ブルーインブルー、辺境海域。 海上都市サイレスタで、「人魚」が捕獲されたという報らせは、ブルーインブルーの人々のみならず、世界図書館にとっても驚くべきニュースだった。 ヴォロスと違い、ブルーインブルーでは人間以外の知的生物は見つかっていなかった。「人魚型の海魔」はいても、会話ができるような人魚はいないと思われていたのである。だがこの「人魚」は言葉を解し、知性をもつという。本当ならばこれは“ファーストコンタクト”なのだ。 現地に赴いたロストナンバーは、そこで、捕獲された人魚が、「フルラ=ミーレ王国」の「三十七番目の姫、パルラベル」であること。彼女たちの国が「グラン=グロラス=レゲンツァーン王国」なる異種族の国に侵略を受けたため、救援をもとめて人類の海域までやってきたことを知る。 そして「グラン=グロラス=レゲンツァーン王国」は海魔を操るわざを持ち、その軍勢がサイレスタに迫っていることも……。 先だっての経緯から、ジャンクヘヴン率いる海上都市同盟とは距離を置いてきた世界図書館ではあるが、パルラベル姫と会ったロストナンバーたちは彼女に協力したい意志を見せた。 ほどなくサイレスタに押し寄せると思われる海魔の群れを看過すれば、海上都市同盟にも被害が出よう。ジェローム海賊団の壊滅により平穏さを取り戻したブルーインブルーの海に、またも血が流れることになる。「というわけでだな。まだ海上都市同盟は、海魔の群れがやってくることを知らねーわけだ」 世界司書・アドは、ロストナンバーたちからの報告を受けると、図書館ホールに人を集めて言った。「なので、ササッと行って、パパッと海魔を退治してくるだけなら、俺たちの活動はジャンクヘヴンになんの影響も及ぼさない。が、結果的には海上都市同盟を守ったことになる。人知れず戦うヒーローってぇやつだな。問題は海魔の群れがどのくらいの規模か今いちわからないことだが……とにかく、可能な限り退治してきてくれ。チケットの手配は他の司書にも頼んでいる。希望者全員に行ってもらえないかもしれないが、なるべく善処はするからな。興味があれば挙手してほしい」 ※ ※ ※ ※ ※ 空と海とが黒ずみ、とうに没した日の幽かな残滓は彼方を燎原色に染め。 あれはひとの領分隔つ境。過ぎたれば常世の澳にて、町灯など望むべくも無い。 況して星月、海鳴風哭、何れ耳目に及ばぬ旅は、しじまの闇があるばかり。 若し今、頭上にわたつみ眼下は太虚となろうとも、誰に条理の変が識れよう。「深き海のみなそこは自分の領域でもあった」 それが、けれども愚にもつかぬ思索であると誰よりも深く識る麗人は、船縁から太虚たる漆黒の淵を見遣る。「海の底に馴染みが深いの……?」 涼やか乍ら沈む闇夜に漁火の明滅の如く滲む聲は、半ば独白であったが。 併し、いつしかその背に立つ女は、むしろ闇に溶けて薄まり消え入る聲で、恰も瀬に小石を落すように、ぽつり、控え目に麗人の素性を訊ねる。「吾が仇敵の狩場でもあった……」 昏い情念の穂先を覘かせ乍ら、麗人が女に抑揚無く応えれば、問うた側は、そう、とだけ云って、問われた側に倣い――それすら認めるには難いが――色も光も何もかも失われた水面を、眠たげに見下ろした。「呑み込まれそうで怖いわね……」 唯の比喩ではない。 玄人の忠告を聞かず夜闇の水面に魅入られ、入水する船乗りは後を絶たぬ。 だが、彼女達が世界司書から聴いたのは――本当に呑み込まれる、話。 日没後の魚群を狙う漁師達の間で語り継がれている、恐るべき逸話。 夜、澳を漂っていると、ぼやりとした光が視得る事がある。 人里は遥か遠く、こんな処で明りを灯すのは、自分と同じ漁船くらいのものだ。 では、あれは漁火か。であれば、あの辺りに魚が居るのかも識れない。 さもなければ船底に穴でも空いているのだろうか、兎に角一度挨拶がてら様子を窺い、困っていたら助けて遣って、あわよくば相伴に与ろう――等と欲目半分に一度舵を切ろうものなら、二度と陸に上がる事は無いと云う。 そもそも闇の深い夜、海を穢すのはもぐりのする事だと、地元漁師は語る。 海には海、船乗りには船乗り、漁師には漁師の”掟”があるのだ、と。 では、”掟”を破ると如何なるのか。もぐり漁師の末路は。 辿り着いても、船影は見当らない。だが、それは最早重要では無いのだ。 何故ならば、その時、漁師は漁火にこそ釘付けとなっているから。 何故ならば、次の瞬間――、 ――漁火の下の水面が大きな口を開けて、其の者を呑み込んでしまうから。「まるで、怪談ね……」 逸話はやがて時代の変遷に沈み、忘れ去られようとしていた。 ところが近年になって、矢張り夜間の漁に出掛けた船の遭難が相次ぐようになると、年嵩の船乗りを中心に、再び囁かれ始めたのである。「在るが無きもの。昼日中の月の様な――」 暗がりに潜む月代の商人が、趣深いとばかりしみじみと零したものだ。「生国の魍魎を思い出させるな」「それは重畳。お邸の主に良い話を聞かせられましょう」 帆柱に凭れ腕組みする巨漢の不穏な所感さえ、妙なる芸能、稀なる景観を愉しむように嬉色を孕ませた聲音で包んでしまうのだから、呆れた心力だ。 ぎっと船の節が軋む。ちゃぷり、割かれた水面が揺れた。「夜に出遭う怪異……否、」 海魔か――巨漢は呻く。 如何に妖い事象であろうと海魔の仕業である筈なのだ。この無限の海洋では。 けれど、女は。その是非を問う事自体、意味を為さないとも想う。「幽霊の正体見たり枯れ尾花……とは言うけれど」 人々に脅威と認められた時点で、両者に相違は無い。「その枯れ尾花が、見えて参りましたぞ」 じわり。墨で塗潰した画仙が炙られ、穴が空く。 ほのかな灯り――闇の海原に生えた枯れ尾花は時折、僅か上下に揺動する。 徐々に延焼して視得るのは、きっと船が進んでいる証。 併し幾ら近付いても、視界が拡がる程の明りではないのか、灯火は灯火の侭だ。 逸話通りなら決して眼を凝らしてはならないけれど。 此処に集う者達は、弱く儚い胡乱な火を、只管見据えた。 いつから己を見失うのか。もう魅入られてしまったか。 船影の無い漁火は、今や目の前。 ちゃぷんと揺れた水面がおぼろげに見えた。「……何か呑まれたか?」 少なくとも巨漢の眼にはそう映る。 大きな魚の花の如き尾の先が、漁火の下に消えたのを――。 ――…………て「…………」 女の耳に、否、意識に。誰かの悲痛なる想いが波の如く寄せて、引いた。 次の瞬間、 巨人に持ち上げられたかのように船が急激に傾く。 甲板に居た四人は、思い思いに手近な物へとしがみ付き、また屈み、堪える。 かと思えば半ば浮いた船は突然解放され。乱暴に着水し、静寂を打った。 辛うじて転覆を免れ、揺れる船上より海をみれば。 漁火は、消えている。「後ろだ」 麗人の鋭い警告。果たして一同が振り向けば、其処に明りこそ無いが。 荒波が、船の側を襲い、甲板を穿つ。ざぱ、びた、と甲板を穿ち、それは徐々に獲物を求めて人の在る側へ逼り来る。繰り返す毎、大きく、高く。「む」「おっと」 巨漢が宙を舞い商人がついと避け、波が狙う先には――女が静静と立つ。「……――」「いかん!」 巨漢が動こうとした刹那、波が攫うより先。 緋色の影を銀髪の影が抱えて跳ぶ――、「大丈夫か」「……ええ。有難う……」 ――波が砕けた場所の悉く、甲板に幾つも窪みが遺された。 今しがた目に視得ぬ者が這い上がり、己が同胞を求めにじり寄ったかのよう。 ――…………て そしてまた、火が燈る。 風も無い洋上に、それを吹き消す事の出来る者は、もぐりの旅人だけ。 ――た す け て=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ほのか(cetr4711)百田 十三(cnxf4836)碧(cyab3196)奇兵衛(cpfc1240)=========
「――何か」 僅かだが、聲がした。 碧は続きを口にこそ出さなかったものの、未だ腕の内に在る闇より尚黒い髪に眼を向ければ――ほのかは見向きもせぬ代わり、その意を汲みとるように密やかな聲で、ぽつ、と云った。 「誰か……居るのね」 水面にひとつ、小石を落とすのに似ている。 「さて問題だ」 対して巨漢の厳しくも用心深い聲は、飛沫を上げて仲間に問うものだ。 「今の聲、パルラベル姫の姉妹とみたがどう思う」 「ほう、人魚の姫君でございますか」 僅かな足場は今尚撓む波に揺れ動く。 だが視得ぬ船上、導無き戦場、幽けし煽情に及び腰となる者は独りも居らず。 例えば紙商人を名乗る男の喜色を増した様子など、感心すら覚える。 「奇話に花が添えられるとは。益々もって重畳な事で」 果て無き物見高さが些か危うく思えるのは狂気の沙汰ではなく、人ならざる者故の感覚――自分とは異なる意味合いでの――なのだろう。 ――た す け て さておき、保護すべき対象が危急に落ちているならば、 「仮に貴殿の見立て通りだとして、どうする?」 確保が肝要か、否か。碧は十三に、そして皆に意向を訊ねた。 (自分は敵を討ち滅ぼせばそれでよい) 「見て来るわ……」 またも――否。此度は明らかに碧が思った直後、ほのかは短く応えた。 「見て来るとは」 「……………………――――、」 問い質す間も無く、碧が抱く緋色の着物が急速に生気を失い――ふつりと崩れる。碧は空かさず抱き留めるも、今際の際を過ぎて果てた者の如き様に言葉を失う。其処へ奇兵衛が――見兼ねたのでも無かろうが――「ほう」と物珍しげな聲を向けた。 「……?」 「生き乍ら肉をお離れになったようですな」 ――帆柱にでも……括り付けて、置いて 徐に内へ響く聲。思わず見上げれば其処には水母と見紛う女の姿が在る。それは暗がりに居乍ら、不可思議にも実体より余程はっきり認める事ができた。 「心得た」 取り敢えず頷く碧に、水母は、薄ら笑みを浮かべて――きえた。 「ではあたし等は精々――」 奇兵衛が一寸小ずるくのんびりと淵へ眼を遣れば、 がくんっ、と船が後ろへ傾いだ。同時に、静けさを取り戻しつつあったわたつみの海原は矢継ぎ早に水面を突き破る音が無闇に飛沫を上げて。 「――……おやまあ。せっかちさんは嫌われるよ」 奇兵衛は人の好さそうな聲音に険難な気を滲ませる。何処で固定しているのやら人の身形で傾けど微動だにせぬ様が、異様だが、それも今更か。 「只待ち呆けるとはいかんか」 十三は屈んで隅に陣取る。油断無く耳を欹て、都度位置を変えて、機を見る。 碧は最初の襲撃時と同じく軽々とほのかを抱いたまま跳び退く、視線と脳髄は現状把握と戦力分析に注がれ、また一方でほのかの最適な居所を見出す為に駆使された。目に視得ぬ柔かくも鋭い杭は先の規則性とは裏腹に、傾いだ船の其処彼処を無闇やたらに叩き潰し、へし折って弾き飛ばす。思惑通りに事が運ばず駄々をこねている様にも似るが、懼らく気の所為かさもなくば、ブラフ。 ……結論、この肉の主が還る迄持ち堪えるにせよ、 「甲板での戦闘は不利だ」 「舞台が要るか……――雹王招来急急如律令!」 「む――」 碧の宣告を受け、十三が素早く印を切る、のたうつ何かが其の背を討たんと逼るが――しなやかな手、碧の逆手がそれを掴み、(懼らく)引き千切った。 「脆いな」 その間に、果たして顕現した氷牙の王者は気を凍てつかせ乍ら、 「往け!」 主に命じられる侭、暗黒の海上に飛び出した。 ※ 身体を脱ぐ事が入水に似ていると思うのは、ほのかが海女だからか。 光陰に、静動に、差異が失われる。潮に委ねる如く、意識の緩急に任せて。 騒がしい。漆黒の海に溶けたる者が動き出し、仲間達が動き出し。 総ては眼の前で起きたる浅瀬、現世の事象。重なれど幽世に在る己には遠くて。 なれど断たれてもいぬ。 ほのかは識を繋ぎ留め、眼下を望む。 仮令姿が見えずとも、其処に命の火、心の灯があるのなら――と。 海に開くあぎとの渦が海を呑み込む。それに繋がる体……其の大きさは? 皆が忌避する夜間航行。ほのか達がやっと捕まえたなけなしの一隻。よりも。 ――おおきい 倍は凌ぐ。小さな鯨ならば餌食となろう。 えじき。先の助けを求めるおんなのこえ。更にその内に命が……? 水面に陸が築かれ行く様を尻目に、水母は渦中にするりと紛れ込む。 何処迄も透き通った、闇。肉もわたも、闇。染み込んでみても、闇。意識さえ。 ふと、ほのかは何かに圧された。まるで先客に締め出されたようだ。 ――あやつられている、と 耳にしたのは、確か出立前の事。 だがこれはどちらかと云えば、従順な者の性質に近しいようにも思える。 「……たすけて」 代わりに、胎の奥底から折れた気高さと悲哀の念、聲が伝わる。 そして感じた。狭苦しい水底に囚われた乙女の姿を。 ――……わたしの意思は聴こえる? 「……だれ。誰? 何処に居るの!?」 ――あなたは……誰? 「……。――わたくし。私、は、」 ※ 星も月も視得ぬ、海も空の境も失われた世界。だが、今、 「氷山空母では無いが、まあそのような物だ」 眼下の闇には、闇に慣れた眼なればこそ確かな足場がある。 見目質感は流氷の如し。だが甲板よりも幾らか大きなそれには見合った重層が備わっているのか、海魔の巻き起こす波にも大きな揺らぎをみせず、余計な事に気を遣わず立ち回るには充分過ぎるものとなった。 また、視得ぬ攻手はまた止んだものの、たった二度の襲撃で船は相当痛んでいる。これ以上の損壊を看過すれば帰途さえ侭ならぬだろう。 「あちらなら戦闘で壊しても帰りの足には差し支えん」 十三はそう云い遺すや否や鳳に跨り、今は氷の遥か天空で弧を描いている。 碧もまた、早々に氷上へ居場所を移す。ほのかは帆柱に凭れていた。 「負けちゃ居られませんな。どれ、あたしもひとつ」 奇兵衛は少し遅れて氷舞台へ降りると、腕を開き羽織の袖を翻す。 絵札の如く出でたるは無数の、光る紙片。それは扇と広げられ乍ら風が靡くように鮮やかに、次々と波間へ放たれる。一枚一枚が、灯と呼ぶにはあまりに明るい。夥しい数の紙片はやがて洋上に満遍なく浮かび、漂い、波打つ様を描く。 風無き海において、それは海魔が蠢く度、鳴動を詳らかに伝える。 「もういっちょ」 最後の紙片が手を離れたのも束の間、奇兵衛は更に袖口より湯水の如く夥しい紙を放り上げ、今度は凍り舞台の傍へ、ばさばさばさばさと落とす。 此度は今少しの暇を要するが、さて――奇兵衛が眼を細めて見遣れば――まさしく光の波が此方へ押し寄せんとしていた。 そして、再び灯が燈る。 「いかん! 火燕招来急急如律令! 偽りの火を討て!」 上空より異変を察知した十三が伸ばした指先より燃え盛る飛燕が急降下する。常ならば偵察に用いる火燕は、併し牽制にも使える筈。そしてもうひとつ! 「幻虎招来急急如律令! 奇兵衛殿に敵を近づけるな! 行け!」 鳳から生じた獣が火燕の尾羽を追う角度で降下していく。 奇兵衛は、夢中を歩く。 「ぞっとしない趣向だね」 柔和な笑みも何処か虚ろ、眼は常ならざる複雑な色を浮かべていた。奇兵衛の目指す此岸の果て――彼岸なのか判らぬが、其処に立つ者は。 「けど懐かしい」 愛らしい、童。 いつの間にか辺りは霞のような光で溢れていた。 筋張った手を、伸ばすと、童は奇兵衛に微笑みかけて、けれど身動ぎはしない。 あの日の侭の姿。 「懐かしいねえ」 奇兵衛が殺めた、あの日の侭の、 「っ」 不意に鋭い痛みが、目の前を熱――忌避すべき炎熱――が過り、堪らず瞬く。 ざぷんと何かが落っこちた。ざくりと何かが氷に突き刺さる音がした。 たちどころに世界は闇に包まれ――元に戻り、光源といえば先刻自らが放った海上の紙片のみ。あの童も、漁火も、光る霞も、何も、何もかもが失せた。 「…………つまらない」 奇兵衛は暫しぼう、と、目まぐるしく入れ替わる現世を眺めた。 魅了が解けた途端、総ては一瞬で理解できた。だから、つまらなかった。 銃声が背面で鳴り響く。 「退け」 次いであの頼もしい麗人の聲。 発砲の理由は――右! 奇兵衛は恐るべき迅さで十露盤を抜き、弾く――何かがぐちゅりと潰れてどすん、ぞろりと引き下がる不快な音が遠退いた。 周辺で似たような肉に被りつく音や獣の呻きが在るのは十三の差し金か。 「御仁」 駆け寄る碧に振り向いた時、紙問屋はいつもの柔和な笑みを浮かべていた。 「これはお恥ずかしい処を」 「いや、無事で何よりだ」 碧には気取られていないだろう。彼女は奇兵衛の後姿しか見ていなかった。何より、あの夢、まぼろしは、奇兵衛だけのものなのだから。 奇兵衛はぼたぼたと液体の落ちる音の方へ、冷酷な視線を向けた。 ――お前は偽者だもの……本物をお寄越しよ 誰も居ない船縁に立つ。目の前の景色はあまりに様変わりしていた。 波間は無数の光を放ち、向って左、行き掛けに敷かれていた氷の陸地はそれに応じて、鈍くも白さを確かめる事が出来る。そして右手には、もう一隻、ほのかには馴染みのある型の帆船が浮かび、今当に視得ぬ者から襲われ、傾いでいた。 「奇兵衛さんかしら……」 船より薄ら漂う妖気が、見鬼の女にそれを知らしめる。 「…………こうしていては駄目ね……急がなくては」 ほのかは持参した銛を背負い、小さな壷を腰に結び付けた。 「時間稼ぎにはお誂え向きでございましょう」 「確かに」 碧は袖を合わせ腕組みする奇兵衛に並び、何かに弄ばれ続け、帆柱も船首も叩き折られて見る影も無い船を眺めていた。 つい先程、皆の意識にほのかの念が届いたばかりであり、それ故に現状手が出せずにいる。彼の海魔の胎内には『フルラ=ミーレ王国』が第二王女、サンドリァナその人が囚われている、との事だった。少なくとも身柄を確保する迄本腰を入れて攻める事は出来ぬ。確実な策があると、ほのかはそう云っていたが……。 「併し、もうひとつの話も気になる事で」 「ああ」 水底にふたつある。時折移動し乍ら、まるで此方の出方を見ているよう――海女はそうも云った。 「――魚人」 「ですな」 尚も鳳翼の袂に跨り旋回を繰り返す十三は、あれが奇兵衛の造り出した船に現を抜かしている間に、氷上に二体の護法童子を待機させていた。共に巨獣の姿をとる者達は、然るべき時に必ずや海魔を千切り、焼き尽くすであろう。 とは云え、十三もまた眼下に控える仲間達同様の理由で今は様子を窺うのみだ。 「どう出る」 新たに生じた船は、弾かれる度、揺れる度、削れる度、紙吹雪となって散り、磨り減っている。 船、と云えば――ふと、十三は自分達を運んで来たそれを確かめようとして、 「……?」 誰か――わざわざ氷舞台を避けて海へ飛び込むのを、みた。 「……ほのか殿。まさか」 身を乗り出し、食い入るように凝視する。光の紙片をかき分けて滑らかに泳ぐ、黒髪と緋の襟袖を。向う先は、既に半ば以上崩れて沈みかけた、奇兵衛の船。 「止せっ――鳳王! 今直ぐあの船迄俺を運べ!」 天の鳳が舞い降りるより先に、碧は駆け出していた。理由は十三と同じだ。 海女が何を思ったかは想像に難くない、が、 (些か無謀に過ぎる) 『それ』を為すべきは己だと考えていた。碧はリュウ種。余程の事が無い限り死なない。だがほのかは明らかに只の人だ。如何に海に慣れ親しんでいようと、所詮は人だ。とうに彼岸を越えた者に身を投じるなど――。 鳳王と併走していた碧は舞台の切れ目に両翼を広げ、飛ぶ。四枚の翼が重なり、片や闇の空へ、片や光の海へ飛び込み、共により加速する。 「面白くなって参りましたな」 随分遅れて岸へ辿り着いた奇兵衛は、二手に別れた仲間を見送り北叟笑んだ。 「さて、今の内に仕込んどきしょうか」 沈み逝く船に視線を移し、奇兵衛は三度紙片を両の手に番えた。 眼の前で船が完全に沈没する――と云うより、引き摺り込まれる様を、ほのかは伏目がちに見つめていた。 着水する毎、木材は紙片に代わり溶けるように水面へ拡がる。そして、紙片の海は激しく波打って、意志無き意志が此方へにじり寄る気配が強まる。 「待て!」 不意に退魔師の叫びが天啓の如く木霊する。眼の前には漁火が海中に灯されて、またたきもせず、控え目な癖に貪欲に、獲物を誘い揺れ動く。 「……十三さん」 「早まるな!」 「有難う……でも、」 ――多分これが確実…… その言葉は、口で示された訳では無かった。 ――次に海の中が光ったら……貴方の……ちからで………… 「ほのか殿!」 そして十三の聲は、水面に弾かれた。 碧の前方、およそ十メートル先で、ほのかの姿が視得たのは、あの擬餌の所為。 だがお陰で今は迷わずに済む。どのみち呑まれる気でいた碧には好都合だ。 問題はほのかと、先の奇兵衛の様子。 あれはまるで居もしない誰かの処へ誘われているようだった。ならば、今のほのかは。自分は? この水底に、かの灯火に、 (私のこころを乱すものが映ることなどあるのだろうか?) そうした存在に心当りが無い碧にとっては興味深くもあり、疑問でもある。 (……あるいは) ある男の顔が、赤い眼差しが脳裏を過る。 (…………いや。二度とまみえない相手に逢える筈もない) 具にもつかぬ思考を余所に、碧はほのかの直ぐ傍迄来ていた。 後少し――の処で、だが海女はぐるりぐるりと潮の流れとはまるで異なる奇妙な軌道を斜めに下っていった。あえて魅入られ呑まれたのだろう。或いは既に呑まれていたか。そして吸われる感触、唐突にそれが塞がる心地。 追うには――碧は灯を真っ直ぐにみた。 果たして名と同じ色の双眸に映る者は――、 ※ ※ ※ ※ ※ ほのかは馴染みのある細腕に抱きすくめられた。それは唐突ではあったが、海魔に呑まれる前から感知していた仲間の意識を伴っていた為、驚きも身を強張らせもしなかった。また、委ねればより迅く深淵へ辿り着く事も心得ていた。 それはそれとして、 ――……右脚はどうしたの 「噛み千切られた。問題ない、すぐ生えてくる」 碧の苦痛が意識を通じて伝わる。また、それが徐々に和らいでいくのも。 ――そう…… 「この方向で間違いないか」 ――ええ 海中で問題なく話す者と、思念を直接送る者の言葉少なな遣り取りは、急流に置き去りにされ。やがて碧の脚がほぼ再生を終えた頃、終わりを迎えた。 ほのかが感知する迄も無く、ふたりは行き成り広大な部屋――胃にあたるであろう処に放られ、其処で流れが一旦止んだ為だ。 「あ、貴女は……貴女達はもしや先程の――」 涙聲に振り向けば、上体は碧と同じ年頃の眉目麗しい、腰から下は魚のものと同じ女が、妙に居住まい正しい姿勢でふたりをみていた。 「サンドリァナ王女?」 ――さっきと同じ聲……間違いないわ 水中だと云うのに長い亜麻色の髪以外は漂いもせず、まるで目に視得ぬ縄に縛られているような格好だ。 「お願いします、助けて下さい!」 ほのかと碧は互いに目配せし、幽かに頷き合った。 透明の縄、実際には海魔の胎内に備わった触手と思しきものを、碧は易々と千切る。ごぼごぼと泡立ったのは内壁に穴が空いた為だろう。 そうして人魚姫が解放される傍ら、ほのかは壷の蓋を開けた。昇る気泡と共に中から幾つもの青白い光が浮かび上がり、室内全体が明るくなる。 「……なんですの?」 サンドリァナは直前の事などとうに忘れたかのように、うっとりと光を見つめた。 ――……海蛍よ 「うみほたる?」 ――水に浸けると光るの……綺麗でしょう 鳳凰は朧に光る水面に沿って、真下の紙束を影でなぞる。それは人に良く似た気配を以って、波の根源をゆっくりと誘導している――らしかった。無論氷舞台へだ。確かに不自然な揺らぎが一方向へ起きては居る。 だが、十三は気が気ではなかった。ほのかと碧が胎内へ向い、未だ二分程しか経っていないが、其の身を案じては度々眼下に眼を凝らす。 あの後直ぐ紙問屋の元へ飛んだが、彼は万に一つも拙い事にはならぬと考えているようだった。 「あたしはほのかさんが無茶をなすったとはこれっぱかしも想っちゃいません」 「併し……」 「まして碧さんも一緒だ、心配するだけ野暮ってものですよ」 奇兵衛の余裕は何処にあるのか、今の十三に量るゆとりは無い。それ故、即座に動けるよう、着かず離れず備えている。結局は仲間を信じて待つしかないのだ。 その時、海中に、丸い月がぼうっと光った。 「来たな――奇兵衛殿!」 「それじゃ遠慮なく」 喜色を帯びた十三の叫びを聴き付けるなり、奇兵衛は漂う紙束を、人魚の女性の姿に変えた。紙の人魚は浅く潜るや否や自らを流れとするように速やかに舞台へ向う。 波もまた誘われる侭等速から徐々に速度を上げ、激しさを増す。即ち、青白い月を伴って、それは海中から徐々に徐々に人魚へ逼って居た。だが、 「そうは問屋が卸さない」 奇兵衛の意の侭泳ぐ紙奴は氷舞台の僅か手前で、海上へと跳び上がり――途端に本来の姿へと戻る。そして舞い散る紙切れに飛沫が染みた時、其の下から更に海水が、月が――ほのか達が、一斉に舞い上がった。 「今だ炎王! 組み付いて切り刻め! 幻虎はあの光を狙え! 但し中は傷つけるな!」 間髪入れず出された十三の命令完了後いちぶの暇も無く、岸で待機していた巨大な猩猩は豪腕で空を確かに掴み取る。その小脇を牙を剥いた虎が馳せて突撃した。 猩猩に引き裂かれた透明のひだや触手が、幾つも海へ、或いは舞台へ飛び散って、尚ものた打ち回る。そして虎が月に喰らい付くと同時にほのかが銛を内より突き立て、空いた穴から海水が脈打って飛び出した。しかし炎王が支え半ば宙吊り状態の海魔を、更に碧が、上下に空いたばかりの穴に手を突っ込んで。 「――右脚の礼だ。受け取れ」 一息に、腕を振るい、ぶち破った。 海魔が胎内の水を勢い良く噴出する様は、牛のお産を思わせた。破水より出でたのは碧、ほのか、そしてサンドリァナ。 「炎王、とどめを刺せ!」 そして十三の聲が、海魔の命運を灰燼へ帰す。 大猩猩は握力に任せて首元と思しき部位を握り潰し、暴れ狂うものを無理矢理に掴んだ侭、逆手で穴の空いた腹部を、首を、尾を、何度も殴り、突き、千切って放り、切り刻んで、つらぬいた。 透明な液体が、炎王の手元から止め処なく溢れ出した。 その、傍ら。 「必ず寄ってくると想ってたよ。人魚をちらつかせたからねえ」 紙問屋の前に、ふたりの魚人が先程のサンドリァナ姫と同様の姿勢で――奇兵衛は知る由も無いが――連なる紙片によって縛られ、座らされていた。 「我々ヲ捕ラエテモ」 「無駄ダ!」 虚勢なのは眼で判る。魚そのものと云って良い丸い双眸はあからさまに落ち着き無く泳ぎ、偶に奇兵衛の昏い眼差しの笑顔を見た途端に逸らす。 雑魚である。 「無駄かどうかはあたしが決める事。いいからお話しよ、お前さん方の目的をさ。そしたら、」 「誰ガ!」 「話スカ!」 「そうかい」 奇兵衛の口元から笑みが消え。 どばっと音がして、一方の魚人の顔に何かが跳ねた。彼が怪訝な顔で隣を見た時には、仲間の首から上が何処かへ旅立った後だった。 「オッ、ウ……コ、殺スガイイ! ネレイス共ノ王都『リーフディア』ハ既ニ占領シタ! オレガ死ノウトグ、ググ、グラン=グロラス=レゲンツァーン王国ノ勝利ハ最早揺ルガン!」 「へえ……大したものだね」 奇兵衛は酷薄な聲で応え、ゆっくりと血糊の付いた掌をかざす。 「我々ノ新シイ王ハ『天カラ降ッテキタチカラ』ヲ得タ、ムテ、無敵――」 どの段階で首を攫ったか。少なくとも無敵と正しく発音するよりは前だったと記憶しているが。兎に角確かな事は、 「虫の好かない連中だよ。面白くも何ともない」 奇兵衛は紙で血を拭い、空席となった首に丸めて捨てた。 ※ ※ ※ ※ ※ 彼方の水平線が白み始める頃。 旅人達はサンドリァナ王女を見送ろうとしていた。 「そう、パルラベルは無事ですのね!」 「ああ。他にも、姫君の内何人かは俺達の仲間が救助してくれている筈だ」 「良かった。本当に何とお礼を云ったら良いか」 十三が齎した朗報に、王女は初めて笑みを零す。面立ちはパルラベルに似乍らも大人びていて、滲み出る気品とは裏腹に飾り気無い素直な笑顔は、黎明に良く映えた。だが、それも束の間。 「でも、王都は……リーフディアは、もう、」 「その事だが」 サンドリァナの翳りを十三が遮る。 「取り敢えず報告がてら上に掛け合ってみるつもりでいる。約束は出来ないが……王都が陥落したとなればもう後が無いからな。懼らく悪いようにはならん」 「あ――有難う、御座います」 不確か乍ら力強い物云いは、少なからず第二王女を勇気付けたようだ。勿体なくも頭を垂れるサンドリァナに、十三もまた頼もしげに頷き返した。 「本当に……送って行かなくて平気……? 無理しなくて良いのよ」 ほのかの配慮へは緩やかに首を振る。 「お心遣い痛み入ります。けれど皆様もお疲れでしょう。それに、」 サンドリァナは近海に逗留中の同胞と合流するとの事だった。 「本当にすぐ其処なんです。海魔を退けて頂いたのですもの。大丈夫ですわ」 「そう……気をつけて」 「ゆめ油断なきよう――殿下」 王女は、ほのかと碧の忠言にくすくすと笑っておどけ気味に応えた。 「肝に銘じます」 日が昇る少し前、サンドリァナ姫は皆の元を発った。 後に残るのは幽霊船と見紛うばかりの船。氷舞台と、其の上に横たわる――尚も透けた、けれど陽光の下では全身から映える柔突起も口の外周にある鬣状の、漁火と思しき無数の触手を備えた、あまりに巨大な――、 「…………海牛、だったの」 「落噺としてはまずまずといった処です」 海の枯れ尾花に、奇兵衛がしみじみと云った。 「……人は、」 人は自らを脅かすものを許さない。 正体とその力を知れたなら打ち滅ぼそうとする獰猛な生き物だ。 「けど、目に映りもせず、刃を突き立てる先も分らぬ朧な何かは……」 「怖れるか」 「さもなければ存在自体を」 「……ええ。否定するの」 存在を否定された存在は、人にとって在るが無きものに取って代る。 十三も、碧も、奇兵衛も――ほのかも。その事を身に染みて判っていた。 「きっと……だから夜陰に溶け込んでいたのね。賢明だと想うわ……」 海女は白い手を伸ばし、海牛の鬣をそうっと撫でた。 「でも……」 さっと風が吹き、磯の香りが黒髪を撫でる。 日が照った波間が、幾重にもまたたいて、いつまでも揺れていた。
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