深い樹海に鎖された0世界の大地をよそに、復興にわくターミナル。 世界司書たちは、さまざまな激務に追われ、忙しい日々を送っていた。そんなある日のこと―― とある世界司書が仕事中に倒れた、と連絡があった。 アリッサが駆け付けたとき、そこでは同僚の司書たちが難しい顔で本の山と格闘していた。「どうしたの……?」「最初は過労かと思ったのですが、そうではないようなのです」 応対した司書は告げた。 事態は思ったよりも突飛で、重大であった。「私たちロストメモリーは、記憶を封印することで真理数0を獲得します。その封印された記憶は『アーカイヴ』に保存されます」「そうね」「つまり、ある意味、私たちはつねにアーカイヴ遺跡とつながりを持っている……そう言っても良いのです」「……! それじゃあ」「そのとおりです。先のチャイ=ブレの一時覚醒と、世界樹との戦いにより、アーカイヴ遺跡内にも破壊が生じました。その結果、保存されている情報に乱れが発生したようなのです」 その結果、世界司書が意識障害に陥ったのだろうということだ。 アーカイヴは自己修復機能を持つため、時間とともに問題は解決すると思われるが、それまでは、いつ、どのロストメモリーに症状があらわれるか予測できず、すでに発症したものには対処を要する。 「稀な事例ですから、対処法を見つけるのに苦労しました。しかし」「なんとかなりそうなの?」 司書が頷いたとき、がらがらと音を立てて、台車で運ばれてきたものがあった。「え……壺……?」「『壺中天』です」「――と、いうわけで、みんなは、この『壺中天システム』を使って、意識だけアーカイヴへ行ってもらいます。アーカイヴ遺跡深層『記憶宮殿』。そこには司書のみんなの記憶が封印されているの。倒れた司書の記憶に接続するから、みんなはその中に入り込んでもらうことになるわ。司書の……記憶の中に」 『壺中天』とはインヤンガイで普及している仮想現実ネットワークだが、今回はその技術が応用できた。 司書の記憶の中に入り込み、中で生じている「乱れ」を正すことで、司書は目覚める。 乱れとは、「本来、その記憶にはなかった要素」のことだ。 たとえば、ある司書が、故郷で、ドラゴンと戦って勝利した記憶を持つとする。ところが今、『記憶宮殿』に生じた乱れのため、「ドラゴンに敗北した記憶」になってしまっている。これが昏睡の原因なのだ。そこで、壺中天を通じて記憶に入り込み、もとの記憶に沿うよう、ドラゴンに勝たせてやればよい。なにがもとの記憶と違っているのかは、記憶に入り込めば直観的に知れるという。「ひとつ、約束してほしいの」 アリッサは赴くことになったロストナンバーたちに言った。「みんなは、本人さえ、もう思い出すことができない、封印された記憶に立ち入ることになる。プライバシーを覗き見てしまうことにもなるでしょう。だから戻ったあと、『記憶宮殿』で見聞きしたことは、本人はもちろん、この先誰にも、決して話してはダメよ。一生、秘密にしてほしいの。この約束が守れる人だけに、この任務をお願いします」 * * * ユキムラ。 そう呼ぶ声に、信ノ城(しなのぎ)ユキムラは顔を上げた。 始まりを待っている間に、物思いにふけってしまっていたらしい。「どうした、緊張しているのか」 静かに響くのは、低い、人の心を鷲掴みにして離さない美声だ。「信ノ城一の武人ともあろう男が?」 からかうような声音に、「……そうだな、そうかもしれない」 ユキムラは生真面目に頷き、腰の刀を確かめる。 彼は、他の有力武将たちが持つような、神秘にして強大な力は持っていない。彼にあるとすれば、抜きんでて優れた剣の腕、随一と称され、領を持つ武将の誰もが配下に欲しがったというそれだけだ。「主人の命が危機にさらされるかもしれないと知って、緊張しない従者はいないだろう」 口にすると、じわりと薄暗い不安がにじむようで、ユキムラは顔をしかめた。 事実、この非公式の訪問が、どれほどの危険をはらむか、双方、理解できないはずがないのだ。「ヒノモトがひどく乱れていることはずいぶん前に説明しただろう。しかも、別の【箱庭】からの訪問者まである。この時期、たったふたりで会合に加わるなど、正気の沙汰とは思えない。本来ならば、止めるべきなんだろうが……」 ふ、と息を吐き、真っ直ぐに見やる。「クルクス、あなたが、それを必然と言うのなら」 ユキムラの視界に飛び込んでくるのは、まぶしいほどの金髪に滑らかな白皙、理知的で鋭い碧眼、高貴さをにじませた美貌だ。丈高く雄々しい、鍛え抜かれた全身から、誰もかれもを魅了してやまない、壮絶なまでのカリスマがあふれる。 ――至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレの若き皇帝、クルクス・オ・アダマースその人である。 ユキムラにとっては、行き場をなくして流れ着いた己を拾ってくれた恩人であり、命を賭けて悔いない主人であり、それと同時に、たったひとり心を開き安らぐことのできる友人でもある。「判ってる。あなたは、嘘を言わない。あなたがそうしなきゃいけないというのなら、それは本当に必要なことなんだ」 彼が、どうしようもない事情でここへ足を運んだこと、他に方法がなかったこと、考えに考え抜いた末でこれを決断したことを、十数年のつきあいでユキムラは熟知している。だからこそ彼は、放逐された故郷である【箱庭】へと、主人を案内して再びやってくることになったのだ。「お前の言うとおり、正気の沙汰ではないだろうな。だが……」「……でないと世界が滅びる。そうだろう?」 神の力に触れることも出来ない、ただの人間であるユキムラには、その真偽を確かめることは不可能だが、クルクスが決して自分を裏切らないことを彼は知っている。 だからこそ、命を賭ける覚悟すらして、ここへ来たのだ。「太守様がお会いになる、参られよ!」 不意に、障子の向こう側から呼ばわる声がして、ユキムラは奥歯を噛みしめる。皇帝陛下は、特に緊張するふうでもなく、泰然と立ち上がり、歩を進めている。 その、広くたくましい背を見つめ、なにがなんでも護らなければ、そう心に決めて、ユキムラはあるじの隣へ並ぶ。 * * * それは、確かに、『エル・エウレカ』復興後のお茶会で倒れ、そのまま眠り続けている贖ノ森 火城だった。 司書室で依頼を行い、『エル・エウレカ』で包丁を握って喜んでいる、あの火城と寸分たがわぬ造作の、しかし、今の彼とは違ってどこか危うい雰囲気を持った男が、絶世の美男子としか表現しようのない、貴公子中の貴公子といった趣の男とともに書院造に酷似した廊下を歩いていく。 貴公子は、年こそ若く見えるものの、現在シャンヴァラーラにあるすべての【箱庭】を統合すべく侵略を行っている至厳帝国皇帝、クルクスに相違なかった。 どういうことだ、と訝しむ間もなく会合は始まり、いくつかのやり取りがあって、その時が来る。 この秘密の会合に参加していたのは、ヒノモトの尾ノ江(おのえ)、奥ノ州(おくのす)、三ノ河(みのかわ)、北ノ条(きたのじょう)、金ノ沢(かねのさわ)の五家。そして、ティエンランやエル・アララト、その他力ある【箱庭】の王や太守など、合わせて十二の勢力が一堂に会していた。 はじめから不審と敵意ばかりの有力者たちに――何せ、このときすでに、帝国はシャンヴァラーラでも一二を争う力を持っていたから――、クルクスは冷静さを微塵もゆるがせることなくただ事実だけを述べ、その解決策を提案する。彼は頭を下げすらした。どうか、協力してほしい、と。 彼が命令することなど何ひとつとしてなかった。 クルクスはクルクスの中の、信念と正義と愛によってこの行動を起こし、情報を提供し、提案したにすぎないのだ。 しかし、それは、戦乱に歪んだヒノモトや、権謀術数渦巻くティエンラン、その他の乱れを抱えた国の有力者たちには受け入れられず、また信ずるに足りぬと吐き捨てられたとして、どうしようもない事柄でもあったのだ。「のこのこと乗り込んできた挙句、言うのはそれだけか。……もういい、殺せ!」 尾ノ江領の太守が激昂し、命を下す。 部屋へ雪崩れ込んできた兵士たちが、いっせいに刃をきらめかせ、クルクスを狙う。 彼が死ねば、帝国を落とすことも難しくはない。豊かな帝国が自領になれば、世界を我がものとすることすら夢物語ではない。彼ら、秘密の会合にクルクスが加わることを許したものたちは、最初からそれを狙っていたのかもしれなかった。「……やはり、間違っていた」 突き込まれる剣、槍をすべて止め、斬り飛ばし、次々と兵士たちの意識を失わせたのは、ユキムラと呼ばれている火城だった。「あなたをここへ連れて来るべきではなかった。こいつらに、話が通じるはずなんてなかったんだ」 信ノ城の面汚し、ごくつぶしの末息子の分際で。そう罵る声にも表情ひとつ変えず、男は主人を促す。「……行ってくれ、クルクス」 ユキムラの赤眼は、揺らぎもせずまっすぐに敵将たちを見据えている。「あなたが死ねば、どちらにせよ世界は滅びる。何もせず滅びを待つくらいなら、あなたを護って死ぬほうがいい」 しばしの沈黙ののち、クルクスは頷いた。 そして、腰の剣を鞘ごと引き抜き、ユキムラへと渡す。ユキムラの刀は、自然、クルクスの手の中へ押し付けられた。お互い、これまで、何度も取り替え、約束のように、形見のように、絆のように扱ってきた得物だ。どちらでも、不自由はない。「頼む」 生きて帰れとも、死ぬなともクルクスは言わなかった。 最初から、ただ一縷の望みを託すためだけに、ふたりはここへ来たのだ。 それはほとんど、クルクスのわがままとでもいうべき願いで、つまるところユキムラは、彼のわがままにつきあって死ぬつもりでいるのだった。「……すまん」 背後で、踵を返す気配がする。 障子を蹴破り、クルクスが外へと駆け出してゆく。 あとを追おうとする兵士を一閃にて斬り捨て、次々と血の海をこしらえながらユキムラは微笑む。 生まれてこの方、何ひとつとして意味を持たなかった自分を、たったひとり必要としてくれた男だ。彼のために戦い、彼のために死ねるのなら、それはむしろ幸せですらあるのだろうと思っていた。 * * * だが、そこで、『乱れ』が起きる。 本来なら、ユキムラは館の人々と戦って――実に、半数の人間がそこで命を落とした――瀕死の重傷を負い、その結果覚醒することになっている。 クルクスは、深手を負いながらも逃げ延びた。 ユキムラが追手の大半を引きつけたのと、当時六歳と八歳だった現奥ノ州・尾ノ江の為政者、マサムネとノブナガが――当時の幼名を、梵と吉といった――、クルクスの脱出を助けたからだ。 しかし。「クルクスが捕らえられた? なぜ!」 使い込まれなじんだ剣を、血塗れの手で握り締め、ユキムラは呻く。 皇帝は尾ノ江・奥ノ州の手のものによって捕縛され、牢へと押し込められたという。そして、拷問の末、明日にも処刑されるだろうという。「そんな……」 のしかかる疲労が脱力感を連れてくる。 館を恐慌状態に陥らせるほどの勇猛ぶりを発揮し、鬼神のごとき働きを見せたユキムラも、すでにかなりの深手を負っていた。牢へ侵入し、クルクスを救出するだけの力はもう、残されていない。「こんなふうに別れるために、喪うために、あなたを行かせたわけじゃない……!」 絶望が土を掴ませる。 無念が、涙のかたちになって、彼の頬を滑り落ちる。 これが、『乱れ』だ。 クルクスは生き延びなければならない。 そして、ユキムラは、死に瀕するだけの傷を負わなければならない。 ――物々しさを増してゆく館を行き、立ちはだかる猛者たちを打ち倒して。 その、永遠の別れを、深い絆によって結ばれたふたりに突きつけることこそ、記憶の乱れを正して火城を目覚めさせる手段であり、ロストナンバーたちに託された仕事にほかならないのだ。 ひどく重苦しい仕事だ、そうつぶやいて、ロストナンバーたちは喧騒に湧き立つ館へと足を踏み入れる。========!注意!このシナリオのノベルは、便宜上、公開されますが、世界観的にはすべて「秘された内容」となり、参加キャラクターの方だけが知る出来事となります。========
1.思いそれぞれに 館は、夜の暗がりに沈んでいる。 しかし、沈黙とは程遠い喧騒が、館から眠りを奪っている。 篝火が空を焦がし、星を舐める。 館にはぴりぴりとした空気が満ちている。 侵入は速やかで静かだった。 ロストナンバーたちが、それぞれの特殊能力を駆使して――ここでは、特別能力を制限されることはないようだ――目立たないように忍び込んだからだが、同時に、出て行こうとするものへの警戒が先に立って、入ってくるものに対してはあまり注意が払われなかったのもあるだろう。 「ふン……ものものしいこッた」 ジャック・ハートがつぶやく。 彼の眼は、鋭く周囲へ向けられている。 屋敷は騒然としていた。 慌ただしく走り回る足音、金切り声に近い怒声、甲冑がこすれ合う音、焦った誰かがひっくり返しでもしたのか、何か大きなものが倒れる音もする。音を辿っていけば、おそらくその先にはユキムラがいるはずだ。 「……こっちだ」 その方向を見極め、一二 千志が皆をいざなう。 彼の、普段から険しくしかめられた、今に至ってはいつもより不機嫌そうな顔は、厄介ごとに自分を巻き込んだもろもろへの不満や憤りのように受け取られたかもしれないが、しかし、実を言うと、千志は怒ってなどいないし、ユキムラを羨ましいと思っているくらいなのだ。 必要としてくれる人がいて、最後まで友を裏切らずに戦うことが許されて、最後まで自分の信じたものを信じていられる。 それは、千志が、深く強く望んでもついぞ得られなかったものばかりだったから、そんな場合ではないと思いつつも、彼は憧憬めいた羨望を抱かずにはいられない。 そして、だからこそ、ここで絶望するユキムラを見たくないとも思うのだ。 (……そうだ。たとえ、瀕死の傷を与えるのが俺の役割だとしても) ゆえに彼は唇を引き結び、むっつりとした表情で――内心では、繊細な悲哀が声を上げているにしても――、迷うことなく進んで行く。 その隣を、油断のない足運びで歩く村崎 神無もまた、凛々しい唇をキュッと結んだまま、これから永遠の別れを迎えようとしているふたりに思いを馳せていた。 (誰かのために死ねる、か……) その気持ちをとてもきれいだと思う。 きれいで、とうといと思う。 自分にはきっと出来ないだろうと思うから、なおさらそう感じるのかもしれない。 (もしも私が死ぬべき状況にあったとして、私にそれが出来るかしら。……ううん、きっと、未練で躊躇ってしまう) 逆に、自分のために誰かが命を落としたらと考えて身震いしそうになる。 残される哀しみ、自分のために誰かの命を喪わせる苦しみに、おそらく神無は立ち直れなくなってしまうだろう。事実、今の神無は、そうやって喪ったことに囚われたまま、贖罪の道を探して彷徨い続けているのだ。 (人を信じて、貴んで、そのために命を賭けられる。それは、なんて純粋なんだろう) だから、神無もまた、彼らの絆と信念に、尊敬と羨望に似た思いを抱いている。この先に待ち受けている、不可避の別れに心を痛めつつも。 ラス・アイシュメルはというと、呪言を用いてメンバーの存在感を薄め、『見つかりにくい』状況をつくりながら進んでいた。 「ロストメモリー、か……」 彼もまた思うところがあって参加したクチだ。 全方向に気を配り、油断なく危険の有無を探りつつ闇を見据え、ラスはずっと考えていることを思考の中に転がす。心の奥底がざわめいているのが判って、彼は誰にも見えない位置で、こっそりと皮肉げな笑みを浮かべた。 「彼らに、後悔はあるんだろうか」 ほとんど吐息に近い独白に気づいた者はいなかったが、それは、ラスの存在にもかかわる疑問だった。 全身全霊で果たしたかったこと。譲れない信念。やぶれない約束。護ると誓ったもの。見届けたいと願った未来。触れたいと切望したもの。得たかったもの、叶えたかったこと、辿り着きたかった場所。 それらは自分をかたちづくる根っこそのもののはずだ。 その、己が根幹にかかわるすべてのものごとを忘れて生きることは幸福なのだろうか。何もかも忘れてしまった自分に後悔はないのだろうか。思い出せないことに焦燥を覚えることは? ラスは、それが知りたかった。 ――彼はたくさんのものに囚われている。 過去と復讐、怒り、苦痛、憎悪、絶望。 それら、重苦しい枷にずっと囚われたまま、身動きも出来ずもがいているのが現状だ。痛いだけ、苦しいだけ、負ばかりの過去だが、それはすなわち自分をかたちづくるものでもある。この負も自分だと思うと、己を保つためには縋りつき続けるしかない。捨てられないのだ。 そのラスにとってロストメモリーとは不思議で、とても気になる存在だ。 自分の捨てられない、必死でしがみつくしかない記憶を封印し、0世界で生きることを決めた人々。 彼らの内面を、今の想いを知りたい。 ラスがこの依頼に参加した理由の大半はそれだった。 と、その横で、テリガン・ウルグナズが盛大な溜息をついた。 「どうしたんです、テリガンさん」 ラスの問いに、カラカルの姿をした悪魔は、再度億劫そうな息を吐く。 「ん? や、皇帝を助けたあと、火城……いや今はユキムラか、あいつを瀕死にしなきゃいけねぇんだな、ってさ」 「――気が重い?」 「正直、気が進まないってとこは、ある」 「でしょうね。決して楽しい仕事ではない」 「おうよ。けどさ、そうしなきゃ火城は眠ったまんまなんだろ? オイラがもちうましてるすぐ傍でぶっ倒れたしさー、放っておくわけにもいかねぇじゃん。あのままじゃ、皇帝も火城も気の毒だし」 「その通りなのです」 小さくうなずくのはシーアールシー ゼロだ。 いかなる美的感覚の持ち主にも窮極のと認識される、しかし誰ひとりとしてその容姿に心動かされることはないという理不尽美少女は、その白い面にほんの少し、悼みを載せている。 「信ノ城さんや皇帝陛下には信ずるところがあって、でも斬られた人たちにもそれぞれの人生と思いがあって、……世界は理不尽なのです」 「だな」 「記憶の歪みとは、ありえたかもしれない別の人生の夢なのです?」 「さあ……どうだろ。でも、そうかもな。パラレルワールドは分岐点の数だけ存在してもおかしくねーし」 あの時、喪わなければ。あの時、離れ離れにならなければ。あの時、覚醒していなければ。 きっと、別々の未来がそこには広がっていたことだろう。 「ゼロたちの知る火城さんは、ここで覚醒して故郷を失った信ノ城さんなのです。なすべきことをなさないと、ゼロたちの知る火城さんはいなくなるのです」 ゼロの言は、どこか厳かだ。 「ここでのゼロたちは無二の友に別れをもたらす悪役なのです。ゼロは悪役に徹するのです」 それが現実でなくとも、罪は罪として受け止める。 「恨まれたとしても、構わないのです」 親友を、故郷を、過去を、記憶を奪う悪辣な使者だと罵られても構わない。 その覚悟を持ってここへ来た者もまた、少なくはあるまい。 と、 「みんな、こっち!」 低く鋭い声が、暗がりからロストナンバーたちを呼ぶ。 人々が顔を見合わせ、敵影がないことを確認してから飛び込むと、声の主、蓮見沢 理比古が、今にも崩れ落ちようとするユキムラを抱きとめるところだった。彼は、ユキムラが身を隠しながら皇帝救出の機会をうかがえそうな場所を重点的に探して歩いていたのだ。 案の定、ユキムラは物陰に身を潜めていて、いよいよ出血と痛みと疲労で倒れそうになったところを理比古が見つけた、という次第だった。 「……あんた、たちは……?」 「俺ァローザ様の依頼で来たンだ、大事な兄とその友人を無事帝国まで連れ帰ってくれッてナ」 ジャックが飄々と言うと、ユキムラは理比古に抱き留められながら驚きに目を瞠り、それからふっと笑った。 「そうか……ありがたい。天の助けとはこれを言うのか。――俺のことはいい、陛下を、クルクスを頼む。俺が囮になるから、その間に彼を」 全身を傷で埋め、血で赤く染まった凄惨な姿で、剣を杖代わりにユキムラが立ち上がる。――彼は戦うつもりなのだ。自分のところに敵を惹きつけておいて、クルクスの脱出を容易にするつもりでいる。 「……ユキムラさん」 理比古は、気を緩めたら涙が出そうだ、と思いつつユキムラを支えた。 まさか火城が、自分に救いと希望をくれたシャンヴァラーラの出身、しかも至厳帝国皇帝の関係者だったとは。 それを思うだけで、理比古の心の中は、何としてでも皇帝を助け出し、火城を目覚めさせねばという決意でいっぱいになる。シャンヴァラーラにも、皇帝にも、火城にも、理比古はよい感情をたくさん抱いている。 何より、理比古には自分のために命を賭けてくれるしのびがいる。だから、皇帝のために命を賭けようとしているユキムラにも、ユキムラを残して行かざるを得ない皇帝にも共感することが出来る。 ユキムラを火城に戻し、目覚めさせることは、すなわち、「お互いが生きている」という救いになり得るはずだ。――たとえ、ふたりがもう一度出会うことはないにしても。 「ありがとう……あんたたちのお陰で希望が見えた。俺は、務めを果たそう」 失血のせいか、ときおり上体を揺らがせ、息を荒らげつつも、ユキムラの眼はまだ光を失っていない。『天の助け』のおかげで意識がはっきりし、戦意がよみがえったのだろう。ユキムラからにじみ出るのは、壮絶な覚悟と、なにがなんでもクルクスを帰すという依怙地なまでの意志ばかりだ。 「行ってくれ。あんたたちまで死ぬ理由はない……俺が、道をつくる。だから、どうか、クルクスを」 甲冑の立てるがちゃがちゃという音が近づいてくる。 野太い声が、この辺りにいるはずだ、くまなく探せ、と命じている。 そう遠くなく、ここも見つかるだろう。 「さあ、早く!」 ユキムラが深呼吸をして剣を握り締めた。 「ちょっと待ってくださいなのです」 そのまま飛び出していきそうになったユキムラを、ゼロが呼びとめる。 何ごとかと見やる彼へと律儀にお辞儀してから、 「こんにちは、初めまして? なのです。ゼロはゼロなのです」 そう言って、ゼロは光る塊をかかげてみせた。 「ナレッジキューブ?」 テリガンの問いにこくりと頷く。 壺中天使用中とはいえ、ここはターミナルである。よってここではナレッジキューブの万能の力が使えるはずである。……という仮説をもとに、ゼロは、『壺中天内で様々な場面に応じて使い分けられるエネルギー珠』を錬成、仮想空間内に持ち込んでいたのである。 それそのものではないが、限りなく近い性質を持った力の珠は、数に限りこそあれ、戦いを有利にすることだろう。 「ゼロは“白い使者”の異名を持つ死神の一柱なのです」 やはりどこか厳かにゼロが告げる。 「信ノ城さんと皇帝陛下の離別を代償に、陛下を救出するのです。もちろん、信ノ城さんの傷を癒して戦いを可能にもするのです」 それが、皇帝救出後ユキムラに瀕死の重傷を負わせねばならない任務の伏線だと皆が気づいていた。そのため、非情な交換条件に言葉を差し挟む者はいない。 「ゼロは信ノ城さんの命が欲しいのです。それは救出完了の確認後で結構なのです。ゼロが皇帝陛下を救出したら、信ノ城さんの生命を差し出してもらうのです」 ユキムラは躊躇ひとつしなかった。 「判った。それが必要ならば、いくらでも」 あまりの潔さに、神無が悼みをこらえる眼をしたほどだ。 「了解なのです。では」 ゼロが言うと同時にエネルギー珠が光を放ち、ユキムラを包み込む。光に触れると、彼の傷はわずか数秒でふさがり、血の気を失って蒼白になっていた顔にも赤みが戻ってくる。 自分の身体を確かめて、ユキムラが驚きの表情をした。それからすぐに唇を引き結び、暗がりから飛び出していく。視線が、深い感謝と、クルクスを頼むという強い願いを物語った。 そのあとを、ジャックとテリガン、そして千志が追う。 広い庭へと飛び出し、今まさにこちらへ向かって来ようとする兵士たちを前に剣を握り直したユキムラは、ひどく不思議そうな顔をした。ジャックがにやにや笑って肩をすくめる。 「なァに言ってンだ、テメェだけじゃ心許ねェに決まってンだろ。俺も加勢してやるヨ」 「正確にはオイラたちも、だけどな!」 「言葉のアヤってやつだ、気にすンな。ッてことで行くかァ、館ァぶっ壊して盛大に引っ掻き回してやるぜェ」 「……建物を壊すのは勘弁してくれ、身動きが取れなくなる。それに、ここには非戦闘員もいるんだ」 「甘ッちょろいヤツだなァ、テメェはヨ。……でもまァいい、死にゆく男の願いくらい叶えてやるヨ、俺様は寛大だからなァ」 やはりにやにやと笑い、ジャックは身構える。 四人を発見した兵士たちがいきり立ち、物騒な光をきらめかせながら殺到する。 この先、兵士を無数に呼び寄せるであろう、ほら貝の音が高らかに響いた。 2.闇にて交錯す クルクスの救出に向かった四人は巧みな連係で牢へと近づいていた。 『囮』たちが派手な陽動を行ってくれているのだから、こちらで騒ぎを起こすのはまずい。彼らの目的が何であるのか、みすみす敵に教えるようなものだ。 「すみません、罪人に水と食事を与えよと言われたのですが、牢はどこにありますか? 俺はここへお勤めにきて間がないので、場所が判らなくて」 理比古は、顔立ちが同系統であることを利用して着物を身に着け、屋敷の関係者を装って内部を探ったのだが、くせのない、誠実でやさしげな顔立ちのおかげで疑われることもなく、牢への道のりを知ることが出来た。 道が判ると、今度はラスが呪言を用いて影の鼠をつくり、先行させて牢と牢周辺を探った。 牢までの最短距離および見張りの数と配置場所を記憶し、なるべく鉢合わせしないよう慎重に進む。 運悪く出会ってしまった見張りは、ラスが「現実には影響がないし、我々も余裕がないのだから」と殺そうとするより早く、電光石火の勢いで刀を閃かせた神無が峰打ちですべて倒してしまった。 「お見事。でも、ここは仮想空間なのに、律儀ですね」 ラスが、感嘆とともに、純粋に不思議だという感情を載せると、 「……それでも、こちらが相手を殺す理由はないから」 神無は静かに首を振り、まっすぐに前を見据えた。 渡り廊下を横切り、庭を突っ切り、階段を上り下りしてしばらくすると、地下の奥にある牢が近づいてくる。ここは、特別な罪人、囚人を捕らえておくための場所であるらしく、護りも非常にものものしい。 真正面から馬鹿正直に突っ込めば目的を声高に暴露するようなものだし、かといって抜け道や秘密の扉のたぐいは存在しない。 「ラス君、存在感を薄くする魔法みたいなの、使えたよね?」 「魔法ではなく呪言ですが、私も同じことを思っていました」 理比古の問いに頷き、ラスが再度呪言を展開する。 念のため、“屋敷へ奉公に上がったばかりの使用人”のままの理比古がひとりで牢番の前へ進んでみたが、兵士たちは理比古を一顧だにせず、鋭い目を闇の中へ向けるばかりだ。 兵士たちの前へ恐れるでもなく――自分の存在が認知されていないから、という理由だけではなさそうだ――近づいた理比古が、目の前でひらひらと手を振ってみせ、それでも反応が返らないことを確かめてから手招きする。 物々しく重苦しい石づくりの地下牢へ踏み込むと、濃厚な死の臭いが漂ってきた。これまでに、何度も、怨嗟と憎悪と絶望を撒き散らしながら、この館の主人にとって都合の悪い人々が、ここに捕らえられ死んでいったのだろう。 「権謀術数は人間の業……だけど、そのために皇帝陛下を死なせるわけにはいかないよね」 脱出の際、何らかの要因で見咎められると出口をふさがれる恐れがあるため、神無が、内部に配置された牢番を速やかに昏倒させていく。あまりに速く、それでいて丁寧な『仕事』ぶりで、牢番たちは悲鳴を上げることも物音を立てることもなく、静かに意識を失った。 数分もすると、頑丈な鉄の柵で覆われた牢が姿を現す。 四人が駆け寄ると、中には、豪奢だが品のいい衣装に雄々しくも美しい肉体を包んだ美貌の貴公子がいて、薄汚れた牢の真ん中で胡坐をかき、座っている。 傷を負っている様子はなかった。拷問と処刑は同時に行われる予定だったのかもしれない。 そして、彼の表情に絶望はなかった。取り乱した様子もない。 瞑想にふける求道者のように目を閉じ、微動だにしないさまは、威厳とカリスマにあふれている。 「皇帝陛下」 理比古が呼ばわると、クルクスは目を開けた。 鮮やかな碧の眼が暗闇の中できらりと光る。 「……誰だ。奴らの手の者ではなさそうだが」 「あなたを救出するよう言いつかって参りました。今お助けします」 いかに不思議のわざを用いて目をくらませているとはいえ、時間が有り余っているわけではない。囮役の四人のことも気がかりだ。ことは迅速に運ばねばならないが、残念ながら牢の鍵は見当たらなかった。 あちこち探す時間も惜しく、 「ここは私に」 ラスがギアの鉄杭を自分の手へ思い切り突き立てる。 いったい何を、と誰かが驚く暇も与えず、その傷を牢の鍵に移す。と、鍵はかすかな音を立てて粉々に砕けた。扉を開き、促すと、クルクスはダメージをかけらも伺わせない足取りで素早く鉄のそれをくぐった。 ゼロが試すように問う。 「ゼロたちを信用するのです? もしかしたらゼロたちは皇帝陛下をだまして絶望させて殺すつもりなのかもしれないのです」 しかし若き皇帝は表情を動かすこともなく、 「ここにいても、ここから出ても死ぬ運命なら、あんな狭苦しい場所より外のほうがよかろう。ましてや、他に手のない状況においては、何でも乗ってみるに越したことはない」 あっさりと言い、先に立って歩き出した。 「外には見張りや兵士がたくさんいるのです。ユキムラさんが食い止めているはずですが、それもすべてではないのです」 「……ユキムラは」 「残って戦うそうなのです」 「そうか」 そこに含まれる意味が理解できない皇帝陛下ではあるまい。彼はほんのわずか、瞑目し、何かを振り払うように前を向く。 「ならば、なおさら、生きて帰らねばならん。あれは、私が殺すも同然なのだから」 頷くと、ゼロがエネルギー珠を使って目くらましをかける。ラスの呪言と同じく、『人目に触れなくなる』たぐいのものだ。 その力で難なく牢から脱出すると、クルクスは四人を先導して進んだ。ひと気がなく、危険の少ない道ばかりだ。我が身の安全を図るためだけではなく、おそらく、クルクスを『救出』に来た四人をおもんぱかってのことだろう。 「安全な道をご存知なのですか」 油断なく辺りに目を配りながら神無が問うと、皇帝は頷いた。 「会合の前に一応の下見はしておいた」 その言葉は、ひとつの事実を物語る。 「……いったい、何があったんですか? 脱出路を確認するくらいだから、皇帝陛下はこの会合が危険だとご存知だったんですよね。それなのに、どうして、あえてここへ?」 「ゼロもそれが知りたかったのです。いったいどのような提案をして、彼らをそんなにまでいきり立たせたのです? それに、皇帝陛下はどうして世界の滅亡に気づけたのです?」 理比古とゼロ、ふたりの問いに、皇帝はしばし沈黙し、 「危険をおかしてまで救出に来てくれた者たちに、だんまりを決め込むのも非礼か」 ややあって、再度口を開いた。 長くなるぞ、と前置きをして、小走りに進みつつ滔々と語り始める。 「光神ルーメンには半身たる神がいた。闇神ウムブラという、光神とは反対の属性と意味で世界に遍く存在だった。シャンヴァラーラに存在する神の中では特に強大な力を有するものの一柱で、公式の記録にはないが、彼もまた至厳帝国の守護神だった」 「……過去形なのは、もういないから、ですか?」 「ウムブラは、ルーメンが最初に吸収・同化した神だ。それも、ウムブラ自身の意志で」 クルクス曰く、ウムブラは光の届かない場所のできごとや存在に精通していたのだそうだ。 ルーメンが光の下を、ウムブラが闇の中を見守り、帝国を繁栄させた。 しかし、ある日、ウムブラは気づく。 至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレのみならず、シャンヴァラーラに存在するすべての【箱庭】の奥底に、何か得体のしれない、そのくせとてつもない滅びの気配をはらんだモノがわだかまっていることに。そしてそれは、なぜか、ウムブラたち神の力をもってしても、捉えることが容易ではなかったのだ。 「ウムブラは死や幽世といったものを司る神でもあった。深部、トコヨ、黄泉、我々生きたシャンヴァラーラ人が踏み込むことのできない領域にも詳しかった。そのウムブラが、触れるどころか知覚することすら困難だったのだ。闇のうちにあってすべてをみそなわすはずの目をくらませるソレに、ウムブラが抱いた疑念と不審は理解出来る」 ウムブラは、その司るものから恐れられがちだが、実際には慈悲深く公正な神だ。彼は生命を愛していて、世界の平らかな存続を願っていた。何より、自分と半身が数百年にわたって護り続ける帝国の人々の幸いを望んでいたし、二十五歳の若さで帝位についたクルクスを溺愛してもいたのだ。 あの滅びを放っておくことはできない。 ウムブラはありとあらゆる手段を試みたのち、卒然と悟る。 一柱の神の力では不可能なのだと。 あれがどこからやってきたのかは判らない。しかしおそらく、それは自分より上位の力を持つのだろうと推測するのは容易かった。そうでなければ、自分がソレを認識できない理由が見つからない。 ウムブラの決断は早かった。 「……ウムブラは、ルーメンに己を吸収させた。むろんルーメンは渋ったが、最後には説き伏せられたようだ」 結果、半身を喪うことで光と闇双方の力を有する神となったルーメンは、ソレを認知の中へ捉えることに成功する。 「だが、それは、新たな困難の始まりだった」 各【箱庭】ひとつひとつの深部に根を張る不可解な棘。 不吉で狂おしい感情と力をはらんだそれは、じわじわと【箱庭】を蝕み、やがて崩壊させてしまう。 クルクスがその事実を知ったのは二十七歳のころ。光神の絶対的な加護と愛を受けているがゆえにもっともルーメンに近かったクルクスにも、あの不気味なわだかまりを知覚することが出来たのだという。 ルーメンとともに、秘密裏に調査を開始してみると、記録の残っている限りでは、確かに【箱庭】の数は減っていた。崩壊を迎えた【箱庭】には何も残らないため、その消滅を気づかれていない場合も少なくないようだった。 逃げ場すらない滅びについて大々的な発表を行うことは困難で――しかも、証拠と言えばルーメンとクルクスが『見た』ということだけだ――、ならばどうにかして棘を抜き去れないかと何度も試みたが、うまくはいかなかった。 研究がうまくいかないまま五年の月日が流れ、棘の侵蝕が深まっていく。五年のうちに、ふたつの【箱庭】が消滅していた。 ――そして、ルーメンとクルクスもまた、悟るのだ。 ひとつの、おそろしい事実、シャンヴァラーラに存在するあまたの神々を犠牲にせざるを得ないそれについて。 彼らはヒトならぬ力を持ち、世界を護ってはいるが、個々のみでは、深部にわだかまる異変――つまるところトコヨの棘だ――をどうすることも出来ない。触れることも、破壊することも不可能で、それどころか、ほとんどの神にとっては、その性質上、知覚することすら出来ないのだ。 それを鑑みれば、皇帝の持ちかけた提案も、自ずと理解できる。 そして、それが受け入れられなかったわけも。 「過去にもしもを言うのは簡単で無意味だけど……哀しいね」 理比古が、そっと目を伏せた。 その先に、深い深い闇を内包する森の入り口が見える。 ――出口だ。 3.大馬鹿者の挽歌 時間は少しさかのぼる。 テリガンがユキムラに『契約』を持ちかけている間、ジャックと千志は囮役に専念していた。 救出組からは、まだ連絡が来ない。 皇帝が無事脱出したのを確認してから、ユキムラを瀕死の状態に陥らせなくてはだめなのだ。もう少し、時間がかかりそうだった。 とはいえ、ジャックなどいつも通りの陽気さで、向かってくる兵士たちを次々戦闘不能に陥らせていくだけだったが。 「ヒャヒャヒャヒャヒャ、雑兵が俺サマに敵うと思うなヨ!? 吹き飛べ、テンペストッ!」 突風系PSIを駆使して嵐を巻き起こし、一般兵士たちを薙ぎ倒し、吹き飛ばす。ハート氏族のジャックたる彼の異能に対抗し得るものはおらず、辺りには悲鳴と怒号が行き交う。 とはいえ、最終的な目的は『ユキムラに致命傷を与える』ことだ。なるべく自然なかたちで、と思ったら、戦闘中に敵兵の攻撃で傷を負わせるのが一番だから、やりすぎるわけにもいかない。自然に持っていくことが不可能なら、透視と念動を使用して臓器のひとつも握り潰そうと考えているジャックだが、少しずつ使う力を減らし始めていた。 その後方では、テリガンがユキムラに契約書を差し出している。 「先に言っておくけど、オイラはあくまで“力を貸す”ことしかできない。その力をどう使うかはアンタ次第だ」 よく、“何でも叶えてもらえる”と勘違いされるテリガンは、念入りに仕組みを説明する。結局のところそれは等価交換だ。何もないところに、力を与えることはできない。 「これにサインすればいつもより強い力が得られるし、打たれ強くなる。敵兵を押し留める『壁』にだってなれるぜ?」 悪魔は無償で力を与えはしない。 たいていは、だが。 だから、最終的な目的のため、テリガンがそこに卑怯なフラグを仕込んでいたとして、誰かに責められる謂われもない。――自分と自身、『リーダー』以外には。 それを理解しているのかいないのか、否、理解していたとしても躊躇いはしなかっただろう、ユキムラが手早くサインをする。『信ノ城透祐』、几帳面な手蹟でそう刻まれた契約書を手に、テリガンは満足げに頷いた。 「契約成立、っと。思う存分揮いなよ、ユキムラ!」 「ありがとう……感謝する」 『契約』で得た力と、そしておそらくは命に代えてクルクスを護るという意志の力でもって、ユキムラが飛び出していく。 それが最期の戦いになると、きっと本人も自覚していただろう。 ――そこからは、長い長い戦いの時間だった。 秘密裏とはいえ有力者たちの会合だ、お互いへの牽制を込めてそれぞれが率いてきた兵の数も生半可なものではなく、兵士は途切れることなく押し寄せた。もしかしたら、それも『歪み』のひとつであったのかもしれない。 規模を縮小したジャックの異能と、ギアを主体とした千志の肉弾戦、長銃型ギアを使ったテリガンの中~遠距離戦。それらがなければ、ユキムラは、彼らがその死を画策するまでもなく、圧倒的な質量によって押しつぶされていたかもしれなかった。 救出完了の連絡はまだ来ない。 ジャックも、千志も、テリガンも、ユキムラと共闘するかたちを取りつつ、なるべく彼を護らないように戦っていた。すぐさま致命傷になりかねない攻撃からは庇うが、それ以外は放置だ。ダメージを蓄積させて、『その時』を迎えるようにしなくてはならない。 内心の葛藤はある。しかし、それが、彼らのなすべきことなのだ。 血が流れ、したたり落ちてゆく。 再びの疲労がのしかかってきているのだろう、荒い息を吐きつつも剣を揮う手を止めないユキムラの傍らで戦いながら、ジャックは問うていた。 「なァ」 「なんだ」 「テメェら、なンでわざわざ危険をおかしてここに来たンだよ? 別に、『電気羊の欠伸』でコト足りたンじゃねェのか……トコヨの棘なら。それくらい訊いてもいいだろォがヨ」 「違う」 「あ?」 「俺は、棘についても深部についても、詳しく知ることはできない。ただ、あれが、『電気羊』であっても手に負えないモノであることは判る」 「どういうことだ」 ユキムラは、ウムブラという神について説明し、ルーメンがウムブラを吸収するに至ったわけを話した。彼は、クルクスとともに、ウムブラが消滅するのを見た人間でもあった。 「各【箱庭】に存在する神々をひとつに融合させ、強大な『棘認識機関』とでも呼ぶべき代物をつくることがクルクスの目的だ。神々が融合し、力を増せば、棘に対して何か働きかけることが出来るかもしれない、と」 「じゃア、テメェらがここに来たのは」 「……帝国が力尽くで神々を奪い取ることは難しくない。おそらく、世界を征服するのと同等に。だが、クルクスはそれを望まなかった。彼は、馬鹿正直にも、証拠と言えば『ルーメンとクルクスが見た』ことしかない世界の滅びについて説明した」 「ンで、テメェらの持ってる神々を寄越せッて……いや、違うナ、それだったら直接奪えばいい話だ。戦いを回避するためにも、神々を譲り渡してほしいッて頼みにきたのか」 「……そうだ」 ジャックは深々とため息をつく。 そんな話が通じるはずがないことは、誰にだって判りそうなものなのに。 ましてや、今が乱世だというヒノモトのいったい誰が、それをハイソウデスカと受け入れるというのだろう。 「馬鹿だナ。筋金入りの馬鹿だ」 「俺もそう思う」 「テメェなんざいいツラの皮じゃねェか。アイツの勝手に巻き込まれて、生け贄代わりに殺されるようなもンだ」 ジャックの言葉に、ユキムラは少し困ったような顔をして、それから微笑んだ。少年のような、邪気のない笑顔だった。 「それでも、俺は、クルクスのあの馬鹿なところが大好きなんだ。――それに、彼には、戦いを不可避と吹っ切るきっかけも必要だった。最初からこうなる覚悟で来た俺も、相当な大馬鹿者だとは思う」 叫びをあげて突っ込んできた兵士を一刀のもとに斬り伏せたのち、咳き込む。 ゼロのエネルギー珠が与えた癒しも、テリガンの『契約』が与えた力も、波のように迫りくる兵力の前には無力だった。戦ううち、ユキムラの身体には再び傷が刻まれてゆき、おびただしい量の血が流される。 「無茶すんな!」 実際には無茶をしてもらうしかないのだが、あまりにも壮絶な姿にいたたまれなくなって、テリガンはつい声をかける。飛びかかってくる兵士をショットガンで撃ち抜き、ユキムラの傍へ駆け寄った。遠くで弓を引き絞る兵めがけてライフルをぶっ放す。 「……すまない」 「気にすんな。おい、大丈夫か火……ユキムラ」 彼の顔色は、もはやその身体が人間として決定的に危険なまで血を流してしまったことを物語る。 「大丈夫だ……まだ」 咳き込み、よろめいて血を吐く様子が『大丈夫』とは到底思えないが、何かに気づいた千志がトラベラーズ・ノートを取り出し、小さくうなずいたのはその時のことだった。 彼は鋭い光を双眸に宿して駆け寄り、傍にいた兵士を殴り倒すや否や、 「おい、あんたの陛下は救出されたぞ」 剣を支えにようやく立っているユキムラへとそう声をかけた。 ユキムラが目を見開く。その眼に、また、力が宿る。 「折れてる場合じゃねぇぞ。大切な人を救いたいんだろう? なら、まだ粘れるはずだ」 頷き、最後の力を振り絞ったユキムラが、決死の鬨の声とともに突っ込んでくる兵士たちに立ち向かう。 千志はそれを、表面上は不機嫌そうに、胸の内では心の痛みに耐えながらその背を見守っていた。敵兵の動きを観察し、『その時』を見極める。 ――背後で、兵士が刀を振りかぶるのが見えた。 ユキムラはまだ気づいていない。 千志は唇を引き結び、兵士とは反対の方向、ユキムラの死角辺りで大きな音がするよう影を操った。 ユキムラが反射的にそちらを向いた瞬間、背後からの刃が彼を深々と斬り下ろす。 「ッ!」 悲鳴はなかった。 ユキムラはぐらりとよろめきながら、返した剣で背後の兵士の首を刎ねる。そのおもてには、もう、生気と呼べるものは残っていない。それでもまだ倒れず、最後まで責務を全うしようとする姿を、千志は悼みとともに見守った。 物理的な圧迫感すら伴って胸が痛む。 (こんなの、いつものことじゃねぇか) 大義を盾にして、人を手にかけるのには慣れている。流れ作業のようなものだ。 そのはずだし、そう思って生きている。 ここが現実ではないとしても、手にかけたときの感触は同じだ。 犯している罪に違いはない。 (いつもと違うものがあるとしたら) こうすることで、現実の火城が目覚める、という結果が確実に出ることか。手を汚し、罪を重ねることが、ひとりのロストメモリーを救うという事実だけが、千志の心をほんのわずか軽くし、彼を駆り立てる。 それだけをよすがに、千志は、最後の務めとばかり、拳を揮い続けた。 兵士たちが撤退を始めたのはそこから数分後のことだった。 ほかの何ものとも違う、強靭で清冽な気配が、建物の向こう側から、黒々とわだかまる森へ抜けてゆくのが感じられた。――皇帝の脱出が完了し、『歪み』が正されたのだ。 クルクスが去ってゆく。 「……心を残さなくていい」 もはやかすれて力さえ失った声で、ユキムラがつぶやく。 彼は微笑んでいた。 「行ってくれ……そして、どうか――叶うなら、幸せに。あなただけが負わなきゃいけない責任なんて、本当はどこにもないんだから」 気配が遠ざかる。 ユキムラが気づいたように、おそらくクルクスも気づいている。 お互いがそこにいることに。 しかしクルクスは立ち止まらなかったし、ユキムラがその背を追おうとすることもなかった。 ただ、全身で、その別れを感じているだけだった。 4.永遠の別れと痛み 「ユキムラさん!」 崩れ落ちた彼を支えたのは、千志と、駆け寄ってきた理比古だった。 ふたりとも、自分が血に汚れるのも気にせず、その身体を抱き起こす。 「おい、ユキムラ。皇帝陛下は無事に脱出したってよ。お前が命を賭けたおかげだ……安心しろ」 千志が呼びかけると、赤い眼がゆるゆると開かれる。 童めいた無邪気な笑みが口元に浮かんだ。 それが安堵の笑みだと判らないものはいないだろう。 「お疲れさま。本当によく頑張ったよ、ユキムラさん。大丈夫、あとは、皇帝陛下が何とかしてくれる。俺たちも、出来る限りのことをするよ」 泣き笑いの顔で理比古が労う。 その傍らでは、神無が、痛みをこらえる表情でこうべを垂れている。 「あなたと皇帝陛下の絆と信念に敬意を表します。こんなに美しくて尊いものを、私は他に知らない」 だけど、やっぱり。 永遠の別れというのは哀しい、そう呟く神無の眼も、潤んでいる。 テリガンは、契約書を手に、やるせない顔でユキムラを見下ろしていた。 「これを破って、あんたの命をいただいちまおうかと思ってたけど……そんな必要もなかったな」 「恨んでいただいても構わないのです。これが、対価なのです」 ゼロは、淡々と『悪役』を貫こうとしていたが、ユキムラの眼差しは穏やかだった。 「恨み、なんて、あるはずがない」 ジャックを、理比古を、神無を、テリガンを、ゼロを、ラスを、千志を順番に見詰める眼には、ただ感謝だけがある。理比古と千志の腕の中で、力を失った身体から、体温が少しずつ消えていく。 「ありがとう」 はっきりした声が告げ、伸ばされた指が、千志の顔に触れる。気遣うような手つきだった。何かを探すように伸ばされたもう片方の手を理比古が取り、そこに剣を握らせた。 「すまない、ありがとう……あんたたちのおかげで、俺は救われた。後悔せず、絶望せず、自分を貫いて死んでいける。こんな幸せなことが、他にあるとは、思えない」 途切れ途切れのそれに、千志が言葉に詰まったような表情をする。不機嫌そうなおもてに、一瞬ではあるがはっきりと、痛みと安堵が浮かんだ。 「俺は……」 万感の思いは言葉にならない。 (きれいな手段じゃなかった) 弱くなってゆく呼吸を前に、ジャックが小さく舌打ちをする。 そこにも、苛立ちを含んだ悼みが込められていた。 (それでも、やっと) 喪われてゆくものを静かに見守る。 誰かが、祈りの言葉をつぶやいた。 千志の胸の内には、泣き出しそうな想いが渦巻いている。 (――こんな自分でも、ひとり、救うことが出来たんだろうか) 何かを成し遂げるためには、必ず痛みが伴う。 それは、千志が今まで、いやというほど味わってきたものだ。この道をゆく限り、おそらく、これからも味わい続けるしかないし、受け止め、甘受するしかないのだろう。その先にあるものを求めるのなら、覚悟するしかないのだろう。 (いつまで経っても、この痛みには慣れねぇな) この先、慣れることはできないような気もする。 ――だからといって、足を止めることを自分に許すわけにはいかない。 それも、もちろん、理解してはいるのだが。 5.そして光明は 贖ノ森火城は無事に目覚めた。 火城に、何が行われたかを知ることは無論、出来ない。 後日、七人は『エル・エウレカ』の小ぢんまりとした茶会に招かれ、茶と甘味でもてなされた。本人曰く、そうしなければならない気がした、のだそうだ。 そこには、いつも通りの火城がいて、表情豊かとはいえないものの、穏やかな眼差しでパイやタルトを切り分け、茶を供してくれる。 彼らが壺中天で体験した戦いのことは、当人である火城にすら話すわけにはいかない。だから、彼らがそこで見たものも、語ったことも、それぞれの思い、献身も、火城が知ることはないのだ。 しかし、七人を見る火城の眼には静かな感謝がある。 何があったのかはさっぱり判らないが、なぜかありがとうを言いたい気持ちなんだと火城は笑い、とっておきの茶葉で薫り高い茶を淹れ、とっておきの蜂蜜と秘蔵のラムを入れて焼いたというシンプルなケーキを皿に並べた。 「何やらしばらく倒れていたようで、皆にも迷惑をかけたんじゃないかと。『エル・エウレカ』復興の礼もきちんと出来ていないし、またお詫びとお礼を兼ねた茶会でも催すべきかもしれないな」 「……ん、うん、うん。そうだね、火城さんの元気なとこ、見せてあげたら喜ぶと思うよ、皆」 理比古は、火城のよどみない手つきを見つめながら、何度も確かめるように頷いている。招かれずとも、彼が目覚めたら見舞いと祝いに行くつもりだった理比古は、以前お裾分けをすると約束していたダマスクローズのジャムを差し入れに持ち込んでいた。 「火城さん」 「ん?」 「あのね……俺、頑張るから」 それが何の意味を持つのか、どんな決意を孕むのか、火城が理解することは不可能だっただろうが、 「……そうか、ありがとう」 自然と滑り落ちた、とでもいうように、その言葉は紡がれていた。 ぐるりとテーブルを見渡し、ひとりひとりを見つめながら「ありがとう」を繰り返す。 ジャックは肩をすくめ、神無は静かに首を振り、ゼロは困ったときはお互いさまなのですと厳かに頷いた。しかし何かの物思いに耽りながらティーカップを傾けていた千志には不意打ちだったようで、彼は盛大にむせ、咳き込む。 「別に俺は、何も、」 言いつつも、彼の眼には、奇妙な光が揺蕩い、揺れた。 そこに含まれる万感の思いのわけを、火城が知ることはないにしても。 「あっそうだ、なあなあ火城、俺、あんたが倒れたとき看病してやったんだぜ! だから、お土産には色つけてくれよな! リーダーにもお裾分けできるくらいたくさんあると嬉しいな」 普通のお見舞いを装って、あわよくばおいしいお菓子を大量にゲット! という野望をいだいていたテリガンには、仲間同士で分け合っても食べきれないくらいの焼き菓子が進呈された。 ほくほく顔のテリガンを、頬を赤くした千志を、やさしくも強靭な決意をたたえた理比古を、それから楽しげに茶のお代わりを供する火城を、ラスは静かな――どこか期待を含んだ眼差しで見つめている。 「ラス? どうかしたのか?」 気づいたのは火城当人で、ラスは慌てたように首を振った。 しばらく逡巡したあと、意を決したように口を開く。 「いえ……あの、少し、お話したいことがあって。いや、尋ねたいこと、かな」 「尋ねたいこと? そうか、なら、いつでも」 ひとまず、ゆっくりしていってくれ。 言い置いて、他の客への給仕をするために歩いていく。――ただの料理人にしては、隙のなさすぎる足取りで。 何にせよ、そこには、すでに、日常が漂っている。 こうして赤眼の強面司書は目覚め、いつもの生活へと戻っていった。 あの時ユキムラが覚醒したことは幸運だったのか、それは誰にも判らないが、少なくともあの場所で永遠の別離を目にした七人は知っている。 最期の最後まで、ユキムラが、かの至厳帝国皇帝、クルクス・オ・アダマースの幸いを願っていたことを。そこに、厳しい道をゆかざるを得ないだろう無二の友への、切ないまでに強い祈りがあったことを。 それが今後、シャンヴァラーラにどんな影響を与えるのかは、まだ誰にも判らないことだが。
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