0世界の空に姿をあらわした威容――庭園都市ナラゴニアの姿に、ターミナルは騒然となった。 恐慌に陥ったと言ってもよい。 それは世界図書館の中枢とて例外ではなく……むしろ、この世界のすべてを背負う責任があるがゆえ、いっそう深刻であった。「状況は」「図書館内にいた司書は全員ホールに。町のほうではもう戦いが始まってる。みんなが応戦してくれてるけど……」 美しいおもてを厳しく引き締めたレディ・カリスの問いに、アリッサは青ざめた面持ちで応えた。「妖精郷、ネモの湖畔、エメラルド・キャッスルとは連絡がとれないわ」「どうだっていいのです、あんな人たちのことは」 ぴしゃり、とレディ・カリスは言ってのけた。「戦いが終わるまでチェンバーに閉じこもっていれば安全だと、そう思っているのでしょう。何百年でも閉じこもっているつもりだわ。なんて恥知らずな」 カリスの瞳には、思いのほか峻烈な炎が宿っていた。「エヴァおばさま……」「アリッサ」 レディ・カリスは、アリッサの手を握った。「これもまた私たちの罪。こうした事態も、予測し、覚悟しておくべきだったの。……気をしっかりもって。必ず乗り越えられます。だからここは任せます。館長の貴女に」「え? おばさま……?」「私はこれより、アーカイヴ深層へ向かいます」 はっ、とアリッサは息を呑んだ。「この事態を覆すには、チャイ=ブレの覚醒を促すよりありません。うまくゆけば、それですべて片付く」「……」 しばし、ふたりは無言で見つめ合った。 そして、アリッサはそっと頷く。「……では、お願いします。どうか――どうかお気をつけて、レディ・カリス」 ターミナルの地下によこたわる、壮大な多層構造の遺跡『アーカイヴ』。 その奥底には、0世界の根源にして支配者たるチャイ=ブレがまどろんでいる。 レディ・カリスはかの存在を覚醒させ、事態の打開をはかるつもりでいいた。0世界の支配者であるチャイ=ブレが、0世界を侵略しつつある世界樹を許すはずもない。かのものの圧倒的なパワーは、世界樹旅団を一掃してくれるかもしれない。 だが同時に、チャイ=ブレは眠りを妨げるものに対しても容赦がない。 それは理不尽に思えるが、人の倫理や常識などは超越した存在なのだ。 それゆえ、かの存在と契約した『ファミリー』当事者でさえ、チャイ=ブレとの接触は最小限に保ってきた。従って、レディ・カリスの行いは非常な危険を孕むものだと言える。世界群に君臨する神のごとき存在であるチャイ=ブレは、足元をうろつく蟻を潰すことに何の注意も払わないだろうから。 レディ・カリスは、その扉の前に立った。 その先から、ターミナルの地下深くへと降りてゆくことができる。 彼女はそっと振り返り、そこにロストナンバーたちの姿をみとめた。「あれを見たいなら一緒に来なさい。私たちが愚かな過ちゆえに仕えることになった虚ろな神の姿を。ただし、何が起こっても責任は持てませんよ」======!注意!イベントシナリオ群『進撃のナラゴニア』について、以下のように参加のルールを定めさせていただきます。(0)パーソナルイベント『虹の妖精郷へ潜入せよ:第2ターン』および企画シナリオ『ナレンシフ強奪計画ファイナル~温泉ゼリーの下見仕立て観光風味~』にご参加の方は、参加できません。(1)抽選エントリーは、1キャラクターにつき、すべての通常シナリオ・パーティシナリオの中からいずれか1つのみ、エントリーできます。(2)通常シナリオへの参加は1キャラクターにつき1本のみで、通常シナリオに参加する方は、パーティシナリオには参加できません。(3)パーティシナリオには複数本参加していただいて構いません(抽選エントリーできるのは1つだけです。抽選後の空席は自由に参加できます。通常シナリオに参加した人は参加できません)。※誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。======
1 「急いだほうがよさそうですね」 レディ・カリスは、三ツ屋緑郎の話を聞くと、そっと眉を寄せた。 「やっぱり、ババア――おっと、ダイアナさんの行く先も?」 「間違いなくアーカイヴ深層でしょう。ですが幸いなのは、深層への直接の転移は誰にも不可能です。ダイアナ卿もアーカイヴ上層のどこかまでしか飛ぶことができない。ロストナンバーの追っ手もいるでしょうから……」 「先にたどりつけばいい、そうですね」 「ええ」 「ふむ。こりゃ寝ている場合ではないでござる」 と、チャルネジェロネ・ヴェルデネーロ。 レディ・カリスは、4名のロストナンバーをともなって、扉をくぐった。 小さな小部屋――に見えたそれはクラシカルな昇降機である。 チャルネジェロネが、ほかのものに場所をゆずるように隅にとぐろを巻いた。 カリスが操作盤にふれると、長年使用されていなかったのか、ガラガラと耳障りな音を立ててそれが降りはじめた。 ターミナルの足の下……地下深く、深くへと。 「ダイアナさんはアーカイヴで何をするつもりなの」 緑郎は問うた。 チャルネジェロネが神秘的な藍の瞳をカリスへ向ける。あとのものたち――由良久秀とジュリエッタ・凛・アヴェルリーノにとっても、それは聞きたいことだったようで、皆が無言で答えを待った。 「正確にはわかりません。かの方は『ファミリー』のなかで、儀式をつかさどる巫女のような存在でした。本来なら此度のような場合も、ダイアナ卿の力を借りればスムーズなのです」 「でもそうはしなかったのじゃろう?」 と、ジュリエッタ。 「妖精郷の思惑については、私もロバート卿も把握していないのです。『真なる契約』を超えた、なにかの企みをもっているだろうことは、私とロバートの間でも意見は一致していたのだけれど」 「じゃが、チャイ=ブレ殿に会うことは危険をともなう。そうじゃな?」 「……」 「のう、カリス殿……。『ファミリー』のことはよくは知らぬのじゃが。ロストメモリー殿達は、確かチャイ=ブレ殿と契約して存在できるのじゃな。記憶を引換として。……ではこたびの覚醒とやらも、何かを犠牲にせねばならぬのか? どうか、早まったことをしないでほしいのじゃ」 「ターミナルの危機であってもですか?」 「それは同じことじゃ」 ジュリエッタは微笑んだ。 「ターミナルの皆は大事。しかし、カリス殿のことも大事じゃ。また美味しいレモンティーをご馳走せねばならぬからな?」 「バンビーナ」 カリスはジュリエッタにそう呼びかけた。 「あなたはそう言ってくれるのね。けれど、私たちにそんな資格などないのです」 「何を言うのじゃ」 ジュリエッタが息巻いても、レディ・カリスはそれ以上は答えないつもりのようだ。 「僕もだ」 ぽつり、と緑郎が言う。 「……アリッサにはまだ貴女が必要だから。……ヘンリーさんのことは、その――」 「良いのです。ヘンリーの処遇については私の失策もありました。アリッサを過保護にしなければ、エドマンドを追放しなくても済んだかもしれなかった。私はそれをあの娘に謝らなくては」 「……」 「……で。チャイ=ブレが目覚めたらどうなるというんだ」 沈黙が降りた昇降機のなかで、次に口を開いたのは由良だった。 「ナラゴニアとやらをぶっつぶしてくれて一件落着か? ……ここに至って神頼みとは」 「神とはそのようなものなのかもしれぬ」 おっとりと、チャルネジェロネが言った。 「かのものは、いつも眠っておるとか。たしかに微睡むは気持ちいいでござるが……何故、眠っているでござるか。拙者の場合は『常に魔力溢れておって、それで疲れて寝てる』という理由があるでござるが」 「通常の生物でいう眠りと同じものかはわかりません。……活動する必要がないからでしょう」 「ふむ。そうでござるか」 どれくらい降りたのだろう。 昇降機がついに停止し、ドアが開いた。 石造りの道だ。灯火の類は見当たらないのに、石材自体がうっすらと燐光のようなものを放っていて、困ることはなかった。 パシャ、と炊かれたフラッシュに、一同ははっと振り向く。由良が写真を撮ったのだ。 「撮影禁止か?」 「……いいえ」 「それでは記念写真じゃ。アーカイヴ遺跡など、めったに来られんからのう! さ、さ、緑郎殿も、チャル殿も!」 ジュリエッタがつとめて明るく提案した。 由良は三脚を持っていなかったので一緒に収まれと言われなかったことに安堵しつつ、レディ・カリスを中心に、一同を写真に撮るのだった。 2 「おや」 ジュリエッタが床にかがんで、それを拾った。ナレッジキューブだった。 「セクタンが落として行ったのでしょう」 と、レディ・カリス。 「チャイ=ブレ殿は寂しいのかのう?」 拾ったキューブをてのひらに乗せ、ジュリエッタは言った。 「ここには皆の記憶を集めて蓄えてあるのじゃろ? また良き趣味じゃな」 ジュリエッタがそう言うと、古い切手でも集めているのと大差なく聞こえた。 「知恵を蓄えて、それでなんとするのでござろうか」 「ただそういう性質だとしか」 「何故、そのような者がここに存在するのかが、一番の疑問でござる」 「逆です。最初にチャイ=ブレがあった。アーカイヴも0世界も、あとから造られたのです。さあ、行きますよ。間に合えばいいのですが」 レディ・カリスに続いてくぐり戸を抜ける。 そこは……目もくらむような巨大な空間だった。 天井は見えない。星のようなきらめきが見えるが、地下なのだから星ではないはずだ。それとも投影された映像なのか……判別するすべはない。 優に町ひとつぶんは入りそうな空間だ。 その空間の下へと、戸口から、石の階段が、長大な螺旋を描きながら下っているのだ。そしてその下には…… 「おお」 「なんと」 「あれが」 「……」 4人は息を呑む。 螺旋の道の先はかなり下方で、相当な距離がある。だから、ここから見えるあれは、想像以上の大きさだと言えるだろう。 よこたわるその姿は小山のようで、灰色とも紫ともつかぬ色合いは、岩肌のようにも粘菌のようにも皮を剥かれた鳥のようにも見えた。 「気味が悪い」 由良が率直な感想を述べた。 すたすたと下りはじめるレディ・カリス。4人は続くしかないが、足を踏み外したらこの奈落にまっさかさま。そう思うとくらくらしてくるが、その奈落の底にいるものの姿が、由良の中になにか本能的とも言える嫌悪感を抱かせていた。 「何だアレは。ワームやファージとどう違うんだ」 「違いませんよ」 「…………なんだと」 あっさりと答えたレディ・カリスの言葉に、一同はぎょっとする。 「どういう意味だ」 「言葉どおりの意味です。『イグシスト』。そう呼ぶものもいるようですね。いずれの世界にも属さぬ『ただ存在するもの』。それがまれに、あの虚無の中に生まれることがある」 「ディラックの落とし子……! チャイ=ブレって、ディラックの落とし子なの!?」 そんな予測がなかったわけでもないが、はっきり認められてしまうと驚かざるをえず、緑郎は声をあげたが、なの、なの、なの――と、思いもかけず、声が響いて、あわてて口をつぐんだ。 「ディラックの落とし子はいかなる世界にも属さない。しかしごくまれに、強大なパワーを得た個体が、おのれの世界を獲得すると考えられているのです。それがチャイ=ブレであり……『世界樹』であるのでしょう」 「本当にアレを起こしていいのか」 呻くように、由良が言った。 「起こさなければ、『世界樹』が0世界を吸収する。世界樹旅団の軍門に下るならそれもいいでしょうけれど」 「なんてことだ」 吐き気を、由良は隠そうともしない。 今まで、こんなものを足元に飼っていたのか。 いや、飼われていたのか。その背のうえで。 「そうでござったか。ならば真の意味で、世界図書館と世界樹旅団は兄弟のようなものでござるな」 とチャルネジェロネ。 チャイ=ブレはロストナンバーを世界群に派遣して情報を収集する。 世界樹は狙った世界を直接侵食し、吸収する。 いうなれば、農耕と狩猟の違いだ。 「あのようにパワフルに成長する個体は稀なのです。限りなく0に近い可能性。だから、世界樹とチャイ=ブレというふたつの存在が遭遇するなど、ありえないはずだった。おそらく数万年――いえ、数億年に一度の邂逅だったのかも。世界樹が『ディラックの空を旅する存在』であったことが大きな理由でしょうね」 「あれと世界樹を戦わせるつもりなんだな。本当に……そんなことをしていいのか?」 由良は食い下がった。 これは禁忌だ。彼の直感が告げていた。 「由良殿。とにかく今はカリス殿をお連れしよう。あそこに着いたら、詳しいことを話してくれるかの?」 ジュリエッタが仲裁する。 「あなたたちは、あれが危険な存在だとわかっていて……それでもやむなく、あれを制御してきたんだ。この200年……ある意味で、僕たちは護られていた……?」 緑郎が言った。 (『ファミリー』は秘密主義で信用できないって……そう思って……だから追従したくなかった。この人たちは本当は敵だって思ってたけど……) レディ・カリスは罪がある、と言った。 チャイ=ブレと契約して、世界図書館を生み出してしまったことが罪だとしても、それにより救われ、護られてきたものも数多くあるのではないか。『ファミリー』たちに罪があったとしても、かれら自身、失ったものがあり、かれらにしかわからない懊悩があったのだとしたら――。 「む。あれはなんでござるかな」 チャルネジェロネが鎌首をもたげて声を発した。 奈落をくだる螺旋の道はふたつあった。 一行が降りてきた場所とは別の場所からのびるもうひとつの螺旋階段が、互いにまじわることなく同じ空間を下っている、二重螺旋の構造なのだ。 その、もうひとつの螺旋の道に、動くものをみとめたのだ。 「セクタンかしら」 「いや、違うぞ」 由良が望遠レンズをのぞいて言った。 「人だ。遠すぎるが……3人か、4人だ」 「妖精郷の人たちかも」 「急ぎましょう」 まるでシンデレラのように、スカートをつまみあげて、レディ・カリスは階段を足早に下りる。 「ふたりは僕がひきつける」 緑郎が言った。 「ダイアナ卿は、もはや誰も信用しませんよ」 「わかってる。リチャードさんだね」 「あの方は哀れな方なのです。裸の王様に過ぎません」 螺旋の道を、下へ、下へ。 降下するほどに、その存在が間近になってくる。 遠目にはずんぐりとした芋虫のように見えたその巨躯が、到底それを支えられるとは思えない、ひどく細い(それでも人間以上の大きさはありそうな)脚のようなものをそなえているのが見てとれた。そしてその背が緑に覆われていることもわかった。遠くからは苔むしたように見えたが、大きさからすれば、実質、森だろう。 「ここからいきます」 螺旋階段は、踊り場のような場所にさしかかる。 「ここ、から?」 階段はまだ下っているが、レディ・カリスは踊り場から虚空に足を踏み出すではないか。 あっと思ったのもつかの間、音もなく、その足のしたに滑り込んできた、石の立方体に彼女は乗る。それがすうっと空間を渡っていく。 「おお、ベンリじゃのう」 ジュリエッタが続いた。 「高所恐怖症じゃなくてよかった!」 「ふうむ。面白いしくみでござる」 「……来るんじゃなかった」 見れば、奈落の空間には、どういう原理でか、そうやって浮かんでいる石がいくつもあるのだった。 眼前に、「山」が……いや、チャイ=ブレが近づいてきた。 3 降り立った場所は、チャイ=ブレの“背”だ。 由良は露骨に顔をしかめたが、予想したような、やわらかな生物の皮膚のうえに降りた感触はなかった。足元は地面とかわらない。厚い地衣類に覆われているようだ。 そして周囲には、樹木らしきものが生い茂っている。 どこかの山間としか思えなかった。 下生えを掻き分けて、レディ・カリスが勇ましく進む。うっすらとある獣道を、彼女は把握しているようだった。 「人の声だ。誰かいるでござるな。地形は拙者向きの様子。回り込むでござるよ」 チャルネジェロネがするすると茂みの中に姿を消す。水を得た魚のように、茂みに潜む蛇となったのだ。 ジュリエッタは、前方にひときわ高いふたつの梢を見る。遠目に、なにかきらきらするものが見えた。 「ダイアナ卿!」 レディ・カリスは叫びながら飛び出す。 そして、はっと立ちすくんだ。 緑郎たちは見る。そこは、広場のようだった。木々の取り囲まれた円形の草地だ。その中央に、古びた石の祭壇のようなものがしつらえられている。祭壇を挟むようにして、大きな樹木がふたつ、立っている。 かさかさ、かさかさ――葉をゆらし、絶え間なく、その枝から、きらめくものが降り注ぐ。 一方の樹からはセクタンが。 色とりどりのゼリーたちは、地面に落ちるや、小さな脚をかさこそと動かして、さあっと周囲の緒茂みの中へ消えてゆく。 もう一方の樹からはナレッジキューブが。 セクタンが拾って、せっせとどこかへ運んでいるようだ。 セクタンを生み出すものは生命の樹。ナレッジキューブを生み出すものは知恵の樹である。 これこそ0世界の根源。 その場所に、ダイアナ・ベイフルックは静かにたたずんでいた。 「エヴァ」 レディ・カリスに、にっこりと微笑みかける。 ダイアナの傍らに一人の踊り子めいた女がいる。カンタレラというツーリストだ。 そして、少し離れてリチャードがおり、少女のコンダクター、青海 棗が、リチャードにトラベルギアを突きつけていた。 「ご覧なさい。これがロストナンバーです」 状況が飲み込めないでいるカリスたちに、ダイアナは語った。 「このカンタレラはわたくしに仕えたいと言うのです。そこの娘は、チャイ=ブレから魔法を授かりたい、と」 そのとき、ふわりと、ダイアナの肩のうえに『猫』があらわれた。彼女はそのささやきに耳を傾ける。 「妖精郷が略奪されているようですね。ナレッジキューブをもとめて、わたくしたちの城にあさましく押し入ったものがいる様子。……どうです、エヴァ。これがロストナンバーです。所詮、自分の求めるもの意外に、何の関心も抱かない」 「……そのような議論をしている場合ではありません、ダイアナ卿。私はチャイ=ブレの力により、『世界樹』の侵攻を止めるために来ました」 「わたくしもそれは同じですよ」 「では、儀式をはじめましょう」 ふふふ、とダイアナは笑った。 緑郎は慎重に、隙を探している。リチャードにうまく取り入るつもりだったが、棗に人質にとられていては手出しができない。なぜこんなことになったのかわからないが……。 ジュリエッタも同じだ。とにかく今は、とっさにでもカリスを護れるよう、その傍に立つ。 由良は誰にも気付かれぬように、すこしずつ後ずさっている。機を見て逃げ出すつもりだ。 「どうします、棗さん? リチャードを放しては下さらない?」 「……」 「それとも、あなたもロストナンバーらしく、『ファミリー』のことにも、世界群のことにも興味はなくて? ターミナルが滅ぼされるかもしれないこのときでさえ、魔法が欲しい、そう言っていたあなたですものね。わたくしは、責めてはいませんよ。わたくしは……あなたの願いをかなえてあげることもできるのだから」 「聞いてはだめ!」 カリスが叫んだ。 棗は表情を変えない。 そのときだった。 「やっべー。やっべーよ。道迷いまくり! なんか見たことあるとこ出たなーって思ったらチャイ=ブレじゃん! やっべーよ。あれっ、なつめちゃん、何してんの?」 虎部 隆だ。 突然、茂みからあらわれた男に、全員の意識がそれた。 瞬間――、 「小娘が! わしを誰と心得る!」 リチャードが、棗の腕をねじりあげた。あっ、と声をあげてギアをとりおとした棗へ、リチャードは杖を振り下ろした。 だが棗はすばやくギアを拾うと、ホース部分で杖を受け止める。そして先端から水を噴射! リチャードの大きな身体が、吹き飛んだ。 「おじいちゃま!」 緑郎が(リチャード以外にはいくぶん白々しく聞こえたかもしれないが)渾身の演技とともに彼に駆け寄る。 「カンタレラ!」 ダイアナが鋭く叫んだ。 カンタレラは――状況に戸惑うばかりであったが、断固とした命令の声が、「命ぜられるもの」である彼女をほぼ自動的に動かした。瞬時にあるじの意を解して、彼女は緑郎を阻んだ。 レディ・カリスはこれから起こることを理解したが、動きがついてゆかなかった。 カリスが動かないので、ジュリエッタはそこにいるしかなかった。 棗はそこに立ち尽くしていた。 隆は、なんか俺、まずいことした?みたいな顔だった。 今だ!と由良は一目散に逃げ出そう――として、動かなかった。彼もまた、今から起こることを察知したからだ。 ダイアナが滑るような動きで、リチャードに近づいた。 棗に吹き飛ばされ、リチャードは石の祭壇のすぐそばに倒れていた。ダイアナは……200年以上、彼に添うていた妻は、夫の胸に馬乗りになった。 「ダ、ダイアナ」 「せめて鍵となれたことを誇りに思うがいいわ」 いつもそのおもてにあった笑みはなく、冷え切った瞳が見下ろしている。 「ダ――」 「さようなら」 ダイアナの手に、まがまがしい形状のナイフが握られていた。ためらいなく、彼女はその刃で、リチャードの喉を掻き切った。 鮮血が噴出し、祭壇を赤く染めた。 「『契約者の血によりて目覚めよ』」 高らかに、 「『聖餐を夢みてまどろむもの。今こそ時は来たれり――! イア! チャイ=ブレ!』」 彼女は宣り……それに応えて、天地が、揺れた。 4 「ダイアナ卿ッ!」 血を吐くような、カリスの声。 「話が違います! まだ……今はまだその時では……『聖餐の到来』ではありませんッ!」 「おほほほほほほほほ!」 答は哄笑だった。 「なにを護ろうというの、エヴァ? この愚かで身勝手なロストナンバーたち? それともまだおのれを取り繕うつもりなの? わたしは全うします。わたしたちの罪を最後まで完成させるのです……!」 轟音――そして、激しい振動。 「カリス殿!」 レディ・カリスが倒れるのを、ジュリエッタが助ける。失神したようだ。 「ババア!」 はばかることなく、緑郎は叫んだ。動き出す彼の足をすくう振動。地震……? いや、違う――、忘れたか、ここがどこかを。チャイ=ブレの背中の上だ……! 「ひ~、なんかやばくなってる感じ……!?」 虎部隆は、とりあえず、棗に駆け寄り、手をとった。 「おい、なつめちゃん! 平気か!」 「……私……」 かぶりを振る。 「とにかく逃げようぜ! って、どこへ逃げたら……、おっ、おおおお!?」 ふたりは、自分の身体が宙に浮き上がるのを感じる。 ふたりだけではなかった。重力が消失してゆく! 「ダ、ダイアナさま!」 カンタレラは空中でばたばたともがいたが、なにがどう違うのか、ダイアナがすい、とまっすぐに上昇してゆくのに追いつけない。 「ダイアナさまーーー!」 声を限りに呼ばわったが、ダイアナが彼女を省みることはなかった。 冷たいものが、彼女の心臓をとらえる。この感じは知っている。私は必要ではない、ということだ――。 「お~い。大丈夫でござるか~」 どこかのんびりした声で、チャルネジェロネが、うねうねと空中を泳いできた。 「チャルさん、ダイアナを追える!?」 緑郎が、その身体にしがみつく。 「う~む。あたりの魔力だの精霊だのの気配がめちゃくちゃでござる。難しいでござるよ。ここから早く離れたほうが……むうう!?」 爆発的な、なにかの力の奔流が、かれらを押し流す。 重力が一気に反転したかのようだ。 一瞬、気が遠くなる――意識を取り戻したとき、緑郎はまだチャルネジェロネにしがみついていられた。 「チャイ=ブレが……」 いつのまにか、それがはるか眼下にいる。 そして、動いていた。動き出したそれは、オオサンショウウオにも似る。しかしクマムシのようでもある。壮大で、醜悪で、途方もなかった。 「わかった」 緑郎はそれをにらみつけた。 「僕らの敵は『ファミリー』なんかじゃない……『チャイ=ブレ』だ」 吹き荒れる大嵐(テンペスト)のなかを、ジュリエッタは翻弄される。 風ではなく、重力そのもの嵐だ。 「カリス殿! しっかり!」 正体をなくしたレディ・カリスを片手で必死に抱きかかえながら、もう一方の手でギアの小刀を抜き、地面に突き立てた。 「お爺様、友人達殿、守ってくだされ……!」 彼女は祈った。 カリスとともに抱いているセクタンに頬を寄せる。 「チャイ=ブレ殿……どうか、聞いてほしい。そなたを利用しようなどと思っておらぬ。ただ手伝いたいだけじゃ」 「この期に及んで悠長な」 由良の声だ。彼は手近な樹にしがみついているが、片手で必死に写真を撮ってもいた。 「由良殿こそ、写真など! よいか、さきほど撮った写真は人数分焼き増ししてもらうぞ」 「あいにくそういうフラグめいたことは言わない主義でね。くそ、来るんじゃなかった……、うお!」 「由良殿!」 由良の体が巻き上げられた。そのままはるか虚空の高みへと連れてゆかれる。 「終わりなのか……ここで……」 さすがの由良も覚悟を決めかけた、そのとき。 「ちょっと遅かったです?」 白い少女が中空に浮かんでいた。 サイズは由良の十倍はあるか。シーアールシー ゼロだった。 「遅くない……! 遅くないぞ!」 「でもリチャードさんとダイアナさんは」 「……ああ。じいさんは殺されちまった。ばあさんは逃げたよ」 「残念なのです。如何なることであれ、話して判るかは兎も角、話さなければ何も判らないのですから、家族の語らいをお勧めしようとしたのですが」 「そんな段階はとっくにすぎていたようだがね」 「ゼロか! おおーい、俺だー、俺も助けてくれーーー」 隆と棗も、木にしがみついているところだった。 「お二人さん。ここはデートにゃ向かない場所だぜ」 そこに新たな助けの手。 ジャック・ハートがあらわれたのだ。 「おお!」 「ったく。なんなんだよ。俺の力がいまいち効きづらいうえに、このデカブツはよォ」 悪態をつきながら、ジャックはふたりを抱えてテレポート。 本来ならそのままターミナルにでも帰れるのだろうが、出現した先は少し離れた空間に過ぎない。ここではすべてのロストナンバーが力の阻害を受けているようだ。 「……っ」 「おお、気がつかれたか」 「バンビーナ」 「すまぬ。リチャード翁は助けられなんだ」 ジュリエッタの腕のなかで目を覚ましたカリスはかぶりを振った。 「ごめんなさいね。巻き込んでしまって」 「らしくもない、気弱じゃの」 「いったい誰がこんな罪を背負えるというのでしょう」 「……! 泣いているのか、カリス殿」 轟音が、耳をつんざいた。 「あれは!」 上方を振り仰いだジュリエッタは、そこに不気味なものを見た。 アーカイヴの内壁を突き破って、奈落の空間に植物の根とも蔓ともつかぬものがうねうねと這い入ろうとしているのだ。 ひとつではない。何本も、何本も、次々に内壁を突き抜けてくる。 「『世界樹』が……アーカイヴにまで」 カリスの声が震えている。 「あれの力がここまで強大とは。これではチャイ=ブレさえ勝てるかどうか……」 「!」 巨大な根の一本が、こちらへ向かってくる! ジュリエッタはギアの力で雷を呼んだ。それはたしかに根を打ち据えはしたが、勢いを減じさせることはなかった。 瞬間、飛び込んできたのはチャルネジェロネと緑郎である。カリスとジュリエッタを拾って、再び空へ。 「コツを掴んできたでござるよ」 とチャルネジェロネ。コツとはつまり、この空間内で自在に動くコツということのようだ。 緑郎は奈落を見回す。 由良を助けたゼロ、隆と棗を助けたジャックが離脱するのが見える。 そして、無数の「根」がチャイ=ブレに襲い掛かる。チャイ=ブレが威嚇するように、巨大なあぎとを開いた。 「およしなさい」 レディ・カリスは、緑郎を止めた。 彼はおのれのセクタンやパスホルダーを放り投げようとしていた。 「なにをするつもりじゃ」 「わからない――けど、ただ手をこまねいているだけじゃどうにもならないんだ。僕らは僕らで、自分たちの旅のゆくさきを見つけなきゃ! 代償が要るなら何だって差し出す。僕は再帰属の方法を」 「チャンスはあります」 カリスは言った。 「……本当に?」 「もしも、私たちがこの試練を乗り越えられるなら。それなら希望はあるでしょう。……あなたは、私たちへの見方を変えたと」 「……。『ファミリー』は信用できないって思ってた。実際、ダイアナは黒幕だったけど。でも僕はなんにもわからないまま、ただ気に食わないから拒否をしていて、みちびきの鐘を別勢力に仕立てて再帰属の足がかりになんて思ってた。でもそんな気持ちじゃ子どもの癇癪と変わらないよね……」 「あなたがそんなふうに変われたのなら、私たちも変われるかもしれない。そうすれば……そこには希望がある――ヘンリーは、そう言いたかったのかもしれないわ。今、それに気付くなんて……。でも遅くはないのかもしれない。だからターミナルへ戻りましょう。まずはこの戦いを生き延びなくては」 レディ・カリスは言った。 奈落の底では、チャイ=ブレと世界樹、ふたつの超越存在の戦いが続いている。
このライターへメールを送る