――あとふたつですべて揃うはず。ひとつはずうっと北の果て。もうひとつは……さて、どこの世界に逃げたのやら。 ――ふふっ、そうね。もうおまえ達のそばに”居る”のではなくて? ――早くみつけてちょうだいな。あの子と同じように……。 レタルチャペカムイは五人の旅人達にそう言い遺し、姿を消した。 この報告を受けてほどなく、朱昏西北部担当司書ガラの導きの書に、そのうちのひとつに纏わる予言が齎された――。「朱昏の世界計の欠片に纏わる新たな情報が入りました」 図書館ホールで何故かリベルからそう言われて骨董品屋『白騙』を訪れた旅人達は、いつもの如く座敷に通されるなり――既に隅のほうでちょこんと正座している菊絵の姿と、縁側に向こうを向いて蚕を髣髴とさせる姿勢でくるんと寝転んでいるガラを目にしたが、それはそれとして――各々が思い思いの場所に腰を下ろすと、すぐに槐の話が始まった。「ガラさんによると、残る欠片のうちひとつは――驚くべき事なのかどうか判りませんが――ここ0世界にあるとの事です」 欠片とは、朱昏の世界計の一部にして、特に当該世界の理のひとつたる金行を司る宝珠、その破片の事である。なぜ破片なのかと言えば、そもそもはかの地で暗躍する女妖『レタルチャペカムイ』が、かつて西国から宝珠を奪い取り、儀式によって砕いたのが直接的な原因である事が、これまでの調査から明らかとなっている。もっともその意図は依然として不明なままなのだが。 その欠片が、0世界のどこにあるのか、誰かが持っているのか――ある旅人が問えば、槐は「その通りです」と幾分張り詰めた声で応える。「正確には、その人物の身に宿っています。これまでと同じようにね。――皆さんはサロメという名の女性を、ご存知でしょうか。僕も報告書でしか知らないのですが……どうも、そのサロメさんが欠片の宿主のようなのです」 サロメといえば元世界樹旅団のツーリストで、かつて壱番世界の白神山地に世界樹の苗木を植え付けようとしたところを世界図書館に止められ、消息不明となった。その後の目撃例は約一年前。ある旅人が彼女を訪ねてナラゴニアへ赴いた際に、現地の市場で顔を合わせたのが最後となる。この時サロメは旅人の隙を突いて姿を消し、以降、行方を知る者はターミナルにもナラゴニアにも居なかった。「現在、彼女は独りきりで樹海に潜伏して――いや、暮らしているとすべきでしょうか」「ただ居るだけですよーう」 ただ居るだけのガラが明後日の方角を向いたまま鬱屈した声で横槍を入れた。槐はちらりとそちらを見てから困ったように瞑目して、再び話し始める。「とはいえ、サロメさんを捜そうにも樹海は広すぎてどこに居るのか判らないというのが正直なところです。ですが、」「私も、いくから」 今度は菊絵が割り込む。「……ええ。菊絵さんが居れば、捜索範囲をある程度絞り込む事が出来ます」 槐は幾分か声を落として、頷いた。 菊絵も頷き返して、その後を引き継ぐように皆のほうを見た。「あのね。このあいだから、誰かが呼んでるみたいなの。なんて言ってるのかはわからないんだけど……。それで、『声』のするほうにいくと大きく聞こえるし、はなれたら、やっぱり……小さくなる」 欠片同士が共鳴でもしているのかと聴衆の一人が問えば、鬼面の主は「そうですね」と首肯する。「0世界で宝珠の欠片が共鳴し得るものは、やはり同じ宝珠の欠片を置いて他には無いと、僕は思います。そして菊絵さんの言う『声』のする方角は――回収した欠片を保管している当店の蔵ではなく――ターミナルよりもずっと外側からだという事です」「その辺まで行けばお空がワームうようよだからすぐ判りますよーう」 縁側の蚕女はなおもこちらを向く事無く、だらりと片腕を上げてぐるぐる回しつつ適当な補足を入れ、またばたりとぞんざいに下ろした。「……と、言う訳です。菊絵さんを連れて、サロメさんを捜しに行って来て欲しいのですが……ここで幾つか問題があります」 ガラの態度に小さく息を吐きつつも、槐は旅人達を話の核心へと誘った。「まず、サロメさんもまた、おそらくは欠片同士の共鳴を以って菊絵さんの存在に気がついています。皆さんが近付けば、彼女はその異能を行使して接触を避けようとするでしょう。聞くところによると、サロメさんは独特の結界術を修めておられるとの事。確か――『掟』と呼ばれる制限を対象領域に施して、それに従わぬ者を術中に陥れるそうですね」 例えば迷いの結界ならば、対象領域で『掟』を守らぬ限り、踏み込んだ者は必ず道に迷う。裏を返せば『掟』に従う事で、術の効果から逃れられる訳だ。「今回は、その『掟』の内容も、ガラさんの導きの書に示されたようです。しかしながら――」 ※『我、執行者サロメの名に於いて、汝ら“夜の錦”に掟を定めん』『汝らの域侵せし者、何人足りとも落ち着かなくば道に惑い、孤高を気取れば里へ向き、尋ね人を捜し求めては決して巡り合う事能わず』『但し、詩情を擁き、汝らに甲斐のひとつも覚えし折は、其の限りに非ず』 ※「――といった調子の、いささかとんちじみた、一筋縄ではいかないものとなっています。僕個人の意見を言わせてもらうなら、額面通りに受け取ってもほぼ差支えが無さそうなのは『道に惑い』『里へ向き』『尋ね人に関するくだり』でしょうか。これらは結界が及ぼす効果そのものとみる事ができる」 槐が結界の効果として列挙した節の字面通りなら『掟』に沿わぬ限り道に迷い、里――この場合はターミナルか――に足が向き、尋ね人たるサロメにも会えぬという事になる。しかし、仮に道に迷わずとも帰途に着かずとも、三つ目を破れば会えないのだろうか。これに対し、槐は次のように答えた。「おそらくはサロメさんの事を認識しなくなるのでしょうね。つまり――極論を言えば目の前に居てさえ、捜している相手がその場に居るという事実に気付く事が出来ないと言う事です」 そう言われると、確かにとんちじみているようにも思える。 解法はひとつではないのかも知れない。「それから、『詩情』は冒頭の“夜の錦”にかかっているのではないかと。……どことなく壱番世界――というより、純日本的な表現ですね。仮に見立て通りだとして、何故彼女が異世界の感覚や教養を有しているのかは、判りませんけれど」「どうせ白神の時ヒマつぶしに和歌の本でも買ったんですよーう」 縁側の蚕が予言の一部と思しきどうでも良い事を補足するが、それはさておきここで注目すべきは詩情云々のほうだ。こちらは条件を満たした者はその限りではないととる事が出来る。上手くすれば他の『掟』を無視する事も可能だろうか。 この問いには鬼面より「そう願いたいですね」と少々頼り無い返事があった。「とにかく、サロメさんを見つけ出すには『掟』を解かなくてはなりません。あるいは――以前実例のあった事ですが――対象となる『掟』自体が明確になっている以上、それを例えば解除するといった形で別の術をけしかける事が可能な方もいらっしゃるかも知れません。ですが、彼女の保護を念頭に置くなら、今回は控えたほうが無難です。何故なら――これは次の問題点にも繋がるのですが」 槐は居住まいを正す。「結界は小型のワームに対しても多少は有効なようで、結果的に彼女の安全を守ります。裏を返せば結界が失われた瞬間、サロメさんは無防備になるという事です。そして」「第二の問題として、欠片の共鳴はワームを呼び寄せる事が、予言で明らかになっています。更に、両者が近付けば近付くほどにそれが強まるであろう事は、菊絵さんの話からも容易に察しがつく」 即ち、結界を安易に無効化すればサロメを危険にさらすばかりで無く、菊絵や彼女と行動を共にする者がワームと遭遇する可能性が高まるという事でもある。 旅人の一人が「ならば空路は」と思いかけたものの、先程ガラが「お空がワームうようよ」と言っていたのを思い出し、すぐにその考えを打ち消した。 少なくとも彼女と遭遇するまで、『掟』に従うしか無いのか。「最後に第三の問題です。さきほど結界は小型のワームには有効と言いましたが――現在サロメさんの付近に、やや大きめのワームが接近中のようです。……ガラさんの予言では、」「サロメがむしゃむしゃ食べられながら喜んでましたよーう」「……その結果、ワームは欠片を得る事によって、より凶暴で強力な存在に成長する――そうなれば、欠片の回収は容易では無くなり、そればかりか、捨て置けばいずれはターミナルやナラゴニアに災いを齎す事さえ考えられます。この観点からも――サロメさんが何を考えておられるにせよ――彼女が生きて欠片を宿しているいるうちに保護すべきでしょう」「以上です。何かご質問は――」「あの」「菊絵さん。どうぞ」「ガラさん、どうしたの?」「ほっといてくださいよーう」 菊絵に投げやりな返事をして、ガラはもっと丸くなった。「……そっとしておいてあげてください」 槐がやんわりと菊絵を制し、頭を振る。「樹海に身を投じる人の心が、あまりにも重すぎたのでしょう」 ※ ※ ※ 冷め切った皮膚が収縮するような痺れが、体中を蝕んで酷く不快だった。 もう何十回も何百回も繰り返してきた事だけれど、絶対に慣れる事は無いだろう。 また、息を吹き返してしまった。息なんて、しても苦しいだけなのに。 吸って、吐いて、その度にかすれた音がして、胸の中が軋んで痛くて堪らない。 血の巡りが悪い。頭が働かない。何も、出来ない。 私は何も出来ない。自分の身ひとつ、思い通りにする事が出来ない。 だからここに来たのに。ここならあの子達が何とかしてくれると思ったのに。 残さないで欲しい。中途半端に食べられても、きっと後で目が覚めてしまうから。 でも、さっき通りかかった、大きなワーム。あの子なら綺麗に食べてくれそうだ。 本当は追いかけたいのだけど、蘇生したばかりで満足に動けなかった。「うっ――ゴホッ」 胸の中に激痛が走り充満する。 お腹とは違うところから熱いものがこみ上げて食道を責める。 喉が焼けて、鉄の味が口いっぱいに広がって、朱い液体が、堪えた私の手を汚す。 かれこれ百年もの間こうしてきた。 頭に灰色の重い何かがのしかかって、思考が滞る。 視界の上半分にちかちかした砂嵐が覆って、気がふさぐ。 叫びたくなったりもするし、何もしたくなくなりもした。ただ、辛かった。 する事が無いので、上を見た。 楓、銀杏、桜、漆、櫨、辛夷に――あれは白雲木だろうか。 他にも見た事の無い木がたくさんある。 そのどれもが様々な明度彩度の色調で赤く黄色く見事に染まっている。 けれど、私がここに来てから――来る前から? 彼らはずっと秋色のまま。 人里から離れた森の奥で、誰の目に触れる事も無いまま、美しさを留めている。 控えめに葉が落ちる事はあっても、冬枯れの様相とはならない。 下り坂で引き止められた偽りの生は、散る事さえ永遠に許されないのか。 私にそっくりだ。「……あら。また」 身体の芯から、声が聞こえる。 ここのところ毎日届く、不思議な声。 原因は明らかだ。あの朱昏と呼ばれる世界で私に刺さった、妙な破片のせい。 ただでさえ死なないこの身を、より保って留めようとする、忌々しい欠片。 同じものがこの世界に紛れ込んだのか。それを宿す誰かがいるのか。 でも、今日はいつもと少し違った。声がいつもより、強くて大きかった。 もしや――、「――私を…………捜していらっしゃるの、かしら」 それは少しずつ、本当に少しずつ、こちらに近付いているように思う。 何の為に? 私に用があるのか。 それとも、欠片を採りに来たのか。だとしたら助かるのだけれど。 手放せたなら、今よりか少しは。「……でも」 ただ渡すのもなんだかつまらない。 それに、あのワームがまた来てくれるなら、その誰かを待つ必要は無さそうだ。 別に構わない。終わらせてくれるのなら、どちらでも。 身体に少しだけ、熱が戻ってきているのがわかった。 まだ身を起こす事は出来ないけれど、腕くらいは動きそうだ。「ふふ…………」 私はすぐそばにある楓の根に触れて、呼吸を整えた。 我、執行者サロメの名に於いて、汝ら“夜の錦”に掟を定めん。 汝らの域侵せし者、何人足りとも落ち着かなくば道に惑い、孤高を気取れば里へ向き、尋ね人を捜し求めては決して巡り合う事能わず。「ただ、し…………――ゴホッゴホッ」 但し、詩情を擁き、汝らに甲斐のひとつも覚えし折は、其の限りに非ず。 私が施した『掟』が紅葉に染まる一帯に滲み渡る。結界の術式は成功した。 さて……。私の元に辿り着くのは…………どちらが先なのでしょうね――。
「ぐあい、悪いの?」 「え?」 たどたどしい問いに絵奈は振り向く。 先ほどから菊絵は旅人達の間を行ったり来たりしながら落ち着き無く質問を繰り返していた。把握していたにも関わらず驚いてしまった自分が頼りない。 「『具合が悪い時は医務室で診て頂いた方が善いのです』――って」 誰かの口真似だろうか、どこかで聞いた調子の台詞を添えて、小首を傾げる。少し子猫に似ていると思った。 「あ……大丈夫です」 絵奈が努めて笑顔を作ると菊絵は「そう」と目をぱちぱちさせて、今度は何やら小難しげな本と睨み合っている健の傍に駆け寄った。 「なに読んでるの?」 「んー? んー……駄目だ判らん!」 降参の悲鳴に、皆が顔を向ける。 「『掟』の事?」 華月が訊ねると健は悩ましげに眉根を寄せた。 「『孤高』が駄目なら単独行が駄目、『尋ね人を探しては決して巡り合うこと能わず』は、サロメ個人を探すな紅葉の場所を探せって意味かと思ったんだよ。そこに居るからって」 だが、広義の紅葉ならばこの一帯を示すし、紅葉を楓と限定した場合でも既に数本通り過ぎている。その事実が健の混乱を助長させた。 「あと、『落ち着かなくば道迷い』が、どの程度休憩入れつつゆったり探せなのかが分からん……というかここが一番分からん。焦るな走るなってことかなぁ。ある程度皆で意見交換しろって意味の気もする」 「そうね。急ぎたいのは山々だけれど、意見を交わすのは賛成だわ」 華月は健に頷き、ほのかのほうを向いた。ほのかは絵奈を少し見て、合図するように目を伏せる。その仕草に背中を押された気がして、絵奈は顔を上げた。 「その――自信は無いですけど」 「何だ? 言ってみてくれ!」 縋りつかんばかりの健に少々気圧されつつも絵奈は自身の考えを述べた。 「『落ち着かなくば』というのは『地に足をつけなければ』という事だと思います」 地に足をつけるとは落ち着く事の喩え。故に空を飛んだり樹に登ってはならない。 「『孤高』の解釈は健さんと同じ意見で、」 単独行動をすれば帰途についてしまう。 「それから『尋ね人』はやっぱりサロメさんの事で……多分捜そうと『思う』だけでも」 サロメの存在には気付けない。たとえ、目の前に居たとしても。故に絵奈は無理矢理彼女への想いを胸の奥に押し込めようとしていた。これらの解釈で合っているのなら、あとは菊絵について行きさえすればサロメと会える筈。ただし、保護すべき対象の事を完全に意識せずにいられれば、だが。その難しさに健は深刻な顔で頭を抱える。 「マジかよ! じゃあ最後のくだりに賭けるしか無いかなぁ」 健が溜息混じりに再度書物へ視線を落とす。 「『詩情』の事ね?」 華月は困惑から浮上した。確か槐が『夜の錦』にかかると言っていた箇所だ。 「ああ。そもそも今回の『掟』の根っこにあるのは、多分『見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり』って歌だと思うんだ」 「私も調べたわ。その歌の『夜の錦』とは美しい錦の衣服を夜に着ても見てくれる人も無く、暗くて見栄えもしない事から効果の無い……無駄な事の喩えね」 「そうそう。んで、俺達は『そんな事無い』と詠わなきゃならないんじゃないか? 俺は『をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびのみゆき待たなむ』――『会いたい人が居るから不可能かも知れないけど待ってて欲しいなぁ』、辺りかと思ったけど……みんなはどう思う?」 絵奈が「あの」と控えめな声を掛けた。 「ここでの『夜の錦』は樹海の中にある紅葉の事だと……思うんです」 つまりサロメが『掟』を施したこの一帯こそを示す。 「そうか! 人目につかない場所にある紅葉……歌とも一致するな」 得心とばかり一転して目を輝かせる健に、絵奈は頷く。 「ですね。だから、紅葉の魅力に浸る事で、この『夜の錦』が存在する『甲斐』を生み出す事が出来るんじゃないかって」 「ねえ」 「では、しっかりと観賞しながら歩けばサロメに会えるのかしら?」 「ねえねえ」 「難しく考えすぎたかぁ」 「ねえってば」 絵奈の意見に一同が納得する中、今まで一切相談に加わっていなかった菊絵がしきりに皆を呼び、終いに華月の袖をくいっと引っ張った。 「華月さんっ、ねえって」 「え……あ。どうしたの? 菊絵」 「みち、あってるよ」 「ええっ?」 思わぬ言葉に、華月も健も絵奈も立ち止まる。 「声が、大きくなってるの。ずっと、近づいてる」 菊絵の視線の先を楚々と往くのは、夜の錦のくれないに在って尚、朱い着物。けれど儚く幽けし女は、四角く張った風呂敷包みを後生大事に抱えている。黄金色に染まりかけた緑の葉が、その背を掠めた。 「ほのか、さん……?」 「……。…………あら。ごめんなさい」 幾分戸惑い気味に華月が名を呼べば、ほのかは未だ色づかず若いまま留まる仲間達の足が止まっている事に、やっと気付いて振り返る。 「少し……浮かれているのかもしれないわ」 白い手で頬に掛かる黒髪をそっと寄せて、ほのかは不思議な事を言った。浮かれていると言えば菊絵もどこか落ち着きが無かったけれど。 「あの、」 「故郷では生身の人と連れ立って紅葉を愛でる事など無かったから……」 彼女は少し寂しそうに微笑んで、柔らかな日差しの透ける色とりどりの枝葉を見上げた。風も、落葉も、健も、華月も、菊絵もつられて。 「……」 絵奈は、年嵩の女性の優しさにも似た景色に見惚れていた。そして、故郷には無かった四季――その一角たる秋独特の暖かい色彩に生まれて初めて包まれた事に気が付いた、ほんの一瞬だけ。サロメの事を忘れていた。 「綺麗――」 ただひたすらに。 「葉が色づくのは、木の冬支度で……」 また、ほのかが前を往く。菊絵がじゃれるようにその周囲をくるくると回り、その度に落ち葉が重い腰を上げて直ぐに沈む。はらはらと枝を逃れた者達が寄り道の果てに彼らを覆い。覆われた上を華月が躊躇いがちに踏む。子守唄の如き調子で若者達に語り聞かせるほのかに遠慮するように。 「虫を呼ぶ花の様に、何かを魅了しようとしての事ではなくて……」 時折菊絵が方向転換をする。決して歩みが遅いわけでは無いのに何故かゆったりと感じられる足は、さり気なくそれに沿う。さらさらとそよそよと囁き合う紅葉の木々の狭間を、何か捜す素振りも見せず、一種鷹揚ですらある姿勢でどこまでも、想いをつづり。神前へと臨む花嫁の如くに。 「それを美しいもの足らしめるには、そこに……人の心がなくてはならない」 ほのかは一歩一歩丁寧に存在理由を見出す。己の。旅人達の。 「人知れず失われるものを惜しみ……人目に触れぬを無為とするのは、それに価値があると感ずる人ならではよね……」 紅葉の――どこかに横たわる女の。 からりとくすんだ葉が包みの緒に落ちて。つと、立ち止まる。荷を片手で抱え直し、空いた手で葉を摘み、見遣る。 「――わたしに教養があれば、歌の一つも詠むのだけれど……生憎」 「ほのかさん、それなあに?」 菊絵が包みの中を訊ねれば、「お弁当……」と囁き、後ろの仲間達を向いた。健が何故か「んっ」と背負い荷物に触れる。 「せめて秋の食材を集めてみたの……。先の料亭の様にはいかないけれど……皆さんに召し上がって貰えたら……嬉しい」 それは詩情――気の利いた言葉のひとつも掛けてやれないのならと、ほのかなりに考えた末の紅葉の甲斐。愛でる心のあらわれ。ここに来てから、あるいはターミナルを発つ前からずっと、彼女は楽しんでいたのだろう。 ゆえ、図らずもほのかの後を追う格好となった一行は、道に迷わなかった。 美しく名残惜しい筈の錦は、こと0世界の樹海においてはとこしえに姿を留める。それが佳い事なのかどうかは判らないけれど、少なくとも夜は明けたのだ。ここに愛でる者達がいる今は。こころなしか森が喜色を帯びて見える。 「サロメさんにも……」 ほのかが白い面に僅か影を落とす。引かれた紅が憂いを帯びて象った名に絵奈ははっとする。 「食べられるよりも食べる事に喜びがあると……思って戴けたら」 言い終える前に、ほのかは前へ向き直ってまた歩き始めた。少しだけ足早に。想いの総てを曝け出してしまうのを、惜しむように。 「俺は手の届くところで人が死ぬのは嫌だ。俺達を呼んでくれた――のかどうか判らないけどとにかくサロメに、難しかったけど頭使って楽しかったって直接言いたい。もう少し待って俺達と一緒に生きてくれって言いたい」 健が紅葉――というよりはそのものサロメ――に見出した甲斐を言葉へ換えて、朱色の背中に大股で続く。菊絵も一緒だった。 「絵奈」 華月が絵奈の肩に優しく手を置いた。仲間への気遣いに満ちた穏やかな眼差し。先ほど『掟』に振り回された際の戸惑いは微塵も無い。最前の健もそうだが、いっそ頼もしくさえある。ほのかも、菊絵も居る。 「……はい!」 自分にもきっと、出来る事がある。なけなしの想いが湧いた。 紅の葉が無為なる舞を披露する。彼あるいは彼女を取り巻くのは黄に茶に着飾る枯れ姿。中にはまだらな物も居て、色づく前に落ちる悲運をこれ見よがしにまくし立て、けれど誰にも見取られず、ある筈の無い風を呪い、乾いた骸の群れに紛れて結局寂かに朽ちてゆく。紅葉はせせら笑いもせず、労わる素振りも見せず、戦ぎ弄ばれてさえ我が身を憂う事も無く、時が来るまで為すがまま。 あれからどのくらい歩いたのだろう。菊絵が都度しるべを変えて―ー曰くどんどん声が大きくなるのだとか――皆急いでもいる。絵奈に聞いたところ『掟』が解ければそれと気付くとの事だから、これまで何も感じていないのなら、未だ術者たるサロメは無事である可能性が高い。 このまま何事も無ければ――と想っていた矢先。 「……っ」 菊絵が胸を押さえてうずくまった。ほのかが荷を降ろして背中に手を添える。友人のただならぬ様子に、華月は焦燥を覚え駆け寄った。 「菊絵、」 「なにもいらない――って」 サロメがそう言っているのか。そして菊絵がその影響を強く受けたのか。 「でも……呼んでる」 「……近くに?」 「たぶん」 「なら……一寸、見てくるわ。ワームが居ると困るから……」 菊絵の言葉を受け、ほのかが眠たげに眼を閉ざす。 「ほのかさんっ」 華月が慌てて支えてやると、 「わたしの事は構わないから、皆さんは…………サロメさん、を――」 そう言い残して、ほのかは青褪めた首をかくんと垂らし、全身が弛緩して死体のように動かなくなった。幽体が抜け出しただけとは言え、名状し難い重みが華月の身に圧し掛かる。 「よし、俺達も手分けして……って、おい、あれ!」 健が指差すほうに紅葉とも黄葉とも異なる異質な隆起が見て取れる。その傍には青い鳥らしきものがぱたぱたと羽ばたいていた。健のオウルセクタンのようだ。華月も目を凝らすと、どうやら白と濃紺と黒が集う姿である事が窺えた――が、それを確かめた直後、 「サロメさん!」 桃色の髪が視界の真ん中に躍り出て、矢も盾も構わず駆けて行った。 「絵奈……!?」 菊絵さんとほのかさんをお願いします――声が遠ざかる。サロメの安否を気遣う気持ちは判るが、さっきまでの気落ちした様子からは想像し難い活力に、華月は面食らった。 「大丈夫だ。ワームは見当らない」 ミネルヴァの眼を通じて健が先んじた絵奈の安全を保障する。今のところは、だが。 「私達も」 「ああ」 健はほのかと弁当包みを引き受け、華月は菊絵を助け起こして、後を追った。 ※ ※ ※ もう近くに来ている……五人も居る。 覚えのある気配はふたつ。 あの儀式に使われていた少女と――……! そう。そういう事。 必死な顔。髪と手足と胸とを揺らせて駆け寄る娘。 知っている。私を見つけた時の貴女はいつもそうだった。 「サロメさん!」 市場で私を呼んだ声だ。私をこの世に縛りつける声だ。なんて――、 「――良かった」 彼女は私の傍で膝を突くなり安堵の溜息を漏らした。 「あなたの事ずっと心配だったんです。そんな体で樹海に入るなんて、どうしてそんな無茶を……!」 彼女が私を見つける利点が私には判らない。また、彼女の疑問に私が答えたところで、やはり彼女には理解し兼ねるだろう。 「ごめんなさい、探しに行けなくてごめんなさい……!」 挙句筋合いの無い事を沈痛な面持ちで謝られても、私は。私には、何も。 なぜ、それほど。 「……また、貴女ですのね」 私は大嫌いな私を取り戻す為に声を振り絞る。出来るだけ突き放す。 「……私を……――殺しにいらしたの?」 「え――?」 想った通りの表情になった。不安と驚きで一杯に見開かれた双眸。己の甲斐さえ見失った、剥き身の脆い心。それでいい。私に日向など不要だ。 総て私にぶつけて、壊してしまいなさい――。 ※ ※ ※ ――拙い……わね。 ほのかは己の肉体の元へ急いでいた。仲間達に火急を知らせなくてはならなかった。 彼女は大型ワームと思しき固体を発見し、憑依を試みた。そこまでは良かったのだが、ワームはほのかが意のままに操って遠ざける事はおろか思念を重ねる事さえ叶わなかった。無闇に委ねるとほのかの意識までが喰われ兼ねなかった。 後ろから――呼気というものがあればの話だが――息遣いが追い駆けてくる。嵐で薙ぎ倒された楓の古木と見紛うばかりの巨躯が、頭部から尾に至るまで様々な秋色の枝葉を生やし、八本もある足で蜥蜴のように、ずし、ずし、歩いている。向うべき場所は同じのようだ。 ――急がなくては。 「来るぞ!」 健も哨戒に出していたオウルセクタン『ポッポ』の眼を通じて異変を察知していた。 「菊絵!」 「うん!」 華月と菊絵は頷き合う。槍の頭がとんと地を突けばサロメの周囲に五芒が巡り、弦が数回弾ければ五芒の光が更に強まり、見目にもあらたかな朱色の障壁が楓の葉の如く辺りを染めて。一度金属質の音が甲高く鳴った。 「絵奈はサロメを!」 健はそう言うなり手榴弾とトンファーをそれぞれの手に構え、ワームの迎撃に向かう。絵奈は俄かに己を取り戻した。 「はっ、はい!」 「菊絵、貴女も――」 華月が指示を出そうとした刹那、健の悲鳴が聞こえた。弾き飛ばされたのだろう。木々は薙ぎ倒され、ワームは巨躯に不釣合いな速度で迫る。華月は槍を振り上げると同時に穂先へ五芒を為し、結界を纏う一撃を叩き込む。頭部の植樹から顔面の一部がごそっと抉れ――しかし勢いを殺ぐには至らず華月は已む無く横へ避けた。 眼前の目標が消えたと見たか、それはばりばりと樹木を引き裂くような音を立てて大顎を開き――菊絵と絵奈とサロメとをいっぺんに飲み込もうとする。 「っ!」 絵奈はサロメを庇うように抱き締める。 「ごふッ」 呼気を乱したのかサロメが胸元で咳き込み赤い上着の水玉をも深紅に染め、それでも絵奈は彼女を放さなかった。顎門が狭まり結界が硝子片の様に砕け散る。だがある程度緩衝しているのか上顎が降りる速度が落ちる。三人の前にほのかが躍り出て自らワームの口内へと飛び込む。そして噛み付かれ――しかし惨劇は起きず――呻きとも地鳴りともつかぬ音を迸らせてワームは激しく身を捩った。その勢いで放り出されたほのかを華月が受け留める。 「カタシロは効く様ね……でも」 なおも暴れるワームの尻尾が手近な楓を叩き折る。倒れる先にいるのは――絵奈達だ! 華月は走ろうとするもワームに阻まれ間に合いそうに無い。 「早くこっちに!」 そこにいつしか回り込んでいた健が彼女達の元へ現れ、サロメを助け起こす。四人は間一髪倒木から逃れたが、サロメは直ぐに咳き込んで崩れ落ち、振り出しに戻った。 その時――菊絵がふらふらとワームの前に出でて。目を金色に輝かせた。 「うそ……!」 真っ先にそれを察知したのは華月。何故なら、菊絵から、あの女妖――レタルチャペカムイと全く同じ重圧と焦燥と悪寒を感じたからだ。 それはワームも同様だったらしい。異形の怪物は恐れ戦いたように後ずさり、手を出しあぐねている。一方で突如発せられた邪な気は直ぐに消沈し、 「あ……れ?」 その主――菊絵はがくんと肩を震わせて周囲をきょろきょろと見回していた。 「……なんだっていい! チャンスだ!」 健がワームに突撃する。 「菊絵は下がってて!」 華月は槍を支えに跳び、ワームの背中に着地する。 「援護します!」 ほのかに手を引かれサロメの元へ引き返す菊絵と入れ違いに絵奈が進み出て、果敢に敵へ挑む仲間達に身体能力を高める『陣』を施す。華月の一撃がワームの背中を大きく削り、仰け反って大口を開けたところに健が手榴弾を投げ入れた。 前方からくぐもった轟音、視界の隅のほうからは、どさりと落ち葉に何かが落ちる音。朱い着物の端が見えた。ほのかが転んだ……突き飛ばされた? そして背後では――、 「うぁッ――」 耳障りな呻きと、再びあの悪寒。絵奈が振り向くと、そこでは、 菊絵がサロメの腹に手を突き刺していた。 「そんな」 「こ、れで…………やっ、と――」 サロメがしこたま血を吐く。菊絵は握り手を引き抜いて、血肉に塗れた朱く光る何かにむしゃぶりついているようだった。どんな形相をしているのだろう。 「そんな」 絵奈は動けなかった。圧倒的な恐怖がサロメを案じる心をも呪縛した。足が竦んでいる。息が苦しい。背中に冷たいものがじわじわと浮かぶ。 「……? これ。なに? なあに!?」 菊絵が肩を戦慄かせる。じりじりと後ずさり、自ら真っ赤に汚した顔を、絵奈に向ける。今にも泣きそうな顔。瞳はいつもの黒色。 「いやああああ!」 彼女はふつりと気を失い、倒れかけたところをほのかに抱き止められた。 「菊絵!」 体内に起きた爆発で三度痙攣するワームにとどめを刺そうと槍を構えた華月もまた、すぐ傍で起きた惨劇と菊絵から再び生じた女妖の気配に一瞬身を強張らせた。 「離れろ!」 「! しまっ――」 健の警告の直後――ワームがぐんっと上体を起こして枝とも根ともつかぬ後ろ足でのみ立ち上がった。華月は咄嗟に背に生えた桜樹に掴まり落下を逃れる。だがワームはその巨体を左右に振り回して旋風を巻き起こす。 「くっ」 華月は握り振り落とされぬよう枝を懸命に握り締める。『陣』に膂力を底上げされていなければそれすら叶わなかったろう。だが舞うというより掻き回されて吹き上がる紅葉の螺旋とワームが動く度折られ巻き込まれる枝や木々の渦中では身動きが取れなかった。目が回る。拙い。何か打開策は――そうだ、健は? 「喰らえ!」 気合の声。下のほうで樹木を叩く破砕音。見ればトンファーで何度も何度もワームの足を殴打している仲間の姿。その都度樹皮にも似た外皮が弾け跳び、化け物の動きに揺らぎが生じる。併し敵も持ち上げた上体から空いている脚を健目掛け振り下ろす。 「健! 上!」 「ちぃっ!」 健はトンファーを交差させて受け留める。だが肩膝を突き、手負いで尚強靭なワームの怪力を証明する。じりじり圧される健。膝が、堪える足首が、腕が、落ち葉に埋れていく。一方それはワームの揺動が静止した事を意味する。 ――今なら! 華月は勢いをつけて枝を支点に上へ跳ぶ、頭部に近い横向きの楓の幹に立つ。目先には先刻結界の一撃で抉れ黒褐色の奇怪な液体が迸る穴。敵は健の榴弾で体内にも相当な痛手を受けている筈。華月はすうと息を整える。漆黒の穂先に五芒の光が宿る。総ての力を注ぎ込んだ槍を諸手に構える。 「もう持たねぇ!」 健が危うい、それでも――華月は全身全霊の一撃を深淵に打ち込んだ。刃は刺さるどころかぞぶっと大穴に更なる大穴を空ける。体液が跳ねて――構わず力を振り絞って奥へ底へと結界を叩き込む。 ふと、感触が失せた。どこかに通じたか。 ワームはびくびくと不快な身震いを幾度も幾度も重ねて。 腹と背中からぱぁんと黒い液体を迸らせて、永久に動くのを止めた。 絵奈は菊絵の悲鳴で恐怖の呪縛から逃れ、やっとサロメの元へ駆け寄り、座り込んだ。何がどうなっているのかわけがわからなかった。ただ、サロメを助けたくて。無惨に抉れた腹部を、しばしば血が吹き出る口元を、交互に見た。 「み、る……人、も――ごほっごほっ」 「喋らないで下さい! 今止血を、」 だが、サロメは絵奈の手首を掴んでそれを制した。 「『見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり』――それが……私」 何だそれは。自分を無駄な存在だと言いたいのか。 「なんでそんな事言うんですかっ!」 「何故……? 何故貴女から、逃げたと……樹海に来たのだと、お思い……?」 今は判っている。決まっている。だから追ってきたのに。救いたいのに。 「あなたを苦しみから解放する方法はないの? 世界計の欠片をもってしても、あなたを苦しめていただけなの……?」 「わ、たくしを……解放……? なら――」 「――殺しなさい」 「そんなっ!」 「どうか……その輝かしい破壊の力で……私を粉々に、して下さい」 「出来ません!」 「何、故? 死こそ解放であり…………救い、ですのに」 「そんなの、」 「間違っていると仰りたいの? ……ふふ。こわいの、ね? ご自分が……」 弱々しい笑みは、直ぐに失せた。ひゅうと息を吸い、絵奈を睨む。 「私は――貴女が妬ましい。憎たらしくて堪らない……健やかで眩しい活力に満ち溢れた光。殺してやりたい命。それが、貴女。でも、私にそんな力は無いから……余計に苦しいのです……なの、にっ――」 またしこたま血を吐いてから、絵奈の手を握る力が強まる。声を荒げ、嘆き、呪う。願う。 「なのに何故いつも私の前に現れるのですか? 何故来てしまったの? 貴女を見ていると心がかき乱される、話していると自分が解らなくなる、救うと言うのなら今直ぐ殺せっ、この無為な生を……踏み拉きなさい! さあっ!」 「無駄なんかじゃ……っ」 サロメが絵奈の手をぐいっと腹の傷に押し当てる。生温かい脈動が掌に伝わる。深手を負っていてさえ彼女の命は緩やかに生へ向かう。病身を再現し……苦しめる。 ――どうしたらいいの? 言う通りにしてやるしか無いのかと思い始めている自分がいる。その事が悲しくて、喉に込み上げるものがあった。目頭が熱い。幾つもの街を破壊する事は出来るくせに人ひとり救えないのか! 「――絵奈さん」 いつの間にか傍に腰を下ろしていたほのかが、絵奈の肩に手を乗せた。振り向いたら泣いてしまうかも知れない。だから絵奈はサロメだけを見続けた。 「彼女の命は……彼女が自由にするのが筋よね」 「だけど、こんなの、」 酷すぎる。 「そうね……人の最も痛ましい孤独は、誰にも知られず独りで逝く事。でも、彼女はずっとそれを願っていて……だからここに来た」 病身で繋ぎ止められ、自害さえままならぬ忌まわしい生に絶望して。己に甲斐を見出せぬ者に他者との接点など虚しいだけ、苦しみが増すだけだから。 「けれど、たった今……いいえ。本当はずっと前から……絵奈さんと知り合ってから。迷いが生まれてしまった……」 「ま、よい?」 ほのかの言った事が今の絵奈には良く判らなかった。ただ、少しだけ救われた気がした。サロメは――サロメはとても辛そうに瞼を閉じている。だがその面は今まで見た中で一番生気の窺える顔でもあった。 「……サロメさん」 ほのかはあくまで優しく、けれど諭すように名指す。 「貴女が如何な先を選ばれても、見留めたいと願うのは……――わたし達の勝手かしら」 一方でそれは絵奈に、自身に、今日ここに駆けつけた皆に向けられているようでもある。サロメは口を開きかけたが、微かな喘ぎと共にひゅうっと肺を鳴らしただけだった。でも、きっと、それは――、 「……っ!」 絵奈は自分の手首を握るサロメの手を、更にその上から握った。救いたいと、くどいぐらいに何度も繰り返した意志を、ひたすら強く想った。 「な、にを……」 サロメが戸惑ったのは、急に空気が暖かく感じられたから。それは絵奈の身体から溢れて放出された魔力によるもののようだ。自覚があるのか無いのか、絵奈はただサロメの手を握り、瞼をぎゅっと閉じて祈りの姿勢で前屈みに俯いた。身体全体が優しい熱を帯び、過剰に熱かった腹部が特に輝いているようだ。光が益す度、痛みが和らぎ、胸の痞えが薄れていく。 「何故」 何故死なせて下さいませんの。 何故生きなくては、私は……何故貴女は。 頬にぽつりと何かが当たる。木の葉から零れたそれは、けれど血のように温かい。また落ちた。澄んだ小粒だった。自分を見下ろす娘の、なみだ。 ――何故貴女は泣いているの? サロメが絵奈の頬に触れ、すっと涙を横に拭った。 「そんな顔……似合いませんわ」 己を慈しむ者に、慈しみに満ちた目を返して、微笑んだ。 ※ ※ ※ 「貴女は朱昏のどこで欠片を手に入れたの……?」 華月は向かいに座す夜着姿の女に訊ねた。彼女の隣には絵奈が、華月の左右には健とほのかが重箱を囲んでいる。菊絵はほのかの膝枕で静かな寝息をたてていた。既に血糊は綺麗に拭き取られた顔は青白い。 あれから一同は見晴らしの良い場所に移動し、少し遅い昼食に興じている。未だ『掟』を解除したわけでは無いので小型のワームが寄って来る可能性は低いものの、念の為華月も結界を張る事にした。取り敢えずは安全だろう。 「……そう、ですわね。壱番世界で喩えるなら――三沢の辺りと言えば……お分かりかしら。尤も、彼の地では表裏逆ですから……西側になります」 薩摩芋の柚子蜜煮を箸で摘んだまま、サロメは小首を傾げた。 壱番世界と耳にし、綺麗に出汁で染まった舞茸と鮭と銀杏の炊き込みご飯お握りをがつがつと食っていた健が一瞬動きを止めるが、すぐに根菜類の煮しめに手を伸ばす。絵奈も最初は躊躇していたが空腹には勝てなかったらしく、じゃこと若布のお握りを手に取った。何しろほのかの弁当は実に美味そうだった。 楓の葉がふわりと一同の前を横切る。健が喉を詰まらせてほのかが竹の水筒をそっと差し出す。はらりはらり、銀杏が揺れて、扇形の葉がサロメの膝に乗り、先を促す。 「何年前の事か……もう覚えてはおりませんけれど――」 名も知らぬ場末の寒い漁村。かつてサロメは世界樹旅団の一員として、そこを侵略しようとした。付近で何らかの力の奔流が予め検知されていたが故の選定だった。だが、村人の姿は見当らず、人気を探し回っている内に林の中に迷い込んでしまった。そしてその奥にある神社で、得体の知れぬ儀式を目撃した。 その内容は、先日朱昏へ赴いた旅人達の報告にあった過去の幻視と一致する。 「狂ったような悲鳴がした時、何かが飛んで来て…………お腹に」 衝撃に負けてサロメは卒倒した。鋭い痛みを感じる腹部には、あの欠片が食い込んでいた。引き抜こうとすると、より深く体内へ沈んでいった。 「そこに……あのひとが現れたのです……」 その女が何者かは直ぐに解った。何故なら欠片から彼女と同じ気配と意志と記憶の一部が流れ込んで来たからだ。 「身体が内側から焼かれるかと思えるほど…………苛烈な想い、で……」 当時から既にサロメは死を望んでいた。欠片から全身に染み渡る負の感情はそれを助長させ、相反するように生命力と万能感で満たされもした。肺の痛みは、残したまま。 「私は…………怖ろしかった。この身に施された不死の『掟』が……より強まる事よりも…………彼女が怖くて」 逃げ出そうとした。しかし女は恐るべき力でサロメの手を掴み、引き千切った。その指にはワームを封じた指輪が嵌められていたという。女は何がそんなに嬉しいのか、笑い声を上げながら小鳥を仕留めた猫みたいにじゃれて、手をむさぼり始めた。 サロメは気を失い――目を覚ますと、神社の境内は死体で埋め尽くされていた。千切れた筈の手はすっかり元通りになっていて、腹の傷も消えていた。 サロメは逃げ帰り、体内の欠片が他者に気取られぬよう、少しでも力が弱まるよう、『掟』を張り巡らせて、以来絶望を抱えながら時を過ごしてきた。 「……」 華月は聞きながら袱紗焼きを口に入れてしまった事を後悔した。丁寧に焼けた卵も、咀嚼して漂う蟹と筍と椎茸の風味も、血生臭い話に染まったような気がしたからだ。なんだかほのかに申し訳なく思い、口を手で押さえた。 眠り続ける菊絵を見遣る。あの不穏な気配はもう消えたけれど。 目覚めた時、彼女は未だ華月の友達のままなのだろうか。 紅になりかけた胡乱な葉がひとひら、少女の真っ白い頬に、舞い降りた。
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