深い樹海に鎖された0世界の大地をよそに、復興にわくターミナル。 世界司書たちは、さまざまな激務に追われ、忙しい日々を送っていた。そんなある日のこと―― とある世界司書が仕事中に倒れた、と連絡があった。 アリッサが駆け付けたとき、そこでは同僚の司書たちが難しい顔で本の山と格闘していた。「どうしたの……?」「最初は過労かと思ったのですが、そうではないようなのです」 応対した司書は告げた。 事態は思ったよりも突飛で、重大であった。「私たちロストメモリーは、記憶を封印することで真理数0を獲得します。その封印された記憶は『アーカイヴ』に保存されます」「そうね」「つまり、ある意味、私たちはつねにアーカイヴ遺跡とつながりを持っている……そう言っても良いのです」「……! それじゃあ」「そのとおりです。先のチャイ=ブレの一時覚醒と、世界樹との戦いにより、アーカイヴ遺跡内にも破壊が生じました。その結果、保存されている情報に乱れが発生したようなのです」 その結果、世界司書が意識障害に陥ったのだろうということだ。 アーカイヴは自己修復機能を持つため、時間とともに問題は解決すると思われるが、それまでは、いつ、どのロストメモリーに症状があらわれるか予測できず、すでに発症したものには対処を要する。 「稀な事例ですから、対処法を見つけるのに苦労しました。しかし」「なんとかなりそうなの?」 司書が頷いたとき、がらがらと音を立てて、台車で運ばれてきたものがあった。「え……壺……?」「『壺中天』です」「――と、いうわけで、みんなは、この『壺中天システム』を使って、意識だけアーカイヴへ行ってもらいます。アーカイヴ遺跡深層『記憶宮殿』。そこには司書のみんなの記憶が封印されているの。倒れた司書の記憶に接続するから、みんなはその中に入り込んでもらうことになるわ。司書の……記憶の中に」 『壺中天』とはインヤンガイで普及している仮想現実ネットワークだが、今回はその技術が応用できた。 司書の記憶の中に入り込み、中で生じている「乱れ」を正すことで、司書は目覚める。 乱れとは、「本来、その記憶にはなかった要素」のことだ。 たとえば、ある司書が、故郷で、ドラゴンと戦って勝利した記憶を持つとする。ところが今、『記憶宮殿』に生じた乱れのため、「ドラゴンに敗北した記憶」になってしまっている。これが昏睡の原因なのだ。そこで、壺中天を通じて記憶に入り込み、もとの記憶に沿うよう、ドラゴンに勝たせてやればよい。なにがもとの記憶と違っているのかは、記憶に入り込めば直観的に知れるという。「ひとつ、約束してほしいの」 アリッサは赴くことになったロストナンバーたちに言った。「みんなは、本人さえ、もう思い出すことができない、封印された記憶に立ち入ることになる。プライバシーを覗き見てしまうことにもなるでしょう。だから戻ったあと、『記憶宮殿』で見聞きしたことは、本人はもちろん、この先誰にも、決して話してはダメよ。一生、秘密にしてほしいの。この約束が守れる人だけに、この任務をお願いします」 ◇ 潮が寄せる音が聴こえる。窓の外に広がるのは白砂と、その向こうに広がる濃い青の海原だ。その海の上に広がるのは重々しく広がる灰色の雲。今にも雨を落としてきそうな雲間には、時おり小さな雷光が跳ねる。 シャトカトは祈祷室の隣にある自室の中、一枚の紙に向かい絵筆を動かしていた。描いているのは美の女神だ。 長い銀色の髪を背でひとつにくくりまとめ、一心に絵筆を動かしながら、シャトカトはふと視線を窓の向こうに投げる。 灰色の雲の中、一羽の鳥が飛んでいた。 この国を統べる王には美しい妻がいた。長く子に恵まれずにいたが、数年目にしてようやく子を宿したのだ。 多くいる祈祷師の中のひとりに過ぎないシャトカトにとり、王妃ははるか遠い存在だ。が、遠目にもその美しさは充分手にとるように知れる。 王は妻を心から愛していた。とても深く愛していたのだ。 しかしある時、幸福の頂にあった王と王妃に残酷すぎる預言がもたらされた。神の声を聴くことの出来る巫からのものだった。 それはすなわち、間もなく世界に終焉が訪れるであろうという、唐突すぎるものだった。 終焉を避けるためには贄を捧げねばならない。 選定された贄は王妃と胎内の子どもだった。 むろん王はこれを聞き棄てた。神がそのような恐ろしい預言などするわけもない。何かの誤ちであろう、と。 しかしその翌日から、預言の通り、世界は異変を迎え始めたのだ。 潮の雨が降る。森は少しずつ侵され、人々は困窮し始めた。滅びの兆候は緩やかなものではなく、ひどく急速なものだった。 巫は幾度となく神の言葉を告げる。ついには怒り狂った王の命により、巫は首を撥ねられた。 神の意を変じさせよ。終焉を避けるための祈祷を捧げよ。 祈祷師たちにもたらされた王の勅命はいずれも同じ内容のものだった。 高名な祈祷師たちが幾人も昼夜を徹し祈りを捧げたが、いずれも効果は得られなかった。効果を出す事の出来なかった祈祷師は首を撥ねられた。 シャトカトは祈祷師を父に持ち生まれただけの、名ばかりの見習いだった。父も首を撥ねられ、残された祈祷師はシャトカトだけになった。勅命はシャトカトにも下された。見よう見真似で祈祷を捧げたが、効果などあるはずもなかった。 そうして、王はシャトカトの首も撥ねるよう命を下したのだった。 絵筆を繰る紙の中、空に手を伸ばし唄う女神。そのモデルは麗しの王妃だ。 遠目に見る事しかかなわない、淡いあこがれにも似た恋だった。王妃が幸福であることだけがシャトカトの願いだった。 自分の力が及ばず、王妃は未だ神の贄に選定されたままだ。 あこがれの相手ひとり守る事も出来なかった無力な自分の命が消える事など、恐ろしくもなんともない。届けようなどと思った事もない想いだ。このまま終えていく事に悔いなどない。 けれど、ひとつ。ただひとつ。 シャトカトは絵筆を走らせる。 せめて、この絵の完成を。 乱れが起きる。 祈祷室の外が賑わしい。シャトカトは歯噛みする。 しかし、絵筆を走らせながら、シャトカトはやがて気がついた。 未だ開かぬドアの向こうから聞こえてくるそれは、幾人かが対立し争っている音だ。 本来であればシャトカトは王の使者に捕らえられ、絵の完成を見る事もなく連れ出され、無念のうちに処刑の場に立たされるのだ。 けれど今、シャトカトの命を救おうとする何者かが現れた。彼が時間を稼いだ結果、シャトカトは絵を完成させてしまうのだ。 古びた神殿の端にある祈祷室の前に広がる広い廊下の上、鳥の面をつけた数人が狐の面をつけた和装の男と刀を交えていた。 狐面の男はひとり。対する鳥の面は五人。鳥の面は王の使者。狐面の正体は不明。だが王の使者からシャトカトを守ろうとしているようだ。 狐面が鳥の面をひとり、ふたりと伏せていく。 その気配を感じながら、シャトカトはついに絵を完成させた。歓喜の表情が満面に浮かぶ。 同時に、ドアが押し開かれる。狐面は血まみれで倒れていた。 鳥の面もまたひとりを残すだけとなっていた。狐面が何者であったのかは知れない。どうだっていい。 シャトカトの心は満たされていた。最期の願いは叶ったのだから。 廊下の向こうから誰かが駆けて来る気配がする。 現れたのは先ほどの狐面とは異なる狐面の男だった。 ◇「なうい棒の新作が出来やしてね。ヒルガブさんに味見していただこうと思って来たんですよ」 ヒョットコ面をつけた作務衣姿の男――御面屋は神妙そうな声でそう告げた。 御面屋が訪ねて来たとき、世界司書ヒルガブはテーブルの上でほおづえをつき、いかにも眠たそうにしていたのだという。そうして御面屋が訪ねて来たのに気がつくと、弱々しく笑みを浮かべて立ち上がろうとして、「そのまんま、倒れちまいまして」 ため息をつく。「……どうしたもんでやんすかねえ」 眠るヒルガブの頭の下には白い少女からもらった枕。 手には、小さな袋を握りしめていた。========!注意!このシナリオのノベルは、便宜上、公開されますが、世界観的にはすべて「秘された内容」となり、参加キャラクターの方だけが知る出来事となります。========
波の打ち寄せる白砂の上に立った三人――相沢優、奇兵衛、ヴィエリ・サルヴァティーニはつかの間周りの景色を検めた後、ゆっくりと互いの顔を確認し合う。 ここは世界司書ヒルガブが失って久しい、彼の記憶の奥底にある風景だ。 重々しい曇天の下、色深い海が果てを見せず続いている。まとわりつくように吹き寄せてくる潮風が、奇兵衛の和装の袖を流していった。 雲間に見え隠れする海鳥を睨むように見つめている優を横目に、ヴィエリが静かに口を開く。 「……おかしいですね。確か、四人でこちらに送られてきたような気がするんですが」 「へぇ、確かに」 応えたのは奇兵衛だ。温和を絵に描いたような面に穏やかな笑みを浮かべながら、奇兵衛は懐から千代紙を一枚取り出し、手早く一羽の鳥を折る。 「しかしながら、今はあたしたちの頭数の確認など気にする事ではありませんでしょう」 ヴィエリの視線の先、奇兵衛は折った紙鳥を静かに曇天に掲げる。生命を宿さぬ身であるはずの紙鳥は、しかしつかの間の後に両翼を上下に動かし始め、ほどなくそのまま曇天の中の海鳥を真似るようにして飛翔した。 羽音を残し飛んでいった紙鳥に気付いた優が、ようやく海鳥から視線を戻して振り向く。 「……たぶん、俺は、この世界を知っている」 呟き、優は視線を周囲へと移ろわせる。 ――記憶にある風景。あの時はひどい雨が降っていた。いくらか風景も違っているような気がするが、しかし。 「ここは」 訪れた事のある世界の名を口にしようとしたが、それを遮るように、奇兵衛が再び口を開けた。 「さぁてと。参りましょうか」 言って、奇兵衛は感情を読ませぬ紫色の双眸を三日月のかたちに細ませる。 「あたしたちのなすべきは、ヒルガブさんがいた世界を探る事じゃありませんでしょう」 「……そうですね」 渋面を浮かべながらも首肯する優に、ヴィエリもまた小さくうなずいた。 視線を移す。 三人が立つ浜辺からさほど離れていない距離の先に一軒の棟が建っていた。優の脳裏に色濃く浮かぶのは壱番世界の寺院だ。それに酷似した造りのなされたその建物が、おそらく、世界司書ヒルガブ――シャトカトのいる場所であるはずだ。 最初に砂を蹴り駆け出したのは優だった。砂に足を取られながらも、優はまっすぐに棟に向かい走っていく。 ヴィエリと奇兵衛は互いに顔を見合わせた後、優を追うようにして砂を蹴る。 遠くの海上で、海鳥が鳴いた。笑い声にも似たその声を耳にして、ヴィエリがわずかに振り向く。海鳥の姿は曇天にまぎれているのか、確認は出来なかった。 棟の中に踏み込んだ三人が目にしたのは、眼前にまっすぐに伸びる板張りの廊下だった。右手に窓を擁した壁が続き、左手には押し開けられたドアが点在している。中には破壊されたドアもあるようだ。 点在する屍。 その向こう、開け放たれたドアから覗き見る室内はどれも手狭なもので、ヴィエリはふと眉をひそめる。 「告解室のような……」 ヴィエリの言葉に、優が視線だけを移す。 対面に置かれた一人がけのソファ。それ以外には調度品も家具もない、簡素な部屋だ。似たような部屋の前を三回ほど過ぎてきただろうか。 「ここは祈祷師が住む場所でしたね。祈祷師も神に言葉を捧げる者。……告解を聞くような役割を務めてもいたのでしょうか」 言いながら、ヴィエリは左腕に刻まれた聖痕を指でなぞる。 出身世界では神を信仰し、その御力を知らしめる務めに就いていた。覚醒時に出会った”神”によって与えられた聖痕は、ヴィエリに新たな力を授けてくれた。 あの”神”が真実ヴィエリの”神”であるのかは解らない。けれど、ひどく漠然とした感覚の中で、ヴィエリはそれを理解していた。あれは正しく”神”だ。ならば授けられたこの力は己に授けられた新たな使命の顕現なのだろう。 携えた面は白い鳩を模したものだ。御面屋があつらえ用意した面はシンプルなものではあったが、面につけるととてもしっくりと馴染むものでもある。 白い鳩は聖霊の象徴だ。御面屋との対面は以前に果たした事がある。その折、ヴィエリは彼に己の過去を語ったのだ。 心の底で礼を述べ、ヴィエリはいち早く面をかぶった。 王妃と子を想う王の心情は理解できる。だが、神託に背いた上に罪のない多くの命を奪ってきた行為は理解できない。 神が贄を引き換えに救いの道をと示されたのならば、謹んでそれを差し出すべきなのだ。――そう考える自分の感覚は、あるいはどこか狂っているのかもしれないけれど。 先を走るヴィエリを追いながら、優は眠っていたヒルガブを思い出していた。 調度の良い枕、そして小さな袋。 詳しくは聞いていないが、たぶん、少なくとも、ヒルガブには戻るべき場所があるのだろう。彼が目覚めるのを祈り待っている者がいるのだろう。 ――だから帰るんです、ヒルガブさん。 この廊下の奥、誤った記憶の中にヒルガブがいる。歪みを正すには、おそらく、ヒルガブ――シャトカトが仕上げた画を彼の目の前で壊すのが手段なのだ。その上で彼の身柄を鳥面の男に引き渡し、処刑場に連れていく。願いをかなえた彼を再び絶望の底にたたき落とすのだ。 むろん、心が穏やかであるはずはない。例えそれが結果的に彼を救済するためのものであったとしても、だ。 けれど、今はそのためにここにいるのだ。 唇を噛み、手の中の鷲の面に視線を落とす。 それから、ふと視線を感じた優は、右手にある窓から見える曇天を見上げた。 今にも雨を降らしてよこしそうな灰色の重々しい雲の隙間、やはり海鳥が飛んでいる。湧き上がる不快感に眉をしかめ、優は海鳥を睨んだ。 ”王”の名前がもしもリンドウであるのならば、この世界はかつて一度来訪したことのある場所になる。 狂った王と、壊れつつある世界。 ――そういえば。 今、王妃と腹の子はどうしているのだろうか。 ヒルガブがロストメモリーとなってからどれほどの歳月を経ているのかは知らない。もしかすると違う世界の話なのかもしれない。しかし。 ◇ 紙の鳥が曇天を背景に羽を揺らす。 眼下に広がるのは深い森だ。海は森の向こうに広がっている。けれど海風は森の中にまで届き、樹海の木々が潮の風をうけて大きく揺らいでいた。 見えてきたのは城と思しき大きな建物と、それから少し離れた位置に建つ一棟の塔だった。 紙の鳥は塔に向かう。最上にあたる場所、吹き抜けとなった窓の向こうに女の姿があるのが見えた。 ◇ 奇兵衛の口もとが薄い笑みを描き、歪む。 前を走る青年――優が窓の向こうに視線を送り、厳しい眼光を浮かべ唇を噛んでいるのが見えた。奇兵衛もまた彼の視線を真似て窓の向こうに目を向ける。 海鳥が一羽。あるのはそれだけだ。そういえば確か浜辺においてもあの海鳥は飛んでいなかっただろうか。優はその時にも海鳥を睨めつけていたような気がする。 もしや、青年は以前にもこの世界を訪ったことがあるのだろうか。 聞き及んだ情報から察するに、この世界の王は気狂いだ。その上で世界は亡びの一途を突き進んでいる。 世界が亡ぶ理由とはなんだろう。神とやらが望む贄を差し出さないことが理由だろうか? あるいは、気をおかしくした王が犠牲を出し続けていることが亡びに拍車をかけているのではないのだろうか。 ――まァ、なんだっていいんですがね。 かたちを成さない声で呟き、奇兵衛は梟を模した面を持ち上げる。 紙鳥が女に接触しているのが”視える”。女はつかの間驚き怯えたような顔をしていたが、やがてゆるゆると細い腕を伸べて紙鳥に触れた。 膨らんだ腹は、臨月には未だ遠い頃合のものであろうか。 さァ、あたしとお話しましょうか、王妃様 梟面の下、奇兵衛の眼が三日月のかたちに歪んだ。 ◇ たどり着いた部屋のドアは開かれたままになっていた。 走り続け、跳ね上がる呼気を整えながら、ヴィエリと優は迷うことなく部屋の中に踏み込む。 状況を鑑みるに、この部屋の中には狐の面、鳥の面、そしてシャトカトの三人がいるはずだ。面の男のどちらかが死んでいたとしても、少なくともシャトカトはまだこの場に留まっているはず。 しかし部屋の中に踏み入った二人の目に映ったのは数人の男の姿だった。目視する限り、十はいるだろう。 「こいつァ、また、どうして」 遅れて来た奇兵衛もまたわずかに驚いたように声を落とす。その声に呼応するように動き顔を向けて来た男たちは、いずれも狐の面をつけていた。 「数が……狐面の数が多い」 続けて落としたのは優だった。狐面たちは皆が同じように動き、皆が同じように刀を構え持つ。数はさらにまた増えているようだ。狐面たちの向こう、こちらを見据えているシャトカトの姿がある。 どういう事なんだ。続けて口を開けた優を庇うように前に立ち、白い鳩の面で顔を隠したヴィエリがギアである槌を握る。細かな装飾の施された、銀細工の、杖にも見える長い柄のついた槌だ。 狐面たちが何者であるのか、なぜ人数が多いのか。……なぜ今も、増え続けているのか。 「理由はわかりませんが、数的にはこちらが不利のようですね」 ヴィエリが応える。優もまた首肯した。 「……俺たちはここに、誰かを殺しに来たわけじゃないんだよな」 「私はそう理解していますが」 首肯いたヴィエリを横目に捉え、優もまたギアである剣を鞘から抜いた。斬るためではない。狐面たちを殺すためではない。 「俺たちの目的はヒルガブさんを目覚めさせることだ」 確認するような語調で呟くと、優はそのまま強く数歩を踏み込んだ。 狐面たちが優を迎えるように刀を振り上げる。斬撃の隙間を縫うように避け、時に剣でそれを受けながら、優はシャトカトの姿を検めた。 シャトカトは仕上げた画を守るようにしながら立ち、呆然とこちらを見ている。 今ここでヒルガブの名を呼んだところで、シャトカトにはその名を理解することは出来ないだろう。目を覚ませと告げたところで、彼がそれを解することなどないのだ。 ならば、やはり為すべきはひとつ。 振り下ろされる刃を避けながら、優はシャトカトがかばう画だけを目指した。 気がつけばまたひとり増えている狐面に槌を振りながら、ヴィエリはひっそりと目を細ませた。 シャトカトは確かに憐れに思う。けれど、彼を今再び絶望に陥れることが唯一、彼を真実救い出すこととなるのだ。 これは、自分たちにもたらされた導きに違いない。神が下した新たな啓示なのだ。 「やりましょう。大丈夫です、やってしまえば、後はどうとでもなります」 こぼした言葉は自らを奮い立たせるためのものであったかもしれない。ヴィエリは槌を掲げもち、ギアの効果を発動させた。 光の針が槌より生み出される。針は狐面たちを次々に捕らえ、そのまま手足を問わず、シャトカトの後ろの壁に縫い止めた。しかし、縫い止められた狐面たちはまるで煙のように次々と消失していくのだった。 シャトカトが目を見張っている。姿を消した狐面はそのまま再び現れることはなかった。 「シャトカト! お前を処刑場に連れて行く!」 優が声を張り上げる。対するシャトカトは優の声に刹那身を震わせたが、完成させた画に目を向け、ゆっくりと呼気を整えた。 「……分かりました」 あっさりとした同意。一度伏せた目を再び持ち上げ、優がかぶる鷲の面をまっすぐに見つめる。 「でも」 間を置かず、狐面がひとり、優の傍に踏み込む。そのまま刀を横薙ぎに構え、優の横腹を目掛けて空気を斬った。 優が剣を構えるのと、ヴィエリの槌が狐面の腹を突こうと構えられたのは、ほぼ同じタイミングだった。 だが、狐面の刀が優の腹や剣やヴィエリの槌に触れるよりも、奇兵衛がギアの算盤を指先でいくつか弾き上げたのが先だった。 狐面の腕が血肉を撒き散らし弾け飛ぶ。刀は床に落ち、狐面をかぶった男は激痛を叫び身を屈めた。 「おや、この御方は消えませんね」 のんびりとした語調でそう言いながら奇兵衛は算盤を背帯にしまいこむ。それからついと歩みを進め、痛みにもがく狐面の前で膝を折った。 「お訊ねしてもよろしいですかい?」 問いかけるが応えはない。奇兵衛は満面にやわらかな笑みをのせたまま、男がかぶっている狐の面に手をかけた。 「私どもはご覧の通り、あんたの邪魔をしに来たンですよ。その祈祷師は、まァ、何の役にも立ちゃしなかったって言うじゃないですか。役に立たないヤツにゃ食わせるタダ飯もありゃしないンですよ」 言いながら、狐の面を一息に剥ぎ取る。面の下から覗いたのは年端もいかない少年の顔だった。蒼白としたその顔をひとしきり眺めた後、奇兵衛は深々としたため息をもらす。 「おや、あたしの見当違いだったみたいで」 「見当違い?」 優が問う。奇兵衛は優を振り向くこともせずに首肯した。 「御面屋じゃないかと思ったんですがね」 低く喉を鳴らしながら首をかしげる。「違ったようでございますな」 言ってゆらりと立ち上がった奇兵衛は、そのまま狐の面を床に放りやってから問いを続ける。 「さて、あんた方は何故、この役たたずを救おうとなさるんで? 誰かの差し金ですかい?」 「……差し金?」 ヴィエリが眉をひそめた。 「例えば犠牲を憂いた王妃だの、亡き前王の意思だの、もろもろありますでしょうからなあ。あるいは」 呼吸をひとつ置いて、奇兵衛は肩ごしに振り向き、優とヴィエリに笑顔を見せた。 「王の在りように対する反体制派、かもしれませんがね」 笑みを含め告げた言葉に、少年が大きく肩を震わせる。 「……反体制派」 優が反芻した。 狂える王。無意味に繰り返される処刑。王は愛する妻子を護るため、無用な犠牲を払い続けているのだ。それを止めようとする者が立ち上がったとしても、何ら不思議ではない。 「シャトカトさんは最後の祈祷師だと聞きました」 ヴィエリが告げる。思い起こすのは故郷での記憶。 故郷もまた、神を崇めながら、神の意に反し、罪もない命をいくつも奪い続けていた。 最後のひとりを救済するために、何らかの一派が動いたのだろうか。 少年は応えない。激痛に顔を歪める。止まらず流れ出ていく血流は、少年の顔面から少しずつ生気を奪い去っていた。 「……シャトカトさん。あなたを連れ戻しに来たんです」 優は小さくかぶりを振って、シャトカトの顔をまっすぐに見据える。もっとも面をつけた状態では、シャトカトがらこちらの顔を覗き見ることはないだろうが。 「……連れ戻しに……?」 シャトカトが眉をしかめる。言葉の意味を解することが出来ないのだ。 シャトカトにとって、眼前にいる三人の男たちは自分を処刑場に立たせるため迎えに来た王の使者にすぎない。その証拠に、王の下に膝を折る役どころにある者である証をかぶっているのだから。 「シャトカトさん。あんた、王妃に懸想なすっているらしいじゃないですか」 奇兵衛がくつりと喉を鳴らす。ヴィエリと優が同時に奇兵衛の顔に目を向けた。狐面を剥がされた少年もまた、のろのろとシャトカトに目を向ける。 少年の命が少しずつ失われていくのを眼前にしていたヴィエリは、しばしの逡巡を見せた後、少年の傍に膝をつき、その腕を両手で包み込んだ。静かな祈りのことばが紡がれる。仄かな光がヴィエリの聖痕から生み出され、光はゆるゆると少年の傷を癒していく。 「……それは、しかし」 少年の傷を癒しながら奇兵衛を仰ぎ見たヴィエリが諌めるように口を挟むが、奇兵衛はゆるやかに笑いながら言葉を続けた。 「あんた、王妃に懸想しておきながら、王妃のことなんざなんにも考えちゃいないんですね。いずれこのまんまじゃ、危機に怯えた民草が蜂起するかもしれません。そうなりゃ王妃と赤子は儀式で殺されるよりももっと惨い殺され方をするでしょうな。恐怖は人から判断力を奪うもんです。王妃は民草に汚され、腹を割られ、産声をあげる前の赤子は腸ごと引きずり出されるかもしれませんな」 「奇兵衛さん!」 優が怒気を叫ぶ。奇兵衛はようやく口をつぐみ、やれやれといった風に肩をすくめた。 「あたしは王妃に紙鳥を遣わしたんですよ。王妃は紙鳥相手にいろんな話をしてくだすってね」 だから嘘など語っちゃいません。そう言って、奇兵衛は再び低く笑った。 「……王妃は先だって、月のめぐりよりも早くに子を生みました」 空気を割ったのは少年の声。目をやれば、そこにいたのは狐面をつけた少年だった。むろん、ヴィエリは未だ少年の傷を癒している。ならば眼前に立ち語るこの少年は何者なのか。 「子どもは男児と女児による双子。双児は、さもありなん。神の呪いを受けていました」 「何を……!」 シャトカトが叫ぶ。が、狐面は構うことなく語りを続けた。 巫は告げた。男児が笑えば訃報が。女児が泣けば凶事が告げられる。しかし当然に、赤子は笑わせるよりも泣かせるが容易い。 王妃は次第に男児を厭い、女児にのみ母性を見せるようになっていた。 「王が王妃を愛しているのは民草ならば誰もが知ること。王は妻に似た女児さえ手元に残ればよいと、男児を贄に選定することを決めたのです」 そうして今日、まさにこれより、王妃と男児を神に捧げる儀式が執り行われるのだ、と。 シャトカトは現存する最後の祈祷師。王はシャトカトに儀式の執行を命ぜられたのだ。 狐面は言う。我々はシャトカトを儀式の場に連れ出し、その手で王妃と男児を殺させるために迎えに来たのだ、と。 「何を」 優がかぶりを振った。そんなはずはない。そんな話は聞かされていない。シャトカトは絶望のままに処刑場に連れ出され、瀕死のままに覚醒を果たしているはずだ。 「……これも歪み……」 胸をかすめたそれはわずかな予兆だったかもしれない。しかし優は逡巡することもなくシャトカトの傍に走り寄り、そうして再び剣を構え持った。 眩い光が放たれ、シャトカトと優の前に防護壁が張られる。 狐面を睨めつけながら表情を強ばらせ、優は唇を噛んだ。 これも歪みであるならば、司書は目覚めることなく眠りについたままになってしまうかもしれない。 「ヒルガブさん。……あなたを待っている人がいるだろう? あなたはその人のもとに戻らなきゃならないんだ」 言って、シャトカトを見る。シャトカトは優の声に首をかしげたまま。 くつりと笑ったのは奇兵衛だ。奇兵衛はゆっくりと顔を動かし、シャトカトが描いた画に視線を向ける。 「いいや、シャトカトさん。そいつァ嘘をついてるんですよ。得体の知れないモンの言うことなんざに耳を貸しちゃァなりません。狐面どもは王妃が遣わした者なんですよ。もうすぐ王妃がここを訪います」 「……!」 その言葉にシャトカトが身体を跳ねさせた。 「そうれ、そこに」 奇兵衛が指を持ち上げてドアを示す。皆の視線が一度に同じ場所に向けられた。 そこには膨らんだ腹を抱えた女がひとり、立っていた。 「あんたは結局自分ひとりを慰撫しただけ。王妃の心や慈悲なんざこれっぽっちも気付いちゃいない。それでまあよくも王妃に焦がれているなどと戯言を。あんたは王妃のために死ぬんじゃない。民草のために死ぬんでもない。誰を救うこともない独り善がりの安寧のために死ぬんですよ」 「シャトカト……」 王妃が声を震わせる。見る間に大きな涙をこぼし、そうしてそのまま足を返し走り去って行ってしまった。 「王妃様!!」 シャトカトの絶叫。けれどその絶叫は、次の時にはさらなる悲痛を重ねて空気を裂いたのだ。 優は見た。シャトカトが完成させた画の面から女神が喪失しているのを。 紙の上にあるのは一面の白。色のひとつものっていない、まっさらなばかりの紙がそこにあるばかりだ。 「絵が、消えた?」 ヴィエリが呆然と落とす。 奇兵衛がひとり、低く哂っていた。 見れば狐面もまた消えていた。残されていたのはロストナンバー三人と狂気を張り上げるシャトカト、そして辛うじて命を取り留めた少年。五人だけだったのだ。 ◇ 声が枯れるほどに狂気を叫び続けていたシャトカトも、ほどなくぐったりと力なく膝をついた。 シャトカトを支え左右を守る優とヴィエリを後ろから見つめながら、奇兵衛はふいに視線を廊下の端に向ける。 落ちていたのは紙で折られた鳥。そうしてその傍らに、人のかたちを模して折られた紙もあった。 奇兵衛はそれらを回収すると、ひっそりと懐の中に隠し持った。 ――得体の知れないなにかに邪魔はされたものの、目的は達することができたといえよう。 もっとも、ヴィエリと優は、奇兵衛に対しての嫌悪を抱いてしまったようだが。 (まァ、仕方ありませんねェ) やわらかく笑みを浮かべ、肩をすくめる。 あとはこのまま、処刑場へ連行するだけだ。 ◇ 処刑場は浜辺に面した丘の上に用意されていた。 粗末な断首台だ。潮風で錆び付いた刃では、幾度か繰り返さなければ首を落とすことは出来ないだろう。 断首台の傍には巫が数人立っていた。立会いなのだろうか。それにしても刑吏の姿はないようだ。 ヴィエリが訝しみながら巫を見る。巫は皆同じフードを頭からかぶり、顔を覗き見ることは出来ないようになっていた。 故郷における刑吏たちの姿がそれに重なる。ヴィエリの故郷での刑吏もまた、全身をフードで覆い隠していた。 「シャトカトをお連れしました」 恭しく腰を折り、ヴィエリが告げる。巫のひとりが深くうなずいた。 「待っていたわ」 フードの中から落とされた声音は若い女のそれだ。わずかに震え、感情を押し隠しているかのような語調。 ヴィエリは巫に目を向ける。が、別の巫がシャトカトを断首台に寝かせろと指示をうつ。 悲痛の表情を鷲の面で隠したまま、優がシャトカトを引き断首台の前に立たせた。視線を持ち上げ、錆びた刃を見とめて眉をしかめる。 遠く、海鳥の声がした。同時に風が強く吹き、巫のひとりのフードを奪い去り、流れていった。 優が目を見張る。 「……君は」 なぜ、ここに。 問いかける。が、巫は応えず、ただ静かにシャトカトの頬を撫でていた。 シャトカトは自失としている。もはや誰の声も届かないようだ。 「帰ってきて、ヒルガブさん。貴方の居場所はここにあるわ」 断首台に寝かされたシャトカトはうろんな眼差しで海鳥を見つめたまま。 視線の先、海鳥は彼の末路を嘲笑うかのように鳴いていた。 ◇ 「お加減はどうですか?」 世界司書ヒルガブが目を覚ましたという一報をうけ、ヴィエリと優は揃ってヒルガブの部屋を訪ねていた。 ヒルガブは「はあ」と小さくうなずき、穏やかな笑みを浮かべて首をかしげる。 「どうも、ご心配をおかけしたようで……」 「疲労が溜まっていたんでしょう。ここしばらく、皆さんお忙しくていらっしゃったので」 ヴィエリの言に礼を述べ、ヒルガブは枕元の有翼の蛇を撫でた。 「そのようですね。……でももうずいぶんと休ませていただいたような気がします。少しずつ仕事に戻るようにしなければ、リベルさんに叱られますね」 「大変だね」 優が笑う。つられてヴィエリとヒルガブも笑った。 「そういえば、奇兵衛さんもいらしてくださったんですよ。手土産にと、お菓子をいただきました。……そういえばいつの間にかお茶が用意されてあったんですが、これはどなたが用意くださったんでしょう」 訊ねたヒルガブに、優とヴィエリは互いに顔を見合わせてから首をかしげる。 「……御礼をと思ったんですが、いつの間にか帰られたのでしょうか」 ヒルガブは残念そうに息を吐く。が、その直後に響いたノック音に、ゆるゆると顔を持ち上げて応えを返すのだった。 「今日は珍しくたくさんお客さんが見える日のようです」 言ってベッドを立ち、ドアに向かう。 その背を送りながら、ヴィエリと優は笑みを浮かべた。 ドアが開く。その向こうに立っている人物が誰なのか。 ふたりには、それの見当はついていたのだから。
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