「カリスに会わせろ。前置きは抜きだ。時間がない」 くわえ煙草のまま《赤の城》の城門に立った由良久秀は、そう言い放った。 ふたりのフットマンは、あらかじめカリスから言い含められていたらしい。うやうやしく頷いて、城内にいざなう。 由良が案内されたのは、常ならばお茶会が催される、薔薇園の東屋ではなかった。 館長後見人エヴァ・ベイフルックの執務室として機能している、優雅なつくりの書斎だった。 由良は勧められた椅子に掛けもしない。目線で示されたアッシュトレイで、煙草だけは消したけれども。「リベルから聞いた。アーグウル街区のカイ・フェイから連絡があったそうだな。螺旋飯店の支配人が、月の王に拉致されたと」 カリスが無言で、磨き抜かれたペデスタルデスクの上に、水色の便箋を置いた。 羽根ペンが滑り、文字が記される。 それは、螺旋飯店の支配人室で発見されたというメッセージカード――探偵カイ・フェイを介して知りえた、月の王からの挑戦状だった。・━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━・ 世界図書館に属する、全てのロストナンバーに告ぐ 美麗花園で、君たちを待っている。 人質の処遇と、その命については、 君たちと、この男の兄弟の出方次第だと言っておこう。 助けようと腐心するも良し。 私ごと、インヤンガイごと、滅ぼしてしまうも良し。 私は、月の女神の名をもつ、ダイアナ・ベイフルックに属する者。 だが、かの女神との盟約は、いつでも保古にできる。 万全を期するのであれば、 麗しき赤の女王の首をたずさえ、来るがいい。 月の王より、敬意をこめて・━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━・「……気に入らん」「そうね」 カリスは目を伏せ、感情を込めずに言う。「ベンジャミンを人質に取られて、ロバート卿はダイアナおばさまに屈した――この状況は、そういうふうに思えるわ。弟の命と引き換えに、ヘンリーを引き渡そうとしている」 由良の眉間の皺が、深くなる。「ロバートは、優に予告をしていたそうだ。近いうちに、俺たちを裏切ると。それを告げたうえで、頼みがあると言った。俺たち四人に」「四人……? 以前、ベンジャミンから螺旋飯店への招待を受けたのは、五人ではなくて?」「一には、伝えなかったらしい」「……そう。あのかたは相変わらず、情のふかいこと」(何度も言いましたが、わたしはあなたが苦手です。ロバートおじさま)(好悪の感情はどうしようもないものだから仕方ないけれど、せめて理由を聞いていいかね、エヴァ?)(ベンジャミンを護るためなら、お義母様を殺めてもかまわないと思っているでしょう? わたしは、そんな考えは嫌です。許せません)(なるほど、きみの気持ちはよくわかった。では、正式なプロボーズをして困らせるのは、やめておくとしよう) † † † 現地におもむいたロストナンバーたちは、息を呑んだに違いない。 美麗花園は、アーグウル街区との境から、その様相を一変させていた。 銀色に輝く、城塞都市―― 暴霊が跋扈する死の街は、氷で造型された壮麗なアルハンブラ宮殿へと、変貌していたのである。 † † † 壱番世界のアルハンブラ宮殿に照らし合わせるならば、そこは『ライオンの中庭』だった。 噴水のまえに置かれた氷の椅子に、氷の鎖で、金髪の男が拘束されている。 目元を覆う、双頭の竜が刺繍された絹のマスクは、螺旋飯店の支配人黄龍こと、元ファミリー、ベンジャミン・エルトダウンのものに他ならない。 音もなく、水のかたまりが空を切り、はねあがった。水はすぐさま尖った氷のつぶてとなり、金髪の男のうえから降り注ぐ。 男の頬に、幾筋もの切り傷と、血の軌跡が描かれる。 銀は、月のいろ。 黄は、そして金は、太陽のいろ。王者のいろ。 だが、月の王――ベルク・グラーフは、すでに血まみれとなっている獲物に、とどめを刺そうとはしない。 その気になれば、無抵抗な虜囚など、ひといきに喉元を切り裂くことができるだろうに。 気だるげに氷の床に腰をおろし、氷の粒に弄ばれる男を見上げている。 まるで王の玉座にひざまずく、従者のように。 あるいは成り行きを楽しむように、誰かが虜囚を助けにくるのを待ち構えているかのように。 ベルクは変装を解いていた。その髪は、月光のような銀髪だった。 † † †「まさか、本当に貴方がルートヴィヒ2世だとは思わなかった」 金髪の虜囚は溶けた氷で濡れそぼり、上等な仕立ての支配人服は血を吸って、青ざめた膚に張り付いている。それでも、その口から漏れることばは、世間話のように飄々としていた。「きみたちの世界とは、細かな部分が異なるがね」「なぜ、ダイアナの傀儡になった?」「彼女が、月の女神の名を持っていたからに他ならない。それだけだよ」「何が、望みだ」「私は王なのだよ、黄龍。それも、ちっぽけなバイエルン公国などでは飽き足らぬほどの野望を持った。王たるもの、世界をこの手にしたいと思うのは当然ではないかね?」「だから、インヤンガイへの帰属を?」「そうだ。そのうえで、この世界を滅ぼす」「……護りたいとは、思わないのか? この世界が、貴方のものになるのなら」 絞り出すような声音は、氷のつぶてでかき消される。 異世界のルートヴィヒ2世が、あざけるように微笑んだ。「ひとつの世界を滅ぼしてしまうことと、ひとつの世界を護り抜くことの間に、どれほどの違いがあるというのかね? どちらも、力あるものの傲慢なエゴにすぎない」「まったく同感だが」 虜囚の口元にも、笑みが浮かぶ。それもまた、王者の微笑だった。「護るも滅ぼすも同じことなら、どちらが満足度が高いか、という話になるね。天変地異を起こすなり、生きとし生けるものをことごとく虐殺するなりし、阿鼻叫喚の地獄絵図を盛大に描きながら世界を滅亡させる、というのはたしかに、えもいわれぬカタルシスがあるだろう。だが、それはしょせん、蟻の巣に煮えたぎった蜜を流し込んで喜ぶようなもので、いささか幼稚な遊びだ」 余裕のヴェールはしかし、少しずつ、綻びていく。彼の演技とともに。「インヤンガイだろうと壱番世界だろうと関係ない。僕にはどの世界も、いとけない幼子のように見える。きままに動き、育ち、思わぬ変貌を遂げるから面白いのだよ。泣き叫ぶ幼子の首を力づくでねじ切り、踏みにじるのは容易だが、それではつまらない」 ……いや、それも、後づけの、小賢しい理屈かな。 理由なんてない。 護りたいから、護ろうと思う。それだけだ。「笑止」 月の王はせせら笑った。「私はベンジャミン・エルトダウンを拉致したつもりなのだが――そうではないのか? まあ、そんなことはどうでもいい。ダイアナの思惑や目的など、知ったことではないのでね。人質としての影響力なら、同じようなものだろうし」 さて、そろそろ、ここに誰か来てくれるだろうかね? 私と死闘を、繰り広げてくれるだろうかね? ……どちらにせよ。「インヤンガイはもうじき、私を受け入れるだろうから……。おや? 長い間、虚勢を張っていたようだが、限界かい?」 氷の椅子のうえで気を失った虜囚に、ベルク・グラーフは、喉の奥で凱歌を上げた。 † † †「『麗しき赤の女王の首をたずさえ』とあるのは、あんたを殺してから来い、という意味か?」「わからないわ。情報が細切れなのと――ねじれて、いるようだから」 ねじれている。何もかも。 たとえるなら、螺旋のように。 それも、ひとつではなく。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。 五重の螺旋が、絡み合い、うごめいている。 ==!注意!==========以下のシナリオ・企画シナリオは同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加(抽選エントリー含む)はご遠慮下さい。・【赤の王、目覚める時】黄金の獅子は哭く・【赤の王、目覚める時】太陽を喰らう月・【赤の王、目覚める時】薔薇の下に微睡むモノ・【赤の王、目覚める時】老婦人の心の匣・【赤の王、目覚める時】 ~四色の縁~なお、このシナリオに関連して、以下のみなさんにはパーソナルイベントが発生しています。事務局よりご連絡しますので、メールをご確認下さい(1/10中に連絡のない場合、事務局にお問い合わせ下さい)。以下のみなさんも、上記シナリオへの参加はできません。ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良 久秀(cfvw5302)相沢 優(ctcn6216)エレナ(czrm2639)================
ACT.1■Die Walküre 【不幸が追ってきます、どこへ逃げても。 不幸がやってきます、どこにいようとも。ですが、あなたには不幸を近づけたくない!】 ――「ワルキューレ」第1幕より † † † それは、誰の指示によるものであったのか。 その日、ターミナルはずっと『夜』だった。 浮かぶ月は、満月ではない。欠け始めの、十六夜である。 ためらいがちに、ゆっくりと昇る月。すなわち「いざよい」。 志野・V ノスフェラトゥはつと空を見上げたが、すぐに、興味なさげに歩を進める。 向かうは赤の城。 いざよいの月――《設定》された、まがいものの月が、ざわめく街路を照らしている。 「インヤンガイへの同行を求める」 レディ・カリスへの面会を許可され、執務室へ通されるなり、志野はそう切り出した。 いささか不躾であることはわかっていたし、カリスが応じる可能性は低いだろうとは思っていたが、案の定、 「お断りします」 即座に拒否された。 「……なぜだ?」 「私が行ったところで、事態は収束できないでしょう。同行しなければならない理由が、どこにあるというのかしら?」 「来るなら、すべてを見せよう。月の王が夢から目覚めるさまを」 「話になりませんね」 カリスは氷の刃のような視線を向ける。フットマンたちがいつの間にか、両脇にいた。 「志野さんがお帰りです。お見送りを」 「そういうわけにも、いかない」 ――では、その生首を持っていくことにしよう。 志野は影をあやつり、カリスの首を切ろうとした。何の逡巡もなく。 だが、それはかなわなかった。いち早く、《蛙》のフットマンが敏捷にカリスの腰を抱え、身をかわしたからである。 「要望が通らないとなったら、いきなり力づくで思いを遂げようとなさるの? 私は、野暮な殿方はきらいなのだけれど」 カリスは後れ毛をかきあげる。結い上げた髪を華麗にまとめていた小粒の宝石が、ぱらぱらと煌めいてこぼれ散る。美しい金髪の束が、いく房も床にすべり落ちた。志野の殺意は、カリスの髪をさくりと切り裂いたのだ。 「愛する妻のいる身なので、おまえに嫌われようと、まったくかまわない。おまえひとりの首を差し出してすむのなら、安いものだろう?」 「それが有効であるならば、ね。……わかりました、あなたの名誉のために、少しご説明しなければならないようね。私のせいで大切な奥様に軽蔑されてしまったら、お気の毒ですので」 何ごともなかったかのように、カリスは呼び鈴を鳴らす。しずしずと現れたメイドたちは、こぼれた宝石と切られた髪を丁重にまとめる。次いで、ティーセットがふたつ運ばれ、ペデスタルデスクの上に置かれた。 カリスは志野に、椅子をすすめる。 「あなたは根拠のない所感だけで行動なさっている。思い切って私を殺してしまい、その首を差し出しさえすればカタルシスを得られ、一気に展望が開けると考えている。それでは月の王の思惑どおりになってしまいます。……あせらないで。落ち着きましょう。お互いに」 「あせってなど――、おまえも? そうは見えないが」 「こんなときこそ、動揺を見せるわけにはいかないでしょう? 私はずっと、そうして生きてきました」 「根拠がないといったが」 水色の便箋を、志野はなぞる。 「なら、この文面はどうなる?」 「『赤の女王』は、本当に私を指しているのだと思うの? そして『首をたずさえ』とは、文字通りの意味だと?」 「違うのか?」 「誤解するかたも多いだろうことを加味しての文面でしょうし、『赤の女王』を私と比定して首を狩りたがる、斜に構えたロストナンバーをあおるつもりもあったのでしょうね。現にいま、あなたがその策略に引っかかったように」 「踊らされているつもりはない」 「それでも、私の生首を見た月の王は、早とちりしたあなたを大笑いして貶めることでしょう。首を差し上げる意味がまったくない、とは、そういうことなのよ――蓮見沢さんも、そう思わなくて?」 カリスは、デスク横の、重厚なオーク材の書棚を見やる。 志野は気づかなかったが、そこには先客がいた。壁と書棚のあいだに、蓮見沢理比古の、すらりとした立ち姿があったのである。 「来てたのか」 「隠れるつもりはなかったんですけど」 理比古は苦笑しながら、頭を下げる。彼の手には、大きな函があった。 「レディ•カリスの首を狙う輩が跋扈するだろうから、《赤の城》全体に護衛が必要だと進言しにきたところだったんです。それで、その、志野さんがいらしたタイミングがあまりにも良すぎて、出るに出られなくて」 「そして、早とちりを大笑いされたというわけか」 「でも、カリスさんに『死んで』いただくのは、意表を突くという意味があると思うんですよね」 理比古は、函をデスクに置き、蓋を開けた。 そこには、ノイシュバンシュタイン城をかたどった小棺がおさめられており――、 紅薔薇を敷きつめ、最高級の宝石で彩った、美女の首が安置されていたのだ。 蓮見沢グループの総力をあげて人材をあつめ、さらには、ターミナルで有志に協力をあおぎ、このためだけに結成されたプロフェッショナル集団が作り上げた、見かけはおろか、手触りにいたるまで本物そっくりの、「レディ・カリスの生首」である。 † † † 志野と理比古、そして、ジューンと虎部隆は、ロストレイル6号、すなわち乙女座号の車内にいた。 華麗な内装と、高級レストラン顔負けの食堂車を誇る乙女座号に乗りながら、しかし彼らはそれを楽しむどころではなかった。 「エルトダウン兄弟は……、ロバートとベンジャミンは、入れ替わっているようだな。月の王の人質となっているのは、ロバートのほうなんだろう?」 精神だけを入れ替えたのかとも思ったが、状況から見て、単なる「変装」の可能性が高いな。 志野は、この大掛かりにもつれた糸のひとつを、あっさりと看破する。 「……! あんたそれ、誰かから聞いたのか?」 隆が、緊張したおもてを上げる。 彼はそれこそ――たった今、トラベラーズノートを介して、相沢優から、すべての真相を聞いたところだった。 優は他の3人とともに、螺旋飯店に『探偵』として集められ、対処にあたっている。ベンジャミンは螺旋飯店に待機し、ことのなりゆきを見据えているという。 「いや? だが、『探偵』ならずとも、自力でその程度のことに気づくべきではないか? 今までエルトダウン兄弟と接触や面識がなかろうと、ヒントはこれ見よがしに大盤振る舞いされていたはずだ。ふたりは年齢的にもそれが可能だし、黄絹のマスクをロバート・エルトダウンがつけるだけで、螺旋飯店の支配人の身代わりが誕生する……、だが」 志野は面倒くさそうに、ため息をつく。 「月の王が騙されたままなのが不思議だ。どんなに容貌が似ていようと、真理数の有無を確認すれば一目瞭然だろうに」 「わざと、気づかないふりをしてんのかもなぁ」 隆が、シャーペンでごりごりと頭を掻いた。 「月の王は、ダイアナがどうとかディラックの復活がどうとか壱番世界がどうとか、そんなん関係ないんだと思うぞ。ダイアナの配下になったのも、自分がやりたいことのために利用されたふりしただけって気がするし。俺たちをおびき出したいんなら、どっちだって人質として成立する」 「もうひとつ、わからないことがある」 「うん?」 「ベンジャミンが螺旋飯店にいて、ロバートが月の王の人質になっているのなら」 ――なら、あれは誰だ? ダイアナに屈したふりをして、獅子座号をジャックし、ヘンリーの肉体を運んでいる、ロバートのすがたをした、あの男は? 「メガリスさんだよ。ロバートの秘書の」 「秘書……? ああ、そういえば、金属の肌の秘書がいたな」 「液体金属だから変装自由、誰の影武者だってつとまるらしい」 隆は、ぱたんとノートを閉じた。優から聞いた情報は、すでに頭に入っている。 自分がどう動くべきか、どう、したいのかも。 「……メガリスさんが」 理比古が、いたましそうに目を伏せる。 旧い酒蔵が運営する料亭にロバート卿を招き、酒席をもうけたのは、つい先日のことだ。 その席で、聞いたのだ。 まだターミナルの治安も整わず、ファミリーに不満を持つロストナンバーたちに絡まれることも多かった時代に、荒んだ状態のメガリスと出会い、彼を雇い、教育をほどこしたことを。 俺に勉強なんかさせても無駄だ。そう、うそぶいたメガリスに、ロバート卿はこう言ったという。 ――どうか、もっと自分自身を信じて、僕の役に立ってくれないか。僕がきみに、もっと感謝できるように。 そしていつしか、ロバート卿に影のように付き従う、忠実な執事が、生まれた。 理比古は、トラベラーズノート経由で、北極星号の虚空につたえる。 ――虚空。虚空。そのひとはメガリスさんだ。そのひとを、助けてあげてくれ。……いや、そのひとの暴走を、止めてくれ。彼はおそらく、何も見えなくなっている。お前が常にそうであるように、あるじが大事すぎて、何かを見失っている気がする。 「ロバートさんは」 理比古は、頭を垂れたまま、指を組み合わせた。 「ロバートさんは、もう充分、いろんなものを背負っているよ。俺は、これ以上彼に辛い思いをしてほしくない。たとえ彼が、弟のために――もしかしたら壱番世界のために、死を覚悟しているにしても」 「人質が誰であろうと、保護の手順に関係はないと思われます」 ジューンが冷静に断じる。彼女としては、それは当然のふるまいであった。 「まず、確認させてください。皆様のなかに、治癒系能力者は不在と看做しますが」 「俺はその気になればなんとでもなる」 「俺も医療の心得はあるよ。本職はそっちだし」 志野と理比古はそう言ったが、ジューンは首を横に振る。 「1分1秒を争う状況で、瞬時の対応が可能、という意味でお聞きしました。志野さんは、特に大切でもない誰かを救うために身を挺して貴重なお力を使用なさいますか?」 「……どうかな?」 「蓮見沢さんは、優秀なお医者様なのかもしれませんが、それは相応の設備と環境、充実した機材と消耗品があってこそ、発揮されるのではありませんか?」 「そうかも、しれないけど」 考え込むふたりを交互に見、ジューンは頷く。 「である以上、人質保護が最優先、テロリスト捕獲は二次的な問題であると考えます。どなたも人質保護を最優先しない場合、私が人質の確保及び撤退を最優先したいと考えます」 ジューンは問う。 皆様の行動指針をお伺いしても宜しいでしょうか、と。 「月の王を殺す」 志野がぼそりとつぶやいた。 「俺は、ロバートを助ける。何としても助ける。そのために来たんだ。人質が誰だろうと、ベルクがどんな目的だろうと関係ない。帰属してでも世界を壊そうとする奴が気に食わないから、ぶっ倒して人質を救出する。それだけだ!」 隆が、きっぱり断言した。 「俺もです。ロバートさんの救出を最優先します」 理比古も言う。 「それでは、私は人質保護支援のため、戦闘を引き受けます」 ジューンの判断は的確で、まったくよどみがない。 「救出次第、蓮見沢さんは応急処置を。虎部さんは人質を連れて、一刻も早く戦線からの離脱をお願いします」 ACT.2■Tristan und Isolde 【私に近づくのをためらうのは、屍になってしまった花嫁を、主君のために手に入れたからよ】 ――「トリスタンとイゾルデ」第1幕より † † † 氷のアルハンブラ宮殿を、ものものしい機動隊が取り囲んでいる。 隆が優に伝え、優がベンジャミンを動かし、アーグウル街区の警察が総動員されたのだ。 インヤンガイとて警察組織はある。ただ、実情は街区ごとの私設組織に近く、その体制もばらばらで、事件によってはまったく機能しないケースも多い。比較的治安が良く、探偵と連携を取ることも多々あるこの街区だからこそ、可能なことだった。 だが、警察を構成しているのは一般のひとびとだ。数をたのみにしての解決が可能な案件ではないことを、彼らは十分承知している。機動隊は手をこまねいたまま、到着した4人を、すがるように見るしかなかった。 そして彼らは、氷の城に足を踏み入れる。 アルハンブラ宮殿もまた、《赤の城》の意をもつという。 ……この冷ややかな城は、少しも、赤くなどないものを。 「本件を特記事項β5-11、テロリストからの人員保護に該当すると認定。リミッターオフ、テロリストに対する殺傷コード解除、事件解決優先コードA7、保安部提出記録収集開始」 ジューンが行動を開始する。 「構造物サーチ・生体サーチ起動。テロリストと人質の現在位置捕捉」 素早くトラベラーズノートを広げ、簡略化した宮殿見取り図と、月の王と人質がいる地点に到達可能な経路をいくつか、トラップの可能性がある不自然な構造物などを、ジューンは書き入れていく。皆との情報の共有のためだ。 志野は、使い魔を覚醒させた。 身体能力をあげて、放つ。ジューンが調べた経路のうち、最短のルートを検索するためだ。 彼の瞳が、金をおびた緑に輝く。そのちからが目覚めたあかしだ。 そう、あたかも、魔王のように。 血を、氷の床に流す。しみ込んだ魔王の血は、相手の能力に、さらに術支配による上書きをなす。つまり、視覚・移動手段として使用できるのだ。 氷からの透視を続け、そして。 一同をうながし、移動する。 コマレスの塔からアラヤネスのパティオ(天人花の中庭)へ、そしてライオンの中庭へ。 ――見つけたのだ。 月王の、居場所を。 弟の身代わりに人質となっているロバート卿も、そこにいるはずだった。 † † † 「ああ。待っていたよ。やっと、来てくれた」 ベルク・グラーフが、ゆっくりとこちらを向く。乱れた銀髪から覗く双眸は、すでに常人のそれではなかった。端正なおもざしに、朱がはしる。歓喜といってもいい表情だ。 彼の前には氷の椅子。螺旋飯店支配人に変装したロバート・エルトダウンが、氷の鎖で拘束されている。 致命傷を与えられぬまま、少しずつ少しずつ、切り裂かれていたらしい。服ごと裂かれた皮膚からはまだ血が流れ続け、氷の床を濡らす。 血で染まったライオンの中庭だけは、たしかに、《赤の城》にふさわしい光景だった。 「……ひでぇことしやがる」 隆の瞳に、義憤のいろが浮かぶ。 「いいか、お前は世界を滅ぼすどころか、チンケな誘拐とヘタな芝居さえできない無能だ! それを胸に刻み続けろ!」 怒りにかられたふりをしながら、理比古を、ジューンを、志野を振り返る。彼らがそれぞれの行動のため、適切な位置をできるよう、時間稼ぎをするつもりだった。 「見苦しい三文芝居をしているのは、この兄弟のほうだと思うがね」 「お前、なんだかんだいって結局、今までダイアナのご機嫌とりしてたんだろ? プライドもへったくれもない傀儡の王か。笑えるねぇ」 「誇りのありようが、きみとは違うだけだ」 「へーへー」 隆はおおげさに肩をすくめた。 「なー、お前、死にたいのか? 再覚醒はできないんだぞ。それに、帰属したって世界を滅ぼす力なんて得られねーぞ?」 「だろうな」 「だったらなんで。……わかった! 理由は別にあるんだな? 世界に恋人を殺されたとか、そーゆーの? で、腹いせに別の世界を滅ぼして鬱憤はらそうってんだろ? 古いんだよそれ」 少年の声音が、低くこもる。 「殉死の道連れが欲しいんなら、抱き枕と一緒に首でも吊ってろよ」 「ルートヴィヒ2世陛下」 様子を見計らい、理比古が歩みでた。 「赤の女王の首を、持ってきました。国王に相応しい贈り物だと思いまして」 函を捧げ持ち、うやうやしく近づく。 「……首を?」 月の王は、一瞬だけ、虚をつかれた顔をした。だが、すぐに、さもおかしそうに笑い出す。 「く、くっくっく。これは愉快だ。つくりものだが、良いできばえだな」 無造作に手を伸ばし、生首の髪に指をからめ、つかみあげる。薔薇の花びらが散った。 「カリスのことだと思ったか? あれは女王などではない。高慢で鼻持ちならないが、ただの真面目な女だ」 (やっぱり) その言葉を、理比古は飲みこむ。 「赤の女王は、赤の王と対になる存在。すなわち、かの月の女神にほかならぬ。いちどきでもこの私を従えて配下とした、思い上がった月の女神を道連れにできればさいわいと思ったが、そうはうまくいかないか」 ベルクは皮肉な笑みを浮かべ、カリスの首を、ロバートにつきつけた。ついで、ごろんと床に落とす。 「見ろ。世にも美しいこの生首を。これは、あの気位が高い女が、おまえたち兄弟を助け、壱番世界を救い、さらには月の女神を退けようなどと――そのためには自身の首さえ捧げようと思ったことの証。浅ましいことだ」 「……エヴァを、侮辱するな……」 気を失っていたロバートが、うっすらと目を開ける。 「ロバートさん」 「やあ、理比古。……申し訳ないね、みっともないところを見せてしまって」 「あまり、しゃべっちゃだめです」 ロバートを背に庇いながら、理比古は月の王と対峙した。真っ向から、その顔を見つめる。 滅びのときを待ち望んでいるような、荒廃した表情。くすんだ額にかかる銀髪だけが、王冠のように光をはじいている。 (ルートヴィヒ2世は、黒髪で、戦争嫌いの夢想家だったはずだ。異世界出身にしても、この齟齬はどこから来るんだろう?) この王の求めているものが、わからない。 ……いや。 たぶん、わかる。わかる気がする。 だけど。 おそらくは誰にも伝わらない。理解し合えない。それでも理比古は、手を差し伸べずにはいられない。 その手は根元から、切り落とされるかもしれないけれど。 「ベルクさん」 「その名で呼ぶな。それすらも、まがいものの名だ」 「ロバートさんを解放して、投降してください。そうすれば、まだ」 「馬鹿なことを」 「全ての傷ついた人は俺の兄弟だって思ってる。だから俺はあなたとも話がしたい」 「話なぞして、どうなる」 「あなたのことを、知りたい」 「……」 一瞬だけ、月の王は、氷の宮殿の、遥か彼方を見た。 しかし。 「無駄なことだ」 「それは、無駄です」 「無駄だ」 月の王が。 ジューンが。 志野が。 同時に言い放つ。 それが、戦闘開始のファンファーレとなった。 ACT.3■Lohengrin 【剣よ、鞘に収まるなかれ。王が正義の判決を下すまでは】 ――「ローエングリン」第1幕より † † † 「あなたが凶行に及ぶに至った、受け入れられたい思いや破滅願望は、歪んでいて身勝手なのだけど、何らかの辛苦から始まったはずなんだ」 できるなら理解したいと思った。でも、しかたがないね。 床に転がる生首を、理比古は拾い上げる。 志野は、ベルクの背後に回り込み、ギアで首を狙った。近接戦闘におよんだジューンは、電撃を放ち、気絶させることを試みる。だが。 ベルクの身体は、ふっと消える。次の瞬間、別の場所に移動していた。 ジューンは何度も近づく。つめよる。 「貴方はただの殺人鬼です。貴方がここに帰属したとしても、探偵から捕縛依頼が出れば、私たちは貴方を捕えるでしょう」 「……それがどうした?」 「貴方がここを帰属先に選んだのは、ヴォロスやブルーインブルーでは、再帰属する理をお持ちでなかっただけだと考えます。美辞麗句で飾っても、貴方は人と繋がれない、殺人鬼にしかなれない」 「だから?」 「世界を滅ぼすには、貴方は役者不足です」 何度も、ジューンは、ベルクの腕を掴もうとした。手刀で腹部を刺し貫いたうえで、電磁波による炭化・殺人へと、指針を切り替えたのだ。しかし、ジューンの機動力を持ってしても、彼はとらえられない。計測できないほどわずかな時間、彼の移動のほうが早いのだ。 「まぁ、簡単には死んでくれないだろうな」 志野は楽しそうに、含み笑いをもらす。 「……簡単に死んだら、つまらない」 理比古はカリスの生首を――さかさまにした。 刹那、首の付け根から、何かが射出され、広がった。 半透明の、網だ。 蜘蛛の糸のように細いが、強靭な瞬間移動封じのワイヤーで編まれた、捕縛用の網だった。 同時に、首が納められていたノイシュバンシュタイン城型の小棺に仕込まれたギミックも、発動する。 ライオンの中庭は、小棺から噴出したスモークで満たされた。 「姑息でごめんね? でも、ロバートさんだけは助けたくて」 ……大丈夫、あとは最後まで付き合うよ。 理比古は、ギアを最大限に解放した。 氷すら瞬時に蒸発するほどの激しい炎が、彼の全身に纏っていく。 人質を拘束していた氷の椅子と氷の鎖は、即座に溶けさった。 † † † 隆は、月の王に向けてシャーペンを早撃ちしながら、床に倒れているロバートのもとへ走る。 「よっ、ロバート。生きてっか?」 「……今のところはね」 「そりゃよかった。歩けるか?」 「気持ちだけは」 「だらしねぇなあ。俺ひとりでおぶってもいいけど、優も心配してるし、むかえに来てもらおうぜ」 助け起こして、肩を貸す。 「……きみは、頼もしいな」 「そりゃあ、探検隊で鍛えてっからな。けど、あんたは俺と違って金も権力もあるし、俺よりも多くを救えるはずだ。こんなとこで呑気に死にかけてんじゃねーよ」 「そうだね。……きみの、言うとおりだ」 「素直じゃん! これなら探検隊メンバーに入れてやってもいいぞ? そうだ、怪我治ったらどっかに冒険しにいこうぜ! ただし隊長の指示には従ってもらうけどな」 隆はつとめて明るく軽口を叩く。話しかけていないと、ロバートが力つきてしまいそうだったから。 「それはなかなか、楽しそう、だが……、一が何ていう、かな……」 「そこまで面倒みきれねーよ。一やんにデレてほしいんなら自分で口説け」 そして隆は、メガリスと優に、ロバート救出の報を送る。 † † † 網の中に身体を封じられてなお、月の王の攻撃はやまない。 溶かされても溶かされても繰り出される氷の刃を、志野は、あえて受けた。 流した憎悪の血が氷を支配し、影に力を与える。 魔王のちからが、いっそう強化された。 「お前の望みが、ターミナル中の憎悪をあおって追いつめられ、ひとつの世界を道連れに、派手に滅びることなら」 ――本当の苦痛が何か、教えてやる。 「もう夢から覚める時間だ。ずっと夢は見ていられない。それくらい、わかっているんだろう?」 轟音。爆風。熱風。 えぐれる。くずれる。なにもかも。 目を開けていられないほどの閃光の中、ジューンは理比古を抱え、その場を離れる。 志野だけが何事もなく立っていた。 その日。 美麗花園街区一帯が、消滅したのだ。 隕石落下のような、大きくえぐれた痕だけを残して。 月の王は、亡骸さえ、残してはもらえなかった。 ACT.4■Parsifal 【罪を悔いてばかりいる聖杯の守護者は、 ひとたび聖杯を見てしまえば、死ねなくなってしまうので】 ――「パルシファル」第3幕より † † † ありがとう。 隆のノートに届いたのは、たったひとこと。 それきり、メガリスからの連絡は、ない。 † † † 「ロバートさん……」 駆けつけてきた優は、言いたいことは多かったろうが、何も聞かず、隆とともに両脇を支えた。ようやくロバートは立ち上がる。 「早くロストレイルへ。医務室で手当をしてもらいましょう」 「その前に……、告解室へ、連れていってくれないか」 「告解室?」 「あの場所に、秘密と真相が隠されている。事象がこれほどねじれた理由も」 † † † 不揃いの断髪のまま、レディ・カリスが立ち尽くしていた。 そばにいるのは、ムジカと由良。 足元には、ヘンリーの肉体が横たわっている。 いや、ヘンリーに見せかけた、ナレッジキューブ製の偽物が。 本来の計画はこうだ。 メガリスはロバートに変装し、偽物のヘンリーをダイアナに渡す。 ロバートは、次点の「器」としてダイアナに狙われているベンジャミンを護るため、入れ替わる。 ――それですべてが、護れるはずだった。 「すまない、エヴァ」 ロバートが膝を折る。 「僕は、壱番世界もヘンリーも護るつもりだった。きみが殺しそこね、僕も殺しそこねた彼を――今度は、今度こそ」 すまない。きみにも。一にも。巻き込んでしまった『探偵』たちにも。メガリスにも。 僕は、失敗した。 「あなたがすべてを引き受けることはなかったのです、ロバートおじさま」 震える声がこぼれる。しかし、カリスの表情は、断髪も相まって、凛々しい少女のようにも見える。 ――私たちはディラックを、倒さなければなりません。 「ダイアナ卿は、愛してやまない男を復活させるため、ヘンリーを器としました。そんな邪恋の成就を、私は認めない」 レディ・カリスは聖杯の剣を抜き放ち、ヘンリーの心臓に、深々と突き刺した。
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