深い樹海に鎖された0世界の大地をよそに、復興にわくターミナル。 世界司書たちは、さまざまな激務に追われ、忙しい日々を送っていた。そんなある日のこと―― とある世界司書が仕事中に倒れた、と連絡があった。 アリッサが駆け付けたとき、そこでは同僚の司書たちが難しい顔で本の山と格闘していた。「どうしたの……?」「最初は過労かと思ったのですが、そうではないようなのです」 応対した司書は告げた。 事態は思ったよりも突飛で、重大であった。「私たちロストメモリーは、記憶を封印することで真理数0を獲得します。その封印された記憶は『アーカイヴ』に保存されます」「そうね」「つまり、ある意味、私たちはつねにアーカイヴ遺跡とつながりを持っている……そう言っても良いのです」「……! それじゃあ」「そのとおりです。先のチャイ=ブレの一時覚醒と、世界樹との戦いにより、アーカイヴ遺跡内にも破壊が生じました。その結果、保存されている情報に乱れが発生したようなのです」 その結果、世界司書が意識障害に陥ったのだろうということだ。 アーカイヴは自己修復機能を持つため、時間とともに問題は解決すると思われるが、それまでは、いつ、どのロストメモリーに症状があらわれるか予測できず、すでに発症したものには対処を要する。 「稀な事例ですから、対処法を見つけるのに苦労しました。しかし」「なんとかなりそうなの?」 司書が頷いたとき、がらがらと音を立てて、台車で運ばれてきたものがあった。「え……壺……?」「『壺中天』です」「――と、いうわけで、みんなは、この『壺中天システム』を使って、意識だけアーカイヴへ行ってもらいます。アーカイヴ遺跡深層『記憶宮殿』。そこには司書のみんなの記憶が封印されているの。倒れた司書の記憶に接続するから、みんなはその中に入り込んでもらうことになるわ。司書の……記憶の中に」 『壺中天』とはインヤンガイで普及している仮想現実ネットワークだが、今回はその技術が応用できた。 司書の記憶の中に入り込み、中で生じている「乱れ」を正すことで、司書は目覚める。 乱れとは、「本来、その記憶にはなかった要素」のことだ。 たとえば、ある司書が、故郷で、ドラゴンと戦って勝利した記憶を持つとする。ところが今、『記憶宮殿』に生じた乱れのため、「ドラゴンに敗北した記憶」になってしまっている。これが昏睡の原因なのだ。そこで、壺中天を通じて記憶に入り込み、もとの記憶に沿うよう、ドラゴンに勝たせてやればよい。なにがもとの記憶と違っているのかは、記憶に入り込めば直観的に知れるという。「ひとつ、約束してほしいの」 アリッサは赴くことになったロストナンバーたちに言った。「みんなは、本人さえ、もう思い出すことができない、封印された記憶に立ち入ることになる。プライバシーを覗き見てしまうことにもなるでしょう。だから戻ったあと、『記憶宮殿』で見聞きしたことは、本人はもちろん、この先誰にも、決して話してはダメよ。一生、秘密にしてほしいの。この約束が守れる人だけに、この任務をお願いします」 ★ ★ ★「無名の司書が倒れたというのはわかった。それで、なぜ……、ここへ?」 台車ごと運び込まれた『壺中天システム』と、ロストナンバーのひとりに横抱きにされた無名の司書を見て、クゥ・レーヌは眉を寄せる。「それが、……うわごとでずっと、クゥさんの名前を呼んでいて」「ごめ……ごめんなさい……、盾崎編集長……。あと3日……、あと3日だけ、締切伸ばしてくださ……」「呼ばれてないね」「あれ? たしかにそう聞こえたんだけど」「あ、灯里ちゃん……。これ提出したら、カフェ・スキャンダルでお茶……。えっ、銀幕ベイサイドホテルにチョコレートダンジョンが出現した……? たいへん、取材に行かなくちゃ……!」「まったく呼ばれてないね」 それどころか、なにやら楽しげな日々を送っているようではないか。 これなら放置しても問題ないのでは。勝手に起きるだろそのうち。 ……みたいなことを、クゥだけではなく、その場に居合わせた誰もが思ったときだった。「……クゥさん……。クゥさん……。そんな……。誰がこんな、ひどいことを……」「……?」 一転して、うわごとが悲痛なものになる。 クゥは耳を寄せ――そして。 そのまま、がくりと、くずおれた。 ★ ★ ★ ――真相の解明は得意じゃない。すまない。助けてくれないか。 デスクに詰まれた書類の山は見るたびに量が増えているようでげんなりする。 『スケジュール管理も体調管理も仕事のうちだ、だが労務管理は上司の仕事だ』と、日に二度ほどの小言を言う自分自身の体はそこそこに悲鳴をあげている。 空いた栄養ドリンクにレモンの蜂蜜漬け。スポーツ選手ではないのだから栄養素でてこ入れをするにも限界がある。 デスクトップのモニターにあった「アポイントメント:午後三時のティータイムに食堂で」というメモ用紙を手に取り、差出人に「夢巡っち」と書いてあるのを確認し、「欠席」と書いてホワイトボードへと張っておく。 会いたいというなら時間を作るが取材と言われるとこの手で逃げるクセがついていた。 相手は黒づくめの女性、夢巡まどか、いや、まりか。あれ、どっちだっけ。 しばらく悩んで「To M.Mumeguri」と記載する。 ともあれ、キャスターつきの椅子をひいて腰掛け、書類の一枚目をめくるタイミングを見計らったかのように内線で呼び出しがあり、反射的に受話器を取る。 耳には酷いノイズが飛び込んできた。相手の声がよく聞こえない。「はい、心臓外科のクゥ」 ……ユメ…、マリ……。杵間山ノ…………。 「もしもし?」 ―― 聖ユダ教会 そこでノイズごと声は途切れる。 耳に残るのは無音。 ツーツーという発信音ではない。 (最初から通話状態ではなかった?) 途端、耳元で電話の呼び出し音がなる。 まさに耳に接触した状態でのコール音は鼓膜を強かに殴りつけた。 咄嗟にもう片方の耳にあて、受話器のフックを一度おろしてからあげなおす。「もしもし」「お忙しいでしょうか、こちらは研究棟の――」「〈ガラスの箱庭〉の……D(ディー)?」「少々困ったことが。応援お願いできますか?」「了解」 結局、勤務時間いっぱいまで力仕事に従事し、終業ベルを聞いてから最後の患者を見送り、書類を整える。 署名を終えてデスクワークが完了し、栄養ドリンクに手を伸ばすがストックが切れていた。 夜勤メンバーへの申し送り事項をメモにし、消耗品の発注をリクエストし、すっかり固まった体をなまった足で外に運ぶ。 自動販売機で缶コーヒーを買ってその場で口をつけて一気に呷る。「糖分、脂質、カフェイン」 食事は簡易食ですませたのでビタミン類が不足している。 戻って食堂へ向かうか、それともこのまま帰ろうかと悩んでいると視界の端を何かがよぎった。 人。のようだ。それにしては足取りがふらついている。 入院患者が薬で酩酊しているのか、あるいは低血糖発作でも起こしているのかと、無意識に尾行する形となった。 向かう先は杵間山。 秋の風がふいているこの季節、春のものだと思っていたラベンダーの香りが鼻をくすぐる。 口元に残った微糖コーヒーの香りをラベンダーがすっかり洗い流した頃、たどり着いたのは聖ユダ教会。 黒衣の神父、ユダ=ヒイラギのいる建物である。 そういえば電話の声が示した場所だ。 オカルト現象であれば教会の出番なのかも知れない。 大きな扉を礼儀的にノックしてから扉をあける。 祭壇の掃除をしていた神父、ユダ=ヒイラギがこちらを向いて会釈する。「これは……功徳でも積みに?」「いつから仏の家になったんだ?」「冗談ですよ。それで本日は……」 ユダ神父が胸の前で十字を切った、その時、再び扉が開く。 「クゥさんっ!!」 振り向いた先にいたのは、黒衣の女性、夢巡まりか。 クゥと視線を合わせた彼女はユダとクゥの元へ駆け寄ろうとして、何もない所でつまづいてこけた。 「ああ、彼女にはよくあることです。お気になさらず」「神父の台詞でいいのか、それは」 ユダに笑顔を向けられてから、振り向くと夢巡まりかは微動だにしない。 それから、さすがに冗談ではすまない時間が経過して、何気なしに近づき、体の微弱な痙攣に気づいて大声で呼びかける。「おいっ、…おいっ。大丈夫か?」「あ……あの……」 黒はすべての色を覆い隠す。 触るまで気づかなかった、濡れていることに。 その手を触るまでわからなかった、その液体が深紅であることに。 ラベンダーの芳香を切り裂いて、荘厳な教会に鉄さびに似た濃厚であまったるい血の香りが漂う。 腕の中で、夢巡まりかは2、3度、痙攣した。 検死をするまでもない。黒衣から首が除き、頚動脈のあたりがざっくりと切り裂かれている。 衣装に覆われていなければ血の噴水があがっていただろう。 (じ……、じょ、あか……、の……、じょ、お、う……) 腕の中の彼女は搾り出す吐息で喉を震わせ、咳き込むように血を吐いて瞳を閉じた。 途端に全身の筋肉が弛緩し、眠るように首と手が床へと垂れ下がる。 途端、教会の鐘が鳴り、夢巡まりかは命を落とした。 そのとき教会には、神父を含め10名の人物がいた。 精神科医兼心理分析官ドクターD、発明者兼医者の平賀源内、口癖が「あ~れ~!」な将軍家の姫君、珊瑚姫、ノーマン少尉ことジェフリー・ノーマン、森の女王レーギーナ、銀幕ジャーナル看板記者の七瀬灯里、市役所職員植村直樹、ユダ神父の知古の、世界的な大女優SAYURIである。「ドクターD、なぜ、きみがここに?」「所用で。クゥさん、わたしたちを疑っていますか?」 そういうドクターは、静かな笑みを崩さない。 殺人があったにも関わらず、である。 夢巡まりかの死体は法医学のチームを呼び、すでに解剖へと回っていた。 生前の姿を知っているだけに、その姿はあまり想像したくはないが、こちらもプロに任せるべきだ。「D、第一発見者は?」「わたしたちです」「他に理由は?」「いりません」 納得した、と言わんばかりに静かな微笑でドクターDは着席する。「それを言うならあんたもそうだが?」 源内は、ばりぼりと頭を掻く。「そう。だから私もここを離れられない」「……まったく、この人と関わると、ろくなことがない。とはいえ、死者は死者です。お気の毒に」 教会を訪れるひとびとには限りなく優しいユダ神父は、まりかにだけは、非常につっけんどんな視線を投げると有名だが、さすがに死体を目の前にしては言葉を選んでいる。「えー、あ、あの、私。そろそろ締め切りが!原稿が!」「灯里、例外を出すと際限がない。刑事事件だ、上司にドクターストップと伝えてくれ。診断書はサービスする」「……俺は帰る」「ノーマン少尉。無理矢理ではあるが。『じ』と『の』が一致しているんだ。きみのフルネームはジェフリー・ノーマン、だろう?」 少尉は目をそらし、離れた長椅子へと戻る。 「あのー、私は関係ないんじゃ……」「植村さん。そこにいたのは不幸だ。私もできれば外に出たい。せめて警察が来るまでは待機していてくれ」「……市役所の仕事がたまってるんですけどね……」「わたくしのどこが疑わしいのかしら?」 立ったままにポーズを決めるのはレーギーナ。 流れる金髪、透けるように白い肌。 嘘か、真か、人は彼女を森の女王と呼ぶ。 つまり、「女王」というキーワードにもっとも相応しい。 その彼女の横で抗議しているのも女王の一人、というより彼女は姫。「冤罪ですえ~! 異議を申し立てますえ~!」「濡れ衣を着せるつもりはないよ。目撃者の確保をしたいんだ、珊瑚姫。疑ってはいないが、不用意な行動をすると赤い服と『姫』の名は官憲に疑いをかけられる」「妾は『ぷりんせす』であって『くいーん』ではないですえ」 「その論理なら、わたしが最有力容疑者ということになるけれど」 婉然と、SAYURIが微笑む。 深紅のドレスをまとい、漆黒の髪に赤い薔薇。自らを最有力の女王と自負する自信。 遥かな高みから見下ろす様は、これぞ、赤の女王。「……ですね」 息を飲む灯里。 つまりは全員が被疑者であり、全員が断定するのはあまりに論拠が薄い。 重い沈黙をドクターDが破る。「ヒイラギ神父が横で遺言を聞いている以上、あなたがダイイングメッセージを捏造して困惑させようとしている、のではないですね」「疑ってくれても構わないが、同僚まで疑うのか?」「遺言が正しければ」 ドクターDはそこで一言、言葉を切る。「女王、と呼ばれる者に疑いが向きます。SAYURIさん、珊瑚姫さん、レーギーナさん。もう一人いますね」 もう一人。 赤の女王と呼ばれるに相応しい者が? レディ・カリスのような? ――レディ・カリス? 誰だったか。 でも、私はその人を知っている。 「遺言が赤の女王ならば、の話です。ではもうひとつの手がかりを拾いましょう」「何故、そんなダイイングメッセージを残すことになったのか、ね」 SAYURIが言葉を挟む。「何故ですえ~?」「濡れ衣を、着せるためでしょうか」 「あの、皆さん。ところで、どうして皆さんは教会へ?」 植村の疑問に、ふと一同、一斉に口を噤む。 『変な電話が……』 数人の言葉がかぶった。 不意に扉が開く。 来客は今回の事件の当事者ではない第三者だ。 応対しようと進み出るユダの背中越しに、クゥは来客に呼びかける。「すまない。話を聞いてくれ。謎解きは、得意か?」========!注意!★このシナリオは、シナリオ『【銀幕★探偵譚】ハートの女王殺人事件』と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。★このシナリオのノベルは、便宜上、公開されますが、世界観的にはすべて「秘された内容」となり、参加キャラクターの方だけが知る出来事となります。========
―― 無限の冒険へ、出発進行! 【螺旋特急 ロストレイル】より 現場の状況を詳細に見聞きすることは捜査の第一歩である。 ティアことティリクティアの提案で相互の、と言っても部外者という事になっているロストナンバーを置いて状況見聞が始まった。 警察を呼ぶという常識的展開にはならない。何故なら呼んでも無駄だからである。 ロストナンバーにとっては夢の世界で無限にリフレインする状況を警察に任せても意味はないし、この住人達もまたその行動に移らない。 こういう形で、常識が通用しないという点は『謎解き』にはうってつけだった。 うんうんと頷きつつ話を最後まで聞いた後、ティアはSAYURIに微笑みかけた。 「話はそういうことね。じゃあ最初は……ねえ、SAYURI? あなたのドレス、赤くて素敵ね。いつも真っ赤なドレスなのかしら? 薔薇はいつも身につけているの?」 「いいえ? ドレスはいくらでもあるし、私を飾る花はTPOに応じていればいいの」 「そう。ええ、そうよね」 ティアは大きく頷いた。 「ねぇ、ティア。あなた、もう推理が組み立ててあるの?」 「そうね、まだ仮説だけど……」 「ふぅん?」 リーリスの瞳が赤く光る。 この場にいる人をゆっくりと見て回ると、何か不都合があったのか眉を潜める事を隠さずに「続けていいわよ」と先を促す。 「そうね、じゃあ続きよ。夢巡まりかは誰かに濡れ衣をかぶせるような人柄かしら? 私はそうは思わないわ。彼女はとても正直だから」 「そうじゃの、そんな事をするようには見えん」と、こちらはジョヴァンニ翁。 「ええ。それならば。彼女が伝えようとした言葉は真実、私達に本当を教えてくれるもの。そして彼女はダイイング・メッセージを伝える際に瀕死の状態で十分な思考は出来なかったはず」 「だからこそ、なるべく分かりやすいキーワードを選んだのですー」 「ええ、そうよ。『赤いもの』それに『女王』ね。赤いものを身につけている人は容疑者に何人かいるの。でも赤と女王、両方が該当するのは1人しかいないわ」 ティアがにっこりと微笑んだ。 元気な少女の得意気な笑顔、それと対象的に妖艶な微笑を浮かべたのは告発された側のSAYURIである。 「そう、それで私が怪しいというのね?」 「ええ、そうよ」 SAYURIの無言の威圧をティアは正面から受け止め、挑戦的な笑みを持って張り合う。 「そもそも、どうしてこんな時間にこんなところにいたのかしら? SAYURIは」 「家族が入院しているの。ドクターDと内緒話をするためにここに呼んだのよ」 SAYURIの言葉に注目が集まったドクターDは小さく頷いて肯定する。 「ふぅん、なら他の人は?」 「ちっとヤボ用だ。あんまり気にするな。それとも推理に関係すんのかい?」 荒っぽく答えたのは源内。口調を気にするまでもなく「そうね、関係ないわ」とティアが断定した。 「だからSAYURIが妖しい? ……そうかな? この茶番を仕組んだのは夢巡さん、殺したのはレーギーナ、協力したのはクゥ以外の第1発見者、でファイナルアンサーかな、リーリスは」 「茶番?」 「そうよ、クゥ。……ここはクゥの記憶の世界だけど、クゥの姿をした"アナタ"はクゥじゃないみたいね?」 「すまない。きみが何を言っているのかよく分からないんだ」 「クゥならリーリスを「きみ」なんて呼ばないわ。クゥの姿と声でリーリスを知らない子扱いしないで」 断ち切るようなリーリスの言葉に、拒絶された側は一歩引いてうろたえる。 このくらいでうろたえるのがクゥ? それとも昔のクゥ? そんなはずがあろうがなかろうが。そんなのは「イヤ」だと、リーリスは言葉を続ける。 「無名のお姉さん……夢巡さんの胡蝶の夢の世界にクゥは引き摺りこまれたの。9人は同じ組成……同じ世界の人だけど、クゥは色が違うし夢巡さんもほんの少しだけ色が違う」 「色、なのですー?」 「ええ。色みたいなものよ。それならこの世界の住人が、この胡蝶の夢を存続させるにはどうするか? 夢主が2人居るなら1人に絞って取りこんじゃえばいい。だから要らない夢巡さんは殺されたの」 二人の夢の主がいるなら、仲違いすれば夢の世界は崩れ去る。 それならば、片方がいなければいい。いなくなればいいという単純な理屈だ。 「それで、胡蝶の夢の安定のためにわたしが手を下した。という話になるの?」 レーギーナが眉を潜める。 それに構わず、リーリスは話を続ける。 「クゥがこの教会へ向かった理由は源内の絡繰りの後をつけたから。夢巡さんはクゥに会えるってSAYURIに呼び出されていつも通り転んだところを石畳の隙間から生えた雑草でチョンと斬られた」 「雑草?」 「ええ、そうよ。雑草操りはレーギーナの十八番よね。レーギーナ、あなたできるかしら? この石畳の上に倒れた人間がいたとして、その隙間に生えている雑草をナイフみたいに鋭くして、頚動脈を切り裂くことが?」 「たしかに、そのつもりがあれば可能ね。わたしはそんなことをするつもりは毛頭ないけれど」 レーギーナはふいっと横を向く。 これ以上、話すつもりはないという意思表示だった。 ここで口を挟んだのはゼロである。 「レーギーナさんが犯人なら、あのダイイングメッセージはどう解釈するのですー?」 石畳に倒れたら、その下から雑草が伸びてきて、己の首を掻き切った。 そのシチュエーションで、はたしてどのようなダイイングメッセージを言うだろうか。 「草が」と言うかも知れない。その可能性を知っていたとすれば『女王が』と言うかも知れない。 だが、能力を察知したのならば名前を言えばいいし、気付かなければ何も言えるはずがない。 「ここはひとつ」 それまで静かに話を聞いていたジョヴァンニが椅子から立ち上がった。 「視点を改める必要がある。そうじゃろう?」 こつこつと教会の石畳に足音を響かせ、あるいて廻る。 未だ無残な姿をさらす夢巡まりかの遺体に一礼し、手にしていた外套を彼女にかぶせて姿を隠す。 「これでも紳士を自称しておる。現場保存、とは言え、死せるレディにこのくらいの礼儀を払うのは許してほしい。……さて、ダイイングメッセージの話じゃな?」 「そうなのですー」 「その言葉、わしにはこう解釈ができる。『赤い目の少女を追う』と」 「瞳の色? でも、赤い目の容疑者なんていないじゃない?」 リーリスは居並ぶ容疑者達の瞳の色を追う。 ドクターDは深いブルー、ユダは紫、たった今、告発されたSAYURIは黒。 他の容疑者達の瞳も黒、緑、茶色と不可思議な色はあれど、赤い目の人物はいない。 「そう、容疑者達の中にはおらぬ。だが、この場におらぬかといえばそうでもない」 探るような目でリーリスがジョヴァンニの顔色を睨めつける。 「いたかしら?」 「そうね、容疑者にそんな人物はいない。……でも、そうね。この場になら、いるわ」 ジョヴァンニ翁の言葉をティアが肯定する。 彼女の断言に深く頷いて、ジョヴァンニは目の前の少女を指差した。 「この場で赤い目は一人だけ、リーリス・キャロン」 一瞬、場が静まり返る。 やがて、リーリスが小さく笑った。 「おじちゃん、リーリスが犯人だというの?」 「犯人の名を知らぬ場合その最大の特徴を挙げるはず。どうやらこの面々はこの銀幕市の名士の様子、ならば夢巡まりか嬢が彼らの容姿を知らんとは思いがたい。一方で。銀幕市では金髪の美少女など珍しくない、レーギーナ女王もそうじゃがな」 こほん、と咳払いをひとつ。 「さて、リーリス・キャロン。愛らしい少女を装っていても儂の目は誤魔化せん。君は吸血鬼。銀幕市での凶行を突き止められ口封じに殺害した」 「ちょっと待って、リーリスはさっきここにきたのよ?」 「そのように見せかけることは不可能ではない」 「ふぅん、リーリスがやったって言い張るんだ? ねぇ、ティア? ゼロ? 何か意見はあるかしら?」 リーリスの瞳は、ジョヴァンニの告発の通り、真っ赤な光を湛えている。 誰も口を開かない。 凍りついた時は、しかし陽気に破られた。 「では、ゼロの意見を言うのです」 リーリスとジョヴァンニの間に進み出る白い少女。 大きな瞳を閉じ、無名の司書の死体に目礼すると彼女は「ではリーリスさんが犯人かどうか、事件を最初から振り返るのです」と言い出した。 ティアがそれを受け、用意していたメモを手に事件の最初を振り返る。 「まず、クゥさんの元に妙な電話がかかってきたわね。単語にもなっていない奇怪な言葉よ」 「まりかさんが取材のためアポを取ろうとしたのです。よく聞こえなかったのは電話回線が不調だったのです」 つまり電話が不調であるために途切れ途切れになった。 「夢巡まりかです。杵間山の聖ユダ教会で待っています。こう言おうとして電話のせいで途切れただけ、とゼロはそう考えるのです」 「でも、クゥは不審者を見かけ、それを追いかけてこの教会に来たのよ」 「その人物はただの通りすがりで、実はクゥさんの方がふらついていたのです! 休息が不足しているのです 早急にふわもこ分を十分に摂取し安眠することが必要なのですー」 モフトピアでアニモフもふもふの刑などを提起するゼロ。 ティアは手帳を辿り、次の言葉を紡ぎだす。 「ダイイングメッセージはどう?」 「最後の言葉が特定の人物を示したものだとして、その人物が知己あるいは著名人なら名を呼べば事足りるのです」 「そうね。それならゼロ、あなたもジョヴァンニの意見に賛同なの? それとも、別の解釈がある?」 つまり残された言葉は、誰が犯人だ、という告発ではなかった可能性を告げている。 例えば己の命が危険に晒された時、誰が犯人かを告発するのは定番中の定番ではあるが、それだけだろうか? リーリスがジョヴァンニ翁に近づいた。 「そういうのはジョヴァンニのおじちゃんが詳しいんじゃないかしら? 人が死ぬ時、どんな言葉を残すの?」 「そうじゃな。誰にやられたなどと言う者はまずおらん。三下ならば『ちくしょう』『絶対に復讐する』と言った恨み言を残す輩が非常に多い。そうでない場合、これも「残した子や恋人に言伝を頼む」「ここは危険だから逃げろ」「最後にタバコを吸いたい」あたりじゃろう」 ジョヴァンニの言葉をゼロが続ける。 「そう。クゥさんがこれからやろうとしていたことを口にしたという可能性もありうるのです。そして、ゼロはメッセージの真意をこう汲み取るのです」 ――『じょ に あか を くろじょかで の も う』と。 「ジョニ赤なら知ってるわ、お酒ね」 「くろじょか、ですえ?」 SAYURIに続けて、珊瑚姫が首をかしげる。 「黒千代香、鹿児島の焼酎ですね」 植村が注釈をつけた。 そのフォローにゼロが頷く。 「そう、まりかさんは仕事の後、ジョニ赤を黒千代香で燗をして飲むつもりだったのです。横須賀の酒飲み発祥のマニアックな方法だそうなのです!」 「――うまいのか?」 「残念ながら、ゼロにはお酒の味はわからないのですー」 ノーマン少尉の言葉にゼロは困ったように返答する。 「あの、事件とお酒にどのような関係が?」 ユダ神父がゼロの言葉に続きを促す。 「まりかさんはクゥさんの方に一声叫んでから、駆け寄ろうとし、転んだのです。すでに致命傷を負った人間にこの行為が可能かと問うと、不自然なのです。傷は転んだ時点でついた可能性が高いのです」 ゼロはすたすたと夢巡まりかの死体へと歩み寄る。 そして、まりかの死体にかかっていた外套を取ると、その一点を指差した。 「これが傷の原因なのです」 ゼロの小さな指の先。あからさまに石畳に深いめり込み跡が刺さっていた。 「まりかさんは驚くべき確率で、落ちてきた隕石に頚動脈を斬られたのです!」 ざわっと一同が沸いた。 感心というより、あまりの暴論に何を考えているんだと思った矢先。 ゼロの指差した石畳には、たった今彼女が嘯いた隕石跡がそこに存在しているのだ。 「どんなトリックでしょうか?」 ドクターDの独り言にゼロは言葉を返す。 「トリックなどないのです。まりかさんの安らぎを、ジョニ赤の黒千代香燗を供えてお祈りするのですー」 そういうと白い少女は黒いまりかの遺体の前にひざまずき、両手を組み祈りのポーズを取る。 容貌と服装から、ユダ神父が「ほぅ」と感嘆を漏らす程に教会にハマっていた。 「で、その隕石跡はどうしたの? 調べた時にそんなものあったら真っ先に分かるよ」 「ナレッジキューブで作ったのです」 リーリスの耳打ちにゼロは案外あっさりとネタバラシをする。 未だざわめく観衆の中、ゼロはまりかの遺体にかけられていた外套をリーリスに差し出した。 「……ゼロ、何が目当て?」 「リーリスさんなら、ゼロが考えていることがわかると思うのですー」 「そうしたくてさっきからやってるもん。残念ね。壺中天ってメンドくさい、って事で返事にしていいかな?」 「そうではないのです」 リーリスに再度、今度は外套を押し付ける。 まりかの血が染み付いた外套を見つめ、リーリスはふっと顔をあげた。その瞳が赤く光る。 「そろそろ茶番は終わりにしよう。隕石など落ちようはずもない」 「ええ。……天井に穴がない以上、隕石ではありえません」 ジョヴァンニ翁の指摘に、ドクターDが静かに言葉を添える。 「リーリス・キャロン嬢。クゥ=レーヌ女史の示す犯人は君、吸血鬼の凶行じゃ」 「ううん違う。ダイイングメッセージの『赤』はやっぱり赤。おじちゃん、そのお胸の薔薇、真っ赤だよね?」 スーツのフラワーホールに赤い薔薇。 すぅっとジョヴァンニ翁の目が細くなった。 「何を言うか。まりか嬢は頚動脈を切り裂かれ大量に出血している。ドクター、このような外傷であれば当然、返り血は酷い。そうじゃろう?」 「ええ。噴水のように噴出すでしょう。大部分が服で抑えられてはいても首元です、返り血がないなど、ありえません」 「そして、儂の服に返り血など一滴もない。確かめてみるかね?」 ジョヴァンニが大きく腕を広げる。 ぼん、とその胸元に外套が押し付けられた。 差し出したのは当のリーリスである。 「おじちゃん。自分で尻尾を出すのはリーリスつまんないよ。この寒い季節に外套を無名のお姉さんの死体に被せたのは紳士だから? でも、その前から手に持ってたよね? この寒いのに。ねえ、答えてよ、紳士だからなの? "それとも――"」 赤い瞳がジョヴァンニ翁を射抜く。 沈黙が場を支配する。 ――やがて。 「白を切るのも限界のようじゃの」 ジョヴァンニ翁は小さくため息をついた。 「そうじゃ、まりかを殺したのはこの儂じゃ」 「ど、ど、どういうことですか!?」 展開についていけず、植村が頭をひねる。 「思い出すがいい。彼女は教会の外から駆け込んできた。その時関係者は教会の中におった」 「あ、もしかして!」 思わず大きな声を出した灯里が周りの視線を感じ、口を押さえる。 「そう、ならば犯人は外から入って来た儂ということになるじゃろうて」 ジョヴァンニはつかつかと石畳を歩む。 まりかの手前で膝を折った。 「儂はここに来る前病院に寄った。まりかが貴女に度々取材を申し込んでは袖にされておると噂で聞いて、行き違いで入室し、偶然目にしたメモをすりかえておいたのじゃ。――杵間山 夜 教会前のラベンダー畑にて取材応――とな。クゥが目撃した人影は取材に向かうまりかじゃよ。理由は」 一拍、時間を置く。 「理由は、娘、否、孫ほども年の離れた彼女を愛してしまったから」 「まぁ」 愛という言葉にレーギーナの表情が一瞬だけ綻ぶ。 だが状況を思いなおし、すぐにその色は消えうせた。 「儂は妻への操を貫き通す為、彼女に手をかけた。黒檀の仕込み杖で一思いに喉を切り裂いて……」 ジョヴァンニはそう言ってフラワーポケットから薔薇を抜いた。 夢巡まりかの青ざめた死体の顔に、そっと手向ける。 「この薔薇の名はレッドクイーンという」 「あ! 《赤の女王》!!」 今度こそ、灯里は声をあげた。 「そう。まりかは儂を告発したのじゃ。そして、かくなる上は、儂が死ねば全てが終わる……!」 ジョヴァンニ翁が仕込み杖を抜き、その刃が持ち主の首へと突き刺す。 服の押さえがなく、ジョヴァンニの首筋から血が飛沫となって空中へ持ち上がり、教会の内に赤い血を降らせた。 「これで……、終わり、じゃ。すまなんだ、ルクレツィア……。すまなんだ、……まりか」 噴射にいち早く動くのは体への医を生業にする二人。 「源内、クゥさん。止血を!」 「了解。カンフル剤と緊急輸血の用意を頼む」 「任せとけ!」 ドクターDの合図で、平賀のサポートを受けて駆け寄るクゥをリーリスの手が制した。 「おい、君。今は止血と治癒が最優先だ」 「やめて、クゥ」 「やい、てめぇ! この状況が……」 振り向いたリーリスの赤い瞳がクゥの瞳をまっすぐに捕らえる。 「やめろって言ってるのは治療じゃない。言ったよね。リーリスを「君」だなんて他人行儀に呼ぶクゥなんて、昔のクゥだって分かってても見たくない。それに、怒ってるのよ、リーリスは。……殺されたのはクゥだったかもしれないのよ? クゥを自由にしていいのはリーリスだけよ……みんな、みーんな思い知らせてあげる!!!」 ぶわり、と石畳が浮いた。 瞬く間に硬い石版が塵と化して、灰になる。 「こ、これは……! 悪魔の仕業ですか!?」 ユダ神父がロザリオを手に握り締める。 周囲を一瞥したままで、リーリスはジョヴァンニを睨めつける。 「大丈夫、私たちは壺中天と知っているもの。ここで死んじゃうことはないわ。ただターミナルで目覚めるだけ。ただの退場よ」 「まだ終わってないのですー」 「ゼロ……。知りたかったんでしょ、まどろみ以外の眠り。臨死体験なんてどう?」 ゼロの返事を待たず、ごうっとリーリスの周りに瓦礫が舞い上がった。 強引にクゥの右手を掴む。 「それにもう終わりよ。こんな世界、このまま全部私が壊すもの!」 「あ、そうか!」 それまで黙って俯いていたティリクティアが小さく呟いて顔をあげた時、石畳が幾つも宙を舞っていた。 あまりといえばあまりの光景にティアがきょとんとあたりを見渡す。 分かったのは過程、分からないのは現状。 やっぱり今何がどうなっているのかよくわからずティアは「え、これってどういう状況!?」と声をあげる。 「あんた、ここは危険だぜ!」 平賀源内に手を握られ、脱出を促される。 が、ティアはその救いをいとも簡単に手放した。 「ううん、まだ終わってないわ」 崩壊が始まる世界、崩壊する教会の中、ティアはまっすぐにリーリスとクゥに向かって歩く。 リーリスの一瞥を無視し、ティアは手を広げた。 「全部分かったから。もういいわ、クゥ、起きなさい。貴方はまりかの夢に招かれただけ」 柱が倒れ、天井の崩落が始まる。 ティアは一心に呼びかけ続ける。 「他の司書達には、こんな事は起きなかった。そして、その事がきっかけとなって赤の女王は存在した。無巡まりかを殺した赤の女王を産み出した」 ステンドガラスが凍りつき、一瞬の後、粉みじんに破砕する。 「赤の女王は、まりかであり、クゥでもある。女王? そう、レーギーナ(Regina)が己を女王と名乗るのなら、レーヌ(Reine)だって女王を指す言葉よ。貴方達自身が目を醒ますため、誰も加害者にしない為に存在させた。貴方達は己自身で、自分達を刺殺した」 「自分"達"を?」 植村があたりを見渡す。 死体はひとつ、夢巡まりかのもののみ。 そして、先ほどまで血にまみれ、今は灰のように存在が薄れ行くジョヴァンニは気管に絡まった己の血に未だ咳き込んでいる。 「最初に電話から聞こえたでしょう? それが全てを語っていたの! 『……ユメ』と、そう、夢を終わらせろ、と。じゃあ、それは何の電話だったの? 夢を終わらせるため、教会へと貴方達を導く為の電話でしょう?」 リーリスが手を握ったままのクゥを見る。 この状況でありながら、精気の抜けたように呆けているクゥにティアは呼び続けていた。 「さぁ、目を開けて。さぁ、行きましょう。私達の螺旋の旅を続ける為!」 ティアが叫ぶとクゥの体がびくっと震えた。 「リーリス、クゥをお願い」 「言われなくてもっ!」 ティアの目の前で、クゥの腕を掴んだままリーリスは光の粒となり、蛍の群れが四散するように消えた。 そのまま、繋がった手からクゥの姿も光と化し、消えていく。 ティアが振り返ると、世界の住人達は入り口から教会を超えて避難が済んでいた。 石畳が崩れる。石畳の下にあるのは地面ではなく、ぞっとする程の暗闇を湛えた深淵。 ティアは崩れる石畳を器用に走り、最後の一歩で崩落する柱を蹴って落下する。 伸ばした手は冷たくなった夢巡まりかの遺体を掴んだ。 「いつまで死んでるつもりなの!? 夢巡まりか! いいえ、無名の司書!」 動かない黒の死体に、ティアは必死に呼びかける。 「あなたも一緒に"螺旋の旅路"を進むんでしょう!? だって私もあなたも冒険の夢は捨てられないもの! この世界にあなたの夢があるかも知れないけれど、あなたもターミナルに帰って来るの! どうしても夢が捨てきれないのなら――」 足先から凍りつく程、無機質で冷たい空気がティアの足先から体温を奪っていく。 精気も元気も抜ける程に冷たい「無」の暗闇に落ちながら、ティアは叫ぶ。 「いいよ。その夢、かなえてあげる!」 ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ 壺中天から最後に抜けたのはティアだった。 飛び起きると、悪夢の直後のように心臓がばくばくしている。 汗でぐっしょり濡れた額に髪の毛が張り付き、トレードマークの帽子にまで染み付いていた。 リーリスは眠るクゥに呼びかけ体を揺すっており、ジョヴァンニは写真を見つめ何やら謝罪の言葉を口にしている。 声をかけてきたのはゼロ。 「ティリクティアさん、おはようなのですー」 「え? あ、そうね。おはよう、ゼロ!」 呼びかけられ、医務班のスタッフが用意した熱い紅茶を口に含む。 一連の状況を頭の中で整理するまで紅茶を一杯飲み終わるまでの時間を必要とした。 やがて、カップをソーサーに置いたティアが立ち上がった。 「みんな、分かってたのね?」 「ゼロには何のことか全然わからないのですー」 「……あー、とぼけてる! だって、ジョヴァンニが殺せるわけじゃないじゃない。なのに、ゼロは外套を差し出して、リーリスに謎解きのヒントを出した!」 「買い被りなのです。何の事やら、なのですー。ゼロはジョニ赤を黒千代香でお供えする事しか考えてなかったのです」 続けてゼロは医務班のスタッフを呼び止め、黒千代香の調達について話し出した。 困惑するスタッフを横目にティアはジョヴァンニ翁を指差す。 「あなたも、赤い薔薇なんかしてなかった!」 「何の事やら、儂は愛するルクレツィアがありながら、手前勝手な理由でまりかに手をかけた哀れな殺人鬼じゃよ。すまなんだのう、ルクレツィア」 ジョヴァンニは写真の中の女性を懐かしそうな瞳で見つめ、僅かに笑顔を浮かべつつ謝罪の言葉を繰り返していた。 「絶対、ぜーったい、それ「嘘でも他の女を愛しそうになったなんて口にしてごめんなさい」とか言ってる! そうに違いないわ!!」 「じゃから、何の事やら。じゃよ」 可愛く睨むティアに、ジョヴァンニが小さく笑う。 「ところで、壺中天の世界は記憶の世界かのう。儂の記憶に狂いがなければあの女優は確かどこかで見たような気がするのじゃが」 SAYURIの姿を目にしてから、どこかで見た事があると思っていた。 本人に会った事はもちろんない。だが、その姿は目に焼きついている。 「見たことがあるのですー?」 「うむ。気になっておるのじゃが……」 「映画館に行ってみるといい気がするわ。なんとなく」 首を傾げるジョヴァンニ翁にティアが提案をしてみる。 「映画館? シネマ・ヴェリテかの?」 「わからないわ。だって、なんとなくだもの」 そして、向き直ったのは口を開かないままのリーリス。 「それよりも。ねぇ、リーリス?」 「なぁに?」 「あなたは最初から壺中天の世界を壊すつもりだった。違う?」 「そうね」 「あら、あなたは「何の事やら」って言わないんだ?」 リーリスはティアの問いかけに答えない。 仕方ないわね、と呟いてティアはリーリスの傍から二歩、窓に近づく。 「どうしたのですー?」 「なんとなく、ここにいた方がいい気がしたの」 ティアが答えた途端、クゥが起き上がった。 医務室であるのはともかく病人用ベッドに眠っている状況を理解しようとして今ひとつ理解できないのだろう。 誰か説明してくれと顔に描いてあるような表情で「やぁ、おはよう」と口にする。 「おかえりなのですー」 「待っておったぞ」 ゼロとジョヴァンニが声をかける。 だんっ、と勢いのいい音がして、リーリスがクゥの胸に飛び込んだ。 二人の間に、ついさっきまで立っていたティアはにこやかに笑う。 「ほらね、ここの方が良かったでしょ?」 あのままあの場にいたら、リーリスに突き飛ばされていたかも知れず。 ね? と言いたげにティアは元気な笑顔を浮かべた。 抱きついたまま、リーリスがクゥの耳元で囁く。 「おかえり、クゥ」 「やぁ、リーリス。ええと……、おはよう」 「お寝坊は許してあげる。もう新年よ。ねぇ、クゥ?」 「ん?」 リーリスはクゥの瞳を真っ直ぐに見つめる。 「……忘れないで。私以外に殺されるのは許さないから」
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