「ブルーインブルーのストール?」「はい、あの、実は……」____「とても素敵な風習ね、私も初めて聞いたわ」「……お作りいただくことは、出来ますか?」「任せてちょうだい……と言いたいところなんだけれど」 小さな落胆。 いつもなら平気なはずの。____「けど、きっと大丈夫よ。あなたのこと、その人は忘れたりなんかしないわ」「……」 無邪気で無責任な言葉が、針のようにちくりと心を刺した。 さみしい吐息と片想いの涙が詰まって膨れたそれは、とうとうぱちんと弾けてしまう。 針となった言葉は、最後のきっかけにすぎない。 彼女の心は、この街の淀みに押しつぶされたようなものだから。「(忘れちゃった人のくせに……どうしてそんなことが言えるの……?)」◆ 世界司書モリーオ・ノルドと無名の司書。両名が鉄仮面をかぶったロストナンバーの襲撃を受ける……という奇妙な事件から、そろそろ二月が経とうとしている。どちらの報告書にも根本的な解決を思わせる記述はなく、また今日に至るまで類似の事件も起こらず、司書たちは強くしかし漠然とした不安を抱えながら日々を過ごしていた。 元凶である鉄仮面の囚人、彼の行方はようとして知れない。その目的も、次に狙われるのが誰なのかも不明のままだ。何かが起こるのを待つしかそれらを知る術はなく、このまま誰も犠牲にならないのならそれもまたひとつの僥倖だったのだが、事はそう簡単に運ばないらしい。「なんで、あの子が!?」 司書ルティ・シディが驚きと戸惑いの表情で導きの書を睨む。新しい予言だ。「鉄仮面の"分身"が出たわ。リリイさんが狙われてる!」 リリイ・ハムレット。画廊街の一角で仕立て屋『ジ・グローブ』を営むロストメモリーの女性である。世界司書ばかりが狙われると思われていた一連の事件だったが、どうやらそうではないようだ。「リリイさんを襲うのは……あたしの予言で見つけた女の子」 浮かび上がった予言に、司書個人が責を感じる義務は無い。それでもルティは苦々しげにその名前を告げた。 レイラ・マーブル。かつてブルーインブルーに転移し、ロストナンバーとして世界図書館の庇護下に入ったツーリストの少女である。ルティの予言によれば、レイラは先日リリイにある依頼をしたのだが、材料の不足などを理由にそれを一度断られたようなのだ。「ブルーインブルーの或る地域に伝わる、恋まじないのストールをね」 一度依頼を断られる。たったそれだけで襲われるようなことがあるのか? 居合わせた者がそうつぶやいて首を傾げる。「鉄仮面を被ると、悪意が抑えられなくてどうしようもなくなる……無名ちゃんのほうの報告書にそんな記述があったわ。きっかけは些細なことでもいいのかもしれない」 だが、そこに至るまでには小さくとも何かの積み重ねがあったはずなのだ。__忘れちゃった人のくせに……!「忘れちゃった人……リリイさんのことを指すのかしら」 レイラは覚醒時に転移したブルーインブルーに片想いの青年ギルバートを残し、0世界に来ている。かつての予言にはギルバートもまたレイラを憎からず、いやそれ以上に想っていたことが記されていたが、レイラ本人にはそのようなこと知る由も無い。「……そりゃ、哀しいわよね」 誰にもぶつけることの出来なかった思い。この言葉を突きつけられなければならないのは、リリイだけではないのかもしれない。◆ どうすることも出来ない感情が、心を蝕んでいた。__怖い この街に来る前。 海の見えるあの酒場で、迎えに来てくれた人たちにぽつりこぼした言葉。『彼に、忘れられたくない』 消失の運命からは逃れることが出来たけれど、それが一体何になっただろう。 想いを打ち明ける覚悟も勇気も持てず、機会を待つといいながら何も出来ずに日々を過ごしてしまった。 こうしている間にも、彼は少しずつ自分のことを忘れていく。妄執にすぎないといってしまえばそれまでだが、一度囚われた心は容易く乱され元に戻ることはない。 なのに。__大丈夫よ、忘れたりなんかしないわ 根拠のない言葉は大嫌いだ。 あのひとは彼の何を知っているというのか。「(……忘れちゃった人のくせに……)」 ぎり、と唇を噛み締めた瞬間。 誰かに呼ばれた気がして顔を上げる。『……彼女が憎いかね?』「……?」 視線の先で、鉄仮面の男の人が優しく、とても優しく笑っていた。 仮面をかぶっているのに、笑っているのがわかる。__だってこの人は、わたしの寂しさをわかってくれるのだもの ………………だから、殺さなきゃ。 リリイさんを。 いつから持っていたかも忘れてしまったナイフを握り締める。 こんなもの使ったことはないけれど、とても手に馴染むのは何故だろう。 自分はこれの使い方を知っている。 握り締めて、振り上げて、躊躇わず、リリイさんの胸に突き立てる、ただ、それだけ。 ひんやりと重たい鉄の仮面が、いつの間にか流れていた涙を隠してくれる。 それが何だか、嬉しかった。!お願い!【鉄仮面の亡霊、再び】を冠するシナリオは、時系列的には別のものですが、なるべく多くの「プレイヤー」の方がご参加できるようご協力いただければさいわいです。
悪意とは、一滴の墨汁のようなものである。 ただ一滴ではあるが確実に水を黒く濁らせ、そののちはどんなに薄めようとも、人が飲める清水には簡単に戻らない。 ◆Why done it? 「どうして、彼女が……」 導きの書に浮かび上がった予言の内容を反芻する鰍の呟きは、この場に居る誰の言葉よりも重かった。忘れるわけがない、今から鰍が対峙するのは、かつて自分がブルーインブルーからギルバートと引き離し、この街に連れてきた少女……レイラ・マーブルなのだから。 「そうだ、忘れるわけが無いんだ」 レイラの気持ちも、ギルバートの想いも、鰍は知っている。だがそれをレイラにうまく伝える術がない。ギルバートは今もレイラを待っている、結局その揺るぎない事実を信じて想いを遂げるのは、誰でもないレイラにしか出来ないことなのだ。 「……昔の私、そっくり」 東野楽園が漏らした呟きは自嘲じみていた。レイラの哀れな想いにかつての自分を重ね、同じ轍を踏む者は少ないほうがいいとでも言いたげだ。 「(……弱い他人のことなんかどうでもいいと思ってたけど)」 ふしぎと胸の裡に湧く気持ちに名前をつけられず、楽園は毒姫の羽を撫でる。 「ところで、誰かリリイさんの護衛しますよね?」 「ああ、俺がやる」 なるべくリリイに危害が及ばぬよう、吉備サクラはジ・グローブから遠いところでレイラを見つけ説得したいというが、肝心のレイラはどこをどう通ってリリイの元に現れるかが分からない。少ない人数を分散するのも得策ではないし、どのみちジ・グローブに現れるのは確実なのだからと、リリイの変装をして囮になることを提案した楽園と、リリイの護衛を申し出た鰍にその案は却下された。 「わかりました、じゃあ皆でジ・グローブに。鰍さんと楽園さん、よろしくお願いします」 「任せて頂戴」 ◇ 手に馴染むと思っていたナイフはやはり重たい。 それでも、自分がこれを持っていることについては何の疑いも湧かなかったし、相変わらずあの人が、リリイさんが憎くて仕方なかった。 殺さなきゃいけない、絶対に。 ギルもきっと分かってくれる、だってギルのことを何も知らないのにあんなことを言ったのだから。 「……絶対に……?」 当然のように頭を過ぎった思いに、何故か首を傾げる自分が居た。 あの人が、無責任な言葉でギルの思いを軽んじてわたしの気持ちを踏みにじったあの人が憎くて、憎くてどうしようもなくて、だから……。 「殺すのかえ?」 「……誰?」 背中を押してくれた彼とは違う声に振り向く。女の人だ。彼が被せてくれた鉄仮面の重たさがふっと遠のき、細く狭められていた視界がひらける感覚。眩しさにすこし目を眇めながら顔を上げれば、見慣れない装束に絹のかぶりものをした女の人がこちらを優しげに見つめていた。 「哀れな娘、そもじのことはようく知っておる」 きゅ、と両手を握られる。そういえば、ナイフがどこかに行ってしまった。ああ、でも、あの人を殺そうとしなければ、ナイフも鉄の仮面も、心のなかに仕舞われてしまうのだと彼は教えてくれた。今はそのときではないのだろう。 「リリイが憎いのじゃろう? よいよい、当然じゃ」 「……ほんとに……?」 「そうとも、そもじは何も気に病むことは無い。あの女は罰せられてしかるべきじゃ」 このひとも分かってくれる、わたしの寂しさを。 「おお、よしよし。泣いてはならぬ、どれ、涙の代わりに此れをやろう」 袂から取り出した小さな袋を開くと、じゃらりからりと乾いた音が響く。そこから虹色に輝くひとつを取り出し、目の前の女の人はそれを握らせてくれた。 「これはの、ビー玉という品じゃ。そもじの流す涙のようじゃわえ……ひとつ含んでみるがよい」 「……」 言われるがままにビー玉を口に含む。手の上ではガラス球のように硬い感触だったそれは口の中でつるりと解けてなくなり、後に残るのは今まで味わったことのない、うっとりするような甘さ。 「さ、これでよい。ビー玉にまじないをかけておいたゆえ」 「おまじない……何の?」 「決まっておろう、そもじがあの女を確実に殺せるまじないじゃ」 ◇ 霧花がレイラにかけた魅了の力は容易くレイラの心に入り込んだように見えた。 だが、殺すという単語を耳にしたせいか、レイラの表情がぴくりと引きつり目が段々と光を失う。 __殺さなきゃ…… ぞわりと、影のようなものが足元に集い、おぞましい速度と動きでもって身体を這って、レイラの頭をぐるりと覆う。小さな黒い虫がちりちりと集合し何かを捕食するようにも見えたそれは瞬く間に鉄の仮面に、それから同時に大振りのサバイバルナイフのような刃物に具現化を終え、レイラの頭部と右手にそれぞれ収まった。 この光景を見ても霧花は眉一つ動かさず、まるでこれすらも霧花が与えたものかのように見守っている。これにうろたえる様を見せればば、さっきまでの甘言で得たレイラからの信頼が崩れてしまうことをよく知っているからだろう。 「本当、ですね。何だか自信がついた気がします。……お礼をしなくちゃ」 「礼には及ばぬが……そうじゃのう。では話を聞かせておくれ、そもじがそこな手に握る得物の話などをな」 「これですか? ……どう説明すればいいんでしょう……」 レイラ自身、この鉄仮面とナイフについてはよくわからないことが多いと呟いた。ただリリイを憎いと思い、殺意が湧く瞬間に、気づけば鉄仮面が頭を覆い手にはナイフが握られているのだと。 「ほう、己の心が煮え立つままにそれらが現れるということじゃな、興味深い。では……それをそもじに与えた者についてもまた、よくは知らぬということかえ」 「そう……ですね。知らない人です。……でも」 鉄仮面に覆われたレイラの表情を読み取ることは出来ない。だが、少しだけ言い淀んだ言葉からは、似ているがゆえの同情を寄せるような響きがあった。 「……わたし、あの人の寂しさが分かるような気がしました」 鉄仮面の下で流した涙がぽたり、フェイスラインを伝ったのだろう、レイラの顎と思しきところから落ちて雫を作る。まるで、鉄仮面をレイラに貸し与えた人物の代わりに泣いているようだと、霧花はぼんやり思った。 ◆どうして、彼女が? 何故、彼女に? 「そう……そんなことが」 ジ・グローブを訪れた三人が何も知らないリリイに事情を説明する。幸い、レイラが訪れる様子はまだ無い。リリイはまったくの善意でかけた無意識の言葉がこのような事態を引き起こしているとは露ほどにも思っていなかったようで若干のショックを受けていた。 「あんたが何かしたわけじゃあない、悪いのはレイラにつけこんだ鉄仮面なんだ」 「ええ……でも、無神経だったわね」 リリイを安心させるように、そしてレイラを庇うようにフォローする鰍の言葉に頷き、リリイはそれでも自身の発言を思い返して小さくため息を吐いた。 「何かヒントになるかもしれない、レイラに会った時の様子を教えてくれないか」 「私もストールのこと知りたいです、材料が足りなかったって聞きましたけど」 「そうね……。初めてのお客様だったから、とにかく色々話を聞こうとしたわ。ギルバートさんのことや、ブルーインブルーの古い風習のことや」 「ストールにまつわる風習ってことですか?」 いわく、『人魚の髪』と呼ばれる絹のように美しい糸がブルーインブルーにはあるらしい。人魚の髪で出来た布を身にまとえば、遠く離れたところに居る相手に想いが伝わるという言い伝えがある。ゆえに、航海に出る男を待つ女はそれを身につけ、あなたを待つ者がいる、忘れないでというメッセージの代わりにする……という風習が出来上がったらしい。 「勇気が……欲しかったんでしょうね、レイラさん」 「……すれ違いって、本当に」 人魚の髪を作るのに必要な植物は一部の地域にしか育たず、その植物が咲かせる花は遠く海を隔てても香りを届けるほど強い芳香を持つと言われている。それが言い伝えの元になったのだろうとリリイが説明を終えると、サクラと楽園は目を伏せた。 一人では、言えないかもしれない。何か、切欠が欲しい。 ただ会いに行くこと、それだけが恋する少女にはとてつもなく難しい。 「リリイ。……咎のないあんたに聞いていい話じゃないと思ってる、が」 「何かしら」 楽園に施す変装用の服をクローゼットから引っ張り出すリリイに、鰍が重い口を開き問いかける。 「あんたは何の事情もなく、何となくロストメモリーになったんじゃないだろう」 「……そうね、そうなのだと思うわ」 「何故、そうしたのかを覚えていないか? ……知りたいんだ」 __忘れちゃった人のくせに…… 「……ごめんなさい、わからないわ」 「そうか、悪い」 記憶を捧げ失うに足るだけの理由が、リリイの人生にあったとして。 それはおそらくレイラには何ら関わりがないことだろう。 __ギル……彼に、忘れられたくない 「(そう思うレイラが、忘れてしまったリリイに刃物を向ける……?)」 ブルーインブルー、海の見えるあの酒場で聞いた、レイラの臆病で小さな願い。 そんなレイラが恐れているのは勿論、ギルバートに自分を忘れられることで。 だからこそ、自らの意志で記憶を手放しロストメモリーとなったリリイ、彼女の口から出た無責任な言葉が許せなかったのだろう。 「(……ロストメモリーになったことが、憎いのか?)」 確証は無い。 ただ、何かヒントになればと思い交わしたリリイとの会話で生まれた、やわらかい仮説が、鰍の心に引っかかる。 鉄仮面の囚人は、ただそれぞれが持つちいさな悪意の芽を育てるだけ、背中を押す為だけに行動をしているわけではないのかもしれない……と。 「(もっと、何か……)」 「細かい話は後にしましょう、いつレイラがここに来るか分からないわ」 「ん、ああ」 着替え終わった楽園の言葉で皆がばたばたと動き始める。楽園はリリイの変装をし、外からそれと分かる位置に背を向けて座る。サクラはセクタンのゆりりんにオセロ……リリイの飼い猫と見えるよう幻覚をかけて楽園の足元にスタンバイさせる。当のリリイはサクラと共に外から分からない場所で身を潜め、鰍がトラベルギアで結界を張りながら楽園を守るという布陣でレイラを待ち構えることとなった。 ◇ 画廊街の煉瓦道。レイラの悪意が自身の目を塞ぐ。 一歩、また一歩、ジ・グローブへの道のりには、足跡の代わりに涙の跡が点々と、途切れることなく続いていた。 ◆忘れないで、わたしのことを __ぎぃ 「……こんにちは、リリイさん」 ジ・グローブの扉が開き、鉄仮面を被った少女の姿が現れる。異様な光景。 だが、はっと息を呑み立ち止まったのは少女の方だった。 「鰍さん……どうして」 「レイラか」 鉄仮面の下にあるのがレイラの顔でなければいいのにと、どこかで鰍は思っていたのかもしれない。だが、仮面が隠し切れない銀色の髪、臆病な声音、忘れるわけがない。そう、ただ迎えに行っただけの鰍でさえ忘れたりはしないのだ。 「鰍さん、退いてください。わたし、その人を殺さないといけないんです」 「駄目だ」 「あなたは邪魔をするんですか……あなたも殺さないといけなくなる」 「駄目だ!」 静かな押し問答はレイラがすぐに根負けした。右手に持ったナイフを振りかざし、鰍のすぐ横にいるリリイ……いや、リリイの変装をした楽園に向かう。 「あッ……!!」 ばちりと鉄仮面に舞う火花。鰍がトラベルギアで張った結界に不用意に足を踏み入れたレイラが、その力で肌を焦がしたのだ。一瞬怯み、ナイフを取り落としかけたところを鰍がすかさず距離を詰める。 「思い出せ、レイラ! お前が殺さなきゃいけない理由があってたまるか!!」 「!!! ちがう、違う! わたし、リリイさんが……!」 __ガキンッ……! ガン、カラン…… 金属に罅の入る鈍い音。鰍のトラベルギアが鉄仮面の正中線を正確に捉え、至近距離で力を加えられた結果、真っ二つに割れた仮面。重力に逆らわず落ちた偽りの動機。 「そんな顔して……何が違うって言うんだ、レイラ」 拭うことも止めることも出来なかった涙でぐずぐずの顔は、最早殺人者のそれではなかった。 ◇ 「わたし……何てことを」 鉄仮面を割ったことにより我を取り戻したレイラは、すっかり憑き物が落ちたような様子だった。 「どうして会いに行かなかったんだ!」 「鰍さん! 女の子にそんなこと!」 鰍の叱咤にも似た言葉がレイラの胸を刺す。ギルバートのことを知っている鰍からの一言にレイラは黙って目を伏せるしか無かった。サクラがレイラを庇うが、鰍はこの世界にレイラを連れてきた責任からか譲らない。 「港まで追いかけにきてくれたギルバートを信じられなかったのか?」 「違う、違うんです……。ストール、作れたら、勇気が出るかなって思って……でも」 「……」 小さな挫けが心にちくりと穴を開け、それを鉄仮面の囚人に魅入られてしまっただけ。誰も悪くないのだ。 ほんの少し許せないことを言われただけなのに、自分でもわけが分からないくらいに憎悪や殺意が溢れだして止まらなかった、怖かったとレイラは言い訳のように繰り返した。 「レイラ」 __ぱんっ 「楽園! お前いきなり」 「目は覚めた?」 「……」 金髪の鬘を脱いだ楽園からの、いきなりの平手打ち。さっき厳しい言葉をかけたことも放り出して鰍が慌てて止めに入るが、楽園は意に介さずレイラの前にしゃがみ込んで淡々と語り始める。 「事情はルティから聞いたわ。……私も貴女と同じだった」 「同じ……だった?」 「ええ、かつての私とね。……私ね、失恋したの」 消失の運命に晒され、この0世界にやってきたという以外は、何もかもが違う人だった。それでも好きだったし、忘れられるのが何より怖かった。 「今なら分からないでもないわ、彼が私を置いて行った理由。でも、今の貴女と一緒で……自分と彼を引き離した全てを憎んで、呪って、それでもどうにもならなかったの」 でもね、と気丈な瞳で楽園は続ける。 「私、決めたの。彼が後悔するくらいいい女になるって」 「……そうしたら、どうなるんですか?」 「馬鹿ね、惚れ直させるのよ」 「そうですよ、レイラさんだってやれることがたくさんあります、私手伝います!」 「何も……そう、ですよね」 サクラがぎゅっとレイラの手を握る。あたたかい、血の通った感触。 ずいぶんと、忘れていた。 「レイラ、これ。貰ってくれる?」 「……真珠、ですか?」 楽園がポーチから取り出したのは、一粒の真珠が入った小さな布袋。白く、時折虹色の輝きを放つそれではあるが、どこかいびつに歪んでいる。 「バロックパールよ。光を当てて御覧なさい、正円の真珠より美しく輝くわ」 光を当てれば影が出来る、好きという思いは不安と隣合わせ。それでも、思いを忘れるということは闇の中に真珠を閉じ込めるようなものだから。 「……ありがとう」 「そうだ、その真珠、ストールにつけましょう? きっと綺麗ですよ!」 バロックパールを手のひらでそっと受け取り、レイラは目を閉じる。 ふと思い出す、鉄仮面に心を囚われていたさっきまでのことを。 「……さっきも、こんな風に勇気づけてもらったような気がします」 「さっき? ……まさか、鉄仮面さんじゃないですよね」 「……ううん、違います。とても優しい女の人でした」 「しかし、鉄仮面は割れれば消えて……本人ってのは一体何処に居るんだか」 「わたしに仮面を授けたひと、ですか?」 「ええ、同じような事件が続いているの」 霧花に手を握られ、ビー玉を貰ったときの何ともいえない甘やかな記憶。それが何故か、鉄仮面の男に声をかけられた時の記憶とリンクする。レイラは何度か目を瞬かせ、整合性のあまりとれていない、独り言のような言葉をぽつりぽつりと呟いた。 「よく覚えていないけれど、わたしの寂しさを分かってくれるような……不思議な人でした。すごく、寂しそうな人に見えたんです……もう伝えられない、伝えてもしょうがない、報われない想いを抱えて、どこにも気持ちをやれずに泣いているように見えました」 そう思っただけかもしれないけれどと付け加え、レイラはバロックパールを大事に両手で包み込む。 「リリイさん、ごめんなさい。……人魚の髪、自分でちゃんと探してきますから、だから」 「ええ、いつでも待ってるわ。そのバロックパールも一緒にね」 「一緒に探しに行きますよ、レイラさん」 「うん。……ありがとう」 ◇ 鉄仮面の囚人、彼の分身によるリリイ・ハムレット襲撃事件は犠牲者を出すことなく終わった。怪我人が出ていないことや諸々の事情などを考慮し、レイラは簡単な事情聴取と厳重注意の他お咎めは無しで済んだようだ。 依頼を請けたロストナンバーたちが報告したことより仔細な情報をレイラから聞き出すことは出来なかったが、レイラが鉄仮面に心を囚われたときにレイラ自身が感じたことの記憶は、興味深い事例として報告書に記載されることとなった。 悪意は、まだ連鎖するのだろうか。
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