★ 胡蝶の夢 ─カレン・イップ最後の事件─ ★
<オープニング>

 銀幕ベイサイドホテルの一室。窓から見える風景は、海とダイノランドのはずであり、晴れていれば非常に素晴らしい眺望が望めるはずだった。しかし現在の時刻は21時30分。外は闇に包まれていた。
「──笑わないで聞いてくれよ」
 右手の人差し指で少しネクタイを緩めながら、市会議員──岩崎正臣は切り出した。
「私は子どもの頃、映画監督になりたかったんだ」
 へえ、と気の無い返事をするのは、その正面のソファに腰掛けている痩せた男だ。頭を剃り、部屋の中だというのに黒い皮のコートを着たままである。膝の上に両手を置いており、右手の人差し指を怪我しているのか、包帯を巻いていた。
 犯罪結社の金燕会に所属する闇医者、陰陽だった。
 彼は不機嫌そうに目の前の政治家を見ながら、両足を組みなおす。
「当時は、ちょうど邦画に陰りが見えてきたころでね。映画は斜陽産業だったんだが、それでも父は忙しくしていてね。遊ぶ相手の居ない私は、体良く映画館に放り込まれていたというわけだが、そのおかげで私は瞬く間に銀幕の世界の虜になった」
 岩崎が身を乗り出すと、彼の座っているソファが微かな音を立てた。
「……聞けば、ああした映画を作っているのは“映画監督”という人種だそうじゃないか。それに成れば、あの銀幕の世界の中に入れるのかと、子どもの私はそう思った」
「岩崎さん」
陰陽がふいに口を挟んだ。「僕は、あんたの無駄話を聞かされに呼ばれたのかい?」
 そう言われて。岩崎は手を軽く挙げて微笑んだ。まあ、待てと目が言う。
「まあ結局のところ、私が映画監督の道を選ばなかったのは君も知る通りだ。映画をつくるには金も手間もかかるのが最大の理由だが、もう一つ、私が今の道を選んだ理由がある。それが君には分かるか?」
陰陽は首をかしげてみせた。間。やがて、闇医者は首を横に振る。「さあね」
「話を変えよう」
 急に岩崎は口調を変えた。

「私は来年2月の議会に、柊市長の不信任案を提出しようと考えている」

 眉を上げる陰陽。
「すでに各会派に手は打っている。2月議会で市長の不信任案が可決されれば、任期半ばであっても彼は職を失うことになる。そして次期市長を決める選挙は3月末に行われるだろう」
「へえ。いよいよか」
 ようやく本題に入ったかと言わんばかりに、陰陽は少し身を乗り出した。
「で、どういうネタで奴を失脚させるんだい?」
「アズマ超物理研究所だ」
視線を動かさず、真っ直ぐに相手を見ながら岩崎は続けた。「ああいった危険な連中を街に引き入れたこと。それも市民の意見ではなく選挙権を持たないムービースターの意見を取り入れたこと、それ自体さ」
「なるほど」
「そして、あの“穴”の件だ。──さあ、ここまで言えば分かるだろう?」
 岩崎はわずかに声を潜めた。
「あの、アズマ研究所を受け入れたのに、ムービーキラーが発生し続けていることを取り上げて、それを最大の争点にする。“しかるべき筋”から仕入れた情報によると“穴”が危険だということを分かっていながら、連中はそれを市民に公開していなかったのだからな」
「ま、いずれ公開するつもりだったのかもしれないけどね」
陰陽もうなづいた。「ウチらが研究データを盗み出したせいで、それが分かったわけだし」
「そういうことだ。君らが盗み出したデータは不完全らしいが、そんなことはもはや私には関係ない」
 断言するように岩崎は言った。

「──問題は、あのアズマ研究所が市民にとって危険な存在であること。そして現市長が、彼らとあの“穴”に対して充分な対策を取っていないことだ」

 フン、と陰陽は鼻を鳴らし、組んでいた足を解いた。
「話は分かったよ。で、僕の役柄は一体、何なんだい?」
「……スポンジに生クリームを塗りつけて、ケーキに最後のデコレーションをする作業だな」
 ニヤリと笑う岩崎。
「『ホワイト・インフェルノ』という雪山を舞台にしたアクション映画を知っているか? それが今、杵間山の中腹にムービーハザードとなって実体化した。その中にホテルが一つ飲み込まれてしまったのだ。そこはいつ雪崩が起きるか分からない危険な場所になってしまってね。私はここを貸切にして、私の会社の新年会を開催するつもりだ」
一度、言葉を切り、「──もちろん、多数のムービースターや、柊市長も招待する」
「まさかそこで、市長を?」
 驚いたように陰陽が言うと、政治家は肩をすくめ首を横に振ってみせた。
「おいおい。君は私の話をちゃんと聞いていたのか? 市長は、挨拶の後すぐ退席するだろう。事件が起こるのはその後だ」
 眼鏡を外しテーブルに置くと、岩崎はゆっくりと自分のシナリオを話し始めた。

「新年会の最中、カレン・イップとムービーキラーが現われて、パーティをぶち壊すのさ。そして彼女たちの姿を人々が目に焼き付けた時、雪崩が起きる。多くのムービースターや、わが党の先輩方も雪崩に巻き込まれて死ぬだろう。そして命からがら逃げ延びた者たちは口々に言うのだ。──ムービーキラーが、多くの一般市民を殺した、と」

「──あんたは、被害者になるつもりなんだな」

 間を開けて陰陽が言った。その声は心なしか、少し震えていた。
「そうだ。私も、そして君も、命からがら逃げ延びる者の中に含まれているというわけさ。だが、当然カレンには死んでもらう。彼女には失望したよ。もはや武器にもならんからな」
 陰陽はごくりと生唾を飲み込んだ。
「あんたにとっての邪魔者を、一掃するというわけか」
「年越しの大掃除を、新年会に持ち越すのさ」
岩崎は笑った。まるでとっておきのジョークを話すように。「ようやく、私も“登場人物”の一人になる決心がついたんだよ」
「その口ぶりじゃ、雪崩も人為的に起こすつもりだな?」
「そうだ。映画の中でも、雪山に逃げ込んだテロリストたちがそうしているのでね。彼らには充分な金をすでに払っている。さらにホテルには爆薬も仕込む。カレンが仕掛けていたということにしようと思ってね。傑作だろう? ──建物は跡形もなく雪崩に埋もれて、ジ・エンド。スタッフロールが流れるのさ」
「僕たちの安全はどうやって?」
「地下シェルターと抜け道を用意してある。気になるなら、事前に見せてやろう。君と私のアライアンスの証明にもなるしな。……他に質問は?」
 問われて、言葉に詰まったように陰陽は身を引いた。
「ムービーキラーってのは、誰のことを言ってるんだ?」
「サイモン・ルイだ」
 声色を変えず、淡々と答える岩崎。
「例の“穴”に彼を放り込めばいい。例の研究所のデータによれば、それでムービーキラーを作り出すことが出来るんだろう?」
「ま、まさか僕にそれをやれと?」
「なあに、簡単だよ」
 岩崎はじっと陰陽の目を見て言う。
「カレンを誘い出すのは私がやろう。君はサイモンを連れ出し、彼女があの穴の中を見に行って帰ってこないとでも言えばいい。あの男なら、必ず穴に向かうだろう。君はその背中をポンと押してやるだけでいい」
「……」
 長く息をつく陰陽。本当にそれで上手くいくのだろうか、と相手の顔を見ながら、迷いを隠せない様子である。
「そもそも、葉大──いや、カレンをどうやってパーティ会場に? あんたも知っての通り、今やあの女は全く使い物にならないぞ」
「君は案外、気の回らない男だな」
岩崎はため息をつきながら、懐に手を入れた。「彼女をおびき出すには、彼女の夫ディーン・チョイの話をすればいい」
 と、彼が取り出したのは2、3枚の写真だった。
 陰陽はそれを手に取り、思わず眉を潜める。
 そこに写っていたのは、身体中を切り傷だらけにされた男の姿だった。コンクリートの味気ない床に鎖で手足を縛り付けられており、拷問でも受けたのか惨い仕打ちを受け、虫の息といった様子で横たわっている。
 彼はその男と面識は無かったが、それが誰であるかはすぐに分かった。
「ディーン・チョイか!? 奴がもう一度実体化したってのか?」
「違うよ」
 岩崎は、陰陽の反応に満足したように腕を組んだ。
「最近、面白い連中と知り合ってね。“自主映画制作代行サービス”と言って、写真一枚から任意の自主映画を作ってくれるのだ。──その写真は完成版の映画からとったものだが、カレンにはきちんと動画で見せるつもりだ。彼女がホテルに乗り込んでくるには相当な動機になると思うがね」
「確かに」
 闇医者は写真を食い入るように見つめたまま、頷く。
「だが、事情を知って、あの女に協力しようなんて奴が現われたら厄介じゃないかい? 僕はそんな気がするんだがねえ」
「それはそれだ。大多数の銀幕市民にとって、カレン・イップは“ヴィランズ”なのだ。彼女が夫を人質に取られて私を狙う……なんてことを、一般市民の誰が信じる? 彼女は夢から生まれた存在なのに、この街に住む住民の安全を常に脅かしてきたのだ。結果がどうあれ、証拠も出ないのだ。あの女に同情する市民は誰もおらんよ」
と、岩崎は相手に片目をつむって見せ、「何なら、またカレンの予告状でも用意しておこう。それで万全だろう?」
 ふうと息をつき、市会議員はテーブルの上の写真をゆっくりと回収した。窓の外に目をやり、もう一度長く息をつく。

「私はこの街の住人だ。考えてもみろ。やがてこの街の夢は消え失せ、後には我々だけが残るのだ。夢の神やリオネのことなど知ったことか。神の采配などを待っている時間など私には無い。銀幕市は我々のものだ。全ての夢が覚める前に、この街の現実を、我々自身が取り戻すべきだ」

 陰陽も、長く息をついた。
 同感だよ、とうなづき、彼も──笑った。
「心強い仲間がいて、頼もしい限りだよ」
 岩崎はそう言うと立ち上がった。そして、隣の部屋から秘書を呼ぶと、上等のスコッチを持ってくるように言いつけた。

種別名シナリオ 管理番号330
クリエイター冬城カナエ(wdab2518)
クリエイターコメント★ご注意★
「ポスターの貼られた壁(ライターお知らせ掲示板)」で広報させてもらった通り、大変、申し訳ありませんが、前もってご参加の人数を把握させていただいた上で人数枠を設定しております。冬城に参加の意志を伝えた記憶のない方で「やっぱり参加してみようかな」という方は、ご参加を3日ほどお待ちいただければ幸いです。前もって参加されたいと希望された方が揃うのを、どうか待ってあげてくださいませ。。


■シナリオの概要
市会議員、岩崎の会社、広告代理店『(株)カメラワーク』の新年会が今回の舞台です。
岩崎は自分の新年会をカレンにわざと襲わせた上、自分は安全なところに逃れた上で、ホテルごと雪崩と爆弾で集まった客とカレンを殺害するつもりでいます。
パーティ会場や背後の雪山には、岩崎が総力を結して自分が支援しているムービースター、エキストラのヤクザやらテロリストやら様々な者たちを配置しています。

■導入のパターン例
@この新年会の招待状をもらった。もしくは裏方や手伝いに呼ばれた。
A対策課からカレンの襲撃の予告状の話を聞き、警備のために現場へ。
Bなんとなくキナくさいものを感じ、現場へ。
Bその他、ご自由に。

■プレイングに入れて欲しいこと
「パーティ開始前」「パーティ開始後」と大まかにセクションが分かれますが、ご自由にどうぞ。
あと重要なのが、PCさんの見せ方として、以下の二種からどちらかをお選びいただきたいです。

【選択肢1:「岩崎の陰謀に感づく」クールに事件の裏に気付いて、捜査や探索をしたい】
【選択肢2:「岩崎の陰謀に気付かない」起こった事件にカッコ良く対処したい】
※どうやって気付くかについては、そんなに言及しなくてもいいです。

あとは、
・カレンにどう接するか。
・ムービーキラーのサイモンにどう対処するか。
・雪崩と爆薬にどう対処するか。
……ぐらいでしょうか。

■その他補足
カレンは性格的に他人に助けを求めるようなことはしません。少数精鋭で、現場に乗り込むことになります。陰陽の裏切りについては気付いていません。
また、サイモンはムービーキラーとなって登場することになります。彼はカレンとは別行動です。
サイモンは正気を失っています。彼がカレンの味方をするとは限りません(笑)。
皆さんがカレンにどう接するかによって、彼女の行く末を決めさせていただくつもりでいます。


ほんと、毎回、こまごまと、くどくどと、すいません。
長い期間をいただいて、みっちりと全力で書かせていただきます。

参加者
ユージン・ウォン(ctzx9881) ムービースター 男 43歳 黒社会組織の幹部
フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
ランドルフ・トラウト(cnyy5505) ムービースター 男 33歳 食人鬼
シュウ・アルガ(cnzs4879) ムービースター 男 17歳 冒険者・ウィザード
リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
白姫(crmz2203) ムービースター 女 12歳 ウィルスプログラム
柊木 芳隆(cmzm6012) ムービースター 男 56歳 警察官
ディズ(cpmy1142) ムービースター 男 28歳 トランペッター
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
ソルファ(cyhp6009) ムービースター 男 19歳 気まぐれな助っ人
朝霞 須美(cnaf4048) ムービーファン 女 17歳 学生
レモン(catc9428) ムービースター 女 10歳 聖なるうさぎ(自称)
刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
八之 銀二(cwuh7563) ムービースター 男 37歳 元・ヤクザ(極道)
冬月 真(cyaf7549) エキストラ 男 35歳 探偵
<ノベル>

***

 蝶になった夢を見た。

 自分が蝶になって、ひらひらと花や草木の上を飛び回る夢だ。
 とても楽しい夢だった。
 だが、目が覚めた時、
 自分は蝶ではなく、ただの一人の女に戻っていた。

 ふと、分からなくなった。

 あたしが夢を見て、蝶になったのだろうか。
 それとも、あの蝶が夢を見たから、ここに葉嘉恩がいるのか。

 蝶が夢を見なくなったら、すべて消えるのだろうか。
 この悪夢は終わるのだろうか。

***

 ハロー、カレン・イップだ。
 1月15日、杵間山で行われる株式会社カメラワークスの新年会に、市長やムービーファンが多数招待されてるんだってね。招待状はもらっちゃいないが、あたしも挨拶に行ってやろうと思う。
 新しい年を祝って、派手な花火でもひとつ、ブチかましてやるよ。

 どこか暗い場所にある液晶パネルに、映像が映し出されている。
 頭上からの奇妙なアングルから見えているのは銀幕市役所のオフィスだ。スーツの若い男──対策課の植村直樹が、目の前に集まった数人のムービースターに、また新たな事件の概要を説明している。
 対策課の中を、どこからか盗撮した映像なのであろう。
 その中で植村がパソコンを操作し、対策課にかかってきたという電話の録音データを再生して、皆に聞かせていた。
 彼が言う。これは犯罪結社、金燕会のカレン・イップからの犯罪予告の電話だと。彼女たちは杵間山の中腹にあるホテル・ミヤマで、明日行われる広告代理店カメラワークスの新年会を、何らかの手段で襲撃するつもりらしい。だから皆さんには会場の警備をお願いしたい──。

 と、女の手がリモコンを掴んでその映像を消した。

 その手の持ち主は──当の予告電話をかけてきたとされるカレン・イップだった。
 白いチャイナドレスを着た彼女の、色白の顔はさらに青白くなっていた。そこはどこかのバーの中である。暗い店内に立ち尽くした彼女は、歯を噛み締めたように唇を歪めると、いきなり手にしていたリモコンを床に叩きつけた。
 あのクソ野郎──。その口から呪詛が漏れる。
 物音を聞いてか、すぐにドアが開いて、もう一人の人物が部屋に入ってきた。スキンヘッドの男、彼女の部下の陰陽であった。
「──岩崎と連絡は取れたのかい?」
 部下の方を見ることもなく、怒りに打ち震えたままのカレンが問うた。
 陰陽は、かぶりを振る。
「本人にはもう連絡はつかないね。だが、代わりにメッセージがメールで送られてきた」
「メッセージだと?」
 女ボスが自分の方を振り向くと、陰陽は眉間に皺を寄せてもう一度かぶりを振った。
「明らかにあんた宛のものだ。少し刺激が強いようだが……見るかい?」
 カレンはうなづいた。

 市会議員の岩崎から送られてきたメッセージのタイトルは「新年祝賀会、招待状」とあった。メールには他に文章はなく、映像ファイルが添付されていた。しかしその中に登場するのは岩崎ではなく、別の男の姿である。
 陰陽のパソコンに映し出される動画を見て、カレンは一瞬にして凍りついたように動きを止めた。瞬きすることも忘れ、映像に見入っている。
 途中で部屋に、詰襟の制服姿の少年が入ってきたことにも気付かず、彼に声を掛けられたことにも気付かず、カレンは動画を見続けた。
 メッセージの登場人物は二人。後ろ手に縛られ床に転がされた男と、観客に背中を見せ、それを見下ろすもう一人の男である。後者が、壁にたてかけてあった大きなバールをゆっくり手にする。50センチほどの長さのある鉄製のものだったが、本来の釘を引き抜く作業にそれが使われるのではないことは明らかだった。
 カレンが息を呑むのと同時に、男はそれを犠牲者に振り下ろした。
 1分程度の短いものだったが、その間パソコンの貧弱なスピーカーから鈍い衝撃音と、抑えた悲鳴が途切れることは無かった。
 ガラン、と男はバールを床に放る。彼が身体をどけると、そこには苦痛に顔を歪めながら惨めな姿を晒す男が横たわっている。頭から顔へと、つつと流れる血。そして──フェイドアウト。
 画面が暗闇に覆われたとき、カレンはつぶやいた。ディーン、と。自分の夫の名を。
 彼女は自分の顔を両手で覆った。
 
「陰陽」
 次にカレンが自分の顔から手を離した時、その隻眼には新たな光が宿っていた。
「新年会の招待客リスト、分単位のスケジュール表、ホテルの見取り図。それから車と、スノーモービルを一台ずつ用意しな」
「待てよ、葉大姐」
 陰陽が慌てた様子で言った。「これは罠じゃないのか?」
「そんなことは分かッてる」
鼻を鳴らし、カレン。「お前は会場まで来なくていい。中に乗り込むのは、あたし独りで充分だ」
「──ボクも一緒に行くよ! 大姐」
 ずっと様子を伺っていた少年、ジミーが声を上げた。
「ジミー」
カレンは、ようやく少年に視線を移した。「お前にはサイモンを探せと、伝えたはずだよ」
 ジミーは空しく首を横に振る。
「呂哥々は、どこにも居ないよ。でも──」
「なら、早くあいつを見つけるンだ。それがお前の仕事だ」
「大姐!」
「会場に来たッていいさ。だがそんなことしてみろ、ジミー。金輪際お前とは縁を切る」
 どこへなりとも行ッちまえ。そうつぶやいてカレンは少年との会話を打ち切った。陰陽に短く何か言いつけると、立ち上がり奥の部屋へと足を進める。
 彼女の姿が扉の向こうに消えると、陰陽は首を振り振り、パソコンをアタッシュケースの中に収めてバーの外へと出て行った。
 ジミーは──独り残された少年ヒットマンは、呆然と立ち尽くしていた。その表情がぐにゃりと歪む。少年は袖で顔を押さえ、店を飛び出して行った。


 ──── どこにでも存在し、どこにも存在しない空間 ────


 暗闇。
 点から、生じた白い線。それが少女の像を結んでいく。
 ところどころで光を放つ、長い純白の髪を持つ着物をまとった少女だ。さわ、と衣擦れの音をさせて立ち上がり、少女は目を開く。
 赤。
 鮮やかな色をした瞳で、彼女は視た。
 一人の男がひどく殴られている映像と、それを見て動揺する女。
 少女は形の良い眉を寄せる。
 ──これは、わたしと同じモノ。
 映像は全てが造られたものだった。言い方を変えれば、彼女と同じように、全てがデジタル処理されているものだ。
 だが、彼女には分からなかった。なぜ、こんな映像が造られたのか。そして、なぜこの女──カレン・イップといったか。彼女がこんなにも心を乱されるのか。彼女が、なぜ自分の命を危機にさらすような行動をおこそうとしているのか。
 分からない。
 分からないが、この造られた映像は、今までこの街には無かったものだ。
 あの方──マスターなら、これをどう思うだろうか。
 少女は自分に言葉をくれていたヒトのことを思い出す。楽しむ、怒る、悲しむ……? たぶん、マスターは、こうしたことを望まない。
 彼女は、ぼんやりした光を放つ自分の両手を見る。

 白姫。それがわたくしの名前。
 自ら死を迎えることが出来ない者たちに、終焉を与えることがわたくしの役目。
 終わりを望むのか、望んでいないのか。それを見るのがわたくしの役目。

 少女の像が、崩れ落ちるように崩壊し、線へ、点へと姿を変えていく。白姫という名の、少女型ウィルスプログラムは、本来の姿に戻り、電子空間へと身を投じていった。


 ──── あるオフィスの一室 ────


 そうか。いや、ご苦労だった。可能性は限りなくゼロに近いが──もう少し捜索を続けてみてくれ。
 電話の相手にそう告げて、彼は電話をデスクの上に置いた。
 昼なのか夜なのかすら分からない、窓のない簡素なオフィスである。そこに男が一人。椅子にかけたまま長く息をついた。
 香港三合会、新義安のユージン・ウォンである。
 白人ながらにチャイニーズ・マフィアの幹部を務める彼の青い瞳は鋭く、何か深く考え事をするように壁の一点を見つめている。
 やがて、彼はもう一度長く息をつくと、深く椅子に身をゆだねた。そしてデスクの上の書類を手にとるとその紙面上に視線を走らせた。
 と、ノックの音がして、部屋に男が足を踏み入れてきた。ウォンはそれが部下であることを確認すると、また紙に視線を戻した。
「この街でも、雪が降り積もることは珍しいそうだ」
 部下の反応を待たずに、ウォンは話を続ける。
「あの杵間山の積雪はムービー・ハザードだと判断するのが正しいだろう。……まずは、どんな映画のハザードなのかを調べる必要があるな。どちらにしろ、雪の中で小人がワルツを踊るような楽しい映画ではないことは確かだが」
 彼は今まで見ていた紙を、部下の方へ追いやった。
「これを見てみろ。岩崎の会社、カメラワークスの新年会の招待客リストだ。議員関連の出席者が圧巻だな。これでは、まるで民風党の敬老パーティだ」
 部下は、立ったまま招待客リストを見て、言葉を漏らした。──これは、茶番ですか。
「そうだ」
 ウォンは、ゆっくり立ち上がる。
「岩崎は、この新年祝賀会で何か事件を起こす気だ。私のカンだが、カレンの予告電話というのもニセモノだろう。あの女には事件を起こす理由がない。おそらくあのクソ議員は、これを機会に自分の邪魔者を一掃する気だ。──もちろん、その中には、カレンも含まれている」
 まさか、あんな予告程度のエサで、あのビッチが罠にかかるはずがないがな。
 そう、ウォンが結んだ時。
 突然、彼の携帯電話がブルッと震えた。まるで人間が身震いするように……。ウォンは不審に思いながらも携帯電話のフリップを開いた。
 小さな液晶パネルには動画が映し出されていた。画質は悪いが、一人の男がひどく殴りつけられているのが分かる。そして、その被害者が誰であるのかも、ウォンにはすぐに分かった。
「ディーン・チョイか?」

「──違います」

 答えたのは少女の声だった。バッと部下が身を翻すのと同時に、ウォンは銃を抜いていた。
 ドアの前に、いつの間にか白い着物をきた幼い少女が立っている。
「誰だ」
「白姫と、いいます」
 ウォンの銃が、ピタリと自分に向けられていることに気付いても、少女は顔色一つ変えなかった。
「その映像は、岩崎正臣からカレン・イップに送られたものです」
 探るような目でウォンは相手を見た。少女は、そこに立っているというのに全く気配をさせていない。まるで、最初から存在しないように──。
「彼女は、それを見て新年会の会場に行くことを決めました。自分の夫が囚われていると、その映像を信じたようです」
「──お前は、これがニセモノだと言っているのだな」
「はい」
 少女の言葉を聞いて、ウォンは微かに笑った。面白い、とその口が言葉を紡ぐ。
「策士、策に溺れる、か。あの男が、酢どころかヘドロを飲み込むような顔をするのを、見物してやろう」
 言い終えて、彼は笑った。
 それは、まるで鮫が笑ったかのような、冷え冷えとした笑みだった。


 ──── ホテル、エントランスホール ────


 ホテル・ミヤマは四階建ての少々こじんまりとしたホテルである。
 リオネがこの街に魔法を掛ける前は、ある小さな建設会社の保養所だったが、数ヶ月前に突如、ホテルに姿を変えた。
 銀幕市民は、もはやこういう出来事には慣れっ子だったので、この杵間山の一角がどんな映画の影響を受けたのか注意を払う人間は少なかった。当の持ち主であった建設会社も、業績の悪化を理由に、さっさとこのホテルを売却してしまった。
 それを買ったのが、広告代理店の株式会社カメラワークスである。
 銀幕市ではあまり見られない、雪に閉ざされた小さなホテル。そこは雪が必要な映画のロケ地としても最適であったし、少々設備は古いが80年代風の映画を撮るにも良い建物だった。
 そんなこともあり、同社はこの新しい施設のプロモーションも兼ねて、ここで新年会を開催することにした。
 そしてこの会社は、市会議員を務める岩崎正臣が取締役会長を兼任する会社でもある。パーティには、銀幕市内の有力者や著名人、ムービースターたちが数多く招待されていた。

「カレンの予告電話のことを、真に受けた方は少ないそうですね」
 ランドルフ・トラウトは、抑えた声で相手に話しかけていた。場所はホテルのエントランスホール。タクシーなどで乗りつけた客たちが次々とホテルに現われ始めている。
 ランドルフ自身もムービースターであり、屈強な身体を持つ食人鬼である。2メートルを越す体躯を黒いタキシードで包み、辺りに目を配っていた。
 招待客を装っているものの、彼は市役所の対策課で植村の話を聞き、このパーティの警備を申し出たのだった。
 彼の前には、同じように警備を申し出た二人の男が居た。彼らは、たった今、打ち合わせを終えたばかりで、これから持ち場に着こうというところだった。
「まあ、一般の人たちはそうだろうと思うよー」
 ランドルフの言葉に答えたのは壮年の男性、柊木芳隆(ひいらぎ・かおる)だ。
「例の予告については、混乱を防ぐため公式には公表していないからねぇー」
 そう言って、柔らかく微笑む。彼は三つ揃えのスーツをきちんとまとっているのに、会う者になぜかパリッとした印象を持たせない。不思議な雰囲気を匂わせていた。
「柊木、あんたはあの予告電話をニセモノだと断定していたな。なぜ、そう言い切ったんだい?」
 変わって、もう一人の男が口を開いた。左手に大剣の柄を持ち、長い黒髪を持つ細身の男──ファンタジー映画から実体化した剣士、刀冴(とうご)である。
 柊木は、彼の方に視線を移すと、手にしていた煙草を携帯灰皿でもみ消した。
 まあね、と前置いてから続ける。
「シナリオとしては出来過ぎだからさ」
「出来過ぎ?」
「カレンが、この新年会を襲撃すると、被害を受けるのは岩崎議員だろ? 判官びいきという言葉を……君は知らないかもしれないが、日本人は弱い側を応援する癖があってねー。僕の情報筋によると、岩崎議員は今年度中に市長の不信任案を提出するようだし。今日のパーティはその布石だと、僕は考えているよ」
「不信任案……」
刀冴には耳慣れない言葉であったが、意味は理解出来た。「今の、柊市長を玉座から引き摺り下ろして、自分がそれに取って代わろうってことだな」
 うなづいて見せる柊木。
「そして、こうなったからには岩崎議員はおそらく彼女を始末する気だ。カレンは彼のことを知りすぎているからね」
 始末──。刀冴とランドルフは、その言葉を繰り返しお互いの顔を見る。
 ふいに3人の間に沈黙が訪れた。

「俺は……そういった陰謀めいたことはよく分からねぇし、知りたくもねえ」

 大きく息を吐いて、ぽつりと言ったのは刀冴だった。彼は天窓を見上げ、以前カレンに会ったときのことを思い出していた。
 彼女はヴィランズだ。悪人であり数々の事件を引き起こしてきた。それは分かっている。だが、彼には忘れられないのだ。亡き夫の思いを知ったときの彼女の様子、あの瞳の光を。
「──ただ、彼女には死んで欲しくない」
 そうだね、と柊木が応えた。ランドルフも無言でうなづく。
 ふいにランドルフは何か思いついたように、自らの大きな拳を、ひょいと二人に突き出してみせた。
「銀幕市の良心にかけて」
 柊木と刀冴も、それを見てフッと口端を弛めた。
 そして、3人はコツンと拳を合わせると、それぞれの持ち場へと散っていった。


 ──── 杵間山、山腹 ────


 天使は大空にその身をゆだねていた。白い翼を広げ、まさに舞うように杵間山の上空を、ゆっくりと飛んでいく。
 フェイファー。それが、この4枚もの羽根を持つ天使の名だ。
 Tシャツにジーパンというラフなスタイルだが、彼が力を持つ天使であることには変わりはない。現に、辺りにいる精霊たちが次々に現われては彼に声をかけてきていた。
 声、と言っても人間に聞き取れるものでは無かったが、フェイファーは彼らに言葉を返し、山とその中腹に埋もれるように建つホテル・ミヤマを見下ろしていた。
 
 彼もまた、この山腹のホテルで行われる新年会に、気掛かりを感じていた者の一人だった。
 対策課に届いたという予告電話──。そんなものはハナから信じていなかった。なぜならばフェイファーは、カレンが最近どうしていたかよく知っていたからだ。
 あるショット・バーに頻繁に行くようになり、フェイファーはそこで彼女に出会っていた。会話をすることは少なく──というより、話しかけてもカレンは相手をしてくれず。彼も無理に話しかけようとはしなかったのだが。
 それでもフェイファーは、よく分かっていた。かの犯罪結社の女頭目が、思い悩み、苦しんでいたことを。
 ──早く、あいつの傍に行きたい。
 ある時、酔いつぶれたカレンが言った言葉だ。
 彼女は自分の夫を誤解し、殺してしまったことを悔やみぬいていた。確かにそれは彼女の業だ。しかしフェイファーは彼女の夫にも会ったことがある。
 あの男、ディーン・チョイは、心から妻の幸せを願っていた。
 彼女の死など、願ってはいないのだ。
 フェイファーは──人間の恋愛を司る天使は心を痛めていた。
 そんな矢先に起こったのがこの事件だ。フェイファーは、カレンが自ら命を捨てようと、この場に現われるのではないかと思っていた。
 一個人の生に干渉するのは天使としてはどうかとも思う。しかし、彼は彼女を捨て置くことは出来なかった。

 その時だった。
 精霊が、山の中に沢山の人たちがいるよ、と教えてくれたのは。
 思考から我に返り、フェイファーは聞き返す。たくさんの人たち?
 ──そう。 精霊が応える。あの建物の周りに人間がいるよ。
 天使は眉をひそめた。何かがおかしい。パーティが行われている会場の周りの多くの人間が潜んでいる? なぜ?
 フェイファーは身を翻し、自分の目で何が起こっているのか確かめようと下界を目指した。


 ──── エントランスホール ────


 雪山のホテルに不穏な空気が流れ始めていたが、祝賀会自体はつつがなく進行していた。会場には次々に招待客が姿を見せている。
 その中に口笛を吹きながら呑気に敷地をまたいだ少年が一人。
 短い黒髪はきちんとまとめ、身体にぴったりと合う細身のダークスーツに身を包んでいる。
 少し若いが、議員の秘書に見えなくもないな。と、正面のガラスに映った自分の姿を見ながら少年──シュウ・アルガは、得意そうに鼻を鳴らす。
 ファンタジー映画から実体化した魔術師であり、ムービースターであるシュウだが、異世界へ行く前はどうも日本人であったらしい。現にスーツを着た姿は、銀幕市内に住む一般市民と全く変わらなかった。そう、少し若く見えるだけだ。
 彼は、犯罪予告のことなど全く知らず、この場にやってきた。昨日、下宿仲間の岸昭仁に相談を受けたことがきっかけである。
 銀幕市議会の第一党である民風党。その大物議員である岸正広は、昭仁の父であり、彼にこの新年会に代理で出席するように言いつけた。彼を後継者にしようという考えからなのだが、当の本人は非常に嫌がり、シュウに相談したのだ。
 自分の代わりにパーティに出席してくれないか、と。
 シュウは、下宿先での皿洗いと風呂掃除を5回ずつ代わってもらうことを条件に、快くそれを引き受けてやった。
 もっとも、旨い料理と滅多に飲めない高いお酒が、一番の目当てではあったのだが。
 ──さて。
 格好良く、ネクタイを直した彼は受付の前に立つ。受付の女性がにっこりと微笑んだ。 
「ようこそいらっしゃいました。お名前を頂戴できますか?」
「有賀周一郎と申します。岸正広の代理で参りました」
 女性に、すらすらと名乗りをあげるシュウ。ちゃっかりと岸代議士の名刺まで差し出してみせる。
 と、そのすぐ横でもう一人。若い女性が受付に立った。
「──リゲイル・ジブリール・ユスーポワと申します。ミハイル・シャトーノフの代理で参り……って、ええ?」
 その女性が名乗り掛け、驚いたようにシュウを見た。
「あれっ!?」
 シュウも驚いたように彼女を見る。その燃えるような赤い髪の少女は、彼の知り合いであった。
 彼女は、胸ぐりが大きく開いたコーラルレッドのシフォンワンピースをまとっていた。赤い髪はきちんとアップにしてまとめ、白磁のような細い首には銀色のペンダントを付けている。蓮の中にアメジストがあしらわれているものだ。手元にはファーのついた小さなバッグ。
 リゲイル・ジブリール。ロシアの大富豪の娘であり、弱冠15才ではあるが、市内でも指折りの資産家の少女である。
 彼女は口元に手をやったものの、何事も無かったかのように受付を済ませた。
 くるりと身を反転させると、シュウは手に腰を当ててニヤニヤと彼女を見つめた。
「よう、リゲイル」
「こんにちわ。誰かと思ったわ、シュウ」
「似合うじゃん、その格好。やっぱりお嬢様だよな」
「無理に褒めてくれなくったっていいわよ」
 少し口を尖らせて言うリゲイル。
「あなたも、代理で?」
「ああ。岸センセイの代理。そう言うリガは、今日は独りなのか? あのコワーイ彼氏は置いてけぼりかよ?」
「うん……。今日は、仕事なんですって」
 少女は急に残念そうな表情を浮かべ、目を伏せた。
 彼女も、このホテルで何が起ころうとしているのかを知らない者の一人だ。叔父の代理で、急遽、このパーティに出席することになり恋人を誘ったのだが……。彼は仕事だということで、一緒には来てはくれなかった。
 そもそも、彼は日の当たる場所には姿を現さない男である。こんな晴れの場に堂々と姿を見せるはずもなく。リゲイルをエスコートすることも有り得なかった。
「そっか。そりゃ残念だな」
 からかったつもりだったのに。彼女が本当に寂しそうな目をしてみせるので、シュウはバツが悪くなった。困ったように顎を掻き、ホラ、と左肘をリゲイルに軽く突き出す。
「……何?」
「オレが代わりにエスコートしてやるよ。ほら」
 リゲイルは、きょとんと大きな瞳で相手を見た。一転、クスッと笑い出す。
「何だよ」
「ううん。ありがとう」
 仕草はぎこちないが、シュウが精一杯、気を使ってくれているのが分かって。リゲイルは素直に彼の腕に手をかけた。
 ええと……と、あたりを見回す彼に、パーティ会場の方をさりげなく目線で指し示してやる。
 二人は、ホールの方へと足を進めた。

「なるほど。あの穴が……。そうか、分かった警戒しておこう」

 シュウとリゲイルがホールへの扉の前を通ろうとしたとき、そこに細身の青年が寄りかかり携帯電話で誰かと話している姿が目に入った。
「シャノン!」
 友人の姿に、リゲイルが笑顔で声をかけた。相手は電話中だったため、目で彼女に挨拶をすると手を挙げてそれに答えてみせた。
 同時に、シュウの姿を認め、彼は眉を上げて微かに笑う。頑張っているなと、声を掛けたかのように。
 それは、ヴァンパイアハンターのシャノン・ヴォルムスであった。
 細く繊細な金色の髪を後ろで一つに束ねているのは、いつもの通りだったが、服装が普段とは違っていた。やや灰色がかった揃いのタキシードに、ブラウンのネクタイ。胸ポケットから細かい水玉のポケットチーフを覗かせている。
 その装いは、彫像のように整った彼の容貌に、この上なく似合っていた。
「ちぇっ」
 なぜか肩を落とし、挨拶を返しながらシュウは彼の脇を通り過ぎる。リゲイルは、後でね、と声を掛ける。
 二人はすぐそばでウェルカム・ドリンクを受け取り、分厚い絨毯の敷かれたパーティホールへと姿を消していった。
 それを見送ると、シャノンも電話の内容に神経を集中させた。


 ──── 金福大飯店 ────


 一方、パーティが始まろうとする時間。市内のとある中華料理店の前では、青い髪の少年が一人立ち尽くしていた。

 今日も閉まっているのか──。肩を落としながら、ソルファは首を伸ばし、店の窓から中を覗き込んでいる。
 彼がよく通っていた店である。しかし昨年の9月頃であったか。その中華料理店、金福大飯店で従業員が皆殺しにされるという凄惨な事件があった。
 以来、店は閉まったまま、だ。
 ソルファは、近未来を舞台にしたバイオレンス映画から実体化したムービースターである。若くして二丁の拳銃を使いこなす凄腕の持ち主であり、トカゲの尻尾を持つ亜人だが、派手な銃撃戦に身を置くことを好んでいるわけでもなかった。
 むしろ彼は、美味しい料理を食べて、穏やかに暮らせるこの生活を、それなりに楽しんでいた。特に、ソルファが好きなのは野菜で、この店のお粥と空心菜炒めのセット千円がお気に入りだったのだが……。
 あれをもう一度食べたかったな。そんなことを思いながら、店の中を覗いていたソルファは、中の暗がりに誰かが座っていることに気付いた。
 紅梅色の丸テーブルに、小さな影が一つ。
 それが誰であるかに気付いて。ソルファはそっと店のドア側に回って、ノブに手をかけた。鍵は──かかっていなかった。

「ジミー」

 声を掛けると、相手はハッと顔を上げて振り返った。学生服姿の少年である。ソルファは、店内に入り首をかしげてみせる。
「……何だよ、もう閉店したんだよ、ここは」
 店内で独り、椅子に座っていたのは金燕会のジミー・ツェーだった。少年は、また暗がりに目を戻す。
 ソルファは無言でジミーの傍にまで歩いていくと、彼の様子を伺った。
 実のところ、彼はジミーが犯罪結社金燕会のヒットマンとして働いていることを全く知らなかったし、この金福大飯店の関係者の子なのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。ただ以前、この店に食べにきた時に、何度か合席になり話をしたことがある。
 その時のことを思い出し、ソルファは無言のままのジミーに話しかけてみた。
「ピーマン、また食わされそうになったのか?」
「違うよ」
 ジミーの声は沈んでいた。
 彼は青椒肉絲(ちんじゃおろーすー)が好きなクセに、ピーマンが嫌いらしく。合席のソルファによくピーマンをお裾分けしてくれていた。ジミーにしてみれば、嫌いな野菜を代わりに食わせようという魂胆だったわけだが、ソルファはソルファで、この少年に彼なりの恩義を感じていたのだった。
「元気、無いな」
 ソルファは、目の前の少年がとても気の毒になった。きっと何か悲しいことがあったに違いない。どうにかして元気付けてやりたいが──。
 少し考えてから、そうだ、とばかりに彼はポケットから何か白いものを取り出した。とんとんとジミーの肩を叩いて、それを彼に差し出してみせる。
 それは、大根だった。
「これ、食うか?」
「お前──ボクをナメてるのか」
 ゆっくりと彼を見上げ、怒ったように言うジミー。
 それを見て、ああ、とソルファは声を上げた。ごそごそと大根をしまい、代わりに反対側のポケットから人参を取り出し、ジミーに差し出す。
「こっちの方だな」
「違うわ!」
 少年は思わず立ち上がっていた。人参を手にしたまま、目をパチパチやっているソルファを睨みつけた。
「放っといてくれよ! ボクは独りで居たいんだ」
 バン、とテーブルを叩き、彼は大きな瞳で相手を睨む。
「助けたい人がいるのに、ボクはここに居なくちゃいけないんだ! だから──」

「どうして?」

 ソルファが聞こうとしたこと。その言葉を彼の代わりに発した者がいた。
 甲高い女の声である。彼は後ろを振り返った。
「どうして、あんたがここで留守番してなきゃいけないの?」
 いつの間にか。ドアのところに白いウサギが──赤いフリフリのゴスロリファッションに身を包んだウサギが立っていた。
 あ、兎だ。ソルファが見たままを口にしたが、それを無視してウサギは、ずかずかと店内に足を踏み入れてきた。
「なんだよ、クソ兎。勝手に入ってくんな」
「話は聞いたわよ、ジミー」
 二足歩行のウサギ、聖なるウサギ様ことレモンは、少年をびしっと指差した。
「助けたい人がいるって、カレンのことね?」
「うるさいんだよ、黙ってろ」
「カレンが何か危険なことをしようとしてる──。そうでしょ?」 
 ジミーは言葉を飲み込んで黙ってしまった。
 ──んん。これは厄介なことに首を突っ込むことになりそうね。少年の様子を見て、レモンは心の中で、そう独りごちた。
 レモンは以前、ひょんなことからカレンやジミーと卓球や花火を楽しんだことがある。その時に彼女は思ったのだった。彼らも人の子。好きな人がいて、それを守りたいと思う、ただの人と何ら変わらないのだ、と。
「ボクだって──!」
急に少年が声を張り上げた。「葉大姐の助けになりたいんだ、けど、大姐はそんなことをしたら縁を切るって……」
 その言葉に、ウサギは、ひょいと眉を上げてみせる。
「ねえ、ジミー。何があったのかちゃんと話してみなさいよ」
ちらと傍らの青い髪の少年を見上げつつ、「ここに二人もいるのよ。あんたの気付かなかった何かに、気付くかもしれないし。いいアイディアが浮かぶかもしれないわ」
 ね? と、レモンはソルファに向かって片目をつむってみせた。彼もうなづいてジミーを見る。
 やがて、ジミーはこくりと頷いてみせた。
 彼の様子を見て、レモンもニコッと微笑む。
「良かった」
と、ひと段落ついたとばかりに、視線を脇の少年に移し、「自己紹介遅れちゃったけど、あたしはレモンよ。あんたは?」
「ソルファ」
「よろしくね。あんた物騒なことも結構イケるクチ?」
「まあ」
「ねえ、ひとつ、約束して欲しいんだけど」
「何?」
「それ、しまっといてくれない?」
 レモンはソルファが目の前でチラつかせている人参に視線を落とした。
「キャラ的にそれを食べないといけないような気がしてくるから」
 あ、ごめん。ソルファは人参を慌ててポケットにしまい込んだ。


 ──── 105号室、楽屋 ────


 他には、どんな人たちが演奏するのかしら──。
 黒いセーラー服に艶やかなストレートの黒髪を持つ少女──朝霞須美は、ホテル・ミヤマの受付でもらったパーティのプログラムをしげしげと見ながら、小さくつぶやいた。
 銀幕市内の私立学校に通う高校二年生である彼女は、バイオリンのケースを持ち、指定された楽屋へとゆっくりと向かっている。
 楽屋まで用意されているということは、招待客というより出演者ね。須美は昨秋のことを思い出しながら、嘆息する。
 彼女は、このカメラワークスという会社のイベントに協力したことがあった。同社が協賛していた、ある映画のクランク・インの記者会見のときに、そのテーマ曲をバイオリンで披露したのである。
 “市内在住の、将来有望な美少女バイオリニスト、朝霞須美”。
 カメラワークスが欲しがったのは、そうしたアイコンであり、それは本日も変わらないようだった。彼女自身がそれを不本意に感じても、彼らには本人の感情など関係ないのだ。
 まあ、いいわ。須美の方も、実を言うと周囲の目はあまり気にならない方だった。バイオリンを弾くことは好きだったし。夢の神からバッキーを授かるほど、映画を見ることも好きである。
 今日は新年会だ。様々な演奏や余興が用意されていると聞いているが。さて。
 須美は、105号室と書かれた部屋のドアを開けた。
 ──と、大勢の視線が彼女を迎えた。
「あら」
須美は咄嗟に、部屋を間違えたのだと思った。「ごめんなさい」
 ここで待機するようにと言われた部屋だったのだが、開けてみると、白人や黒人の男たちがたむろしているではないか。
「ん、お嬢さんも、出演者かい?」
 が、須美がドアを閉めようとしたとき、気楽に声を掛けてきた青年がいた。ダークスーツをラフに着こなしトランペットを手にしている黒髪の青年だ。
「ええ。──そういう貴方も?」
答えながら、相手の持つ楽器を見つめる須美。トランペットである。だが、青いトランペットを見たのは初めてだ。
「珍しいかい? オレの相棒の、ブルーノさ」
「素敵ね」
 “相棒”を褒められ、青年は人好きのする笑顔を浮かべてみせた。須美も微かな笑みを返す。
「お入り、お嬢さん。一人ならみんなでいた方が楽しいだろ?」
「それもそうね」
 須美は素直に、部屋の中へと足を踏み入れた。部屋を間違えたのは、ひょっとするとこの青年たちの方かもしれないとは思ったが、そんなことは些細なことだ。よく見れば、他のメンバーたちも手に様々な楽器を手にしている。
「オレらの楽団メンバーさ」
 トランペットの青年が、須美にサッと右手を差し出してきた。
「ディジー・マクガフィンだ。ディズでいいよ」
「朝霞須美よ。よろしくね」
 須美も、名乗った青年ディズの手を握り返す。
「わたしの相棒はこのバイオリンと……この子よ」
 と、彼女の背中から、ぴょこんとシトラス色のバッキーが顔を見せ、またバイオリンのケースの陰に隠れてしまった。
「……リエートっていうの」
「相棒は、恥ずかしがりやさんみたいだな」
 ディズはにっこりと微笑みながら、須美に椅子に座るよう促した。

「“銀幕市の一年を振り返る”、か。企画のタイトルとしては悪くない。悪くないが──」

 すると、楽団のメンバーの中で一人だけ楽器を持っていない男が、ふいに声を上げた。
 手にしたプログラムが、よく見えるように目を近づけて。何か合点のいかないことがあるように、自分の顎を撫でている。
 白いスーツを着た大柄な日本人である。灰色の髪は後ろに撫で付けてあり、サングラスを掛けていた。一瞬、その筋の人かと見紛うばかりの外見である。
 どうも彼だけは演奏者ではないようだ。さらに、須美は思った。この人、きっとヤクザってやつだわ。
「どうしたんだい、銀二?」
 彼に向かって、ディズが不思議そうに話しかける。
「このビデオ上映のプログラムのとこに、ちょっと気になることがあってな」
 プログラムに目を落としたまま、答える男。
「気になることって……。あんたプレゼンテイター役、頼まれたんだろ? 中身見てねえの?」
「ああ。サプライズがあるとかで、実はまだ、な」
 ヤクザにしか見えない男は、須美を見、目で挨拶をすると、話を続けた。どうやら彼は何かのビデオ上映の進行役を行う出演者の一人らしい。
 彼は、ぽつりとつぶやいた。
「“漢女in星砂海岸”って、何かな?」
「何って……」
 ディズはプッと吹き出した。「漢女って言ったらアレだろ、美★チェンジ──」
「──あっ」
思い出した、とばかりに須美が小さく声を上げた。「ベビーピンクの君の人?」
「違うッ!!」
 ギッと男は、彼女を睨んだ。
「八之銀二。ヤ・ノ・ギ・ン・ジ! 俺は、こう見えても一般人ッ。ベビーピンクとか銀子とか、そういうの俺、無関係だから!」
「ご、ごめんなさい」
 あまりの剣幕に、須美は素直に頭を下げた。
 すると、元ヤクザ・八之銀二も、声を荒げたことを恥じたのか、すぐに笑顔になってみせた。オーバーアクションで、彼女に落ち着くようにと両手を挙げてみせる。
「──ああ、済まん。こっちこそ。つい大声をあげちまって」
「い、いえ」
 悪いのはコイツさ、と銀二はプログラムの該当箇所を人差し指でコツンとやった。
「銀幕市の良心ってやつはどこに行ったんだか」
「ダイノランドの浮かんでるあたりに、沈んでるじゃないのかい?」
 ディズがそう言うと、ドッと楽団員たちが笑い出した。ちげぇねえや、と手を叩いて喜んでいる。
 その雰囲気に、銀二も須美も仕方ないとばかりに苦笑した。

 と、その時ドアが開いて、長い黒髪の筋骨たくましい男が顔を覗かせた。
 剣士の刀冴である。彼はゲラゲラ笑っている面々に視線をめぐらせ、銀二を見つけて声を掛けた。
「おう、兄弟。こんなところにいたのか。探したぜ?」
「いいところに来たな、刀冴」
銀二は手にしたプログラムを持ち上げてみせ、「ちょっと、このプログラムに俺は物申したいことがあって……」
「ああ、例の砂浜での美★チェンジの件だろ」
「──さらりと言うなッ!」
 ツッコまれても、はははと、刀冴は笑うだけで全く動じていない。
「面白い趣向じゃないか、諦めろよ兄弟。それよりも……」
一瞬だけ真顔になって、「手伝ってもらいたいことがあるんだ。顔を貸してくれ」
 銀二も何かを察したのか。おう、と頷いて立ち上がった。
 仲良くなった楽団のメンバーたちや、ディズの肩に触れながら、ちょっと席外すわ、と。銀二はそのまま刀冴とともに、楽屋を後にしていった。ディズたちも、早く戻りなよ。と彼らに声を掛けている。
 
 その様子を見送りながら、ふと、須美は違和感を感じた。

 このシチュエーション、どこかで見たことがあるような……。雪山のホテルでのパーティ。楽屋に集まる人々。楽しく冗談を言い合っていた人たちが、急にパニックに。その原因は──。
「そう、雪崩だわ!」
 須美は、思わず声を上げてしまう。閉じた扉の方を見ていたディズの背中に、慌てて声をかけた。
「ねえ、『ホワイト・インフェルノ』って映画、知ってる?」
「いや?」
 振り向いた彼が首を横に振ると、須美は息せききったように言い放った。
「このホテル、その映画で雪崩に襲われる場所にそっくりなの」
「──雪崩?」
 ディズは目を細めてみせた。


 ──── パーティホール ────


 俺を招待するとは奇特な奴だな。新年祝賀会の招待状をもらって、シャノン・ヴォルムスが一番最初に口にした言葉だ。
 あの岩崎議員の会社の新年会である。そして対策課に寄せられたというカレンの犯罪予告電話。普段であればシャノンも警備員として参加していたことだろう。しかしせっかくもらった招待状である。どれ、たまには一般客として参加してみるか。
 そんなわけで、シャノンはきちんと正装しパーティに参加していた。
 早めの時間から来ていたのだが、多くの知り合いや豪華な顔ぶれが着々と集まりつつある。やはり、これは確実に何かが起こるな。
 ヴァンパイアハンターであり、この街ではセキュリティ会社を営む彼は、自らの役目を感じて気を引き締めていた。
 そんな彼が、会場に集まる面々に、さりげなく視線を配っていた矢先だった。 
 彼の携帯電話が振動した。誰からの電話かと、パネルに表示されたイニシャルを確認してから、シャノンは電話を取った。

 ──用心しろ。そこにムービーキラーが現れる可能性が高い。

 相手は何度か仕事を一緒にこなした男である。挨拶もそこそこに、彼が話し始めたのは突拍子もない言葉だった。
「ムービーキラー? なぜだ」
「主催者殿の趣向だろう」
 受話器の向こうで、低い声で話すのはユージン・ウォンである。
「金燕会のサイモン・ルイが、二日前から行方不明になっている。昨日の夜、私の部下が例の大穴の近くで奴を見つけ──そして斬られた」
「まさか、奴がムービーキラーに?」
「そのようだ」
 一拍置いて、さらにウォンは声を潜めた。
「まだ一般には公開されていない情報だが、あのトゥナセラが開けた大穴にムービースターが足を踏み入れると、かなりの確率でムービーキラー化するらしい」
「あんたは岩崎議員がサイモンを穴に落としたと言っているのか?」
「おそらくは」
 シャノンの質問にウォンは厳かに答えた。
「二日前の夜、サイモンに最後に会ったのは陰陽だそうだ」
「なるほど。あの穴が……。そうか、分かった警戒しておこう」
 と、彼は視界の中にスーツを着た少年と、ドレスアップした少女が入ってきたことに気付いた。シュウ・アルガとリゲイル・ジブリールである。
 彼らもパーティに来ていたのか。手を挙げ、挨拶をしたシャノンだったが、さらにその後ろにいた人物を見てギョッとする。

「あらっ、シャノンじゃないの! 新年早々、こんなところで会えるなんて、やっぱり運命?」

 堂々たる体躯をホワイトベージュのプリーツワンピースで包み、黒いオカッパは、艶々にセットして、ドレスアップしたオカマがそこに居た。
 こちらも何度か事件で一緒になったことがある相手には違いないが──。
 マーガレット・イアム・ワラーナン。通称マギーは、同じ格好をした幼い妹ビビとともに、シャノンにフレンドリーに近寄ってくる。
「キャーッ!! やっぱり似合うわン、そういう格好。ステキ! ステキよ、シャノン!」
 うう、とか、ああ、とかそんなような言葉で、シャノンは彼に応じた。
「あっ、マギーさん。こんにちわー」
「うっす」
「まっ、リガにシュウじゃないの。二人ともカワイイわねー。なでなで」
 幸いにして、リゲイルたちがマギーに気付き、彼らで会話をし始めた。オカマは二人の若者の頭を撫でつつ、ハグしてもいい? などと聞いている。
 ホッと胸をなでおろすシャノン。どうした、と電話の相手が言うので、彼は何でもないと即答した。
 二、三言、言葉を交わして、では、と電話を切ろうとして、ふとシャノンは最後に付け加えるように言った。
「俺が言うのも何だが……。いいのか。リゲイルのことは」
「何の話だ」
「俺があんただったら、自分の恋人をこんな場所には近寄らせないようにするがな」
 一瞬の間があった。
「──シャノン、リゲイルがそこにいるのか?」
「ああ」
 また、間があった。そして相手は短く礼を言うと、さっさと電話を切ってしまった。
 首をかしげて、シャノンは電話を見、それを懐にしまう。
 と、また電話が鳴り、彼はもう一度電話を取り出した。また違う友人からである。
 珍しいな、と彼は通話をオンにした。

 一方、マギーは楽しそうに、二人の少年少女に向かって話しかけているところだった。
「ねーえ。知ってる? アタシ、このパーティの内装のお手伝いしててねェ。それで聞いちゃったんだけどぉ。このホテルって、『ホワイト・インフェルノ』っていう映画の舞台になってるところなんですってー」
 へぇ、それで? と、シュウが相槌を打つ。

「その映画だとねェ、このホテル・ミヤマは、テロリストが爆弾で起こした雪崩に飲まれて、最後は木っ端微塵になるらしいわよン。スゴイと思わない? 跡形もなく木っ端微塵ですって。アハハ」

 面白いジョークを言った時のように、途端に笑い出すマギー。
 しかしそれを聞いて。発言者以外の四人は、思わず顔を見合わせていた。


 ──── ホテル、玄関前 ────


 冬月真は一足先にタクシーから降り立つと、後から降りてくる老婦人に手を貸した。すまないわね、と老婦人は杖をついて車からゆっくりと降りる。
「今日はいい天気ね」
 空を見上げ、つぶやく婦人。
 うなづきながら冬月も空を見上げた。
 特に晴れた日は雪崩が起こりやすいというが……。彼はそう思ったが、発言は控えておいた。
 彼、冬月真は探偵である。銀幕市に魔法がかかる前から探偵であったし、今でもそうである。映画は好きだが、バッキーは彼の元には来なかった。リオネの魔法は、彼自身にとっては全く関係のない出来事だった。──少々、厄介な事件に関わることが多くなったこと以外は。
 そう、本日。広告代理店カメラワークスの新年祝賀会への出席は、彼にとっては珍しい部類の仕事である。今一緒にいる老婦人が正式な招待客であり、冬月はその付き添いとして呼ばれたのである。
 彼女は、昨年亡くなった市会議員の妻であった。独り身の彼女は、おそらく心細く感じたのだろう。飼い猫が行方不明になったときに世話になった冬月を新年会に誘ったのだった。
 キナ臭いな、と、冬月は感じた。
 老婦人が、ではない。このシチュエーションが、である。
 いつもベイエリアのホテルで開いていた新年会が、今年はいきなり杵間山中腹のホテルでの開催である。出席者もいつもより民風党の人間が多い。民間会社の新年会であるというのに、まるで民風党の新年会そのものではないか。
 銀幕市では、めったに降り積もることがない雪。
 さらにあまり公表されていない情報だが、市対策課には、あの金燕会のカレン・イップから爆破予告のようなものまで届いているらしい。
 冬月は、招待状をもらってからの半月で、独自に調査を行っていた。

 雪に覆われたホテル、これは映画『ホワイト・インフェルノ』が実体化したもの。
 映画の筋書きは、ホテルで著名人たちがパーティを開く日に、テロリストたちが雪山に爆弾を仕掛けたとメディアに暴露。パーティの招待客を人質に自分たちの要求を通そうとする話である。
 重要な点は、映画では雪崩を防げないということ。そして、数人の著名人たちが命を落とす、ことである。
 おそらくは──。と、冬月は建物の敷居をまたぎながら思う。
 本当に雪崩が起きるのかもしれない。民風党の議員たちを始め、市内の映画産業の関係者たちが事件に巻き込まれ、危害を加えられることも考えられる。

 ──そうなった時、一番、徳をするのは誰だ?

 探偵は自分の想像に、長く息をついた。老婦人に手を貸しながら、ゆっくりと受付の方へと足を進めていく。
 やはり、ここは危険だ。
 老婦人には挨拶が済んだら、すぐに帰ってもらおうと、冬月は心に決めた。


 ──── あるオフィスの一室 ────


 ユージン・ウォンがいるはずの部屋から、大きな音がしたのを聞いて。男は慌ててオフィスに飛び込んだ。
 部屋の中央には、ウォンが立っていた。彼の足元には観葉植物の鉢が倒れ、粉々になっている。ウォン自身が、それを蹴り倒し破壊したのだろう。
 隻眼の男は、ギラりと焼け付くような視線を部下に向けた。
 ノックをしなかったことを咎めているのか。──いや、違う。何か別のことで、王大哥は怒っているのだ。
 彼の剣幕に、思わず部下は無言で頭を下げた。
「ホテル・ミヤマへ行く」
 一呼吸置いてから、彼はそう宣言した。
「あそこには行かない予定では?」
「事情が変わった。例の件は、お前に任せる。もし当たりなら、何よりも早く、私の元に連れて来い」
 部下に簡潔にそう言い残すと、ウォンは足早にオフィスを後にした。


 ──── パーティホール、主催者挨拶 ────


「皆さま、新年明けましてあめでとうございます。当社会長を務めさせていただいております、岩崎正臣です」
 祝賀会の始まりである。
 集まった客は二百人弱。ビロードの絨毯の敷かれた広いパーティーホールにはいくつかのテーブルが置かれており、パーティーは立食形式となっていた。
 招待客たちは手にウェルカム・ドリンクのグラスを持ちながら、主催者の挨拶に聞き入っている。
「足元のお悪い中、当社の新しい施設にお越しいただきまして、ありがとうございます」
 岩崎正臣は線の細い男であるが、政治家らしくその声にはハリがあった。
 挨拶の中で、彼はムービーハザードに見舞われたこの街の一年の動きや、映画産業が飛躍的に発展し、観光客の動員増加に結びついていることなどを話した。
「今や、この銀幕市が内外から大変な注目を浴びていることは否めないことです。我々は、この特殊な現象に対して、より一層慎重に対処せねばなりません。特に、市外からのこの街へやってくる興味本位の団体や移住者にはきちんとした対応が必要となるでしょう──」

「──ああ、アズマ超物理研究所のこと、か」
 警備主任として入口近くに立っていた柊木芳隆は、岩崎の言葉を聞きながら小声でつぶやいた。たまたまその隣りにいた八之銀二がチラりと彼の顔を見る。
「岩崎センセイは、あの研究所のことが、お嫌いのようだな」
 銀二がそう囁くように言うと、柊木も鼻で笑って同意した。
「センセイ曰く、アズマ研究所を市内に引き入れたのは、現柊市長の失策なんだそうだよー」
「ふむ、俺らの意見が通ったのが、気に入らないということか」
うなづきつつも、銀二はさらに声を潜めて続けた。「──と、それはさておき、柊木君。今回の件、刀冴から話は聞いた。俺の出番は市長の挨拶の後だから、あと一時間強は時間があるんだが」
「ありがとう。なら──こんなことを頼めるかな?」
 柊木は、彼に手短に自分の考えを伝えた。
 ちょうど話を切り上げたときに、柊木は胸ポケットを押さえた。彼の携帯電話が着信し震えだしたのだ。
 相手は、彼の盟友とも言うべき相手であった。このパーティには来ずに、岩崎の周辺を探ると言っていたのだが……。
「失礼」
 彼は、足早にホールの外へと出て行った。

 同じ頃。冬月真も、携帯電話の着信を受けた。
 誰からであろうか、と液晶パネルを見た彼は驚愕に目を見開いた。白い髪をした少女が、うっすらと微笑んでいるではないか。見たこともない画面である。
 ──落ち着いてください。わたくしは白姫といいます。
 文字が、パネルに浮き出す。
 ──冬月様にお伝えしたいことがあり、この機器に自分の姿を投影しております。
「なんだって?」
 思わず小声でつぶやいてしまい、冬月は慌てて辺りを見回してしまう。
 ──お願いです。冬月様。あなた様の意見をお聞きしたいのです。わたくしへの指示は、小さくお話しいただければ結構です。
 そんな彼を尻目に、パネルには次々に文字が浮かんでくる。
「どういうことなんだ?」
 彼が囁くように言うと、それが聞こえたかのようにパネル上の白姫はニッコリと微笑んだ。
 ──このホテル・ミヤマでこれから起こりうる事象について、わたくしはデータを集めたのですが、それに対してどのような選択をしたら良いのか分からないのです。
 探偵は無言になり、じっと少女の姿を見つめた。
 いきなり話しかけてきたこの白姫。一体、何者なのだろうか。おそらくはムービースターの類なのであろうが、味方とは限らないだろう。もしかすると、自分を混乱させる気かもしれない。
 だが、少女は彼の推測などには思いも至らないのか。すぐに、様々な情報を簡潔に伝えてきた。
 二分ほど。冬月は、じっと文字に目を走らせていた。
「実に客観的な情報だ。ありがとう」
 自分の頭の中に仕入れたものを吟味しながら、冬月。

「答えは一つだ。罪のない人が多く死ぬことは避けなければならない。どうしても、だ」

 ──分かりました。では、あなたの意見に従いましょう。
 白姫は、こくりとうなづいて、姿を消してしまった。
 その様子に少々拍子抜けしてしまった冬月だったが、おそらく、また何らかの方法で接触をはかってくるはずだと思いなおす。
「しかし……俺のケータイはモノクロ表示しかできないはずなのにな。これだから、ムービースターってやつは」
 最後にそうつぶやくと、冬月は苦笑しつつ電話をポケットにしまった。

「あ、いけね」
 ディズはシャンパンを一杯飲み干し、つぶやいた。
 主催者挨拶が終わり、歩くのもおぼつかない高齢の議員が乾杯の音戸をとった直後である。隣りで朝霞須美が、どうしたの? と尋ねてくる。
「楽屋に忘れ物しちまった」
「忘れ物?」
 ディズは、自分の咽喉元を指差した。よくよく見ると、彼はノーネクタイである。
 あら、と須美は微笑む。彼女は彼女で、演奏用の黒いロングのワンピースに着替えており、きちんとドレスアップしている。
「出番までには、まだ時間もあるけど……。ちょっと取ってくるわ」
 彼はホールの出口へと向かった。

 トランペットを手にした青年が通り過ぎていった横で、ようやく食にありつけたと言わんばかりにシュウ・アルガは自分の皿に料理を盛り付けはじめた。
「このメロンに被さってるピンク色のものって、何かな?」
「それは生ハムよン。食べなさい食べなさい。もっとイイ男になるから」
 マギーとビビの姉妹(?)が、シュウに料理の内容をレクチャーしていた。意外にもマギーは料理のことや作法に詳しかった。
 リゲイル・ジブリールが、知り合いの大人たちに声を掛けられ挨拶をしている横で、彼ら三人は純粋に料理を楽しんでいる。
 困ったな……。
 そんな彼らを壁際で見つめていたランドルフ・トラウトは、ポリポリと頭を掻くと、意を決して彼らのそばに近寄っていった。
「あッ、ドルフだ!」
 いち早く、かの巨漢に気付いたのは幼い少女ビビだった。彼女は何度もランドルフに助けられているし、何よりもこの優しい食人鬼と遊ぶことがとても好きだった。
 わーいと嬉しそうに、彼の手を取る。
「まあ、ドルフ。あなたも来てたのねェ」
姉(?)のマギーも、微笑み彼に片目をつむってみせた。「似合ってるじゃないのよン、いいわねェ。こういうの。みんなで楽しく美味しいもの食べれるって」
 シュウもランドルフを見上げ、ひゅうと口笛を吹いた。
「でも、あんたほどの図体じゃ、ここの料理じゃ足りないかもな──って、ごめん。そんな意味じゃなくて」
「いいんですよ」
 気軽に話しかけてきたシュウに、ランドルフは気を悪くした様子もなく微笑みを返す。
 シュウは、目の前の相手が、見た目とは違って優しい男であることに気付いた。初対面の二人は名乗りあい、にこやかに握手を交わした。
「ドルフ、あんたもいろいろ食べたら?」
「いえ、私は遠慮しておきます」
ランドルフは料理を断ると、少し言いにくそうに続けた。「あの──なんというか。ここで何か事件が起こることも考えられます。もし出来れば、早めに山を降りた方がいいかも……」
「どうしてェ?」
 不思議そうな目で彼を見たのはマギーだ。
「午後に、バンドの演奏とか、この一年で起こった事件のドキュメント映画みたいなのを上映するんでしょ? プレゼンテイターは銀子チャンだっていうし。スッゴイ面白そうよォ?」
「銀子チャンって誰だよ」
「ギンジさん」
 答えたのは、ビビ。
 マジで!? と、少年たちが盛り上がっているのを見て、ランドルフは、うまく行かないなあ、と。内心で頭を抱えていた。


 ──── ホール、上手側の裏手 ────


 暗がりに足を踏み入れ、刀冴は蜘蛛の巣を払いながら前へと進んだ。足音はさせていない。ひっそりと息を殺して、彼は奥へと進んでいく。
 背後にした壁の向こう側からは、パーティの喧騒が漏れ聞こえてくる。乾杯が終わって、“ご歓談の時間”に突入したようだ。
 ──こっちのパーティは、これからだがな。
 刀冴はそんなことを思いながら、足を止めた。
 そこはパーティホールにある舞台の裏手にあたる場所である。音響機器やマイクなどが置いてあり物置のように使われているのだが──どうも、複数の人間の気配がするのだ。
 天人は常人より遥かに高い感覚を使って、先ほどからずっと相手の気配を探っていたのだった。
 
「……違うよ、ここじゃないよ。陰陽の奴が言ってたのは、反対側の方だよ」
「でも、この下から何か音がする」
「シッ、声がでかいわよ」
 ゴソゴソ、ゴソゴソ。

 刀冴は物陰から、そっと奥を覗いた。
 三つの黒い影が、床板を外し中を覗き込んでいるではないか。
 やはり──爆弾なのか?
 彼は、音をさせずに愛剣の“明緋星”を抜く。
 ──このホテルの中にも爆弾が仕掛けられている可能性が大きい。君はそれを確かめてくれないか。そう、柊木に言われ、刀冴は自らの超感覚を駆使して、爆弾を探していたのだった。
 いくつかはすでに見つけて、柊木の部下たちに手渡し解除をさせていた。
 見ると、床に頭を突っ込んでいた人物が起き上がった。手には四角い箱のようなものを持っている。
「ちょっ、何それ?」
「──動くな」
 まさに視認できないほどの素早さだった。刀冴は爆弾らしきものを持った人物の首筋に、剣をピタリと添えていた。
「その手にしたものは何だ?」
 脇にいた二人がパッと飛び退く。片方の人物は銃を構えたようである。一方、背中を向けた人物がゆっくりとこちらを振り向いた。

 相手は、白いウサギの着ぐるみを、顔の部分だけ被っていた。

 しかも、緑色のトカゲの尻尾まで生えているではないか。
 顔だけウサギの男は、動じた様子もない。が、刀冴の方は、相手の風貌の異様さに思わず息を呑んでいた。
「待って、刀冴さん! あたしよ、レモンよ!」
 片方の小さい影が声を上げた。
 チラりと視線をやれば、それは服を着た白ウサギだった。ウサギだが、刀冴の知り合いのムービースター、レモンである。
 彼女は、慌てて諸手を挙げながら、傍らの影に声を掛ける。
「ジミー、この人は敵じゃないわ。銃を下げて」
 もう一つの影は、学ランを着た少年のようである。手にしているのは小型のサブマシンガンだ。彼は逡巡した様子を見せたが、仕方ないというように銃を下げた。
 当然、彼も白いウサギの面を被っている。
 あ、同じだ。と、刀冴は思った。三人とも同じデザインの白ウサギではないか。
「これ爆弾……みたいだな」
トカゲの尻尾男──ソルファが、ぽつりと言った。「時限式だ。あと32分で爆発するらしい」
 剣を向けられたままだというのに、彼は手にしたものを刀冴によく見えるように突き出してみせる。確かに00:32という表示が見えた。
「あ、あのね、刀冴さん」
 まんまウサギのレモンが、ぴょこぴょこと跳ねるようにしながら言う。
「あたしたち人質を探してたの。でも、そうじゃなくて見つかったのはコレで……」
「人質? どういうことだよ?」
 刀冴はようやく剣を鞘に収めた。確かに敵ではなさそうだと、三人のウサギ達をしげしげと見つめる。
「あのね、カレンはね人質をとられてこのホテルに乗り込んだの。でもね、捕まっちゃったみたいで連絡が取れないの。だからあたしたちも彼女と人質を見つけて、カレンを助けようと思って──」
「ちょ、ちょっと待てって」
 早口で説明を始めたレモンを手で制して、刀冴は息を整える。
「ぜんぜん分かんねえよ。ちゃんと最初から順を追って説明してくれねえかな」
「あっ、ごめんなさい。そうよね」
 レモンは、申し訳ないというように頭を下げてから、彼を見上げた。
「ええと、まずあたしたちは金福大飯店でチームを組んだの。三人でウサギの面を被ってカモフラージュすることにして──あっ、これ、デザイン元はあたしなの。可愛いでしょ? だから、あたしがアンゴラ1号で、ソルファが2号で……」
「その辺のくだりは省略で」
「そ、そう?」
 ちょっと不服そうにしながらも、レモンは先を続けた。

 カレン・イップの予告電話はニセモノで、彼女がこの事件の首謀者ではないこと。夫を人質に取られて、仕方なくここに乗り込んできていること。そして、どうやら岩崎が呼んできたテロリストに捕まってしまっているらしいこと。

「黒幕は、あの岩崎の御仁ということか。まさかそこまでするとは、な」
 考え込むように刀冴。
「そ、それで、葉大姐が舞台裏に囚われてるって陰陽が連絡をよこしたんだ」
 黙っていたジミーが、口を開く。レモンと同じウサギ面を被ったままだが、少年の焦りは刀冴に手に取るように伝わった。
「早く助けなくちゃ。呂哥々もすぐこっちに来るから──」
「誰、だって?」
 剣士は少年に聞き返す。

「呂哥々。サイモン・ルイだよ。さっき連絡がついたんだ。哥々なら、ボクたちの強い味方になってくれるよ」


 ──── ホール外、下手側の廊下 ────


 リゲイルは、ぴょこんと廊下に顔を出してあたりを見回した。パーティホールの喧騒を後ろに、彼女は後ろ手に扉を閉め、首をかしげてみせる。
「あら?」
 たった今、ホールから外へ出て行った女が一人。
 リゲイルはなぜかその様子が気になり、後を追いかけてきたのだ。
 見失ったと思いきや──居た。白いスーツを着た長い金髪の女が、曲がり角をサッと駆けていったところだった。
 サングラスで顔は見えなかったが、どこかで会ったことがあるような……。
 なんとか思い出そうとしたその時、リゲイルのバックが震えた。──電話だ。彼女はバックから携帯電話を取り出し、その表示名を見てパッと顔を輝かせる。
 嬉しそうに、彼女は通話ボタンを押した。
「リゲイル、私だ」
 それは彼女の年の離れた恋人、ユージン・ウォンの声だった。
「私の迂闊さを許してくれ。お前がまさかそこにいるとは思わなかった。すぐそちらに向かう」
「本当に?」
 仕事で来れないと言っていたのに。リゲイルは満面の笑顔を浮かべてみせる。
 ただし、その後にウォンが話し出した事柄を聞くにつれ、少女の表情は変わっていった。真剣な眼差しになり、ときおり頷きながら話に聞き入る。
「──分かったわ。このホテルが大変なことになっているのね」
 やがて、リゲイルは長く息をつく。「危ないときは、柊木のおじ様に従って避難をするのね」
 そうだ。安心したように、電話の向こうで男が言った。

「大当たりだよ、朝霞くん」
 部下との電話を切って、柊木は目の前の黒いドレスの少女を見下ろしながら言った。須美はホッと胸をなでおろしたように警備主任を見上げる。
「君の教えてくれた情報は本当に役立ったよー。その『ホワイト・インフェルノ』の通り、裏山に物騒な連中がわんさか隠れてたらしい。僕の部下から連絡があった。──でも、もう大丈夫だ。爆弾もテロリストも、僕たちの仲間が全て片付けてくれる」
「ありがとうございます」
 須美は目の前の男の手腕に、感服したように頭をさげてみせた。いやいや、と照れたように手を振る柊木。
 彼は、同じ役目を担っている刀冴と銀二に、このホテル内にも爆弾が仕掛けられている可能性があるので、それを探すように頼んでいた。すでに何個か見つけて解除をしている最中だったのだが、そのことを須美には言わなかった。
 要らぬ心配をかけるのは酷だからだ。
「さあ、もう大丈夫だから。君もパーティを楽しむといい」
 柊木は、須美の肩に手を回して、優しく会場の扉の方へとエスコートする。須美もうなづいて、戻ろうとする。
 すると彼らの目の前で扉が開いて、ひょいと出てきた者がいた。
 ダークスーツ姿の少年──シュウだった。

「あれっ、リガは?」
 目が合って、シュウはきょとんと二人を見つめる。
「あ、君はシュウくんか」
 誰かと思ったよー。言いながら柊木はニコと微笑みつつも、彼の手にしたワイングラスにサッと目をやる。
「君には、まだお酒は早いんじゃないかい?」
 彼はシュウのグラスを、ひょいと取り上げてしまった。
「げっ、柊木のおっさん!」
 シュウは、ようやく相手が誰だか分かったように身を退く。
「ちがっ、違うよ。オレ、シュウじゃないよ。今日は有賀周一郎、21歳って設定なんだよ。岸センセイの代理で──」
「妙な言い訳したって駄目だよー」
 柊木は傍らの須美に同意をもとめるように片目をつむってみせ、「どっちにしたって君は未成年なんだから……って、」
 ふと、彼の眼差しが変わった。
「──今、何て言った? 誰の代理だって?」


 ──── 105号室、楽屋 ────


 ん、まあ、こんなモンかな。
 ディズは大きな姿見鏡の前でネクタイを締め終え、一息ついた。彼にとっては、これから演奏するというのに一人だけ身だしなみが整っていないのは、楽器のチューニングが狂っているのと同義だった。
 さあ、ホールに戻ろう。そう思い身体を翻した時。彼は、いつの間にか、サングラスの女が扉の前に立っていることに気付いた。
 女は、彼の視線を感じて、うっすらと笑う。

「だ、誰だ!?」

 こんな近い距離で、気配も感じさせないとは──? ディズは思わず身構えていた。
「誰だっていいだろ? お前にいい話を持ってきてやったンだ」
 余裕の態度で口を開く女。白いパンツスーツを着た、長い金髪の女である。見たこともない人物だ。
「いい話?」
 サッと懐に手を入れたかと思うと、女は何かを取り出してディズの足元に放った。
 ──それは、分厚い札束だった。
「バンドってのは金がかかるんだッてね。あたしの頼みを聞いてくれりゃア、お前に駄賃をくれてやる。無論、そいつは前金だ」
「オレらのことを、よく知ってるみたいだな」
 ディズは動かず、ただ女の顔を見た。この声、どこかで聞いたことがある──。彼は必死に記憶を探りながらも答える。
「オレは、確かに賞金稼ぎもやるし、荒っぽいこともしょっちゅうさ。だが、生まれてこの方、薄汚ねぇことに手を染めたことは一度もねえ」
 フン、と女は鼻を鳴らして笑った。もう一度懐に手を入れ、紙のようなものを出して、ピンッと弾く。ディズは宙に舞うそれを手に取った。
 一人の男の写真である。
「──そいつがこのホテルのどこかに囚われている。それを探し出して欲しいのさ」
女は、壁にかかった時計にチラと視線をやり、「お前の出番までには、あと1時間以上ある。どっちにしろ、今回は演奏なんかしてる場合じゃァなくなるだろうしね」

「あんた──カレン・イップだな?」

 電撃が走ったかのように、ディズはその声の持ち主のことを思い出した。
 彼も聞いてはいたのだ。例の対策課にかかってきたという犯罪予告の電話を。しかし──。
「……だから? どうだッてんだよ。やるのかやらないのか、どうすンだよ?」
 ディズは困惑していた。彼女がなぜ、人探しを? なぜ金燕会の部下を使わない? そして何よりも、彼のカンが告げていた。
 ──彼女が黒幕であれば、こんな声色で話したりはしない。
「いいだろう、手伝ってやるよ」
静かに答え、ディズは写真に目を落とす。「この男は、あんたの大切な人なんだろ?」
「煩いッ。詮索は無用だよ」
 女は──カレン・イップはサングラスを指で下げ、その隻眼で相手を睨みつけた。


 ──── 杵間山、山腹 ────


 パチン、と指を鳴らす音。続いてギャッという悲鳴。
 こちらに向けられていた銃が、突然暴発して。男は自分の手を押さえる。ザッと雪を踏みしめ、ステップを踏んだ青年、フェイファーは視線を走らせ相手の人数を把握する。
 1、2、3……、全部で9人か。
 華やかなパーティが開かれている裏舞台で、天使フェイファーは謎の男たち──テロリストに囲まれていた。手に手に物騒なマシンガンを持った男たちは、彼に狙いをつけて銃を次々に向けてくる。
 彼は天使であり、高速で放たれた鉛の弾程度のもので死ぬことはない。しかし逆に言えば、彼は天使であるがゆえに、人間を傷つけることが出来なかったのだった。
 ホテル・ミヤマの裏山、斜面での戦闘は膠着状態に陥っていた。
「逃がすな、殺せ!」
 ──だめっ。
 フェイファーが、また銃を暴発させようとすると、彼の耳に精霊の声が届く。
 ──大きな音を立てたら、ぼくたちは……。
 雪崩か。天使は力の行使を思いとどまる。よく晴れた空の下、これ以上ここで騒げば、雪崩が起きてしまうだろう。それを精霊が忠告してくれたのだ。
 他の場所に誘き出そうにも、テロリストたちは、なかなか挑発にも乗らずにマシンガンを撃ってくる。
 きゃあああ、と精霊たちの悲鳴が彼の耳に飛び込んできた。
「くそっ、どうすれば……」
 フェイファーが舌打ちした、その時だった。
 ──バッ。
 突然、彼の背後から何かが躍り出た。雪面に映った人影を見て、フェイファーは咄嗟に身を退いた。
 刹那、天使の目の前に降り立ったのは、体格の良い男だった。
 手にした銀色の刀が、瞬くように光を放つ──。
 一番前にいた男の首が宙を舞った。悲鳴を上げる間も与えず、男は凶刃を返して相手の胴体を両手ごと切断した。
 そして最後に両手で柄を握ると、相手の両足すら、一気に切り落としてしまった。
「お……」
 一瞬にして仲間を三つのパーツにされ、男たちは銃を手にしたまま硬直する。
 それはフェイファーも同じだった。
 鮮血のしたたる日本刀──倭刀を手にした男が、天使を振り返る。
 
 それは、金燕会の幹部、サイモン・ルイの姿だった。

 フッ、と彼が腰を落とした。
 来る──! 天使は虚を突かれたものの、相手に反応し、タンッと飛び退いた。
 間一髪。銀色の刃は、彼の鼻先数センチを通過し、ぐるりと円を描く。二人分の血飛沫が、雪面を赤く染めた。
 喉を押さえる男が二人。もう致命傷を与えているというのに、サイモンは、その男たちにもう一度、刀を振り下ろした。
 カラン、と最初に斬られた男がフィルムに変わり、またすぐに、二人の男もフィルムに変わった。
 こいつ……。フェイファーは、サイモンの姿を凝視した。正気じゃ……ない?

「フェイファー、下がれ!」
 
 ザザッ。斜面の影から、もう一つ影が飛び出した。
 手にした二丁の拳銃が、太陽の光を受けてキラリと閃く。スキーを履いた男は、空中でサイモンに向かって手にした銃を乱射した。
 プシュッ、プシュッという音。──消音器を付けているのだ。
 サイモンは顔を上げ、倭刀を目にも留まらぬ速さで振るった。澄んだ音をさせて、彼が跳ね返した弾が、男たちの一人に着弾する。
 くぐもった悲鳴をあげ、その男がフィルムに戻った時、影はサイモンの頭上を飛び越え、宙で一回天してから雪面に──フェイファーの隣りに着地した。
 天使は、チラと横を見、友人の姿に微笑む。
「一杯ぐらいワインを飲むヒマは?」
「──無かった、な」
 フッと笑いながら答えたのは、シャノン・ヴォルムス。
 その両手には、愛用のFN Five-seveNが握られている。足にはスキーを履いているが、格好はタキシードのままだ。
「せっかく、パーティだというから、普段とは違う格好をしてきたのにな」
 そう言うシャノンだったが、その顔に不服そうな色はない。短い言葉を交わし、二人はサイモンとテロリスト達に向かい合う。
 サイモンは無言だったが、いきなり刀を手にした手を背中に回し、飛び上がった。
「待て!」
 咄嗟に反応したシャノンが銃を撃ったが、サイモンはそれを刀で跳ね返し、斜面に着地した。
 そのままホテルに向かって人間技とは思えない体術を駆使して、雪山の上を軽やかに駆け降りていく……。
「クソッ」
 相手を逃がしたことに、眉を潜めたシャノンだったが。目の前にはテロリストたちがいる。
「仕方ない、奴はホテルにいる者たちに任せよう」
チャッと銃を構えなおすシャノン。「──あっちのパーティの方が主役だ。こっちのパーティは静かにいこうか」
「OK」
 フェイファーも短く答えると、テロリストたちに向き直った。


 ──── 地下1階、廊下 ────


 息を潜めながら、そっと床板のパネルを嵌め終えて。男はふうと一息ついたところだった。額に浮かんでいた汗をぬぐう。
「──ご苦労さん」
 ビクッ、と男は背筋を伸ばした。背中から掛けられた声に、地面に置いた拳銃に手をやろうとして──短い悲鳴を上げる。
 誰かの革靴が、男の手を踏みつけたのだ。
 彼が相手の顔を見上げようと首を動かした矢先、強烈な衝撃に見舞われ、男は床に無様に転がるように倒れこむ。

「今、そこに何を仕掛けてたのか、ご教授いただきたいんだが?」

 ぼんやりした明かりを背景に、白いスーツの男が立っていた。問答無用で蹴り倒した相手を見下ろすのは、元ヤクザの銀二の姿だった。
 床に落ちたままの銃に一瞬だけ目をやると、銀二は男の方へと一歩踏み出す。
「派手な花火を仕掛けていたようだが、ニュー・イヤーにそいつは相応しくないな。お前さんが一緒に吹き飛びたいッていうなら、話は別だが」
 自分の指を組んで鳴らしながら、彼はニィッと微笑む。
 男──爆弾を仕掛けていたテロリストは、ひきつったような表情を浮かべた。


 ──── ホール外、下手側の廊下 ────


「──さて、本当に避難は必要ないかな?」
 ホールのすぐ外で話していた柊木と須美に、声を掛けた者が居た。
 シュウに何事かを言いつけた直後だった。柊木は振り返って、一人の目立たない男が廊下に立っていることに気付く。
「君は?」
「冬月真。探偵だよ」
 三十代半ばほどの男は、静かに二人に近寄ってきて、柊木の目をじっと見つめた。
「柊木さん、あんたの噂は聞いてる。俺があんただったら、すぐにでも一般人を非難させるようにするがね」
「冬月くん、か」
 柊木は瞬きもせずに、相手を見返した。が、冬月に自分と同じ匂いを感じたのか、フッと頬を弛めてみせる。
「君の考えを聞こうか」
「このホテルは『ホワイト・インフェルノ』という映画の舞台になったところだ。映画では後背地の山にテロリストが潜んでいて雪崩を起こすことになる。だが、この街では実体化したものが映画の通りになるとは限らない」
「と、言うと?」
「このホテル内にも爆弾が仕掛けられている可能性がある」
 じっと二人の男の様子を伺っていた須美が、驚いたように息を呑む。
「なるほど」
柊木は頷いてみせた。「なら君は、今回の映画監督は誰だと推理してるのかね?」
「この件で一番、得をする人物。主催者殿ご本人さ」
「──冬月様」
 その時、冬月の背後から音もさせずに白い着物の少女が顔を出した。今までどこに潜んでいたのか、まるで冬月の影の中から出てきたように現れた少女──白姫は、柊木と須美を一瞥すると言葉を続けた。
「地下で動きがありました。女性2人と男性5人、合計7人の姿を確認できます」
「彼女は?」
 須美を庇うように、柊木は一歩踏み出し尋ねる。
「──白姫といいます。柊木芳隆様、朝霞須美様」
 すると少女は自ら名乗った。
「彼女は味方だよ」
付け加えるように冬月。「このホテル中の全ての電子機器を制御できるそうだ。連絡役を買って出てくれた」
 ゆっくりと頷いて、柊木は二人を代わる代わる見、言った。
「確かに君たちの言う通りだ。このホテルにはいくつかの爆弾が仕掛けられている」
 えっ、と須美が彼を振り向く。
「私の仲間が今、それを回収するためにホテル内を駆け巡っているところだ。裏山のテロリストもすでに手は打ってある」
「だが、爆弾を全て解除できる可能性は100%ではないはずだろう?」
「その通りだよ。──これは一本取られたな」
 冬月の言葉に、警備責任者は苦笑で答えた。

 その時、ふと彼はエントランスホールの方に目をやり、新たな来客の姿に気付いた。冬月も須美も、彼の視線を追ってエントランスを振り返る。
 客は、柊市長だった。
 秘書を伴い、遅れて申し訳ないなどと受付に言いながら、足早にこちらに歩いてくる。
「いいタイミングだ。彼に、ご協力願おう」
 柊木が微笑みながら言った。


 ──── 地下1階、とある部屋 ────


 銀二が、地下1階でテロリストの腹にヤクザ蹴りをプレゼントしていた頃。
 同じフロアの、ある部屋の扉が音もなく閉じた。
 部屋の中に入り込んだのは、白いスーツの女。カレン・イップだった。金髪のカツラを被り、変装した彼女は、そろりと右手に数本の飛刀を構えて壁際を進んでいく。
 窓のない部屋は薄暗い。濃い橙色の絨毯が敷いてあり、元はカラオケルームだったようである。音響機器やクッションが、部屋の隅に寄せておいてある。
 そして、もう一つ奥にある部屋からは、仄かな明かりと──何か鈍い衝撃音が、漏れ聞こえていた。人が殴られている音である。
 カレンは目を閉じた。確かに、奥の部屋から人の気配がする。
 もう一度目を開くと、彼女は意を決した。頭を低くしながら、ザッと奥へと身体を滑り込ませる。

 ──!

 飛刀を構えたまま、カレンは立ち止まり壁を凝視した。
 大きな液晶モニター画面に、夫が殴られているあの映像が映し出されていた。だが、ただそれだけである。部屋には他に何も無い。
「これは──?」
「──よく出来てるよなァ」
 ピタリと冷たい銃口が、カレンの首に後ろから押し当てられた。
「ディーン・チョイは、もう少し待てば本当に実体化して、あんたの目の前に現われたかもしれないな。……っと、動くなよ。こっちを向いたら、首を吹き飛ばす」
 背後を取られ、カレンは表情を消した。動かずに声の持ち主の名を呼ぶ。
 陰陽、と。
「“自主映画制作代行サービス”ってのを使って、岩崎のセンセイがこしらえたのさ。あんたをここに誘き出すためにな」
「──お前ッ、やはりあのクソ議員と!?」
「やはり?」
 カレンの首に銃を向けながら、陰陽は喉の奥で笑い、彼女の金髪のカツラを取り去った。耳の下で短く切り揃えられた黒髪がこぼれ落ちる。
「僕を疑ってたんなら、手を打てば良かったのに。あんた本当に甘くなったよな」
 残念だよ……。陰陽はそう言い放つと、いきなりカレンのジャケットの襟を掴んで、後ろから引き下げた。
 むき出しになった彼女の白い肩に、間髪入れず注射器を突き刺す。そのまま、陰陽は中の薬品を一気に注入した。
「こないだ使ったヤツだよ。効果はあんたも知っての通りさ」
「陰陽。──岩崎の野郎に、いくら掴まされたんだい?」
 注射を打たれても、カレンは動じた様子も見せず低い声で問うた。
「ハハ、残念ながら、今回は金で動いたわけじゃないんだよ、大姐」
ポケットに手を入れ、「ああ、そうそう。あんたに渡したいプレゼントもあってね」
 陰陽は、何かを取り出して素早くカレンの首にはめると、彼女の背中を蹴り倒した。
 バランスを失い床に倒れこむカレン。薬の効果が出てきたのか、体制を整えようとしてよろめきながらも、彼女は慌てて自分の首に手をやった。
 何か銀細工のチョーカーのようなものが、彼女の首に付けられていた。彼女のためにあつらえたように、ぴったりとはまっている。
「あんたに最高に似合ってるよ、それ」
 陰陽はそう言うと、銃をカレンに向け、ポケットから小さなアルミ製のリモコンのようなものを取り出した。
 床に落とし、靴で踏みつけてゆっくりとそれを壊す。
 まさか、とカレンが言った。
「そうだよ、そのチョーカーは爆弾さ」
 答えてみせる陰陽。
「言うまでもないが、無理やり外せば爆発する。解除装置は、僕が今壊した。──あんたは華々しく、ここで散るんだ。このホテルにいる、いろんな連中を道連れにしてな」
「陰陽ッ、お前──!」
 カレンは元部下に向かって飛刀を放ったが、陰陽は難なくそれをかわした。
「あんたが見せてくれた夢は悪くなかったよ」
 一歩、踏み出し、彼はポツリとつぶやく。

「だが、所詮、あんたは消えるべき夢にしか過ぎないのさ。僕らとは住む世界が違うんだよ」

 あばよ、葉大姐。
 陰陽は手をひらひらと振り、もう一度カレンに銃口を向けた。


 ──── ホール外、上手側の廊下 ────


「じゃあ、そういうことで」
 シュウは赤い色の蝶に向かって話しかけている。
「一応、ダチの父親だからさ。脅すのとかカンベンな」
 すると蝶から男の声が返ってきた。
 ──脅すものか、私は彼とビジネスの話をするだけだ。
「ああそう。……あと、最後に言っとくけど、リガの奴が寂しそうにしてたぜ。もうちょっと、かまってやってもいいんじゃねえの?」
 ブツッ。という音をさせて、急に会話が終わった。
 やれやれと言いながら、シュウは手を翻し、宙を掴むような動作をした。
 彼の目の前に浮かんでいた赤い色の蝶がふわりと消えうせる。彼の魔法により生み出された伝令蝶であった。
 ホールの外、雪山の斜面が見える窓の前で。シュウは今まで誰かと連絡を取り合っていたようだった。
「せっかく美味いものにありつけると思ったのに。これだから銀幕市ってやつは」
 愚痴をこぼすように言う彼だが、その顔には不思議と不満の色は無い。
 ガラス越しに見える雪山の方を見、ふうとため息をついたシュウだったが、急に首を前に突き出した。何か、黒い点のようなものが雪山を滑り降りてくる。
 あれは、人か──。
 窓際に近寄り、目を凝らすシュウ。

 その時、上手奥側の扉が開いて、二人のウサギ面を被った人物と、ウサギと、大剣を手にした剣士が姿を現した。
 彼らはシュウの後ろを、ダッシュで駆け抜けていった。

「うん?」
 シュウは背後の気配にパッと振り返った。だが、猛然と駆けていく四人の姿は、ちょうど曲がり角の向こうへ消えたところだった。
「??? 何だ今の? 出演者か?」
 と、シュウは我に返ったように、また窓の外を視線を返した。黒い点は、明らかに人の姿をしていた。
 誰か、他の人間を呼ぶ間など無かった。
 ──シャッ!
 少年魔道士は、窓を思い切り開くと、一瞬のうちに外へと飛び出した。ザンッと雪を踏みしめた時には、何処から取り出したのか愛用の樫の杖を手にしている。
 が、すでに黒い影は目の前にまで迫っていた。
 シュウは、チッと舌打ちする。
「させるかよ!」

 ゴワッ!
 
 彼の目の前の雪が巻き上がり、煙幕のような氷壁をつくった。
 やったか? シュウは確認する前にその場を飛び退いた。
 と、地面に映る影に、魔道士は驚愕した。──しまった、上だ! 咄嗟に杖を振るうと、青白い障壁が彼をドーム型に覆う。
 ガツッ! 鈍い衝撃音をさせて、振り下ろされた武器が跳ね返される。同時に相手も、宙で回転しながら間合いを取り、雪面に着地した。
 
 それは、倭刀を手にしたサイモン・ルイであった。

 ようやく相手が誰であるか分かり、シュウは杖を構え体制を整える。
 サイモンの倭刀からはわずかではあるが、こびりついた血のようなものが見えるではないか。すでに誰かを斬ってきたというのか。
 死んだ魚のような目をして、彼はシュウを一瞥した。
「おいおい勘弁してくれよ、オレは魔道士なんだぜ?」
 寒い冬の日だというのに、額からどっと汗が吹き出してくる。シュウは必死に相手との距離をはかる。いくら、彼が才能ある魔道士で、素早く呪文を紡げるとはいえ、あんな恐ろしい速さで刀を振るわれたらひとたまりも無い。
「あんたらの事情は何となく分かってるんだ、カレンちゃんを助けに来たんだったら、オレらも協力──」
 問答無用だった。サイモンは、いきなり動いた。
 シュウはそれに気付いたが、反応が遅れた。
「クソッ」
 素早く後ろに飛び退いた彼であったが、ススーッと杖の頭の部分が、滑り落ちるように地に落ちた。
「でぇぇぇっ!?」
 驚いて声を上げたシュウ。が、当然、サイモンは攻撃をやめたりはしなかった。振り上げた倭刀がキラリと光る。
 間に合わない! 魔道士は息を呑んだ。
 
 だが、その時。彼の視界を大きな影がよぎる! ──吹き飛ばされたのは、シュウではなく、サイモンの方だった。

「大丈夫ですか?」
 ザッと、シュウの前に立つ大きな男。彼は拳を構え、斜に少年を振り返った。
 ランドルフ・トラウトだった。
「ドルフ!」
 シュウが彼の名を呼ぶのと同時に、サイモンが倭刀を杖のようにして立ち上がった。強力なランドルフのタックルを受け、軽い脳震盪でも起こしたのか。ぶるぶると頭を振っている。
「ドルフ、あいつ──分かんねえけど……、なんか変だ」
 短くなってしまった杖を構え、シュウ。巨漢はサイモンから目を離さないまま、こくりとうなづいた。
 剣侠は、眼鏡の向こうから冷たい視線を二人に投げうった。ゾッとするような暗い色だった。まるで地の底でも覗いてきたような──。
 シュウはグッと杖を強く握り締める。
「貴方を会場に入れるわけにはいきません」
 静かに、しかしきっぱりと。ランドルフはサイモンにそう告げると、足を開きボクシングに似た構えを取った。
 
 そして、彼は自らのロケーションエリアを展開した。
 辺りは雪山から、暗く冷たい夜の街へと一瞬に変貌をとげた。


 ──── 地下1階、元カラオケルーム ────


 誰かに肩を揺すられて、カレンは意識を取り戻した。ぐるぐる回るような薬の酩酊感の中で、青い瞳の少女が自分の顔を覗き込んでいるのが見える。
「カレンさん!」
 誰だろう。自分を呼ぶ声。急に彼女の世界が色彩を持ち始めていく。
 この娘は確か──リゲイルという少女ではないか。
 ハッと、カレンは身体を起こそうとして呻いた。両手が動かない。
「気がついた?」
 可憐な少女が安心したように微笑む。
 カレンは自分が壁際に座らされていることに気付いた。彼女の両手は頭上の鉄製の手すりに手錠で繋がれている。両足は自由だが、これでは身動きもとれない。
「クソッ、あの野郎──」
 陰陽が自分をここに置き去りにしていったのかと思うと、はらわたが煮えくり返るようで、カレンは歯噛みした。
「待って、それ外せるかもしれないから」
 リゲイルは、アップにした髪からヘアピンを抜くと、カレンの手に触れ手錠の鍵穴に差し込んでカチャカチャと動かし始めた。
「──お前、何してるンだよ?」
「手錠を外すの」
「無駄だよ、あっちへ行きな」
 少女はチラとカレンの目を見たが、また作業に没頭し始めた。
「もう大丈夫よ、ユージンさんに連絡したの。すぐに助けにきてくれるから」
 その名前を聞いて、カレンはサッと表情を変える。
「余計なことしやがッて! あたしなんかに構うな、早く向こうへ行っちまえッ」
「嫌よ」
 リゲイルはきっぱりと言った。手錠はなかなか外れなかったが、彼女は諦めるような様子を見せなかった。
 畜生、こないだと逆じゃないか、とカレンが小さな声で言う。一月ほど前に起こった、アズマ超物理研究所襲撃事件。その時には、彼女の方がリゲイルを人質にしたのだが、今回はカレンの方が人質のようになってしまっている。
 情けないと思ったのか、カレンは沈んだ様子で黙り込んでしまった。
 やがて彼女の視線はリゲイルではなく、正面のモニターに移った。すでに電源は落ち、そこには彼女の夫の姿はない。まるで、ぽっかりとした暗闇が存在しているかのようにも見えた。
 馬鹿だな、と最後にぽつりと呟くカレン。
 リゲイルは彼女の横顔を見る。その言葉は、自分に向けられたものではないようだ。カレンの長い睫毛が、微かに揺れていた。
「──あのね、わたしあれから考えたの」
 しばしの沈黙の後、静かにリゲイルは口を開いた。
「あなたは、きっとそんなに悪い人じゃないって。わたし、カレンさんと友達になりたい。せっかく会えたんだもの、仲良くなりたいって思うのは、おかしい?」
「おかしいね」
憎々しげにカレンは言い放った。「お前は大馬鹿だよ。あたしとお前はそもそも住む世界すら違うんだ。あたしらは、ただの──夢だ。何をしたって結局、消えてフィルムに戻るだけ、さ」

「やめて──っ」

悲鳴のように声を大きくするリゲイル。「そんなこと言わないで!」
 何か言葉を続けようとしたカレンだったが、それを飲み込み、じっと少女を見つめた。
「カレンさんは夢じゃないよ! 夢なら、触ったって感触がないでしょう?」
 リゲイルは手錠をつけたままの女の手に触れた。
「温かいよ、カレンさんの手」
 金燕会の女頭目は目を閉じ、また開いた。少女から目を背け無言のままだ。
「わたしは、取り返しのつかないことなんてした事ないから……。カレンさんの痛みを理解することなんか出来ないと思う。でも、カレンさん、とても苦しそう。それにとても悲しんでる。だから──少しでも元気になってもらえたらって思うの」
「──リゲイル」
 ぽつりと、カレンが少女の名を呼んだ。そして、微かに頷いてみせる。仕方ないなとばかりに長く息をつき、もう一度リゲイルを見る瞳の中には、少しだけ優しい色が浮かんでいた。

「あたしから離れるんだ」

 静かに言うカレン。
「もう一度言うよ、あたしを置いて早く逃げるんだ」
「カレンさん!」
「ユージンに連絡を取って、このホテルからなるべく遠くへ離れな。おそらく抜け道があるはずだ。あいつならそれをすぐにでも見つけるだろうさ」
「どうして……」
「あたしはもう助からない」
 カレンは顎を上げ、リゲイルに自分の首にはめられた銀色のチョーカーを見せるようにした。
「これはアクセサリーじゃない。爆弾なんだよ」
 そんな──! 少女は女の告白に目をみはった。


 ──── パーティホール、市長挨拶 ────


 挨拶に立った柊市長は、開口一番、言い放った。
 ──皆さん、このホテルは危険です。すぐに避難してください。
 あけましておめでとうございます、という言葉を期待していた招待客たちは、一気にざわついた。何を言っているのだと、壇上に立つ柊市長を皆が見上げる。
 市長は、静かに説明を始めた。
 今日の天候により、裏山の積雪が溶け、非常に雪崩が起こりやすい状況になっていること。そして、もし雪崩が起きたとしたら、このホテルの建物は古く、それに耐えられないこと。
 
 ホールの中、扉のすぐ傍にいた柊木は、上手側に立つ岩崎正臣の様子を伺っていた。パーティの主催者は表情を強張らせたまま、じっと市長を見つめている。
 隣りにいた冬月も、岩崎の様子を見、柊木と目配せを交わす。
 市長が冗談を言っているのではないということに、招待客たちはようやく気付いたようだった。皆、手にした飲み物をテーブルに置き、連れと顔を見合わている。
 市長は話の最後に、主催者に向かって、相談せずに避難を呼びかけたことを詫びた。
 ──しかし、こうしためでたい席上であるからこそ、人命が失われるようなことは避けなければならないと、私は判断しました。
 サッと岩崎が動いた。傍らの男に、手短に何事かを伝えると、男は背後の扉からホールの外へと出て行った。
「刀冴くん、そっちへ一人、動いた」
 すかさず柊木が携帯電話を取り出して囁く。
 市長が挨拶を終えた。彼は、爆弾やテロリストの話は一切しなかった。ただ、雪崩の危険を訴え、避難を呼びかけただけである。
 先ほど、柊木をはじめ警備にあたっていたムービースターたちの話を聞いて、市長はそう判断したのだった。
 岩崎が市長に向かって深く頭を下げた。大股で進み出ると演台袖に立ててあった司会用のマイクを手に取り、今度は彼が話し始めた。
「柊市長、お忙しいところお越しいただきましてありがとうございました。また、お集まりいただきました皆様がたには、当社の会場選定の誤りから祝賀会を中断することになりまして、心からお詫び申し上げます」
 にわかにざわつき出した招待客たちの反応を見るように、岩崎は一度言葉を切る。
「……幸いにして、当会場は様々なムービースターの方々に警備にあたっていいただいております。彼らに従って、すみやかに避難をしていただますよう、お願いいたします」
 内心はどう思っているのか伺い知れなかったが、とにかく主催者も客たちに避難を呼びかけた。
 柊木と冬月は、正面の左右の扉をそれぞれ開いた。
「皆さん、走らずに──まずはゆっくりとホテルの正面玄関から外に出てください」
 二人は大きな声で、そう呼びかける。
 市長のおかげで、あまり大きな混乱は起きそうになかった。
 ──今のところは。

「ちょっ、何するんですか、離してください」
 岩崎のそばにいた男は、廊下で、刀冴に腕を捕まれて声を荒げていた。腕を振り払おうとするものの、剣士の堂々たる身体つきに明らかに怯えている。
「済まんな。あんたが少々、挙動不審に見えたもんだから」
刀冴は男が行こうとしていた方向とは逆の方を、顎でしゃくってみせる。「手洗いに行くなら、そっちだぜ?」
「わた、私は、お客さんの避難を誘導する役目で……」
「へえ。ご苦労さん。でも、それなら俺たち警備員が動いてる。あんたは落ち着いてドンと構えてりゃあいい」
 男は明らかに困り果てたように、口をつぐんだ。
 しばらく何か考えを巡らせたようにすると、また言う。
「で、でしたら、私はエントランスの方に、いることにします。ですから、その手を離して下さい。ねっ?」
「そりゃいい考えだ。俺も一緒に行ってやるよ」
 刀冴はニヤと笑い、男の肘を掴んだまま、まるで連行するようにエントランスホールの方へと歩いて行った。
 男は静かになっている。刀冴は辺りの様子を伺った。
 客が続々とエントランスホールに出てきている。混乱した様子はない。
 安堵し、彼は足を止める。避難はスムーズに行われるだろう。
 ──このままであれば。

「いいですか、皆さん。ホテルのマイクロバスが2台ありますので、まずはお身体の不自由な方からお乗りください」
 柊木と冬月の巧みな誘導に従って、招待客たちがエントランスホールに出て、順々に外へ避難を始めていた。
 その中で、須美はクロークに預けていた自分のコートとバッグを受け取ると、ロングドレスの上にそのまま羽織った。着替えている時間など無い。バイオリンケースを背負いながら、彼女は周りを見回す。
 楽屋で一緒になった楽団のメンバーたちが、同じように周囲をキョロキョロと見回していることに気付く。
 ディズだ。彼の姿が見えないのだ。
 どこへ行ってしまったのかしら──。不安に駆られながらも、須美の目の前を、ホワイトベージュのプリーツワンピースを着たオカッパ頭の男(?)が通過した。
 小さな女の子を連れて、おろおろした様子である。
 目が合うと、その生き物は意外にもフレンドリーに彼女に話しかけてきた。
「大丈夫かしら……? 怖いわァ。アタシ、暑い国から来たから、雪も初めてだし、雪崩なんてテレビでしか見たことないし。雪の津波みたいなものかしら?」
「そうね」
 須美は相手を安心させようと、少しだけ微笑んでみせた。
「私も初めて。でも、大丈夫よ。ここの会場には頼りになる人たちがたくさんいるから」

 その時だ。
 誰かが叫んだ。

「逃げろ、爆弾が仕掛けられてるぞ!」

 叫んだのは刀冴が掴まえていた男だった。
 彼は、驚いて男の腕を引いた。だが、もう遅い。
 まさか、こんなことを口走るとは──。
 男は、それ以上何も叫ばなかったが、彼の言葉は、その場に充分な効果をもたらした。

 キャーッ、と女の悲鳴が上がった。

 その声をきっかけに、ピンと張った糸が切れたように、客たちの動きがいきなり変わった。突然走り出そうとする者、悲鳴を上げる者、ぶつかって転ぶ者……。
 須美の前にいたオカマ、マギーまでも、驚いて悲鳴を上げている。

 エントランスホールは、一気にパニック状態に陥った。


 ──── 杵間山、山腹 ────


「これで最後だな?」
 シャノンは雪山に膝をつく男の襟を掴み、銃をつきつけながら言った。
 脇にはフェイファーも立っている。
 彼らの背後には縛られたテロリストたちが数人、座らされている。彼らは雪の精霊たちを、刺激しないよう、静かに彼らを制圧したのだった。
 その後は雪山に埋められた爆弾を掘り出させ、解除させていた。取り出させた爆弾は全部で5個。
 しかし、本当にこれだけなのだろうか?
「フェイファー」
 シャノンが友人を呼んだ。意を汲んで、天使は顔を傾けて爆弾を解除する男を覗き込んだ。冷や汗をたらした彼の顔をじっと三秒ほど見つめ、軽くうなづいてみせるフェイファー。彼はある程度なら、人間の心の動きを読むことが出来るのだ。
「嘘はついてないようだ。たぶんね」
 でも、天使は万能じゃないぜ? フェイファーは念を押すように言う。
「分かってるさ」
 ようやくシャノンは笑った。ホテルの方では、柊木たち警備チームが中の爆弾を解除しているはずだ。これで、雪崩の心配はなくなった。
 あとは、ムービーキラー、か。
 ヴァンパイアハンターは、斜面からホテルを見下ろす。
 すると一気に周りの状況が変化した。奇妙なことに雪山が、夜の街に変わっている。
 ──ランドルフのロケーションエリアが、そこに展開されたのだった。
「始まった、か」
「早くも、次のパーティへの招待を受けちまったな」
 フェイファーの言葉に、シャノンはフッと笑う。
「行くぞ」
「次は、旨い酒が飲めるといいな。シャノン」
「全くだ」
 苦笑するシャノン。
 二人の青年は同時に飛び上がり、斜面にその身を躍らせた。


 ──── ホテル裏手、ランドルフのロケーションエリア ────


 サイモンは倭刀を構えたまま、ぐるりと首を巡らせた。
 周囲が、雪山のホテルから、どこかアメリカの路地裏のような場所に変わっている。そびえ立つビル。夜の闇が辺りを覆い、明かりは数えるほどの街灯しかない。
 このロケーションエリアを展開させた張本人のランドルフと、魔道士のシュウの姿が消えていた。どこかに隠れているのか。
 チカッ、と街灯が瞬く。
 辺りは静寂に包まれている。人の姿は無い。
 サイモンは敵の気配を探ろうとしたが、何かに気付いてハッと顔を上げた。数メートル先に、いつの間にか、ぼんやりとした人影が見えたのだ。
 暗がりの中から姿を現したのは、一人の女。
 カレン・イップだった。紫色のチャイナドレスを着た金燕会の女頭目である。
「葉大姐!」
 初めて、サイモンが言葉を発した。
 
 ──今だ!

 ランドルフは、地を蹴った。
 彼はサイモンの背後の闇に、息を潜めていたのだった。
 一歩目で、両手を広げ、二歩目で、路地に打ち捨ててあった大型のバイクを片手で掴む。三歩目でそれを振り上げ、サイモンをなぎ倒すべく、両手で渾身の力を込めて叩きつける!
 バイクが壁にめり込み、コンクリートが飛び散った。
 轟音が鳴り響く。
 だが、ランドルフは気付いた。破壊されたのはバイクだけで、サイモンの姿はない。
「うわっ!」
 代わりに前方で声が上がった。──シュウだ。
 見れば、サイモンが倭刀を突き出した先に、カレンが尻をつく格好で転倒している。
 まさか、斬ろうとしたのか!? ランドルフは目を疑った。

 ……数秒前、シュウが自分に良いアイディアがある、と切り出したのだ。
 彼が魔法でカレンの姿に変身して姿を現せば、サイモンが油断するはず。その時にランドルフが彼の武器を奪い、拘束したらどうか──。
 動きの素早いサイモンを捕まえるには、名案だとランドルフも思った。
 そして彼らは案を実行したのだが、サイモンは予想外の行動に出た。
 彼は、自分のボスに向かって、容赦のない一撃を繰り出したのだ。
「殺すつもりか!」
 カレンの姿をしたシュウは、サイモンに向かって叫んだ。手をわずかに斬られ、血がにじみ出している。
 彼は無言だった。
 目の前にいるのが、カレンでないことに気付いた様子はない。しかし彼は、相手を見下ろし、倭刀をぴたりと向ける。
「大姐、貴女をこれ以上苦しませたくない」
 シュウは驚愕した表情のまま、サイモンの姿を見上げている。
「貴女は迷っている、苦しんでいる、悲しんでいる。俺には分かる」
倭刀の先が細かく揺れ始めた。「一度捨てたこの命を、貴女が拾ってくれた。俺の命は貴女のものだ」
 眼鏡の奥で、彼の瞳にある種の色が浮かんだ。彼は刀を握る手にぐっと力を込めた。手の震えを必死に収めようと。
「大姐。蔡大哥や、關哥々のいるところに還ろう。俺は──」
 
 ──貴女のためであれば、俺はいくらでも修羅になれる。 

 男は刀を振り下ろした。
 ランドルフが跳んだ。が、彼の頬をかすめて何かが後方に飛んでいく。
 右腕、だ。
 彼は振り返り、それが地面に突き刺さったのを見た。サイモンの右腕だった。それが倭刀ごと切断されていた。
「……お前がそういう考えなら、オレだって容赦しねえ」
 見れば、サイモンの足元の人物が、樫の杖を突き出していた。シュウだ。彼が、咄嗟に放った魔法が──魔力の刃が、剣侠の右腕を切断したのだ。
 その姿が、カレンからシュウに変わった時。同時にサイモンの右肩から鮮血が吹き出した。
 タッと後方に飛び退くシュウ。
 サイモンは腕の無くなった肩を押さえ、片膝をついた。
 唸り声を上げ、そこへ後ろからランドルフが飛びかかった。はち切れんばかりの筋肉をつけた両腕で、がっちりとサイモンを押さえつける。
「あなたは間違ってる!」
 身体をよじり、抜け出そうとするサイモンをランドルフは怪力で締め上げた。血が飛び散り、彼の身体をも赤く染めたが、食人鬼はそれでも相手を離そうとはしない。
「そんなことをしたって、誰も幸せにならない。彼女が死んでも、あなたが死んでも、悲しむ人がいるんですよ!」
 あなたは死んではいけない! 叫ぶランドルフ。
 
 ──!

 その時、彼は違和感を感じた。
 首のすぐ下、彼の胸から、銀色の刃が突き出していた。
「呂哥々を離せッ!!」
 サイモンを抱えたまま動きを止めたランドルフ。その背中に掛けられたのは少年の声だった。
 どくん、ランドルフの心臓が跳ね上がる。
 学ラン姿の少年、ジミーがサイモンの刀を手に、彼を背中から刺していた。一瞬、意識が遠のく。刺された程度で彼は死なない。しかし、この負傷は──まずい。
 どくん。もう一度、彼の心臓が躍動した。それに呼応するように彼の筋肉がさらに盛り上がる。
 ランドルフは身体を奮わせた。自然に彼の腕が広がってしまう。彼は──自分の肉体が“覚醒”することを感じた。
 
 ジミーが倭刀を抜く。サイモンが拘束から逃れ、反対側に飛びのいた。

「逃がさねえぜ!」
 シュウが、反応してサイモンに杖を向ける。
 しかしその彼の前に飛び出してきた者がいた。青い髪をした少年だった。
 誰だ!? と、思った時には既に遅く。右手に痺れを感じ、彼は杖を取り落としてしまった。
 次の瞬間には、一気に間合いをつめてきたその少年──ソルファが、シュウの杖をはたき落とし、両手の拳銃を少年の眉間と胸にピタリと当てていた。
「ジミーの邪魔はさせない」
 彼が、言った。

「ちょ、ちょっと──何コレ。ええええ!?」
 次に現れたのは、赤い服を着たウサギ、レモンだった。
 自分の頭を抱え唸り出しているランドルフ。シュウに銃を向けているソルファ。刀を渡そうとサイモンに走り寄るジミー。
 彼女は、突然走り出したジミーたちを追いかけてきたのだが、この状況にどう反応したらよいか、一瞬だけ判断に迷った。
 しかし、右腕を失ったサイモンがジミーの方を振り向いたところで目を留める。
 彼女の直感が告げたのだ。あの男は、今、尋常な状態ではない、と。
 少年が倭刀をサイモンに手渡したその瞬間、刀身が翻って──キラと光った。
「ジミーッ!!」
 レモンの強力なタックルを受けて、ジミーと、そしてレモン自身がもみ合うように、倒れこんだ。
「な、何すんだ、クソ兎──」
 自分の身体の上に覆いかぶさっているウサギの身体をどけようと、ジミーはレモンに触れ、驚いたように手を離した。
 血だ。
 レモンは背中を斬られていた。
 驚いて、ジミーはそのままサイモンを見上げた。
「呂哥々、ボクを──斬ろうとしたの?」
 男は答えなかった。代わりに、彼の手にした倭刀とその刀身についた血が、ジミーの質問に答えていた。
「痛、い」
 レモンが声を上げた。ジミーはさっと彼女の傷に目を落とした。血がにじんでいるが深い傷ではない。少年はそれを確認すると、彼女を抱き起こすようにして立たせてやった。
「ジミー」
 済まない、とサイモンは詫びの言葉を口にした。
「俺は、お前も葉大姐も苦しまずにさせてやりたいんだ。ジミー、俺たちにとって、死ぬのは怖いことじゃない。俺たちは、眠るように、溶けて──ただ、消え失せるだけなんだ」
 片腕だけになった男は、逆手に刀を構え、腰を落とす。
「心配するな、俺もすぐに行く」
 そう言い放ち、サイモンが動いた。
 本当に、本当に、兄貴分が自分を殺そうとしている。ジミーはあまりのことに逃げることもできず、レモンを庇うように、ただギュッと彼女を抱きしめ、目をつぶった。

 ──が、辺りに響いたのは数発の銃声だった。

 目を開けるジミーとレモン。
 刀を振り上げようとしたままのポーズで、サイモンが立っている。そのスーツには、いくつもの穴が開いていた。
 ソルファだった。
 彼がまっすぐ構えた二丁の拳銃から硝煙が上がっている。
 呂哥々! とジミーが叫んだ時、サイモンは地面にゆっくりと倒れていった。どう、とうつぶせに倒れた彼の身体の下からは、赤い液体が流れ出してくる。
 ジミーはレモンの身体を離し、兄貴分に近寄ろうと、一歩ずつ歩き出した。
 サイモンは目を見開いたままだ。
「哥々……」
 少年は、視界がにじむのか、真っ直ぐ歩くこともできなかった。よろめくように一歩ずつ。倒れた男に手を伸ばそうとする。
 しかし、その手を横から誰かが掴む。

「よせ、ジミー」
 
 いつの間にそこにいたのだろう。
 少年の肘を掴んで引いたのは、シャノンだった。
「そいつは、まだ生きてる」
 ヴァンパイアハンターは、冷たい瞳で倒れた男を見下ろしていた。その隣りにはフェイファーの姿もある。
 レモンが、ソルファが、シュウが、そして二倍ほど身体を大きくさせてしまったランドルフが、それでも静かに、倒れたサイモンを見下ろしていた。
「は、離せよ……」
 少年は、目に涙を溜めて、青年の手を振り払おうとした。が、手に全く力が入らない。

「その男は、ムービーキラーだ」

 少し離れた場所から、静かな男の声がした。ジミーが振り返ると、皆の輪から少し外れたところに見知った男が立っていた。
 ユージン・ウォンだった。
「せめて、安寧をくれてやれ。それが情けというものだ」
 彼の脳裏には、ボロボロになって塵と消えたフィルムを拾い集めようとしている過去の自分の姿がよぎっていた。
 ウォンは知っていた。一度、ムービーキラーになってしまったら、心を蝕まれ、決して元に戻ることなど出来ないのだ。
「そんな──」
 涙を、袖でぬぐうジミー。
 見れば、サイモンの身体がピクリと動いた。シャノンが片手で銃を向け、ソルファも眉を寄せながら銃を向ける。瀕死状態の男は、刀を杖のようにして体重をかけ、立ち上がろうとしている。
 まだ、戦う気なのか──。彼を囲んだ面々は、じっと彼の様子を伺った。
 
 ふわり。

 すると、雪のように白いベールがサイモンの上に舞い降りた。立ち上がろうとしていた彼は天を見上げた。
 彼と、皆を遮るように一人の少女が姿を現した。背丈よりも長い純白の髪に、豪奢な白い着物をまとっている。
 それは、電子空間から姿を現した、白姫だった。
「この方は、わたくしにお任せください」
落ち着いた口調で、彼女は言う。「もし、彼が死を願うのであれば、わたくしは彼に終焉を与えねばなりません」
 ──なぜ? 誰かが彼女に問うた。
 白姫は、微笑んだ。
「それがマスターの意志であり、わたくしの役目だからです」

 白姫は答え、そしてサイモンとともに消えうせた。

 あとには、彼の流した血溜まりだけが残っていた。膝を折り、呆然としたようにそれを見つめるジミー。
 残された面々は、狐につままれたような顔でお互いの顔を見た。
 レモンは背中をフェイファーに手当てしてもらいながら、言葉を交わした。──もし、サイモンが死を願わなかったら。それなら彼はどうなるの?
 シャノンとソルファはそれぞれ銃を収め、ウォンはいつの間にか姿を消していた。
 シュウは斬られた杖の先を拾い上げ自分の懐に収めている。
 ランドルフは覚醒状態に陥った自分を元に戻そうと、深呼吸を繰り返しながら、手にした小さなものを見つめている。女物の指輪だった。彼はその宝石の中にこの街で知り合った一人の女刑事の顔を思い浮かべていた。
 ──これで良かったのでしょうか。
 彼は、心の中で彼女に問いかける。私は、彼を助けたかった──。
 やがて、ランドルフはため息をついて指輪をポケットに収めた。彼は普段の大柄な男の姿に戻っていた。
 そうして、皆が一息ついたところだった。

 突如、轟音が鳴り響いた。

 ランドルフのロケーションエリアはまだ持続していた。しかし、ビルの後背地という形で存在していた雪山の中腹が──爆発したのだ。
 見れば、雪が吹き飛び、赤茶けた地面が見えている。降り注ぐ、破片物。
「まさか!」
シャノンが驚いて振り返る。「爆弾は全て、解除したはずだぞ!」
 
 だが、そんな彼の発言をあざ笑うかのように、山は震え、振動する。
 雪崩が──来る!
 その場にいた誰もが、それを意識した。


 ──── 地下1階、元カラオケルーム ────


 一方、少し時間を遡って、サイモンがランドルフのロケーションエリアに捕らわれたのと同じ頃。
 地下1階の、カラオケに使われていた部屋に女が二人。
 誰かとの会話を終えて、リゲイルは携帯電話のフリップを閉じ、カレンを振り返った。
「大丈夫よ、ユージンさんが、もうすぐそこに来てるって」
 カレンはうなづくと、身動ぎした。結局、両手の手錠は手すりに繋がれたままだ。リゲイルの手では、それを外すことが出来なかったのだ。
 あと、何分ぐらいで爆発するのだろうか……。
 リゲイルを見、カレンは嘆息した。先ほどから何度も何度も、自分を置いて逃げるように言っているのに、この少女は全く従おうとはしないのだ。
「なあ、こんなところに乗り込んできたら、ユージンが危険な目に遭うかもしれないよ?」
 カレンは少し切り口を変えてみた。
「いくらアイツでも、死ぬかもしれない」
「そんなことないわ」
だが、リゲイルは断定口調で返してくる。「ユージンさんなら絶対大丈夫」
「どうしてそう言い切れるンだよ?」
「だって、わたし信じてるもの」
 繋がれた女の横に座り、少女はニコッと傍らに微笑みかけた。
「カレンさんも、信じなきゃ。諦めちゃったら、それで終わりだよ」
 信じる……。カレンは黙って床を見つめた。
「アイツのことが好きかい?」
「えっ?」
 リゲイルは頬を赤らめ、恥ずかしそうな顔をしたものの──頷いた。
「どんなに愛し合っていても、別れは必ず来るんだよ。それでも好きでいられるかい?」
 今度はリゲイルの方が無言になった。彼女はしばらく、じっと考え込むように俯いていたが、もう一度ゆっくりと頷いた。
「分かってるの。頭では。みんながいつか居なくなっちゃうってこと。──でもね、別れるのが嫌だから、相手のこと好きにならないなんて、それこそ変よ」
少女は、ついとカレンの横顔を見た。「カレンさんだって、そうじゃない。旦那さんと離れても、ずっと好きなままでいるんでしょ?」
「ああ。うん、そうだね……」
 カレンはクスッと笑った。彼女の様子を見て、リゲイルも微笑む。
 この人もこんな風に笑うんだ。そう思った。本当に、友達になれるかもしれない──。

「へっ、本当だ。本当にいやがったよ」

 部屋の入口に男が二人立っていた。一目で、チンピラと分かる風体をした20代ぐらいの二人組である。
「だ、誰っ」
 突然の闖入者に、リゲイルが立ち上がって前に出た。
 男たちは顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべてみせる。
「夏に、星砂海岸で世話になったモンだよ。あの時は、アンタの仲間に、そりゃあ酷い目に遭わされたもんさ。──なあ、カレンさんよォ?」
男たちは、ゆっくりとカレンに近寄ろうとした。「今日は、それのお返しをたっぷりしてやらないとな」
「やめなさい!」
 リゲイルがバッと両手を広げ、男たちの前に立ちはだかった。
「それ以上、こっちにこないで!」
「邪魔だ、どけッ」
 パンッと大きな音をさせて、片方の男がリゲイルの頬を打った。
 少女は、ひとたまりもなく床に倒れ込んだ。アップにしてまとめていた髪が崩れ、赤く長い髪が白磁のような肌にこぼれ落ちる。
 しかしリゲイルは、すぐに身体を起こした。
 身体を硬直させていたカレンを守るように、彼女に抱きつく。カレンが、逃げろと叫んだが少女の耳には入らなかった。
「クソッ、どけって言ってんだよ!」
 男がリゲイルの髪を後ろから掴んで、乱暴に引っ張った。その力に勝てず、彼女はカレンからあっけなく手を離されてしまった。少女の咽喉から、甲高い悲鳴が漏れる。
 だが、その時。
 リゲイルの悲鳴に勝るとも劣らない甲高い音が、部屋中に鳴り響いた。
 驚いた男たちは、振り返って部屋の入口にブルーグレーのスーツを着た男が立っているのを見た。そして彼が手にする青いトランペットも。
 誰だテメェは! と、片方の男が叫んだ。

「オレがこの世の中で嫌いなタイプの人間が、三種類いる」

 トランペッター、ディズは名乗ろうとはしなかった。
「一つ目は、音楽の素晴らしさを分かろうとしない奴。二つ目は、自分より弱い者に強がる奴。そして──三つ目は、女を殴る奴だ」
片目をつむってみせ、トランペットをくるりと回すディズ。「お前ら、すでに二つも該当してるぜ?」
 男たちは立ち上がり、殺意を込めた目でディズを睨む。開放されたリゲイルは、しがみつくようにカレンに抱きついた。
「そこのお嬢さん、“ブレス・マイ・ソウル”って曲を?」
 ディズは余裕の態度を崩さないまま、震えているリゲイルに声を掛けた。
 彼女は首を横に振る。
「そうか。なら、今聞かせてやるよ」
 彼がトランペットを口を当てた時。ふざけるな! と男たちも動いた。
 ディズは明るくテンポの良い曲を吹き始めながら、クルリと回転するようにステップを踏む。
 ──タ、タンッ。彼は殴りかかってきた片方の男のパンチをかわし、長い足で見事な回し蹴りをその後頭部に見舞った。
 もちろん、演奏は続けたまま、だ。
「野郎!」
 一人の男が床に這いつくばると、もう片方がディズに踊りかかろうとした。
 ──が、彼はすでにディズの次の攻撃の軌道に入り込んでいることに気付いていなかった。
 トランペッターは回し蹴りを放った足を軸足にすると、楽器を左手に持ち替え、右腕の肘で相手の咽喉元を突く。
 ぐぇっ、と咽喉を詰まらせたような声を上げて、二人目の男も床に倒れた。
 そして、ちょうど曲を終え、ディズはトランペットを掲げて一礼してみせる。

「オレの演奏中に殴りかかってくるなんて。お前ら三つとも該当してんじゃねえか」

 リゲイルとカレンに向かって、片目をつむってみせるディズ。
 彼は、自分のネクタイを外して、手早く男たちの手を縛り上げ始めた。その作業を終えると、ようやくひと段落ついたとばかりにディズは二人の方に近寄った。女たちの顔には安心したような表情が浮かんでいる。
「──悪かったな、カレン。上の階を探し回ってて、遅くなっちまった」
「さっきの金を返せ、と言いたいところだがね」
 ニヤとカレンは笑った。
「今の演奏の見物料として、くれてやるよ」
「金払う価値があったかい?」
「まあね。──ついでに、この手錠を外せないかい?」
「お安い御用だ」
 ディズは、肩をすくめると、ポケットから針金のようなものを出してカレンの手錠の鍵を外しにかかった。
 リゲイルが身を引き、それを興味深く見つめている。
「ねえ、さっきの曲、とても素敵だったわ」
そっと作業中のディズに話しかける。「有名な曲なの?」
「ああ、有名だね」
 ピンッと音をさせて、手錠が一つ外れた。トランペッターは意外な特技を披露しながら、リゲイルを振り向き、にっこりと微笑んだ。
「何しろ、オレのオリジナルだからな」
 そう、ディズが言った時。遠くでゴォォーンと、大きな音が聞こえてきた。ホテルの中ではない、外からである。

「爆発──?」

 三人は、ハッと顔を見合わせた。


 ──── 地下2階、ワインセラー ────


 一方、爆発音をホテルの地下室で聞いた男が一人。
 彼は足を止めることなく、暗い部屋の中を奥へ奥へと進んでいく。周りの壁はレンガで出来ており、そこは地下のワインセラーだと思われた。
 手に小型の懐中電灯を持ったその男は、スキンヘッドに黒皮のコートを着た陰陽だった。彼は背後をチラチラと振り向きながら、息を切らしていた。邪魔なダンボール箱を蹴り飛ばし、焦ったように突き当たりのドアのノブに飛びついた。
 だが、ガチャガチャと音をさせるだけで、ドアは開かない。
 鍵がかかっている? 
 陰陽が顔を上げた時、ドアの曇りガラスの向こうに人影が映った。
 ──遅かったな。
 その人物が言った。
「岩崎さん、開けてくれ。僕だよ、全部片付けてきた」
 陰陽は共謀者の影を見て、すがるようにドアに身体を押し付けた。自分の腕時計で何らかの時間を確認しながら言う。
「あんたの言う通りだった。山の方にも爆弾仕掛けといて良かったよ。あれがたった今、爆発したところさ。……カレンの方はあと15分ぐらいで爆発する。急がないと、僕ら二人もフッ飛んじゃうぜ?」
 ──カレンは、どんな様子だったんだ?
「ああ、完璧だよ。クスリも打っといたし、例の爆弾つきチョーカーも首に付けて、例の部屋に繋いできた」
 闇医者は後ろを振り向きながら、続けた。
「これであの女は自力で逃げることも出来ないし、誰かが助けにきたとしても、爆弾の解除装置は壊したから爆発を止めることも不可能だ。……万が一、爆発を防いだとしても、あの女は必ず死ぬよ。何しろ──首に爆弾を巻いてるんだ。解除するなら首を切断するしか無いんだからな」
 へえ、とガラスの向こうの人物が相槌をうった。
 ──ドアの鍵は、後ろの棚に置いてあるぞ。
「後ろ?」
 言われて、陰陽は振り返ろうしとした。
「どこのことだ──」

 ダン!

「へぶッ!!」
 耳を突然たたきつけられて、陰陽が奇妙な悲鳴を上げた。いきなり、ドアが恐ろしい勢いで開いて彼の頭を直撃したのだ。
 衝撃と痛みでバランスを失い、ふらふらと床に膝をつく陰陽。
 キィ、とドアの蝶番が音を立てて、閉まる。白いスーツを着た男の足が、陰陽の顔の前に立っていた。
「鍵だと? そんなものは無い。地獄行きの切符ならすぐにでも渡してやるがな」
 聞き覚えのある声だった。陰陽は恐怖に駆られ、ゆっくり相手を見上げる。
 恐ろしい目つきで、彼を見下ろしている男がいる。
 元ヤクザ、八之銀二だった。

「──テメェに、仁義はねぇのか!」

 彼は腹の底から響くような声で啖呵を切った。
「いや、ちょっと、待っ──」
 次の瞬間には、銀二は相手の顎を蹴り上げていた。後方に投げ出された陰陽は、木製の棚を破壊しながら、倒れこんだ。棚に乗っていた古い酒瓶や、ガラクタの類が物音を立てながら、彼に降り注ぐ。
 陰陽は、クソッと悪態をついた。体制を立て直すのを諦め、そのまま素早く懐に手を入れるとメスを数本抜き出し、投げつけようとする。
 が、銀二の方が速かった。
 陰陽の手を弾いたその左腕で、肘と膝で相手の肘を挟み込む。──ゴキッという嫌な音がした。
「カレンはどこだ?」
 悲鳴を上げる闇医者の襟首を、ぐっと掴み寄せ、銀二は低い声で問いを発した。
「や、やめてくれ。何もしないから、殴らないでくれ……」
 ガツッ。銀二は問答不要で、陰陽の顔に頭突きを食らわせた。
「ギャッ」 
「俺の質問に答えろ」
「ち、地下1階の、カラオケルームだった部屋だよ!」
 陰陽の掛けていた丸いサングラスが割れて落ち、彼の顔にいくつかの破片が刺さっていた。
「彼女に爆弾をつけたっていうのは本当か?」
「本当だよ!」
叫ぶように言い、陰陽は慌てて付け加えた。「解除しようっつったって、もう手遅れだぞ。いくら僕を痛めつけたって、無理なものは無理なんだ! 方法が無いんだから」
 その言葉を聞いて、銀二は目を細めた。
 確かに陰陽は嘘を言ってはいないだろう。この祝賀会を主催する岩崎議員が、カレン・イップの有力な支援者の一人だったという噂は、彼も耳にしたことがある。
 だからこそ、だ。
 岩崎のような男は、自分のことを知り過ぎている者を消そうとするはずだ。それも確実な方法で。
「──クソッ、気に要らんッ」
 銀二は、もう一度陰陽に頭突きを食らわせた。グヒャッとか、そんな声を上げて、彼は白目を剥いた。脳震盪でも起こしたのか。
 と、その銀二の背後に、黒い影が立った。

「銀二、その男の始末は、私に任せてくれないか」

 振り返ると、そこには漆黒のコートをまとった男、ユージン・ウォンが立っていた。おそらく、陰陽が使おうとしていた地下通路を通って、ここに入ってきたのだろう。
 ひんやりした空気を──死臭をも感じさせるような、石の冷たい匂いをも、彼は一緒に連れてきている。
 銀二はウォンを見、目礼した後、一瞬だけ逡巡した様子を見せた。相手の意図を読み、この男の行く末を哀れんだのかもしれない。
「──分かった」
 しかし銀二はうなづくと、陰陽の襟首を離した。
 どさっと落とされ、彼はようやくウォンの姿に気付いたようだった。一気に青ざめ、尻を床についたまま、後ろへ後ずさろうとしている。
 ウォンは大股で、陰陽に近づいた。
「ひぃ、く、く、来るなぁっ」
 まるで子供がダダをこねる仕草のように、陰陽は腕を振ってウォンを避けようとしたが、無論、それは無駄な行為にしか過ぎなかった。
 陰陽の腕をパッと掴み、それから腕時計をもぎとるウォン。後ろを見ずに、それを銀二に放った。
「これを持っていけ」
 銀二は時計を受け取り、目を落とす。デジタル表示が、何かをカウントしている。数字は減っていく一方で、12分を切ったところだった。
 これが、最後の爆弾が爆発するまでの時間か──。銀二は、その数字の意味をすぐに理解する。
 男二人は目線を交わし、言葉以上の会話をかわした。
 そして、お互いの役割を果たすために、それぞれ部屋を出て行った。


 ──── 1と0で構成された、白い闇 ────


 サイモンは、闇の中にぽつりと立っていた。
 もう一人の自分が、まるで乞食のような風体をした若いころの自分が、目の前に倒れている。
 その前に女が現れた。長い黒髪のカレンだ。白い手を伸ばして、彼女はサイモンの頭に手を触れた。

 要らないのかい? なら、あたしに寄越しなよ。
 お前が、それを捨てちまうなら、あたしが拾ってやる。
 必要になったら、いつでも返してやるよ。だから──。
 その命を、あたしに預けてみないかい?

「あなたは終わりを望まれるのでしょうか?」

 背後に立つ、少女が言った。長い着物の裾も髪も、闇の中につながり、どこか境目なのかすら分からない。白く霧のように儚なげな姿は漂うように、サイモンの前へと進み出る。
 柔らかい光が彼を包み込む。
 男は、ゆっくりと瞳を閉じた。

「要らないんだ。命なんて」

 彼が目を閉じたまま顔を上げると、光と、雪のような白く丸いものがゆっくりと彼の身体に落ちていった。サイモンはそれを感じたのか、両手を広げて心地よさそうな表情を浮かべる。

「俺はただ──還りたい。あの人が幸せそうにしていた刻へ」

「それが、あなたの望みなのですね」
 白姫はうなづいた。
 ふわりとサイモンの後ろに回り、背中から彼を優しく抱きしめる。彼は手を下ろし、ただ自分の運命を受け入れるように微笑む。
 いっそう、降り注ぐ雪が多くなり光の粒子がまばゆい光を放ち出した。サイモンに雪が積もり、彼の姿が雪に覆われていく。
 彼の姿が見えなくなったとき。

 世界は、全てが白で覆われていた。


 ──── ホテル、玄関前、タクシープール ────


 エントランスホールにいた須美は、呆然と周囲を見回していた。遠くで聞こえた爆発音。そして地震のようにホテル全体が揺れている。
 彼女はバイオリンケースを抱きしめるように天井を見、揺れが治まるのを待った。このホテルではなく、どこか別の場所が爆発したのだろうと。どこか冷静な、人事のような感覚で、須美は思った。
 しかし。
 本当に、あの映画のように雪崩が起きてしまうのだろうか。
 そう思うと現実感を持った恐怖が湧き上がってきそうで、須美はいっそうバイオリンを強く抱きしめた。
 銀幕市の住民である彼女は、今までも数々の事件を見てきたし、実際に自分が関わったこともある。しかし、こんな現場に──命の危険を感じるような事件に遭遇したのは初めてだったのだ。
 逃げなくちゃ、と思った。
「走らないでください! どうか、皆さん!」
 見れば、逃げ惑う人々の波に押されながら、冬月や柊木が声を張り上げている。中には転んでいる人もいるようだ。
 須美も出口の方へ向かおうと一歩踏み出した。だが、後ろから誰かにぶつかられ、思わず彼女はバランスを崩して床に手を着いてしまった。
「大丈夫!?」
 すぐ前にいた人物が、彼女に手を貸してすぐに立たせてくれた。それは、爆発が起きる前に言葉を交わしたオカッパ頭のマギーだった。
「どうしたらいいの?」
 須美がバイオリンを拾い上げ、礼を言うと、マギーはいわゆる半泣き状態で彼女を見た。
「ねェ、だって。外に出たって雪崩が来たら助からないわ! 無理よォ、アタシここに来た時のこと覚えてるもの。ずっと一本の登り道。走って逃げるなんて無理よ、絶対無理!」
「──諦めたらいけないわ」
 取り乱すマギーに、須美は咄嗟に言い放った。
「頼りになる人たちがたくさんいるんだもの。そんな風に慌ててしまったら、助からないわ。彼らを──信じるのよ」
 須美はそう言って、マギーの肩に触れた。
「ごめんなさい。アタシ……」
 鼻をすすりながらオカマがうなづいて見せると、彼女はにっこり微笑んで、いいのよ、と答える。
 そのまま須美は、ふと思いついたように、自分のロングドレスの裾をたくし上げ、膝の上あたりで縛った。
「これで動きやすくなったわ。さあ、行きましょう」

 くそっ。冬月は口には出さずに、何度も何度も悪態をついていた。避難の呼びかけをしたところまでは、うまくいっていたのに。
 岩崎に、まんまとしてやられてしまったということか。
 柊木によれば、爆弾は全て解除していたという。……ならば、すなわち全くノーマークだった爆弾があったということだろう。岩崎のような用心深い者なら、やりかねない。
 冬月は、冷たい風にさらされながら玄関の外で大声を張り上げている。彼の役割はマイクロバスへの誘導だが、バスは二台しかない。とても全員が乗り切ることは出来ない。
 柊木と刀冴は、ホテルの中で立ち往生している群集の中を掻き分け、なんとか人々が怪我をしないように立ち回っているが──。いかんせん、人数が多すぎる。
 二人の顔にも焦りの色が浮かんでいる。どうすれば……。

 ──!?

 冬月は、顔を上げた。
 何か聞こえる。ホテルの裏の方からだ。
 ──歌だ。誰かが歌っている。
 ゴゴゴと振動する山に呼応するように、だが、優しく。山の怒りを鎮めるような穏やかな旋律が流れてくる。美しい、テノールだ。
「みんな、静かに!」
 叫ぶ冬月。
 だが、彼の声も混乱する群衆には届かない。耳を澄ますんだ! と、叫ぶ冬月と刀冴の目が合った。
 剣士にも、この──謳(うた)が聞こえたのだ。
 刀冴はうなづき、息を吸い込むと、カッと気合いを放った。彼を中心にして360度に、彼の意思が風となって広がった。
 人々は、一瞬にしてハッと動きを止める。
 そして気付くのだ。どこからか聞こえてくる、この謳に。

「フェイファーくんだな」
 ぽつりと言い、柊木は直感した。
 あの天使が謳っているのだ。きっと、雪崩を抑えるために。
 山のための謳は、人々の心にも安らかさをもたらしてくれた。焦り、早くホテルから出ようとしていた人々は、ゆっくりと外へと歩き出している。
 外に出た者は、それぞれ晴れた空を不思議そうに見上げていた。
 この謳は、どこから聞こえてくるのだろう、と。
 ふう、と柊木は息をついて、安堵の笑みを浮かべた。これで、人々の避難をスムーズに行うことができるだろう。
 近くにいる刀冴を振り向くと、彼もニッと微笑みを浮かべてみせる。
「俺が、しんがりを務めるよ。全員が外に出るまで、ここにいる」
「ああ、頼む」
 短く会話を済ませる二人。
 彼らは同時に、群集から離れていく一つの影に気付いた。岩崎正臣だ。
「刀冴くん」
「分かってる。ヤツのことは任せたぜ?」
 目配せを交わすと、柊木はそっと動き、影を追った。


 ──── 地下1階、階段の踊り場 ────


「謳が、聞こえる」
 階段を登りながら、ディズが言った。足をうまく動かせない様子で、彼に肩を貸してもらっていたカレンも、その謳に気付く。
「本当だ、誰かが……謳ってる」
 リゲイルも耳を澄ませた。
 彼女は友人の顔を思い浮かべ、そして直感した。この美しいテノールは、あの天使のものだと。
「フェイファーだわ、きっと。これは彼の謳」
「あいつが?」
 カレンも空を見上げるように顔を上げた。耳で聞いているのか、心に直接届いているのか……。それは、とても心地よく、温かい旋律だった。
 しかしホテルは、時折り地震のように細かく揺れている。今にも雪崩が起きようとしているのだろう。
 時間がなかった。カレンは自分の首に付けられた銀色のチョーカーに触れる。これがいつ爆発してしまうのか。彼女はその時間すら知ることが出来なかった。
 と、彼らが階段の踊り場を折り返した時、1階のフロアに男が姿を現した。
「──ここにいたのか、探したぞ?」
「銀二!」
 ディズが現れた男を、嬉しそうに呼んだ。「みんなはどこに?」
「ああ、客はみんな避難してるところだ。ホテルの中には一般客はもういない」
 銀二は駆け下りてきて、カレンに手を貸した。もはや彼女は逆らおうとはせずに素直に彼の手を借りて、早く歩こうと努力する。
「銀二さん、さっきのすごい音、爆発よね。雪崩は?」
 リゲイルも心配そうに言う。
「今のところは大丈夫そうだ。聞こえるだろう? この謳。フェイファー君だ。口は悪いが、彼はあれでもいっぱしの天使だからな。雪崩が起こるのを抑えてくれてるんだ」
ニッと微笑んでみせる銀二。「だから、今のうちに早く、ここから出よう」
「待て。それよりも、陰陽の奴が──」
「陰陽? ああ、それも心配ない」
 カレンの発言に、銀二は即答した。
「抜け道から逃げようとした奴を捕まえといた。時計も奪っといたから、あと何分時間があるのかも分かってる」
 時計、という言葉を聞いて、弾かれたようにカレンは彼を見た。そして彼が付けている腕時計に見覚えがあることに気付く。
 表示は、10分を切っていた。

 いきなり、カレンは銀二の胸を肘で打った。

「何を!?」
 後方に押しやるようにしたため打撃としては弱かったが、銀二は思わずバランスを崩して、よろめいていた。ディズが慌ててその背中を押さえる。
 驚くディズとリゲイルを尻目に、カレンは銀二の腕を取り、素早くその腕時計を──陰陽の腕時計を抜き取った。
 彼女は、そこに自分に残された時間が表示されていると気付いたのだった。
 カレンは流れるような身のこなしで、ディズの腕もすり抜け、階段を一気に駆け上がる。
「カレンさん!?」
 叫ぶリゲイルに、済まない、と言い残して。
 腕時計の時間をもう一度確認し、彼女は三人を一瞥し、走り去っていってしまった。
 呆然と、ディズはその後ろ姿を見て。そして、ようやく気付いた。
 彼女が具合が悪そうにしていたのは演技で、カレンは、ずっと自分たちから逃れる機会を伺っていたのだ、と。


 ──── 103号室 ────


 岩崎正臣は、慌てた様子で、自分用に確保していた部屋に走り込んだ。
 一人である。
 何の変哲もない客室の中を見回すと、彼は重いソファを動かし、手早く床の絨毯を剥がした。そこには地下へと続く正方形のドアのようなものがある。
 先ほど、ホテル裏の山の中腹で、爆発があったばかりである。彼の手の者が、爆弾があると騒ぎ出し、客たちが大パニックに陥った時から、ちょうどすぐに爆弾が作動した。
 いいタイミングだった。
 柊市長が避難を呼びかけてしまうなど、すこしの誤算はあったが、岩崎の推測ではまだ時間には余裕があるはずである。早く、この地下シェルターに入ってしまえば……。
 ──ガチャ。
 彼が、ドアのレバーに手をかけた時、突然部屋に入ってきた者がいた。
 岩崎は慌てて立ち上がり、絨毯を足でかけ直して振り返る。
 そこに立っていたのは、警備主任の柊木であった。
「ノックも、無しか?」
「緊急事態ですので」
 柊木は表情を浮かべずにドアを閉めると、改めて、まっすぐに市会議員を見つめた。
「貴方の仕事は、客の避難誘導ではないのかね?」
「それは他の者に任せてあります」
「貴方が警備責任者だったように、私は記憶してるがね」
「私は、貴方がこのパーティの首謀者だと記憶しておりますが」
「首謀者?」
 目を細め、岩崎は目の前の男を睨んだ。
「随分な言い方をするね」
「──生憎と私は、自分の大切な人が貶められるのを黙って見ているほど、心の広い人間ではないのでね」
 柊木は一歩、相手に近寄った。それに反応するように、岩崎もわずかに身を引く。
「大切な人?」
彼は首をかしげるようにして柊木を見た。「まさか、あのカレン・イップのことを言ってるのか? これは驚いたな」
 眼鏡を外し、胸ボケットにしまい込むと、岩崎はフンと鼻を鳴らし笑う。
「貴方は警察の人間だというのに、あの女ヴィランズに味方するのか。まさに銀幕市ならではのスキャンダルだな。銀幕ジャーナルが喜んで取り上げ──」

「黙れ」

 低く、冷たい声だった。
 岩崎は口をつぐんだ。柊木の鋭い眼光に押され、さすがの市会議員も怯んでいた。
「確かに、我々ムービースターは仮初めの存在だが、柊市長は我々をひとりの市民として扱ってくれた。あんたとは違う」
 さらに一歩、柊木は前に踏み出した。
「私にも、そして彼女にも心がある。ヒトをヒトと思わないような下賎な輩に、これ以上好きにはさせん」
「──な、何をする気だ」
 市会議員は気圧されたように身体を強張らせた。その目線が、一瞬だけ、床に落ちる。
「私があんたを撃つとでも?」
 柊木は笑った。
 彼はいつも微笑みを絶やさない男である。だが、この時浮かべた笑みだけは、普段とは全く性質の異なるものだった。
「その地下シェルターに逃げ込むのか? いいだろう、邪魔はしない。あんたには、生き残ってもらわねば困るからな」
 どういうことだ、と言わんばかりに眉を寄せる岩崎。
「あんたは証言台に立つんだ」
 柊木は、ポケットから携帯電話を取り出した。そのフリップは開いたままだ。
 彼はそれを岩崎に突き出す。岩崎は、視線を躍らせながら、もう一度眼鏡を取り出して、掛けた。手がわずかに震えだす。

 電話に表示されていたのが、“通話中”という文字だったからだ。

「はい」 
 岩崎は、おずおずと電話を受け取り、電話の向こうの相手に話しかけた。
「やあ、岩崎君。私だよ、岸だ」
 彼の表情が凍りついた。相手が誰であるか気付いたからだ。
「祝賀会へ行けなくて済まなかったね。代わりに秘書を行かせたんだが、もう会ったかな?」
 電話の相手は、岩崎の先輩にあたる市会議員の岸だった。
 岩崎は言葉もなく、相手の声を聞いている。
「中々、面白いことに関わっているようだね。ま、君は映画と観光の人だから、分からないでもないが」
 岸の声は軽快で、これといった感情を感じさせない。
「そうそう。今日は、思い出話をしよう。6年前の杵間山撮影所の拡張工事の件、覚えてるだろう。あの時は大変だったな、ウチの息のかかった建設会社に随意契約に持っていくのも苦労したし。補正予算を組ませるのにも苦労した」
「岸さん、それは」
 岩崎が何か相手の話を遮ろうとしたが、岸は話をやめなかった。
「いや、実はな。あの時の水増し請求の件を、誰かがメディアにリークしたらしい。議会が荒れるぞ。誰かが責任取らなきゃならなくなった」
 間が、あった。
「──岩崎君。きみは今、会派会長だろ。何とか上手いタイミングで責任とってくれ。きみが辞職すれば、市民は許してくれるんじゃないかな」
「何を言ってるんですか、岸さん。あの時は貴方だって──」
「もらったよ」
 ひょうひょうとした声で、応える岸。
「きみも私も、あの時リターンを得てる。議会の証言席で、私の名を出しても構わんよ。だが、そんなことをしたらどうなるか、賢明なきみなら分かるはずだ」
「岸さん!」
 
 岩崎君。きみは、私を殺そうとしたな? 

 それだけ言い残すと、相手は電話を切った。
 電話を耳から離し、岩崎はその画面を穴の開くほど見つめていた。身体を動かしたわけでもないのに、額には玉の汗が浮いている。
 パッと、柊木がその手から自分の電話を取り戻す。
 そのまま彼は、どうぞそこへお入りくださいと言わんばかりに、床の地下シェルターの入口を岩崎に指し示してみせた。
 だが、岩崎は呆然と立ち尽くすだけで、動く気配もない。
 相手が動かないのを見ると、柊木は興味を無くしたように、肩をすくめた。そのまま、何も言わず。彼は静かにその部屋を後にしていった。


 ──── 1階、廊下 ────


 白いスーツの女が、誰もいない廊下を駆けていた。
 カレンだった。
 彼女は一度振り返り、何かから逃げているかのように、また走り出す。
 曲がり角に届こうかという時に、突然、大きな黒い影が彼女の目の前に飛び出した。
「あッ」
 よける間もなかった。カレンは相手に腕を取られてしまった。ぐっと強い力で引かれ、壁に身体を押し付けられてしまう。
「──なぜ、一人でいる?」
 声を聞いて、それが知り合いであることに気付き、カレンは俯いた。
 相手はウォンだった。つい先ほどまで一緒にいたリゲイルの恋人であり、カレンの同郷人とも言うべき男だ。
 彼は、カレンの腕は離したものの、肩を壁に押し付けている手はそのままだ。
 彼女が答えないので、ウォンはその顎に手を触れて上を向かせた。そうやって、首のチョーカーがよく見えるようにすると、何か小さな赤いランプが宝石のように光を放っているのが見えた。
「これが爆弾か」
 ウォンがそう言うと、唸るような声を上げて、カレンは彼の手を払った。
「一人でどこかに逃げようとしたな?」
「うるさい」
キッと彼の顔を見上げるカレン。「いいのか、こんなところに居て? リゲイルを放っといていいのかい」

「サイモンが、死んだぞ」

 えっ、とカレンは目を見開いた。瞬きもせずに、ウォンを見つめる。
「な、」
 唐突に出た部下の名とその行く末に、自分が何か聞き間違いでもしたのかと、カレンは穴の開くほど相手の顔を見つめた。
「サイモンが、どうしたって?」
「──彼は死を選びました」
 ふわり、とウォンの背後から白い着物姿の少女が現れた。質量を感じさせない仕草で、カレンの目の前に立った白姫は目を伏せるようにして彼女に目礼をしてみせた。
「彼は、終わりを望んだのです」
淡々と白姫は続ける。サイモンの最後の言葉を。「自分の命はカレン様に預けたもの。自分には必要がないと」
 認めたくないと言わんばかりに、カレンは隻眼を少女に向けた。
「あいつが──フィルムに?」
「いえ」
 白姫は首を横に振った。代わりにウォンが答えた。
「サイモンはムービーキラーになっていた。フィルムすら残らなかったそうだ」
「そ……んな」
 カレンは、衝撃に咽喉を詰まらせた。
 部下がムービーキラーになっていたことも初めて知ったのだろう。彼女はかつて自分の友人が死んだ時、その身体が黒い塵のようになって消えたことを思い出していた。
「あいつまで、そんな!」
「奴を、修羅にしたのはお前だ」
 だが、容赦なくウォンはカレンに言葉を浴びせた。
「自分から鳥かごに入り込むような真似をしたのは誰だ? お前は部下を──自分に命を預けていた男を、無駄に死なせたのだ」
「……ッ」
 彼女の唇が何かを言おうとして、細かく震える。
 彼の言葉が相当堪えたのだろうか。カレンは目を閉じ、感情を抑えるかのように荒く息を吐き続けた。サイ……と、詫びるかのように、この世にはいない部下の名を口にする。
「だが、いいか。聞くんだ」
 ウォンは彼女のジャケットの襟を掴み、いっそう顔を近づけた。
「もしお前が死ねば、奴がお前に預けた魂はどうなる? サイモンはその魂すら失ってしまうことになるのだ。だからお前は──」
 ハッ、とカレンが目を開く。
「──死ぬな」
 彼女は、ウォンの青い瞳を見た。
 その色彩の中に何を見たのか。ユージン、とその名を呼ぶ。

「その通りだよ。あんたは生きるべきだ」

 暗がりから、ふいに声が聞こえた。
 ふらりと姿を現したのは、大剣を帯びた剣士──刀冴だった。
 放心したように、カレンはその姿を見る。ウォンは彼女のジャケットから手を離し、白姫も無言のまま、静かに刀冴を振り返った。
「聞いたぜ。その首飾りのこと。どうせ、あんたはここからなるべく遠くに離れて、それで死のうとでも思ったんだろ?」
 近づいてくる刀冴の足音が、廊下に響く。
「だが、死んで何もかもを終わりにしようなんて、そんな甘い考えを許すわけにゃあ行かねえな。あんたは償いをしなくちゃならないんだ」
 償う……。カレンは、その言葉をかみ締めるように小さくつぶやいた。
「そうさ。償うんだよ、カレン。あんたは生きて、幸せになるんだ。あんたが殺めてしまった人間の分まで」
 刀冴は、そう言い終えてようやく微笑んだ。
 ひとたび戦ともなれば、悪鬼のごとく敵を切り刻み、最強の剣士とまで言われ恐れられている男が、安らかな笑みを浮かべていた。──それは、これから死線に立とうとする仲間たちに向ける笑顔でもあった。
 必ず、生きて帰って来いと。この自分が全身全霊をかけて、お前を守ると。彼の強い思いが、そこに宿っていた。
 カレンは彼の瞳を見る。同じだ、と彼女は思う。そこには死んだ彼女の夫が浮かべていたのと、同じ色彩があった。夫は、いつもこんな風に自分を見ていた──。
「でも──」
「首飾りのことか?」
 カレンの目の前に立ち、刀冴はウォンと白姫と目線を交わす。
「大丈夫だ、約束するよ。俺たちは、必ずあんたを守る」
 剣士の笑みに、ウォンも微笑みを浮かべてみせた。あまり表情を見せない白姫ですら、微かに口端を綻ばせている。
 三人の顔を見て、カレンは小さく、ゆっくりと頷いた。
 山が揺れ、また建物が振動する。
「さあ、行こう」
 刀冴が、言った。


 ──── ホテル外、雪山 ────


 アッサー……フォザパゥアー……アイムビディーデュアトゥー……。
 フェイファーは、雪の世界を空から見下ろしながら謳を紡いでいる。それは天使の言葉。精霊と意思を通じ、彼らのエネルギーを沸き立たせる天界の詞。
 四枚の翼を大きく広げ、神代から引き継いだ純白の装束をまとったその姿は、天の使いに相応しい神々しさに包まれていた。
 彼の中から蒼い色が生まれ、光のシャワーになって雪山に降り注ぐ。それが雪の、山の精霊たちに語りかけ雪崩を防いでいるのだ。目下では、仲間たちが彼の様子を見守っている。
 謳いながらも、天使の脳裏には、あの日の光景がよぎっていた。
 あの日、あの病院の屋上で、じっと佇んでいた自分。人間の女性に恋をしてしまった彼は、彼女が居なくなると同時に心を失った。
 そうだ。あの日も──雪が降っていた。
 死は避けられぬもの。それは分かっている。だが自分が関わった全ての人に、この場にいる全ての人に幸福を届けたかった。

 奇跡を──。フェイファーは謳い続ける。


 ──── ホテル、玄関前、タクシープール ────


 山が震える中、冬月は人々を誘導し、マイクロバス二台に乗せて送り出そうとしているところだった。あと2、3人乗ればこのバスを送り出すことができる。
 彼の心にも謳は届いていた。
 その旋律に耳を傾けながらも、彼は思う。銀幕市で探偵として暮らしていた冬月は、一昨年の秋からずっと不平を漏らしていた。ムービーハザードなんて迷惑なものは街から全て無くなってしまえばいい、と。
 だが──。最後に乗り込む、小さな女の子の背を優しく押しながら、彼は思った。

 こういうのも悪くない。
 この先、ずっと夢が続いたとしても、それでも。悪くないかもしれないな。

「さ、早く出してくれ」
 彼はドアを閉め、運転手に向かって言った。
 このバスで大人数を搬送できる車は最後になる。あとは、タクシーが山を登ってくるのを待たねばならないのだ。
 エンジンがかかり、バスはロータリーを回って走り去っていった。それを見つめる冬月の隣りに、須美とマギーが立っていた。
 彼女たちも、自分たちはまだ平気だから、と、後発組に志願したのだった。
「ビビ、いい子にしてるのよー」
 マギーがバスの中で手を振る幼い妹を、涙ながらに見送っている。
 それを一緒に見つめながら、須美は思った。これで良かったのかしら、と。
 冬月と共に招待客を誘導していた時はまだマシだった。目の前の人たちを見ていれば、恐怖に囚われることもなかった。いざ、こうして残されてみると、急に足が震えてきそうだった。
 隣りのマギーの表情も曇っている。フェイファーの謳は届いているが、それでも、これから死ぬかもしれないという恐怖に克つのは難しい。
「そうだわ」
 ふと、須美は思いついて背中に背負っていたバイオリンケースを降ろした。
 もっと、この謳を自分の心に──。人々の心に届ける手助けをしたい。
「どうしたの、須美チャン?」
 マギーが声を掛けてくると、彼女は微笑みを返してみせた。ケースからバイオリンを取り出し、立ち上がる。
「わたし、あの天使さんの傍にいるわ。これを弾いてあげようと思って」
 えっ、でもそっちは。マギーが言ったが、須美は微笑んだまま、雪山の方へと歩いていく。
 止めようと、手を伸ばしたマギーの肩に、冬月がポンと手を置いた。大丈夫だ、とその目が言う。
 見れば、須美の行く手に、いつの間にか7人の男がずらりと並んで立っていた。手にはキラキラと輝く楽器を手にしている。
 ディズの楽団の仲間たちだった。
「お嬢さん、セッションの経験は?」
 声を掛けられ須美は、もちろん、とばかりに会釈をした。大柄な男たちは、手を打ち、喜んで彼女を迎えいれるようにその輪の中に入れた。
「ウチの大将は、どっかでモタモタしてるみてぇでさ」
「これを機に、あんな変人クビにして、お嬢さんみたいな可愛い子をメンバーに加えたいね。俺は」

「チッ、言いたい放題だな」

 男たちのさらに背後に、青年が姿を現した。ディズだった。青いトランペット、ブルーノをくるりと手で回して言う。
「誰が変人だって?」
 楽団のメンバーたちは、お互いの顔を見て、悪びれずに豪快に笑い出した。ディズが何か言い出すのを、まあまあなどと抑えながら、須美とともに蒼い光の方へと歩いていく。
 冬月は、フ、と笑った。
「大丈夫そうね」
 マギーも微笑んだ。
 と、冬月は隣りを振り向き、自分の手を見下ろす。マギーがしっかりと自分の手を握っていた。
「それ、離してもらっていいかな」
 あらごめんなさい。マギーは恥ずかしそうに自分の手を引っ込めた。


 ──── ホテル外、雪山 ────


 フェイファーの謳と、その蒼い光の下で。
 とにかく一刻も早く、建物から外に人々を連れ出すために、ムービースターたちはそれぞれの能力を使って掛け回っていた。
 ようやく、ホテルの建物の中から、全ての者が外に出ようとしていた。それにはテロリストやヤクザなども全て含まれている。
 人々はホテルの周辺に佇み、静かに状況を見守っていた。
 やがて、天使の謳に呼応するように、ヴァイオリンの響きが、トランペットや、サクソフォン、トロンボーンの音が重なった。須美やディズたちが、演奏を始めたのだ。
 これなら、雪崩は起こらずに済むかもしれない。
 その場にいる誰もがそう思った。
 そして最後に、一人の男がホテルから出てきた。刀冴である。彼は両腕で、白いスーツの女を抱きかかえていた。
 カレン・イップだった。
 その場にいた者たちは、みな二人に近寄ろうとする。その中で、いち早く彼女に走り寄ったのはジミーだった。
「葉大姐!」
 彼は肩を落とし石に腰掛けていたのだが、カレンの姿を見て、飛びつくように刀冴にすがりついた。
「大丈夫だ、怪我はしていない」
 刀冴は、そこにいた面々を見回した。
 シュウが状況を察して、短く呪文を唱えた。すると彼の魔法で、雪の上に藁のベッドが現われた。刀冴はうなづいて、そこにカレンを寝かせる。
 彼女は自分を覗き込む者たちの顔を一人ずつ見た。
 心配そうに青い瞳を曇らせているリゲイルに、大きな身体だが、その瞳に優しい色をのせて彼女を見るランドルフ。
 銀二は目が合うと、死んだら承知しないぞ、とばかりに眉を上げ、シュウは彼女を励ますように拳を握ってみせた。
 気の無いような素振りを見せつつも、シャノンはその瞳から彼女を気遣う色を消すことが出来ず、包帯姿のレモンは真っ直ぐに彼女を見て、大丈夫よ、と言う。その言葉に、隣りのソルファも頷いている。
 膝をついたジミーは、彼女の手をぎゅっと握った。
「大姐……!」
「ジミー、ここには来るなって言ったじゃないか」
カレンはその少年の小さな手を握り返し、微笑んだ。「お前はクビだよ。これからは卓球にでも専念するんだね」
「嫌だ、大姐! 死んじゃ嫌だ!」
「──死なないよ」
堪えきれず涙を流し叫ぶ少年の肩には、大きな手が置かれた。「彼女は死なない」
 彼の隣りに膝をついたのは柊木だった。手には小さな工具を手にしている。
 ずっとジミーの隣りにいたソルファが、ジミーの頭をぽんぽんと撫でそっと彼の腕を引いた。少年は鼻をすすりながらカレンの手を離し、柊木に道を譲る。
「できるか?」
「やってみせるよ」
 シャノンの問いに、柊木は静かに答えた。カレンの喉に手を伸ばし、冷たい銀色のチョーカーに触れる。
「死ぬなんて、私が絶対に許さない」
 彼はもう一方の手で、そっと彼女の頬を撫でた後、ペンチを手にしてチョーカーに差し入れた。アシスタントのように傍に控えていたレモンが、例の陰陽の腕時計を手にして言う。
「あと、2分を切ったわ」
「大丈夫。線を切らないように、限界まで伸ばして、彼女の首を抜けばいいんだ」
「柊木……」
「喋らないで。手元が狂ってしまう」
 カレンが何か言いかけた。が、柊木は手で制してそれを止める。
「きみは生きなければならない、あまりにも大勢の人を傷つけたからだ。分かるかい、カレン。きみは生きて──全てを見届ける義務があるんだよ」
 金属に守られた細いコードを抜き出し言う。義務とは言ったものの、彼の言葉には優しさが溢れていた。
「オッサンの言う通りだ」
 シュウが同意するように頷き、彼女の顔を覗き込む。
「オレだって、今までに人として許されないようなことをしてきてる。“禁忌”を──許されない罪を犯した。……でも、それから逃げちゃいけないんだ」
「そうよ。こんなところでくたばってもらっちゃ困るのよ。あんたはあたしのライバルなんだからね!」
 レモンまでもカレンに声をかける。
「馬鹿だね、お前たちは」
カレンは、シュウとレモン、そして柊木の顔を見て苦笑した。「正真正銘の馬鹿どもだよ」
 そうだね、と柊木は言った。確かに私は大馬鹿だ。
「私は、ただ、この街できみが新しい人生を送れればそれでいいんだ。それが、彼の──そして私の願いだから」

 その時、腕時計のアラーム音が鳴った。

「あと1分よ!」
 レモンが言う。柊木の額に脂汗が滲み始めた。うまくコードを引き伸ばせてはいるのだが、まだ長さが足りない。爆弾はカレンの首にひっかかったままだ。
「もういいよ、柊木」
 柊木は無言で、作業に没頭している。少しずつコードは長くなってきている。だが、間に合うのかどうか──。
 彼が額の汗をぬぐおうとコードから手を離した時、いきなりカレンが動いた。
 起き上がって、素早く柊木の懐の銃を抜き取ると、セーフティを外し彼の顎につきつける。
 誰もが、その動きに反応できなかった。
「カレン!」
 
 彼女は微笑んだ。
 ありがとう、と。その瞳が言葉以上に、意志を伝える。

 次の瞬間。彼女は足を振り上げ、後方に回転するように飛び上がって着地した。
 その後は後ろを振り返りもせずに、跳ぶように軽やかに掛けていった。皆と離れるように、遠くへ遠くへ。
 柊木が彼女の名を呼んだ。その前で、刀冴がザッと立ち上がる。
「待て、早まるな!」
 刀冴の瞳が白金色に輝き、彼は一気に自らの覚醒領域を解放した。人間とはまるで違う、天人としての驚異的な跳躍力で雪を踏み、カレンを一気に追いかける。
 ダンッ、と、その隣りで、雪を蹴って跳んだ者がいた。
 ──ランドルフだった。
 一気に食人鬼としての力を覚醒させ、二回りほど巨大化した彼は手を伸ばし、カレンの身体を掴まえようとした。
 彼は思ったのだ。自分があのチョーカーを引きちぎって、爆弾を抱き込んでしまえば、彼女は助かるかもしれない、と。
 だが、ランドルフの手がカレンに届く寸前。
 何か白いものが、彼の目の前を横切った。

 それは、白い着物を着た、一人の少女の姿だった。

 白姫。電影空間から実体化した少女は、ほんのわずかな間を使って、ランドルフとすぐ後ろに迫っていた刀冴に一礼した。
 そして、フッ。彼女の姿が消える。
 
 雪山に、ひときわ大きな轟音が鳴り響いた。


 ──── 雪崩 ────


 フェイファーは驚いた。地上で聞こえた、もう一つの爆発音。そして誰かの悲痛な叫び。その旋律が彼の心を乱した。
 誰かが、大切な人を失ったのだ。
 謳を──謳い続けなければ。
 だが、一度失ったバランスは元に戻らなかった。爆発の轟音よりも、その後の叫び声が彼の謳を止めてしまったのだ。
 身を翻すフェイファー。謳が、力が出ない──!
 雪の精霊たちが、一気に騒ぎ出す。
 雪山の斜面が、その重さに耐え切れずに瓦解した。雪がまるで津波のように、山の斜面を押し流すべく進行を始めた。
 ──それは、まぎれもない雪崩だった。
 こんなものに飲み込まれたら、ホテルはひとたまりも無い。下にいる人々を助けなければ。フェイファーは、意を決して、地上へと向かった。

 カレンの首に付けられていたチョーカーが爆発した。
 咄嗟に覚醒したランドルフが爆弾を抱き込んだため、爆風による被害はほぼ皆無だった。しかしさすがのランドルフも、全身に負傷し仰向けに倒れていた。傷は修復しているが時間がかかっていた。刀冴も、いくつかの破片を浴び膝を折っている。
 爆発した中心点は黒く焼き焦げ、何も残ってはいない。

 叫びを上げたのはジミーだった。

「大姐!」
 走ってきて、焼き焦げた地面を見て彼は呆然と立ち尽くす。そこには、彼女の痕跡は何一つ残っていない。
 誰かが、雪崩がくるぞ! と叫んだ。
 だが少年の耳には聞こえなかった。彼は両膝を付き、地面を手で触り始めた。まだ炎を上げていて熱い地面をである。
「ジミー!」
 その襟首を後ろから掴んで無理矢理立たせた者がいた。ジミーはその手を振り払おうとして、相手がシャノンであることに気付く。
「離せ!」
 彼が噛み付くように言った時、シャノンは少年の頬を打った。
「しっかりしろ、雪崩が起きてる。自分が生き残ることを考えるんだ」
 彼は呆然としているジミーの身体を離し、銃を取り出してマガジンの交換をした。霊撃弾──。魔術の込められた弾である。
「さて、これで少しは時間稼ぎにはなるかな」
 タッと地を蹴り走り出すシャノン。
 雪崩がまさに降り注がんとする斜面に立ち、両手の拳銃の弾を撃ち込む。
 冷たい風がシャノンの頬を切った。
「シャノン!」
 ジミーが叫ぶ。
 ヴァンパイアハンターの黒い影が白に飲み込まれた時、まるで映像の再生スピードを遅くしたかのように、雪崩の動きがにぶくなった。
 雪崩を止めなければ──。
 他の者たちもお互いの顔を見合わせ、この災厄に立ち向かおうと山を見上げた。

「柊木のおじ様!」
 リゲイルが近寄ってきて、カレンが爆発した辺りを見つめていた柊木も、すっくと立ち上がる。心配そうに彼を見上げていた少女に、大丈夫だと伝えて。
 彼は自分たちに出来る最善のことを素早く計算していた。
「刀冴くん、シュウくん!」
 最後に柊木は二人の仲間に声を掛けた。

***

 カレンは、闇の中にぽつりと立っていた。
 一人だった。
 今さっきまで、自分は何をしていたのだろうか。
 そうだ、爆弾が──!
 思わず、手を首にやったカレンだったが、そこには何もついていなかった。

 ここはどこなのだろう。

 ようやく落ち着いて周りを見ると、ぼんやりと何かの像が浮かんでは消えるのを繰り返している。
 彼女は、それが自分と夫の姿であることに気付いた。

***

 轟音とともに、ちっぽけな人間を押しつぶそうとする雪崩。雪は煙をもうもうと上げながら、斜面を下ってくる。途中にある木々や岩、全てを巻き込み、眼下の建物を飲み込もうと真っ直ぐに。
 それを真っ直ぐに見上げ、銀二が立った。
 まだ一般客たちが避難しきれていないのだ。なんとしても彼らを助けねばならない。
「あれは“壁”かな?」
 雪の飛沫を浴びながら、まるで独り言のように、言う。
「蹴るつもりね、あれを」
 その彼の隣りにスッと立ったのは、オカッパ頭のマギーだった。轟音を聞いて走ってきたのか。流し目を銀二に送り、手伝うわと片目をつむってみせる。
「蹴りならアタシも手伝うわ。アタシはこう見えても──」
「セパタクローのプロ、なんだよな」
 そうよ。銀子チャンよく知ってるわね。マギーは助走をする時のようにわずかに腰を落とした。
「威力を弱めるぐらい、だがな。ひとつやってやるか」
 だが、銀子チャンはよしてくれ。そう言い終えた銀二も、フッと微笑み、足を引く。
 と、その二人の横を、ウオオォッと唸り声を上げて疾走していったものが居た。覚醒状態のランドルフだった。
 ──ボゴッ!!
 彼は大きく振りかぶって、目前の木をいきなり根元から引っこ抜いた。それをブンブンと振り回しながら、雪崩へとまっすぐに突っ込んでいく。
 銀二とマギーは顔を見合わせ、同時に眉を上げてみせた。
 そして、二人も雪崩に向かって駆け出していた。

***

 その映像の中で、夫が声を上げた。
 よせ、やめるんだ。カレン。
 二人はどこかのビルの屋上に居る。カレンはスナイパーライフルを下げ、夫の顔を見た。
 なんでだよ、どうして、ここまで来たのに!
 彼女は彼に食ってかかった。
 あいつらが、リンを殺したんだよ。あたしたちの息子を、あの映画監督とかいう連中が──。

 すまない、カレン。

 夫はなぜか謝りながら、彼女の手からライフルを取り上げて床に落とすと、妻の身体を優しく抱きしめた。
 俺は過去にこだわり過ぎた。
 あいつらを殺したところで、俺たちの息子は返ってこない。

 そうだろう?

***

「すまねえ。俺が謳を続けられなかったばっかりに……」
 地上に降り立った天使は、皆に詫びた。
「仕方ないわ。わたしたちも楽しかった」
「須美の言う通りさ。むしろ、こんなエキサイティングなステージで演奏さしてもらって、オレらは本望さ。あんたに感謝したいぐらいだよ」
 だが、ヴァイオリンを手にした須美も、トランペットを手にしたディズも、笑顔だった。
 どちらにしろ、彼らには雪崩を止める手立ては一切無かった。
 だから、須美もディズも、すでに覚悟を決めていたのである。
「大丈夫よ!」
 そんな彼らに、ぴょんと跳ねてレモンが言った。
「あたしに任せてちょうだい。あたしだって天使様なんだから!」
聖なるウサギ様は自信満々といったように胸を貼り、「アンゴラ2号……じゃなくって、ソルファ! ちょっと来て」
「?」
 ソルファは、呆然自失状態のジミーを連れてレモンの元に来た。
「肩車して」
「なに?」
「肩車してって言ってるの! 状況がよく分からないから!」

***

 カレンは闇の中で、実体化してからの自分の姿を見続けていた。
 こうして見てみると、自分の身勝手さばかりが目につく。
 夫はずっと訴えようとしていた。何度も海に行こうと彼女を誘ったのも、料理屋を開こうとしていたことを伝えようとしていたのだろう。
 なのに、自分は──。
 夫が腑抜けた別人になったかのように思い込んでいた。
 あげくの果てには、部下を使って、夫の行動を監視させていた。
 そして、あの雪の日。夫が他の女と寝たことを知って、怒りを抑えることが出来なかった。自宅に戻った夫を銃で撃った。弁解など、させなかった。

 ごめんね。
 カレンは自分の顔を両手で覆った。
 あたし、あんたのこと信じてなかった。

「あなたは終わりを望まれるのでしょうか?」

 ふわり。白い着物の少女が闇の中から溶け出すように姿を現した。
 顔を上げるカレン。
「そうか、そういうことか」
 相手の顔を見、ようやく意味が分かったというように、彼女は笑みを浮かべる。
「あたしが終わりを望むなら、お前はそれを与えてくれるんだね」

 白姫はうなづいた。  

***

 シャノン、そして銀二とマギーが、雪崩の雪煙の中に消えて行ったのを見て、刀冴は大剣を、シュウは杖を構えた。
「お互い、考えてることは一緒みたいだな」
 魔道士がそう言うと、剣士は眉を上げ微かに笑った。
 刀冴は傷だらけの身体を──被弾し無数に負った切り傷も手当てすることなく。シュウの隣りに立った。
「どうする?」
「オレは風を。残った魔力を全部叩き込む」
「なら、俺はあんたの援護を」
 それだけ言葉を交わすと、二人は離れ、別々に呪文を唱え出した。
 
「──吹き飛べ!」

 シュウの目の前から唸りを上げて、風が巻き起こった。竜巻のような風は唸りを上げ、勢いを弱めていた雪崩の先端に激突した。飛んでいるドラゴンすら、地面に叩きつけてしまう恐ろしい威力の風が、まさに雪崩に襲い掛かったのだ。
 雪が飛び散り、四散する。
 雪崩が二つに割れ、ホテルと人々を避けて流れるようにするのが、彼の狙いだった。

「『創麗王』第五節【降誕頌】!」

 次の瞬間、刀冴の魔法も発動した。彼の世界での最上位神の一柱、生命と死を司る神の手を借りるこの魔法では、物質に命を宿らせることが出来るのだ。
 シュウの風に押されていた雪崩が、怒れる雪の塊が一瞬だけ光を放つ。そしてのたうつ雪の塊の中から現れるのは白い竜だ。
 建物と、人々を避けてくれ──!
 山の斜面を押されていた竜巻の動きが止まった。雪崩が竜となって二つに割れ、山を下っていく。

 やったぞ! と誰かが叫んだ。

 次の瞬間、雪崩はホテルをちょうど挟んで、ぎりぎりのところを通りぬけていった。
 大量の雪と土砂が轟音とともに押し寄せて、前方にあるものを全てなぎ倒し斜面を駆け下りていく。白雪の竜がうねり、轟くような咆哮を上げた。
 だが雪崩は、人々のいるところだけをうまく避けていた。
 意志を持った雪が、人間を避けたのだ。
 ドドドド……、と山の啼き声はどんどん小さくなっていく。
 刀冴とシュウは魔法を維持しながら、視線を交わしニヤリと笑った。二人の魔法で、起こってしまった雪崩も被害を出さずに済んでいる。
「……くッ……」
 轟音が静まっていく。それと共に、刀冴は膝を折った。
 上位の魔法を使ったがために、身体中に、骨が砕けるような痛みが走った。歯を食いしばるが、胸が詰まりゴホッと咳き込んでしまう。雪面に真っ赤な血が飛び散った。
「辛そうだな、大丈夫かい?」
 シュウが苦しむ刀冴に手を差し出した。剣士は、それを見上げ、少年の腕のあちこちから血がにじんでいるのに気付いた。──おそらく、魔法の反動に耐えかね、彼の腕の血管がいくつか破裂したのだろう。
「お互い様じゃねえか」
 自分の血を手の甲で乱暴に拭い、刀冴は笑みを浮かべると、シュウの手を借りて立ち上がった。


 ──── 雪崩が避けたホテル ────


 このフワフワした感覚は何だろう──。
 パチリと銀二は目を開けた。自分は、雪崩に向かってヤクザ蹴りをかましたはずだった。そして真っ白な世界に呑みこまれた。
 俺もとうとうオダブツしちまったかな。
 そう思ったが、世界はちゃんと色彩を持っていた。
 眼下には、ゴツゴツした雪が──押し流された木々がところどころ顔を出していて、雪崩の通り過ぎた後が広がっている。
 ホテルは、ホテルはどうなった!?
 慌てては見たものの、ホテルのある場所を避けて雪崩が通り抜けていた。ちょうどホテルのあるところから真っ二つに雪崩が割れて、そして山の下へと押し寄せていったのだった。
 ホテルは無事に残っていた。
 奇妙な光景だった。
 そして銀二はもう一つ奇妙なことに気付いた。──あれ、俺なんで飛んでるんだ?
 ふと、背中に違和感を感じ、そおっと手を回してみる。
 
 彼の背中には、小さな天使の羽が生えていた。

「なんだァ、こりゃあ!」
 銀二が叫ぶと、下で手を振っている者たちが見えた。フェイファーやレモンたちだ。
「どうやら、俺たちはあの聖なるウサギ様に助けられたようだぞ」
 後ろから声を掛けてきたのは、シャノンだった。見れば、彼の背中にも小さな天使の羽が生えている。
「そういうことか」
 安心したように微笑む銀二。
 マギーもランドルフの背中にも羽が生えている。雪崩に呑まれた者たちは、レモンがロケーションエリアを展開したおかげで全員が、助かっていた。
「こっちよー!」
 飛び跳ねて、空に浮かぶ者たちに、手を振るレモン。
 ディズや須美すらも楽器を手にしたまま、ふわふわと空を舞っていたのはご愛嬌、だ。
 天使の羽を生やした者たちは、それぞれ地上に降り立った。皆、お互いの無事を確かめ、微笑みを浮かべる。銀二と刀冴がパンッと手を叩き合い、マギーはランドルフに抱きついてその無事を喜んだ。
 ただ──。
 雪崩が起きる前にいた女の姿が一つだけ、そこには無かった。

「カレン」

 柊木がぽつりと言った。
 彼の言葉を聞いて、皆が頭を垂れた。その場にいる者たちは、カレンが爆発する瞬間を見ていた。確かに、あそこに彼女がいたのだ。
 あの状況で助かるはずがない──。
 直前まで走り寄っていたランドルフも、刀冴も、誰もがそう思っていた。

「──カレン様をお探しですか?」

 しんと静まり返った中、少女の声がした。
 見れば、少し離れた場所に。雪崩の跡の小高い雪の上に白姫が立っていた。少女は、きちんと着物の裾を払って、ゆっくりと一礼してみせる。
 いつの間に? と、皆は彼女を見上げた。そして、今、カレンの名前を口にしなかったか、と。
「皆様にはきちんと説明しておりませんでしたが」
そう前置いて、白姫は淡々と話し始める。「わたくしは無機物でしたら、対象を分子レベルまで戻し、再構築し直すことが出来ます」
 これといった表情浮かべずに彼女は言う。
「カレン様が身に付けていた爆弾についても、また然り、です」
 えっ、と誰かが声を上げた。
「あの爆弾が爆発する0.1秒前に、わたくしのロケーションエリアを展開いたしました。そして──」
「──説明はもういい!」
 叫ぶように言ったのは、刀冴だった。
「彼女は、カレンは生きてるのか?」
 白姫は眉をひそめて彼を見た。困った人だと言わんばかりに見たものの、彼の言葉を命令とでも受け取ったのか。最後に言った。
「ええ、生きています」

 少女の姿がかき消えた。
 そして、彼女が立っていたその場所に、一人の女が倒れていた。
 
「カレン!」
 自分を呼ぶ声に、カレンは目を開いた。
 たくさんの顔が自分を見下ろしている。これは現実だろうか、とぼんやり見ていると、誰かが彼女を抱きしめてくれた。
 一瞬、夫かと思った。だが、違う。
 相手が誰か思い至って、カレンは完全に覚醒した。
「よく、戻ってきてくれたね」
 柊木は彼女の身体を離し、その髪を撫でた。彼が本当に心から嬉しそうに微笑んでいるのを見て、カレンは何も言えなくなってしまった。
「別に、もう少し……この街にいてやってもいいかなと、思っただけだよ」
 やがて、そんなことを小さく言いながら、やんわりと柊木の手を外して、自分の足で立ち上がる。
 自分に集まるたくさんの視線に居心地が悪くなったのか。そっぽを向こうとすると、今度はジミーが彼女に抱きついた。よしなよ、と彼女は少年の身体を離そうとしたが、彼がわんわん泣き出すのを見て。仕方なくその頭に手を置いて、そのままにしてやった。
「カレンさん」
 リゲイルが進み出て、彼女に微笑みかけた。
「奇跡を信じる?」
「奇跡?」
「そう、奇跡よ。後ろを向いてみて」
 少女は女の腕を取り、背後をゆっくりと振り向かせた。ジミーも彼女から離れ、その視線を追う。
 離れたところに黒いコート姿のウォンが立っていた。
 だが一人ではない。幼い男の子の手を引いている。
「まさか!」
 カレンはその少年を一目見て、驚いたように声を上げた。
 5才ぐらいになるのだろうか。少年もカレンに気付いて、嬉しそうな笑みを浮かべた。

 ──媽々!

 自分を母と呼び、駆け寄ってくる少年をカレンは呆然と見つめた。
 それは彼女の息子のリンだった。彼女はかつて、息子を演じていた俳優のエディ・リョンと会ったことがある。しかしこの少年はエディであって、エディではない。
 両膝を着き、目線を合わせて少年の頬を撫でるカレン。
 彼の頬は温かかった。
 映画の中で殺されてしまった彼女の息子がそこにいた。
「リン……!」
 カレンは息子を抱きしめた。
 ほっと安堵したように、彼女を見下ろす人々の顔に笑顔の輪が広がっていく。
「──数ヶ月前から探していたのだ」
ウォンが言う。「市内をくまなく探し、条件に該当する少年を一人ずつ当たっていた。彼が最後の一人だった」
 燕の親子に、幸運を。
 それだけ言い残し、ウォンは軽く手を挙げて去っていった。
 リゲイルはカレンに、またね、と言うと、ウォンの後を追いかけて行く。
「?」
 幼いリンは、彼らを不思議そうに見送り、そして母の顔を見た。
「媽々、どうして泣いてるの?」
 何でもないよ。とカレンは答えて、にっこりと微笑んでみせる。
「お前に会えて嬉しくて、それで」
「変なの」
 そうだね。カレンはもう一度、リンを抱きしめていた。

「ジミー」
 じっとカレン達の様子を見つめていた少年に、シャノンは声を掛けた。
 ポン、とその肩に手を置き、彼もカレン達の様子を見つめる。
「もう、分かってるな? 一人前の男なら何をするべきか」
「当然だよ」
 ジミーは傍らの青年の顔を見上げ、フンと鼻を鳴らして笑った。
「お前が、彼女たちを守ってやれ」
「そんなの。言われなくたって」
 ひょいと眉を上げてみせるシャノン。生意気言いやがって、とこぼしながらジミーの頭をくしゃくしゃにする。
「よせよ」
 シャノンの手を払いのけながらも、ジミーの顔には笑顔があった。
 何か、ふっきれたような幸せそうな笑顔だった。
 ソルファも、恩人たる少年が喜んでいるのを見て微笑んだ。彼の中でも、ようやくひと仕事が片付いたような気持ちになることが出来た。
「料理もできる」
 と、彼はジミーに言い、自分を親指で指差してみせた。それを見て、バッカじゃないの、と小憎らしい口調でジミーが返した。
「ボクもシャノンも、野菜が大っ嫌いなんだから」
 残念そうな顔をするソルファ。ジミーとシャノンは、それを見て声を上げて大笑いした。

 晴れた日。雪山に響く笑い声。
 母と子が微笑みあう姿を、その場にいた全ての者たちが目に焼き付けていた。

***

 その日を境に、カレン・イップの姿が街で見かけられることはなくなった。

 この事件に関わった人間は口々に、こう話した。
 ──カレン・イップは死んだと。
 そして決まって言うのだ。彼女のプレミアフィルムはあの雪の中に埋もれてしまい、誰も見つけることが出来なかった、と。

 ウォンは、彼女のことを聞かれると決まって、そんな奴のことは忘れた、と不機嫌になった。
 同じ日に、チャイナタウンで廃ビルが爆破され、一人の身元不明の遺体が発見されるという事件があったのだが、それについて聞かれると、彼はさらに不機嫌になった。あれは、鎮魂の灯明だ。彼は言う。修羅になった男への、せめてもの供養になっただろう。
 そうして、彼は口をつぐみ、それ以上は何も語らなかった。

 リゲイルは、彼女のような怖い人にはもう会いたくないです、と細い身体を震わせた。
 ね? と友人の須美に同意を求めると、こちらの少女も深刻な顔をしてうなづいた。あのホテルではとても怖い体験をしました。でも、カレン・イップは死んだんですから、もうあんな事件は起こらないと思います。

 ディズは、開口一番、あれは最高のセッションだったね。と興奮気味に語った。雪崩の前で演奏したこと、お前さんにあるかい? 無いだろ? オレだって初体験さ。文字通り、最高にクールだったね。天使の謳と美少女のヴァイオリンだぜ? こんな機会は二度と無いさ。ほんとマジこの街に来て良かったよ。……で、えっと? 何の話だったっけ?

 レモンは、カレンなんて大したことなかったわよ。雪崩に呑まれて死んじゃったんだから、と大きな声で言った。ねえ、そんなことより、あたしに部下が出来たのよ。アンゴラ2号とアンゴラ3号よ。彼らが今、何をしてるかっていうとね……。と、星砂海岸の近くにある料理店でいかに美味い炒飯が食べられるかという話を始めてしまう始末だ。

 ランドルフは、その話題になると、しどろもどろになり目を伏せた。私はよく知らないんです、とおずおずと言い、ふと思いついたように付け足した。そうそう、思い出した。恥ずかしながら私はあの時、力の制御が利かない状態になっていて、雪崩が起きた時から以後のことを、何も覚えていないんです。

 ソルファは、カレンのことを聞かれても、全くピンと来ない様子だった。事件のこともよく覚えていないようで、語るのも面倒だという態度をとった。ただし、なぜかアンゴラ2号という言葉にだけは反応した。あの事件以来、その言葉を耳にすると、彼はまるで自分のことを呼ばれたかのように振り向くのだ。

 銀二は、とにかくあの日のホテルでは爆弾やら雪崩やら、しまいには羽が生えちまったりで、目が回っただけだったよ、と苦笑した。まあ、午後のビデオ上映会がお流れになって。俺は喜んでいいか悲しんでいいのか分からんね。
 そうすると、隣りにいた刀冴が、悲しむべきじゃねえの、兄弟? と、合いの手を入れた。
 だが、カレンは? と誰かが口にするたびに、彼は相手を睨んだ。
 彼女は死んだっつったろ。うるせえな、あのことは思い出したくもねえんだ。彼に、そう凄まれると、さらに話を聞きだそうとする者は誰一人居なかった。

 柊木は、カレンの名前を聞くと、顔を曇らせた。もう少しで彼女を掴まえることが出来たんだがねー。死んでフィルムになってしまったんだから掴まえようが無いよ、と彼は困ったように締めくくる。そんなことより、と彼はふいに話題を変える。明日、友人の子どもが誕生日でね。プレゼントをあげようと思うんだけど、何がいいと思う? その男の子は6才になるんだけど、とても活発な子でね……。

 白姫は、わたくしには守秘義務がありますので。と、にべもない口調で、この件に関しては何も話そうとしなかった。同様に冬月も、終わった事件のことは語らない主義でね、と事件のことを誰かに話すことは無かった。探偵という職業柄、彼は普段からそうしていたので、誰も不審に思う者は居なかった。

 フェイファーは、事件の話題をすると、アァ、何が? と聞き返した。根気強く聞いても、久しぶりに謳ったから疲れちまってさ、と欠伸をかみ殺しながら言うだけで。面倒くさそうに寝転がってしまい、肝心なところはいつも聞くことはできなかった。

 シュウは、いやーあの時は参ったよ、と頭を掻きながら陽気に笑った。皿洗いと風呂掃除を5回ずつやった方がまだマシだったね。オレ、あんなにヘトヘトになったのに、結局美味いモン食いそびれたしさ。カレン? あー、フィルム、見つからなかったんだって。オレのせいかな。悪りぃことしちまったよ。

 シャノンは、ああ、そんなこともあったか、と興味のない様子をみせた。カレン・イップの名前を出すと、彼はため息をつき面倒くさそうに続ける。ここは銀幕市だぞ、映画が実体化するような街だ。ヴィランズなんて吐いて捨てるほど存在してるんだ。……そんな一人の女ヴィランズのことなんか、この俺が覚えているわけがなかろう。

***

 母に戻った夢を見た。

 夕方の海辺で、夫と、幼い息子と一緒に遊ぶ夢だ。
 とても楽しい夢だった。
 だが、目が覚めた時、
 あたしの隣りにいるのは息子だけで、夫の姿はどこにも無かった。

 ようやく気付いた。

 これは、死んだ夫が見た夢なのだ。
 そして、あたしとリンが静かに暮らすことを願う人たちが見ている夢なのだ。

 だから醒めない。
 これは夢ではないから。

 これが今のあたしの現実だから。

***



                         (了)

クリエイターコメント信じられない長さになりましたが、ご参加いただきましたPLの皆様、お読みいただいた皆様がた、本当にありがとうございました。
わたしの銀幕さんでの最後のシナリオということで、思い切り良過ぎるぐらいに(笑)書かせていただきました。

今回は個別のPLさんへの御礼は、僭越ながら自分のブログでさせていただくことにします。
http://talkingrabbit.blog63.fc2.com/blog-category-18.html

わたしの活動はこれまでとなりますが、大変楽しい時間をいただき、わたし自身、大変得るものの大きい一年間でした。
今後は1個人として、銀幕さんを応援させていただきます。

それでは、皆さま。
大変お世話になりました。
重ね重ね、御礼を申し上げつつ、失礼させていただきます。
公開日時2008-01-29(火) 18:20
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