樹海となったターミナルを見下ろす崖の上、一度暴かれた墓の前で、三人は無言のまま時間を共有していた。 一一一は、震える両手でその手紙を握りしめ、何度も何度も読み返す。 ムジカ・アンジェロは、微苦笑にも似た複雑な表情を浮かべ、その手紙を一読する。 由良久秀は、苦虫を噛み潰した顔で、その手紙を眉間にしわを寄せた状態で眺める。 《招待状》は、ここにある。 純白の紙に真紅のインク、うっとりするほどに美しい文字で綴られているのは、ヘンリー・ベイフルックが建てた画廊街の円形劇場、そこで行われるシェイクスピア劇にまつわるものだった。 綴られている内容で分かるのは、ソレがたった一日だけの特別公演であるということ。 演目は《ハムレット》であるということ。 ロストメモリーばかりで結成された劇団の、これが旗揚げ公演であるということ。 そして。 なによりも便箋の最後に記されたエルトダウンの署名が、すべてを物語っていた。 ――あの人が自分を呼んでいる。 かつてホワイトタワーに囚われ、現在は行方を眩ませていた鉄仮面の囚人、エドガー・エルトダウンと名付けられた男による、これはまごうかたなき犯行予告だった。「今度こそあの人を止めなくちゃ」「せっかくの招待を受けないわけにはいかないかな」「俺はべつに関わる気は――」 *『それでも“正義”を振りかざすのであれば、罪を糾弾するのであれば、砕け散る己の魂の音を聞く準備をしたまえ』 * ニセモノの太陽がニセモノの城と庭園とを照らす。 まがい物の時計が、まがい物の時を告げる。 ウソで塗り固められた言葉たちが、ウソだと知りながら紡がれていく。 虚構でありながら、真実であると声高に訴えながら、世界は続いていく。 舞台はナマモノだ。 演者、観客、室温、雰囲気、想い、感情、すべての要素がすべての要素と絡み合い、瞬間瞬間に表情を変え、二度と同じ時を刻まない。 どれほど同じであろうとしても、同じになりようがない。 真実――この舞台はただ一度きりでしかあり得ない。「オフィーリアを、我が妹を殺したのはだれだ……っ!」 悲鳴じみた声を張り上げ、レアティーズはぐるりと周囲を射抜いていく。「なぜ、なぜ妹が死なねばならんっ!? 妹が何をした、心の壊れたオフィーリアを殺したのはだれだ?」 鬼気迫る表情に、観客は息を呑む。 少女は川に浮かんでいるのではない。 彼女は父王の亡霊が現れる城壁の傍らで、無数の釣り糸に絡め取られ、さながら蜘蛛の巣に囚われた蝶の如く中空に吊されているのだ。 したたり落ちる赤の色彩が生々しい。「ハムレット、ハムレット! 門が、城の外へ出る門が開かない…!」 舞台から客席の間を走り抜け、現実世界に繋がる『劇場の扉』に手を掛けたホレイショーは、舞台に佇むハムレットへと悲痛な声で振り返る。「我々は城に閉じ込められているんだよ、ハムレット! しっかりしてくれ、考えてくれ、僕は君を取り戻したいんだ」「妹を殺したものがこの中にいると言うことだな!?」「恐ろしい……おそろしいわ……! わたくしを、母を、どうか護ってちょうだい、ハムレット」「捉えろ、なんとしても不届きな人間を捉えてくるのだ!」 妻の肩を抱き、クローディアスの険しい声が飛ぶ。「ハムレット、おまえはまだ狂ったふりを続けるつもりか!?」 けれど、ハムレットはそれらの声には応じない。 親友ホレイショーの声も、オフィーリアの兄レアティーズの声も、母ガートルードの声も、義父クローディアスの声も一切届かない。 彼は今、彼だけが見えているのだろう人々――『亡霊』の『声』にのみ囚われている。『ハムレットよ、父は殺されたのだ、おまえの母であるはずの女に、おまえの叔父にして義父となった男に、父は裏切られ、欺かれ、陥れられたのだ』『オフィーリア、愛しい娘……私の死を受け、おまえもまた狂ってしまったのか、だが、私を殺したのは……私はなぜ、あの夜ガートルードと共にいたのだろう?』『……わたしは、……ただ、あなたが好きで……花を一緒に愛でていたかったのに、あの人は』『ハムレット、さあ、父の敵を討つのだ! すべての元凶はそこに在る』『羊の皮を被った狼がいるということなのか……オフィーリアも私も狼に食い殺されたのか?』 姿は見えないまま、父王、大臣ボローニアス、オフィーリア、みっつの死者の声は響き続ける。 その合間にも、オフィーリアの死を前に、人々は悲鳴をあげ続ける。「生かすべきか、殺すべきか……ソレが問題だ……」 現実の声には耳を塞ぎ、虚構の声のみに耳を傾け、ハムレットは客席に向けて己の胸に渦巻く苦悩を吐き出す。「だれを断罪すべきか、ソレが問題だ」 だが、すべてを無視して呟かれる台詞へと、父王の声が被さった。『夜の声が聞こえるだろう、ハムレット? そこに居る者たちの言葉に耳を傾けるがいい、息子よ。だれを罰するべきか、だれが罪深き者であるのか、さあ、問いかけるがいい!』 ハムレットは、ハッとして顔を上げる。『罪を暴き、罪を糾弾する、そのものだけが私の真の姿を見ることができるだろう! 息子よ、さあ、夜の声を集め、虚構の真実に従い、剣を振るうのだ』 観客はその瞬間、王宮につかえる者となり、同時に罪を糾弾する者となり、ハムレットがこれから取るべき行動指針を告げる者となった。 すべてを虚構と思い込み、観客達は物語に呑まれていく。 けれど、ムジカは、一は、由良は、知っている。 そこで揺れているのが本物の死体であると言うことを。 そして三人は気づく。 ここが脚本家にして演出家である囚人が仕組んだ、クローズドサークルであると言うことを。 謎を解かなければ、人は死んでいく。 犯人を捕まえなければ、糾弾しなければ、更に人は死んでいく。 戯曲『ハムレット』は、そう、罪ある人々すべてを断罪して終幕するのだから。「ボローニアスとオフィーリア、単純に犯人をハムレットにしちゃダメってことですか?」「元凶が誰かを考える必要があるのかな」「俺たちに現場検証でもさせる気か? 殺せば死ぬ、それだけだろう」 交わされる三人の台詞をまるで聞いていたかのように、父王の声は観客に向けて放たれる。『さあ、諸君、聞かせてくれたまえ。悲劇はどこにあるのかね? 罪はどこにあるのかね? 断罪すべき者の名を告げよ!』 高らかに告げるその声に、いっそ耳に懐かしいとすら思えるソレに、ムジカは不思議な笑みをその口元に浮かべ、両隣に座る一と由良へ向けて呟く。「どうやら《彼》はおれ達の《物語》をご所望らしい」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良 久秀(cfvw5302)一一 一 (cexe9619)=========
「なるほど。この劇場すべてが《鎖された城内》ということか」 ムジカは目を細め、満足げな笑みを口元に浮かべた。 客席に広がるさざめき――誰が悪いというのか、誰を罰するべきなのか、今何が起きているのかを好き勝手に言葉にしていく無責任な様は、まさしく現実から遊離した『夜の声』だ。 無責任でありながら無関係ではない、奇妙なスタンスで発せられる言葉たちは、一体ハムレットにどのような効果をもたらすのか。 現実の《死》を認識しないままに、悲劇はどこまで進行するのか。 「ムジカさん?」 徐に立ち上がった自分へ不安げな視線を送る一を見下ろし、ムジカは軽く肩をすくめてみせた。 「そこに謎が在るのに、動かないわけにはいかないだろ?」 まるで『探偵』役にあらかじめ用意された台詞のように、さらりと彼は告げ、するりと客席の狭い間を抜けると、舞台裏に続く右手側通路に消えていった。 「由良さん?」 「……確かめる」 「え?」 同じように立ち上がった由良は、むっすりとした表情で重いカメラバッグを肩に提げ、ムジカと正反対へ向かって歩き出した。 闇に沈んだ階段を下りていく、その先に立っているのは、先程『門が閉ざされている』として『クローズド・サークル』を宣言したホレイショーだ。 客席から舞台の上のハムレットを見上げるかの親友は、声を限りに叫んでいる。 「ハムレット! 一体君は誰の声を聞いているんだ! 僕には何も聞こえない、他の誰にも、君が会話している相手は見えないんだよ!」 彼には『夜の声』が聞こえない。 すぐ背後に立ち、なおかつ顔を覗き込んでくる由良の存在も、彼にとっては『存在しないモノ』ということだろう。 ちらりとも視線を向けない。 ソレを見て取り、何かを納得し、由良は彼の側を離れると舞台裏へと姿を消した。 「クローディアスを締め上げろ!」「犯人は母親じゃないかしら」「オフィーリアの遺体を調べるべきじゃ……」「実は犯人は被害者の中にいるってのはどうだ?」「まずアリバイを……!」 客席から飛び出す言葉にハムレットは耳を傾け、オフィーリアは死者のまま、血を滴らせながら留まり続けている。 「……行動しろってことですか」 一は目を伏せ、膝の上で拳を握りしめた。 先代王の声は間違いなく鉄仮面の囚人によるものだ。 彼はここにいる。 ヘンリー・ベイフルックとの茶会の席で、自分は《エドガー・エルトダウン》を止めるためにロストメモリーとなることを志願した。 対してカリスは、目的と手段のはき違えを穏やかに指摘した上で告げたのだ――そんな真似をしなくとも、必ず『あの人』は接触してくると。 あの時の彼女の言葉は神託めいていて、そしてその正しさをいま一は身を以て知らされている。 ムジカは動いた。 由良も何かを思い、席を立った。 では自分はどうするのか? 咎人を糾弾するのだとして、ソレをどう決めるのか。 一は堅く目を閉じ逡巡した後、まっすぐに舞台を見据えた。 * 由良は舞台ではなく、音響設備や衣装、スタッフたちがたむろする裏側へと入り込む。 大量の衣装はもちろん、ワイングラスやボトルといった小道具、背景に使われる大道具、それに姿見やメイク道具などが扱う人間にとってもっとも使い勝手の良い状態で置かれている。 部外者の由良から見れば、どれも雑多としか思えないが、うかつに触れることを赦さない雰囲気は十分に伝わる。 ここには次の出番を待つ役者たちもいると踏んだが、衣装をまとったモノの中に目当ての姿はなかった。 「……控え室にいるのか?」 《亡霊の声》は確かに舞台上に響いていた。 オフィーリアやボローニアスなどは録音機器でも十分可能だろうが、観客との掛け合いもせねばならない《父王》は、当然すぐ傍で劇を見守っているモノと思った。 だが、どうやら当ては外れたようだ。 「なあ……悪いが、先代王や内大臣の役者はどこにいる? 控え室はどこだ?」 数名のスタッフが慌ただしく動き回っている中、衣装の直しを行っていたひとりへ声を掛ける。 だが、彼女はこちらの言葉に視線ひとつも反応しない。 「おい」 肩を掴む。 声を少し大きくする。 それでも、相手は一切の反応を返してこない。まるでそこに由良など存在していないかのように無視する。 「聞こえているんだろう?」 半ば強引に方を引き寄せても、彼女も、そして彼女の周りの人間も、誰ひとり由良へ応えようとしない。 何らかの奇妙な術を掛けられているとしか思えないほどに無反応だ――いや、事実囚人に操られている可能性は高い。 観客は《夜の声》という役を振られている。 夜の声ということは生者ではあり得ない。 つまりは見ることも聞くこともハムレット以外には不可能、という設定になっている。 それを裏方にまで徹底しているということなのか。 彼らに協力は仰げないということだ。 「罪を糾弾し、引きずり出すしかないのか?」 舞台の上では、本物の死体が揺れている。 赦されないと分かりながらもソレを撮りたいという衝動と、終幕まで黙って観劇したくなる誘惑の、どちらも耐えなければならない状況がいっそ忌々しい。 しかし、自分で動くしかないのなら、やるしかない。 カメラバッグを担ぎ直し、由良は苦虫を噛み潰したような表情で、舞台袖に繋がる通路を渡る。 その姿を、オウルフォームのザウエルが追っていることには気づかずに。 * いつの間にかハムレットの傍には、仮面をつけた黒髪の旅役者が佇んでいた。彼はかつて王の告発のために使われた一座の長だ。 「是非、聞かせてもらいたい。この庭園には、一体いつ誰がどの程度来ているのかを」 彼はゆるりと周囲を見回し、問いかける。 「俺にも亡霊の声が聞こえるのです、王子。オフィーリア様は、《あなた》と《あの人》、ふたりの人物について語り、そして、ここには花が咲いている」 「彼女を呼び出したモノがいるということか?」 「そして、それは顔見知りで無ければなりません」 城内を歩き回ることに違和感のない者であり、彼女が話していて不自然ではない者である。 「妹は拐かされたのか!?」 レアティーズの言に、旅役者は頷きで返す。 「歩哨は何も見なかったのか? 本当に?」 舞台袖から言葉が差し込まれる。 「……参加する気になったのか……」 旅役者は口の中で小さく呟く。 しかも、指摘部分が自分にとっては思考の範囲外に置いていた点だということがなお面白味を増してくれる。 「亡霊さえ見つける目が、誰何する口が、何も見ず、何も止めなかったのか? そんなことがありえるのか?」 声だけで告げる。 「訊いてみろ。何も知らぬと応えるなら剣を抜け。それでも知らぬと応えるなら、オフィーリアを惑わしたのは亡霊だ」 死者が死者を導いた。 そう告げる《夜の声》に指図されるまま、ハムレットは己の剣を抜き、歩哨へとその切っ先を突きつけた。 「問いに応えろ。おまえは何も見なかったのか? 亡霊さえも見つけるおまえが、オフィーリアが殺害される様を何ひとつ見なかったのか!?」 「わ、私は……」 気狂いと噂される王子に剣を向けられ、怯えた歩哨の視線は、救いを求めるようにホレイショーへと向けられる。 だが彼は何も語らず、故に歩哨は黙って首を横に振るだけだった。 「あやしい人物など誰ひとり」 「つまり、《あやしい人物でなければ》見たということかな?」 旅芸人は、笑いを噛み殺してから、ハムレットへと向き直る。 「王子、今一度の余興をお赦し頂きますよう」 旅一座の座長となった仮面のムジカの願いに、ハムレットはゆるりと頷きを返す。 「わかった。赦す。ソレで真実が明るみになるというのなら、見させてもらおう! さあ、演じるがいい、おまえの真実をこの目の前で!」 オーケストラの効果音が、ぐわんと大きく場を揺るがし、そして、仮面をつけた旅芸人は即興のひとり芝居を演じ始める。 「“僕は、理想を語る君が好きだった”」 ゆっくりと、詩を諳んじるように、彼は聡明で繊細な雰囲気をまとい、ゆっくりと庭園を歩き始めた。 「“君は快活で、頼もしく、一切の憂いなく日々を過ごせばいい。なのに何故、こんなにも苦しまなければならないんだ? 何故君は狂ってしまった?”」 しんしんと降り積もる雪のように、静かで、けれど冷たい声音が響いていく。 「“僕は君が苦悩する様を見たくはない。いや、君が僕以外の存在によって苦悩させられるのが我慢ならないと言った方が良いのだろうね”」 歌うようになめらかに、人々の耳へと旋律めいた台詞が入り込んでいく。 「“こんなにも容易く、人は憎しみで視界を遮られてしまう。曇った目では真実は見えないのだから、ソレを思い知ることも必要じゃないかな? たとえば、そう……こんなふうに”」 男は懐から紙片を取り出し、羽根ペンでさらりと何かを書き付けた。 そうして、頭上に掲げたそれから手を放せば、紙片ははらりと頼りなく緩やかに地へ落ちていく。 「“さあ、後はこれをあの男が拾うのを待つばかり。読めば必ず、ガートルードの元へ向かいたくなる”」 口元には歪な笑みが浮かび上がった。 「“まったく、《お話ししたいことがあります》、……なんて単純で魅惑的な台詞だろう! 字体を真似る必要もないくらいに、単純で短い言葉!”」 くるりと踵を返死、鮮やかに純白のマントを翻して、男はその場に蹲る。 マントに覆われ、白いかたまりへと姿を変えたソレは微かに震え、今度はくぐもった声を漏らす。 「“次は、……いや、辞めておこう。最後に取っておかなくては”」 そこへ、不意に声が差し込まれる。 『……私は、何を見たの……? お父様を刺したのは、アレは……あの後ろ姿は……』 「“……そうだ、ちょうどいい。あの可哀想な娘、オフィーリアに会いにいくべきだ。彼女もまたハムレットを悩ませているんだから”」 徐に立ち上がった彼は、舞台の上を大股で歩き、登場人物である役者たちの脇をすり抜け、物言わぬオフィーリアの元へ向かう。 いまやしたたり落ちる鮮赤もなくなった彼女は、蜘蛛の巣に囚われた蝶そのもの。 『なんということかしら、なんてことかしら、お父様は、罠に……伝えなくちゃ、早く、早くこの事実を』 彼女を見上げ、彼は微笑む。 軽く握られた彼女の掌から、男は何かをさらう。 それが紙片であることに気づけたのは、彼が両手でソレを広げ、客席に向けて掲げて見せたからだ。 「“まったく、こんなモノを見つけるだなんて。君もまたハムレットのように、亡霊の声に導かれでもしたのかい? いや、そんなことはないね、だって君は容易く罠に落ち、自ら足を滑らせた。その胸に花壇の鉄柵が突き刺さった偶然を、僕はどう考えるべきなんだろう”」 紙片を握りつぶし、懐へしまい込み、マントの裾で以てその顔を隠した。 「“花を愛でるのは一向に構わない。心が壊れたままなら、それでも良かった。でも、ハムレットの心を乱すことは赦されない。君は何を口走るのか分かった物ではないしね”」 そして男は、ゆるりと歩き出す。 「“せめて君を美しく飾ってやろう。さあ、後は最後の仕上げ。ハムレットのために舞台を整えるだけだ”」 一歩、また一歩。 自分に視線が注がれていることを十分に理解しながら、レアティーズの前を進み、クローディアスと彼に身を寄せるガートルードの横を通り過ぎ、ハムレットすらも目に入れず、ゆっくりと、ゆっくりと。 白い礼服をまとった男――ホレイショーの正面まで進んでいく。 「“唆すだけで言い、それだけで人は容易く死んでいく”」 伸ばされた手が、ホレイショーの手を取った。 「“Dead men tell no tales.――死人は如何なる物語も口にはできない。舞台から降板させれば、それでおしまい。人生とは舞台のようなモノだといったのは、さて、誰だったかな”」 合わせ鏡かと錯覚させるほどに、旅役者はホレイショーと同一の仕草、同一の表情を浮かべ、向かい合う。 そして、緩やかに緊張感を作り出していた音楽はフェードアウトし、辺りには鼓動の高鳴りを殊更意識させるような《沈黙》が訪れた。 しかし、それは一瞬。 旅役者の腕を取って引き剥がすと、ハムレットは自ら親友へと詰め寄った。 「おまえが犯人か、ホレイショー!? おまえが私に、ボローニアスを誤って討たせたということか!?」 「僕が彼らを? ハムレット、君は突然何を言い出すんだい? 旅役者の戯言で僕を疑うって言うのかい?」 「おまえ以外に誰がいるんだ?」 「僕はハムレットの親友だよ。彼が壊れていくのを忍びなく想いこそすれ、なぜ殺人なんてモノを画策しなければならないんだろう?」 「あんたはハムレット様が壊れたと、本気で思ったのでは? だから、その元凶をひとつずつ潰していった……あんたは亡霊すらも殺しに掛かるんじゃないのか?」 『そうだ、私は確かに呼び出されたのだ、あの日、あの夜、ガートルードに元へ行かねばと』 『そう、私はお花を摘んでいて、あの紙切れを見つけ……取り上げられたのだわ、あなたに』 「元凶はホレイショーか!」「親友でありながら」「騙されるな」「そいつのせいでハムレットは無関係な人間を殺したんだ」「信じられない」「そいつのせいでオフィーリアまでも」 『断罪すべきモノの名は決まったかね、諸君! 断罪すべきものが誰か分かったのかな、我が息子よ!』 父王の声が観客の声に重ねて、降り注ぐ。 「亡霊たちがおまえの罪を告げているぞ、ホレイショー!」 「貴様が俺の父と妹を殺したのか! おのれ、おのれ、赦さぬ、赦さぬぞ、ホレイショー!!」 「ホレイショー、まさか貴様が」 「なんて、なんておそろしいのかしら! 穢らわしい、おぞましい男……っ」 ざわりと、城内の気配が、会場の空気が、揺れる。 「何故、僕を陥れようとするんだい? 僕は誰も殺していない。誰ひとり、殺してなんかいないよ」 「……ホレイショー」 「さっき、王の前で旅の一座に演じさせた、アレこそ、君が義父と母親へ向けた告発なんだろう? それなのに、何故僕をいまこうして糾弾するんだい? そこの旅の男は、何故僕を?」 「俺は、王妃や義父には何も言うつもりはない。罪を抱き裁かれたいと望みながらも裁かれない、その葛藤こそが罰なのだから」 だから、毒による死も復讐による死も彼らには必要がないのだと、旅役者――ムジカは告げる。 「僕を、殺すのかい、ハムレット? 君にしか聞こえない声に惑わされて、この僕を?」 「……生かすべきか、殺すべきか……それが問題だ……」 剣を抜いたままのハムレットの瞳は揺れる。 復讐を誓いながら、懺悔する姿を見てクローディアスを刺し貫くことができなかった王子の、行き場のない感情がさらなる惑いを生み出している。 抜いた剣を、何事のなかったかのように鞘に戻すことはできない。 「ハムレット……」 「ホレイショー……俺は、おまえを――」 「待ってください!」 少女の声が、唐突すぎるほど唐突に、その場へ突き刺さった。 「すべての元凶はホレイショーさんだって言って、ソレで終わらせることなんかさせません!」 それまで頑なに沈黙を守っていた一が、席を立ち、声を張り上げ、客席から舞台へと一気に駆け下りてきた。 そして。 スカートの裾を翻し、盛大な音を立てて舞台上に飛び上がった彼女は、すべての演出を打ち砕くほど大胆に、ムジカを、そしてハムレットを指さし、告げる。 「悪い人をひとりだけ見つけて、ソレで終わりになんてさせません!」 「……娘よ、ソレはどういう意味だ?」 「ハムレット、君は、今度はいったい誰の声に耳を傾けているんだ?」 不審がる登場人物たちには目もくれず、一は告げる。 「ヒトを殺めることは何故罪なのかと、かつて私は問われました」 ここではないどこかできっと自分たちを眺めている、その相手に向かって言葉を繋ぐ。 「ヒトを殺めること、ソレはどうしようもなく罪深いんです! だって、その人の未来を、希望を、可能性を、夢を、何もかも、自分のエゴで根こそぎ奪い去るんですから」 自身の内からわき上がる激情を抑え込みながら、彼女の視線はムジカから、ハムレット、そして王とその妻へ移りゆく。 「だから、殺人こそが最も罪深い。だから、“この物語の咎人”は明確な殺人を行っているひと……クローディアス、ガートルード、そして、ハムレットの三人なんです」 衣装を着ていず、役になりきらず、故に一は舞台上においてはハムレットにしか認識されない『夜の声』だが、彼女の言葉に観客たちは耳を傾ける。 「けれど“この場”の“真の咎人”は他に居ます。この虚構を作り上げた張本人。悲劇を描き出した作者、脚本家にして演出家――真の咎人はシェイクスピアだという人もいるでしょう。でも、シェイクスピアは紙上でのみ悲劇を作り上げた。虚構であり続けた」 けれど、でも。 「“貴方”は、違う」 違う、と繰り返す。 「虚構と言いながら“実際に”人を殺している。虚構という世界と言葉に流されて、ごまかされてはいけないんです。貴方は人を殺した、貴方の身勝手な欲望のせいで理不尽に未来を奪われた者が居る……それがどれほどの人数であるのか、私には分からないけれど」 恐ろしいほどに、見当もつかないけれど。 「貴方は……貴方は、《忘却への絶望》に身を委ねるべきではなかったんです。むしろ、抗うべきでした。例え彼女がすべてを忘れても、その忘却の上に新たな未来を築こうとすべきだった」 ソレはとても難しく、思うようには行かないかもしれないが、それでも未来を見据えるべきだったと彼女は言う。 「なのに貴方はソレをせず、絶望のままに悲劇の引金を引き、今日に至るまで悲劇を繰り返した……それが紛れも無い貴方の罪、至上の罪を忘却とするのは殺人者の言い訳でしかない!」 響き渡り、こだまする。 「出てきて鉄仮面の囚人、私はあなたを告発します!」 最早、ハムレットの苦悩など、ホレイショーの罪など、虚構世界の糾弾など、意識の外側だ。演劇の体裁は失われた。 途端。 ソレまで煌々と《城内》を照らしていた《太陽》がその地上から消え失せた。 光の残像を残しながらも、舞台の照明を暗幕で覆い隠し、濃密な闇として暗転させたものがいる。 『真実の夜だ』 マイクを通してぼそりと呟かれた低く重い一言に、さざめきは大きく広がる。 「……由良さん?」 『一筋の光もささない、真実の闇が訪れたんだ。これなら亡霊も姿を現すだろ?』 彼の声が、不穏な色を乗せて舞台に注がれていく。 『出てこい、亡霊。姿を現せ。真実を語る口があるんだろう? 死人は何も語らない。だが、語るならそれは死人ではあり得ない』 誰もが、突如訪れた闇を前に、身動きできず、その場に留まる。 身を寄せ合い、不安げに、それでも必死に闇に目を凝らして亡霊の気配を探る。 そして。 永遠のようにも感じられた闇の静寂に、ふつりと笑みが与えられた。 「なるほど、夜の闇の中に《亡霊》を招くのか……《夜の声》は面白いことをする」 空気を震わせるその声に、緊張感が否応なく高まる。 誰かがその場に降り立ったのだと――それが、自分たちの求める《亡霊》なのだと、闇よりもなお濃厚な気配が告げてくる。 「私を告発するというのだね?」 「この場で貴方の罪を裁くことはできないかもしれません。でも、終わらせることはできるんです。貴方が罪を繰り返すなら、私は何度だって貴方を止めます。この世界の幕引きまで、何度でも、何度でも、何度でもっ!」 彼女はすべてを打ち壊し、立つ。 「私は貴方を忘れない。私が見て、考え、触れた、貴方を私は決して忘れない。例えそれが幻だったとしても私にとっては真実だから」 ソレが私の貴方を捉える方法――そう、一は告げる。 「ヒメ……キミに囚われるというのは、なるほど、甘美な誘惑だ」 闇の中で、一の手に指先が絡められ、引き寄せられて、その胸に力強く抱かれる。 「君は私を忘れないという。世界の幕引きまで、幾度でも私を止めるともいう。なんて素晴らしく、なんて甘美な告白だろう」 ぬくもりと鼓動が頬に伝わり、一は声を失った。 「なんて愛おしい存在なのだろう」 囁かれる言葉。 「旅芸人よ、君はどうかね? 君はホレイショーを告発したが、この私を捕らえるかね?」 「俺は別にあなたがどのような行動をしようと構わない。あなたは思うまま、悪を振り撒けばいい。その願いには果てがないとあなた自身判っているのだろう?」 ムジカは見えないと分かっていながら、その口元に静かな笑みを湛え、応える。 一度解き放った存在だ。干渉はしない。 「この場に《夜》をもたらした《声の主》はどうかね?」 『好きにしろ』 「なるほど……では、世界の幕引きまで私を追う意思は、ヒメにのみあるということか」 うっとりとしたその声混ざり込む笑みの意味を、他の者は気づいただろうか。 「ソレを真実だと、私に信じさせてくれるのだね、ヒメ?」 「……エドガー、さん?」 「君のその言葉に偽りはないと、私に示すがいい」 腕が解かれる。 ぬくもりが離れる。 元デンマーク王にして妻と弟に裏切られ、そうして亡霊となって息子へ復讐をそそのかす男は、嗤った。 「世界が幕を引くその瞬間まで、地獄へ歩む私を追い続けておくれ、愛しい始まりの姫君よ!」 高らかに、男は宣言する。 「罪は暴かれた! さあ、虚構の夢から目覚めようではないか! すべてはまがい物、すべては幻、現実へと、さあ戻るがいい!」 パンッと、音が破裂する。 そして、世界に『太陽』が戻った。 まばゆい光があふれる中、舞台の上には虚構を剥ぎ取られたロストメモリーの役者たちと、ムジカ、一の姿が現れる。 拍手はない。 誰もが悪い夢から醒めたばかりであるかのように呆然とする中、舞台に幕が下ろされた。 その瞬間に、気づいた者はどれだけいただろうか。 舞台の上の現実的な死者――オフィーリアは、血痕のみを残して消えていたという事実に。 後日。 この一件を以て、ホワイトタワーにかつて収容されていた《鉄仮面の男》がいまだ存命であることがターミナル全域に知れ渡り、いくつかの《物語》が進行することとなるのだが、それはまた別のお話。 END
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