それと、以前、真都で観測された朱色の雨と同じものが儀莱にも降ると言う。つまり訪れた者の記憶や過去を映像として見せる、そんな現象が起こるかもしれない」 ただの観光でも、記憶目当てでも、どんな理由であれ見てきてくれればいい。「特に危険な事は起こらない。むしろ安全すぎると言っていいくらい、穏やかな場所だ」 欠伸混じりにそう告げて、怠惰な虎猫はふと金眼を細めた。「ただ――」 真摯な色が、その双眸に宿る。「彼の地はどうやら、おかしな部分が多いようだ。一見平和に見えるけれど、どこかが決定的に“狂って”いる。――その違和感を、明らかにしてきてほしい」 ◇ 旅人たちの乗るロストレイルは、紺碧の海を滑る。 水面を低く飛ぶ海鳥と並走し、青空の下、木々の緑が鮮やかに覆い尽くす島が、次第に近くなる。 それは、遠目に見れば確かに“理想郷”と呼んで差し支えない、美しい景色だった。 濃い朱色に染まる、石のような質感の細い大樹――珊瑚に似た何かで出来た樹の佇む入り江に滑り込んで、列車は旅人たちを吐き出した。 足を置いた砂浜が、きゅ、と音を立てる。振り返れば、コバルトブルーの海がエメラルドに色を変え、内側で泳ぐ魚たちの姿すら透して煌めいていた。 珊瑚の樹の下、ひとりの女が旅人達を待ち構えていた。「よくぞ参られました、異国の御方」 白装束の上に紫蝶舞う朱の小袖を羽織り、女はやわらかな笑みを咲かせた。此の集落を預かる“祝女(ノロ)”と呼ばれる役職の者だと言う。「我らはいつでも、あなた方を歓迎いたします」 微笑む女の肩から、ひらり、と図柄の蝶が抜けるような空へと逃げていった。 ◇ 図柄の蝶を追って、島の内側へと迷い込む。 深緑の森を抜けた先、旅人たちは開けた路へ辿り着いた。 目に映える赤。 島が――大地が、燃えているようだ。 細い樹の一面に咲いた、鮮紅の花が空を染め上げる。天へ向かって翼を広げる霊鳥を思わせる厳かさで、無数の花弁が樹上を覆い尽くして咲き誇る。この地を巡る“朱”の色彩よりも鮮烈で、目を灼くような紅だ。 彼らの両脇を彩るように並んで植えられた木々は、まさしく炎の路のようだった。澄んだ蒼穹と中空に燃え立つ業火の花、息を呑むほどに圧倒的な情景に、旅人たちは言葉を喪う。「御機嫌よう」 静寂の合間にふと、差し込まれる声。 首を巡らせれば、業火の花の先に一人の女が佇んでいる。 祝女の纏うものとは違う、質素な柄の朱袖を羽織った、背の高い女だった。白い顔(かんばせ)は華やかで凛とした美しさを湛え、しかしその実いのちの気配を感じさせない。長い髪に飾られた簪の朱が、風に遊ぶ。 女は旅人たちに近付くこともなく、その場に佇んだまま微笑んでいた。「御客人、此の地は危のう御座います」 嫣然と唇を曲げ、どこか艶のある声音で女は言う。 白くたおやかな、細工物を思わせる繊細な指先が天を指し示した。 青く澄み渡った空のいずこから、一粒、朱の雫が降り注ぐ。「どうぞ、雨に還り路を掻き消されませぬよう」 指先を伝い落ちた朱が、女の纏う袖先の白を濡らした。=====!注意!このシナリオは、同時公開の「【遥かニライカナイ】霖雨漂流譚」と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる両シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。=====
青く、どこまでも青く澄み渡った空は、イルファーンの瞳には目映すぎるほどの光を湛えていた。苛烈な陽射しから逃れるように手で庇を作り、しかし彼は目を逸らす事なく抜けるように高い天を仰いだ。 「……美しいね」 紅玉の瞳を細め、鮮やかな南国の景色に魅入られたまま、ひっそりと青年はそう呟く。隣を歩く鷲頭の男――村山静夫が、その言葉に含まれた想いを汲み取り、胡乱に覗き込んだ。 「浮かねぇ顔だな、旦那」 人を愛し、世界を愛する慈愛の精霊には珍しく、居心地の悪さを覚えているようにも見える。イルファーンは雪花石膏の肌に柔らかな、それでいて脆く儚い笑みを浮かべ、村山を見上げた。 「村山静夫、君のその目には、この場所はどう映るんだい?」 「どう、って……」 猛禽の爪先が、己の後頭部の羽根をぽりぽりと掻く。 世界大戦を経験した村山の脳裏に蘇るのは、彼が兵士として派遣された南方の光景。苛烈な陽射しと熱気は戦場を思い起こさせたが、この地には死の匂いはおろか、危険の気配すら感ぜられない。 あの日々、死は常に彼のすぐ傍に在った。 「……まぁ、本当にこの世界にとっての理想郷だったら、それで良いんじゃねぇかい」 だからこそ、この地が真実、安寧と平和を象徴する場所であればいいと、そう願うだけだ。 穏やかに暮らしている住民たちの生活を荒す気など毛頭ない。 「そう」 眩しいものを見つめるように、微笑みに似せて目を細め、イルファーンはそれとだけ答える。 「旦那にゃ何か理由がありそうだな」 「僕には……この島が、正しい人の在り方とは思えないんだ」 絞り出すようにそう、言葉を紡ぐ。 玲瓏とした声音が痛ましげに揺れ、まるで涼やかな玻璃玉に一条、罅が走っているかのよう。 「島の住民は喜怒哀楽の楽以外の感情を喪っているようだ」 降り立ったばかりの彼にすら判る。 この島は異常だ。 在るべきものが、負の感情が、ごっそりと欠けてしまっている。 「まあ、確かにうそ寒いモンは感じらぁな」 肩を竦めながらも同意を返し、猛禽の鋭い爪を備えた指先が天を向く。 「見な、旦那」 雨だ、と。 獰猛な嘴から、静謐の声が零れた。 振り始めた朱に足を止め、その場に残る事を選んだイルファーンを不思議がりながら、村山は先に集落へと向かった。その背を微笑んで見送り、慈愛の精霊はその白き肌に朱の雫を受け止める。 さぁさぁと、しなやかな音を立てて、雨が降る。 身を打ちつける朱の雫は優しく、包み込むように暖かだった。 “あの日”彼の愛した国を侵した漆黒の雨とは、全く性質を異にした雨。 しかし、何故かそれを想い出してしまうのは、どちらも雨としては異質な色彩であるからか。 ――朱の雨は、打たれる者の記憶を引き摺り出すと言う。 荒廃した野に立つ、一本の果樹。 その下で賑やかな声を上げる子供たち。 果実の成るその樹は砂漠の多い土地には稀有な種で、子供たちはその甘い味と水気を求めて群がっていた。そして果実を食むついでに、集まった皆で考案した遊びを実践している。 乾いた大地の上に枝で図形が刻まれ、その上を子供たちが奇妙な足取りで駆けていく。図柄から足を踏み外した子供は始まりの場所へと戻され、無事渡り切る事の出来た子供たちは新たな果実を樹上からもぎ取っていた。 樹から僅か離れた場所に立っていたイルファーンを、子供の一人が呼びよせる。彼が高位の精霊である事に気付かず、一緒に遊ぼう、と無邪気に言う。アルビノの色彩に驚いた他の子供が難色を示すのにも構わず、彼は強引にイルファーンを遊びに巻き込んでしまった。精霊もまた、戸惑いながらも嬉しそうに笑っている。 やがて、賑やかな時は過ぎ、夕陽の向こうに親の声がする。幾人もの子供たちがばらばらに名を呼ばれ、散り散りの方面へと駆け出して行く。 後に残されたのは、名を呼んでくれる者のないイルファーン、ただ一人。 鳩の血色の瞳を細めて、孤独な精霊はその後ろ姿を見護っていた。 雨が上がる。 幻影の果樹が、取り残された自分が、薄れていく雨の幕に掻き消されていく。 ――噫、と、イルファーンは静かに声を零す。 瞳を閉じ、消えていった過去の情景を瞼の裏に蘇らせる。 あれこそが、正しい人の営みではないのか。 戦乱や飢饉に脅かされながらも、慎ましやかに幸福を追い求め、発展していく姿こそが、正しい人の在り方ではないのか。 少なくとも、イルファーンの愛した国は、愛した人々はそうだった。 此の掌から砂の様に灰のように零れ落ちていった数多の命は、理想郷を体現する此の地に在る何よりも、ずっと美しく輝いていた。 ◇ 灰がかった雲が静かに、そろりそろりと忍び寄る。 セピア色の瞳でそれを見つめながら、和装の青年は炎の樹の傍に立つ女へ、柔らかな声をかけた。 「危ないって、どうして?」 伊原は微笑みを絶やす事なく、一歩、女の佇む元へと歩み寄った。 女もまた、たおやかに笑みながらそれを待っている。 「此の地の雨は幻影を映します故。惹き込まれ、還って来ぬ者も少なくありません」 「……私でも、そうなるのかな」 呟いて、そっと、頭上に手を伸ばす。 燃え上がるように天へと伸びる紅の花は、凛と佇んで伊原の指を受け容れた。炎の熱はなく、指先に伝わる柔らかな手触りに、やはりそれはただの花だと実感する。 箪笥である伊原は水気は元より、火気にも弱い。 業火の樹に咲く炎ならば触れる事が出来るかと手を伸ばしてみたが、当然のことながらそれは真実の炎ではなく、伊原は少しだけ残念そうに眉を下げた。その様子を、微笑ましげに女が見護っている。 「……ところで、」 茶色の眼差しを女へと寄せて、伊原はくすりと微笑んだ。 その瞳は、時を重ねた家具の持つあたたかな色彩。 「私は箪笥なのだけれど、あなたは簪?」 小首を傾げる度、瞳と同じ色の髪が揺れる。 「簪? 箪笥?」 「それとも樹なのかな」 問い掛けの意味を解せず戸惑う女を後目に、伊原はのんびりと考えを進展させる。 女の艶やかな黒い髪に刺さっているのは、頭上で燃える鳳凰の花とよく似た赤。意匠もまた空へと飛び立つ瑞鳥の形をしている。それ故、付喪神の伊原にとっては彼女が簪の――鳳凰の化身に見えたのだろう。 「ああ、ええと……質問を変えた方がいいかな。あなたはここの村人? 妖なのかな?」 からりと、乾いた秋空のように微笑んで、伊原は更に問いを重ねる。 この島を見つけたロストナンバーが初めに出逢ったのは、妖の女だったと言う。朱の小袖に宿った、紫の蝶の化身。 しかし、女は問い掛けに対し、笑んで首を横に振る。 「いいえ」 女は確かに村に暮らしているが、妖ではないらしい。 「じゃあ、あなたの村を見せてくれないかな」 期待した通りの答えが返らなくとも、伊原に残念そうな素振りは見られなかった。興味の対象を次へと移し、淡泊とも取れる朗らかさで首を傾げる。 「ああ、よければ村まで私の傘に入っていくかい?」 そう微笑んだ男は、女の気付かぬ内に傘をさしていた。大きな茶色の蝙蝠傘は古典的な造りをしており、和と洋の境を歩くような出で立ちの伊原にも問題なく似合っている。 女は唐突の傘の出現に僅か驚いて、しかしすぐに華やかな笑みを浮かべた。 「では、御一緒させて頂きとう存じます」 「どうぞ」 しずしずと、華やかな外見に似合わぬ淑やかさで女は彼に身を寄せた。 ――ふと、伊原はその身に纏う朱色の袖に目を留める。 「……見事な柄だね」 風流な男の心からの讃辞を受け止めて、女は素直に微笑んだ。 襟から袖へかけて、赤から白へと色を変える小袖。 質素な柄に見えていたが、近付いて初めて、それはただ色を変えているだけではないと気が付いた。 蝶だ。 赤い空の下、無数の白い蝶が、力尽きて大地へと降り積もって行くような図柄。赤から白へと視線を移せばそれは雪のように落ちていくように見え、白から赤へと視線を移せば、逆に眠りから醒めた蝶が次々と空へ飛び立っていくようにも見える。 面白い意匠だ、と、己もまた精緻な細工物である箪笥はのんびりと笑み零した。 ◇ 集落に辿り着いた村山は、東国から儀莱へと渡った船乗りの一人を見つけ、声をかけた。 「旦那」 精悍な顔立ちの男は振り返り、訝しげに応える。 「何だい」 「街には帰らねぇのかい」 回りくどい言い方は苦手だ。 端的にそう問いかければ、男は得心したように笑い、しかし首を横に振った。 迷いのないその様子に、疑念が濃くなる。 「……何か、食べ物を口にしたか」 「?」 「そうさな……木の実だとか、この島で採れるモンだ」 ここへ来る前に読んだ、過去の報告書を思い返す。 死に近しいロストナンバーたちが此の地を“相性が良い”と感じたのは、果たして偶然だったのか。村山にはとてもそうは思えない。 「黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)の話は知ってるか」 「聞いた事もない」 訳がわからぬ、と言った男の反応も最もだろうと思う。 「黄泉――死者の世界にやってきた生者はその地の食べ物を口にする事で、本当に帰れなくなっちまうんだとよ」 村山は、この儀莱と言う国もまた、伝承とよく似た性質を持つ場所だと感じている。死に近しい場所、否、此の地そのものが“死”であるとしたなら。旅人たちの感じた違和感も、世界司書の覚えた狂いも、説明が付けられるのではないかと。 男は首を傾げ、食物なら幾つか口にしたが、とだけ答えた。 「……そうか」 何故留まるのか、と問う代わりに、憶測めいた問いを投げる。 「もう、帰る必要はねぇんだな」 男の目が弾かれたように持ち上がり、静夫の物静かな視線を受け止めた。 「お前さんの妻は、此処に居るのか」 「……ああ」 頷いた男は、どこまでも充ち足りたような笑顔を浮かべていた。 鎌をかけるように放った言葉は、そのまま事実を言い当てていたようだった。「妻を取り戻す」と語った船員が居た事を思い出す。ここが真実死者の国であったなら、その言葉の意味を紐解く事もできる。 「……だがよ、その幸せってのは、偽りなんじゃねぇのかい」 「だとしても」 男は茫洋とした視線を虚空へ彷徨わせ、呻くように呟いた。 「俺は、それで構わないんだ」 男と、言葉を喪う村山を遮るように、雨が彼らを覆い尽くす。 ざぁざぁと、降り注ぐ朱の雫は、村山の目には苛烈な炎のように見えた。ゆるゆると、舐めるように朱が舞う。 雨の、炎の向こう側に、ひとりの男が立っている。 悪の秘密結社に所属し、『煉獄博士』と呼ばれ、懼れられる男。 村山を今の姿に改造し、洗脳を施して悪の怪人へと造り変えようとした男だった。 その名の通り、静夫の記憶の中の男は炎に包まれていた。仲間たちに助け出され、逃げていく彼を追わず、ただ炎の向こう側から見つめる目。その静けさを覚えている。忘れられるはずがない。まるで誰かの手引きでもあったかのような段取りの良さ。敵地の中枢に在りながら簡単に逃げ出す事が出来た。その不自然さごと、全て覚えている。 『人類の敵』が、刹那に見せた瞳の色。 ぎらぎらと燃え盛る野望の炎が、唐突に凪いだ瞬間の静かな色。 まるで、疲れ果てた子供の目のようだと、そう感じた。 あの時も、そして今も。 ――その瞳の意味を、今、ようやく理解した。 あの男は死ぬ気だったのだ。 野望を成就した後、炎の向こうに身を投じるつもりでいたのだ。 「……馬鹿野郎が」 唾棄するように呟けば、炎の雨が笑うように蠢いた。 ◇ 蝙蝠傘で霧のような雨を凌ぎ、静寂に包まれた森の路をそぞろ歩く。 業火の路を起点と据え、伊原は島を一周してみようと思い立った。風景を楽しみ、島を探索するにはちょうどいい。呑気な箪笥は散歩気分で、雨の中をふらふらと往く。 高く聳える一本の樹木を目に留めて、彼はふと立ち止まった。 繁る緑葉の中、虚ろなまでに白い花が咲く。 垂れ下がる花房を幾つも抱え、その樹は俯くような格好で枝を下向けていた。まるで曇天と、落ちてくる雨から顔を逸らしているかのようだと伊原は首を傾げた。 木々も雨を厭うものなのか。 「……そう言えば、私も木から造られた物なんだったか」 箪笥の付喪神たる己は、元をただせば一本の木だ。 己が雨を厭うのだから、木が雨を厭う事があってもおかしくはないな、と考え直し、伊原は一人静かに頷いた。 ぐるりと周りを見渡してみても、果実の成る樹は見当たらない。 放置したままの依頼の一つである『不老不死の果実』についても、彼は島を散歩しながら、確かに探していたのだ。しかし残念な事に目につくような場所に果実はなく、歩く場所が悪かったのだろうかなどと首を傾げる。 ――不老不死が悪い事だという考えは、彼には判らない。 箪笥である彼は、ゆっくりと朽ちていく事は在るのかもしれないが、基本的に老いと言ったものとは無縁だ。ひとと違う時間の流れを持つ者ゆえに、人間の夢を理解しきれない。 ただ、器物である己が親から子へ受け継がれるのも、不老不死のただひとりに所有され続けるのも、どちらも悪くはないなと、微かに笑みを浮かべるだけだ。 ざぁあ。 霧のようだった雨が、唐突に色を深めた。 蝙蝠傘を穿つ音が大きくなって、目の前の空木の花さえもその朱色の奥に覆い隠してしまった。 色褪せた景色の中、和装の女が佇んでいる。 女は背の高い箪笥に手を置いて、時折その出来栄えを確かめるように振り返っている。 (あれは――私……?) 否、と首を横に振る。 記憶を映し出しているのなら、その視界に自分が映っているのはおかしいはずだ。よくよく見れば、箪笥に施されている装飾も伊原のものとは違う。伊原の名の由来ともなった薔薇や茨ではなく、それは端麗な桜の花を意匠に用いていた。 装飾こそ違う、別の個体ではあるが、伊原とよく似た造りの箪笥だ。 (弟、なのかな) 弟――つまり、制作者を同じくする、別の箪笥。 人を尊び、愛する呑気な箪笥は、そうであれば嬉しいと、笑みを零す。 皮肉めいた笑みを零す女の隣には、対照的な朗らかな笑みを浮かべる男が立っていた。 (誰だろう) ゆるりと首を傾げながら、伊原の中には心当たりが在った。 その人物の事は知らずとも、その見目についてはよくよく知っている。 伊原が初めて人の姿を得た時、彼の引き出しの中に長い間貼り付いていた写真の人物の外見を模した覚えが在る。――それこそが、目の前で笑う彼の洋服の男だった。 写真の中の彼は、伊原のしているような和装と、色褪せた茶の色彩を纏っていたけれど。 (私は、彼なんだろうか) 器物は時を経て意志を得る。 写真は時を経て色褪せる。 (……誰だろう) その疑問は、誰へと向けられたものだったのか。 からり、と一時だけ雨の上がった空の下、伊原は袖の中から色褪せた一枚の写真を取り出していた。 項垂れる空木の花だけが、それを見護っている。 ◇ 朱色の雨を切り裂いて、一匹の鷲が中空を滑る。 黄の瞳が鋭く天と島とを見比べながら、猛禽は島上をぐるりと廻った。 広い天空に彼以外の鳥の姿はない。先程曇天の下から見上げた時は幾羽か海鳥が空を横切っていたのを見かけたから、恐らくは島の何処かでこの雨が上がるのを待っているのだろう。 広げた翼を湿らせるように、霧雨は降り続く。叩きつけるような力強さがない事が救いだった。こうして只中を横切ってみれば、雨は地上から見上げた光景よりもずっと濃い色彩をしている事に気付く。 島の全景を見渡すように飛びながら、鷲――村山は幾つもの違和感に気が付いていた。 墓地が存在しない。 深い森の中は人間の姿で歩き回って探した。村の僻地や、海岸線、或いは丘の上などは歩くよりも俯瞰した方が手っ取り早く済むと感じ、こうして鷲の姿で空を駆っているのだが、何処にもそれらしき土地が見られないのだ。 ――だが、異変はそれだけではなかった。 墓地だけではなく、畑や、農場など、人の営みに直結するはずの施設が一つも見当たらない。 人が住むはずの土地で、そんな事が有り得るのかと――背筋を冷えた感覚が這うのを抑えきれなかった。 ふと、業火の花咲く道沿いに、村山は二人の同行者を見つけた。 白い青年と、セピア色の青年とが、にこやかに手を振っている。イルファーンは朱色にその白い身を曝して目を細め、伊原は傘を差して雨を遮っている。 鷲は一度大きく羽撃いて、身体を傾ける。 降りしきる雨に沿って、一気に彼ら目掛けて降下した。砂浜にぶつかる寸前、広げた翼で勢いを殺す。ふわりと着地したと同時に、その身は鳥人へと姿を変えた。 「旦那方はここで何を?」 零れ落ちたソフト帽を深く被り直し、村山は猛禽そのままの鋭い目を二人へと向けた。彼らの両脇では、業火の花が霧雨の中でも変わらぬ色彩で燃え続けている。 蝙蝠傘の下で伊原が微笑み、隣のイルファーンを指し示した。 「彼が舞を披露してくれると言うから、見にきたんだ」 赤い唇にはにかむような笑みを浮かべ、イルファーンは頷く。 「へえ」 絶世の美貌を携えた異国の青年が披露すると言うそれに興味を惹かれ、村山は感嘆の声を零す。 「俺も見せてもらってもいいかね」 「もちろん。皆の目を楽しませる事が出来るなら、僕も嬉しい」 誇らしげにわらったイルファーンを残し、雨を凌ぐため業火の樹の下へと足を向けた二人は、其処に先客を見つけた。 朱の簪を挿した女と、白装束の祝女とが、二人を迎えて軽く頭を下げる。簪の女は三線と撥を手にし、樹の下からイルファーンの舞に音を添えるつもりのようだった。 「しかしまた、何で舞なんか」 風情があって面白いとは思うが、唐突に思い至るには何か理由があるのではないか、と村山は首を傾げる。 「見つけたんだそうだよ」 それに応えたのは、伊原の呑気な言葉だった。 セピア色の瞳をつい、と滑らせて、白装束の女が掲げる掌を視線だけで示す。その両手の中で転がるものを目にし、村山もまた得心したように頷き、しかし僅かに目を瞠った。 「……それが?」 「不老不死を体現する果実、『断花(タチバナ)』だ」 滑らかな白い手の中に置かれた、小さな小さな果実。 ――不老不死、などという大それた言葉にはそぐわぬ、ちっぽけな存在だ。 「で、彼は果実を持ち帰る代わりに舞を、と」 「なるほど」 幾ら依頼とはいえただ黙って持ち去るのは彼の性に合わなかったようだ。あの、無垢で透徹した美しい精霊ならば判らぬ話ではない、と静夫もまた納得を示す。 「で、姐さんはその条件を呑んだのかい」 「ええ」 断る理由がない、と祝女はあっけらかんと言う。 その柔らかな笑みが、果実にそれほど頓着していないようにも見えて、微かに眉根を寄せた。――この世界、或いは此の地では、不老不死はそれほど重要なものではないとでもいうのだろうか。 湧いた疑問が形になるよりも早く、雨の中のイルファーンが動いた。 ――始まる。 朱色の雨に、紅の炎が翳む。 極上の紅玉の色をした精霊の瞳が、すう、と二色の狭間を滑る。 それをなぞるように指先を滑らせれば、雨の向こう側から、しなやかな弦の音が響き渡った。白魚のような美しい指で撥を操る紅袖の女を視界に収めながら、緩やかな動きで身を回転させる。両の手首に飾った腕輪が高く澄んだ音を響かせ、雨の幕を柔らかく揺るがした。 雪花石膏の肌の中、赤く色づいた唇から、滑り出るようにして言葉が、音が、声が落ちる。女の繰る三線の音色に合わせ、玲瓏な響きで歌を紡ぐ。異国の音曲に合わせ、異国の精霊は自在に舞の形を変える。 時に疾く、時に緩やかに。 円を描くような滑らかな動きが、その身に纏った布を膨らませる。両の腕を繋ぐように長く伸びた白絹は雨に濡れ朱く染まってしまっていたが、それもまた美しい色彩だった。白絹だけでなく、髪を、服を、肌を、雨は全てをしとどに濡らしながら、それでも精霊の清廉な白さを穢せなかった。 靴先が、柔らかな地面を円く磨る。 ――弾かれた雨の雫が、舞うように跳ねた。 まるで、雪白の指先から羽化する蝶の如くに。 べィん。 一際強く音を立てて弦が震え、それに合わせイルファーンもまた、緩やかに動きを止めた。 霧雨が名残を惜しむように降り注いで、舞の余韻を際立たせる。 雪花石膏の精霊は、翳む朱の中でも褪せる事なく、白く輝いていた。 観衆に向き直り、優雅に礼をひとつ送る。 余韻に惚けたまま、伊原は軽やかに拍手を打ち鳴らした。はにかむように微笑んで、イルファーンは彼らの元へと歩み寄る。 「すごいね」 「素晴らしきものを見せていただきました」 祝女は心からの讃辞を向け、イルファーンへ掌の中の果実を差し出した。受け取り、見下ろしながら、慈愛の精霊は問いを放つ。 「……この世界にとって、不老不死とはどういう意味を持つんだい」 何も知らぬまま、果実を求める者の手に渡して、また故郷とよく似た悲劇を引き起こすのではないかと言う一抹の不安が、彼を駆り立てる。 「そのままの意味に御座います」 祝女は笑み、百日紅の白い手に抱えた実を恭しく持ち上げる。 「決して老いる事も、死す事もない――この地の安寧など、必要なくなりましょう」 迂遠な言い回しながら、望んでいた通りの言葉が得られ、イルファーンは微かに安堵の息を吐く。しかしすぐに首を横に振った。 「……僕は、この島に居られない。この島の在り方を肯定できない」 慈愛の精霊は、嫌悪の感情を抱かない。 ただ、この島が、この島に棲む者が“間違っている”ことを哀しく思うだけだ。 「心を虚ろにしてまで、永遠など欲する価値があるとは思えない」 「永遠では御座いませぬ」 イルファーンが振り絞るように発した言葉を、祝女は微笑んで否定する。白き精霊へ、白い袖から伸びる手を向けた。 その指先の、奇妙な滑らかさに畏怖を抱く。 まるで。 まるで、百日紅の滑らかな樹皮のようだ。 「……?」 「我らにとっては、彼らもまた御客人に過ぎませぬ。この地で仮初の生を送り、いつかは在るべき地へと還ってゆく――それを見守り、見届けるのが我ら祝女の大任に御座います」 謎かけにも似た言葉を投げて、白装束の女は笑った。 「また、お越しくださいまし。異国の方々」 まるで、新たな謎を暴きに来いと、そういざなうかのように。
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