深い樹海に鎖された0世界の大地をよそに、復興にわくターミナル。 世界司書たちは、さまざまな激務に追われ、忙しい日々を送っていた。そんなある日のこと―― とある世界司書が仕事中に倒れた、と連絡があった。 アリッサが駆け付けたとき、そこでは同僚の司書たちが難しい顔で本の山と格闘していた。「どうしたの……?」「最初は過労かと思ったのですが、そうではないようなのです」 応対した司書は告げた。 事態は思ったよりも突飛で、重大であった。「私たちロストメモリーは、記憶を封印することで真理数0を獲得します。その封印された記憶は『アーカイヴ』に保存されます」「そうね」「つまり、ある意味、私たちはつねにアーカイヴ遺跡とつながりを持っている……そう言っても良いのです」「……! それじゃあ」「そのとおりです。先のチャイ=ブレの一時覚醒と、世界樹との戦いにより、アーカイヴ遺跡内にも破壊が生じました。その結果、保存されている情報に乱れが発生したようなのです」 その結果、世界司書が意識障害に陥ったのだろうということだ。 アーカイヴは自己修復機能を持つため、時間とともに問題は解決すると思われるが、それまでは、いつ、どのロストメモリーに症状があらわれるか予測できず、すでに発症したものには対処を要する。 「稀な事例ですから、対処法を見つけるのに苦労しました。しかし」「なんとかなりそうなの?」 司書が頷いたとき、がらがらと音を立てて、台車で運ばれてきたものがあった。「え……壺……?」「『壺中天』です」「――と、いうわけで、みんなは、この『壺中天システム』を使って、意識だけアーカイヴへ行ってもらいます。アーカイヴ遺跡深層『記憶宮殿』。そこには司書のみんなの記憶が封印されているの。倒れた司書の記憶に接続するから、みんなはその中に入り込んでもらうことになるわ。司書の……記憶の中に」 『壺中天』とはインヤンガイで普及している仮想現実ネットワークだが、今回はその技術が応用できた。 司書の記憶の中に入り込み、中で生じている「乱れ」を正すことで、司書は目覚める。 乱れとは、「本来、その記憶にはなかった要素」のことだ。 たとえば、ある司書が、故郷で、ドラゴンと戦って勝利した記憶を持つとする。ところが今、『記憶宮殿』に生じた乱れのため、「ドラゴンに敗北した記憶」になってしまっている。これが昏睡の原因なのだ。そこで、壺中天を通じて記憶に入り込み、もとの記憶に沿うよう、ドラゴンに勝たせてやればよい。なにがもとの記憶と違っているのかは、記憶に入り込めば直観的に知れるという。「ひとつ、約束してほしいの」 アリッサは赴くことになったロストナンバーたちに言った。「みんなは、本人さえ、もう思い出すことができない、封印された記憶に立ち入ることになる。プライバシーを覗き見てしまうことにもなるでしょう。だから戻ったあと、『記憶宮殿』で見聞きしたことは、本人はもちろん、この先誰にも、決して話してはダメよ。一生、秘密にしてほしいの。この約束が守れる人だけに、この任務をお願いします」☆ ☆ ☆ 清潔なベッドに黒い猫が丸まって眠っている前には、悲しげな顔の若い司書が重々しく告げた。「黒猫にゃんこの乱れは……本来起こるべき裏切りが起こらないせいなんだ」 その言葉に全員が顔を強張らせた。「ある人物が、ある人物を裏切り……殺してしまった記憶、それが成されないせいなんだ。きみたち、司書がどんなものか知っているね? 記憶を全て失うかわりにターミナルに再帰属する。……本来故郷を失ったならば戻りたい、失くしたくないというのが本能だ。それをあえて捨てて忘れるというのは、よほど、そこに戻りたくないのか、忘れてしまいたい、または何かしらの事情がある。そこに君たちは関わることになる。……今回、君たちに求められるのは今までの依頼のような悲劇を回避することではない。あえていうならば、悲劇にすることだ。きっとにゃんこ自身にかなり抵抗され、下手すれば戦うこともあるだろう、罵られることも、憎まれることも……覚悟したほうがいい」 ざゃあ。潮と酸の絡み合った波の音。 木々の揺れる葉擦れの音と混じって、……いつ果てることのない血の匂い。 にゃあ。 黒猫にゃんこの生まれた世界。 それは壱番世界でいう和と戦の世界。小さな四つの島にそれを囲むのは酸の海。僅かな大地を求めるために人々は武力を欲して、血を流す。戦場では軍人が、また裏では敵を殺すために術者が存在する。 その女は術者だった。呪い師であるために忌み嫌われ、そのために西の島の海岸沿いに一軒の平屋を作り、暮らしていた。あるとき、酸の海の近くに黒い子猫を拾いあげ、大切に育てた。「にゃんこ」 猫のことを女はそう呼んだ。「知っている? この海の果ては、異世界に通じるそうよ。ふふ、どんな世界なのでしょうね? けれど、生きている者では決して辿りつけない。なぜって、酸に溶かされてしまうからよ。お前は一匹、私も一人、ずっと一緒にいましょうね?」 静かに暮らしていた女と猫のところに一人の軍人の男がやってきた。 軍人の男は呪い師の女の幼馴染だった。彼は出世のため、女を利用することを思いついた。「私のために、術を作れ。冨も名誉も、お前にくれてやろう」 男――コウヤは腰のサーベルを抜いて迫った。 その顔はターミナルにいる者ならば見たことがある、黒猫にゃんこが変身した姿のひとつ、黒のものだ。「私のことを、あなたは覚えていたのね。……小さな村で、幼いとき忌み子とされて疎まれた私に笑いかけてくれたのはあなただけだった。いつの間に、あなたはそんな大人になってしまったのかしら? 成人して村を出た私にわざわざ会いに来てそんなことを言うなんて」「お前の力がどれだけすごいものか聞いたぞ。ならばそれを欲して何が悪い。そうだ。お前を必要とするのは俺くらいのものさ。だったら俺のために役立ってもらおうか!」「……あなたが、私からあなたを愛することを奪わなければ、喜んで」「それが取引か?」「そうです。約束してください。決して私からあなたを愛することを奪わないでください。それ以外、私は望みません。私の術を使う、あなたが支払う代価はそれだけ。何事にも無はありえない。だからあなたも術を使う咎を背負っていただきます」「いいだろう! 必ず、最強の道具を作れ。俺がこの軍のなかで最も偉くなれるために!」 呪い師は可愛がっていた黒猫を術に使った。 蟲猫。 黒猫は死にゆく人間の生き血を啜り、魂を貪る呪具となった。あるときは政治家を、あるときは反乱軍を、あるときは有能な軍人を、娼婦を、兵士を、敵を味方を……死にゆく者の血を啜り、猫はそれらの魂を自分の中に蓄え、姿を真似、能力すら奪い取って強く、強くなった。 軍の建物の暗い地下の檻で、蟲猫は罪人をいつものように殺し、その魂を食らった。そうして死にゆく者の全てを奪うのだ。「にゃあ」 鋭い爪で敵を引き裂いた少年の姿にコウヤが近づいた。「罪人を始末が終わったな。確か、お前は」「猫。……この姿が戦闘に一番向いて、いるからなっているだけ。すぐに戻る」 姿がするりっと黒い猫になる。 その猫を伴って軍人のコウヤは建物のなかを歩きだす。「さぁて、お前の主のところに帰ろうか。お前が俺の出世の道具になるなら、なにも奪いはしないさ。なにもな。もっと、もっとだ。俺の役に立て、蟲猫。そうしたら、上司の娘との見合いも蹴ってやろう。あの女の望み通り、ずっとそばにいてやろう。ふふ、ははは。お前は、いい子だ。あの女も」「にゃあ」 蟲猫は答えるように鳴いて尻尾を振った。「……決しテ、あなたを愛することヲ奪わないでください、ネ? そうしたラ、ずっト……奪う者はなにがあろうと――殺、ス」 蟲猫は滴る血を牙から漏らして嗤う。にゃあ。========!注意!このシナリオのノベルは、便宜上、公開されますが、世界観的にはすべて「秘された内容」となり、参加キャラクターの方だけが知る出来事となります。========
ざぁあああああああああああ。 満ち引きする波の音に潮と酸の香りが混じる浜辺に四人はいた。 人の骨を砕いたような白い砂浜には人の姿はなく、申し訳なさそうに一本だけ立つ松の木が鋭い棘の葉を広げている。 「ここがにゃんこの、世界なの? 聞いていたけど、不思議な感じね」 セリカ・カミシロが不思議そうに呟く。時折強い風が吹いて髪を弄び、肌から熱を奪っていく。 「ふぅん。ここがね」 スキットルのメスカルを舐めた臼木桂花は眼鏡に隠された淡い緑の眸を細めて真っ白い海を見る。その横ではジャック・ハートが苦い顔をして砂を蹴った。 リーリス・キャロンがふっと浮遊する。赤い瞳が輝きを放つ。 「んふふ。さぁ。お仕事しましょ?」 「そうね。けど、その前に一つお節介してもいいかしら?」 桂花の言葉に全員が彼女に注目した。 「私は隠す気ないけど……顔を隠したい人がいるならバンダナ貸すわよ?」 差し出された手には人の目を引く赤いバンダナが三つあった。 「忘れる記憶だからって甘く見ない方が良いわ。人の記憶や感情が、永遠に、完璧に消せるなんて思わない方が良い。彼らにとって、これは大事な核の記憶なんだもの。何かあれば簡単に吹き出す可能性があるわ」 「私……黒にはとてもお世話になったの。まだお礼もちゃんとしていないわ。だから」 セリカはターミナルに来てからいくつかの依頼を引き受けたが、担当してくれたのはにゃんこ――黒が圧倒的に多かった。はじめて依頼を引き受けたのも黒が担当し、あれこれと気を遣ってくれた。 普段気を張っていることが多いセリカにとって些細なことも嬉しかった。 「だからよ、私達が今からするのは、そのにゃんこの大事な記憶を、現実って名前の下にへし折りに行くのよ? 彼らを目覚めさせたいっていう私たちの我欲のためにね。彼らが永遠に揺蕩うことを望んだかもしれない夢をぶち壊しに行くのよ? 今までと同じ関係を安易に望めると思わない方が良いわ。もしそれを望むなら、例え気休めにすぎなくても顔を隠していった方が良い。私たちはそれだけのことをするんだから」 「それは、そうかもしれないけど」 「俺はヨ、他人の仕事に口出すン主義じゃねェが。何で来た、セリカ」 今まで黙っていたジャックからの言葉にセリカは頬を叩かれた気分に陥った。にゃんこの担当する依頼で何度も一緒になったジャックは同じ気持ちで依頼を引き受けたと思っていたのに、こんな言葉を投げかけられるとは予想外だった。 ジャックの顔は奥歯でひどく苦い虫を噛みつぶしているように、渋い。 「ソリャァ俺らはコイツに世話になってる。目覚めねェッてこたァ陰陽街の壺中天と同じで放っておけば死ぬンだろうサ。でもこりゃコイツらが落とし仔に預ける程の記憶なンだ。それを再現するッてェこたァ、とんでもなく後味が悪いッてことだ。ダーティワークが得意な奴に任せりゃいいだろォが」 「ジャック」 ジャックがぷいっと目を逸らすのが突き離すようなものだったのにセリカは一瞬だけ不安に襲われた。 ある事情で誰にも頼らず、一人で生きていくと決めたセリカだが、ジャックとはたび重なる依頼で一緒だったこと、そして精神感応で会話することのできる、許せる相手だけにひどく辛い。 (だってお前……いつも泣くじゃねェか。身を切られるほど辛いッていつも泣いてるじゃねェか) 優しい声にセリカは目を瞬かせる。 (ジャック) わざと、声に出さずに心で語りかけてくる。卑怯だわと苦笑い気味にセリカは思う。こんな風にされると心が揺らぐ。 (ありがとう) 言葉ではきっとここまで素直に言えない。だからセリカはテレパシーで返す。 そして前を向く。 にゃんこが目覚めるためには誰かが誰かを裏切り、最後には死が待っている悲惨な結末を自分たちは作らなくてはいけないのだ。 セリカはジャックを見つめて、気丈に笑った。 「私は、やるわ。バンダナもいらない」 「ハッ、強気な御姫様ダ」 「覚悟があるならいいけど」 桂花は肩を竦めた。 リーリスは赤い瞳を細めて笑う。ふぅん。ジャックのおじちゃんとセリカおねぇちゃん、なかよしだ、ね。ふふふ 「テメェ」 ジャックがハッと顔をあげてリーリスを睨む。セリカはきょとんとした顔をした。 「なぁに、おじちゃん。ふふ。こわーい。リーリスはただぁ、二人が見つめ合っちゃって、仲良しだなぁって、いいなーって」 リーリスはにこにこと笑ってセリカの横に逃げて、後ろから抱きついた。セリカは不思議そうに微笑み、リーリスの頭を撫でた。 「それで、どういう作戦でいくの?」 「私は……作戦ってほどでもないわ。噂を広めようと思うの。コウヤの手柄って結局はにゃんこのものなんでしょ? だったら、それを同僚や彼の上司の耳に入ればコウヤの出世の道は閉ざされるんじゃないかしら」 「わぁ、おねぇちゃんあたまいー! それだったらリーリス、ちょっとはお手伝いできると思うの!今回は、回復出来る人がいっぱいいるから、分散していいと思うの。桂花おねえちゃん、ジャックのおじちゃんたちはどうするの?」 「私は出来ればにゃんこ本人に幻覚を見せてコウヤが裏切ったと思わせるか。もしくはにゃんこが仕事に失敗してコウヤが使えないって判断して切り捨てにかかるか。後者なら蟲猫の次に狙うターゲットを守って戦うことになるけど、私はコッチがいいと思ってるわ」 「俺も考えダがヨ。にゃんこが黒になるッてこたァ黒を喰ったッてことだ。ウミにコウヤが裏切ったと思わせてコウヤ共々ウミを殺す、が正解だろォ? ウミが死ななきゃにゃんこが司書になるわけがねェ」 その言葉にセリカは顔を強張らせた。セリカとしては死ぬのは最低限――コウヤだけでいいのではないかと考えていたのだ。 ジャックはセリカのことを一瞥して先を続けた。 「コウヤとウミを殺す方向で事態を調整できればいいンじゃねェか? にゃんこは適当に感電させて動けなくさせりゃあイイだろ?」 「んー。それってどうかしら?」 リーリスは小首を傾げる。可愛いらしいが、なぜか小馬鹿にしているようにジャックの眼には映った。 「私達、悲劇を作りに来てるのよ? 下手な情けはにゃんこの傷を広げるだけだと思うな、リーリス」 「けど、コウヤは絶対に死ぬとしても、ウミはどうなのかわからないわ。私、噂を流したあと、ウミに直接会って、確かめてみたいの。それで、もし出来るなら、コウヤだけ殺すっていう方向にできないかしら?」 セリカの青い、海色の眸が悲しみに揺ぎながらも、仲間たちを見る。 スキャットルを舐める桂花は何も言わない、リーリスは笑うだけ、ジャックの眸がセリカを見つめる。 「自分の身ぐらい自分で守れるわ。大丈夫よ」 ハッ、ジャックは笑う。 「そうダな。っと!」 ジャックの片手から生み出された雷撃が酸を打つ。水しぶきがあがり、空気を焼く。 「力は使えるナ」 ジャックが内心、危惧したのはこの世界で力が使えるかということだ。この夢の主であるにゃんこからの制限があると厄介だが、幸いにもないようだ。 「やるとすっカ」 ☆ ☆ ☆ ねぇ、にゃんこは寂しいとか、悲しいとかそういうの、覚えてる? いつだっただろう。リーリスは司書室を訪ね、にゃんこに聞いた。過去のことをどのくらい忘れてしまっているのかを探りたかったのだけども。 にゃんこは不思議そうに首を傾げて笑った。 にゃあ。 ふ、ふふふ。 ねぇ、にゃんこ。あなたも私と同じだったのねぇ……かわいい、かわいい、にゃんこ、ううん 蟲猫、 かわいい蟲猫 大好きよ、ええ、とってもとっても大好きよ だからね 「ふふ」 リーリスは上機嫌に笑う。魅力の力を使えば、軍基地に入ることは容易い。だれもリーリスたちを不審に思わない。 まず、リーリスは桂花の要望に応えて情報を仕入れることに専念した。コウヤの身分や彼のあがっている見合い話……蟲猫が仕事で出ているのを知ると、ジャックと桂花は急いでターゲットの元へと向かった。 リーリスとセリカはコウヤは蟲猫を使ってのしあがっている、本当は無能な男だと噂を流した。 これも魅力の力を使い、精神感染させてしまえば容易い。 ――聞いたか、コウヤは卑怯者なんだろう? ――あいつ自身は力もなにもない ――無能のくせに 急激にのしあがったコウヤには敵が多かった。あっという間に不満、疑惑は膨れ上がって爆発した。 「うまくいったわね」 セリカの言葉にリーリスはにこっと笑った。 「うん! リーリスは、これからコウヤに会いに行くけどおねぇちゃんはどうする?」 「ウミに会いに行くわ……いいかしら?」 セリカが言うとリーリスは大きく頷いた。 「うん。行って来て! たぶん、コウヤには一人で会いに行ったほうがいいと思うし」 「そうね。危ないことはしないでね? なにかあったらノートで連絡してちょうだい」 「はぁい」 セリカが駆けだしていくのにリーリスは手をふって見送った。 くす。 くすくす。あははは、ふふふふ。あはははは! 「さぁ。もっと、もっとよ。追い詰められて、私に縋りなさい!」 リーリスの赤い瞳は輝く。それは宝石のように美しい。無邪気に、残酷に。そして全身で堪能する。欲望の渦は甘いキャンディみたい。うっとりしちゃう! リーリスはわざと数時間ほど間を置いてからコウヤのいる部屋に訪れた。その数時間にコウヤが仲間たちにどんな扱いを受けたのかは知らない。興味もない。 けど、この間が必要なのよねぇ。 ドアを開けると、コウヤはぎょっと顔をあげた。警戒と怒りが滲んだ眸にリーリスは笑う。 「こんにちは。お兄さん」 「お前は誰だ」 「リーリス。お兄さんの役に立つためにきたの!」 悄然としているコウヤの顔から読みとれる。なぜばれた。蟲猫のことが。仲間たちが俺を見る。足をひっぱろうとする。ああ、くそどもめ! 怒り、疑惑、欲。 赤い瞳が輝く。 「リーリスの力を見せてあげよっか」 「なに」 ちょうどよく入ってきた同僚にコウヤが顔を険しくさせる。リーリスは片手をあげた。とたんに男は悲鳴をあげることもなく足から塵となった。コウヤが息を飲む。 「死体さえ残らない……残しても良いけど。その方がお兄さんにも便利でしょう?」 「お前は」 「あの猫、術師が作ったものなのよね? 多分術師を殺せば弱体化して消えちゃうと思うわ。ねぇ……あんな人要らなくない? そうすればお兄さんもお見合いしてもっと楽に出世できるでしょう?」 甘い毒をリーリスは囁く。コウヤは震えながら茫然としている。 窓からふらっと術がかけられているのか白い鳥の姿をした文がコウヤの手元に飛んできた。 「蟲猫がしくじった! そうだ。あんな出来そこない、もういらないじゃないか。あ、あはははは!」 リーリスは慈愛深く笑う。 「さぁ、殺しに行きましょう?」 かわいい蟲猫、待っていてね? ☆ ☆ ☆ 桂花とジャックはターゲットである金持ちの家に訪れた。広い屋敷だがジャックの透視と精神感応を駆使すればターゲット本人を見つけることは難しくない。空間移動でその部屋の近くに移動後、桂花がターゲットに幻覚弾と麻痺弾を撃って気絶さてしまい、箪笥に押し込んで隠した。 「来たゼ!」 ジャックが吼えた。 窓硝子を割って侵入した蟲猫は驚き、すぐに顔を険しくさせる。 「ジャマ」 蟲猫は素早く駆けてジャックに間合いを詰めた。鋭い爪が触れるぎりぎりまで引きつけて空間移動。後ろに控えていた桂花がタイミングをはかって麻酔弾が蟲猫の体が貫き、床に倒れる。しかし、すぐに立ち上がった。 「なンだァ? 手加減したカ?」 「ちゃんと仮死状態になるヤツを撃ったわよ!」 蟲猫は唸り声をあげて大きく飛び、桂花は狙う。ジャックは素早くアポートで桂花を引き寄せて庇った。 蟲猫は忌々しげに桂花とジャックを睨みつけた。 「お前たち、ナニ? オカシイ、こんなヤツ、いない……ドウシテ、ここに、オレがいるの、わかって……ダレ、ウラギッタ」 「あぁそォだ! コウヤだ! もっといい手駒を得てテメェが邪魔になったンだ! 飼い主共々死ンじまいナ、ヒャヒャヒャヒャヒャ」 ジャックは凶悪に笑う。とたんに蟲猫の顔から一切の表情が失われた。 「そんなの」 蟲猫は低く唸り声をあげる。 「コウヤは、そんなことしない! 嘘をつくなぁ!」 蟲猫が激情に駆られて真っ直ぐに襲いかかるのにジャックは雷撃を放って迎え撃つ。と、蟲猫の体が変化した。 それが兵器として最強である理由、桂花の弾丸を受けても倒れなかったカラクリ。 何千という魂を食らって、その身に宿す蟲猫は己のダメージを他の魂に譲ることが出来る。たった一匹で、何千人の役割を果たす。 そして青年から黒いワンピースの少女――それは猫の顔と肉体を持つまりあ。長い尻尾をジャックの足に巻きつけて、男を誘う娼婦の目で見下した。 「シネよ」 長い爪がジャックの首のうなじを舐め、引き裂く。 「ッ!」 首の皮の一枚でジャックは耐え、まりあの首を鷲掴みにして雷撃の威力をあげる。 「まだ生きてるの? あはははは、死ねよ、死ねよ、死ねよ、てめえ! 死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死死死死ねねぇえええ! 私の、私の愛するジャマをするなぁああ! いらない、いらない、お前たちなんていらない! ……あ、ああ、コウヤ、いゃあああああ! 捨てないで、すてないでぇ!」 「ジャック!」 桂花がまりあの左胸を狙って麻酔弾を放つ。電流のあとの衝撃にふわりとまりあはじれったいほどのスローモーションで床に崩れる。 「あ、あ、ああ」 「往生際が悪いわよ?」 血まみれの手で床を這う蟲猫につかつかと桂花は近づき、銃口を向けた。 「死んで会いましょう?」 まりあの頭を弾丸が貫く。蟲猫は倒れて動かなくなると首に巻かれたリボンが解け、小さな鳥となって飛んでいった。 「なに、あれ?」 「桂花、まだダ!」 ジャックが叫ぶ。桂花が気がついたときには足首を鋭い爪が掻き切られた。 「っ! こんちくしょう!」 桂花が後ろに逃げると、素早く前に出たジャックがバリアーを張り、それを弾く。床に再び倒された蟲猫はよろよろと起き上がった。 「コウヤ、コウヤ、コウヤ、コウヤ……必要として、奪わないで、コウヤ、コウヤ……コウヤ! お願い、殺すなら、あなたの手で殺してぇ!」 血まみれの蟲猫は悲鳴をあげて走り出した。 ☆ ☆ ☆ 満ちては引く波の音。 酸の海とは思えないほどに澄んだ海の前に黒い着物姿の女がいた。ウミだ、とセリカは確信して近づいた。 ウミはすぐにセリカに気がついて振り返った。 「はじめまして。私は、セリカ・カミシロ……ウミ、あなたは呪術師と聞いたわ。それでお聞きしたいことがあるの」 ウミは黒い瞳を細めてセリカを見つめる。 能面のような、表情のない女だ。寂しさからこうなったのだろうか? セリカにはウミの心境がはっきりとわからなくとも、一人きりの孤独に負けて、コウヤに協力してしまったことを責めることは出来ない。もし自分がと想像を巡らせれば胸に鋭い針に突き刺されたような痛みを覚えた。きっと、同じことをしたかもしれない。 だから私はここにきたんだわ。 記憶の迷宮のなか、未来が変えられないとしても死ぬのは最低限の人間でいいはずだ。 コウヤが死ぬのは己の欲に溺れた結果。だったら仕方がないと自分自身に言い聞かせて諦めもつく。けど、ウミは、出来れば死んでほしくない。 それは寂しさに対する共感、また呪術にたいしての、世界は違っても純粋な興味も少なからず存在していた。 「呪いを解くにはどんな方法があるの? 術者が死んでも解けない呪いはあるのかしら?」 「失礼します」 去ろうとするウミにセリカは言い募った。 「待って! お願い! あなたが、コウヤに協力しているのは知っているわ。蟲猫を使っていることも、上司に知られているわ。コウヤは、あなたを恨んで殺しに来るかもしれない。だから、私はあなたを守りたいの!」 ウミはゆっくりと振り返った。 「……私……私ね、呪いにかかってるの。だから、いずれあなたのように一人で静かに暮らそうと思ってる。やっぱり、一人は寂しいの? どんなことをしてでも、誰かに縋りたいって思ってしまうのかしら……お願い、答えて」 切実な声にウミの能面のような顔がじっとセリカを見つめた。 「あなたがそう思いたいなら、そう思えばよろしいでしょう」 「違うの?」 冷たい潮風にウミはそっと片手で髪を抑えた。 「生憎、寂しさが私にはわかりませんし、縋りたい気持ちもわかりません。貴女の求める答えは持ち合わせておりません」 「じゃあ、どうしてコウヤに協力したの? 彼はあなたを利用しているのよ? それに、気がつかないわけではないでしょう?」 セリカの訴えにウミは、ただ微笑んだ。 「貴女がそう思いたいのであればそう思えばよろしいでしょう」 「ウミ」 「コウヤは私の魂の片割れ、醜さも、愚かさも含めて。死んだら愛が終わりと誰が言いますか? 終わりなどないのです。巡り合えるまで何千ぺんと失敗しても、……あの取引は、最後の瞬間まであの人が私を見てくださるためのもの。死ねというならばよろこんで死にましょう。ただ、私はあの人の手で死にたいだけにした約束……いいえ、本当は私の」 「ウミ、あなた」 「……コウヤ、あれほどに言ったのに……奪わないでと」 ウミが振り返ると、数メートル先にコウヤが立っていた。 その横にはにこにこと笑っているリーリスがいた。 セリカは咄嗟にウミの前に立った。 「させないわ」 リーリスはわざとらしく、楽しげに笑い声をあげた。 「あっははは! 塵族如きが刃向おうだなんて。おばちゃんの役目はもう終わったの、ねぇコウヤ。大丈夫よ、いらないものはすぐに消してあげる」 セリカはどきりとした。このまま戦闘になるの? ウミが死ぬのは見たくない。けれど仲間と争うわけにはいかない。どうしたらいいの? 私はここに、にゃんこを助けにきたはずなのに。 セリカが迷っているとリーリスの背にふらふらと近づいてくる黒い影があった。 「あれは……にゃんこ?」 セリカの眼に映った。傷だらけで血を流して必死に駆けてくる蟲猫の姿が 「コウヤ! コウヤ!」 蟲猫が一心不乱に叫ぶ。その目は主であるウミが殺されそうなのにコウヤをただ求めていた。 ウミの語った言葉が真実なら。 だめ。だめよ。――セリカは悲鳴をあげる。 「こっちに来ちゃだめ。にゃんこ!」 このあと何が起こるの? ここでどうするの? 誰が、誰を裏切るの? コウヤが、黒が、誰を裏切るの? 「っ!」 セリカは片手をあげてビームを放つ。コウヤとリーリスを狙ったものではない。砂を撃って砂嵐を生み出し、一瞬とはいえすべてを隠すことが目的だ。これでウミを連れて逃げれれば。 セリカはウミに手を伸ばそうとして、接近してくる蟲猫に気がついた。あれだけの傷を負いながら驚くほどのスピードだ。 さらさらと、砂が舞うなかでセリカは蟲猫の死に物狂いの眼と合う。 「しねえ!」 鋭い爪が伸びるのにセリカは覚悟して拳を握りしめた。黒、あなたは (セリカァ!) 「ジャック!」 セリカが叫んだ瞬間、彼女はあたたかな胸の中に抱かれていた。見上げるとジャックがいた。 転移したジャックがセリカを胸に抱いて守ってくれたのだ。ジャックは背から蟲猫の爪に貫かれた状態だ。 「オラァ!」 ジャックの生み出した風が蟲猫を砂の上に叩きつける。 「ジャック! ジャックっ! 私のせいで!」 「ハッ、ったく無茶すンなヨ、お姫サマ……痛ッて~ナァ」 「あなたこそ! そうだ。にゃんこ……あ」 砂埃が収まったそこにウミが倒れ、その前にはリーリスが立っていた。一体なにが起こったのかは見ていないセリカにはわからないが、ウミはコウヤ以外の者の手で殺された。 ウミの唇が笑っている。 「う、うゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 地の底から発したような声を蟲猫は叫ぶ。 その姿が人から黒い猫がなると、駆けだしてウミの死体の前まで来ると舌を出して、血を啜った。 「あれは」 セリカは震えあがる。ジャックがセリカのことをしっかりと抱きしめた。 「見ンな。セリカ」 セリカは見た。 ウミの呪いを。 決して愛することを奪わないでくださいね。 コウヤが明白な殺意を持って、ウミを自分以外の者の手で殺すことで発動する、裏切りの代価。 蟲猫が顔をあげたとき、血まみれの唇で、にやぁと鳴いてコウヤに駆け寄った。 コウヤは逃げようとして、その足が氷ついていることに気がついた。 桂花の放った氷結弾だ。 そして。 音をたててコウヤの首は切り落とされた。 砂が鮮血に濡れた。蟲猫はゆっくりと屈みこむとそれを舐めはじめた。ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。 蟲猫が顔をあげたとき、その姿はコウヤ――黒のものとなっていた。 魂を食らう蟲猫にしかけられたウミの呪い。 自分を裏切った男を永久に 「これは、俺は……俺の死体がある。う、あああああああああああああああああああ!」 コウヤは混乱の叫びをあげた。ウミの死体にずるずると這い寄ると、しがみついた。 「ウミ、俺は……お前を他人に認めさせたかったんだ。あの村で出会ったときから、お前の笑みを見たときから愛していたのに。お前を、なのに、どうして忘れていたんだろう!」 コウヤはウミの死体を大切に抱えると泣き笑いしながら、酸の海へとふらふらと歩いていく。じゅっと、体が溶けていくのも無視して。 「そうだ。この海の果てには、異界に繋がっている、から」 そして夢は覚める。 ☆ ☆ ☆ 目覚めた四人に白衣の司書は成功したと告げた。 「じゃあ、にゃんこは目覚めるのね?」 問うセリカの顔は暗い。 「どうしたの、おねえちゃん?」 リーリスは上機嫌に微笑むと、セリカの手をとって走り出た。 「はやく、にゃんこのところにいきましょ? 目覚めたのを見たいわ。あとね、先、にゃんこのためにも一生懸命になっちゃって怖い思いをさせた! ごめんなさいね?」 「ううん。いいのよ。にゃんこのためですもの。一緒に行きましょ」 「わぁーい! ふふ」 駆けだす二人の背後にはジャックと桂花が並んで立つ。 「セリカのやつ、大丈夫かヨ」 「心配なら傍にいてやりなさいよ。大丈夫でしょ。自分で選んだことなんだから。それにどうやったところで過去は変えられないもの」 桂花の言葉にジャックは渋面を作って肩を竦めた。 「にゃんこ、あ」 にゃんこが眠っている部屋のドアをくぐり、セリカとリーリスは眼を丸める。 白いベッドから起き上がったのは 「……まぁ、とてもよく寝ていたですね。おはようございます」 黒髪に艶やかな着物姿の女だった。 「この姿をとるのははじめて、だったかしら? そうね、あまり女性の姿は、まりあくらいしかとらないから。なぜかしら、久しぶりになろうと思ったの。ふふ、この姿のときは、海猫と呼んでくださいね?」 その姿は記憶のなかで出会ったウミだった。あのとき、にゃんこはウミの血も啜っていた。 ウミの行った呪い。それは愛する男と自分を閉じ込めるため 「……おはよう、にゃんこ。あなたが目覚めて嬉しい」 セリカは多くの気持ちを飲みこんで、笑顔を作る。その笑顔に嘘も偽りもない。 「にゃんこ、あなたに会いたかったわ」
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