「――おれの記憶は、彼の世界から始まっている」 先の真都での事件を受け、集まったロストナンバーに対し、朱金の世界司書は厳かに口火を切った。「ロストメモリーは、ロストナンバーであった時代の記憶は残っている。だから、おれは朱昏へ覚醒した、という事なんだろうね」 龍王の座す、東西を別つ大河。その中州に、かつてロストナンバーであった灯緒はディアスポラ現象により辿り着いたのだと言う。右も左も判らず、言葉も通じぬ異世界の幻獣――否、神獣、魔獣、その他の何であったとしても、最早誰にも判らない――を、龍王の化身たる大河は快く受け容れ、そして匿った。 かつて彼がゼロに渡した朱色の巨大な鱗は、その際預かった、龍王自身の鱗なのだと灯緒は語る。「中州には巨大な塔があった。時計塔のような、からくり時計のような」 朱霧に覆われて両岸からは視認できないその塔の存在は、王と其処を訪れた数少ない存在以外には知られていないらしい。塔の天辺には硝子の天球儀が設置され、その中では五色の光が漂っているという。 先日、真都で天神再臨の儀を企てた男の創り出した機構と、特徴上はよく似ている。 或いは、あの天球儀こそが龍王の持つそれを模したモノか。 天の理を映し、世界を掌握する機構。「かつては気が付けなかったけれど、間違いない。あれこそが朱昏にとっての“世界計”だよ」 ◇ 広大な海を想わせる凪の大河に、鮮やかな火が燈る。 ひとつ、ふたつ、優雅なまでの自然さで生まれた光は水の上を漂い、ゆらゆらと躍った。朱、白、黒、金、青――五色の灯が波間を飾り、五色の織が河を飾る。 やがて、無作為に現れていた筈の燈し火は、水面の上をゆったりと滑り、一つの路を造り上げた。「王が、皆様にお逢いしたいと申しております」 黒袍と藤色の袴に身を包み、釵子を被った妙齢の女――大河の東岸に位置する東昇宮を司る祭主が、集ったロストナンバーたちを穏やかな笑顔で迎え入れた。 まっすぐに灯の路の奥を指し示して、女は旅人たちを見据えた。 凛とした、鉦の音に似た声が凪の大河に沁み渡る。「さあ、往かれませ」 ――両端を五色に飾られた、神代へと通ずる路を。 ◇「うん? 違う、謝りに行くんじゃないんだ」 今回の依頼の目的を問われ、虎猫はきょとんと首を傾げて否定する。「目的は龍王との対話と、彼の持つ『異世界の世界計』の構造の確認だ。確かにロストナンバーは朱昏に対して幾つもの干渉を起こしたけれど、侵略の意志はないと確かに伝えてきてくれれば、それでいい」 龍王の方もまた、異邦の旅人たちのこれまでの尽力を認め、積極的に彼らを排する意思は今の所ないようだ。「和解するのは、全ての影響を片付けた後だ」 東西問わずに乱を招いている、北の大妖。世界計の欠片を取り込み、東の國を覆そうと暗躍する鎖された一族。南の地にて眠ると云われる、神代の天つ神。 ――異世界の王の心を解くには、あまりにも懸念事項が多い。 そこまでを真摯な語調で語り終えた後、虎猫は「ああ、それと」と思いだしたように言葉を重ねた。「真都から逃亡した物部大佐と、朱霧の大妖についてだけれど、世界図書館では彼らの消息を未だに掴めていないんだ」 それが、ただタイミングの問題で導きの書や世界計に顕れていないだけなのか、それとも世界計の欠片を取り込んだ者の力によるものなのかは定かではない。 だが、龍王が世界計を持つのなら、朱昏の全ての事情を把握しているはずだろう、と灯緒は語る。「だから、尋ねて来てくれないか。王が簡単に世界計の利用を許してくれるとも思えないけれど、彼らを放っておくのは危険に過ぎる」 ――本当は、己が貌を出さねばならぬ事なのに、と。 何処か人間染みた表情で、穏和な虎猫は苦悩を表に見せる。 0世界に縛られる路を選んだ司書は、二度と逢えぬ恩人との邂逅を、信頼する旅人たちに委ねた。
跣の爪先が、銀の光零す長い髪が、水面に軽やかな波紋を描いた。 少女を中心に緩やかに広がっていく円は、川の面を彩る黄金の燈にまで辿り着いて、芯も燭台もないまま燃え続ける焔を僅かに揺るがせた。 「朱昏の神秘、なのです」 水面に続く路を飾る炎。朱昏の理を示す五つの色。 まるで壱番世界に伝わる死者送りの儀式にも似た、しかし静謐と停滞の性質を濃く顕すその光景を、シーアールシー ゼロはただぼうやりと見つめていた。 先陣を切って川に踏み込んだゼロに続いて、残るロストナンバーも水面に足を踏み出した。 「これが、龍燈の日、という祭事かぇ」 ひとり、その様子を見守っていた逸儀=ノ・ハイネが、広げた扇の奥に隠した口許を吊り上げてそう呟けば、彼の隣に佇む祭主は軽く首を横に振った。 「否。龍燈の日は間もなく訪れるでしょうが――此度は内々の儀に御座います」 ――龍王は、ロストナンバーと会話を交わす為だけに、この機会を設けたのだと。 女はただ、静かに語る。 「成程のう。なれば有り難く拝するとしようかえ」 くつくつと笑み零しながら、逸儀は水面の路へと足を進めた。 ◇ 足を踏み出す度、鏡のように凪いだ水面に波紋が浮かび上がり、そのまま融けて行くのではないかと言う懼れに囚われる。 「……すごいな」 相沢優はただただ目を丸くし、神威さえ感ぜられる光景に魅入っていた。けれど、足を止める事は出来ない。――停まってしまえばそこで、この景色に、龍王の水面に呑み込まれてしまうような気がするから。 フォックスフォームのセクタンは彼の頭の上で、五色の炎を興味深げに見遣りながら、決してそこから落ちるまいとしがみついている。 「僕の住んでいた地は荒野が多く、こうした水気の多い場所と言うのは少しばかり新鮮だ」 優のセクタンを微笑ましく眺め、隣を歩くイルファーンがそう独り語散た。 水の上を歩くという神秘も、高位の精霊たる彼には造作もない事だが、異世界の神威に触れるこの機会を得難いものと感じる。まるで大海のように広い水面を往く、このひとときだけは己の存在も人間と同じ、小さく愛おしむべきもののように思えるのだ。 やがて、彼らの眼の前に、其れは顕れた。 朱漆のような質感を残す表面は、朱の霧と川辺の水気に濡れ、艶やかに輝いている。上部には四面に時計の盤面にも似た何かが備え付けられているが、彼らの眼に入る二面の内、片方――東を向いた盤は針が折れ、表面に罅が入り、無残な様相を呈していた。 高く聳えるその塔には人が入る事の出来る扉が備え付けられていて、恐らくは内部の機構を確かめる事も、上へと昇る事も出来るのだろう。だが、無断で其れをする事は出来ないと、四人全員が理解している。 「……まずは、龍王に話を聞かない、と」 此処へ来て、より強くなる神威に気圧されそうになりながら、優はしかし地面を強く踏み締めて立ち続ける。覚悟と意志の燈る瞳が、凪の川面を、霧に覆われた空を、彷徨う。 「恐らくは、彼には全て聴こえているし、視えているのだろう」 異邦の精霊は凛然とした態度を崩さず、天を仰いだ。 「僕らが此処へ辿り着いて、何をするか――それを、見守っているんだ」 云いながら彼は身を翻し、彼らが歩いてきた水面の路へと引き返す。 「イルファーン、さん?」 優の訝しげな声を聞き流し、波紋を足跡に変えながら、精霊は静かに広い路の中央で立ち止まる。 場の空気を乱さぬように呼吸までも留意して、五色の焔を此れ以上揺らさぬように、空を見上げた。 「……僕が捧げられるのは、これくらいしかない」 腕環が擦れ合って、高く澄んだ音を立てる。 その小さな響きと、水の跳ねる音だけを旋律に、イルファーンは優雅な所作で両腕を広げた。 北に玄、 西に白、 南に青、 東に朱。 四つの光が虚空に燈り、水面を飾る燈と共に空間を彩る。 イルファーン自身は淡い金の光を纏って、優美に円を描く、独特な異国の舞を魅せた。 水面の五色と、漣の音だけが、それを見護っている。 ◇ 舞を終え、中洲へと還ってくる彼を、三人が迎え入れる。 「すごいな」 「綺麗だったのですー」 「ありがとう。南の巫女にも見せた舞だ。――王が、気に入ってくれるといいんだけれど」 はにかむように微笑んで、イルファーンは背後を振り返る。 歩む者の無くなった水面の路は、しかし何者かの軌跡を描くように、波紋を刻み続けていた。 波紋を掻き消すように、水面がざわめき始める。沖合から寄せる小波が、彼らの立つ中州の岸を打つ。 漣に過ぎなかったそれは、次第に寄せる数を増していった。 一際大きな波が、焔が飾る道を舐め、色彩を呑み込む。しかし、呑み込まれても尚、五色の燈は消える事はなかった。水中に融け込んで、荒れる波に揉まれて、魚のように光が泳ぐ。 そして、一瞬の予兆と共に。 浅瀬と塔を軽々と呑みこむほどの高波が、彼らの前に姿を見せた。 「!」 「――下がって!」 イルファーンは咄嗟に三人の前に躍り出て、結界を張るため手を己が前に翳す。 ――だが、大波は唐突に、動きを止めた。 それ以上は寄せる事もなく、重力に反して落ちる事もない。 急速に凍てついた訳でもなく、霧へと散った訳でもなく。ただ水流のまま、それは動きを止めた。 細く高い、大波が彼らの前で口を開いている。朱の霧を僅かに含んで、淡い色彩を纏ったまま。 噫――。 それは、巨大な龍のあぎとだ。 『よくぞ参った、異邦の旅人たちよ』 荘厳な、幾重にも連なる鐘の音のような響きが、言葉を伴って鳴り渡る。波間に現れた龍のあぎとの向こう側で、大きな金色の燈がふたつ、輝いた。 ――伝承によれば、この大河の流れ、そのものが龍王の身体なのだと云う。 四人の立つ中州を容易く呑みこむような巨大なあぎとも、水面から天を睥睨する黄金の双眸も、王が彼らに自らの存在を知覚させる為に創り出した、傀儡のようなものなのだろう。 「初めまして、龍王」 舞を披露した所作はそのままに、優雅に膝をついてイルファーンが礼を示す。しゃらり、と鳴る銀の環が、湿った空気に一筋の清らかさを齎した。 「僕の名はイルファーン、異邦の精霊」 厳かに名乗り出る精霊の言葉を、異国の龍王は静かに聞き届ける。 「――灯緒を覚えているかい?」 しかし、その名を口に出した瞬間、水上を躍る黄金の焔を揺るがせて、瞬きに似た明滅を見せた。 「龍王様に助けていただいた、赤い虎猫さんなのです」 「彼は貴方に深く感謝していた。此処に来る事の出来ない彼の代わりに、僕らの口から感謝を、と思ったんだ」 そうしてまた、深く頭を垂れる。 『……あれの現状ならば、瞑赫の炎を通して既に聞き及んでいる』 鐘の音を模した聲で、王は静かに応えた。 「めんがく?」 「西国に在るお寺さんの名前なのです」 今年の始まりを朱昏で迎えたゼロは、件の虎猫から朱い鱗を預かって瞑赫寺の炎にくべた事を思い返す。灯緒はこの依頼を出した時に、あれが龍王の鱗であると告げた。彼がゼロに託した想いはこういう事だったのかと、今になって実感する。 『だが、汝らの言葉は有り難く受け取ろう』 そして降り注ぐ、柔らかな言葉。 敬意と礼儀を以って謁見に臨んだ彼らの誠意を、王はしかと認めたようだった。 『――して、希みがあるのであれば、聞くが』 黄金の瞳に促され、背後を振り返った優が意を決したように言葉を発する。 「世界計――あ、ええと、この塔に登ってみても、構いませんか」 「塔を壊したりはしないと約束するのですー」 ゼロがその言葉を引き継いで、腕の中の枕を更に強く抱きしめる。 水面に現れた波間の龍は、暫し瞳を瞑って考え込んだ後に、『好きにするがよい』と応えた。 ◇ 塔の内部には、彼らも見慣れた世界計とよく似た光景が広がっていた。 空洞になった塔の中央に、硝子細工の円盤が幾つも連なって積み重なっている。ひとつひとつに黄金の針を抱き、緩やかに円を描きながら動くそれらは、しかし0世界のものとは違い、光を受けると五色の輝きを跳ね返す。その合間を縫って、機構を動かす為の硝子細工の螺子と歯車が、軋む音を立てて廻っていた。 それらを取り囲むようにして、壁沿いに螺旋の階段が頂上へと続いている。四人は顔を見合わせ頷くと、果てが無いように見えるそれを昇り始めた。――その先に、彼らが最も調べなければならないものがある。 「どうして、人間が昇り降りできるような構造になってるんだろう」 「どうして、とは?」 優がぽつりと呟けば隣を歩くイルファーンが、どこかあどけなさすら感ぜられる、無垢な仕種で首を傾げる。 「いや、龍王だけが利用するのなら、別にこんな階段とか、扉とか、必要ないんじゃないかと思って」 頂上へと昇る為の階段。彼らにとっては好都合だが、朱昏の人間が利用する為に造られていたのでもなければ、それらがあるのは不自然なのだ。 『かつては我が血族に此の地の管理を任せていた故』 「かつて、と云う事は、今は違うんですか?」 『機構の一部を持ち去ろうとする者が居た故、此の地への出入りを禁じた』 それと共に、この塔の存在は東西両国の記録からも喪われたのだと云う。優は思案するように俯いて、硝子の連なりを見下ろす。 こうして眺めているだけならば、ただの美しい硝子細工に過ぎないと云うのに。 「そうか、この世界にも世界計を悪用しようとする人は居たんだな……」 「何、我らはそ奴と違い、別に悪戯などはせぬ。我ぁのくには《世界計》とやらに興味があるようでのう」 『言葉だけならば、何とも言えような』 僭主の物怖じしない態度に引き摺られたか、何処か砕けたことばで龍王は応えた。其処にあるのは嘲りでも、警戒でも、憎しみでもない。親しみ、或いは呆れにも似た情が含まれているように、感じた。 螺旋階段は一度途切れ、四人は塔の外周に作られた路を行く。一族の事を思ってか手摺まで設えられていて、それはますます、重厚な造りの灯台に似て見えた。あぎとの波は引き、今は龍王の黄金の瞳だけが、彼らの歩みを見守っている。 「そうよのう。お人好しと何ぶん常識違いが多いゆえ、主には何をしでかすやら解せぬ集まりに思えるのじゃろうな」 「……うん」 口許を扇で隠したまま、飄々と語る逸儀の言葉に、優は感慨深げに頷いた。己のこれまで得た異世界の人々との絆、或いは己の周りの旅人たちが起こした数々の騒動を思い起こし、逸儀の辛辣な『常識違い』という評を否定する事は出来ない、と。 何せ、彼らは他の世界からやってきた旅人なのだ。 その世界の摂理に縛られない。その世界の道理を本当の意味で理解できない。だから、誤解と軋轢を生んでしまう。 「確かに……ロストナンバーは、その世界に親しい人ができたら、つい干渉しすぎてしまうんだろう」 それは例えば、割れた鬼面の店主のように。 「けど、決して侵略しているつもりじゃないんだって、それは解ってほしいんです」 貌を上げる。 鮮やかに燃える、一対の焔の瞳と視線が交錯する。 「――そんな事を考える人が居れば、俺たちが止める。絶対に」 その言葉が孕む強い覚悟に、龍王は黄金の瞳を揺るがせて見入った。 「僕の望みは人々の幸いと世界の安寧。元より精霊は人外の力を持って民の運命を狂わすのを是としない」 イルファーンの静かな、涼やかな聲が、湿った風に沁み入るようにして響いて行く。 「過ぎたる力を持ちながら不干渉を貫く逃げ腰を卑劣と罵られる事もある」 それは、世界図書館の在り方にも通じるものだ。 個々のロストナンバーが異世界に関わり過ぎるのと対照的に、集団としての世界図書館は、異世界に深く干渉しない事を指針としている。 「けれど、僕は人の力を信じている。逆境においても抗い続ける人々にこそ世界の命運を託したいんだ」 ――だからこそ、強すぎる力で干渉する事を良しとしない。 その地に生きる人々の意志が、心が、何よりも美しく、強いものだと知っているから。 『――過ぎたる力は世を狂わせる。故、我を除く全ての神は高天原へと還った』 「そう。けれど、僕はすぐそばで彼らを見届けていたかったから、地上に留まる事を選んだんだ」 凛然と、王の言葉にも怖じる事なく。 異邦の精霊は、ただ静かに己が在り方を示し続ける。 「主も何も許さずともよい。問題を起こす者があれば、そのまま放り出しても構わないんじゃないかのう?」 『容易く云ってのける。――構わぬのか?』 「問題が起きるのなら、起こした方に問題があるのじゃ。我らを認めてくれるのは有り難いが、全てを盲目的に受け容れる必要など無かろう」 あっけらかんとそう云う逸儀は、しかし彼なりに世界図書館の問題点と、ロストナンバーの多様性を考えている。異世界の摂理に従わず、己の道理のみに従って世界を変えようとする者があれば、世界そのものが拒絶を示すのも仕方のない事のように思えた。 くつり、と、水面を覆う霧がざわめいた気配がする。 『ならば、そうさせて貰おうか』 そうならぬ事を祈っているが、と。 降り注いだ聲は、親しげな笑みを含んでいた。 ◇ 五色の硝子機構を眺めながら螺旋階段を上っていく内、彼らは塔の頂上へと辿り着いた。 薄絹のような質感の朱霧が、彼らの立つ場を淡く半球状に包みこんでいる。其処から透かし見る空は色彩が融和して柔らかな紫に染まり、此処と同じく川の中州に浮かぶ色街から見る空を思い起こさせた。 真鍮に似た素材で出来た、半円形の枠が霧のドームに添って二つ、十字に交錯しながら回り続ける。天球儀に設えられた、天の軌道を観測するはかりに似ていた。 彼らの立つ床の上には、五つの光が揺れていた。 北に玄、東に朱、西に白、南に青。 そして、中央には巨大な黄金の光珠。 ――幾度となく旅人たちの前に示された、別たれた豊葦原の理を顕す色が、輝いている。 『して、何を識りたいのであったか』 鐘の音に似た聲が鳴り響く。水面から貌を上げ、龍の黄金の双眸が彼らを見つめている。 「この光が何を示しているのか、確認したかったのです」 「五行に対応しておると聞いたがの」 『然り。北に水行、東に火行、西に金行、南に木行、そして此の地に土行を以って、我が國は循環を為す』 四つの国はそれぞれの恩恵を受け、護られているのだと云う。各地で異変を察知すれば、龍王が手を下す必要もなく、予め設えられていた防衛機構が起動する――噛み砕いて表現するならば、そう言う仕組みのようだった。ゼロがかつて真都で関わった、人体発火の謎も此れが要因と聞いた覚えがある。 併し、それにしては西を顕す白の光が、他の三つに比べて弱弱しく揺れている事が気にかかる。 「レタルチャペカムイ――北の邪神さんが砕いた宝珠が、世界計の欠片だとお聞きしたのです」 「けど、本体は此処に在るな」 世界計は一つきり。同じ世界に二つも三つもあるようなモノでは決してない。 首を傾げ、優は彼の立つ塔を見下ろした。 『あれは此の地の力の欠片。四方の様子を我が許へ伝え、我が力を四方へと伝える』 「つまり、あの宝珠は世界計の一部、と云う事だね」 「アンテナのようなものか」 それが砕かれ、西の国に干渉が叶わなくなったからこそ、西の情勢を顕す時計の盤面は砕け、白の光は弱弱しく揺れているのだろう。 ふと、視線をその対極にある朱の光へと向け、逸儀がすいと目を細めた。 「なれば――東は未だ、生きておる、と云う事じゃの」 「? どうして東が問題になるんですか?」 他の二色と変わらず、煌々と輝く青の光珠へと歩み寄って、その神威にも似た威圧感を気だるげに、煩わしげに振り払う。光は煌々と、鮮やかな色を湛えたまま、穏やかな風に震える気配もない。 「ゼロよ、おぬしは物部が持ち去った神宝の容を覚えておるかえ」 「ええと、赤と、青の勾玉を組み合わせた、陰陽珠なのです」 云いながら、そう言えば、とゼロもふと思い至った。 ――北の邪神が砕いた西の宝珠も、陰陽珠の形をしていたと云う。 「あれこそが東の宝珠じゃと思うのじゃが、違ったかえ?」 『然り。物部は其れを知り、二種の欠けた一族の秘宝を捨て置いて宝珠のみを持ち去った』 逸儀の指摘に、龍王は勿体ぶる間もなく頷いた。 「なら、南の宝珠も危ういのではないかの」 『……今の所は、特に異変を報せてはおらぬ』 そして、何処か含みのある物言いをし、そのまま黙してしまう。南の宝珠の在処を告げるつもりは、今の所はないようだ。 「……ところで、光の色がねじれているのは、何故なんだい?」 イルファーンの紅の瞳が、朱と青の光を見据えたまま問いかける。本来の五行であれば南には朱と火行、東には青と木行が対応する筈だ。――それが入れ替わった理由を知りたいと、真摯に質す。 『其の必要があった故』 「必要?」 『南に木行を――我が妹の援けとする為』 その言葉に応えるように、青の光が、輝きを増した。 彼らの見守る中、強い光の奥に影が揺れる。光景が顕れる。――瑞々しい青の蛇龍が、中空で金色の鳥とも獣ともつかぬ巨体を捉え、共に広い大海原へと沈んで行く姿。 「ゼロは――視た事が、あるのです」 朱霧に包まれた国の中央、東雲の宮に保管されていた、巨大な織絵。朱昏の伝承を記したその曼荼羅の中に視た、龍王の妻たる樹蛇と、反乱の天神――丹儀速日(ニギハヤヒ)。 丹儀速日を鎮める為、樹蛇は己が身体を一つの島に変え、共に南の海へと沈んだのだとゼロは聞いた。 「……つまり、丹儀速日を封じるために、南に木行が必要だったと云う事か」 『然り』 それゆえに、皇国は火行の恩恵を受く。 「物部の一族が云うておったのう、『世の理を己が為にねじ曲げた』と」 己と同じ神を縛り、封じるために、龍王は世界計を用いた。 否、彼がそれを手にしたからこそ、此の世界を統べるさだめを得ることとなったのだろう。 「……ふん」 鼻で笑い、逸儀はその黄金の眼を細めて水面を見下ろした。 「当人たちにすれば、さぞかし痛快じゃろうの」 揶揄するようなその物言いにも、龍王の化身は機嫌を損ねる素振りも見せなかった。 世界の理を統べ、必要とあらばそれを曲げる事も可能とする。 そんな絶対的な力を持つ存在を、逸儀は嫌悪している。否、其れはどちらかと言えば、何が神だ、と拗ねる子供の反発に近しいものだ。 「神とは理不尽なモノ。野のモノとは理を違える故、我ぁに主の思惟は解らぬ」 はぐれ者たちの長であった僭主は、そう云って、何処か幼い仕種で唇を曲げた。 「主は何を怒っておったのじゃ」 龍王は暫し無言で、漣の向こうに黄金の瞳を隠している。まるで瞼を鎖し、何事かを思案するような仕種だ。 ややあって、鐘の音に似た聲が、降り注ぐ。 『――先程、確かに汝らは云うたな。間違いを犯すモノが在れば己らの手で止める、と。汝らは一個の集まりではない、個々の意思も一つではないと』 「何じゃ、今更気付いたのかえ」 やはり神とて、あらゆる真理を知るものではないのだ、と逸儀が口端を擡げた。王もまた、己の至らぬ部分を頷いて認める。 『故、此の怒りは汝らにぶつけるべきものではないのだろう』 彼らの真摯な言葉を聞き、王はそう、考えを改めた。 ◇ 「結局、《儀莱》とは何なのかえ」 螺旋階段を下りて行きながら、ふと思い出したように問う逸儀に、鐘の音が降り注ぐ。 『全ての涯にして、始まりの地。霧は雲に成り、花は煙に成り、雨と成って彼の地に降り注ぐ。魂魄もまた同様に』 詩文めいた答えに顔を顰め、しかし逸儀はその言葉が与えるイメージに考えを馳せる。《朱》は世界を循環する、とかつて世界司書はそう説明した。その果てが儀莱に降り注ぐ雨だと云うのなら、それは同じく、世界を巡る輪廻の終着点にも重なって視えるのではないだろうか。 「壱番世界の『ニライカナイ』は、死んだ人の魂が向かう異界らしいのです」 儀莱を訪れた後、世界図書館の蔵書からゼロが調べ上げた事を口にすれば、窓の外に見える黄金の燈が頷くように明滅した。 「興味深いのは、生者の魂もニライカナイから来ていると云う伝承なのです」 ゼロは云いながら、南の島で視た儀式の様子を思い返す。 ――儀莱の島で死んだ者は、珊瑚の樹の咲く入江から海に流される。まるで黄泉送りのようで、しかし新たな生誕を祝い、見守る優しさも感じ取れる光景。 「……朱昏の人が儀莱行きになるのは、その人が死んだときで、儀莱で死んだ人は、また朱昏に生まれ変わると云う意味があるのです?」 『然り。あれは魂の仮宿、新たな生を待つ涯の地』 だからこそ、仮の器を得ただけの魂は生者と同じ活動、同じ価値観を必要とせず、彼の島には経済の概念も農耕も生業も、何も存在しない。覚えてはいなくとも、いずれ其の時が来る事を知っているから。 ――其れを歪みと捉えるか、寛容と捉えるかは、人それぞれだろう。 窓から差し込む光が、屈折を繰り返しながら五色の光を硝子に浮かび上がらせる。上から眺める、連なる硝子の盤面は、階層世界の在り方そのものを示しているようにも見えた。 真っ直ぐな目で見つめ、優が思いつめたように口を開く。 「ワールズエンド・ステーション、という場所を知っていますか」 『否』 王の答えは簡潔で、取りつく島もない。聞いた覚えもない、と言いたげな様子だった。 「ゼロたちの国の世界計は、そのワールズエンド・ステーションのものを参考にしたらしいのですー」 「でも、あなたはそれを知らない。それならどうして、世界計を作る事ができたんですか?」 ロストナンバーでもなければ、原型の世界計も知らない筈の、異世界の龍神が何故、と優は考える。友人を狂わせた世界計、その仕組みについて、彼は他の誰よりも深い興味を抱いていた。 『かつて、我が妹が視た夢の通りの物を作った。それだけだ』 併し、龍王はそれを疑問と思った事はない様子で、そうとだけ答えた。 神が視る夢――それは預言にも近しく、決してその真贋を疑う事はない。一般の人間とは理の違う存在である彼に、世界計を創造した工程の話を聞いても、参考には出来ないだろう、と優は感じた。 ◇ 大地に降り立って、改めて振り仰いだ塔は、先程までと変わらず荘厳に佇んでいた。霧を含んで潤む大気の中で、融けるように揺れる。 「そういえば、各地の現状を視るにはどうすればいいのです?」 『四方の盤面に映し出される』 「……あれ、時計じゃなかったんだ……」 塔の中腹、四方を睨み据える四つの盤面が、彼らの見守る前で針を天に向けて揃える。併し西を向いた一面だけは、折れ曲がったまま針は下を向き、砕けた盤面も暗く電源の通らない画面のように沈黙していた。 イルファーンは鮮やかな紅眼でそれを一瞥し、やがて川辺へと向き直った。 自らの胸に手を宛てて、恭しく、崇めるように頭を垂れる。 「――僕は、この地の事象に異邦人が介入するのは良くないと思っている」 既に一度、彼らは此の地にてその過ちを犯している。 だからこそ、この世界がロストナンバーの過干渉で理を曲げるのを見過ごす事は出来ないと、心優しき異邦の精霊は思う。 「しかし、物部大佐と朱霧の大妖には既にロストナンバーが関わってしまっている。否、関わったからこそ両者は姿を消したという見方もできるだろう」 しかし、涼やかな霧の気配と共に、龍王は首を横に振る。 『……汝らが都を護ろうとしていた事は識っておる。故、我には其れが過干渉であったようには思えぬ』 「――我らが影響を及ぼしたと云うなら、欠片の方ではなかろうかの」 黄金の宝珠を近くから眺めながら、世間話でもするように逸儀が呟く。他の宝珠は陰陽の容を為しているが、中央のこの珠だけは完全な球の容をしているようだった。何処にも継ぎ目などは見られない。 「欠片?」 「息子の方には0世界の世界計が刺さっておるのじゃろう?」 ――朱昏にて、異変を齎している欠片は二種類ある。 ひとつは北の邪神が砕いたとされる、西の宝珠。此方は大半を集め終え、0世界の骨董品屋の許にて保管されているはずだ。返すつもりがあるのかと店主に問えば、いずれは、とだけ答えが返った。 そしてもうひとつが、物部護彦と融合した、0世界から飛び散った世界計の欠片。此方は、紛う事なき外界からの異物と呼べるだろう。 『あれが突如として変生した事は、我の方でも疑問に感じていた。西の欠片の力とも違う――汝らの持つ、宝珠が関わっていると?』 「宝珠ではなかろうが……まあ、そんな所よ。故に其れを取り除くは、我らの役目やもしれぬの」 「ゼロはこの世界の事件を幾つも見届けてきたのです」 北の民族、西の寺院、東の都、南の集落まで、ゼロは朱昏の全ての地域を訪れた事がある。それぞれの経緯と、報告書から知り得た北の邪神、天神の末裔の起こした事件の顛末を語れば、龍王にとっては既知の事実だろうが、彼は静かにそれを聞いた。 「今、ゼロたちだけでは、物部大佐とその母上の現状はわからないのです」 水面に浮かぶ、黄金の燈を見つめたまま、ゼロは静かに、一言ずつ慎重に言葉を紡ぐ。イルファーンもまた、神妙に頷いて、再び頭を垂れた。 「僕たちが齎した影響を取り除くために」 「龍王様の世界計で、お二人を探してほしいのです」 「物部は未だ東の宝珠を持っておるじゃろう。行方を掴むのは簡単ではないのかえ?」 「……できれば、俺たちはそれも取り返して、都にお返ししたいと思うんです。それが、此の世界の正しいあり方だと思うから」 四人それぞれに、真摯に王へと語りかける。 彼らの眼差しに、偽りなく、この世界を想う心を感じ取って。 『――汝らがそう云うのであれば、任せよう』 それとだけ云って、龍王は空を促した。 彼らが仰ぐ先、東を向いた時計盤の表面が青く染まる。 波紋を描き、ざわめいて、水鏡のように潤んだ面に、やがてその光景は映し出されていく。 ◇ 二対の翼を持つ、巨大な猛禽。 羽根先を鮮やかな五行の色に煌めかせ、朱霧の残滓を火の粉のように散らせながら、悠然と、朱の籠る空を駆けて行く。 其れに随って空を往くは、無数の魑魅魍魎の軍勢。朱に呑み込まれた人々の成れの果て。向かう先は、朱の霧に覆われた、赤煉瓦の都。 其れはまるで、神代の行軍にも似ていた。 ◇ 「――な、んだ、あれは」 絶句。 そして、息継ぎのように、言葉を吐く。 憤怒と、憎悪と、焦燥。 朱の纏う強く激しい感情を、映像越しに叩きつけられるような、鋭い敵意を感じ取る。 「……あれは、今、実際に起きている事なのかい?」 『然り』 「まるで神代の再来じゃが、王はこのまま傍観している算段かえ」 『必要が無い。――彼(あれ)が今更戦を求めるとも思えぬ』 何かを懐かしむような口調で、王はゆるりと焔の瞳を細め『汝らに任せる』と云ってのけた。試すような言葉に、逸儀は扇の奥に隠した口端を擡げる。 「そうか。では我らで精々足掻くとしようかの」 「まずは六角さんと、灯緒さんに連絡を取るのです」 そう云って、ゼロはトラベラーズノートを取り出した。 水面に浮かんでいた黄金の瞳は掻き消え、ささやかな波間に、五色の光が浮かび上がった。 『――頼んだぞ、異邦の者たちよ』 鐘の音の聲を轟かせ、王の気配は遠ざかっていく。 <了>
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