「《理想郷》を、見てきてほしい」 集まったロストナンバー達へ出し抜けにそう言い放って、虎猫の世界司書は閉じていた瞼を開いた。野生を残した獰猛な双眸が、ぎらりと煌めいて旅人達を見上げる。 ひとつ大きく伸びをすると、灯緒(ヒオ)は丸まっていた身を起こした。太い前肢が、導きの書の間に挟まれた地図の南東部をじゃれるように叩く。何もない、広大な海ばかりが広がる場所だ。「朱昏の東側の大陸――《皇国》の南に、儀莱(ニライ)という島の存在を確認した」 ロストナンバーによる航海で、色とりどりの花と鮮やかな青い空、海に囲まれた、美しい島が発見された。 朱昏では伝承として語り継がれてきた《理想郷》の実在。 長く彼の地と関わり続けてきた灯緒も、骨董品屋の店主も、初めて耳にする話だったようだ。「今回は、そこを調べてきてほしいんだ」 だから、純粋に興味が在るのだと虎猫は言う。「島には幾つかの集落と森林、それから小さな川が流れている。集落は海岸線の近くが多いようだね」 儀莱に初めて到達したロストナンバー達が或る程度島の地理を調べてきたが、帰還するまでの僅かな時間では充分な調査ができなかったらしい。だから今回改めて探索班を派遣するのだと、相変わらずの眠たげな口振りで猫はそう語る。「海沿いの集落には、前回の旅に同行した東国の船乗りたちが未だに逗留している。彼らに話を聞く事も出来るだろうね」 儀莱へ到達し、帰る段になって『国には帰らない』と言い出した男たち。 パトロンとの契約を完遂させられないまま、彼らは未だ彼の地に留まり続けている。その現況を確認してくる事も依頼の一環だ。「それと、以前、真都で観測された朱色の雨と同じものが儀莱にも降ると言う。つまり訪れた者の記憶や過去を映像として見せる、そんな現象が起こるかもしれない」 ただの観光でも、記憶目当てでも、どんな理由であれ見てきてくれればいい。「特に危険な事は起こらない。むしろ安全すぎると言っていいくらい、穏やかな場所だ」 欠伸混じりにそう告げて、怠惰な虎猫はふと金眼を細めた。「ただ――」 真摯な色が、その双眸に宿る。「彼の地はどうやら、おかしな部分が多いようだ。一見平和に見えるけれど、どこかが決定的に“狂って”いる。――その違和感を、明らかにしてきてほしい」 ◆ 旅人たちの乗るロストレイルは、紺碧の海を滑る。 水面を低く飛ぶ海鳥と並走し、青空の下、木々の緑が鮮やかに覆い尽くす島が、次第に近くなる。 それは、遠目に見れば確かに“理想郷”と呼んで差し支えない、美しい景色だった。 濃い朱色に染まる、石のような質感の細い大樹――珊瑚に似た何かで出来た樹の佇む入り江に滑り込んで、列車は旅人たちを吐き出した。 足を置いた砂浜が、きゅ、と音を立てる。振り返れば、コバルトブルーの海がエメラルドに色を変え、内側で泳ぐ魚たちの姿すら透して煌めいていた。 珊瑚の樹の下、ひとりの女が旅人達を待ち構えていた。「よくぞ参られました、異国の御方」 白装束の上に紫蝶舞う朱の小袖を羽織り、女はやわらかな笑みを咲かせた。此の集落を預かる“祝女(ノロ)”と呼ばれる役職の者だと言う。「我らはいつでも、あなた方を歓迎いたします」 微笑む女の肩から、ひらり、と図柄の蝶が抜けるような空へと逃げていった。 ◆ 図柄の蝶を追って、島の内側へと迷い込む。 ――そして旅人たちは、曇天の下咲き誇るひとつの大樹へと辿り着いた。 白く靄がかったように咲き乱れる花は、雨の匂いで煙る空気を更に鈍重に見せる。 五枚の花弁が芯を包むように丸く開いた、小さな花が房のように枝先に成っている。樹上を覆うほどに垂れ下がる白い花房は、まるで迫り来る雨の気配を厭い、曇天から目を背けているようでもあった。 その木陰に、ひとりの女が佇んでいる。 視線を花から下に落としたロストナンバーは、そこで初めてその存在を気取り僅かに驚いた。「外の方を初めて目にしました」 ことり、と首を傾けて、女はそう言って笑う。 折れそうなほどに華奢な体躯を朱色の小袖に包んだその姿は、まるで柳下に現れる幽霊にも似て見えて。いのちの気配を感じさせない空ろな女だ。――女の上で咲き誇る、白い花の名と同じように。「お気をつけて、旅の御方」 繊細なおもてに儚い微笑みを乗せて、女はうたうように言葉を紡いだ。 その頭上で、黒い傘がくるりと廻る。「じきに雨が降りますゆえ」=====!注意!このシナリオは、同時公開の「【遥かニライカナイ】紅雨流離譚」と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる両シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。=====
白い砂を踏み締めて、銀色の少女が海浜を歩く。 足を踏み出す度にきゅ、きゅと鳴く砂を物珍しげに見降ろしながら、シーアールシー ゼロは白の上に小さな足跡を付けていった。 きゅ、と、足を止める。 ぱちくりと、銀の光を落として瞳を瞬かせる。 「こんにちはなのです」 「うん」 声を掛ければ、砂浜と道との狭間に立つその少年はやや無愛想ながらもしっかりと返事をくれた。 「ゼロはゼロなのです。お兄さんのお名前は何と言うのです?」 銀色の少女が首を傾げて問えば、釣られたように少年もくるりと首を傾けた。 「ようじろう」 舌足らずな喋り口が名を紡ぐ。漢字を問うても、学の浅い少年は首を横に振るだけだった。 「では、ご両親に聞いてみたいのです。お名前は字があって初めて意味を持つのです」 それは詭弁ではあったが、偽りではない。名前に、文字に言霊が宿ると言う信仰をゼロは以前、朱昏とよく似た世界で聞き及んだのだ。 しかし、少年はそれにも首を振った。 「おやは、いない」 「いないのです?」 どこかへ稼ぎに出たのか、それとも亡くなったのか、と問いを重ねても、ただ否定を返すばかり。 「では、ここに来る前の事、覚えてたりするのです?」 試しに問いを変えてみても、茫洋とした少年は同じように首を傾げるだけだった。 彼の記憶は此処で目を覚ました時に始まっている。 そして、父も母も、初めから記憶に存在しなかった。 そう言う事のようだった。 自然現象のようにふらりと現れ、存在し、そしてふらりと消える。すくなくとも、健常な人間の在り方とは大きく異なる“人生”だ。 「……ゼロにどこか似ているのです」 しかし、全く違う摂理なのだろうとも理解できる。 異世界の旅人であるゼロとは違い、彼は確かにこの世界の輪廻に組み込まれている。頭上の数字がそれを物語っていた。 ふと、少年が虚ろな瞳を空へと向ける。 「あめだ」 その予言の通り、唐突に、青い空を朱の雫が侵蝕した。 さぁぁ、と、雨が降る。 まるで映画のフィルムが奏でるノイズのようだ、とゼロは翳る空を見上げ、思う。降り注ぐ雫は、白いスクリーンを切り裂いて赤いノイズが散っているようではないか。 しゅわしゅわ、しゅわしゅわ、赤いノイズが弾けるような音に変わる。 雨のスクリーンは青く澄み渡り、その向こう側に広がる空と、きらきらと輝く海までもを透かし、映し出す。――否、それさえも、ゼロの心象風景に過ぎないのだと、彼女はすぐに気が付いた。 今も、しかと覚えている。 空色のキャンディの味と、彼女に出逢った砂浜の景色を。 空は青く、海はきらきらと輝いて、海鳥の啼く声が聴こえる。 幻影の中のゼロと一緒に歩いていた老婆が、ふと足を留めてこう言った。 『じゃあ、お話の続きはまた会った時の楽しみに取っておこうか』 老婆は確かに、その時そう約束してくれたのだ。 また会えますか、と無邪気に問うたゼロに対しても、しわしわの顔を皺くちゃにして答えてくれたのだ。 『会えるよ』 と。 さぁさぁと、雨脚が強くなる。 老婆の姿は、皺くちゃの笑顔は朱色に洗い流されて、しかし雨のスクリーンはそれまでと同じ景色を映し出した。 砂浜の端に、立ち尽くすゼロの姿がある。 空は青く、海はきらきらと輝いて、海鳥の啼く声が聴こえる。 あの時と全く同じ光景。 だが、そこに、彼女だけが居ない。 毎日、同じ時間、同じ場所を歩くのが日課だと、にこにこと微笑んで言ってくれた、彼女だけが。 さぁぁ、と、雨が上がる。 赤いスクリーンは気まぐれに薄れ、ゼロの前に現れていた景色もまた晴れやかな陽射しの中に溶けて消えていく。 「……ようじろうさん」 「ん」 茫洋とした少女は空を見上げたまま、隣に立つ少年にぽつりと話しかけた。名を呼ばれた少年は不思議そうな眼でいらえる。 「この島で、人が死んだりすると、どうなるのです?」 問いかけは、空々しい余韻を残し、二人の間を漂った。 老婆は白木の棺に納められ、何処かへと消えた。恐らくは火にくべられ、煙と灰になったのだろう。壱番世界の日本では火葬が一般的に用いられていると、ゼロは学んだ覚えがある。 ならば、日本によく似たこの世界では、この島ではどうなのかと。 密やかに忍び寄る虚ろな感情を振り払うように、銀の髪を風に躍らせ、ゼロはそう問いかける。 「ながされる」 ――問いに対する応えもまた、ぞっとするほどに静かで、胡乱な響きを伴っていた。空白の花のように、空洞の幹のように、うつろだ。 「流されるのですか」 鸚鵡のようにそう返したゼロの言葉に、少年は素直に頷いて見せた。 「雨流(ウル)の入り江から、体を海にながすんだ。どこへいくか、おれは知らない。きっと、だれも知らないとおもう」 曖昧な説明ながら、それは決して理解の及ばぬ事柄ではなかった。 すなわち、此の島では死者を送るのに“水葬”の方法を取っているのだ。単に狭い島で土地を活かすためか、それとも他に何かの理由が在るのか。 その理由を知る者は、きっと“彼女”たちだけなのだろう。 ◇ くるり、くるりと傘が廻る。 空は変わらず重く垂れ込め、涙を湛えたまま、それでも未だに雫を落とす気配はなかった。傘を穿つ音もなく、からからと黒が廻り続けるのを、ヴィヴァーシュ・ソレイユの緑の隻眼だけが捉えている。 「此の地へは、何をしにいらしたの?」 黒い傘を回しながら、朱袖の女が問う。 長い髪を風に靡かせ、ことりと首を傾げる仕種は、そのまま落ちてしまいそうなほどに危うく脆い。 「島の風景を愛でに」 人形のように整った顔立ちの男は、淡々とそう答える。 感情を窺わせない口ぶりだが、それは偽りのない心からの言葉だった。人混みを厭い、森の緑や穏やかな風景を好む気性の彼にとって、此の地の景色は好ましいものだった。 「美しい場所でしょう」 「ええ」 朱昏の根幹に関わると目される島を己が目で確かめたいと言う思いもあったが、降る雨のようにしっとりとした風情の景色を楽しみたい思いの方が彼の中では強い。 ――しかし、もちろん依頼の内容を覚えていない訳ではなかった。 「不老不死をもたらすと言われる果実に、心当たりはありますか」 申し訳程度に問うてみれば、女は微かに首を傾げた後で、視線を空木の花から虚空へと伸ばした。盛りを迎えて咲き誇る白い花房は、果実の時期にはまだ遠い。 「此の島には果実を実らせる樹は多く在ります。その中でも祝女の方々に特に大切にされているものが――」 白く脆い指先を、女はまっすぐに森の先へと伸ばした。 「断花(タチバナ)」 その花は、彼女の住む集落のすぐ近くに咲いているのだと言う。 「……案内を、お願いしても?」 「ええ、もちろん」 女は頷いて、雨が降るから、とヴィヴァーシュに己の傘へ入るよう促した。人と一定の距離をおきたがるヴィヴァーシュも、一時の雨宿りのためならば、と応え、女の元へと足を寄せて――ふと、立ち止まった。 黒い傘を差す、長い黒髪の女の姿。 命の気配を喪った、繊細な面。 「――私は、貴方を知っている」 ヴィヴァーシュの記憶の片隅で、何かが引っ掛かり続けている。 雲母に似て薄く煌めくそれは軽く衝撃を加えれば剥がれ落ちてしまいそうなほどで――些細な動きで喪われてしまうのを虞れ、ヴィヴァーシュは身動きもせず緑の隻眼を女に向け続ける。 「そうなのではありませんか」 それは、必ず手繰り寄せなければならない、真実への糸口だ。 翳る傘の下で女は微笑み、ことりと首を傾げた。 「……わたくしの方に、心当たりはありませんわ」 注意深くその動作を見詰めてみても、何かを隠している風には見えない。 ぼろり、と雲母が剥がれ落ちる音を聞く。 無論錯覚だが、ヴィヴァーシュは緊張を緩め、静かに息を吐いた。 ふたりはそこで会話を喪い、ただ静謐だけが残される。 女は繊細な面に笑みを浮かべて、その白い手をヴィヴァーシュへと差し出した。 「では、ゆきましょう。旅の御方」 伸ばされた片腕に、眩暈がするほどの既視感を覚え――そして、それが空である事へ、何故か違和感を抱いた。 ◇ 祝女が住むと言う家の軒先を借りて、庭に降り注ぐ朱を眺め、雪・ウーヴェイル・サツキガハラは動かし続けていた筆を止めた。しとしとと降る雨は止め処なく、虚ろな白い花を濡らし続ける。 筆をおいて、軒先に目を向ける。 『スウ』 ――名を呼ぶ声が、聴こえたから。 雨のノイズに紛れて、愛しい彼らの声が雪の鼓膜を叩く。 朱色の雨のスクリーンは、初めに懐かしい同胞たちの幻影を彼へと見せた。 厳格ながらも情深い、敬愛する王の後姿。 この命をかけて守ると決めた、広く豊かな背中。 思わず追いかけようと立ち上がりかけて、すぐにそれが幻である事に気付いて足を止める。――譬え幻であっても、ただ遠くから眺めていられるだけで、雪はこの上もなく幸福だった。 立ち去る王と入れ替わりに、親友にして上官の、信ずると決めた男の姿が、雨の中に現れた。 「ジーン」 名を呼べば、磊落な、雪への惜しみない信頼と親愛だけを湛えた笑みが返る。――久しく目にしていなかったその表情に、黄金の瞳を見開かせて、魅入られる。 やはり、彼にはその笑みが似合う、と、そう思った。 移り変わる情景。懐かしい笑みと、賑やかな生活と、峻烈ないくさの日々。 そこにあるのは、壮大な王国と、かけがえのない時間。 「……そうだな、私は幸せだった」 独り言めいてそう呟けば、スクリーンの中の彼らは笑みを返してくれた。含むものの何もない、美しい笑みと、優しい眼差し。ロイヤルへヴンの愛しくも懐かしい景色。それらを護りたくて、雪は剣を揮い続けた。王の為に。仲間の為に。――そして、その命さえも差し出して。 一連の事件は王国に、親友に、そして彼自身にも深い深い翳りを落としたが、雪には憎悪の心など端からない。 なぜなら彼は――。 「今でも、充分幸せだとも」 薄れゆく雨幕の中で、親友の磊落な笑顔が、ふと揺らいだ気がした。 『スウ』 名を呼んだ声が誰のものか、彼にはよく判っている。 『―― 』 雨のノイズと共に消えていく、微かな声の意味も。 ざぁざぁと、音が伝う。 雨は未だ止む事を知らず、世界を朱色に沈めている。 過去の光景を映す事のない、ただの雫へと戻ったそれを見つめながら、雪はふと視線を鋭くした。 「……歪んでいるのは何だ?」 世界司書が感じたという、この島への違和感。 狂っている、と断じた、その根源。 その正体を明らかにしたいと考え込む雪の傍らで、枕に取りついてまどろんでいたゼロがふと目を覚まし、起き上がった。 「ゼロは思うのです」 おもむろに口を開いた少女の言葉に、雪は無言で耳を傾ける。 「『あの世』が非物質的な物ではなく、稀に血肉を持った生者が入り込むこともある異界として描写された伝承は、壱番世界でも見かけられるのです」 独り言めいてささやかな語り口は、降り注ぐ雨に打たれて消えてしまいそうなほどに微かで、恐らくは傍らの雪にしか聴こえていなかっただろう。 「朱昏はあの世とこの世が海で隔てられた世界であり、故に龍王は渡海を禁忌としたのかも、なのです」 動揺に、ぱしゃり、と墨が跳ねる。 軒先に散った白い斑は幸いにも、雪の描いている図柄を侵食する事はなかった。 「……つまり、きみが言いたいのは」 振り返れば、眠たげな少女の銀の眼が彼を見上げている。 「――此処が、死者の国だ、と」 「あくまでゼロの憶測なのです。違和感は此岸の住人がそのままで死者の国にいる不自然に起因、旅人たちが往来を許されるのは世界の理から外れているが故なのかもです」 随分と大胆な発想だ。 だが、霊魂や万物の意志に近しい所に居るヨリシロの彼にとって、その仮説を笑い話と一蹴することはできなかった。 「……だが、それを歪みと呼ぶのだとして」 人の心を、想いを、そして大地に充ちる霊魂の威を尊ぶ雪は、静謐の雨が落ちる合間にひとりごちる。 朱色のスクリーンは最早、彼に愛する者たちの幻影を見せてくれることはないけれど、雪にはとても、それが悪意から成る現象であったようには思えなかった。 「過ちだとも、狂っているとも言えまい。ましてや愛せぬものでもないだろう」 この、美しい島の在り方も。 それもまた、この世界の摂理なのだ。 朱色の雨に身を曝し、白い装束を朱に染める女が、庭先に姿を見せた。 この家の主たる祝女は、客人に視線を向けて笑みを送る。二人の旅人もまた軒先を借りる礼を籠め、頭を下げた。 女はそのまま庭から軒先へとやってきて、何かを言いたげな雪に目配せをした。 「何か、御質問があればお答えしますけれど」 「質問と言うほどのことでもない」 雪は苦笑して肩を竦め、己が胸に掌を当てた。 「私もまた、カミや魂に触れる事を根本とするもの」 ヨリシロとしての矜持を高く持つ雪にとって、目の前に佇む白装束の女は同族とも言える存在だ。異郷の神にその身を捧げ、慎ましやかに暮らす彼女たちの在り方へ、敬意すら抱いている。 ひたと、その瞳の奥を覗き込む。 漆黒に見えた女の目は、光に透かせば深く、とろりと融けるような暗紅色へと変じた。極上の柘榴に似た色彩。 「あなたには、私と違うものが見えているのだろうか」 闇夜に一滴の朱を溶かし込んだような、その瞳が見護るモノを。 見てみたい、と、異世界のヨリシロはそう思った。 「この地で最もカミ――神威の充ちる場所を教えてほしい」 雨が上がった後、其処へ行かねばならぬと。 全てを呑み込むように降り注ぐ朱を見上げ、雪は静かに頭を下げた。 女は嫣然と微笑んだまま、雪の礼に合わせてしなやかな会釈を返した。 ふわりと風に撓んだ小袖から、図柄の蝶が滑り落ちる。悪戯に舞った紫の蝶は雪の傍へとやってきて、淡い光を纏って若い娘の姿へと変じる。 笠に飾った朱藤の花を揺らして、小柄な娘は興味深そうに異邦の旅人を見上げる。 「 。御案内を」 祝女が娘の名を呼ぶ、その言葉は誰の耳にも捉えられなかった。 ◇ 海岸線をぐるりと一周し、停泊しているのは日向から来た船一艘だけである事を確認すると、ヴィヴァーシュは女から借りた傘をくるりと回し、濡れた砂浜を踏み締めた。朱色の粒に撃たれた砂が、きゅ、と靴底で鳴く。 ふと、船の近くに人影を見とめて、ヴィヴァーシュは静かに緑の隻眼を細めた。 近付く旅人の気配を悟り、人影が振り返る。 「あんたは……」 陽に焼けて精悍な顔つきが、困ったような笑みを燈す。人間らしいその表情に、島の住民とは違う何かを見る。 ヴィヴァーシュは傘の下で、軽く会釈を返す。 「行きに手伝ってくれた傭兵、の、仲間か」 「そんな所です」 何故ロストナンバーが船も使わずこの島を行き来できるか、といった疑問は彼らの中にはないようだった。ヴィヴァーシュが肯定すれば、それだけで納得を示す。 「何故、ここへ?」 簡潔にそう問えば、やはり笑って男は船を振り仰いだ。ざァざァと落ちる雨に遮られながら、朱色に翳む船はしかし、来た時と同じ姿で波間に揺られている。 「日に一度は見に来る。……これが無くなってしまえば、俺たちは本当に帰れなくなるから」 「――帰る事をまだ諦めてはいない、と」 「息子を見つけたよ」 ヴィヴァーシュの言葉には応える事なく、男は話題をふと移した。首にかけていた紐を外し、銀細工のペンダントを彼へと差し出す。 繊細な白い指先が受け取った、それは小さなロケットだった。 小さく音を立てて開けば、そこには色褪せた少年の写真が収められている。 「この子が?」 「俺と嫁の、たった一人の子供だ。嫁はもともと体が弱くてな、そいつを産んで、それっきりだ。……俺も嫁も、それは大事に育てたよ」 「……その息子さんは、どうされたのですか」 言葉の端々に用いられる過去形を疑問に思い、そう問い重ねれば、男は笑って肩を揺らした。 「五年前、どうしてもってねだるあいつを漁に連れていったんだ」 男は日向の港で漁師を生業としていたらしい。龍王の坐す大河から遠く離れた大陸の端に位置する日向の街では、以前から近海の漁業も禁じられていなかった。海の男らしい精悍な体つきと、朗らかな顔つきはそこで培われたもののようだった。 そんな男の生活をすぐ傍で見つめていた息子もまた、海に憧れを抱いた。 「そしたら、帰る段になって突然の大嵐だ。龍王さんの怒りだって村のじーさんばーさんは言ったな」 「……荒海に、飲み込まれたのですね」 「皆、死んだと思った。俺も思っていた」 男の目は、船の向こう、遠く広がる蒼い海原へと向けられている。この島に来るまでの五年間、ずっとこうして海に消えた息子の行方を見つめ続けていたのだと判る、諦めと期待の滲む視線だった。 「但馬氏が《理想郷》への船に乗る者を募り始めたのはその頃だった」 男は一も二もなく乗り込んだ。理想郷の伝承に、一縷の望みをかけて。 そして、流れついたこの島で、男は生きた息子の姿を見たのだと言う。 「……だが、あいつは何も覚えていなかった。名前も違うし、何より五年も経ってるのに居なくなったそのままの姿で――あれが本当に幸輔なのか、情けないことだが、俺にももう判らない」 茫然とそう語る背は、初めに見かけたときよりも、小さく、弱弱しく見えた。 ◇ 初めにロストレイルの停泊した入江へ足を向ければ、そこには既に二人の旅人がヴィヴァーシュを待っていた。 ぺこりとお辞儀をしたゼロに、軽い会釈で応える。 彼らの元へ歩み寄って、ヴィヴァーシュは既に必要のなくなった傘を閉じた。 「皆さんお揃いで」 コバルトブルーの色彩を湛え、光を透過し屈折させ弾き返す美しい海に視線を吸い寄せられながら、ひとつ声をかける。隻眼をゆるりと巡らせて、海から入り江の岸壁、足元の硬い岩肌、そして彼らの頭上に聳え立つ巨大な樹までもを視界に収めた。 「雪さんが剣舞を見せてくださるそうなのです」 ゼロは相変わらずの茫洋とした表情のまま、それでもどこか高揚とした声でそう語った。異世界の文化に触れる機会だ、と彼女の中の好奇心――のようなものが疼いているのかもしれない。 対する雪は無言のまま、深く頭を下げる。 腰に佩いた太刀が存在を主張するように鍔鳴り、また甲冑の鋼鉄がそれに呼応するように重く鳴く。狼を象った銀の胸当てが勇壮な、異国の文化を織り交ぜたようなその武装は、東洋風の外見ながら騎士然とした佇まいの彼によく似合いだと思わせた。 「カミオロシを行う」 「カミオロシ、とは」 鸚鵡返しに聞き返すヴィヴァーシュへ、雪は太刀を己が両手で掲げて見せる。 「剣舞により、霊的空間を創り上げてカミ――神威を降ろす。それにより、この島の謎の片鱗でも見えないかと思ってな」 要は奉納舞のようなものだ、と簡潔に締め括り、黄金のアーモンドアイズを祝女と、その使いの妖へと向ける。 「だから、島で最も神威の集う場所へ連れてきてもらった」 「此の地では樹木に霊威(セジ)が宿ります」 祝女の白い指先が、濃朱の珊瑚を指し示し、そして天空へと滑る。 「それがあなたの見るカミか」 「ええ」 長い路を埋め尽くすように咲く業火の花も、曇天を避けて咲く白い空木の花も、全てがこの島に置いては神聖な存在なのだと知り、雪は得心したように頷く。初めてこの地を訪れ、空木の樹下で足を止めた理由が、今ならよく判る。此の地の者にとり、その場所は真実《神域》だったのだろう。 「そして、此の島で最も霊威を持つのが彼の樹です」 熟した柘榴の色彩の瞳が、三人の背後に聳える珊瑚の樹を見据えている。 三人はそれを追って振り返り、奇妙な形にねじれながら天を目指す、朱色の生物とも植物ともつかぬ樹をめいめいに見上げた。暖かな海中にのみ生息するはずの生物が大気中に顔を出している違和感はあれど、南国の鮮やかな蒼穹と紺碧の海には美しく映える。 「あの樹の名は」 「雨流(ウル)と」 名の通り、島に降る朱の雨が大地に沁み込み、流れ込む場所に佇む樹。それらを吸い上げて咲き誇る濃朱の色彩。 「珊瑚は植物ではなく生物ですが……彼の樹も、生きているのでしょうか」 「儀莱に根差す、全ての樹木は生きております」 ヴィヴァーシュの推測めいた独り言を聞き逃さず、祝女は静かに訂正する。凪のように微笑み、誇るように口ずさんだそれは生態系としての“生”ではなく、また違う意味を持っているようにも聴こえた。 ゼロは緩やかに首を傾げる。 「謎がひとつ解けたかと思えば、またひとつ増えてしまったのです」 「一度に全て暴かなければならないものでもないだろう」 そういって微笑み、雪は一枚の和紙を取りだした。 闇を模した漆黒の紙上を、白墨で描かれた蛇龍が己の尾を加えて円を作っている。 雪はそれを珊瑚の樹の根元に置いて、岩肌の中央に佇んでひとつ剣礼を送った。 そして、おもむろに太刀の鞘を払う。 切先が、光を映して青く煌めく。 一閃、真横に振り抜く。 ゆったりとした動きながら、鋭く凛とした太刀捌き。空を切り裂いて、生み出された風が雪の長い髪を躍らせる。鋼の色は青く黒く、揮われる度に煌々と光の軌跡を描く。騎士の瞳が黄金の光を燈す、その色彩さえも岩肌の上に鮮やかに煌めいていた。 甲冑の鳴る音と、踵で大地を踏み締める強い音が、同時に鳴り響く。雷鳴のように大気を揺らして、音は弓弦の如くに場の霊気を引き絞った。 異変は、すぐに始まった。 朱の色彩が、視界に鏤められる。 「……これは」 「雪、なのです?」 二人の旅人が、思わず頭上を振り仰ぐ。 ちらちらと、ひらひらと、大気中を緩やかに舞い交うそれは――岩肌の上を凛冽に舞う男と同じ文字を持つ、現象によく似ている。朱色の細かな粒子が宙を滑り、昇って、落ちる。しかしゼロが掌を差し伸べてそれを受け止めようとしても、それは掌を通り抜けてしまった。幻影の雪。 祝女を横目で窺ってみても、熟れた柘榴の瞳は柔らかな光を湛え、騎士の剣舞を見守るだけだった。 黄金の瞳が、虚空を滑る。 ヨリシロの目が、この地の大いなる意志を、記憶を捉えた。 身を翻した仕種で目を向けた仲間たちもまた、彼の見ている“何か”の存在を捉えているようだった。精霊術師の怜悧な隻眼は入り江の内側を、不条理な美少女の輝く瞳は海の彼方を、それぞれぼうやりと見つめている。 珊瑚の樹と朱の雪めいたものが降り注ぐ中、何かが入江から沖へと流されていく。幻想の光景の中、祝女と、幾人かの村人だけがそれを見つめていた。 儀式めかせて荘厳な気配の中、流されていくのは人。 力の抜け、眠るような表情の――骸が、水面を滑って行く。虚ろな花と業火の華を胸に乗せて。 (――噫) 言葉の代わりに、胸の内だけで感嘆を零す。 (何処へ逝く。何処へ) 骸は海へと漕ぎ出して、珊瑚の樹が見守る中を静かに、静かに、沈んでいく。死者の身を母なる海が受け容れる。慈悲深い祝女の目が、それを見つめている。 追いかけて抱きしめてやりたい、とそう希うのは、この地に宿る意志が持つ、“命”そのものへの情深さ故か。 しかし、そこに別離への哀しみはない。 不思議に思えるほどに、静かで、優しい感情が場を充たしている。 まるで、祝福にも似た何かが。 (……還るのか。また、輪廻の中に) ――それは、終わりではなく、始まりの儀式。 強い巫子気を持った雪の瞳には、そう映った。 幻影の雪と、凛冽なる剣舞が、海へと還る命を見送り続ける。
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