コツッ、コツッ、コツッ、コツッ。 ひた、ひた、ひた、ひた。「…………」「…………」 コツ、コツコツ、コツ。 ひたひた、ひたひた。「……………………」「……………………」 コッコッコッコッコッコッコッコッコッコッコッコッ。 ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。 カカカッズダッ! てててっ、ひた。 ――尾けられている。 『白騙』からずっとだった。 ガラは歩調を変えてみたり前に振る手と踏み出す足を同じにしてみたり駆け出すや否や行き成り立ち止まってみたりと極めて不審な挙動を以て不審者を牽制して居たが、相手も中々に粘り強いらしく、一向に振り切れぬ。 如何したものだろう。こまったぞう。「あの」「ん? 今ガラは考えるのに夢中って――」 脇を締めず浮かせた腕を組むと云う変な姿勢で首を何度も左右に傾げていた真実不審者は、現在の悩みの種、即ち尾行者と思しき人影が自ら回り込んで来た途端、其の侭の姿勢で動きを止めた。丈の短い着物姿の見知った娘である。「――菊絵? どうしたの? 図書館に忘れ物とか」「違う」「じゃあさてはガラを遊びに誘おうとかいう魂胆」「じゃ、なくて」「違うんですかああああああ」「あの――」 二度目の否定に殊更肩を落とす世界司書に、娘はおずおずと切り出した。「――あのね。する事、無くて」「ヒマ!」 ガラは羨みと驚きの入り混じった実に珍奇な顔で応えそして案の定、碌な智慧も浮かばず困り果て、結局は最前迄居た店の主に相談すると云う形で落ち着いた。 一分後、『御事情承知致しました』と題された返事が届いた。 ※ 世界図書館朱昏西部担当・ガラ殿 菊絵さんは欠片に纏わる出来事の生き証人とも云うべき貴重な存在です。 事に由っては今後の指標たり得る第一級の情報を齎してくれるかも識れません。 とは云え、御本人が語りたがらぬ事情を無理に問い質しては後々に禍根を遺す結果と成り兼ねませんし、又反って口を閉ざして仕舞う懸念さえ在ります。 彼女も見知らぬ世界に来たばかりで何かと心許無いでしょう、先ずはそうした不安を和らげ、多少なりと互いの距離を縮める事が肝要であると考えます。 其処で一つ、懇親会を兼た食事にでも御誘いしてみては如何でしょうか。 画廊街の外れに『姫卯(ひめうさぎ)』と云う名の食事処が在ります。 周囲を気にせず食と歓談に興じる事の出来る、気軽な御店です。 提案した手前、本来であれば僕も顔を出すべきなのですが、生憎現在は件の欠片の修復作業に取り掛かって居る最中で、今暫く手が離せそうに在りません。 欠席の非礼は、懇親会の費用を当方が負担する事で御海容戴ければと想います。 僭越乍ら『白騙』の名義で四名分の予約を入れて置きました。 宜しければ皆さんで食べに往って来て下さい。味は保障しますよ。 槐 追伸 尚、つい先程リベル・セヴァン女史が来店されまして、ガラさん宛に「可及的速やかに職務に戻るように」との言伝を承っております。 ガラさんに於きましては、菊絵さんの事を外の方々に御任せした上で、早急に世界司書としての使命を果たされます事を、強く御奨め致します。 ※「……………………」「なんて?」 開いた侭の帳面に突っ伏す司書に菊絵が問えば、「『おごるからみんなで美味しいものでも食べて来たら?』だって」 ガラは甚だしく要約した後「ガラ以外!」と絶望的なようで居てガラ以外にとっては如何にも如何でも善い一言を付け加えると共に、恐るべき急角度の撫で肩を作った。 つまりそういうことだ。==!注意!==========このシナリオは、以下のシナリオと同じ時系列の出来事を扱っております。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加(抽選エントリー含む)は、ご遠慮ください。・【瓊命分儀】いんいつか・【瓊命分儀】いんくんし================
「ゼロは聞いたことがあるのです。こういうときは最も一番高い物を頼むのが正しい作法だそうなのですー」 「え、えっ」 「あら……」 「なので作法に法り最高級のコースを四人分希望するのです」 おたおたする華月と手先で口を隠すほのかを気にせず、ゼロはひょいと手を上げてマイペエスにとんでもない事を云ってのけた。 仲居は可愛らしい少女の仕草に慎ましく笑う。 「先程ほのか様が持ち込まれた、とても珍しい御魚が御座いますから、丁度善う御座います――懐石に致しましょうか、会席になさいますか」 「スイーツのあるほうでお願いするのです」 「水物よりは茶菓子の方が善う御座いましょうね」 「なのですー」 「畏まりました。では、懐石の方を御用意致します」 仲居は直ぐにどうぞごゆっくりと場を辞して、室内には四名が遺された。 「……」 超展開に華月は戦く。彼女は季節の野菜と魚、それに食後の甘味も頼んで仕舞おうか、併し体重が――等と大雑把な様な繊細な様な事を考えたりもしたのだが、まさか最高級の懐石料理を食す等想像だにしなかった。 ――あ、後で動けば大丈夫よね。 取り敢えず自分にそう云い聞かせて気を落ち着かせ、落ち着くと漸くほのかが魚を持ち込んだ件について考えが至った。 「ほのかさん、あ、あの」 「……御免なさい。おもてなしを受ける事に、慣れていなくて……」 ●折敷膳、煮物 御膳の上に黄金比を描くのは、ふわふわの御飯と味噌汁。 そして、淡雪の如く澄み、けれど艶があって透き通った質感の、美しい刺身。 ――綺麗……何かしら。 華月は見惚れ乍ら、烏賊にも似たそれが何なのか考える。 少なくとも彼女が守護していた遊郭では見た事が無い様に想う。 「翻車魚(まんぼう)よ……壱番世界は日本の、東の北側で獲ったの……」 もしかしたら菊絵さんの舌に馴染むかと思って――華月の疑問を見越したのか、徐にほのかが添えた。 「わたしが拵えて差し上げたくもあったのだけど……折角席を設けて戴けたのだし、おもてなしにはこちらの御店の方が……相応しいわね」 「まんぼうって、どんな姿をしてるの? ですか?」 菊絵が丁寧語らしきぎくしゃくした言葉で、それでも興味深そうに訊ねた。 「……翻車魚はね」 ほのかは語る。普通の魚の前半分しか無い様な独特な姿、鱗の無い繊細で滑らかな肌、大きければ畳二畳程にもなる体躯の事を、ゆっくりと、しっとりと。 「へええ、変わった魚、なんですね」 「時々身を横たえて……海面に浮いて漂っている事があるの……」 「ゼロは聴いたことがあるのです。あれは日向ぼっこだと謂う説があるのです」 「ええ……」 「そ、それは」 可愛いかも識れない。菊絵の気持ちを解き解すのにも一役買いそうな話題だ。 華月はほのかの心遣いとゼロの合いの手に感動した。だが、次の瞬間―― 「そして時々陸に打ち上げられて……――」 死んだりするわ。 「………………え」 何処かで御輪が鳴った様な気がして、華月は仏前にでも居る心持になった。 そして其の響きは何時までも華月の耳に遺り、程無く耳鳴りへと転じた。 菊絵は気にした素振りも無く、食べ乍ら普通に会話に参加している。 「お昼寝してる、とか?」 「さあ……眼を閉じている事も多い様だから、そうなのかも……」 「まどろんでいるのです? ゼロと一緒なのですー」 ――……でもゼロさんは何処かに流れ着いて息を引き取ったりしないわよね。 心の中で控えめに突っ込みつつ、華月は恐る恐ると三人の会話に耳を傾ける。 「其の姿を見かけた海鳥さん達が降りて来るそうなのですー」 「時々啄ばまれて、死ぬわ……」 「……!?」 「寝てたら狙われ、ますよね」 「海面から元気に跳び上がったりもするのだけれど……」 「すごい」 「尻尾も無いのにすごいのですー」 「時々着水の衝撃で、死ぬわ……」 「……!!」 「あとは……真っ直ぐにしか泳げないそうなのです?」 「じゃあ、目の前に岩なんかがあったら」 「時々ぶつかって…………死ぬわ」 「~~~~」 ほのかの掬びは華月のいたいけな心を翻弄し、容赦無く打ち据えて行く。 今、華月は岩にぶつかった翻車魚の様に弱っていた。何故だか眼の前の白く透き通った美しい切り身に謝りたい気持ちで一杯になった。でも箸は伸ばす。 「でも深海まで潜れるとも聴いたのです」 「ええ……広い範囲で生活を……。普段は海月等を食べて過している様ね……」 「咀嚼もしないのにどうやって食べるのです? またしてもすごいのですー」 「か、噛まないの?」 「うんとね、翻車魚のお口は常に開いた侭で決して閉じられないそうなのです」 華月が恐る恐る訊ねれば、ゼロがそつ無く注釈を入れる。そして、 「そうね……其の割に、海の底に棲む海老や蟹を……食べたりもして……」 「…………」 ほのかの海の怪談か然も無くば遺言の如き朧げな話し口調は、 「時々其の殻が体の中に刺さって、死ぬわ……」 「っ!」 残酷な事実を突きつける。 絶妙である。案の定と想いはしても堪える物は堪える。流石はほのかさん。 それにしても翻車魚哀しい、哀し過ぎる。……嗚呼、でも、 ――美味しい……美味しいよう。 華月は儚い白身を咀嚼し、聲を押し殺して泣き乍ら其の上品な美味を堪能した。 美味ければ美味い程、哀しみもまた一入であった。 「……如何かして、華月さん……?」 「あ、な、なんでも……」 ――なくはないです本当は……。 「大丈夫なのです? 具合が悪い時は医務室で診て頂いた方が善いのです」 ゼロがきょろりと小首を傾げ、菊絵にも識らしめる様に云ってから、「あ、医務室と云えば」と何かに想い到り、華月は、つい「ひっ」と肩を震わせた。 最早如何なる話題も不吉にしか想えなかった。 「翻車魚は海のお医者さんとも謂われているのです。翻車魚の身体からは傷を癒す成分が分泌されていて、怪我をしたお魚が近寄って来るそうなのですー」 「あ……そっ、そうなんだ! 何だか、その、可愛いお話ね」 「癒し系なのですー」 ゼロが齎した今迄とは打って変って和やかな話題に、華月は今や死に体となった己の心を無理矢理奮い立たせ、必死に頑張って明るい反応をしてみせた。 小さな魚群に包まれる様にして漂う翻車魚。魚達は鱗ひとつ無い繊細な肌と触れ合い、傷を癒す。想い浮かべた情景に死の気配は感じられない。が――、 「そうね。でも……時々そうして触れられて出来た傷を悪くして……死ぬわ」 「うっ……」 ほのかと云うか翻車魚の死に死角は無い。当に死の達人――否、達魚である。 「それから、一度の出産で何と三億個もの卵を産むそうなのです」 「ええ……其の殆どが外の魚に食べられて……――死」 「ほっ、ほほほほのかさん……!」 遂に華月が、一応推測される菊絵の身上も慮ったけど自分自身も何か限界を超えて仕舞ったので、控えめな動作でわたわたと身振りを振ってほのかを制止した。 「……?」 ほのかは華月が一巡してまた泣きそうな顔をし乍ら菊絵と自分を交互に見ている様子にはてとしていたが、やがて何か察して、そっと口元を隠した。 「……あら。わたしったら…………自分ばかり話してしまって……」 ――其処では無いのに……。 華月がくすんと肩を落して、はたと気付きそろそろと向いの席へ眼を遣る。 菊絵は重ねた両手で口塞いでいて、 「――ふ。……ふふっ」 眼を細めて、震えた。如何も笑いを堪えているらしかった。 華月はほっとして、その後運ばれてきた煮物を美味しく食べる事が出来た。 ●焼物、強肴 穴子の蒲焼が口の中で蕩けて、何を話すべきか悩む頭も解き解す。 蒲焼乍らあっさりしていて品の好い素晴らしい味わいに、華月は舌鼓を打った。 其の矢先。 「灯緒さんホーチさんルルーさん黒猫にゃんこさんクロハナさんアドさんは頼りになるふわもこ司書さんなのです」 次なる話題を提供したのはゼロだった。 「どんな人たち?」 「うーん、人と云うか……人くらい大きい虎猫と、普通の鸚哥(いんこ)と、」 「折り目正しい熊さんなのです、それに真っ黒にゃんこさんなのです、」 「それから、犬に…………白鼬、かしら……」 華月と、ゼロと、ほのかでそれぞれの世界司書の容姿を端的に表す。 「フェレットだそうなのですー」 「そう……」 永い、沈黙。その間に水晶煮と思しき野菜の御焚合。 そしてまたしても翻車魚の切り身が、こちらは味噌か何かで和えた物が運ばれて来る(仲居曰く肝と酢味噌を合せて和えた物だそうである)。 「……………………えと」 ほのかが配膳を手伝い、仲居が恐縮し乍ら引っ込んで暫くしてから、菊絵は漸う躊躇い勝ちに口を開き、俯き加減に訊ねた。 「人を、襲ったりはしない――?」 「だ、大丈夫! 優しい人……人? や、あ、あの、善い方達ばかりよ」 「でも、熊って」 尤もだ。 「ルルーさんは熊は熊でも紳士的な縫いぐるみなのです。話がお上手なのです」 「ヌイグルミ? お話、できるんだ」 「ええ……皆さんそれが生業だから……どなたも達者……」 「ふう――ん」 「なにかあったらふわもこご相談するといいと思うのです」 「ふわもこ……なんだかくすぐったい響きだね」 菊絵はゼロの助言にくすりと笑う。 「ふわもこの世界は果てし無く非常に奥が深いのです。ふわもこの求道する者は誰もが皆モフトピアを目指すのです」 「まるで天竺ね……」 ほのかが蕪を口に運び、ゆっくりと呑み込んでから云った。 或る意味で其の喩えは的を射ている気もする。 「モフトピアには窮極無比のふわもこがふわもこしていてふわもこであるが故にふわもこ分の摂取に最適なのです。人生の悩みは凡て解決するのです」 菊絵はふわもこの連呼に眼を丸くしつつも、結構真剣に聞いている。 華月にはむしろゼロの力説に果てが無い様に想われた。ともあれ、 「モフトピアは危険も無く穏やかな場所なのです。一度訪れてみるとよいと思うのですー」 ゼロの意見には華月も賛成だった。 ●箸休めを終えて八寸 「ターミナルは最近『りあじゅう』な人たちが増えてめでたいのですー」 「……!」 「華月さん……?」 「あ、な、なんでもありません……!」 心当たりが大有りの華月の顔は、眼の前にある一寸奇妙な形の、真っ二つに割られぷかりと浮かぶ赤い海産物よりも、遥かに紅潮していた。 ちなみにこれは、ほやの吸い物だそうだ。箸をつけるには中中度胸が要る外観乍ら、其の独特の香りと深い風味は特に酒の肴として喜ばれると謂う。 角盆の上には外にも茸や蕗、山菜等の和え物が綺麗に盛り付けられていた。 「ゼロは識っているのです。コイバナは女子会の定番だそうなのです。此処には明らかに女子しかいないのです。故にコイバナをする事は最早必定なのです」 今、ゼロに因って懇親会は女子会へと転じたらしい。 「コイバナ……花の名前かしら……」 「多分そうなのです。コイバナとは懼らく人と人、多くは異性間で寄り添い浮世に咲かせた花の事なのです。ほのかさんには何か心当たりがあるのです?」 胡散臭くも割りとそれらしくゼロが切り返せば、ほのかは思案げに応える。 「……どちらかと云えばそうした方方の、引き立て役のつもりなのだけど……そうね、強いてあげるとするなら……――」 海神。 「…………え」 何処かで荒波が岩礁を打ち付けた様な気がして、華月は嵐の海に放り出された心地になった。 「海神様は『いけめん』なのです?」 「どうかしらね……水域同士、繋がりがあれば……池にも顔を出すのかも」 ――ほのかさん……それ、多分違う……。 「ターミナルは『いけめん』な人が数多いそうで、『ゆりりんぐ』な人もまたそれなりに多いそうなのですー」 華月は『いけめん』と聞くなり首から上が耳迄眞紅に染まる。時期が時期故、仕方あるまい。更に『ゆりりんぐ』についてはこれまた気恥ずかしい想いになる。 菊絵はそうした機微にとんと縁が無いのか、眼をぱちぱちさせて三者三様の様子を窺っていたが、会話が落ち着いたとみてか、ゼロにひとつ、訊ねた。 「『りあじゅう』ってなに?」 「爆発物なのです」 ゼロはめでたくも簡潔に即答した。 ●湯桶を済ませて香の物 「菊絵さんは眠れない事とかは無いのです?」 「う、うん。ときどきは」 「そんな時はゼロに御任せなのです! ゼロはあらゆる環境・時間・姿勢・心理に於いてもまどろむ事眠る事が可能なのです。でもロストナンバーの多くはそうもいかない事情も承知しているのです。ですが大抵は前述の四項目を凡て安寧に近付ける事に依り限り無く眠れる状態に近付くのです。これらの内時間・姿勢は比較的容易に選び模索する事が出来るので今回は環境と心理についてお話するのです。先ず環境についてなのです。菊絵さんは――」 華月とほのかは紫葉漬と共に過ぎ行く御盆を噛み締め乍ら、只管長いゼロの講釈と圧倒される菊絵の様子を窺っていた。まどろむもの、乗り乗りである。 「――ちなみに先程お話した灯緒さんはお昼寝スポットを完璧に把握しているのです。司書業務をこなし乍ら如何にして世界図書館の眼をかい潜り0世界のありとあらゆる場所でゼロに匹敵する程のお昼寝をこなしているのか――それを想うとゼロは気になって夜も眠れないのです。でもターミナルには特別な日を除いて夜は訪れないのです。結果としてゼロは安心してまどろむ事ができるのです」 ふわもこ以上に果てし無い。けど、と華月は想う。 ゼロは一連の話題の中にターミナルや旅人達の事を織り交ぜて話していると。 それらは不慣れな環境下に在る菊絵の戸惑いを、きっと和らげてくれるだろう。 「次に心理についてなのです。外の三つが外的要因であるのに対し――」 ●お待ちかねのお菓子と抹茶 「――あの。ご趣味は」 華月の言葉で本日何度目かの静寂が訪れた。 各各の前には色とりどりの花模様を象った上生菓子と、抹茶の椀が並ぶ。琴の音色でも聞こえてきそうだが、この静けさはそうした性質のものでは無かった。 「…………!!!!」 ――しまった! 私ったらお見合いでも無いのに……! 華月の対人恐怖症は、なんと女子会を見合いの席に改める事に成功した様だ。 まこと『ゆりりんぐ』な転換でもあり、其の事に気づいた華月は益益青褪めた。 「ごしゅみ?」 「……好きで嗜んだり……打ち込んだりしている物事よ……」 首を傾げる菊絵にほのかが囁く。 「ん。それなら三味線を、少しだけ」 「あっ、私も楽器――えと、よ、横笛が得意なの」 華月は心の中でほのかに何度も頭を下げ乍ら、何とか話題に食いつく。 これに対して菊絵は通常より幾分大きく眼を見開いた。 「――すごい」 「えっ! そ、そんな! 私なんかまだまだ……!」 「私なんて音も出せないんだよ? いくら吹いてもふぅー、ふぅーって」 わたわたと謙遜する華月の前で、菊絵は気の抜けた吹き真似をしてみせる。 其の様子が歳相応に可愛らしく、可笑しくもあり、華月はほっとして微笑んだ。 「あ……うん。慣れる迄は中中鳴らせないわよね。私も初めはそうだったから」 「どうすればいいの?」 「こう、上手く云えないけど――口よりもお腹で吹く様な気持ちで」 「おなか」 「でも、口は口で作法があるから……やっぱり練習するしかないわね」 「むずかしいね。でも……少しわかった気がする。ありがとう」 「ど、どういたしまして……」 菊絵が幽かに微笑み、華月もはにかみ乍ら笑顔になった。それが勢いとなり、 「あの、もし良かったら、だけれど、そ、その、わ、私と一緒に、ターミナルを歩いてみない?」 「ん?」 「わ、私もする事といえば、銀細工作りとかしかなくて……あの」 おどおどしたり妙に忙しなくも消え入りそうな聲で、初初しく散策に誘ってみた。案内も出来ればやりたい。彼女にとっては一大決心である。 「うん、いいよ。私も、することないから」 菊絵は二つ返事で了承し、「楽しみだね」と云ってくれたので、華月はほっとした。 此処迄の遣り取りで、少しは距離が縮まっただろうか。 浮き沈みの激しい華月の心は、前向きな状況下で頭の回転を幾許か早める。ガラに菊絵を任されてからずっと気になっていた、併し訊き難い事がある。 ――今なら、訊いても平気かしら……? 華月は意を決して、更に問うてみる事にした。 「あの――朱昏では、どんな風に過していたの?」 「あ、け、くら」 「あっあの! 話し難かったら、無理しなくていいから」 菊絵の視線は華月に向けられていたが、そう口にした時、何も見ていなかった。 其の様子がとても虚ろで、善く識る娘と何処か重なって視得たから。 「……私だって、云いたくない事、云えない事はあるから」 「うん、あの」 併し、菊絵は語り始めた。 「小さな頃は、ずうっと北の寒い村に住んでた。みんな優しかった。三味線教えてくれたりとか。毎日、弾いてて」 小さな聲で、内緒話を聴かせる様に。 「でもね。ときどき怖い目に遭ったり、具合が悪くなったり、痛くされたりとかも、あって。それで逃げて」 海におちたの。 「すごく苦しくて、息ができなくて、いっぱい水をのんで、怖くて」 ほのかが伏目勝ちに「そう……」と相槌を打つ。ゼロは先程迄とは異なり、時折瞬きし乍ら行儀好く黙って居る。華月は、痛ましくて眉尻を下げた。 「気がついたら、あたたかいところにいて」 「其処は儀莱と云う土地ではないかと思うのだけど……違う?」 ほのかの聲に菊絵は驚いた様に面を上げる。 「ソヤ――祝女たちは、そうよんでた。識っているの?」 「ええ……少しだけ。わたしは未だ往った事は無いのだけど……」 「こ、此の街から、何人か赴いた人が居るのよ」 「ゼロも其の内のひとりなのです」 「そっか、識ってるんだ。――私、ずっとそこに住んでた。気が遠くなるくらい、ずっと永く。痛いこと、何もなかった。その代わり北の村の事とか、自分の事とか、想い出せなくて。想い出そうとも思わなかったんだけど」 島に居る間、菊絵は満ち足りていた様だった。 「けど、今想うと、あれ、死んでたんだ。私も、ほかのみんなも、きっと――」 死に到る迄の体験。死してからの体験。 菊絵はそれを淡淡と、訥訥と、抑揚無く言葉足らずに、乾いた聲で語り続ける。 「海も島もしずかで、なんにも怖い事なんか……――あ? こ、わい?」 小さな肩が戦慄いた。ずっと注視していた華月が慌てて聲をかける。 「き、菊絵さん?」 「何か――あかい。なんだろう――あれは――お、かあ、さ……ん? ――ッ」 「大丈夫なのです?」 ゼロが何時の間にか立ち上がり傍に寄る。 菊絵は某かの恐怖を顕に眼を見開き、呼吸すら侭ならぬ程震えている。 「菊絵さんっ、確りして……! い、医務室に――」 ――どうしよう、私の所為。私があんな事訊いたりしたから……! 仮令菊絵が自ら進んで語り出した事でも、其の流れに導いた事が悔やまれた。 華月は慙愧に駆られ焦燥に胸を冷やし乍らも、只管菊絵を慮り手を伸ばす。 其の視界を、ふわりと朱鷺が舞い、朱い波と黒髪が宙を流れる。 ――ほのかさん? ほのかは菊絵の肩に、背に、たおやかに手を置く。擁き抱える様で何処か控えめに、けれど包み込む様にして、眼を瞑り、大丈夫よと優しく囁く。 華月の眼には母が娘を護る様に視得た。それは長い黒髪も琥珀色の瞳も彼の女妖を髣髴とさせ、一方でほのかが寂かで穏やかな海の如き女性でもあったからか――。 そうして気がつけば、菊絵の呼気は整い、表情も幾分安らいでいた。 華月は一先ず安堵してふと横に目を遣ると、ゼロはもう元の席でちょこんと座っていた。 ●余興 「……島で漁は行われていた……?」 「りょう……?」 何だか不思議な問い掛けを、菊絵は夢見心地で繰り返す。 「……見たこと、ない。北の村ではしてる人もいたけど、」 「食卓に干し魚や塩漬けが上がる事もなかった……?」 「北のほう、なら」 「儀莱でも海に入る事は禁忌なのかしら……だとしたら酷にも……思えるわ」 「わかんない。私、泳げないから」 「そう……」 「でも……そういえば、誰もそんなことしない。遠くに泳ごうとか、誰も」 「……そう」 ほのかは本当に子供をあやす調子で、幽かに首肯を示して先を促し、其の度に手をそっと離し、背筋を伸ばし、やや離れて、やがて膝の向きを正位置に戻した。 「わたしは……善く海の中に入るのだけど……」 そして海女が離れる其の度に、菊絵は少しずつ落ち着きを取り戻していた。 さり気なくも鮮やかな手並みだった。 「以前依頼で沖縄と云う処の海に潜って……」 「おきなわ?」 「んと、ゼロ達が壱番世界と喚ぶ世界に存在する儀莱に善く似た島の事なのです」 「似てる?」 「ええ……海も魚もとても鮮やかで、貴石の様で……珊瑚と云うものも美しかった」 「さんご?」 「わたしも詳しくは識らないのだけど……木の様な石の様な……海の中に生えた、朱い生き物……」 「それ……あるよ。あったよ、にらいにも。水の中の朱い岩から、はえてた」 「……あなたの見ていた景色は、どんなものだったの……?」 「きれいなところだった。北の荒れた怖い海とは違って、すごく青くて。ときどき朱い雨がふるけど――うん。その沖縄って云う島の話そっくりだよ」 「わたしもそんな風に……海へ行くと懐かしさを感じるか……矢張り故郷の海と比べてしまうの。決して住みよい故郷では無かった筈なのに……」 「うん。それをどう云っていいのか、わからないけど」 「そうね……。海はわたし達の命の糧で、命の刈り手……」 係る思いも、一概に語れはしないものね……。 優しくて、哀しい、漣の様な遣り取りだった。海を寄る辺とした者達にしか推し量れぬ事がある。華月にはそれしか判らなくて、少し胸が苦しくなった。 ひと段落を見て取ったか、ゼロが幾分穏やかな口調で訊ねる。 「島でも三味線を弾いていたのです?」 「んーん。持ってなかったし……北の村でのことは忘れてたから。でも、弾ける人なら。たしか鳳凰木の集落のひとが。音がちょっと違ってたけど」 「村の人は音楽好きなのです?」 「うん――たぶん」 「菊絵さんも好きなのです?」 「……うん」 「三味線をお願いしてもいいです?」 「え? いい、けど」 菊絵は唐突な申し出に、ぽかんとした顔で頷いた。 「華月さんにも笛の演奏をお願いしたいのです」 「え? あ、ええ……!? えと、えと、は、はい」 「ほのかさんは唄がお上手なのです? ゼロも一緒に唄うのですー」 「まあ……」 ゼロは華月とほのかにもてきぱきと依頼して、最終的に趣旨を伝える。 華月もまさか自分迄聲を掛けられるとは思わず、わたわたと笛を取り出した。 ほのかも特に異論は無いらしく、居住まいを正した。 びいぃんと太く多重な弦の音が一度、室内を震わせる。 続き、それに類する響きが幾つも弾けて旋律を為し、直ぐに透き通った囃子が追いついて、二つの音色は軽快に、けれど確かめ合う様に交差し、並んで、何処迄も尾を引いて流れる。 それらが俄かに沈んだ暇、朗朗とした、其の割に安らかな――何故だか眠気を誘う、世にも奇妙で摩訶不思議な唄が解き放たれて。まるで危うげな三者の足元を影から支えるが如く、豊かな聲がゆっくりと歩み寄る。 胡乱な重奏が、閑静な料亭の一画から木霊した。 後に聞く処に由れば、懇親会だか女子会だか御見合だか演奏会だか判らぬこの日の会合を大いに楽しんだと、菊絵は嬉しそうに語ったと謂う。 尚、華月とほのかの計らいに依り、ガラと槐の元には、同じ材料が使われた『姫卯』の弁当が、更に槐の元には無慈悲な請求書も同時に届けられる事となった。
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