※ つい先日の事です。欠片の宿主のひとり――サロメさんを保護する為、四名の方が樹海へと赴きました。これには菊絵さんも同行したのですが、彼女は外の皆さんがワームと戦っている最中に突如サロメさんから……少少強引な遣り方で欠片を奪い取り、あろう事か――呑み込んで仕舞ったのだそうです。菊絵さんは直ぐ我に返った様ですが、いつ又正気を失わないとも限りません。 其処で、御本人の諒承を得て医務室に検査を御願いしました。其の結果――サロメさんから奪い取った欠片は、元元菊絵さんが体内に留めていた宝珠の欠片との結合を果たしていました。何とか欠片のみを取り出せないか、相談もしてみたのですけれど……或る種の内部器官として機能しているらしく、少なくとも菊絵さんの命を第一に考えるならすべきでは無い、との事でした。 又、迂闊に触れて刺激を与えた場合、何が起こるか解らない――とも。 ※「――処で、」 槐は思い出した様に懐から朱い天竺織の布包を取り出すと、「菊絵さんの中に在る欠片は、美しい勾玉の形をしていたそうです――こんな風にね」 稚児の湿布を扱うが如き手付きで、広げて見せた。「これはこの後、安全の為に図書館へ預けなくてはならない物ですが」 顕れたのは、黒と白。相互に溶け込まんと、或は互いを溶かさんとする様に縺れた相を為す、陰陽の珠。二人の旅人――二匹の妖と云うべきか――が神夷の霊峰コンルカムイにて託された、水の宝珠だ。 其の片側、漆黒の方を、同色の鬼面を被る男は指し示す。「確か、過去の儀式を幻視された方方の報告に拠れば、当時菊絵さんに刺さった欠片も又、黒色だったと記憶しています。併し今、彼女の中のそれは赤く――否、朱く染まっていると云います」 皇国神宝のひとつ、火行の陰陽珠の片側と同様に。「そして、同じく神夷の最北端にて回収された最後の欠片を受けて、僕が修復した物も、矢張り――白色の勾玉と為りました」 云い乍ら、今度は水珠のもう一方、白色部分を示す。「つまり、金の宝珠の欠片は丁度半分が菊絵さんの体内に、もう半分は僕の手元にあると云う事になります。そして龍王の言葉が事実なら、レタルチャペの魄と魂が、それぞれに宿っている――」 ※ レタルチャペは金の宝珠に自身の魂魄を移し、彼女が【瓊命分儀】と呼んでいた儀式に因って自ら宝珠を粉粉に砕き乍ら、それを僕等に集めさせました。 目的は、霊峰コンルカムイにて龍王が託した依頼内容から、或る程度察する事が出来ます。懼らく、レタルチャペは菊絵さんの中で金の宝珠を自身の魂魄ごと完成させる事に拠って、今度は菊絵さんと同化するつもりなのでしょう。菊絵さんの中に自身の魄に相当する欠片を埋め込んだのは、其の布石であったものと想われます。 何故砕かなくてはならなかったのか迄は判りませんが、菊絵さんを一度死なせた理由は想像に難くありません。菊絵さんはソヤが身籠り……ソヤと同化したレタルチャペが産んだ娘だ。そして、父親は――如何やら五十年前の平西将軍、穐原煌耀(あきはらこうよう)公の様です。レタルチャペが最も憎しみの矛先を向けた相手の血筋ですから……やがて自分の物とする肉体に煌耀の血が流れている事が、我慢ならなかったのではないかと。 ですが、一度死して儀莱へ赴けば、其処で仮初の肉を得る事が叶います。仮令姿形は同じでも――いいえ、同じ姿を留められるからこそ――レタルチャペにとり不浄とも云うべき身体を別の物に置き換えたかったのでしょう。外にも理由は考えられますが……あまり重要な事では無いので、今は省くとします。 ※「――さて。先程少し触れた龍王の依頼についてですが、彼の存在は或る女性の口を借りて、こう云ったそうです」 ――今の白虎は魄――肉体を失い、魂に伴う心は金の宝珠共々散り散りとなって不完全な状態です。凡て揃えば白虎は本来の力を取り戻すでしょう。ですが、凡て揃えねば正す事はおろか討つ事さえ叶いません。金の宝珠――その欠片を凡て集めた暁には、白虎の魄を宿した童女共々穐原家に送り届けて……下さい。「云い換えれば、『平西将軍が住まう穐原城(しゅうげんじょう)にてレタルチャペカムイを顕現させ、これを討伐すべし』と云う事にもなります。確かに、彼女を只の思念体から実のある存在にする事が叶うなら、理論上それは可能でしょう。ですが……余りにも危険過ぎる」 何しろ“只の思念体”でさえ、あれの力は圧倒的なのだから。「其処で考えたのですけれど――」 矢張り何時も通りと云うべきか、長過ぎる前置きの果てに漸う骨董品屋が自身の策に言及せんとする間を見計らったかの如く、店の引き戸ががらがらと鳴った。「御免下さいよーう」 気の抜けた聲を伴い帳場から座敷に面を出したのは、雀斑顔の頓狂な世界司書、ガラ。「ガラさん、御苦労様です」 槐は相変わらず珍奇な仕草で身をくねらせる女の影に隠れる様にして俯く娘――菊絵に細めた眼差しを遣り、僅か瞼を閉じてから、二人の来訪者に着座を勧めた。「――では。揃った処で本題に移りましょうか」「我我の立場上、龍王の要請には応じなくてはなりません。併し、無策で応じれば、確実に大きな災いを招きます。レタルチャペの事ですから、此方が宝珠の欠片を凡て揃えた事は既に察知しているでしょう。彼女の目的が自身の復活と穐原家――引いては西国の滅亡にある以上、金の宝珠の理力と菊絵さんの“匂い”に気付けば、況してそれが憎き穐原家の御膝元にあるのなら、必ず姿を見せる筈だ」 完全な復活を遂げる為には、菊絵と金の宝珠が不可欠故。「其処で――金の宝珠を二つに分かれた状態の侭、西国に運ぶと云うのは如何でしょうか」 別別のロストレイルを用いて一方は『勾玉を宿す菊絵』を、一方は『勾玉を持つ槐』を乗せて、それぞれに数名の護衛を伴い間を置いて現地入りする。到着後、菊絵は龍王に従い穐原城に入城、槐は城下にて待機する。「穐原城の内外には招かれざる者を跳ね除ける結界が、幾重にも張り巡らされていると聞き及びます。更に、城内にはレタルチャペの祟りを恐れた将軍家が国中から集めた武芸者や術者が、多数控えているそうです」 即ち穐原城は西国で最も安全な場所である。此処に菊絵と勾玉の一方を預け、もう一方を所持する槐が城外で迎え撃つ。謂わば二重の囮である。 問題は復活を果たしていないレタルチャペカムイを如何に打倒するかだが――槐は「方法はあります」と面を上げた。「今迄、彼女は幾度と無く皆さんに撃退されて来ましたが、決して滅びる事はありませんでした。理由は彼女が仮初の肉体に当てていた環境由来の依代にあるのでは無いかと、僕は見ています」 それ等は一様に無生物を媒介に作られており、容易に憑依出来る反面、レタルチャペカムイの思念との掬び付きは弱かったと云うのが槐の見立てだ。故に撃退は比較的容易であり乍ら、故に思念を討つには至らなかった。「此処で少し、話が前後しますが――五十年前、レタルチャペには物理的な攻撃手段も有効でした。身も心も宿主たるソヤと、つまり人間とひとつになっていた為です。ならば――此度も全く同じ状況を仕立て上げれば善い」「ちょっと待って下さいよう!」 ガラが彼女にしては鋭く口を挟む。「さっきから黙って聞いてれば……それってつまり、レタルチャペを誰かに取り憑かせて、あの、その、」「ええ、殺すのです」「そんな遣り方!」「いけませんか」「え、んじゅ……?」「レタルチャペを止める最も確実な方法です。彼女が鎮まれば西国の民が脅かされる事も、菊絵さんが運命に翻弄される事も無くなります。世界図書館とて同じ事。皆さんは、元を辿れば僕等が――否、僕が撒いた火種を、命懸けで消して廻っています。併し、此処で事を終えればもう無用な危険を冒さずに済む――其の凡てが暗愚な男一人の血で贖えるのですよ。代償としては安過ぎる程だ」「いい加減にして下さいよう! そんなのガラでも思いつく一番簡単な遣り方じゃない! 大体、取り憑かせるって誰に……――まさか、男一人って!」「済みません、ガラさん。ですが……始めからこうするべきだったのです」「――そのために私を利用するの? おかあさんみたいに」「貴女さえ其の気なら、ね」「……………………」 ※ ※ ※「……と云う訳で、今回は二手に分かれる事になりました」 其の日、骨董品屋『白騙』に鬼面の店主の姿は無かった。呼び集められた旅人達の前には歪な帽子を目深に被り目元を隠したガラと、それに俯いて三味線ばかり見詰めている菊絵の二人だけ。薄明染みた前座敷が酷く虚ろに感じられたのは、其の所為だろうか。これ迄も饒舌な半鬼が不在な事は時偶あったけれど。「君達には菊絵と一緒に、西国の首都、花京に在る御城――穐原城に往って、将軍に会って貰います」 世界司書の何時に無く淡淡とした調子で無味な聲が、室内に溶けた。一連の経緯を話す前から、ずっとこうだ。「目的は菊絵と、平西将軍・穐原照澄の護衛。レタルチャペカムイを御城に入れないのが前提の作戦だけど、『何が起こるか判んない』ですから。丁度、穐原家にも龍王から御告げがあったとかで、菊絵の事待ってるんだって。こっちの事情も向うに伝えてあるから、菊絵の名前を出せば普通に入れてくれると思います」 先ずは菊絵と共に照澄と顔合わせをし、後は城外に控えた槐達がレタルチャペを討伐する迄の間、有事に備える事となる。具体的な方法は任せると云う。「槐……が云うには、良く判んないけど菊絵の立場とかなんかそういうのもあって、龍王に呼ばれて往くんだから簡単に再帰属出来るだろう、って。だからね、全部終わったら、ちゃんと『菊絵を置いて来て下さい』。――それでいいんですよね、菊絵?」「え? あ、えっと――」 不意に聲を掛けられ、菊絵が僅か面を上げる。三味線を脇に退け、旅人達を上目遣いに覗き見て、「――その。短い間だけど、お世話になりました。もう少し、よろしくおねがいします」 それから三つ指を突いて、頭を下げた。「話は以上です。今回は別に予言も何も――…………っ!?」 何気無く導きの書の頁を捲ったガラが身を強張らせ、帽子のつばを上げた。露わとなった双眸はこれでもかと云う程瞠目していた。「……どう、したの?」 菊絵が気遣いげに覗き込むと、ガラは顔を覆って、はーっと度し難いとばかり息を吐く。「さっきの訂正! 金の宝珠を――菊絵を連れて行ったら、レタルチャペは御城の中と外、両方に必ず現れます。それぞれの目的は穐原照澄の殺害と、御城を媒介にした……呪殺?」 唐突に齎された恐るべき託宣に旅人達がどよめく。「ガラには判んないけど、なんか御城の石垣に沢山の人の怨みが籠ってるから、それを利用して広げて……御城だけじゃなく花京全部巻き込むつもりだって」 では、此方が失敗すれば少なくとも穐原照澄が死んで西国の治世が乱れ、槐達が失敗すれば花京――引いては中枢を失った西国の滅亡に繋がると云う事か。「ああもう! ああもう! なんなの龍王? これでも菊絵の事還さなきゃならないの!? 金の宝珠がそんなに大事? ガラにはもう何が何だか判りませんよう! 槐達も勝手に往っちゃうし……――そうだ、槐に連絡しないと!」 ガラは立ち上がって頭を抱え錯乱気味に喚き散らしたかと想えば直ぐに腰を下ろして筆を走らせた。菊絵は何を考えているのか押し黙っている。 少しして、ガラは書き終えるなり両手を突いて又溜息を吐いた。「……えーっと、ああそうそう。レタルチャペカムイが出たら、城中に幻が広がります。だから控えてる御侍とか術師の人達もあんまり頼りに出来なさそう」 一方で如何にして城内の何処から侵入するかは不明だ。真逆行き成り凡ての結界の内側に現れる事は無いだろうが――。「然も、レタルチャペが狙ってるのは照澄と菊絵だけど、誰か見かけたら見境無く襲います。それに憑依も……するんだって。だけど、憑依された人を攻撃すればレタルチャペカムイも傷つきます。これ、如何云う意味か――判ります、よね」 世界司書は明言を避け、背中を向けた。そして、「さっきも云ったけど、ガラにはもう何が何だか、です。だから――」 君達に御任せします、何もかも――そう云って、二度と振り返る事は無かった。 菊絵は暫し雀斑女の細い背中を見詰めていたが、やがて三味を手に立ち上がると、ててっと旅人達の側に近付いた。「いこう?」 其の猫の様な瞳から、胸中を窺う事は出来なかった。 ※ ※ ※ 穐原城にて。「平西大権現、穐原照澄公であらせられ――」「止めっ、止めい」 御側御用取次役と思しき老人の堅苦しい紹介を、未だ初冠も過ぎて間もないのではないかと云った若若しい面立ちの男が一蹴した。「――は?」 老人は如何にも間の抜けた聲で主の顔を見遣る。「『は?』では無いわ愚か者。止めろと申した」「畏れ乍ら」「喧しい。大体何じゃ死人でもあるまいに『ダイゴンゲン』だのと大仰な。大根の方が未だましじゃ。それに『テルズミ』だ? 貴様等が寄って集って余を将軍に祭り上げてから何度其の名を呼ばれた、ええ? 宗明(むねあき)がでかくなる迄の繋ぎならば改名なぞせんでも善かろうに下らぬ仕来りを押し付けおって」「畏れ乍ら下下の者を前に斯様な物云いをなされては示しがつきませぬ」「黙らぬか古狸め。余は此の方等と直接話がしたい。貴様は大人しく其処で見ておれ。気に入らぬなら去ねい」「……………………御意」 とうとう老人が観念して下がり平伏すると、青年はしてやったりとばかり、凡そ命の危機に瀕しているとは思えぬ鷹揚な――平たく云えばだらしの無い姿勢を取り、窄めた背筋で「近う寄れ」と旅人達を手招きした。「見苦しい処を見せて済まぬな。聞いての通り、余が名ばかりの雇われ将軍、照澄である。一応穐原の類縁だが、本来は其の辺をほっつき歩いとる侍と大して違わん、偉くも何とも無い馬の骨じゃ。堅いのは好かぬ。楽にして欲しい」 将軍はそう云って、人懐っこい笑みを浮かべた。==!注意!==========このシナリオは、以下の企画シナリオと同じ時系列の出来事を扱っております。同一のキャラクターによる当該シナリオへの複数参加(抽選エントリー含む)は、ご遠慮ください。・【瓊命分儀】しろがたり================
旅人達が手招きに応じると、若い将軍は――余程上下関係と云う物に辟易しているのか――然も嬉しそうに一人一人を見遣り、片隅で縮こまっている村娘で視線を留めた。 「御主が菊絵か」 「! は、はいっ」 俯いていた菊絵がびくりと背筋を伸ばしたのを見て、照澄は扇子を開く。 「おおっと、畏まらんでくれ――否、無理からぬ事よな。余もそうであった」 「将軍さまも?」 「応、気儘に暮らしておったのに或る日突然沙汰があってな。以来一度も屋敷には戻っておらん。其処の爺が帰らせてくれんのじゃ! 酷い話じゃろ?」 照澄の顔芸と云って差し支え無い七変化の顔に思わず菊絵が笑みを忍ばせていると、彼はしてやったりとばかり、今度は喜色を浮かべた。 「好し好し笑ったな。これからは此処が其の方の家じゃ。不自由があれば何時でも云うてくれい」 「ありがとう、ございます」 如何やら和ませて菊絵を安心させようとしていたらしかった。とは云え――霧花は男ならば誰しも好む類の微笑を浮べ乍ら、自称馬の骨の内面を推し量る。 ――御城主が真実わっち等を、引いては他者を信用しているとも想えんのぅ。 如何に此方の事情を把握していようと、仮にも一国の主が素性も胡乱な初対面の者達を前にこうも無防備なのは、警戒心の裏返しと取れなくも無い。まるで相手を好きに泳がせる事で、其の本質を見極めようとしているかの様な――。 ならば、先ずは信を得る事が肝要。此処は安易に乗ると見せ掛け、本懐は晦ました方が後々動き易かろう――霧花はそう結論付け、一先ずは将軍と仲間達の出方を窺う事にした。物の怪が人との化かし合いに負けたとあっては立つ瀬が無い。 「其の方等も大儀であった」 照澄は菊絵との遣り取りにすっかり気を好くしたのか、清々しくそう云った。 「……と云うには、ちと早いか」 かと想えば実に面倒臭そうに首を傾げ、忙しなく扇子を扇ぐ。己が身に纏わりついた邪気を少しでも散らそうとする様に。 「実に嘆かわしい。が、嘗ての将軍家の所業を想えば致し方無し、か」 「其の事で御座いまするが」 本題に入ったと見てか奇兵衛が卒の無い間を以て口を開く。 「畏れ乍ら上様に御訊ね致したき事が御座います。申し遅れました、手前は紙問屋を営んでおります『軋ミ屋』奇兵衛と申します。以後御見知り置きを」 「上でも下でも無く照澄である。まァ善い、して何じゃ? 遠慮は要らぬ」 「有難き幸せ。では御言葉に甘えて……。照澄様は煌耀様の事を善く御存知で御座いましょうか。例えば、御隠れになられた理由。例えば――五十年前の、」 「貴様無礼であろう!」 取次役の老人が奇兵衛の問いを怒声で遮る。少なくともこの男は知っているのだろうと霧花は見た。そして不自然な程平然としている照澄も、懼らく。 「黙れ糞爺。――奇兵衛とやら、余とて腐っても平西将軍じゃ。詳らかにとはゆかぬが、懼らく……御主と同程度には人伝に聞いておるのでは無いかな」 曖昧な答えこそが真実。さて、奇兵衛は如何受け取ったのか――紙問屋は人の好い笑みで「左様に御座いますか」と辞儀をした。 「ならば神夷との和睦を図っておられますのも?」 「其れが一番の理由じゃ。序に白虎神について得る物が在れば、とも想うたが、」 「我我が此処に居る今、其の必要も無いだろう」 凛とした聲が割り込む。碧だ。 「照澄公、自分は奴の魔手から貴方と菊絵を必ず護り抜いてみせる。其の代わり約束して欲しい。神夷に無為な手出しをしないと。然も無ければ――」 言外に怒気にも似た感情を滲ませた様に感じられた。碧の神夷に対する想い入れの如何は霧花には解らぬが、ともあれ強気に出た物だと感心すら覚える。 「白虎の次は其の方が穐原を祟るか。……そう怖い顔をするな。末代迄肝に銘じると約束しよう」 照澄の反応に取り敢えず納得したのか、麗人は「確かに聞いたぞ」と素っ気無く云って、以後沈黙した。代わりに先程から――何時からかは定かでは無いが確かに菊絵の隣に居た筈の――真っ白な少女が「はい、はい、はーいなのです」と正座した儘小さな手を伸ばしていた。傍らには旅行鞄が置いてある。 「おや気付かなんだぞ、御主も何か用か」 「始めまして、ゼロはゼロなのです。宜しくなのですー。うんとね、ゼロからも一つ御願いがあるのです」 「はは、愛い童じゃ。申してみよ」 「畏れ入るのです。えっとね。城内の人達に、危なくなったら躊躇わずに退く様に伝えて欲しいのです」 「無理はさせるなと?」 「なのです。レタルチャペカムイさんはゼロ達が全力で御相手するのです。今迄御互いに色々在ったので激闘は不可避につき少なからず周囲への被害が懸念されるのです。身動きの取れない怪我人が居るときっと捲き込まれて仕舞うのです」 「『成る程』な……――相分った。爺、其の様にせよ」 「…………御意」 若い主に命じられ苦渋に満ちた聲で取次役は呻く。其の態度の奥に見え隠れする、仔細迄は判ぜぬがどす黒く浅ましい情念に、霧花は虫唾が走る心地がした。 ――それにしても、 奇兵衛や碧ならば兎も角、こんな小さな娘の――事と次第では自身の生命が危ぶまれかねぬ類の――大掛かりな依頼を、照澄はあっさり認めた。豪胆さでは無い、ゼロにさえ秘められた力を宿す事を見透かしての事か、単に何も考えていないのか。何れ御飾りを自称して人の上に立つ者としては相応しい器の様だけれど。 ――面白い。 この男なら――霧花は予てよりあった悪戯心に従う事を決めた。 「小難しい話は仕舞いかえ。なら――」 腰を下ろした儘、すいと前へ進み出て傍へ寄ると、照澄が僅かに身を引く――初めて見せた心の隙を突く様に、彼の手を諸手で優しく包み込んで。 「お?」 「――餅は餅屋、戦はつわものに任せて……」 掌中の拳が固く握り締められている。堪えるのは未熟な証、駄目押しに悩ましげな眼差しを送り、猫撫で声で微笑みかけ――徐に身を引いて、霧花は居住いを正した。 「公もさぞや御疲れであそばしょ。戦の支度をしている間、せめてもの労いにひとつ、拙い舞踊なんぞ如何かえ?」 「おお? おお」 斯くして照澄は、妖狐の術に落ちた。 ※ 『レタルチャペカムイは侵入する際、菊絵が入城した際の経路をなぞる』と見立てたゼロと、『狙いが菊絵、照澄と明確である』とした奇兵衛の提案に拠って、旅人達と将軍が面会した広間――即ち此処が其の儘迎撃に使われる事となった。 又、城外からの要請で将軍家御墨付きの空文を百通と、城中に控える僧の借用を求め、霧花に骨抜きにされた照澄は是等を二つ返事で了承、手配させた。 故に今、穐原城は市中の様に人々が忙しなく往き交っているのだが――旅人達はと云えば――菊絵の伴奏の元、霧花が披露する涼やかで艶のある舞に興じていた。照澄が品の無い手拍子迄つけており、まるで廓のひと時である。 そんな中、 「奇兵衛、伝えておきたい事がある」 碧は傍らの紙問屋に聲を潜めて云った。 「……あたしに何か」 「奴が自分に憑依した時は容赦するな」 「――、」 腕と性を見込んでの言か。 奇兵衛は表情を変えず見向きもせず、併し僅かに剣呑な色を宿した聲で問う。 「……本当に宜しいんで?」 「殺せと云う意味では無いからな」 碧は念を押してから、「だが」と酷く人間離れした都合を打ち明けた。 「首さえ繋がっていれば後は如何とでも為る。……そう云う事だ」 「其れは重畳――いえ冗談ですよ。万に一つもそうならない様に此方も手を打っては置きますけれどもね……覚えておきましょう」 一瞬だけ酷薄に笑んで、男は了承する。其れを認め、碧は会話を終えた。 「噫……」 やがて舞踊と三味の音が止み、照澄の手拍子が大袈裟な拍手へ転じた頃。 城内の喧騒は失せていた。 ゼロが用意した巨大な壜――無論本来はゼロの掌に乗る寸法だった――に菊絵は目を丸くするばかりだった。 「この、なかに入るの?」 「決着がつく迄の辛抱なのです」 「え、と……」 「勿論只大きいだけでは無いのです。百人乗っても大丈夫なのですー」 ゼロに拠れば、この壜は巨大化の際に謎バリアー“極限エニグマシールド”が施され、破壊不能な域迄強化されていると謂う。其の効果は思念物理の両面に及び、如何にレタルチャペカムイと謂えど破るのは難しい。……かも知れない。尚、同謎バリアーは四人の旅人並びに菊絵自身、照澄や城中の者達ほぼ全員にも、先程霧花が踊って居る間に施術済である。 「うん、でも……」 「菊絵さん」 友人の説明を受けても尚躊躇う風の菊絵を見かね、奇兵衛が聲を掛けた。 「どうぞ三味線を弾いて待っていてくれませんか」 「…………」 「もう直ぐ貴女のおっかさんが来ます。でも、おっかさんはおっかさんです。貴女で無い者に惑わされちゃいけません。菊絵という心を確と御持ちなさい」 「私を……?」 「そうです。今迄会った皆さんの事、真逆忘れていませんよね」 菊絵は想い出す。 身を挺して自分を庇い、励まし、笑顔で林檎をくれた子。 煙管を咥え乍ら、よく話しかけてくれた羽織のおっちゃん。 散歩をした、泣きそうな顔をしてばかりの綺麗な着物の子。 いつもそっと背中を支えてくれた朱い着物の優しい女の人。 それに、少し変わってて、けれど今も傍に居てくれる、ゼロと、一緒にこんな自分を護ろうとしてくれる奇兵衛、碧、霧花――外にも、凍土で保護された日から今迄知り合った凡ての顔を。 皆、菊絵を“只の菊絵”として接してくれた事を。 「――っ、」 「おおっと泣くのは今日を無事に過ごせてからにしましょうよ」 込上げてか目元を覆った菊絵を、奇兵衛は一寸慌てて励ました。 「云いたい事があれば、おっかさんに云っておやりなさい」 「でも中は防音なのです」 「え?」 「あ、そうか」 思念物理両面を外部から遮断する壜なのです――想わぬ横槍に呆気に取られた奇兵衛と菊絵に、ゼロは簡潔な説明を繰り返した。そして、微笑む。 「だからトラベラーズノートに書いてくれればゼロが代わりに伝えるのです」 「ふふ」 菊絵は涙を拭って笑い、奇兵衛――膿鳥畸兵衛(うみどりきへえ)――もつられて穏やかに笑った。 ――あたしが本当はなんだったのか、もう覚えてやしませんけれどね。 拾った童を育てる為に創った、人の形と其の名前。 親の様な、情人の様な、或はどちらとも云える執着――狂気の沙汰の類の。 だが狂気なればこそ、其の想いは本物だった。 もう居ないあの子も菊絵の様に、儀莱の様な処に逝ければ善いと祈り。 故に、菊絵には嘘をつかず護ってやりたいと想った。 先刻碧に嘯いた不穏当な言で脅かしたりはせずに――。 「0世界で貴女を想う人達に、佳い知らせを……届けさせて下さい」 「……はい!」 「――話が済んだのなら、そろそろ入って貰おう」 碧が軽々と壜を横たえ、促す。菊絵が用心深く入り込む間に蓋を携えた麗人は、「御前の望み、叶うといいな」と独白の様に囁き、厳重に栓をした。 菊絵の瞳には活力が充ちていた。 麗人の背に生えた“翅”が微細な――併し彼女に取っては忌わしくも最早馴染んだ――死の気配を捉えたのは、壜が立てられた直後の事だった。 「来たぞ」 「始めるのです」 碧が回廊へ続く襖を開け、翅から異変に注意を向ける。ゼロは其の脇を抜け、旅行鞄片手に室外へ出た。 「ではあたしも」 奇兵衛は壜と照澄――下手な別行動より安全と見做され同伴している――に無数の紙を放射して結界と成し、二度重ね、彼等の姿を包み晦ました。更に広間の両手へ紙束が放たれ、散り、固まって。やがて菊絵、照澄、霧花、碧、ゼロ――そして奇兵衛と、城仕えの者数名の姿と為った。 「なんと見事な……!」 本物の照澄は驚嘆し、想わず壜の陰から顔を出した処を、 「出て来ては駄目じゃ」 霧花にぐいと押し返される。 「幾ら精巧にこさえたって本物が居ては気取られてしまうからのぅ?」 「奴を甘く見るな」 「お、応、済まぬ済まぬ」 すっかり霧花に主導権を握られ、駄目押しで碧が脅すと照澄は縮こまった。 廊下に出たゼロは舞手にして指揮者の如く量の腕をふわふわと振い、其々の掌からは光粉とも呼ぶべき微細に輝く粒子が霧状に放たれている。其れは城中を巡り、ありとあらゆる空間に、意味ありげで無意味な無数の情報が充満してゆく。 其の名も“無限ヴォイニッチキャノン”――嘗て壱番世界の東京を襲った赤の王への嫌がらせとして使われた、曰く謎光弾。 其れを表裏逆の異世界の同位置に在る花京にて、矢張り白虎神への嫌がらせとして行使する辺り、数奇と云う外あるまい。此度はレタルチャペが展開するであろう幻覚に干渉し、あわよくば散らして仕舞おうと云う目論見である。同時に思念体であるレタルチャペ自身にも何らかの悪影響を及ぼす事が期待された。 「次なのです」 一頻り散布を終えたゼロは、更なる仕込みの為、トランクを開いた―― 「――!」 ※ ※ ※ 「――奇兵衛」 「ええ、其の様で」 「霧花」 「心得ておる」 「よし」 奇兵衛と霧花の緊張感に欠けた笑みは、彼等の力が信に足る事を示す。碧は頷き、一分の隙も見せるまいと全神経を翅と四肢、双眸に満たし、僅かな時を待つ。 あれからゼロは戻っていないが、彼の娘の事何某かの策を決めて動いているだろう。其れよりも―― ――居る。 広間は廊下側から使途に応じて間仕切りする為の襖が凡て閉じられ、皆が控える此処は最奥に当る。そして菊絵を除く誰もの背筋が、頬が、手がちりちりと火で炙られた様に、併し熱は帯びずいっそ冷たく、疼く。次第に強く、激しく、生きとし生ける凡ての者に取り脅威足り得る昏い意思が、直ぐ其処迄。 「…………」 レタルチャペの様に深い執着を持つには、裏に必ず何かが在る。 又、其の裏の為に雪深が消えた事も、 ――あの時、庇われたとも解っている。 尤も、だからと云って遣り辛いとは想わない。 自分は自分の要求を――そして父との約束を守る為にも、此処に来た。 生き残る事。弱きを護る事。 時に相反し得る二つの約束に、父との繋がりに、碧は執着する。 ――私を恐れずに触れたヒトは、本当に少なかったから。 父とは――『親』とはそうした存在の筈だ。 だが、奴は如何やら実の娘を依代に、我が物にしようとしている。 娘を気に懸けている、白焔を纏う男の方が、未だ碧の知る親に近しい。 ――そうだ。あの男にも借りがある。 借りも此処で返す。自分は弱き者――菊絵を生きて護り通すだけだ。 ――みていろ。 「若!」 突然襖が開いた――かと想えば顕れたのは取次役の老人だった。 「……?」 ――何の真似だ? 碧は意想外乍ら驚くに値しない出来事に僅か眉を顰める。其れに対し老人は室内をざっと見廻し、照澄と霧花の傍に控える自身の姿を認めるや、驚嘆を通り越して戦慄すら其の顔に浮かべていた。 「奇怪な……是は一体!」 ――違うだろう。なにしろ御前は、 「おっかさんですからねえ――」 「!!」 何方よりか奇兵衛が碧の思考を補完し、同時に吹雪と呼ぶには些か大きな無数の紙が、老人の周囲をはらはらと巡り渦巻き始めた。一部は襖を閉じて張り付き結界と為す。老人は俄か硬直するも、直ぐにはらりと俯き、邪な笑みを浮かべた。 『――ふ。ひさしぶりにお城に来てみれば。空気が悪くてかなわないから、ちょうどいい『おべべ』をみつくろってみたのだけれど』 悪意に満ちた女の聲は、けれど気だるげで些かもうろたえていない。 『でも、つまらないわね。少しぐらい付き合ってくれたって好いでしょうに』 ――巫山戯るな。 『おまえ達だって紙人形でふざけているのではなくて……?』 老人の口を借りる女妖は奇兵衛の“紙奇”を指摘し乍ら、けれど手出しはしない。他方其の足元より紙吹雪とは逆廻りの、朱が豪と立ち上り吹き上がり彼、或は彼女の全身を覆う――奇兵の繰る紙片は其の手足目掛け四方へ集うも、迸る朱の本流に弾かれ、飛散する。 「ほお、これは参りましたな」 「――そうでもないさ」 感服とばかり聲を挙げる奇兵衛は尚も姿を見せず――奇兵衛に限らず各々は何れかの偽者の影に潜んでいるのだが――直後に碧が拳を振り被る姿勢で飛び出す。時同じくして朱が晴れ、巨大な白虎の双眸が迫り繰る“瘤種”の戦士を捉えた。 ――だろうな。 想定内だ、先ずは叩き伏せる――銀の髪と翅が靡く、手甲に覆われた拳を撃つ、だが、 「!?」 『ガアアァァァァ!』 敵は其れを厭わず咆哮す、斑の巨躯からナニモノかが螺旋に伸び、分たれて――びたびたと忙しなく品の無い触手染みた異形共が一斉に紙奇の偽者達に襲い掛かった。碧は再度殴る、胸部に細い豪腕を穿たれた白虎は倒れ伏した儘、凶暴な顎門から多量の血を吐いた。 ――なに? 依代にエニグマシールドとやらが施されているにしては損傷が大きい。まさか――! 「“其の男”には手心を加えんでも好かろう」 ワームの一体を屠った女狐がそんな事を云った。 「或る意味で白虎なんぞよりも邪じゃ。何を考えてるのか知らないけれど――やれやれこやつ等じゃあ喰らう訳にもいかんかえ」 又一匹を潰して事も無げに。口惜しげに。 白虎は碧の下で仰向けの儘、ぐるると呻き聲を上げるのみ。 「ははあ、読めて来ましたよ」 奇兵衛が鋭利な紙を四方に放ち、同じ数の異形を倍の数へとぶつ斬りにする。 「差し詰め“生き証人”と云った処でしょうかね」 「そもじの云う通りかのぅ。生かした処で国が傾く禍事の種」 「なんだと」 否、碧にも察しはつく。懼らくは五十年前の――或は穐原煌耀の支持者か。ならばレタルチャペは――自分を利用して怨みのひとつを果たそうと? 碧の下で虎が凍気と瘴気と朱と血を漏らす口をにやあと歪める。 「殺した処で誰も怨みはせんじゃろ。白虎を討つには又と無い機ぞ――」 霧花の甘言に、併し碧がより途惑う事は無かった。何故ならば、 何時の間にか閉じた襖の前――菊絵らしき少女が背を向けて立っていたからだ。 「『おかあさん』」 碧は組み伏せていた白虎が突如脱力し、瞬く間に重傷の老人に変わり果てるのを確かめもせず、我が目を、翅を、疑いたくなった。 「何が起きた」 奇兵衛も又動揺こそしなかったが、些か驚きはした。菊絵の入った壜からは片時も眼を離しておらず、然るにあれは偽者なのだと即座に判断出来たからだ。 ――でも、誰の仕業だい? 白虎自身の幻術で無けりゃ、後は、 「……成る程ね」 独り合点がいき、ほくそ笑む。如何なる手段を用いたのか興味は尽きぬが、ともあれ。白虎が老人から離れたのは“生きた菊絵”の姿に惹かれたと見て善かろう。 「『おかあさんには無理だよ』」 菊絵らしき娘がそう云うと、彼女の後ろに母であった者の姿がじわりと浮んだ。屡明滅したり僅かな膨張収縮を繰り返しているのは、撒布された謎光弾に因る物か。更に、先の碧の一撃で既にかなり弱っているのかも知れない。 『お黙りなさい。おまえごときが何をいう』 「『“私”だからわかるの。おかあさんにはもうなにも遺ってない』」 『まだあるわよ――おまえの身体がね』 「何だい……あたしもあんたも」 レタルチャペは本当に正気では無くなって居たのだ。己と同様に。 奇兵衛は呆れた様に語散てから、ふと想った。 若し、嘗てレタルチャペを宿したソヤという女が西国の滅亡を望んだなら如何なっていたのだろう、と。懼らく彼女の魂が消える事は免れたのでは無いか。 だが、死んで仕舞ったのならば、せめて――静かに弔って遣るべきだった。 そも、菊絵はソヤが身篭った、ソヤの子だ。 主の死を悼む余り、怨念に駆られる余り其の娘を只の道具と見做すなら、最早、 「――許さないよあんた」 奇兵衛は狂気にも似た憤りを燻らせ、紙を支度した。 「『私はおかあさんじゃない。私は私だもん』!」 『なあに? 菊絵。私にさからえるとでも想っているの?』 「『…………』」 『だったら……望んだとおりにしてあげようじゃない……!!』 仮初の母娘の会話は、母が娘の首を締めた瞬間に終わりを告げた。 事態を刹那に把握した碧が距離を詰める、奇兵衛が四つに分けて前方に紙を飛ばす、何時の間にか部屋の片隅に居たゼロは諸手を前に翳し何らかの――謎の理力を菊絵に向かい放射する。白虎は何れにも劣らぬ速度で菊絵――らしき何かに自らの姿を重ね合わせ、 『――! これは、』 其の内面が死したソヤの身体同様、伽藍洞だった事に愕然とした――。 直後。紙束が彼女を雁字搦めにし。碧が再度組み倒し。 謎の理に法る力が広がって娘の姿を包み込んで、直ぐ縮み。 『く……!?』 レタルチャペは偽りの肉の中に宿った儘、一切の身動きが封じ込まれた。 碧は手甲から刃を伸ばしたが、 「待って下さいなのです」 とゼロに制されて、一旦は手を止め、首筋に突き付けておくに留めた。 「これは御前が用意した紛い物だろう。今更何を躊躇う」 「ゼロは凡ての安寧を望むのです」 「……如何する気だ」 「うんとね、この場に終さんを呼んでみる事をゼロは提案するのです」 『…………なん、ですって?』 この返答に最も驚いたのは、外ならぬレタルチャペカムイだった。 尚――突如顕れた偽菊絵は、ゼロが予めターミナルの医務室から――『非常事態』を掲げて少々強引に――得た菊絵の検査情報とナレッジキューブを元に作り上げた、謂わば自我無きホムンクルスとも呼ぶべき代物だった。 更に、ゼロは其れを薬物で極限迄弛緩させてからトランクに詰め込んで来ていた。後は、レタルチャペが取り憑いた取次役の老人が広間に侵入するのを見計らって自身もトランクごと『何時の間にか』後を追い、室内に紛れ込んでトラベラーズノート片手に状況を見乍ら機会を窺っていたのだという。 声真似は無論菊絵自身の其れでは無く、あらゆる状況下で意思疎通に不都合の無いゼロが、只単に壜の中の菊絵から受信した物を読み上げただけだった。 そして――。 ※ ※ ※ 重傷者が出たとの連絡を受け、霧花は出入り口迄降りて城外を護った旅人達を迎えた。彼女のトラベルギアならば完治はせずとも或る程度癒す事は出来る。 「頼む」 片翼を失した天狗は隻腕の男をうつ伏せに寝かせ、九尾に施術を促した。 「又手酷くやられた物じゃのぅ」 霧花は然も痛ましそうに眉根を寄せた。悩ましげに自らの唇に触れ、負傷者――沼淵の抉れた背中を見遣る。そして直ぐに巾着の中から幾つかの透き通った玉を取り出すと、其の内の一つを男の口に放り込み、残りは掌で磨り潰して傷口を揉む様に塗り込み始めた。 「ぐっああっ……!」 手の動きに併せ激痛が駆け巡るのであろう、手足に力を込めて凌いでいる。 「おお痛かろう。けどこのくらい我慢する事じゃ。――そもじも要り用かえ?」 「否、おれはいい」 「其方のにいさんは」 天狗が即座に固辞したので、霧花は動作を続けた儘、独りだけ無傷の――併し最も落ち込んで見える青年にも一応訊ねてはみたが、 「…………」 聞こえているのかいないのか、応えは無く。青年は胡乱な足取りで城内へと向かった。天狗が自ら握り締める何かを確かめてから、気遣いげに後を追う。 「……ふぅん、まぁいいじゃろ」 霧花は素っ気無く其れだけ云って、治療に専念する事にした。 何があったのかは、訊く迄も無い事だったから――。 別室で青年とレタルチャペが密やかに邂逅する中。 やっとの事で壜から出られた菊絵の元に、天狗から勾玉が届けられた。 「行き成り渡しちゃって大丈夫なんですか?」 奇兵衛が天狗に問えば、浄化が済んでいる旨が告げられた。 ――なら、後は菊絵さん次第ですかね。 出来る事なら宝珠抜きで生きて欲しいと想うけれど。 菊絵は皆が見守る中、手の中の勾玉を暫しの間見詰めていたが、 「――……!」 徐に其れを口に運ぶと――呑み込んだ。 以前の様に豹変する事も無く、何も変わりの無い、菊絵の儘だ。 真理数が瞬き始めた事を除いては。 「是でもう、白虎は――西方守護者は居なくなっちゃいましたね」 奇兵衛がそう云うと、菊絵は屈託の無い笑みを浮かべて胸に手を当てた。 「そんなことない。――ここに、いるよ」 「そうか……そうですね」 龍王は菊絵を次代の白虎とする心算なのだろうか。菊絵が己を認めた今、宝珠を抜き取ったとて最早其の存在が危ぶまれる事は無いのでは、奇兵衛はと想う。が、仮に其れが可能ならば、其の必要があるならば、何れ自ら為すのだろう。 何れにせよ時が来れば解る事だ。 「……又暴れ出したりはしないだろうな」 「きっと大丈夫なのです。もし何かあったら又会いに来るのです」 碧が冗談とも本気ともつかぬ事を云い、ゼロも又聞き様に拠っては不穏な言を返す。 「おお、そうじゃ。其の方等ならば穐原家一同、何時でも歓迎しようぞ」 「是非そうさせて戴くのですー」 「機会があれば」 ――なんだ。心配要らないじゃないか。 一同の和やかな様子を見て、奇兵衛は胸の支えが取れた心地になった。 あの鬼気を孕む遊び人に、好い土産話が出来そうだ。 この時、別室で如何なる遣り取りが為されていたかは、定かでは無いが、少なくとも其の後、レタルチャペカムイの思念に人々が脅かされる事は無くなった。 西国は太平の世を迎えたのだ。
このライターへメールを送る