深い樹海に鎖された0世界の大地をよそに、復興にわくターミナル。 世界司書たちは、さまざまな激務に追われ、忙しい日々を送っていた。そんなある日のこと―― とある世界司書が仕事中に倒れた、と連絡があった。 アリッサが駆け付けたとき、そこでは同僚の司書たちが難しい顔で本の山と格闘していた。「どうしたの……?」「最初は過労かと思ったのですが、そうではないようなのです」 応対した司書は告げた。 事態は思ったよりも突飛で、重大であった。「私たちロストメモリーは、記憶を封印することで真理数0を獲得します。その封印された記憶は『アーカイヴ』に保存されます」「そうね」「つまり、ある意味、私たちはつねにアーカイヴ遺跡とつながりを持っている……そう言っても良いのです」「……! それじゃあ」「そのとおりです。先のチャイ=ブレの一時覚醒と、世界樹との戦いにより、アーカイヴ遺跡内にも破壊が生じました。その結果、保存されている情報に乱れが発生したようなのです」 その結果、世界司書が意識障害に陥ったのだろうということだ。 アーカイヴは自己修復機能を持つため、時間とともに問題は解決すると思われるが、それまでは、いつ、どのロストメモリーに症状があらわれるか予測できず、すでに発症したものには対処を要する。 「稀な事例ですから、対処法を見つけるのに苦労しました。しかし」「なんとかなりそうなの?」 司書が頷いたとき、がらがらと音を立てて、台車で運ばれてきたものがあった。「え……壺……?」「『壺中天』です」「――と、いうわけで、みんなは、この『壺中天システム』を使って、意識だけアーカイヴへ行ってもらいます。アーカイヴ遺跡深層『記憶宮殿』。そこには司書のみんなの記憶が封印されているの。倒れた司書の記憶に接続するから、みんなはその中に入り込んでもらうことになるわ。司書の……記憶の中に」 『壺中天』とはインヤンガイで普及している仮想現実ネットワークだが、今回はその技術が応用できた。 司書の記憶の中に入り込み、中で生じている「乱れ」を正すことで、司書は目覚める。 乱れとは、「本来、その記憶にはなかった要素」のことだ。 たとえば、ある司書が、故郷で、ドラゴンと戦って勝利した記憶を持つとする。ところが今、『記憶宮殿』に生じた乱れのため、「ドラゴンに敗北した記憶」になってしまっている。これが昏睡の原因なのだ。そこで、壺中天を通じて記憶に入り込み、もとの記憶に沿うよう、ドラゴンに勝たせてやればよい。なにがもとの記憶と違っているのかは、記憶に入り込めば直観的に知れるという。「ひとつ、約束してほしいの」 アリッサは赴くことになったロストナンバーたちに言った。「みんなは、本人さえ、もう思い出すことができない、封印された記憶に立ち入ることになる。プライバシーを覗き見てしまうことにもなるでしょう。だから戻ったあと、『記憶宮殿』で見聞きしたことは、本人はもちろん、この先誰にも、決して話してはダメよ。一生、秘密にしてほしいの。この約束が守れる人だけに、この任務をお願いします」● カフェ・キャルロッテでの一件から数週間。 救出後に倒れ、意識の戻らない世界司書ツギメ・シュタインは未だベッドの上に居た。 容体は安定し今では面会謝絶も解かれたが、意識は今も闇の中。脳波を見る限り眠っている状態に酷似しているようだが呼び掛けようが体に刺激を与えようが意識的な反応は返ってこない。 病室で似合わぬ白い服を着て眠るツギメを見下ろし、年若い世界司書が眉をハの字にする。「先輩……早くまたお喋りしたいです」 夏の中頃に世界司書となった自分に色々と教えてくれたのがツギメだった。以来、新米の世界司書……ササキは先輩としてツギメを慕っている。「もしかすると、これは先刻通達のあった……」「な、なんですか」 ササキの隣に立つ医師は口ひげを指でなぞり、世界司書の意識障害とその原因について説明した。 放っておいても回復するかもしれない障害。 しかしササキは一刻も早くツギメを救ってやりたかった。ツギメが今、どんな「間違った記憶」に侵されているか分からないのだ。「……ぼくには出来ないけれど、皆なら……」 呼吸を整え、窓際に見舞いにと持ってきた花を飾ると、ササキは急ぎ足で部屋を出て行った。 ぴんと立った猫耳と尻尾、そして鮮やかな赤毛の少女に声をかけられ、見慣れないその顔にロストナンバーたちは訝しげな顔をした。しかしその少女の手に大きな本があるのを見、ああ世界司書かと納得する。 少女はササキと名乗った。年の頃は13から14。燕尾の付いたベストとプリーツスカートを穿いており、耳の後ろで結われたツインテールがゆらゆらと揺れている。「お願いします、ツギメ先輩を救ってください!」 話を聞けば世界司書のツギメ・シュタインが昏睡したまま回復の兆しがないのだという。 アリッサから詳しい話はあった。状況を飲み込めたロストナンバーの内、数人が手を挙げる。「ありがとうございます……! 詳細は分かる限りお伝えします……先輩のこと、宜しくおねがいします」 泣きそうな顔で頭を下げ、ササキは人払いをしてから詳しいことを話し始めた。 故郷でもツギメはツギメだった。 草食動物の角と尾を持って一族の象徴たる褐色に身を包み、とある豊かな土地に生れ落ちた。 故郷の名はロークブルグ。古い言葉で角の城を意味するその国は広大で、そして争いを繰り返しつつ発展を続けている。 そんな国の王の娘として生まれたのがツギメだった。 21になり成人の儀も終えたツギメは国のために他の国へ嫁ぐのを待つばかりとなっていたが、ここでとある問題が起こる。「父上が……」 戦の前線に率先して立つことを好んでいた父――王が討ち死にしたのである。 ツギメはその地位を継ぎ、国が荒れることのないよう尽力する。しかし非情になりきれないツギメには荷が重かった。 ロークブルグには奴隷だけが住む地域がある。父が王をしていた時代、その奴隷の扱いは目を覆いたくなるものだった。 しかし争い、奴隷を虐げ大きくなったこの国は今まで通りのやり方を続けねば崩壊する。 代用となる新たなシステムの採用や改革を行えば別の道もあっただろうが、若いツギメには新たなことを通す力がなかった。帝王学もまともに学んでいない女王が何を言おうと他の王族や大臣が許さないのだ。 だからツギメは「父のやってきたように国を維持する」ことを選んだ。短い安寧だとしても。 奴隷街をローブを目深に被った男が歩いていた。 ふと足を止めた先に居たのは身を寄せ合い温め合う幼い兄弟。 男がその2人に近づくと、兄弟は明らかに怯えた様子を見せた。 肋骨が苦もなく数えられる体、ぼさぼさで伸び放題の髪。足は腕と同じ太さをしており、筋肉が見て取れない。「これを。毒は入っていない……ほら」 取り出したパンを一口齧ってみせ、残りを兄弟に手渡す。2人がそれを食べ終えるまで男は体を壁にして隠した。ここで不用意に食べ物を見せれば他の大人に奪われかねないからだ。 本当は金品を与えたかったが、幼い2人がそんなものを持てば騙されるか殺されるかの二択だろう。「……明日また来る。仲間が居るなら連れておいで、今度はスープもあげよう」 手が汚れるのも構わずひと撫でし、男はまた歩き始めた。 ここ数日の記憶が混ざっているのを感じる。夜盗に襲われてからどうも本調子ではない。しかし思いは変わらなかった。 この国は王族から解放されるべきだ。裕福なのは金持ちばかり。その下でこんなにも腐敗した街が広がり、そんな場所で本来は守られるべき子供も暮らしている。 王が死に変わるかと思った国は、しかしひとつも変わらなかった。「ツギメ……お前もなのか。ならば……」 男、レノ・シュタインは呟くように言う。「お前も、討つ」
ロークブルグ城は茶色いレンガの壁とくすんだ青い屋根の古城だった。 澄んだ湖の隣に悠々とそびえ立ち、水面にその姿を常に映している。掲げられた旗にはシュタイン家の家紋である角をモチーフにした図形。壁には等間隔に松明が並び、閉ざされた城門に影を揺らしていた。 夜気は水の香りが強い。 「……月が冴えているな。仕事でなければ良い夜なんだが」 石造りの道を歩みつつボルツォーニ・アウグストは空を見上げた。 空は壱番世界よりも黒く、星々は明るい。その間に切れ込みを入れたかのような三日月が光を放っている。カーテンの隙間からランタンの光を覗き見たかのようだった。 「そうだ、城に入る前に少し時間を貰えるかな?」 ロナルド・バロウズが片手を上げ、3人を近くに呼び寄せる。 「必要ない人も居るだろうけれど……皆の能力を上昇させておくよ」 ギアの抑制機能もある。元から強い者には目を瞠るような効果はないかもしれないが、向かう先で起こることを考えるとかけずにはいられなかった。 城の者に気付かれぬよう小さな旋律で3人の身体能力を向上させる。 「綺麗な曲ね、また後で聞かせてもらえる?」 不死者が居り、音楽家が居り、アンドロイドが居るこのパーティに心配な点はない。 それでも突入前の空気に僅かに緊張していた臼木 桂花は、心地の良い曲に口元を綻ばせた。 「もちろん。……そのためにも、無事に終わらせよう」 冷たい風が吹く。それに眉のひとつも寄せず、ジューンは影の濃い城を見上げた。 このどこかにツギメが居る。そして、その兄も。 ジューンはターミナルがナラゴニアから攻撃を受けた際、ツギメとカフェ・キャルロッテの主人であるミルの救出に関わっていた。 その縁故か、ツギメを助けたいという気持ちが強く芽生えている。 「ツギメ様……今しばらくお待ちください」 悪い夢から、すぐに助け出そう。 城門のすぐ隣には門番小屋が建っていた。 事前に訪れる話が通っていない場合はここで取り次ぎ、用件次第で中へ通すシステムらしい。 ボルツォーニが戸をノックすると、訝しげな顔をした若い兵士が出てきた。部屋の中には経験豊かそうな年配の兵士も見える。どうやら夜食の真っ最中だったようで、テーブルの上には簡単な食事が広げられていた。 「何者だ?」 「火急の用あり、女王と直接話したい」 兵士はぴくりと眉を動かす。曖昧な理由に判断を下しかねているようだ。 「用の詳細と身分を明かせ、それでは中に取り次ぐことも出来ない」 ボルツォーニの見た目と雰囲気に気圧されつつ、見かねた年配の兵士が後ろから割り込むように言う。 2人の兵士に対してボルツォーニは長身で、自然と見下ろす形になった。威圧感、そして一般人にはない風格がある。思わずこのまま理由を確かめずに通したくなるほどだったが、2人には通す者を選別する仕事があった。 「なるほど、私は2人に謝らねばならないようだ」 これで詳しい説明を聞ける……そう考え耳を傾ける兵士を鋭い眼光が貫いた。 体の自由が利かない。それどころか意識が徐々に遠のき、驚くべきことにそれを不自然と思わず受け入れてしまっている。 最後に低い声が耳に届いた。 「きっと我に返った頃には、夜食が冷めてしまっているだろうからな」 魔眼で操った兵士に開門させ、4人は素早く城内へと足を踏み入れた。 若い兵士の方を道案内に立たせる。 「そうだ。私のギアって拳銃だからそこそこ音が出るのよね。音楽家さんが城内の人間を一時的に眠らせてくれると凄く助かるわ」 「派手な音をたてられないのは不便だよね、試してみるよ」 音のよく響きそうな長い廊下に立ち、ロナルドはバイオリンを構えた。 子守唄に似た戦慄が反響しながら城内に広がってゆく。 「ふむ、なかなか広いね」 音の反響でロナルドは眉をひそめた。多くの人間を眠らせる、または騒動に対して無関心にさせることに成功した手ごたえはあるが、城の広さかはたまた乱れのせいか全員に対応出来たという確証が持てない。 「細部は私が」 自身に施された様々なリミッターを外したジューンが前に出る。 「構造物サーチ及び生体サーチ起動……城内の見取り図をノートに記載します」 「さすがだわ、これで探索が楽になるわね」 桂花はディナリアでのことを思い出して言う。やはり頼りになるアンドロイドさんだ。 まるで定規でも使ったかのように正確な地図がノートに描かれてゆく。 「この通路とこの通路を一定速度で移動しているのは衛兵と思われます」 「やはりまだ居たか」 衛兵は決まった場所を定期的に歩き回っているようだった。複数居る。 「この道は何? とても変なところから伸びているように思うけれど」 地図を指して言う桂花にジューンは頷く。 「通常よりも不自然な狭い通路、こちらが城外避難用の非常用通路と思われます」 「とすると、王族は知っているが他の者は一部しか知らない可能性があるのね」 「はい。その推測と通路近辺のサーチ結果から――」 ジューンはとある道に丸をつけた。 「この非常用通路の先、小刻みに停止を繰り返す移動速度が安定しない個体を侵入したテロリストと推察します」 収集した情報を元に作戦を組み立てる。 ジューンは衛兵をパスしてツギメの寝室へ向かうルートを選び、ボルツォーニが同行することになった。 ロナルドと桂花はあえて衛兵に接触し、衛兵の無効化を試みる手筈だ。 「けれど……二手に分かれて危なくないかな?」 「我々の実力から考えると、一般人ならばどうとでもなるだろう。だが万が一ということがある。そんな時に二手に分かれていれば、片方が行動不能になってもフォローを出来るだろう」 ボルツォーニの言葉を吟味し、ロナルドは頷いた。 回り道にはなるが、ツギメの寝室にはロストナンバー側が先に着くとジューンにより予測されている。そこで2人がツギメに対応している間に接触組は衛兵を黙らせ、騒がれる危険性を排除する。 侵入者……レノは通路から寝室へ向かう最短ルートを知っているはずだ。 ならば、このままいけば丁度2組の間に出る形になる。 「時間に余裕のない挟撃ね。……燃えるじゃないの」 明るいピンクと青のプラスチック二丁拳銃を両腕にぶら下げ、桂花は眼前に真っ直ぐ伸びる廊下を見据える。ここを歩いていけば作戦開始だ。 「そうだ、ちょっとお願いがあるんだよ」 廊下を進みかけ、ロナルドがボルツォーニとジューンを振り返った。 「俺たち以外に侵入者が居るとツギメさんに悟られた場合、それが兄だと知られないようにしてほしいんだ」 「……隠すことが全てその世界司書のためになる、とは思えないが」 「それでもお願いしたい。ただ……兄の想いはきちんと彼女に届けたい、そう思っているよ」 「ツギメ様にはツギメ様の答えを出していただきたいと私も考えています。ですが、不必要な苦しみはもう感じさせたくありません」 ジューンもそう一言添えた。 ここはツギメの記憶の中だ。そして乱れを正せば必ず女王が世界司書となり、全てを失う時が来る。 この景色も何もかも現実のツギメは覚えてはいないだろう。覚えていないからこそ一定以上の悲しみは訪れないが、本来ならば自分のルーツが消滅するということはこの上ない悲劇なのである。 苦しみに苦しみを重ねたくない。それが願いだった。 「……なるほど」 ロストナンバーは失う悲しみを知っている。不安を知っている。 厳しく接するのもいいだろう。しかし同行者はこれから大きなものを失う世界司書に優しさを向けた。 「善処しよう。ただ」 ボルツォーニは声音を低くする。 「いざという時は私は私の考えた対応をさせてもらう。ツギメの生存、レノの殺害が第一だ」 いいな、と同意を求めた声に怒気はない。しかし温かみもない。 優しさの理解は可能だが、ボルツォーニは……優しくはないのである。 ● 「ツギメ様……」 2人にかかれば戸の鍵はあってもないようなものだった。 寝室に入るなりジューンはベッドへと駆け寄る。そこには疲れた様子で眠るツギメの姿があった。 見慣れた色の髪と肌。世界司書の彼女に間違いないが、まだあの不釣合いな傷跡もなければ髪も少し長い。 ここより手前に居た衛兵が起きていたことを考えると、このツギメは眠らされているのではなくごく一般的に眠っている可能性が高い。 それでもジューンは囁かずにはいられなかった。 「ツギメ様……どうか早く目をお覚ましになって下さい。キャルロッテもすぐ再開します。ミル様もお待ちですよ」 様子を見に行った時のミルの顔を思い出す。早く笑顔になってほしい、そう思った。 慈しむ視線を向けているジューンの隣で、ボルツォーニは扉の方を見た。 ……空気が乱れている。 キュイッ! 奇妙な音に衛兵は辺りを見回す。弦を滑らせるように弾いた音に聞こえたが、夜中にそんな音がするのはおかしい。 桂花はそんな衛兵の背中に向かって銃弾を放った。 「がっ……!」 倒れ込む衛兵を支え、壁へと背を預けるように座らせる。 音の反響でロナルドが周囲に動く人間が居ないことを確かめ、桂花が幻覚弾を放ったのである。レノの耳には届いたかもしれないが、それでこちらに来れば良し、急ぎ寝室へ向かっても仲間が既に居るため惨事になる前に駆けつけられる。 「幸せな夢を見ていてね」 幻覚弾はきっと衛兵に良い夢を運んでくるだろう。 衛兵に呟き、桂花はロナルドと共に駆けた。 すぐに曲がり角が見えてきた。T字になったその道を真っ直ぐ行けば寝室、曲がれば隠し通路のある道に出る。 そこへ辿り着く直前、黒いローブの男が2人の前に躍り出た。手には刃の反った長刀。 一触即発と思いきや、ロナルドはバイオリンを床に捨て両手を上げた。 「……何の真似だ」 ローブの奥から声がする。 「よ、夜中の散歩に出たら泥棒に出くわしたんだ、普通の反応だろう?」 わざと怯えた声を出してロナルドは様子を窺う。 男、レノは桂花の方へ視線をやった。手に見慣れないものを持っているが、まるで玩具だ。 それに気が緩んだ隙を突いてロナルドが深く踏み出す。懐へ潜り込んできた彼にレノは腕を突き出して防御しようとするが、その隙間を拳が走り鳩尾を叩いた。 「ッ!」 「息を詰まらせるだけか……きみの体は固いね」 続けて放たれた弾丸に素早く反応し、レノは後ろへ退く。床に出来た焦げたような跡を見て、あの玩具が火薬を用いた立派な武器だと理解した。 桂花の銃口はレノを追ったが、見えたのは背中だった。 二対一で相手は得体の知れない武器を持っている。ここは目的達成を優先したのだ。 続けて放たれた弾丸はヒットしたが、それははためくローブにだけだった。 レノが暗闇に消える前に2人も走り出す。その先には、寝室。 追いついたのは丁度レノが寝室の扉を開けたところだった。 レノはすぐに中には入らず様子を窺っていたが、追ってくるロナルドと桂花に気がつくと寝室の中へと姿を消す。 間髪開けずに聞こえたのは剣と剣がぶつかり合う音……否、ジューンが腕で刃を受け止めた音だ。予想外の事態にレノは息を呑む。 「お前、人ではないな」 「ツギメ様を害しようとするテロリスト……死になさい」 守りたいものに害するのなら、それがツギメの兄であろうが関係ない。 雷を纏った手刀が繰り出される。間一髪避けたレノはベッドの方を見た。寝息をたてていたツギメは突然の騒動に目を覚まし、上半身を起こす。 「なっ……お前たち、何を――」 素早く桂花が麻酔弾を打ち込んだ。彼女は寝室に入った時からツギメの方に注意を向けていたのだ。いらぬ事実を知って傷ついてほしくないのは桂花も同じだった。 レノがローブに手を突っ込み、小さなクナイのような武器を複数投げつける。 その1つをジューンは薙ぎ払い走り寄った。 唸る手刀が狙うのは首。鼻先を掠めたそれにレノの注意が逸れる。 人と人の間を縫うように飛んだ桂花の弾丸は高い貫通性でローブもろともレノの片角を折り飛ばした。頭部を直接揺さぶられたかのような衝撃に片膝をつく。 転がるようにレノはジューンから距離を取った。この人ならざる者からだけは攻撃を食らってはいけない、そう本能が告げている。 「乱れの所為とはいえ、妹を慮らず問答無用? 根本が父親と同じだ」 ロナルドの言葉に4人とも事情と目的を知っているのだと理解した。 「ツギメは父からすべてを受け継いでしまった。そうでなければ、他国で幸せに暮らすならばそれでもいいと思っていたんだ」 レノは歯を食い縛って立ち上がる。 「この国は腐敗しすぎた! 同じやり方を続ける者を長くは放っておけない。このままでは崩壊してしまう」 話し合う時間すらない。なまじ話し合えたとして、出した結論を周囲が認めない。 ツギメに来ていた結婚話は政略結婚だ。それでもこの国から出て暮らすのならば良いとさえ思っていた。国が、王が、王族が腐敗している。高い地位の者は皆が皆甘い汁を吸いたがり、保身に走り、甘ったるい「今」をずっと続けようと暗躍している。 妹に情がない訳ではない。しかし絶望する事実が多すぎた。 「少しでも貧しい人は、この国では安心して朝を迎えられないんだ。きっとそんなこと惰眠を貪る金持ちにはわからないんだろう」 新たな一日を知らせるおはようの挨拶で不安になる人がどれだけ多いことか。 「だからこそ――根源から絶つ!」 絶ってからどうするのか。堕落した王族を皆殺しにし、清い者を王にするのか。 そんな先のことは乱れに惑わされた彼には考えられない。乱れがなければ死んでいたレノには、本来ならば考えることも不可能だったことだった。 床を蹴る。ローブと髪が電撃に焦がされるのも構わずにベッドへと向かう。 目的達成、それしか頭になくなった。 レノと違いツギメは体術を習っていない。もし意識を取り戻していても首を一突き出来る。帝王学すら学んでいないツギメが習ったのは嫁入りに必要なことだけだ。その役目しか与えられていなかった。 生い立ちを思い出し、忘れかけていた妹を哀れむ心が生じた。胸元に広がる痛みはしかし、その心によるものではない。 「っ、な……」 声を漏らすと激痛が走った。 ベッドの上には清楚な寝間着姿のツギメ。つい先ほどまで寝ていた彼女は起き上がっている。両手でしっかりと柄を固定し、真っ直ぐレノの胸に剣を突き立てていた。瞳はまだ夢を見ているかのように色を失っている。 驚いたのはレノだけではなかった。その場に居たロストナンバーたちもだ。そう、1人を除いて。 ツギメの首元には、噛み跡がある。 「に……にいさま」 正気に戻ったツギメは目を瞬かせる。腕や胸が鮮血に染まっていた。 レノはツギメに寄り掛かるようにして倒れる。虫の息だ、あと数分すれば絶命するだろう。 一時的に従者として支配下に置いた彼女へボルツォーニは言葉を介さず情報を吹き込んだ。 このまま放っておいても朝には完全に制御下から外れるだろう。しかしその前にやることがある。ツギメがやるべきだとボルツォーニが考えることだ。 ツギメは政など知らない。 人の心の掴み方など知らない。 金しか見ていない者を動かす術も知らない。 それでも、芯が弱い女ではなかった。 「……兄様。きっといつか、よい朝がきます」 だから、今はおやすみなさい。 切っ先は簡単に喉元へ吸い込まれていった。 ロナルドがレノの剣を手渡し彼の思いをツギメに伝えると、ツギメは刀身の側面を指でなぞっていた。映っている自分の顔に兄の面影でも見ているかのように。 その姿を見てロナルドは兄妹のために曲を奏でる。 昂り傷ついた心に小さな安堵を訪れさせ、曲はレノとツギメを包む。その姿が薄らいだ気がした。乱れが修正され、そろそろここへ居ることも難しくなってきたようだ。 「……ねえ」 桂花がツギメに言う。 「貴女にもいつか良い朝が来るわ。……早く起きてね、可愛い司書さん」 最後の最後、頷くツギメの姿が見えた。 ● 重い瞼を開くと、時計を見なくても何時かなんとなくわかった。 何をしていて眠ってしまっていたのだろうか……そう考えたところで心配げに見下ろすジューンに気がつく。 頭が妙に重たいが、窓から見える復興途中のターミナルと延々と続く緑色の樹海を見て自然に思った。 「――おはよう、いい朝だな」
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