燃え盛るような綾錦が絢爛に袖を広げ、広大な大河、龍王の鱗のひとつひとつをも鮮やかに染め上げる季節。 ひとつの哀しい事件が、真都を揺るがした。 ◇ あれから一年の歳月が過ぎて。 東雲宮は、再びの紅に染まる。 開いたままの扉から、蕩ける夕陽の色が射し込む。 だが、その場には既に、噎せ返るほどの赤が満ち足りていた。黄昏の侵蝕など必要がないほどに。「姫君」 茫然と、誰かが声を上げる。 石造りの床に流れ出る紅。滔々と暗灰を侵食する液体は、早くも酸化と凝固を始めていた。狭い通路の床を遮るそれを踏み越えて行く事も出来ず、臙脂色の軍装を纏う男たちは皆一様に足を止めた。眼前に広がる光景の異様さに、追及の言葉さえも喪う。 暗紅色の中に身を伏せる、一人の年老いた男。 陥没した後頭部。見開かれた瞳の混濁した色。撫でつけられた白髪も今や赤く染まっている。遠巻きに眺めている事しか出来ない軍の男たちにも、ソレが死体であるとは容易に判断が付いた。 前のめりに倒れ、それでも前方へ這って行こうとしたのが見て取れる。その脚元に転がる石像もまた、男の返り血に染まり、まるで頭部から血を流しているようだった。 ――血の海の中投げ出された手の先には、一人の女。「何を戸惑っておるのかえ?」 朱いヴェールの下で、嫣然と唇が蠢く。吐き出された言葉は凛と鋭く、しかし妖艶な色香を纏っていた。「早う此方へ来てたもれ。妾を捉えるために」「しかし、姫君――」「この場に居ったのは妾一人。この男を殺せたのも妾一人。それはまぎれもない事実であろう?」 その目は既に光を喪って久しい。 しかし、女はきっと顎を上げ、集う臙脂色の軍装の男たちを見据えていた。 右後ろに控えるようにして佇む、陰鬱とした老婆の淀んだ瞳が、女をじっと見護っている。 女は微笑む。 密やかに、燃える焔を唇に乗せて。「これでもまだ、妾がやったのでないと言いたいのなら、それを証明してたもれ」 ◇「世界計が修復したばかりで、申し訳ないんだけれど」 そう前置きをして、世界司書・灯緒は茫洋とした眼差しを集った四人のロストナンバーへと向けた。「朱昏の東国へ、出向いてくれないかな」 彼の足許に置かれた導きの書には、相変わらず日本列島を反転させたような形の地図が無造作に広げられている。その東側――南へと続く龍の尾にも似た島国を指し示して、虎猫はゆるりと首を傾げた。「東雲宮の宝物殿で、重臣の一人の遺体が発見されたんだ」 東雲(しののめ)宮――東国の都、真都の中央に位置する天帝の居城の名だ。「去年、天帝の寵姫にまつわる事件があったろう。ちょうどその事件が起きたのと同じ宴の席だった」 事件が起きたのは宴の最中。宴の催される庭に面した場所に在る宝物殿の内部で、帝家に古くから仕えた老臣が、20cmほどの石像で頭部を撲殺されていたという。「現場は密室。出入り口は庭に面するひとつだけで、窓は初めから嵌め殺しだ。犯行時刻は不明だけれど、被害者が蔵へと入っていく姿は目撃されていない」 宴の最中、蔵の内部から大きな物音が聞こえ、不審に思った軍の人間が蔵の中を覗き込んだことで事件は発覚した。 蔵の内部に残されていたのは、無残な死体と――ひとりの女。「天帝の妹君、茜ノ上だ」 兄への愛の故、一度妖へと身を落とした、龍王の血を引く盲目の女だ。 彼女は死体の発見される十分前に、ふらりと蔵へ入っていく姿が目撃されている。当然死体の第一発見者も彼女となるはずだ。――彼女自身が殺したのでなければ。「……今、彼女は容疑者として拘束されている。状況を鑑みれば、犯行が可能だったのは彼女だけだから、わからない話ではないんだけれど」 被害者は宴が始まるまでは確かに生存していた、という証言がある。そして、宴の間に蔵へと足を踏み入れたのは茜ノ上ただ一人だという。 もちろん、超常的な力の存在する朱昏のこと、不可能を可能にするものがなかったとは断言できない。だが、少なくとも、と世界司書は獰猛な顔を歪める。「おれの目には、冤罪にしか見えないんだ」 光を喪った非力な女に、成人男性の後頭部を殴り倒すなどという凶行ができたとは思えない、と虎猫はどこか苛立ち混じりに呟いた。【導きの書】もそれを明確に示しているのに、と。「なのに、何故か彼女は、無実を訴えるでもなく黙秘を続けている」 まるで彼女自身が石像にでもなったかのように、何を問われたとしても答えないのだと言う。ただ嫣然と微笑み、証明を、と乞うだけなのだと。「真っ向から理由を問い質しても応えてはくれないだろう。彼女はそういう女性だ」 高慢にして頑迷。高潔にして一途。 直情的な、静かに燃えるあかね色の焔を内に秘めた女。 ――それが、龍王の血を引く女、茜ノ上だ。「だからきみたちに、暴き出してほしい。彼女の無実を。事件の真相を」 たとえ、茜ノ上がそれを望まなくとも。
陽の光が斜めに差し込む中、宴の余韻が残る庭を横切って歩く。 「こう言う場所は初めてだね」 蔵の入口前に屯する臙脂色の軍装の男たち――真都守護軍の視線を受け流しながら、古部利政とツリスガラは連れ立って現場へと足を踏み入れた。入ってすぐ、司書の予言通りの死体が血溜まりの中に茫と浮かんでいるのを目にし、古部は眉を顰める。 「――惨い」 むわっと噎せ返る血の匂いに顔を歪め、一度顔の前に手を掲げその冥福を祈る。 「まだ現場の調査は始まっていないのか」 現場の指揮官らしき臙脂色の男に問いかけるツリスガラの脇で、古部は血の池の上に渡された木の板を踏んでその向こう側へと渡っていた。 「ああ。何分死体を見つけたのもつい先程の事だ」 「では、幾つか調べてほしい事があるので、ついでにお願いしたい」 異邦の旅人の協力を拒む事無く、憲兵は快く受け容れた。大勢が捜査するのに、この現場は狭すぎる。数人の見張りを残して一旦散開する臙脂色の男たちを見遣り、ツリスガラは改めて死体に目を寄越した。 「……血が多いな」 刑事として死体を見慣れてきたはずの古部が一瞬怯む――しかし、何処か演技めいた虚ろさも感じられたが、思い違いだっただろうか――ほどの血の量だ。死んだばかりの遺体とはとても思えない。こちらを先に調査すべきか、それとも――数秒逡巡した彼女の前で、古部が動いた。 鮮やかな青い瞳が閃く。 不穏な光を孕む、嵐の予兆を思わせる空の色だ、とツリスガラが茫と思う前で、古部はゆるりと、その唇を笑みに歪めた。何を確かめたのか、仲間であるはずの彼らにも説明をしないまま、微笑む男はまっすぐに盲目の女へと向かう。 足音に気がついたのか、朱色のヴェールを被った女がその貌を上げた。 「あなたが?」 慎重さを窺わせる問い掛けに、女は静かに頷いた。 「ええ。茜ノ上と申します」 「……お久しぶりです、姫君」 能面に似た無表情のまま、ツリスガラが頭を下げる。かつての縁を覚えていたのか、茜ノ上はその声に綻ぶような笑みを浮かべた。 女がそれ以上は何を語るつもりもないのを空気で察し、二人は目配せを交わした。 「私はこの蔵を見て回りたい。――随分と、背が高いようだし」 蔵の構造は外から見たよりも広く、二階から三階建てほどは在りそうな高さをしている。 ソフト帽を抑え、吹き抜けの頭上を見上げたツリスガラの眼は、何かを確かに捉えていたようだった。その意味を深く詮索するのを止め、古部は静かな微笑みのまま見送る。 そして、何気なく青い瞳を滑らせた先には、幽玄な佇まいの女が一人。 視線に気づいてこちらを振り返る、その仕草ひとつをとっても人間らしさをまるで感じない。まるで生きながらの幽体のようだ。 黒く長い髪を靡かせて、質素な小袖姿の女――ほのかは視線だけで用を問うた。 「……ああ、いや」 古部は思い出したように物憂げな所作で首を横に振り、一度左手首の腕時計を盗み見てから彼女に向き直った。 「きみは、ここに残るつもりかい」 「ええ……」 頷いて、遺体の傍に膝を着く。 「……戦の跡を漁った事があるの」 労わるように亡骸の背を撫でながら、消え入るような幽かな声がそう語る。 「死後一定時間のものは身体が固まって……装備を剥ぐのが大変だから……機を図ったの」 生活の為、村の総出で金目の物を探したと。甲冑を剥ぎ、握っていた槍を引き剥がして。壱番世界と同じ現代を生きてきた古部にとっては、戦争も貧困も縁遠いものであったが、想像するに難くはなかった。 「死体には慣れているんだね」 自ら生と死の境に佇んでいるような女は、相槌にも不快を示すことなく頷いた。 「数だけは見ているから……検めて、何か解る事があれば、と……」 柳の間を風が過ぎゆくような、弱弱しい声音なのに、その言葉が孕む想いは驚くほどに深い。僅か、女への評価を修正して、古部は興味深げに片眉を上げた。 「気になるのは?」 「先程、ツリスガラさんも言っていたけれど……血が多すぎるわ。それと、随分と固まるのが早いように思うの……」 血の通わぬほどに白い指が血溜まりに触れる。指先に黒ずんだ赤がこびりついて、粘着質な音が小さく響いた。今しがた死んだばかりとは思えぬ出血、そして劣化ぶりだった。 「仏の様子からみても……死から一刻は経過していないと、おかしいわ……」 「そうだね。死斑が現れている」 死後三十分以上経過しないと現れないはずの死斑が、発見されて十数分としない内に現れている。刑事としての現場の経験と、独学だが法医学に詳しい古部も同意を示した。 その後もほのかは恐れる事なく淡々と遺体に触れ、筋肉の硬直を確かめていく。 「この様子なら……死亡から一時くらいかしら」 隣で検死を眺めていた己と同じ結論に至った事に僅か感心し、古部は頷いてトラベラーズノートに記録代わりに書き記した。ノートを開く左手首をちらと眺め、時間の経過を確かめる。 「それと……もうひとつ、気になる点が……」 華奢な腕からは信じられないほどの力でうつ伏せの遺体をひっくり返し、ほのかが古部を窺うように見上げる。古部は片眉を跳ね上げて、それからゆっくり、自らの唇の前に人差し指を宛てた。 雄弁に語る青い瞳が、悪戯に輝いている。 ◇ 「……おや」 蔵の奥、二階層に別れている場所の上階へと足を進めたツリスガラは、予想外の先客に小さく声を上げた。蔵内の明かりも届かぬような奥深くで、わずかに美しい銀のいろが光っている。 「いつの間に、こんなところまで?」 「目立たないのはゼロの特技なのです」 光と同じ、ぼうやりとした声が返る。まともな感情を持つ者であれば美しいと呼べるだろうが、何故か興味を引かれない、不条理な少女の声。暗がりの中から貌を出したシーアールシー ゼロの不思議な特性に首を傾げ、ツリスガラは彼女の元へと歩み寄った。 「何を探していた?」 「凶器の石像が、この宝物殿の所蔵品だったかどうかを知りたかっただけなのです」 そう言う少女の幼い手が、古びた台帳を握っている。彼女が言うには、それは宝物殿の貯蔵リストであり、目録と照合しながら品を見て回っている内にこんな奥地まで入り込んでしまったらしいのだ。 「もしこの蔵の物でなければ、被害者が別の場所で殺され、何かの力でここまで運ばれた可能性があるかもと思ったのです」 その可能性を排除するためにも、決して無駄なことではない、とゼロは淡々と語る。ツリスガラもまた淡々と頷いて、少女の手の中を覗き込んだ。 「異変は在ったのか?」 「凶器とよく似た大きさ、重さの仏像が一点、行方不明になっていたのです」 少女は台帳を手渡し、両手で仏像のサイズを指し示す。遺骸の血だまりに浮かんでいたものと同じくらいの背丈だと、ツリスガラも認めざるを得なかった。 「確かに。それが凶器で間違いないだろうな」 頷き、納得したツリスガラは、改めて吹き抜けになった一階部分を見下ろす。 二階層と言っても、この場所は通常の家屋の三階部分程の高さに在る。――ここから墜ちれば、よほど運がよくない限り命を落とすだろう。 「人類は面倒の多い種族なのです」 「ああ」 唐突にゼロが言葉を口にして、ツリスガラはそれを訝しむでもなく頷いて聞き届ける。 「彼らの生み出す物の多様性はその面倒さに由来するのです」 多様な感情を持つ人類は、個々の意志が強すぎる。そしてそれは時に合理性や損得を無視して動く。そんな人類の不条理さを、銀色にまどろむ少女は淡々と不思議がった。 ツリスガラは二階の柵に手を掛け、静かに身を乗り出す。 「……わたしは、そんな人々が羨ましい、と思う」 その羨望すらも、彼女の経験に基づくものでしかない。深く被った帽子の下に揺らぐ事のない無表情を隠し、ツリスガラはたった一人凛と佇むあかねいろの女を見下ろしていた。天高く燃ゆる激情の炎。彼女の世界に居た、赤を愛する絵描きの操る炎に似ている。茜色の、感情をそのまま閉じ込めたような女。 「それらを喪ってしまったわたしからしてみれば、そんな面倒ささえ、興味深い」 「……ゼロはまだ、喪ったわけではないのですが――わかるような気がするのです」 二人はそれ以上何を言うでもなく、静かに階下を見下ろしていた。 「……ところで、ツリスガラさんは何を探しにここまで来たのです?」 「ああ。あれだ」 そう言ってツリスガラが指差した先には、漆の黒に塗られた棚の上面が見えていた。この二階部分から、何か踏み台を使えばよじ登れる程度の高さだ。 「あの棚は入り口付近まで続いている。つまり、棚に登ってその上を歩いていけば、遺体が見つかった現場まで歩いていけるという事だ」 「……どうして、その必要があるのです?」 「きみなら、既に気が付いているんじゃないのか」 無表情のまま首を傾げるゼロに、同じく無表情のままツリスガラは言う。二人が見下ろす先には、血だまりの中に沈んだ亡骸と、静かに佇むあかねいろのヴェールが風に靡いている。 その姿は、まるで儚く揺らぐ陽炎のようだ、と譬えるべきなのだろうか。 空虚な内面を覗き込み、経験と言う名の記憶を掬い上げて、ツリスガラは瞳を細めた。 ◇ まだ調べる事が残っている、と言うツリスガラと別れ、ゼロは次の調査へと向かう。 「目撃者と、被害者の周辺の人物に話を聞いてみたいのです」 不条理なまでの無個性さでするりと蔵を抜け出したゼロは、同じく夢現をたゆたうような朧さを纏うほのかとともに、宝物殿から宴の席へと足を踏み入れていた。 「……わたしの感覚では……身分が高い方ほど、人を殺めても罪科を問われないわ……」 道すがら、ほのかが静かに呟いた言葉を、ゼロは寛容に拾い上げる。朱昏の西側と良く似た、しかしそれよりも遡った時代を生きていたらしいほのかの言葉は、そのままこの国にも当て嵌まるのかも知れない。――その可能性は、少なくないだろう。 「なら、間接的な意味で……帝の御身やお立場を守る為、秘匿したい何かが……?」 「天帝自身が罪を殺めたわけではないにせよ、彼に知られたくない事情があったのかも、なのです」 たとえば、帝からの信も厚かったはずの被害者が、実は天帝に仇なす奸臣であったとしたら。――その事実を知って、帝は如何に思うだろうか。 「帝の御心を、護りたかった……ということ……?」 「その辺りも含めて、事情を聴きに行くのです」 宴の席に残っていた何人かに話を聞きつつ、ゼロは一つ一つ確かめていく。被害者の人となり――古くから仕える忠臣であった事、遺体発見時の物音――何かが倒れるような大きな音であったらしい事、など。 「……では、確かに宴の最中、蔵へと入ったのは茜ノ上さんただお一人なのです?」 聞かれた衛兵はひとつ、頷いた。 宴の席から宝物殿は、一目で目に入る場所に在る。こうしてゼロたちが軍の人間と会話をしていても、横目で人の出入りを確認できるほどだった。人の目が途絶えなかったのも、茜ノ上を目撃した者が多数いたというのも納得出来ぬ話ではない。 そして、その証言者も、来賓から皇族、衛兵までと所属もばらばらな十数人。これだけの証言を端から疑ってかかるのは現実的ではない。ゼロは振り返ってほのかにも確認を取ってみたが、彼女もまた静かに頷くだけだった。 「宴の最中の目撃証言は崩しようがない、と」 蔵へと戻ってきた二人へ、飄々と、古部は確認を取るように言う。 「視線の壁は厚かったのです」 「なら、簡単な話さ。『宴の前』の証言がおかしいんだ」 その言葉と共に、臙脂色の軍装の男たちが数人、蔵の中へとやってきた。老臣の遺体を運び出し、てきぱきと現場の処理を始める中、一人の男がロストナンバーの元へと歩み寄る。 赤茶けた髪色の、若い男だった。鋭い視線は氷のように鋭く、他の軍人とは意匠の違う装いに身を包んだその胸元には、幾つもの徽章がぶら下がっている。 「私を呼んだのは君たちかね」 玲瓏とした声音が、威厳を含んで問いかける。 「物部(モノノベ)大佐ですね?」 「如何にも」 大佐にしては若すぎる、と古部は僅か、興味を示すように瞳を細めた。この男がそれほどに優秀なのか、それとも何か別の理由があるのか――。とは言え、今はそれは関係ない。 「現場の指揮官に聞きましたが、被害者を最後に目撃したのが大佐御一人だと」 「そうか。他に誰も見ていないのなら、そうなのだろう」 「その時の話をお聞かせ願えますか」 青い瞳を針のように細めたまま、古部が柔らかな追及の手を伸ばし始める。穏和な物腰の中に巧妙に隠した切先に気がつかぬまま、大佐は頷いて答えた。 「寒河江(サムガエ)殿とは既知であったから、宴の前に顔をお見かけしたので御挨拶を、と思っただけだ。――彼の方は何やら急いでいたようで、私の声にも気が付かれなかったが」 「被害者はどちらへ?」 「宴へ向かう私とは反対の方向へ曲がっていった。その後目撃した者が居ないのなら、宴の席には戻ってこなかったのだろう」 それが何故、と男は小さく溜め息を吐いた。 「ありがとうございます。……最後にもう一度だけ。宴の前に、被害者を見かけたのは間違いありませんね?」 「くどいな。そう言っている」 「――嘘」 幽かに割り込んできた声に、男が振り返る。 「何?」 氷のような視線にも動じず、ほのかは薄暗い蔵の中不気味に煌めく黄金の瞳を男に向けていた。感情や嘘を無意識的に見抜く、見透かすような眼差しが彼を捉えたまま離さない。 「……あなたは……嘘を、吐いているわ」 消え入りそうな静かな声だが、その言葉は確信に充ちている。 唐突の糾弾に周囲が色めき立つ中、男だけは冷静に佇んでいた。自らの立場と物証の希薄さが余裕を与えるのだろう。――だが。 「何をしておる。その男を調べよ」 りィん、鈴が鳴り響いたように、ざわめきが収まった。 蔵の奥で声を上げた龍の末裔が、朱色のヴェールの奥から彼らを見下ろしている。 「……穢れた血の娘が」 女を睨め上げ、吐き棄てるようにそう呟いて、男は自ずから蔵を立ち去った。疾くと、皇族に促され、数人の憲兵がその後を慌てて追いかける。 「でも」 凛と立つ茜ノ上と男とを見比べながら、ゼロは小さく首を傾げた。 「あの軍人さんには蔵の中へ入る事は出来なかったのです。犯人でないなら、何故あんな嘘を吐いたのです?」 「……まるで、被害者のアリバイを証明しようとしていたようだったな」 被害者の側に、アリバイを用意せねばならない何らかの理由があったのか――と。 推論を口にするよりも早く、叫び声が鼓膜を貫いた。 「――誰か、誰か来てくれッ!!」 ◇ 蔵を飛び出した四人が目にしたのは、宴のきらびやかな装飾を蹂躙する異形の霧だった。ゆるゆると、煙のように不定型に躍るそれは、しかし確かな鋭い牙と爪とを備えている。 獣だ。 朱色の、靄で出来たような肢体を持つ、巨大な狼の姿をした異形。青、金、黒、白――それぞれ違う色の四肢が、大地を強く踏み締めている。周囲には獣の爪を受けた男たちが倒れ伏し、新たな血が流れ出している。 頭をぐるりと巡らせて、不意に獣が動いた。 旅人たちの背後。盲目の女の、喉笛を狙って。まっすぐに、刃のように飛び込む。 「上様――!」 ぐわり、と、開かれるあぎと。 立ち並ぶ朱色の牙は、かよわい女の身体など一息に噛み砕けそうなほどに鋭利で、凄惨だった。 しかし、その牙は、女の元へと届かない。 「――!?」 彼女と獣との間に身を滑らせたほのかの肩を、獣のあぎとが捉えたのだ。獲物を間違えた事への動揺も見せず、鋭い牙が深く抉る。 澄んだ音が鳴り響いて、ツリスガラのトラベルギアが放つ風の刃が、空を駆けた。それはほのかの肩を抉り続ける獣の横腹を捉え、鋭く切り裂く。後から後から響く音色が美しい旋律を描き、生み出される刃が次々と獣を切り刻んだ。 靄が切り開かれ、血は流れないまま、しかし獣は大きく怯む。ほのかから顎を離し、四つの色彩で蹈鞴を踏むその巨体を、金切り音が苛んだ。 否、それは悲鳴だ。 神経質で感傷的な女の断末魔に似ている、鋭く鼓膜を穿ち、脳内を揺さぶる狂気的な声。周囲の人間も数瞬怯むほどのそれを、獣の聴覚でまともに受けた異形は錯乱の咆哮を上げた。言葉を持たないなりに、やめろ、と叫びたかったのかもしれない。 獣を構成する靄が大きく歪む。身を撓ませ、一度石畳を掻き毟ると、高い宝物殿を飛び越えてそれは駆け去っていった。 「……いまの、は」 首を横に振り、絶叫の余韻を振り払いながらツリスガラが茫然と声を上げる。振り返ってみても、最早異形の痕跡も、物部大佐の姿もない。取り逃がしてしまったようだ。それを確かめた後、倒れ込んだほのかへと視線を向ける。 しゃがみ込んだ茜ノ上が抱きあげるその身体は、確かに獰猛な獣の牙で肩を抉られたはずなのに、血の一滴も流していなかった。黄金の瞳をその瞼の奥に隠し、ただ静かに眠っている。 その傍らに、何かが落ちている事に、気がついた。拾い上げてみれば、それは右肩を深く切り裂かれた人の形をしている事が解る。 「これは……?」 「形代(カタシロ)のようだね。神や霊を憑依させるための依代の一種だ」 呪術関係に明るい古部が、覗き込んだだけで簡単な説明を寄越す。得心するツリスガラの目の前で、カタシロの切り裂かれた右肩が見る間に再生していく。 「!」 「……わたしのもの、よ」 幽かな声。 ぱちり、と見開かれた黄金。 生気ある人のものとは思えない様子で身を起こしたほのかが呟く。所有者の傷を肩代わりし、対象に跳ね返す類のトラベルギアだと。その身に傷を負っていない事を確かめて、茜ノ上は大きく息を吐いた。 「なんと、無謀な――」 「殿上人のお考えは……計り知れないけれど」 不安の言葉を遮った、その声は幽かだからこそ、聴く者の鼓膜に静かに沁み入る。ほのかの忌眼と呼ぶには美しい黄金が、真っ直ぐに半神半妖の娘を射た。 「……そこには私情の限りではなく、世を思う旨も含まれていて欲しい……」 あかねのヴェールに覆い隠された、その心までも見透かすような、透いた視線。 気高き血を持つ女を見上げ、鄙びた漁村で生まれ育った女はしかし怖じる事もなかった。 「……これはただ、市井の民草に過ぎない者の勝手な願いよ」 「何故――何故、そなたたちはそこまで……」 ほのかの静かな言葉は、確かに焔の娘の心を揺さぶった。言葉に詰まり、当惑に視線を彷徨わせ、諦めたように一言、女は言葉を零す。 「あの男を殺したのは――妾だと言うのに」 ◇ 司書の予言と相反する自白に、四人は軽く視線を交わした。 「聞かせてくれるだろうか、姫君」 ツリスガラの静かな催促に頷いて応え、茜ノ上は口を開く。 「妾が蔵に入った時には、未だ遺骸はおろか、人の気配もなかったのです。ただ、ひた、ひたと水音がしただけ。そして、奥へ進もうとして……棚に寄り掛かって、体重を掛けすぎてしまったのでしょう。軋む音と共に、何かが落ちる大きな音がしました」 「目撃証言にもあったな。……それが、被害者の落ちる音だったと」 「ええ。石像は棚から共に落ちてきたものやも知れません。先に落ちたそれで、あの男は頭を砕いた」 何故、あの老臣が棚の上に居たのかは判らない。何らかの理由で自ら死を選ぼうとしていたのかもしれないが――結果だけを見れば、それは盲目の女の自然な行動を引き金にした、不幸な事故だった。 だが、高潔な女はそれを良しとしなかった。 「あの男を落としたのは妾。どうあっても、それは揺るぐ事のない事実です」 「それは違うと思うのです」 不意に割り込んできた幼い声に、はたと茜ノ上は顔を上げた。遮られる自白。不条理で美しい、夢のように朧な少女が蔵の奥から再び姿を見せる。 「茜ノ上さんが殺したのではないのです。被害者は墜落するよりも前に、既に死んでいたのですから」 その手に恭しく抱え持つものが何であるか、女は盲目ながら確かに感じ取った。 「沙霧ノ君――?」 刀身から、柄まで。 全てが朱色の霧で出来た、蒙昧にして強大な妖力を備えた剣だ。かつてこの東雲宮で死んだ女の屍を用い、黄泉還りの儀式の中で生まれた呪物。一度は霧と成って溶けて消えたが、再び容を取り戻してこの宝物殿に所蔵されていたようだ。 「……上様は御存知ないのでしょうけれど……直接の死因は後頭部の傷ではないの」 「それは……まさか」 「刺殺だよ。右脇腹を深く突き刺されての」 唯一の目撃者は、盲目だからこそ、事件の全てを把握する事が出来なかった。うつ伏せの遺体の腹部に大きな刺突の痕があった事を知らなかったほどに。 ツリスガラは遺体脇の棚に手をかけ、その上を覗く。黒塗りの木棚を伝う、赤褐色の液体を指で掬う。 「この棚の上面には二階から登る事が出来るようになっている。ちょうどあの位置から――多量の血痕が、見つかった」 「血痕?」 首を傾げて問う茜ノ上は、ほのかの目を通しても嘘をついているようには見えなかった。――彼女は本当に、知らなかったのだろう。 真実、被害者が墜落と共に死んだのなら、あってはならない証拠が遺されている事に。 遺体の浮かぶ血だまりから、真っ直ぐに前方へと続く赤。黒ずんだ血で彩られた、女の足跡。――その持ち主は、火を見るよりも明らかだった。 「……遺体の血痕を踏んで、その跡があなたの靴裏に付着してしまったようだな」 ツリスガラの言を受けて初めて、光映さぬ瞳が足許を見遣る。 棚板の上で溢れたそれが地面へと落ちて、茜ノ上の足を赤く濡らしたのだ。 そう考えれば、彼女が聞いたという水の滴る音の説明も付く。 茜ノ上はそれを知らぬまま、落ちた男が死んでいた事だけを悟り、自らの罪だと錯覚したのだろう。 「されど……妾が殺したのでなければ、いったい誰が……」 「容疑者なら、もう一人いるじゃないか」 当惑に顔を曇らせる女の言葉を、穏和な声が遮った。 皆の視線を集め、青い目を閃かせて、古部は微笑む。 「盲目の彼女が一人で行動できたと、皆、本当にそう思っているのかい?」 柔らかで隙のない、人好きのする笑みのはずなのに、どこか嘲りの彩を含んでいるように思えたのは――ツリスガラの思い違いだろうか? 経験は実感に勝らないという徴なのだろうか、と深く被った帽子の奥で考える。己に足りないものを痛感させられる。 「それは……?」 幽かな言葉でほのかが促した先、古部は肩を竦めて蔵の中を見遣った。 「さて。今は居なくなってしまったようだが――僕らは確かに、視ているはずだよ」 幽霊でないのなら、と嘯いて、ただ一人佇む茜ノ上を振り返る。 「彼女の後ろに、老婆を、ね」 「――ばあや?」 盲目の女の口から、たった一言、言葉が零れた。 茜ノ上の背後に控えていた老女の存在は、彼女の周辺では知られた話だった。かつて彼女の乳母をしていた女で、年老いた今、光を喪った茜ノ上の杖代わりとして再び彼女の傍に仕えるようになったらしい。 遺体の血だまりから伸びる足跡はひとつ、茜ノ上のもののみだった。一見当然の事のように思えたが、今となっては明らかにおかしいと解る。 彼女と常に行動を共にしていなければならない、傍仕えの老婆のものが存在しないのだ。 「あの老女の足は、血で濡れてはいなかったよ」 初めにこの蔵を訪れた際、抜け目なく確かめていたらしい古部が勿体ぶった口調で告げる。共に行動していたはずの二人、片方の足は血で濡れて、もう片方の足は濡れていなかった。 「……目撃証言も『なかった』のです。宴の最中、蔵に入ったのは茜ノ上ただお一人だと」 ゼロが真実の細い糸を手繰り寄せるように、慎重に呟く。何度も確かめたから間違いがない。蔵に入った時、確かに茜ノ上は一人きりだったのだ。 「確かめる方法なら、簡単だろう。――姫君、答えて頂けるだろうか?」 ツリスガラのまっすぐな眼差しを受けて、茜ノ上は唇を引き結んだまま頷いた。 「ええ。……妾は、一人でした。宴が始まる前から、ずっと」 媼の不在には気付いていたと、盲目の女は言う。光を失くした生活にも慣れてきた所だから、宴の間くらいは問題はないだろうと、そう思って探す事もなかったらしい。 「一人で行動しなければならない理由もありました故。……しかし――あの時、ばあやは妾の傍に居たと、そう仰るのですね」 朱色のヴェールの奥から、朱色の瞳が古部を捉える。それは確認と言うよりも、どこか、見究めるような色を湛えていた。古部は肩を竦め、しかし頷く。 「この通路は狭い。血溜まりを避けて歩くことは不可能だ。あなたの乳母の足許が血で濡れていないなら、彼女は被害者が死ぬ前に蔵の中に居たという事だろうね」 宴の始まる前、被害者が蔵に潜むよりも前から。そして、事件発覚後、何食わぬ顔で彼女の背後に控えていたのだ。 「噫――では、妾は、ばあやは!」 「……犯した罪は償わなければならない」 物憂げな青い瞳が、貫くように当惑する女を捉えた。 ぐらり、と傾いだ茜ノ上の肩を咄嗟にツリスガラが支える。しかし古部は追及の手を休めない。 「別に犯人が存在するなら、“彼女”から償いの機会を奪うだなんて残酷な仕打ちだと思わないかい」 ――その言葉が、かつての言動と矛盾している、と。 そう指摘し得る人物はこの場にはいなかった。古部自身もそれを知りながら口にする。目の前の、焔のように頑強ながら実体のない女の心に、波紋を描くために。 「ここで口を鎖すという事は、真実を永遠に葬り去ってしまう事にも成りかねない。――あなたは、それでもいいのかい?」 朱色の唇が、心中の逡巡を映し取ってわななく。 その口が言葉を形作るまでの長い時を、四人はただ静かに待ち続けた。 「妾は……確かに、あの男を殺すつもりで来たのです」 やがて、茜ノ上は静かに口を開いた。 凛と張っていた気も緩め、皇族の一人からただの娘へと戻った女は、どこか安堵した様子で言葉を重ねる。 「あれは逆賊。兄上の命と、この國を脅かすもの」 「……やけに確信があるようだが」 「光を喪って、視えるようになったものも多く在ります故」 誇らしげにそう微笑んで、支えるツリスガラの腕の中に身を任せた。情深く、孤高な娘から伝わる無言の信頼。ツリスガラの虚なる心のどこかが、微かに揺らいだ。 「されど、遅かった。あれは“望み通りの”結果を手に入れた――そう、思っておりました」 「それは、どういう――?」 問いかけの言葉を、女は微笑みながら首を振って制した。 「……沙霧の剣が、あの逆賊の命を奪ったのは確かなのですね?」 「なのです」 ゼロの手に抱く霧の剣は、元より凝縮された朱の色をしている。血に塗れているかどうかは判然としないが、それが遺体の置かれていた棚の上から発見された事実が何よりの証拠だった。 茜ノ上はそれを聞き、小さく息を吐く。 「ほんとうは、それは妾がやらねばならぬ事だったのに――ばあやは心配性に過ぎる」 「なら……彼女は、あなたの手を汚させまいとして?」 「ええ。……まだ、望みは遺されていましょう」 思いつめたような口調で小さく呟いて、ヴェールと同じ色彩の瞳が、真っ直ぐに四人を見上げた。 真摯に光る朱の中に、確かな焦燥を読み取る。 突如顕れ、消えた獣。 死の直前の、被害者の謎の行動。 盲目の女が“逆賊”と罵る理由。 「御手を貸してくださいませ、旅のお方。『宴』を――再臨を、止めなければ」 ――旅人たちが、全ての意味を知るのは、まだ先の話だった。 《続》
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