二対の翼を持つ、巨大な猛禽。 羽根先を鮮やかな五行の色に煌めかせ、朱霧の残滓を火の粉のように散らせながら、悠然と、朱の籠る空を駆けて行く。 其れに随って空を往くは、無数の魑魅魍魎の軍勢。朱に呑み込まれた人々の成れの果て。向かう先は、朱の霧に覆われた、赤煉瓦の都。 其れはまるで、神代の行軍にも似ていた。 ◆「来たね」 別たれた豊葦原での依頼を請け、集まったロストナンバーを見渡して、虎猫は伏せていた頭を上げた。「朱昏の東国で暗躍している、物部親子の場所が判ったよ」 先日大河の中州を訪れ、朱昏の世界計の許で龍王と対峙した旅人たちが聞き出した事には、彼らは東国の宝珠――世界計の一部を持ち、今も東国の或る場所に潜伏しているらしい。「今、真都の東雲宮に向かって、大妖率いる妖魔の群れが進軍している」 そちらについては湯木が担当してくれているはずだから、おれの方では詳しくは語らないけれど――と少し離れた場所で朱氷の塔を崩しながら説明をする青年を見遣り、灯緒はわずか呆れたように息を零した。そして、自らの導きの書へと視線を戻す。「妖魔の群れの出所は、真都の南西にある河内(カナイ)の森だ」 其処は以前、ロストナンバーたちが探索に向かった地でもある。神代の昔龍王に対して叛乱を起こし、南の海に封ぜられた天神に纏わる一族が暮らす、朱霧の充ちた魔の森。並の人間が脚を踏み入れれば、決して出る事は叶わぬと言われた場所だ。 森に留まる妖魔の大半は、興味本位、或いは何かしらの執念の為に森を訪れた人間の成れの果てなのだと言う。「森に巣食っていた軍勢が一斉に都へと向かったからか、今、あの地を鎖していた霧はとても薄くなっている」 かつては妖に属するロストナンバーたちに探索を頼むほかなかったが、今ならそうでなくても大丈夫だろう、と虎猫は相変わらずの恍けた貌でそう請け合った。「それに、妖魔の親玉の傍に、物部大佐――息子の姿が無かった事も気にかかるんだ。彼は0世界の世界計の欠片を取り込み、朱昏の世界計の一部も所持していると思われるから、野放しにしておく事は出来ない」 だから、検めるなら今しかない、と。 護りの手が薄くなっている隙に再び魔の森に足を踏み入れ、彼の天神の末裔を探し出し討伐、二種類の世界計を回収する。 それが今回の依頼だ、と虎猫は改めて、簡潔にそう語る。「危険な依頼になるかもしれないけれど、君たちならば大丈夫だと思ってる」 そして、静かな信頼を孕んだ黄金の瞳で、集まった四人を見詰めた。 ◆ 凝るような霧の中、影が一つ揺らめいた。 男は静かに予兆を孕んだ曇天の下を往く。 ひと気のない森は静謐に充ちて、軍靴が砂利を踏む跫さえも霧の中に響き渡るようだ。 臙脂の軍装が躍る度、胸元に飾られた幾つもの勲章がゆすれて鈍い光を放った。今や何の意味も持たぬ過去の栄光。それでも尚棄てられぬのは、此処へ至るまでの、泥を食むような苦労を思い起こさせるためだろう。「――いえ、首尾は上々です」 霧中でもその輪郭が見て取れるほど煌々と照る朱と青の光へ向け、独り言めかせて報せる。朱に染まった硝子玉のような瞳が、茫洋と天を仰ぐ。「こちらはもう少しで準備が整います。母上こそ、御油断なさらぬよう」 虚空へ向けて掌を掲げる。 中空に留まっていた朱と青の宝珠が、ゆるやかな螺旋を描きながらその手の上に降り立った。 男が触れれば、陰陽の珠は容易く内包する力を所有者へと委ねる。くつりと、抑えきれない笑みが零れ落ちた。 偽王の遺物を足掛かりに、新たな歴史を切り開く。 ――その瞬間が、間もなく訪れようとしていた。=====!注意!このシナリオは、同時公開のシナリオ『【霧深き黎明の都】修羅能・飛縁魔』と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる両シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。=====
湿った大気が肌を包む不快感。 僅かに霧の残る冴えた森の入口で、四人の旅人たちは佇んでいた。 黒い翼を携えた和装の青年の許に、小柄な鳥の群れが集う。 「無理せんようにな」 人に対する際よりも更に柔らかな聲で、森山天童は鳥たちに警戒を促した。忙しない羽撃きが首肯のように響き渡り、天狗もまたうっすらと笑みを浮かべる。 「危ない思うたら、すぐに逃げるんやで」 重みをもって広がる黒い翼は、まるで無数の鴉を従える群れの頭領のようだ。柔和な人の貌に隙のない笑みを乗せたまま、黒天狗は鳥にも人にも理解できる言葉を続ける。 「何かあったら、わいか玖郎はんに知らせてや」 翼の音が大きくなる。天童の指先に留まる一匹が、高々と啼いた。 自らとよく似ていながら全く違う、異界の物怪と鳥たちの会話を聴きながら、玖郎はただ静かに森の奥を見据えていた。 「……鳥船へ往くには、ぬしらの方が詳しいかの」 地上に立つ狐耳の麗人――逸儀=ノ・ハイネの言葉に彼と、彼の隣の青年を見下ろして、玖郎は小首を傾げる。道案内を所望されているのだろう。 「さきに訪れた折よりも、たしかに霧のいろは薄い」 だが、と鉢金に覆われた黄金の瞳が彼らを視、油断は出来ぬと雄弁に告げる。 いつかの訪と同じ静謐、そして荒廃に包まれながら、今はあまりにも怨の気配を感じさせぬ。ただ蛻(もぬけ)の殻となった、魔の棲処だけがそこに遺されている。――その静けさが、惧ろしくすらあった。 「ええ。本拠を留守にするのですから、何の対策も為されていないとは思えません」 ヴィヴァーシュ・ソレイユは眉ひとつ動かすことなくそう告げると、森を透かした向こう側に広がる明けの空を仰いで、緑の隻眼を細めた。この世界を覆う色と同じ朱を曝す空は、雨の気配も見せず、森と同じようにただ静まり返っていた。 緑の隻眼はただ真摯に、森の光景を記憶しようと注がれている。 「道理よの」 扇の奥で唇を擡げ、逸儀もまた同意を返した。 獣の音一つ立てぬ森の奥に潜むは、罠か、伏兵か。――何が待っているにせよ、彼らには踏み入るだけの理由がある。 「世界計……といったか、あれは干渉がすぎる」 顎を引いて、樹上の玖郎は鉢金の奥から視線を仲間たちへと投げた。 0世界から飛び立った世界計の欠片。 生物を造り替え、異世界を揺るがす力を秘めたソレを取り込んだ男を、彼らロストナンバーは見過ごすことはできなかった。それが異世界に悪影響を与えるというのなら、早急に回収し、持ち帰らなければならない。 それに、と逸儀は目を細め、歪んだ笑みを浮かべて言う。 「使い一つ出来ぬ小狐と思われても癪じゃしのぅ」 他ならぬ己は此の世界の“神”と会い見え、影響の排除を託されたのだ。 その意を叶えてやるのは癪だが、それよりも仕事を為せず見下されるのが厭だ、という子供のような対抗心で、逸儀は引き続き依頼を受けることに決めた。 ◆ 「河内を朱霧に鎖せしは龍王の処断か」 見通しの効く森の中を往きながら、玖郎が小さく呟いた。 「さてのう」 くつりと笑みながら答える逸儀の、脳裏をよぎる黄金の燈火。 あの全てを見透かすような眼差しに抱いた反発を思い返し、軽く奥歯を噛む。己をはぐれと呼んで厭うた者たちの、占者の眼差しによく似ていた。 「叛逆者への処分にしては重過ぎるとでも言いたいのかぇ」 「……軽重はおれにははかれぬ。だが、抑すれば抗するものだ」 自身もまつろわぬ民に連なる系譜の者ゆえか、玖郎は静かに言葉を重ねる。 深い魔の霧に鎖された森に封じるなどといった措置を取れば、呪詛や禍根が募るのは避けられぬ。 「大義名分が何であれ、虐げた者の怨嗟が結実せし禍は、覇者の負う業であろう」 透徹した禽獣の目で見通すがゆえに、玖郎の言葉は時に苛烈だ。 「……じゃが、この演目も我(あ)にとっては興味深いものよ」 扇の奥でくつりと笑みながら、逸儀は小さく声を落とす。 立ち昇る怨嗟の焔、その描く歪な影に、僭主の大妖はひどく心を惹かれるのだ。 「――来ます」 森の奥を見据えていたはずのヴィヴァーシュが、声を落としてそう告げる。 其れを合図に、玖郎と天童が高く空へと飛び上がる。鬱蒼とした森を抜けた先、空の上に妖魔の影はない。 或る一点から、増幅する気配。そちらへ意識を向け、ヴィヴァーシュが術を編む。 どうやら物部は、この地に陣形を組めるほどの軍勢は残していかなかったようだ。 「ふん、甘く見られたものよの」 「ですが、都合がいい」 一方向から雪崩れ込む妖魔の群れをヴィヴァーシュの操る風が阻み、玖郎の雷と逸儀の焔が襲う。容易く屠られ、霧に融けていく妖。それらを構成していた執念は解けて消えた。 術を編む度、精霊術師の耳に風が、大地が軋む音が聞こえる。 「……彼の人物は、一時的にとはいえ、二種類の世界計を同時に保有している」 「そうやなぁ」 ヴィヴァーシュの操る焔を、葉団扇の一振りで増幅させてやりながら、天童はのんびりとした声音で相槌を打った。どことなく心此処に在らずと言った印象を受けるのは、先程飛ばした斥候たちの様子を気にかけているからだろうか。彼らの頭上から的確に雷を降らせる玖郎もまた、空の向こうに聴覚を研ぎ澄ませているようだった。 「――その状態で、周囲に影響などは及ばないのでしょうか」 ヴィヴァーシュは特に返答を期待するでもなく、独り言じみてつぶやいた。天狗の起こす風に乗って、嘗めるように焔が大地を駆け抜ける。光の精霊の末裔が起こす火に囚われた魔が浄化されてゆく。 この森を血で汚すのは好ましくない、と思慮深き精霊術師は考える。 譬え魔の森と呼ばれていたとしても、元々は神の坐す鎮守の杜だったのだろうから。 だから、精霊の焔で灼くことに決めた。 森に囚われた人々の執念を祓い、在るべき場所へと還すように。 臙脂色の毛皮を身に纏った、鋭い目をした獣の牙が迫る。 「……成程のう」 するりと身を滑らせてそれを躱しながら、逸儀は笑みを隠したまま独り言ちた。一向に先を見通させない深い森の姿を視界に収めて、左の掌に自らのトラベルギアを呼び出す。金糸で精緻な刺繍の施された赤い毬は小振りで、同じく金と赤を纏う彼自身に似合いだった。 「幻術か」 「じゃが、我の方が上手いの」 視覚に惑わされぬ物怪が或る一点を見据えたまま呟けば、狐の大妖もそれを認め頷いた。そして、毬を一度地面に衝いた後、あまきつねの見る一点へと向けて放る。 鋭い音と共に、朱金の火花が爆ぜた。 見えぬ壁に弾かれたように毬は打ち返され、てんてんと跳ねながら主の元へと戻る。火花の散った場所に小さな罅が入り、それは次第に大きくなって、やがて硝子が砕けるような高い音が響いて、それは破られた。 何の変哲もなかった杜の光景は消え去り、その向こう側にはとうに滅び廃れた旧き村の姿と、岩を積み重ね、頂点に朱の符が貼り付けられた塔が作られている。 解呪の特性を持つ逸儀のトラベルギアが、森に掛けられていた結界をいとも容易く破いたのだ。 「所詮は子供騙しよ」 僭主とさえ呼ばれ畏れられた逸儀にとり、この程度の看破は児戯にも等しい。天神の末裔とてこの程度か、と何処か満足げに唇を曲げる。 ◆ 遠くから迫りくる、微かな羽撃きの音。 玖郎の耳が、其れを捉えた。 中空で身を反転させる。赤褐色の二対の翼が空を掴み、弾丸のように滑空する。切り裂かれた風が地上にまで届き、木々から離れた葉が宙を舞う。 「行くで」 天童に促され、地上に立つ二人もまた彼らの後を追った。逸儀が幻術を看破したことにより、天童の放った斥候の一羽が目的地を見つけることに成功したのだろう。 「あるじ様」 鳥と同じ方向から、小さな金毛の仔狐が姿を見せた。 それはするりと逸儀の身体を登り、彼の肩に収まると小さく耳打ちをする。その報せに逸儀は唇を曲げ、仔狐を労う。 巨大な鳥居の手前で、四人は足を止めた。 その向こうには、森を分ける真っ直ぐな細道が走る。 「この先に鳥船があるのかぇ」 「噫」 逸儀の問いに頷く玖郎の傍らで、天童は新たな己の羽根を取り出した。ひらり、と天童の掌から滑り落ちた黒い羽根は容を変え、小さな鴉を形作る。 鳥居を潜り、新たな斥候として遠くに見える社へと向かう。天童に視界を与えながら。 二つに割れた社の中、地表に飛び出した磐の傍らに佇む男の姿が在る。 「おったで」 言いながら、しかし天童はそのまま鴉を男へと向かわせた。 大きな嘴を携えた鴉は、男の背中に吸い込まれるようにして突き刺さる――否、内側へと融けていく。だが、男はそれに気付いた様子はない。 それを視とめ、天童は傍らの逸儀に目配せをした。 「……玖郎はん、ヴィヴァーシュはん」 二人を振り返って、天童は瓢と笑う。 「今からわいらは多分足手纏いになるやろけど、任せたで」 指先で抓んだ己が黒い羽根を口許にもってきて、ふ、と息を吹きかけるように囁く。 ふとヴィヴァーシュは、天童の開けた首周りに、普段は見られぬ首飾りを提げていることに気が付いた。隣の逸儀と同じ、朱金の色彩の――。 ◆ ――夢を視て、いる。 元が人であったのならば夢を視るのも道理だ、と天童は密やかに笑う。以前の経験を思い返し、つい比べてしまったが、彼と之とでは精神のつくりが違う。纏う氣が違う。生まれが違う。だが、何処か似通った部分もあった。 朱紫に染まる空。 朽ちながらも家屋としての形を保ったままの社と、朱の鳥居に囲まれた神域。 境内に立ち尽くす年端もいかぬ少年。 虚空から現れた沢山の手が、彼へと伸ばされる。 (我が子よ) (――必ずや、彼の海神を引き摺り落とし) (中津国を吾らが手に) 数多の聲が響く。 憎悪と、宿願と、ほんの一握りの愛を籠めて。泣き喚くだけの幼子の耳に、聞き分けの良い少年の耳に、表情を失くした青年の耳に吹き込まれ、彼が里を離れ都に出てからも、それはこびり付いて離れなかった。 (愛し子よ) 愛すると嘯いて、ただ抑圧するだけの言葉。 (物部が宿願、必ずや) しかし少年がその差異を知る事はなかった。 「……ふん」 尊大な仕種で、小童は嘲笑う。覚束ない動作で大きな扇をはためかせ、主を――本体を思い起こさせる、擦れた響きの聲が夢を揺るがした。 「虐げられた一族の蜂起かぇ」 強大にして歪曲した執念は、深く凝る魔の霧が彼らを侵食する度、その身中に流る神の血へと浸み、沈殿してゆく。一族はそれを厭う処か歓迎し、より凝りを迎えられるよう神の血を純化させていった。 神代の頃より続く、一族の怨嗟。 凝り固まった澱の底で、男は産まれたのだ。 「良いのう。我ぁの性に合う」 満足げに笑う逸儀を横目に、天童は周囲に気を配っていた。 ――どうやら、密かな潜入には気づかれなかったようだ。 それとも、気づいていながら泳がせているのか。どちらにせよ好都合だと天童はほくそ笑む。 物部の血に浸み込んだ真実を手にする良い機会だ、と思う。 「……もうちょい奥へ行けるみたいやけど、どないする?」 悪童の如き笑みでそう問いかければ、童もまた小憎らしい顔で頷いた。 ◆ 気配が変わる。 二つの妖の、強く個を主張するような気配が、双方同じ希薄なものに変わった。一瞥してそれを把握し、ヴィヴァーシュは目線だけで頷く。 二人の姿は彼らの目の前に依然として存在し、目を開き二本の足で立ち続けているが、ヴィヴァーシュには先程の言葉が単なる戯れとは聞こえなかった。 おそらくは、彼らも何処かで目的を為しているのだろう。そして彼らの手を借りられぬ以上、此処は二人の手でやらねばならない。 森と社とを隔てる、朱色の鳥居。 その向こうに、強大な気配を感じる。 「木行のものではない」 僅か意外そうに玖郎が呟く。 「ええ」 朱昏と言う世界は、世界を構成する五つの力の内東の木行と南の火行が入れ替わっている。故に東の宝珠を奪って逃げた男が持つは、火行の力であるはずだ。ヴィヴァーシュは咄嗟の襲撃にも対処できるよう、霧への干渉を強める。玖郎はただ静かに、鳥居の奥を見据えていた。 一歩、内部へと踏み込めば、其処は一段深い霧に覆われている。 ざわざわと、肌を包む霧の感触が変わった事に、彼らは気が付いた。 「……直接対峙するのは危険かと」 隣を行くヴィヴァーシュの静かな警告に頷いて、しかし玖郎は翼を緩やかに広げて見せた。 「談じきたきことがある」 彼の一族の、彼の末裔の在り方に、思う所は多い。 ――今は避けたとして、欠片を回収するにはいずれ肉薄する必要もあろう。 「それに、おれとて無策というわけではない」 禽獣の野性を残した横顔は、しかし印象よりもずっと冷静で、穏やかだった。 「……無理はなさらぬよう」 二対の翼をはためかせ、ひらりと飛び立つあまきつねを見送って、ヴィヴァーシュは彼らに背を向ける。 ◆ 朱の色を曝す不透明な風が、二人を撫ぜるように吹き抜ける。 それは画布を塗り潰す筆のように、次から次へと吹き込んでは、空間を掻き混ぜ塗り替えていった。朱に染められた空が、大地が、二人の見る前で容を変えていく。 天神の血を色濃く受け継いだ、神代の軍勢同士がぶつかり合う。泥臭くすらあるいくさの姿に、神を厭う子狐は目を細めて興味深くそれを見つめていた。 流れる映画のように、情景は彼らを残して移り変わってゆく。 中津国の中央を走る、細い川。龍王磐余日子(イワレビコ)が坐す場所。 ――当時は未だ、両岸の行き来が可能な、細い川に過ぎなかった。 その中州に、一夜にして顕れた絡繰仕掛けの塔を仰いで、河内の杜に坐す神は息を吐いた。 此れ以上の戦いは無意味だ、と。 しかし、天の理を知る神がそう進言しても、軍を率いる神の義兄は聞く耳を持たなかった。世の理を手中に収めた海神の軍勢に圧され、散り散りになりながらも尚、己らの統治を信じて疑わなかった。 世の理を手中に収めた海神の干渉により、容易く戦況は決していく。 そして、真都の尼僧が描き出した図そのままに、戦は終結する。樹の蔓に似た鮮やかな青い蛇に絡みつかれ、海の底へと沈められて尚、河内の神は抵抗の意思を示さなかった。 ただ、中つ国を託された王へと、一言だけ願いを残して。 ――彼の森を、我が一族に遺してほしい、と。 ◆ 地表に張り出した磐にしか見えなかったそれは、以前よりも露出する部分が多くなっていた。船と呼んだ大妖の言葉にも、今ならば納得がいく。――地上に現れた磐は明らかに、舳先の形をしている。 その天辺にて二つ、円を描いて回りながら浮かぶ、青と朱の宝珠。 其の傍らに立つは、鳥か、獣か。――あるいは人か。 「……貴様か」 振り返った朱硝子の双眸が玖郎を捉える。警戒する様子も見せず、人の持つそれよりも膨れ上がった二本の腕を下ろしたまま、臙脂の軍服を纏う男は静かに云った。 「物部か」 「いかにも」 ――膨れ上がったと見えた男の腕は、まばらな変生を遂げていた。指先はびっしりと鱗に包まれ、未発達の翼が軍服の袖を切り裂いて、手首から肘にかけて顕れつつある。 人の肌に、蜥蜴の鱗と鳥類の羽を斑に咲かせた、出来損ないの物怪が其処に居た。親と違い人の理性を捨てきれぬが故か、それとも二つの世界計による影響なのか。人ならぬ価値観を持つ玖郎にさえそのいびつな様相は捉えがたく、僅かに眉を顰める。 「――その磐船で、儀莱へとわたる算段と見たが」 「察しの通りだ。彼の宝珠さえあれば難しい事ではない」 緩やかに、大地が揺れているのが判る。 磐船は少しずつ、目ではわからぬほどにゆっくりと、地表へ姿を見せようとしているのだ。 「私は力を求める。我が神を目覚めさせ、その権威の元新たな王となる」 その為に、彼ら一族は此の地に霧を集めた、と。異界の力を取り込んだ朱の瞳が、南の天を、深い森を、見回して笑う。 「……此の地を朱に鎖したのはおまえたちか」 「噫」 己が身を、子孫の身を犠牲にしても、奪還を成し遂げんとする意志。それが此の霧の正体か、と玖郎は悟る。何という昏き情念。深き執着。 「その情意はわかる」 己が縄張りを掛けて争うは、人も、獣も、物怪も変わりない。 だが、純粋な力の大小で覇者の決まる獣とは違い、人は複雑で多様な意思と感情を持つ。己が争う正当性を求めるが故に、他を貶める。 「……だが、おまえたちがかつて覇権を失いしは、ただ力及ばぬゆえではないのか」 ――獣に近しい物怪にとっては、ただそうとしか見えないのに。 龍王が一族も、丹儀速日が一族も、どちらも己を正当なる王と呼ぶ。互いに互いを貶めながら。 神代の昔に、勝敗は既に決している。 それだけで充分ではないのか。 「敗北は義の対価にならぬ」 「――貴様、」 「それだけではありません」 不意に、怜悧な声が響き、一陣の風が吹いた。 物怪の操るものとは違う氣を纏う、凛と澄み渡った風が。 「あなたが王になると云うのなら」 朱の鳥居の下、神域との境目に立つ、銀糸の精霊術師が謡う。森の主を護らんと押し寄せる朱の妖魔たちを、ただ一人で押し戻しながら。 「都に住まう人々を危険に晒すような方は、為政者に向いているとは思えません」 荒事を知らぬほどに細く白い手を振るえば、その軌道をなぞるように、朱の霧が凝縮されて刃に代わる。それらを生み出した風に乗せて投げ、妖魔を断ちながら、ヴィヴァーシュは静かに振り返った。 「その方は祖先の妄執を自身の欲望に摩り替えているだけでしょう」 旧くからの因果に振り回された彼は、神の末裔たる一族の現状に何を重ねたのか。 斬り裂かれた妖魔は駆ける焔によって浄められ、静かに、だが着実に、その数を減らしていく。 「――貴様、訳知り顔で!」 表情を歪め、男は異形の腕を振るう。熱風が大気を切り裂いてヴィヴァーシュへと向かうのを、玖郎の呼んだ風が遮った。 「此方はお任せを」 「承知した」 華奢な腕を広げて、銀糸の青年は顔色一つ変えぬまま請け負う。あまきつねもまた頷きを返し、一蹴りで社の残骸の頂に飛び乗った。高みから異形の男を見定め、手甲を嵌めた手で短く印を切る。 晴天に俄かに湧いた黒雲の裡で光が不穏に煌めいて、青い筋を残して落ちた。狙いは過たず天神の末裔へと――だが、男を包むように現れた朱の光が、それらを全て受け止めた。 「っ、火行、か」 木生火。 玖郎の放った風雷――木氣を取り込んで、焔はあかあかと燃える。煌々と照る鮮やかな朱が、空を往くあまきつねを捉えようとその腕を伸ばした。玖郎は猛々しい焔の手から逃れようと身を翻すが、風の勢いに乗ったそれからは逃れる事は叶わなかった。 焔に煽られ、赤褐色の羽先が灼かれる。 均衡を崩した物怪は空を掴み損ね、ぐらりと身を傾けると、そのまま地面へと落ちた。 男の薄い唇に、氷のような笑みが乗る。 異形の腕が、あまきつねの貌を覆う鉢金を奪おうと伸ばされる。 その刹那、青い雷光が走った。 突然の光に貌を隠した男へ、気を喪っていたとは思えぬ勢いで起き上がった玖郎の鋭い蹴りが迫る。一瞬にして翻った体勢の中、猛禽の肢が倒れ伏す男を抑えつけた。 「――おれとて擬傷くらいは装える」 素朴とすら呼べるほど野生に近しいあまきつねは、しかしやはり人智を超える物怪のひとつだった。鋭利な禽獣の爪を男の喉許に突き付けたまま、訥々と語る。 「謀られたか」 硝子玉の眼をぎらつかせ、己を足蹴にする物怪から視線を逸らさぬまま、何処か楽しそうに物部は笑い声を立てた。 「やはり惜しい。そなたのような者が我が配下に在れば、国獲りももっと捗ったろうに」 「……あまつかみとは相容れぬ」 緩やかに伸ばされる異形の腕。 鉢金に隠されたあまきつねの貌が僅かに歪み、隠し切れぬ倦厭を如実に示す。喉を捉える片脚の力を強めれば、激しく咳き込む声だけが響いた。 「は、我ら一族とそなたとは、似た道を歩んできたようだが」 「祖は祖、おれはおれだ」 以前の邂逅でその裡(うちがわ)まで潜り込まれたか、訳知り顔で男が語るのへ、玖郎は短く言い放った。自らの内まで追いかけてきて手を伸ばしてくれた天童の聲がよみがえる。 あの日の借りを返すならば今だろう、とも。 妙に大人しく、ただ二人の行動だけを見つめている二種類の視線。其れの孕む色が普段の彼らと違うことを、玖郎は知っている。――悟られてはならない、と、態と物部の関心を自身に集めるよう動いた。彼らがどこで、何をしているかはわからずとも。 「……おれの生は、おれの取り分だ」 強い意志を伴う言葉に、抑えつけた身体が強張るのが判った。硝子玉の眼を見開いて、先程までとは違う何処か不安げな視線が、玖郎を見上げる。 「祖に従属する気も、依存する気もない」 ――たったそれだけのことが、この哀れな人形には出来なかったのだろう。 ◆ 神代の光景は掻き消えて、二人と少年の周りに遺されたのは、ただ朱を曝すだけの空と、鬱蒼と茂る森。 現実と然程変わらぬ景色の下で、天童は徐に膝を曲げ、少年に目線を合わせる。 「……でもなぁ、無理やで」 全てを見届けた後に送る、否定。少年が不服そうに顔を上げるのに合わせ、傍らの小童も興味深げに彼を見上げた。 「あんたが起こそうとしとる神様に、その気がまったくないんやもん」 『――な、』 唐突の指摘に少年は目を剥き、きっ、と眦を吊り上げる。 「頼まれもしてへんのに起こそうなんて、神様にとっちゃええ迷惑やと思うわあ」 『きっ、貴様になにがわかる!』 拗ねた童子のような声音だが、その語調には退く事も進む事も出来ない、不安定で張り詰めた鋭さがある。復讐と簒奪、其処にしか己の場所はないのだと、彼自身がそう定めてしまったようだった。 小童が呆れた息を吐くのが、天童にもわかる。 彼――逸儀は直接龍王と対峙した分、彼の神の言葉をよく知っているのだろう。“彼(あれ)が今更戦を求めるとも思えぬ”――その意味を、物部の血に隠された真実まで遡った二人が、取り違える筈もない。 朱の鳥居の向こう側に広がる聖域を一瞥する。 雷によって断ち割られた社の奥には、何もない。舳先だけを地表に見せる、磐船の姿などまるで初めからなかったかのように。 「戦を求めておるのはうぬら自身ではないのかえ?」 小童の唇から、擦れた成人の聲が零れ落ちた。 「龍王の処断をうぬらが屈辱と捉えたのであらば、無用な大義名分など翳さずそれを声高に唱えればよかったのじゃろ」 彼らの神は、自ら南の海に封じられる事を望んだ。 ≪世界計≫を手にした龍王こそが統治者に相応しいと悟り、其れ以上の争いを断つために。 戦を望み、立場の改善を求めたのは神ではなく、他ならぬ物部そのものだ。目を丸くする少年には、其れすらも理解できていなかったのか。 外面も年齢も、理性的な大人の男に見えたが――中身は斯様に脆く、何一つ己で考えようとしない子供そのものだ。期待外れに嘆息を零した小童の鋭い金目が少年を射抜く。 「元より、企みが潰えても、ぬしひとりとなっても――当の神に拒絶されても、後悔などせぬつもりだったのじゃろ」 『……ッ』 峻烈な物言いに、少年は返す言葉を失った。 「神さまの遺志を尊重せんのはあかんと思うんよねえ」 『――そんなものは、あの海神の出任せに過ぎぬ!』 しかし尚納得は出来ぬとばかりに少年が叫ぶ。 それを聞き届け、天童は薄く微笑んだ。 その眼差しは、気怠さと妖しさを孕み、妖艶とさえ映る。煙管を持った手の小指から伸びる赤い紐が、少年の手首を捉えた。逃れようと身を引く少年を捉え、紐は離れなかった。 天童の背で、漆黒の翼が大きく広がる。少年の視界を惹きつけるように。 翼の作る翳りの中で、紫の瞳だけが危うく輝いた。 『!?』 「ほな、出任せかどうか――見てみよか」 ――そして再び、景色は一変する。 ◆ ふと、抑えつけていた男の力が弱まった。 唐突の異変に、玖郎は物部の首を抑える足を残したまま、僅かに身を引いた。鉢金の奥から黄金の眼を向け、足許の男の様子を見定める。男は朱硝子の目を見開いてこそいるが、目の前の玖郎の姿さえ、見えてはいないようだった。 「何を見とるんかはわいらにもわからん」 玖郎の背後から、聞き覚えのある柔らかな声が響いた。 先程まで何者かにその身を預けていたはずの、天童と逸儀が、再び彼らの気配を纏って其処に在る。天童が首から下げる朱金の飾りが小さな獣――狐の形を取り、するすると逸儀の元へ戻っていった。 「夢に当人の意識が引きずり込まれたようじゃのう」 「その代わりにわいらはいきなり放り出されてしもうたと」 苦笑し、肩を竦める黒天狗の隣で、小童へと姿を変じた狐は軽く口をとがらせて不満を示している。おそらく彼は、その先の光景をこそ見たかったのだろう。 ヴィヴァーシュが虚空へと手を伸べ、白い指先を繰る。 緩やかに編み出された白銀の風が滑り、磐船の先に浮揚していた朱青の陰陽珠を彼の手元へと運んだ。そして、六角より預かった呪の織り込まれた袋に丁寧に収める。 「……う」 不意に、倒れ伏す男が呻いた。 黄金の瞳をおろし、玖郎が再び男へと視線を向ける。喉を抑えつける爪から、噎せるような呼吸が響いて届いた。 「目覚めたか」 彼が、意識の奥で何を見たのかは定かではない。 だが、一対の朱硝子には確かな動揺が映し出されている。 「――わたし、は……」 支えとしてきたものを喪って、呆然と紡がれる聲。 その眦を、小さな雫が打った。 一筋流れた朱の雫は、まるで男の朱硝子の瞳から零れた涙のようにその頬を飾り、す、と横に筋を作る。 雫は二つ、三つと、次第に勢いを増して降り注ぐ。 ――いつしか、天には薄い雲が張っていた。 河内一帯の霧を洗い流すように、暖かな雨が降る。血よりも尚鮮やかで、そら寒くも恐ろしさを感じさせぬ、朱の雨が。 「これは……」 「儀莱の雨か」 一度彼の地を訪れたことのあるヴィヴァーシュと玖郎が即座に悟る。あの暖かで虚ろな、死者の國に降り注ぐ雨。循環する朱は、天へと昇る魂を雲に乗せ、南の海へと運ぶのだと云う。ならばこの雨は――。 「あんさんの神の許へ、運んでくれるそうやで」 葉団扇の向こうから、天童は穏やかな笑みで告げた。 「噫――」 掠れた吐息の中に、幽かな聲が混ざる。 朱色の雨に止め処なく打たれながら、しかし男は微笑みそれを甘受する。 「――我が神は、彼の地は、受け容れてくれるというのか」 「死者に貴賤はありません」 静かに顎を引いて、ヴィヴァーシュは物部の問いを肯定する。 脳裏に蘇る黒い傘。白い虚ろの花を仰ぐ女の笑み。空ろの両腕。――彼は、己が手で送った命が今も海の向こうで穏やかに暮らしている姿を視た。 理想郷は美しく、緩やかに全てを受け容れる。 それが此の世界の摂理だというのなら。 「そう、か」 ゆるゆると、最期の力を振り絞って、掌を天へと向ける。その先にある何かを追い求めるように。 「若しも、次があるのなら――今度こそ、」 私は私として、生きたい。 雨の音に紛れ、最期の聲は掠れて消える。 硝子の両目を瞼の向こうに鎖し、男はそれきり、何も言わなかった。 天へと伸ばされていた腕が大地に投げ出される。糸が切れたように、その身から力が抜けたのを見て取って、玖郎は喉許を抑えていた足を引いた。朱の雨の中、二対の翼をはためかせて雫を払う。そして、一歩、二歩、物言わぬ骸から距離を取る。 降り注ぐ雨が、一層強くなった。 彼らと骸とを切り離すように、朱で出来た薄絹の幕が張られる。 「……つまらぬ」 その光景を見つめながら、小童の姿を保ったままの逸儀が唇を尖らせた。叛乱を防がれ、失意のまま堕ちていく男の貌が見られるかと期待したのに。 「彼奴らの企みに手を貸した方が面白かったかの」 「そないな事ばっかり言うとると、龍王はんにこの世界から抓み出されるで?」 「やってみるがよいわ」 天童の忠告も鼻であしらって、小童はそっぽを向く。 生来のはぐれ者に、大団円は性に合わぬ。 小童ゆえにどこか憎めないその姿を微笑ましく見守り、天童は降り注ぐ朱の雨へと目を戻す。 生前の罪や因果を遺さず、全ての命は天へ還る。 禍因の黒天狗は、此の世の摂理を少しだけ、疎ましく――羨ましく思った。 雨が止んで、光を遮っていた雲が晴れる。 魔の森を浄化するような光の下に、彼の男の姿はなく。 代わりに澄んだ朱色の硝子片が二つ、餞のように遺されていた。 <了>
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