※ ……――――――ふわ、ふわ。柔かい。でも、冷たくて。 白い、羽? 空いっぱい、降り注ぐ、一面の……違う。これは。「さ、むい」 此処は何処だろう。確か私は海に……皆は? ――ろは? こんな土地、在ったかな。識らない。 さむい――そうだ、斯う云うのは寒いって云うんだ。識ってる。 それに羽じゃなくて、ゆき――雪。優しく突き放す。厳しく包み込む。 身体、固い。寒いからかな。何だか眠い。億劫。 空も地面も目の前も吐く息も全部真っ白。しの世界。 し? し、ぬ? 此の侭じゃ凍え死ぬ。死ぬ……厭だ。それはもう厭! 風を、雪を避けなくちゃ。さがすんだ。暖かい場所を、火を、誰かを。「何だろう」 氷の中。鉄で出来た……家? 細工? あちこち痛んでるみたい。 これ、車輪かな。じゃあ、何か運ぶ物? でも引っ張る形はしてない。 押すの? 鉄の塊を? それとも、「……?」 戸が着いてる。けど、拉げてて開かないね。隙間……煤けた、部屋。 焦げた……ほ、ね。骨。そう。中で誰か、死んだんだ。ずっと前に。 だから、停ってるの? もう動かないの? でも、今は、「――私が、居るよ」 ※ 氷壁を砕いて出たり鉄の朱龍。繰るは髑髏の操縦士。源は、かの娘也。 制動装置なる物は、遥けき久しき時の向う。迅くする外の術は失く。 朱龍霞めし氷雪は、朱染の憂き目に遭って散り。 故、朱龍過たる雪原に、朱の筋道顕れたるを、機人が追いしは必定か。 然れど娘は露識らず、龍頭に跨り前を視るのみ。 髑髏の繰手は故郷を目指す。人恋しやと震る娘を己が類へと導き誘う。 鉄の朱龍は自ら軋み、車輪は凍土を斬り刻み、劈き、荒振り、直走る――。 ※ ※ ※ ※ ※ 欠片は永久戦場にある――その報を伝える為、ガラは『白騙』を訪ねていた。「正確にはもうすぐ出てくるって言ったほうが、いいのかも?」 そして思案げに指をくわえつつ一同をぐるりと見回す奇妙な所作をみせる。 この場に居るのは、鬼面の店主こと槐と、世界図書館にて偶々声をかけられた、あるいは旅から帰参したばかりのロストナンバー達。ある者は訝しげに、ある者は興味深く、またある者は呆れながら、世界司書の次なる言葉を待つ。 ガラは皆の顔を確かめた後、両手を広げて話し始めた。 間もなくカンダータの地表に、ロストナンバーの女性が転移して来る。「場所はディナリアの近くです。……えっと、あのう、この間の」 ユビキタスなる祭事の夜にディナリア兵がマキーナの襲撃に遭った、雪渓の外側にあたる旨を、ガラは――その顛末への所感か、あるいは彼の地下都市に度重なる災いを想起したか故か――やや沈んだ声で、しどろもどろに付け加えた。 さておき。「その人、多分朱昏から飛んで来たんですけど、欠片を持ってるみたいなの」 しかし、突然極寒の地に独り置き去りにされながら、火が起こせるのでもなければ、防寒着を作り出せるわけでもなく。温もりを欲した彼女は、打ち捨てられた装甲機関車を偶然発見し、あろう事か、欠片の力を以って起動させた。「さしづめ機関車の付喪神と言ったところでしょうか」「ほんと、そんな感じ」 鬼面の主の所感にガラは首肯し、その付喪神の仔細らしき事柄に言及する。「機関車はうしろに二両くっついてて、だから三両編成ですね。んで、その人を一両目のてっぺんに乗っけて、しばらくの間ぐねぐね走ります。超特急で」 猛吹雪の中、暴走列車は路無き凍土を彷徨い。「しかも!」 ガラはくわっと眼を見開き唾を飛ばす。「あかく光ってるらしくって、マキーナに見付かっちゃうんですー」 マキーナは人類とその痕跡を視認し次第抹殺する為に立ち回るとされており、今回も多分に漏れず、光る列車を知覚した飛行タイプの一個小隊が追走を開始する。幸いな事に当初の距離が離れていた関係で即座に追いつかれる事は無いが。「速やかにその女性を保護出来なければマキーナ達の介入を許してしまうと言う事ですね」「ですよう。さすが槐」 ガラがぱちんと指を鳴らして自分の説明下手を棚上げした。「恐れ入ります。時に、どのようにして走行中の列車に近付くのでしょう」 槐は、続けて要点と思しき疑問を投げ掛ける。「うん。リベルとか灯緒とも相談したんですけど――なんとなんと、ロストレイルで追っかける事になっちゃいました」 ガラによれば、ロストレイル蟹座号(曰くカニさん)は、本件を担う旅人達を乗せてディナリア近郊の空域に直行し、装甲列車を捕捉し次第併走する手筈となっている。少なくとも置き去りにされる心配はしなくて良さそうだ。 尚、何故蟹座号なのかと言えば、偶々空いていた為だとの事。「なるほど。後は――先程、朱く光っていると仰っていましたが――装甲車両が欠片、つまり強力な朱の力で動いているとして、周囲に何らかの力場や障壁が展開されていると言う事は、ありませんか」「よく判りますねーいつも冴えまくりですねー」「ありがとうございます。……では」「ありまくりです。風とか雪とか防ぐためっぽいですけど」 現時点で障壁の性質は朱でできているという点以外不明だが、車両を中心に外部からの干渉を拒絶するものとみて間違い無さそうだ。これを何らかの方法で無効化しない限り、女性の保護はおろか、列車に触れる事すら難しい。 以上が、世界司書が知り得た――もしかすると店主の指摘が無かったら幾つも省かれていたのかも知れない――導きの書の予言の内訳となる。のだろうか。「と言うわけで、君達!」 とりあえず耳を傾けていた旅人達へ、ガラがびしっと指をさす。「ええとっ」「すみません、僕からもひとつ」「おおふっ」 しかし二の句を告げる間際に槐の声が滑り込んだ。「お聴きの通り状況は切迫しています。ですが、件の女性は欠片を所持し、それをある程度制御している――無事保護する事が出来たなら、欠片の事を知る上で大きな足がかりとなるのかも知れません。どうか――」「あのう、その”せっぱく”の事なんですけどー……」 今度はガラが、何故か身を小さくして片手を挙げた。言い難い事でもあるのか。 みればいつの間にやら導きの書を開いている。「どうしました?」「列車って暴走してるじゃないですか。で、たった今、追加で予言があって」「最後、ディナリアの地上基地にぶつかる……みたい」
※ 「こがァな時でも紙切れ一枚すらいけんか」 「残念乍ら、僕はそれらを『保管する許可を得ている』に過ぎません。竜刻が旅人に貸し出されない理由と同じですよ。御力になれず心苦しいのですが……」 「気にせんでええ。下手な真似して上に目ェ付けられとォ無かろ」 「畏れ入ります。……それはそれとして。僕がみる限り、件の障壁は灰燕さんと――白待歌さんなら、撃ち破る事も難しくないのではないかと想います」 「ほォ」 「朱が水氣を伴う事例が多くみられますが、一方で植物、茶碗、時には――これは御承知でしたか――焔に宿る事さえ在る。そして、此度は、」 「鉄……金氣か」 「ええ……。朱は宿った物と掬び付き、性質を際立たせると同時に依存している部分が多い。長所も、短所もね。勿論、例外はありますけれど」 ※ もし、地表に誰か居たのなら、金に縁取られたビロードの帯が灰色の空に掛かるように見えただろう。それは吹き荒ぶ白塵をものともせず速やかに降り、宙より凍てつく土へ軌道を自在に描いては消し、消してはまた描いた。 自ら突き進む路を、未だ小さき紅点に過ぎぬ龍目掛け、滑らかに――。 「こちら機関室、目標捕捉したわ。外はどう?」 天倉彗の声とモニター上を這う目標を捉える眼は冷静そのもので、事も無げだ。 『あーこちら先頭車両天面だ。良ぉく見えるぜ。ギラギラ光ってやがら』 対する仲間の語気は過剰なまでの抑揚を孕み、獰猛な喜色を帯びてさえいた。 それにしても、強風ゆえの雑音には品の無い声が酷く似合う。 「今、解析中よ」 『追いつくまでに終わらせとけ』 「蟹座号に言って頂戴」 如何にも短気な要請に彗はにべもなく返し、計器類に視線を巡らせる。 見目に判るもの、何かに似ているもの、まるで使途不明のものと様々あるが、車掌とアンタレス――彗のセクタン――の助力もある。少なくとも、解析が滞りなく行われている事は窺えた。 『まだるっこしいな』 露骨に難色を示す男の顔が目に浮かぶ。だが、彗は動じない。 「暇なら観察を続けて」 『俺様に指図するんじゃねえ』 「あと、ソアさんもそっちに行ったから」 『あぁ!? ディナリアくんだりまで来て誰がガキのおもりなんざ』 「――よろしくね、灰燕さん」 『おォ、気にしとく』 同じく天面に居るであろう美丈夫ののんびりした応えに、些か胸が空いた。 『ちょってめ』 ――集音機遮断_ 「解析完了しました……」 レトロな外観のロボがマイクを切ると同時に、車掌から報告があった。 「ありがとう。順番にお願い」 ――地形>>起伏:最大五センチメートル>>積雪:最大五十センチメートル>>風速:秒速十九キロメートル>>進路障害物:無し>>二時方向雪渓確認_ 「続けて」 ――目標>>カンダータ製装甲列車>>エネルギー反応/属性/位置: ・装甲列車三両(無機)/朱/目標機関部及び目標外周 ・所属不明女性一名(測定不能)/朱/目標操縦室天面 ・カンダータ男性一名(死亡)/朱/目標操縦室内部 ※朱エネルギー組成:朱昏>>近似:金属>>耐木気:高>>耐火気:低>>耐土気:中>>耐金気:―>>耐水気:中_ 性質の表記が独特なのは、朱が朱昏の摂理に則るものだからなのか。 ともかく火気――即ち炎熱には比較的弱いとみられる。 「障壁はあの二人で何とかなりそうかしら。後は」 ※測定不能者組成:朱昏>>鉱物反応>>左心房停止>>脈拍有>>推定生存 ※鉱物組成:朱昏>>半球形>>朱昏構成源>>朱エネルギー発生源_ 「……やっぱり、生存を確定できない。それに、」 >>近似:世界計_ 「朱昏の…………?」 ――!注意!:九時方向より複数の未確認高エネルギー飛行体接近中_ 彗の思考回路が俄かに静止する間もなく、警報が鳴り響く。 「――ゆっくり考えてる場合じゃないわね」 機械仕掛けの神は、僅かな思索も許さないのか。 だが、それでいい。今は判断し、動くべき時だ。考えるのは、後で。 「時間を割り出さないと」 アンタレスが示した端末の要所を順に押し、再度モニターに目を向ける。 ・目標合流:残り三分二十六秒 ・未確認高エネルギー飛行体合流:残り十ニ分五十五秒(大型一機) 及び残り十八分三十一秒(小型二十三機) ・ディナリア地上基地到着:残り二十九分七秒_ 「こちら機関室――」 「ほれ」 厚手の着物に袖を通していたソア・ヒタネの頭上から、手が差し出された。 しなやかさと逞しさを併せた、大きな手。 待たせてはならぬとばかり慌てて自らの手を重ねると、過不足のない力で包まれるように握られ、ぐっと引き上げられて。 次の瞬間には、周囲の景色が荒涼とした凍土の世界へ一転し、寒気がこれでもかとソアの顔を、手足を吹き付けた。 「っ!」 ――寒い! 風が着物の隙間から忍び込んで肌を突き刺しているみたい。 まばらな雪は頬を切りつけて来る。冬の厳しさを知るソアでさえ、辛い。 手を差し伸べた男――灰燕は、けれど真っ赤な着物が幾ら煽られても身震いひとつせぬまま、娘をひょいと臙脂色の天面に置く。 ソアとて相当な膂力の持ち主だが、灰燕も中々のものだった。 「あ、ありがとうございます……!」 「なァに、頼まれてやっとるだけじゃ」 銀雪にも似た髪を跳ねるに任せ、美丈夫は「気にせんでええ」と笑う。 頼もしく、危うく、それでいて人に遣わせぬ不思議な笑み。 「見てみィ」 灰燕が、遥か前方に煌々と燃える朱の尾を傘の穂先で示す。 顎に手を当てて、まるで花でもみるように、朝焼けに眼を細めるように。 「白待歌とどっちが上かのォ」 男の腰のものから白炎が噴出した。 「急くな、冗談じゃ。もうちィと大人しゅうしとけ」 焼ける――というより妬いているような火の揺らぎを、どこか意地悪く諌める。 このひとは、平気なのだろう。でも、あの子は――ソアは、ロストレイルが未だ追いつかぬ朱龍を、その一番前に座しているであろう未だ見ぬ娘を、みた。 ――ひとり寒い中に突然放り出されて、きっとすごく心細いだろうな。 喋るだけで滲む息さえ凍てつく、こんな殺伐とした世界では。 せめて雪を、風を、幾許かでも温もりを、齎す事ができるなら。 「うんっ」 ソアは、ばたばたと揺れる編み笠を押さえ、紐解く。そして、つばをしっかりと握り、赤い花飾りを上向きにして――放り上げた。 『基地まで三十分弱、遊んでる時間はないわよ』 「ハッ、抜かせ! あり余ってんじゃねえか」 『もう十分もすればマキーナに追いつかれると言っても?』 「今から障壁ブチ破って女かっ攫って十分、マキーナ蹴散らして更に十分だ。釣りで一杯やれんだろ?」 『……了解。私も今から上がるわ』 「好きにしな」 ファルファレロ・ロッソは運転室の真上で、二挺の銃を乱暴に抜く。 漆黒の翼のごとくはためくコートを背負い、シニカルな笑みを浮かべて。 眼鏡越しに映る急流の視界の中で、目の前には理性の欠片も感じられない走りをみせる装甲列車が逼り来る。距離だけなら既に飛び移れぬ事もないが、吹雪に混じり流れて消える朱の光が、それは無理だと柔らかに突きつけた。 拒絶されるのは慣れている。それがどうしたと毒づきたいところだが――、 「……?」 徐に、雪が止んだ。心做しか張り詰めた空気も軽く、風が弱まっている。 妙だと振り向けば、着物姿の娘が、こちらもまた振り向いて呆然と後方を見送っている。確か笠を被っていた筈だが、今の彼女は黒髪が顕わとなっていた。 「飛んでいっちゃった……」 なるほど目を凝らせば遠くに麦藁帽子のような影が舞っているのが窺える。 ファルファレロには理由など知る由もそのつもりも毛頭ないが、どうあれ走行中の車上で笠を手放したのだろう。たとえばトラベルギアならいずれ戻っても来るのだが、自分には無関係と踏んで再び前をみる。 「あン?」 燃えるようだった障壁が透けて見える。明らかに先程までより薄い。まるで風雪の緩急に応じて必要最低限に留めているかのようだ。 (雪が止んだ事と言い、ガキが何かやりやがったか?) ちらりと脳裏を過るも、すぐに柄でもないと思い直す。 (まあいい、この際好都合だ) 「とにかく突破口を開かなきゃ話になんねえ」 銃口を朱龍の尾に構えながらわざわざ口に出したのは、肩に乗るオウルセクタン『バンビーナ』が、同行者達の接近を気取ったからだ。 「で、どうする気?」 灰燕、ソアの後ろに彗も控えている事をちらりと確かめるや否や、ファルファレロは―― 「こうすんのさ!」 ――右手のトリガーを引いた。 銃口から放たれた赤銅に光る弾丸、貫かれた大気が白く焼けて軌道を描く。 「白待歌ァ!」 銃弾が障壁に触れる刹那の間、灰燕の抜刀より弧を描いた白焔がたちどころに収束し、弾を取り巻いて。次の瞬間、朱壁の周囲が高熱で歪み、温風がファルファレロの顔を焼く。 「チッ!」 眼鏡をしていても伝わる熱気にたまらず眼を細め一歩あとずさる。 だが視線は逸らさない。白と橙の魔弾は障壁の一点を大きく押し込み、捩れた軌跡を刻む。もう少し、あと一撃くれてやれば――。 「――拡がれ」 主の声に応じた白焔が、ぼっと回転して面を円状に焼くと。 朱い硝子が割れるように、小さな宝石の粒が散らばるように。 障壁がばらばらと崩れ、彩度の低い凍土を、きらきら彩り。 きえた。 頃合をみていたか、既に蟹座号の先頭車両は朱龍の三両目と隣り合っている。 今なら飛び移れない事もない、が……。 「行きましょう」 ソアの後ろから、彗が穏やかに促す。 「あ、はっはい……!」 進退を決めあぐねている間に、ファルファレロが舌打ちを飛ばしてから行き、灰燕がそれに続く。列車間の幅はぎりぎりまで寄せられているのだろう、大の大人なら跨いで渡れるし、ソアでも飛び越えるのは難しくない距離だ。 でも、もしつまづいたりしたら? もの凄い速さで眼下の地面の景色が移り変わる。そこに叩きつけられたら? 「……~~~~!」 つい足を引き、彗のジャケットにとすんと背をもたれてしまう。 「怖い?」 彗がソアを支えるように両肩へ優しく手を置いて、囁くように訊ねた。 「はい……」 「私だって怖いわ。でも、あの子はきっと、もっと怖いんだと思う」 「――!」 そう、だった。こんなところでぐずぐずしている場合じゃない。 「先に行くわね」 言うや否や彗は事も無げに車間の谷間を飛び越えて――手を差し伸べた。 こちらからも伸ばせば繋いで渡る事もできる。 「い、行きます!」 ソアは前のめりに彗の手を握り、それでも命懸けで、流れゆく谷間を跳んだ。 如何に前ばかり見据えようと、自ら為した障壁破れ、況して背に何者かが迫れば気付かぬ道理も無く。娘に歩み寄るは、見慣れぬ風体の男女と、着物姿の男女。 彼らは二両後ろから、向い風に煽られてゆっくり、ゆっくり、近付いて来る。流れる荒涼とした景色の中で、その迅さとは掬びつかぬ調子で。 「……だれ?」 か細き問いは手心識らずの風に掻き消された。 「こんにちは――」 不思議な身形の女性が、手前の車両から大聲を張り上げる。 傍らでは百姓と思しき娘が両の手を上げ、頼りなく揺れていた。 「そこに行っても良いかしら――」 更に掛けられた女性の言葉と共に、じわり、列車の周囲から暖気が届く。直ぐに視界の両端を白い焔が見え隠れしている事に気付いた。併し取り巻くのみで、如何やら命を脅かすものではない。 「…………」 漸く娘は頷く。 百姓はぱっと面を明るくし、尚もゆっくりと歩み寄った。女性が少し遅れて、男ふたりはその後から追従する。 「だれ?」 小さな口から零れた問いは先程よりも少しだけ大きく。 対する彗は最前より控え目な声量で、他の者達を紹介し、そして付け加えた。 「貴女を探しに来た」 「わた、し?」 「ええ、そうよ。自分の名前は覚えてる?」 「……菊絵」 これに身を乗り出したのは、ファルファレロ。 「ふん、聞いた名だな。どこから来た」 「…………しらない」 「あ?」 「何処か、海の近く。年中暖かくて……――っ!」 身を震わせたので、ソアは慌てて羽織を脱ぎ、肩に掛けてやる。 「大丈夫、ですよ……!」 ソアが可憐に微笑みかけると、菊絵は襟元をぎゅっと寄せて俯いた。 先の言に何事か思うところがあったのか、彗は灰燕と視線を交わしてから、持参していた水筒を開け、蓋に温かな液体を注ぐ。 湯気から漂う甘い香りに、菊絵は釘付けとなったようだった。 「飲む?」 彗の奨めに今度は即座に頷き、カップを受け取ると直ぐ口をつける。 「おいしい……」 「ホットココアって言うの。好きなだけ飲んでいいから」 「……ありがとう」 「ところで、この列車を止めることはできる?」 「? ……やってみる、けど」 菊絵は胸に手を当て、瞑目する。程無く朱色の氣を纏い、それは機関車へと流れ、木肌に染み込む水のように沈み込み、消えていった。だが、暫くしても速度に変化はみられない。 「…………駄目。どうして? できない。聞いてくれない!」 娘の悲鳴に、灰燕は骨董品屋の言葉を思い出す。 (朱に漬かり過ぎたんか) 最早菊絵の手を離れた存在。即ち――機関車の付喪神。 「傑作だなオイ? ヤケ起こして突っ走っといて、てめぇひとりじゃ止める事すらできねえと来た。挙句――」 「そういう言い方は、やめて」 せせら笑うところを彗に諌められ、ファルファレロは凶相で睨む。 「指図するなと言ったはずだぜ?」 「やめてと言ったわ」 対する彗は全く表情を変えず、真っ直ぐ見つめ返す。 「…………」 「……………………チッ」 退いたのはファルファレロ。 彗は小さく息を吐いて保護対象に視線を戻した。 「早く、逃げないと」 「己の死を厭うて、他人の死は見過ごすんか」 「え――」 灰燕の厳しい、けれど覚えのない指摘に、菊絵は絶句した。娘の視線を促すべく、傘の穂先を列車の進路に向ける。やや遅れて、白焔が前方へ流れ先を照らす。 遥か彼方、未だ米粒ほどの大きさにしか見えないが、城に似た何かがある。 「あれにひとが住んどる。何人ものォ」 「このままだとあの建物にぶつかって、あなたも、この乗り物も、一緒に乗っているひとも、みんな――みんなめちゃめちゃになっちゃうんです……!」 「そんな! 私、そんなつもりじゃ……」 灰燕とソアが齎した現実に、菊絵は口を押えて戦慄いた。 「……突然雪原のど真ん中に放り出されてテンパってんだろうけどよ」 ファルファレロはやや遠くから覗き込むような姿勢で、面倒臭そうに髪を掻き毟りながらぶっきらぼうに言った。 「ンなザマじゃ迷子になって当然だ、うちにゃ帰れねえぜ」 野獣の眼差しは、菊絵ではなく――後方の、 白翼に向けられる。 「きゃあっ……!」 ソアが堪らず悲鳴をあげ、灰燕が半身に構える。 凄まじい突風が一同の頭上を掠めて過る――羽ばたきもせぬ翼は絶えずいっぱいに開かれたまま、貼り付けられたひとの如き姿のそれは旋回し、今一度旅人達の上を過ぎて――二両目上空に位置を定めた。 「見ろ、てめえらが暢気にお飯事やってたツケが回って来やがったぜえ!」 剣呑な声に喜色を浮かべて。 ファルファレロは即座に両手の引き金を引きまくる。薬莢と火花が花弁の如く無数に散り、にわか雨の如く白翼の者の身を滅茶苦茶に穿ち続ける。 だがマキーナは避ける素振りも見せず――実際には列車と等速で飛行中だが――微動だにしない。打たれながら雨が上がるのを待っているのか。それでもファルファレロは構わずゲラゲラと銃声を呼ぶ。何度も、何度でも。うちトラベルギアより放たれた雷撃はやや敵を揺らせもしたが、それだけだ。 「ふん」 続き灰燕が居合いと同じ筋で太刀を抜く。刃と焔の境もつかぬ白光が開かれた白翼の一方を断たんと飛ぶが、それは急激に減速し、銃弾共々避けた。 菊絵は目の前の光景が理解を超えているのか、呆然とみつめるのみ。 「なに……?」 「驚かせたならごめんなさい。ちょっと煩いのに気付かれたわ」 彗も菊絵に背を向け、ソアに目配せしてから二挺の銃を構える。 ソアは何事か決意の眼差しで力強く頷いて応え、菊絵に寄り添う。 入れ替わりに上空から機械的な銃撃音の連続――文字通り銃弾の雨にファルファレロが三両目まで駆け抜けたところ――彗がすかさず白翼を五発、十発と、こちらは的確に頭部と翼とを狙い注意を逸らした。 白翼の弾雨は天面の装甲を無闇に穿ち無数に凹ませながら二両目を伝い。 彗達の側に迫る。ソアが菊絵を庇い、抱き締めた。 「小蠅がッ――」 灰燕が不愉快な顔で、黒くも鮮やかな番傘を開く。 着床と共に下駄が鉄を打ち鳴らし、同時に雨に打たれた傘はがたがた揺れて。 「……ッ、白待歌、黙らせェ!」 『承知』 合図が終わる刹那に先んじ白焔が更に飛翔、長い尾を引き実なる白翼は虚なる白翼目掛け、己が身ごと矢の如き嘴を穿たんと弓を引く。即座に銃撃は止み、実と虚の翼が擦れ違う。また直ぐ踵を返し、宙で幾度も切り結び、その度互いの身を裂き、あるいは焼いて――。 やがてマキーナは列車の遥か後方へ退き、白待歌も列車の元へ降り立った。 『畏れ乍ら。彼の白翼の者を討つには今少し迅さが足りませぬ』 灰燕の傍で半ばひとの姿をなした鳥妖は抑揚無くもどこか口惜しげに語る。 「ほォか」 さしもの白待歌も音と同じ速さで飛ぶ事はできぬ。しかし、手がないわけでもない。灰燕はふたりの二挺拳銃使いを交互に見てから、事も無げに笑った。 「まあ次は何とでもなるじゃろ。あがァな紛いモン」 何れにせよ遠からず羽虫を連れて戻って来る筈。再戦は避けられまい。 「今のうちに彼女を蟹座号へ避難させましょう」 「賛成だ。背中に気ィ回しながらじゃやり難くてかなわねえ」 提案にファルファレロが首肯するのを認めてから、彗はソアに言った。 「お願いね、菊絵さんの事」 「みなさんはどうするんですか?」 ソアの不安げな問い掛けに対する答えは、ある意味当然のもの。 「列車を止めないと」 「その間マキーナどもを凌がなきゃならねえしな」 「じゃあ、わたしもお手伝いします……!」 「それは駄目」 「……!」 ほとんど反射的に口を次いで出た言葉は、彗にあっさり拒否された。 「……今、彼女の傍にいてあげられるのは貴女だけ。大事な役目よ」 「でも……でも!」 彗に諭され、自らそのつもりでこの旅に同行した事を知りながら。戦いの場でできる事など自分にはないのだと知りながら。それでもソアは仲間達だけ危険な目に遭わせる事にどうしても納得できないでいる。 「どうして?」 言葉足らずに小首を傾げる菊絵に、彗が優しく答える。 「この列車は貴女を護って此処まで連れてきた……最後の役目を終えたわ。哀しい事になる前に眠らせた方がいい」 「本当は私がやらなくちゃいけないのに」 菊絵は灰燕をちらっと見て、俯く。 「誰も死なせる気はないの。この先にいる人達も、貴女も――勿論私達もね」 「早え話、こっからは大人に任せとけって事だ」 ファルファレロが極めて強引に纏めて、話に幕を下ろそうとする。これでも今までの物言いを思えば、彼なりに大きく譲歩しているのだろう。 「とっとと行っちまいな」 雑な掬びに、ソアは心が決まったか「はいっ」とやや切れ良く頷いた。 「――来たわ」 直後、彗が危急を告げた。西の空からは先程の白翼人形に加え、鳥そのものの姿を模した機械の群れがじわじわと逼りつつある。 「白待歌ァ!」 「ふたりとも急いで」 「は、はい……! 菊絵さん。行きましょう!」 「……うん」 白焔の庇護の元、ソアと菊絵はロストレイルに飛び移り、直ちに中へ降りる。 「頼んだわよ」 ふたりが見えなくなってから彗は語散て、目の前の障害に臨んだ。 「おい、基地まであと何分だ!」 「――十分よ」 「チッ! てめぇら適当に時間稼いでろ、俺ぁ中でナシつけて来る」 「了解」 彗とファルファレロは互い違いの方へ駆け出した。 扉は拉げてすんなりとは開かなかったが、爆撃を数発打ち込むと蝶番が半ば千切れて風に煽られ下品に揺れる。目障りだったので蹴飛ばして雪原に叩き落し、ファルファレロは運転室に飛び込んだ。 其処には、ぼろ布と見紛うばかりの軍装に身を包む骨が立っていた。 突如現れた闖入者の事など気にも留めていないのか、割れたフロントガラス越しの風にからから揺れるに任せ、気ままにレバーを上下させたり何かのボタンをぺたぺた押したりしながら、運転らしき所作をひたすら繰り返している。 「楽しそうだなオイ」 若干毛髪を残した白い後頭部に銃口を突きつける――というより小突いて、鼻筋を歪め、ファルファレロは目一杯の悪態をつく。 「せっかく遊んでるところ悪ィが、こいつを止めろ。今すぐにだ。それとも何か? ワン公のおやつにされてえか? あぁ!?」 骸骨の運転士は、頭をくるんと回す。ところが少々いき過ぎて狼藉者と向き合わず、銃口が目元の穴に嵌まり込んでしまった。 「ハハハいいね、これで狙いはばっちりってわけだ。で?」 おどけるファルファレロに骸骨が示した答えは――カタカタカタカタ口を開けて上下に揺れる――懼らくは、笑い。爆笑なのかも知れない。 運転席から怒号と銃声が木霊し、程無く木偶人形のような何かが車外に放り出された事に、灰燕と彗が気付く事はなかった。そんな暇もない。 鳥型マキーナは半数ほど撃墜したが、それでも息を吐く間が見出せぬ。 飛来する爆薬を白待歌が薙ぎ払い一網打尽にしたかと思えば、手空きの羽虫が熱線を方々から仕掛けてくる。何とか凌ぎ切る前後に彗が次の爆弾を一発で白翼の側へ弾き、トラベルギアのもう一発で破裂させれば光沢を帯びていた翼に多少の焦げ目と歪みを齎すも、続け様に同じ手を繰り出す前に白翼のマキーナは口を開き――咄嗟に避けたふたりが嘗て居た場所、二両目の天面を陥没せしめた。 そして再び爆撃が始まる――が、此度は様子が違った。 「っ――、」 突如、彗は足元が捻じ曲がるような負荷を覚え、身を屈める。見れば灰燕も片膝をついていた。ふたりがそれを列車の進路転換だと気付いたのは、頭上に落ちた筈の爆弾が目の前の地面で爆ぜた刹那。 それは僅かな隙。勿論マキーナの。 彗が白翼を直に撃ち、また降る爆弾を二発撃つ。白翼は爆撃を音速で、 「灰燕さん!」 「おォ!」 回避した先、灰燕が放った巨大な焔刃が、紛い物の片翼を断ち斬った。その間に彗は総ての爆撃を弾いて凌ぎ、白待歌は傾いだ白翼の元より戻りがてら鳥型どもを次々焼き、憐れな機械は自らの爆弾で爆散していく。 「……潮じゃな」 灰燕の声に彗が振り向けば、進路に見えるのは雪渓。まるで氷の棺のよう。 右手にはロストレイル、その向こうに基地が望める。 雪渓との衝突まで、目分量でざっと三分か。 「そうね――」 不意に未だ辛うじて浮いたままの白翼が、ぐるんと彗を真っ直ぐに向いた。が、地表付近から放たれた紫電の弾丸に撃たれ、更に傾いで宙に置き去られた。 「ならボサっとつっ立ってんじゃねえよ」 運転室で柄の悪い眼鏡が毒づいた。 灰燕と彗が飛び移ると同時に、ソアがマイクで『ご無事で良かったです!』と心底安堵したような声でふたりを迎えた。 『……? ファルファレロさんは?』 「……さてのォ」 『え? え? あの……?』 「どうせまたろくでもない事をする気なのよ。いつでも拾えるように準備はしておいてね」 『はい……?』 「ハッハッハッハッハァッ!」 当のファルファレロは未だ操縦桿を握り締め、その時が来るのを今か今かと待ちわびていた。見る間も迫る雪壁が愉快で仕方が無い。 「あのカルシウム野郎こんな面白え事してやがったのか!」 暴走列車でチキンレース。その稀有な危急が男をも暴走させる。 「……そろそろじゃろ」 「ええ。――蟹座号をぎりぎりで迂回させて頂戴」 「了解しました……」 雪渓との衝突、五秒前。 ファルファレロは操縦桿を思い切り振り切って車外へ飛び出した。 ロストレイルが無謀なコンダクターを寸でのところで拾い上げ、雪渓を横切る瞬間――機関車は勢い余って横転し、そのまま万年雪へと滑って突き刺さった。 すぐさま雪渓の一部が崩落し、鉄馬の上へ雪崩て。 幽かに滲んでいた朱氣も、遠く離れるに連れて、少しずつ薄れ。 やがて、失われた。 「……ありがとう」 車窓から、娘が誰にも聴こえない声で、そっと呟いた。 ※ ※ ※ ※ ※ 菊絵はキャビンで夜空にも水底にも似た何処か薄ら寒い外の景色を眺めていた。 あれから常に一緒に居てくれたソアが、疲れていたのだろう、編み笠を大事そうに抱えて眠ってしまったので、起こさぬようにそっと客車を抜け出したのだ。 あまり親しい友人など居なかった所為もあり、その優しさと心遣いには戸惑う事も屡だったが、これから何処へ連れて行かれるのかも判らぬ菊絵にとってはくすぐったくも有り難かった。 ――お腹すいてないですか? あんな笑顔、見た事が無い。尤もそれはソアに限らないけれど。 彗も、ファルファレロも、灰燕も、皆菊絵が会った事の無い類いの人間だ。 ふと、ソアが寝る前にくれた林檎を片手に持った侭だった事に気付く。 ひと齧りしてみると甘酸っぱくて美味しかった。愛情に育まれたのだろう。 「眠れんか」 徐に殿方の聲がして、硝子越しに見えた赤い着物を確かめてから振り向く。 「あ――えと。灰燕、さん?」 「好きに呼んだらええ。俺もそうするけえ」 灰燕は無遠慮に菊絵の隣へどっかと腰を下ろし、すう、と息を吐いた。 「はい……それで、何か」 「おォ、ちぃと訊いときたい事があっての」 世間話でもするかの如く、美丈夫は気軽な調子で切り出す。 「前は何しとったか、覚えとるか」 「一年中暖かい、海の近くで」 「『その前の事』じゃ」 菊絵には識る由も無いが、それは彗から聴いた蟹座号の分析結果に基く問いだ。 「……! …………村で。毎日、三味線を弾いてました」 「村はどの辺に在る」 「西国の、北のほう」 「何があった。そがァに死が怖いか」 「……………………」 「……云えんか。なら今は訊かん」 「……御免なさい」 「謝らんでええ」 俯く菊絵の謝罪を面倒臭そうに受け流してから、灰燕は「おォ、もうひとつ」と、何か思い出した様に付け足した。 「あがァな力、いつから覚えた」 「チカラ? あの壁の事?」 「ほうじゃ」 菊絵にしてみれば余程意外な問いだったのか、何度も目を瞬かせる。 出来て当然とでも云いのか、或いはその根幹たる欠片の存在に無自覚なのか。 分析に由れば、それは彼女の体内に宿るとの事だが。 「多分……その…………」 「一度、死んでから」
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