***
──わたし、しってるよ。
──そこからねえ。腐った怪獣がでてきたの。
その、怪獣はどうなったの?
──落ちてった。
この穴に、かい?
──そう。
──穴の奥で、さらさらって溶けていったの。
へええ。
──ほんとうだよ。
──ほら、見て。
──この虫も、溶けていくから。
ねえ、今。
君は、
どうしてセミを潰したの?
──だって、
──おじさんも見たかったんでしょ?
──おじさんのクモも、つぶして落としたらきっと溶けていくよ。
──さらさらって。なんにもなくなるの。
そうかな。
じゃあ、君にこの蜘蛛を一つあげるよ。
さあ。
見ててあげる。
それを潰してごらん。
***
──── 23:45 1階、ナースステーション ────
コンコン。ガラス戸をノックする音を聞いて、熱心に雑誌に見入っていた看護婦は飛び上がらんばかりに驚いた。
慌てて、窓口の方を見ると、男が一人。首をかしげるようにしてこちらを見ている。
看護婦はそのまま壁面の掛け時計に視線を移した。あともう15分で日付が変わるような時刻である。深夜と言ってもいい。
こんな時間に、いったいどこから……?
読みかけのファッション誌の上に、自分が飲んでいたコーヒーのマグカップを置いて。彼女は少し怒ったような顔をしながら席を立った。
相手は40代ぐらい。グレーのシャツを着たスポーツマン風の男である。見た目からして患者ではないだろう。外来だ。
この銀幕逓信病院は、夜になれば当然、入口に鍵をかけるし、ガードマンだって居るのだが、たまに救急用の搬送口などから入り込んでしまう輩がいる。
この男もその類か。若い看護婦はガラス戸を開けた。
「何ですか、こんな時間に」
「やあ。ちょっと教えてもらいたいんだけど」
男は、微かな笑みを浮かべながら彼女を見た。
「俺の妹が、瀕死の重傷でこの病院に担ぎ込まれたはずなんだ。どの病室にいるか教えてもらいたいんだよ」
「……あなたね」
予想通りの相手の発言に、看護婦はわざとらしくため息をついてみせた。
「こんな時間ですよ? 面会の時間はとっくに終わってます。だいたい、あなたどこから──」
「ああ、分かってる、分かってる。君の言うことは、もっともだ」
大げさに手を挙げながら、男は看護婦をなだめるように続けた。「……けど、俺の事情も分かってくれないか? 俺は香港から飛行機を乗り継いで、たった今、この街に辿り着いたばかりなんだ。可愛い妹が大事故に遭ったって聞いて、俺がどんなに驚いたか君に分かるかい? 慌てて日本にやってきたらこんな時間だ。妹の無事を確かめなければ、夜も寝られないよ」
「……」
無言で相手を睨む看護婦。
「5階の特別室あたりにいるはずなんだけどな?」
「確かに、三日前に急患で受け入れた女性の方がいらっしゃるけど……」
「それだ! 俺の妹だよ」
「でも、明日になさった方がいいと思いますよ」
看護婦は男の様子に、少し警戒を解いたように柔らかい口調になって続けた。
「5階は特にセキュリティが強固になっていて、不法侵入者を察知すると自動的に警備会社に通報がいく仕組みになってるんです。お部屋の番号は502ですから、明日10時にもう一度お越しになって──」
その時、突然。男がサッと手を伸ばし彼女の頬に手を触れた。
看護婦は、思わず言葉を呑み込み男を見る。
「ありがとう。感謝のあまり、君に惚れちまいそうだよ」
男は、笑った。
「──だが、残念だ」
言いながら、彼は女の頬から喉へと、するりと手を滑らせた。刹那、看護婦の喉から勢い良く赤いものが吹き出し、彼女は目を見開いた。
ア、ガ……ッ。
言葉にならない呻き声を漏らして、彼女は自分の喉を押さえるように両手をやった。が、間に合わない。女の白い指の間から赤い血が湧き出すように流れ、その肘まで伝っていく。
何が起こっているのか理解できないまま、看護婦は窓口のカウンターに突っ伏すように倒れた。彼女自身がつくった血溜まりの中に、目を開いて。その身体がビク、ビクと数回痙攣して、やがて静かになる。
「──俺は、無口な女は好みじゃないんだ」
そう言い終えて。男──ダニエル・クワンは、ピン、と鮮血のついたカミソリの刃を捨て、暗い廊下の中へと姿を消していった。
──── 23:25 金福大飯店 ────
銀幕逓信病院で、最初の殺人が行われた時間からちょうど20分前。流鏑馬明日(やぶさめ・めいひ)は、雨の中タクシーの後部座席にいた。
銀幕署に籍を置く刑事である彼女は、溜まった残業を終えて、自宅に帰るところだったのだ。さすがにこんな時間になれば電車もバスも無い。ようやく忙しさから解放されて、明日は物憂げな視線を外に向けていた。
今夜はよく降りますね、と運転手が言った。明日は、ええ、とだけ返す。彼女のジャケットのポケットに収まっていたバッキーのパルが、ふわぁとあくびをした。
その様子に目を落とし、明日は微笑みパルの頭を撫でた。──今日は早く帰って寝てしまおう。彼女は、また窓の外に視線をやる。
不審な中華料理店のそばを通り過ぎたのは、まさにその時だった。
──!
視界に入ったものの存在が、彼女の意識を急速に活性化させた。
開け放たれたドア。煌々と外に漏れる明かり。今、店内に見えたのは倒れている人ではなかったか?
「──停めて!」
身体を起こし、明日は鋭く言った。
驚いた運転手が半ば急ブレーキをかけるように車を停車させると、女刑事はふりしきる雨をものともせず、車から飛び出し中華料理店へと走った。
看板には『金福大飯店』とある。入口の前に立った彼女は、中に飛び込もうとして思わず足を止めていた。
男が床に倒れている。白い服を着ているところから察するに料理人か。背中に突き立てられた包丁が、彼の命がもう失われていることを如実に表している。
床に散乱するは、プレミア・フィルムと生々しく残る血痕だ。テーブルの上から床へと、血がポタポタとしたたり落ちている。フィルムの数だけの人数の血が、この場で、つい先ほど、流されたのだ。何者かの手によって。
明日の手が自然に動いて、自らの口を押さえる。
「なんてこと」
つぶやいた彼女が、店内を足を踏み入れようとした、その時──。
「待て! 動くな」
脇から男の声に、彼女は足を踏み出す代わりに、声の方を向いた。
店の奥の方で、スーツを着た大柄な男が椅子にもたれかかるようにして座っている。右手に折れた刀を持ち、服もあちこちが裂け、ボロボロである。こちらからは横顔しか見えないが、かなり負傷していることは明らかだ。
「もう一歩進んだら、この店が爆発する。死にたくなかったらそこから先に足を踏み入れるな」
明日は、注意深く相手の様子を見た。
「あなたは?」
返事は無い。
「わたしは流鏑馬明日。銀幕署の者よ。何があったのか教えてもらえないかしら?」
「……刑事か」
クク、と男は笑ったようだった。
「見ての通りだ。従業員を殺され、爆弾を仕掛けられた。この店内のいたるところに糸が張ってある。糸に少しでも触れれば、みな吹き飛ぶ。それだけだ」
明日は無言で足元を見た。なるほど、確かに良く見ると、床から5センチほどのところに細い糸が張られている。
「解除の方法は?」
「さあな。いつ爆発するのかも分からん」
自分の命などには興味がないというように、男は投げやりに言う。
「──それよりも、女。お前が刑事なら、逓信病院に行くがいい」
「なぜ」
「ここと同じことが、あの病院の中で起こるからだ」
病院ではもっと多くの人間が死ぬかもしれないな、と言い足して。男は目だけを向けて明日を見る。
明日も男を見た。無言で。静かな眼差しで。
「……分かったわ。貴方の名前は?」
男は静かに目を閉じた。
「サイモン・ルイ。金燕会のサイモン・ルイだ」
聞いたことのある名前だった。金燕会。銀幕ジャーナルを賑わせる犯罪者集団。カレン・イップを筆頭とした悪夢のようなヴィランズたち。
だが、明日は顔色ひとつ変えなかった。
「ここには爆弾処理の専門家を派遣するようにするわ、サイモン。だから、もっと詳しいことを教えてくれないかしら? 殺人犯のこと、そして──あなたの守りたい人のことも」
サイモンは、もう一度視線を明日に戻した。奇妙なものを見るように。
「どんな人間であろうと、死んで良い人間は居ないわ」
明日は、真っ直ぐその目を見返す。
「変わった女だ。いいだろう」
そう言って、金燕会の幹部は淡々と、この店で何が起こったのかを語り始めた。
──── 23:30 聖林通り ────
「それはムービーキラーというんだ。キミは知らないだろうけどね」
明日がサイモン・ルイに話を聞いたのと、ちょうど同じ頃。
聖林通りで、雨に打たれながら一人の学ラン姿の少年が足を止めていた。
金燕会の、兎頭と呼ばれる少年ヒットマンだ。
彼はある場所に立ち寄った後、銀幕逓信病院に向かって──彼のボスの身を守るために、道を駆けていたところだった。その彼が足を止めている。
背後に、もう一人の人物が立っていた。
仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ細身の青年だ。頭にはシルクハット、手にはステッキ。その指は自らの髪を、くすんだ金色の巻き毛をくるくると弄んでいた。
「誰だ、お前は」
兎頭は、低い声で問いながら振り返った。
青年は答えなかった。雨の中。ただ少年に背中を向けて立っている。
「お前、今、何て?」
すれ違いざまに青年が口にした言葉の意味。なぜそのことを? なぜ自分に? 兎頭はもう一度、相手に向かって問うた。
「キミの言っていた爆弾男は、ムービーキラーだと言ったんだ」
「さっきの話を盗み聞きしたのかよ?」
「ありていに言うなら、答えはイエス、だね」
ザッ。その答えに、兎頭は一歩身を引くと、背中に隠したサブマシンガンに手を伸ばした。
金福大飯店の惨事を目にした後、少年は“同郷人”である、あの男に助けを求めに走った。敵なのだか味方なのだか分からない、あのユージン・ウォン。彼ならば力になってくれるのでは、と思い兎頭は彼を探した。
あいにく遭うことは出来なかったが、どうやら彼も例の病院に向かっているらしい。
兎頭は安堵し、自らも病院に向かわねばと道を急いでいた。
その矢先だ。この奇妙な青年に、声を掛けられたのである。
「……同じような症状を持ったムービースターに、僕は何度か遭遇したことがある」
青年は、ゆっくりと身体を少年の方に向けた。
紳士強盗、ヘンリー・ローズウッド。探偵映画『ミスト・ナイト・ルール』から実態化した彼は、映画の中では主人公の敵であり悪役だった男だ。そして彼はこの街で起こった数々の事件に首を突っ込み、そのノー・ルールぶりを見せつけている。回りからは何をしでかすか分からない危険な男として知られていた。
「君の力になってあげよう。ラビット・ボーイ」
──だが、兎頭は目の前の男のことをよく知らなかった。
「ユージン・ウォンは、確かに強い」
構わず、ヘンリーは口に張り付かせた笑みをそのまま、話を続けた。「だが、彼はムービーキラーを滅する方法を知っているかな? 彼が対峙した『ブラックスター』のミランダは、今だ生き長らえてアズマ超物理研究所に居るんだよ」
両手を広げ、まるで自分が人畜無害であるかのように装って。ヘンリーは雨に濡れる少年をまっすぐに見た。
「……あの研究所の連中を呼ぶ? ノン・ノン。ナンセンスだ。君には分かっているはずだ」
答えず、微動だにせず、兎頭は相手を睨んだ。相手が何者であるか、その言葉が真実であるのか。それを測っているようだった。しばらくの、間。
「報酬は?」
「金は要らないよ」
肩をすくめる青年。「謎と、その答えだけが、僕の心を潤わせるのさ」
「分かった」
兎頭はサブマシンガンから手を離した。
「ボクは葉大姐を守れればそれでいいんだ。ムービーキラーなんてどうだっていい。お前にくれてやる、巻き毛野郎」
「……ヘンリー、と」
ようやく名乗り、ヘンリー・ローズウッドは破顔してみせた。
──── 23:40 5階、廊下 ────
最初は、ほんの気まぐれから始まった夜だった。
そびえ立つような長身の隻眼の男、ユージン・ウォンは、非常灯しか点いていない暗い病院の廊下を足早に歩いていた。
わずかな足音しかさせずに歩きながら、彼はようやくこの数十分の間に起こったことを思い返す。今夜、とあるバーに出向いてから、この病院に来るまでに起こったことを、である。
『死者の街』というバイオレンス映画から実体化した彼は、ここ数日、多忙な毎日を送っていた。言わずと知れた“タナトス兵団襲来事件”だ。神殿に乗り込み神の子たちの顛末を見届けて街に帰ってきた彼だったが、あの大事件の後は、瑣末な事後処理に追われていたのである。
今夜、ようやく雑務から解放された彼は、ある女のことを思い出していた。
金燕会の女ボス、カレン・イップである。
全身全霊をかけてこの街を潰すと言っていた、あの女ヴィランズが、この大事件で何もしなかったはずがない。それなのに、この一週間ほど彼女の動向が全く掴めなかったのだ。
少し前から、カレンとの関与を疑い、マークし続けてきた市会議員の岩崎正臣の姿を壮行会では見かけたが、結局彼女は事件が片付いても姿を見せなかった。
──あのアバズレの顔でも見に行ってみるか。
雨の降る夜。ウォンは、前々から目をつけていたショット・バーに出向くことにした。知る人ぞ知る店で、カレンがほぼ毎夜一人で現われる場所でもあった。
夏の終わりに会ったエディ少年のこと、そして岩崎議員のことなど、問い正したいことも多々ある。彼は一人で店に向かった。時刻は、今より30分ほど前になる。
裏通りにひっそりと軒を連ねるバーに、足を踏み入れたウォンは、一目で異常を察知した。
客の姿は一人もなく、店内には生きている者が誰もいなかったからだ。
カウンターバーに突っ伏すようにバーテンダーが倒れていた。元は白いシャツだと思われる衣服を真っ赤に染めて。左手は包丁でカウンターに縫い付けられている。もう片方の手は何のジョークか、ロックグラスの中に突っ込まれていた。その欠けた指から赤い液体が流れ出て、悪趣味なカクテルが仕上がっている。
その血は──まだ固まってはいなかった。
ウォンは店を飛び出した。
そのまま携帯電話で部下にコールしながら、自分の車に戻った。焦りは無く、彼の意識は血を見たことで冴えわたっていた。
ウォンは確信していた。ここに居ないということは、カレンの居場所は──。
銀幕逓信病院にやってくれ。
運転手にそう告げて、彼は思考を開始する。部下にマークさせていた岩崎議員は17日に親戚の見舞いと称して同病院に向かっている。その患者は16日夜に事故で入院した者だというが、もしそれがカレンであるならば──。ここ数日、彼女の姿を見かけなかったことにも全て説明がつく。
電話に出た部下のラウには、岩崎が手配して入院させた患者の情報を調べろと指示を出す。すると思いもかけず、さらにホットな情報を耳にした。
カレンの部下、兎頭が助けを求めにきたというのだ。金燕会の元幹部、ダニエル・クワンという男が、彼女を殺しに銀幕逓信病院に向かったという。
これで、つながった。
病室の番号を聞き、ウォンは病院に足を踏み入れた。部下を使ってセキュリティシステムの類は全て無効にさせ、5階の502号室に真っ直ぐ向かう。
そして今。5階の廊下に彼は居る。時刻は23時40分。502号室は、角から二番目の部屋だ。
ウォンは、引き戸に手を触れ扉を開こうとした。
──が、戸は途中までしか開かなかった。
「おい。女の部屋を訪ねるには、無作法すぎる時間だと思わないかい?」
扉の向こうで抑えた男の声がした。誰が向こうで扉を押さえているのだ。
ウォンは相手が誰であるか、すぐに察しがついた。
「その足をどけろ、陰陽。爆弾男に殺されたくなければな」
間があった。相手は、ため息をついたようだった。
「……ジミーの奴、よりによってアンタに助けを求めるとはね。馬鹿につける薬はないというけど、あのクソガキは、脳みそをどこかに落としてきたらしい」
「早く開けろ」
「葉大姐は、麻酔で眠りについてる」
力が抜け、ウォンは素早く扉を開けた。すぐそばにスキンヘッドの痩せた男──金燕会の闇医者、陰陽が立っている。
「会話は無理だぞ」
「構わん」
ウォンは、部屋の中央に目をやった。暗闇の中にベッドが一つ、そこに横になっている人物の姿も見える。「──お前は、病院内の見取り図を出しておけ。逃走経路を確保しろ」
チッと背後で陰陽が舌打ちするのが聞こえた。が、ウォンは頓着せず、時間が無いとばかりにつかつかとベッドに歩み寄っていた。
──── 23:50 1階、売店前 ────
ゴホッ、ゴホッ。
廊下を歩きながら、グレーのシャツを着た男は足を止めた。
脇を見ると、壁際に設置されたベンチにパジャマ姿の老人が腰掛けて背を丸め、苦しそうに咳をしている。
カーテンで閉められた売店の前。二機並んだ自動販売機の青白い光に照らされて。咳をしていた老人は、ふともう一人の人物が廊下に立っているのに気付いた。
「すいません、咳が止まらなくて。──うるさかったですか?」
「いや」
廊下を歩いていた男は、進路を変えベンチのそばにまで来ると、咳込む老人の隣りに腰掛けた。
「ずっと長く肺を患っているのですが……」
70代後半ほどの老人は、自分の胸を押さえながら何とはなしに話し出した。「夜になると、たまに咳が止まらなくなってしまって」
「咳止めを処方してくれないのかい、ここは病院だろ?」
「免疫が出来てしまったんですかね? 最近はあまり効かないんですよ」
「そうか。そりゃさぞかし苦しいんだろうな」
ええ、まあ……。言葉を濁しながら、老人はまた口に手をやった。
「ジイさん。俺は、あんたのその苦しみを止める方法を知ってるぜ」
え? と咳を堪えていた老人は隣りの人物を見た。そういえば、この男は何者なのだろう。遅れて彼は思った。医師でも患者でもなさそうだ、が。
「試してみるかい?」
男は顔を上げ、そう言いながら。右手に持っていたものを相手に見せた。
それは──。
「早く、早く!」
一人の少女に手を引かれ、ランドルフ・トラウトは足をもつれさせそうになりながら病院の階段を降りていた。そのまま、売店のある方へ。二人は1階のフロアを歩いていく。
「そんなに、はしゃいでると本当に眠れなくなりますよ」
困ったように言う彼の姿は、少女の何倍もあろうかという影を壁に映している。2メートルを超えるかのような巨漢、筋肉の盛り上がった太い両腕、スキンヘッド。それが、B級SF映画『彷徨える異形達』から実体化したランドルフの姿である。
しかし彼はその姿とは裏腹に、優しく子ども好きである一面も持っていた。今、自分の手を引く少女に合わせて腰をかがめているため、歩き辛そうにしているのもその表れだ。
今日の昼間、病院のボランティアで、ランドルフは入院中の子どもたちと遊んでやっていた。遊ぶと言っても、子どもたちが彼の身体を登ったり、腕にぶら下がったりしてキャッキャッと喜ぶだけなのだが、彼自身もそれを多いに楽しんでいた。
その中に、以前ある事件で知り合った少女がいた。ビー・ビヤワーン──通称ビビという5才のタイ人の少女で、ランドルフは彼女の“姉”を助けたことがある。
ビビは生まれつき腎臓に疾患があり、定期的に病院に検査入院をしなければならない身体で、ランドルフとの偶然の再会を非常に喜んだ。仕事で忙しいという“姉”が来るまでの間、一緒にいてくれとせがまれて。結局、彼は今夜、病院に泊り込むことになってしまった。
そんなビビが夜になってから起き出し、喉が渇いたのでジュースが飲みたいと言い出した。
ビビは単に夜の病院を探検してみたいだけなのでは? と、ランドルフは思ったが、二つだけ約束させて彼女に付き合うことにした。
一つ、廊下では静かにすること。二つ、ジュースを飲んだらおとなしく寝ること。
分かった、と元気よくビビは答え、ランドルフの手を引いて売店の近くに自動販売機があるから、と言った。数分前のことだ。
「パイナップルジュースがいいな。ドルフは何を飲みたい?」
「私は別に何でも」
「そうなの?」
他愛のない会話をしながら、角を曲がる二人。
そして彼らは同時に足を止めていた。
青白い明かりの中に浮かび上がったのは、二つのシルエット。
ランドルフは、ベンチに座っていた人物が立ち上がろうとするその瞬間を見た。
その男は隣りの人物の口を押さえると、立ち上がりざまに右手に持っていた何かを素早く相手の胸に突き立てた。
微かなうめき声。立ち上がった男は手に力を込め、そして手にしたものを捻りながら引き抜く。
ひっ、とビビが息を呑んだ。
ゆらりと、こちらを振り向く男。手には鮮血のしたたる包丁が握られていた。
「ビビ、隠れて!」
ランドルフは少女の手を引いて後方に押しやると、拳を構え力を込めた。
何者かは分からない。だが目の前の男は、たった今、人を殺したのだ。もはや何の迷いも手加減も必要ない。
「ウォォッ!」
唸り声を発しながら、ランドルフは廊下を蹴った。その上腕筋に、ふつふつ血管が浮き上がっていく。
「チッ」
男が舌打ちをして、ズボンのポケットに手を入れた。何かを取り出そうしたようだが──間に合わない!
──ゴガッ。
ランドルフは肩で男を跳ね飛ばした。常人なら命を落としかねない強烈なタックルだった。
男の身体は廊下を舞い、5メートルほど先の床に仰向けに投げ出されていた。
今だ! ランドルフはもう一度、床を蹴った。このまま、相手の身体を押さえ込んでしまえば──。
「クソッ」
男が身体を起こし悪態をつく。今の強烈な一撃が効かなかったのか、半身を起こし、迫るランドルフを見てポケットから手を引き抜く。
「遅いッ!」
心優しき食人鬼は、大きな身体を広げ相手を押しつぶすように最後のステップを飛んだ。が、床の男が手を一閃。何か、小さな黒いものを上空のランドルフの胸に投げつけてくる。
──何だ?
と、思った時には、それが眩しい閃光を放っていた。
音も衝撃も全くない。
だが、その真昼のように明るい閃光が、彼の両目を焼いていた。それは制圧用のスタングレネードだった。光だけ発するように改良してあるのだ。
ランドルフは一瞬にして何も見えなくなり、床に手をついた。慌てて腕を振るうが、触れるものは何もなかった。
「驚かせやがって……」
素早く身を引いたのだろう。少し遠いところから男の声がした。片手で目を押さえるランドルフを前に、忍び笑いを漏らす。
「何時だと思ってるんだ。ここは病院だぞ。Don't Disturb──お静かに、だ」
ランドルフは食人鬼だ。焼かれた目は、すぐに回復するだろう。しかし──。
「さて」
男がそう言った時、ランドルフの背後で少女の悲鳴が上がった。遠くへ離れていく足音。
「あのお嬢ちゃんも黙らせてやらないとな」
タッ。軽やかな靴音をさせて、男は回り道をするようにランドルフを避けて反対側へと走っていった。
ビビが、あの少女が危ない!
「待て!」
ランドルフの悲痛な叫びが、病院の廊下に響いていった。
──── 23:53 病院前、並木道 ────
雨の日だったが、酔いを醒ますには夜の空気が心地よかった。
番傘を差し、刀冴(トウゴ)は独り深夜の並木道を歩いていた。彼は今まで友人の家で酒を飲み交わしており、今はその帰りだった。
いわゆる打ち上げである。数日前に天空に現われた恐るべき死神の軍団。彼らに戦いを挑んだ仲間たちに、刀冴は自分の手料理を振る舞い、そして共に旨い酒を飲んだ。
この街に実体化してから、覚えた楽しみの一つだ。
ファンタジー映画『星翔国綺譚』から実体化した彼は、見た目は二十代の青年だが、映画の中では大国の将軍を勤めていたほどの男である。しかも彼は、“天人”という神々に近い存在の血を引いている。いくら彼が分け隔てなく他人と付き合おうとしても、映画の中ではそうそう上手くはいかなかった。
だが、この街では違う。
映画の中では絶対に出会うことの出来ないような、様々な友人が出来た。料理や特異なパンを焼いたりすることも覚えた。自分にとってはまるで違う異世界ではあったが、刀冴はこの街での生活にとても満足していた。
気持ち良く少しだけ酔った彼は、同居人の十狼に、独りで街を散歩したいからと告げ、傘を差して友人の家を出た。
雨はずいぶんと強くなってきていたが、良い夜だった。
──その、奇妙な唸り声を聞くまでは。
「!」
刀冴は足を止めた。今の声は、一体?
もう一度、耳をすませる。どの建物から聞こえてきたのだろうか。
この病院か? と、彼が脇の大きな病院を見上げた時、また短い叫び声が聞こえた。何を言っているのは分からなかったが、男の声だ。その悲痛な響き──。
タンッ。刀冴は病院の塀の上に飛び乗った。キッと顔を上げ、病院の中を見る。肌がぞわりとうずくような感覚があった。血だ。血の匂いがする。
彼の常人をはるかに上回る感覚が、一瞬にして異常を察知していた。
塀から敷地内に飛び降り、傘を放り出して刀冴は走り出す。暗い病院の中へ、襲われている者がいるなら助けなければ!
酒の酔いはとうに醒めていた。
白いスポットライトを浴びるようにくっきりと、窓口のところにもたれている女の姿が映し出されている。
病院の中に侵入した刀冴は、血の匂いを辿りそのナースステーションに気付いた。足音もさせずに近寄り、命を失った女をじっと見つめる。
カウンターの上の血溜まり。目を開いたまま、倒れている女は看護婦だ。
彼女は喉をかき切られて絶命していた。奥に見えているテーブルの上には開いたファッション雑誌があり、それが閉じてしまわないようにコーヒーのマグカップが置かれている。そのカップには、死んだ女が付けているものと同じピンク色の口紅が付いていた。
触らずとも分かる。彼女の血は──まだ温かい。
ガツッ。
刀冴の拳が、せり出した窓口の側面にめり込んだ。グッと捻り壁から離すと、彼の拳には血が滲んでいる。
その表情はさほど変わっていない。だが、彼は激怒していた。拳を握り締め、あまりの怒りに青い瞳は冷え冷えとするような光を放ち、死んだ看護婦を凝視している。
誰かが、この病院で、無辜の民を殺した。
許せない──。
身を翻し、刀冴は“覚醒領域”を解放させた。彼の青い瞳が白金に変わる。一刻も早く殺人者を見つけなければならない。そのためには、この天人特有の超感覚を解放した後の反動の苦しみなど、問題ではない。
ぐるりと周囲に超感覚をめぐらせる刀冴。
近くに、動く人物がいる──!
飛ぶように、刀冴は察知した方向に走った。右手を愛剣“明緋星”の柄に掛け、廊下の角を曲がる。
──グワッ!
途端に、前方から恐ろしい風圧を感じ、刀冴は右足を踏み込んで身体をひねった。その刹那、大きな拳が彼の身体をかすめて壁に突き当たる。
メキャッ、という壁の壊れる音を聞きながら、天人の将軍は宙を舞い相手の背後に降り立つ。
着地と同時に愛剣を抜きかけたが、その手が途中で止まった。
「ランドルフ!」
拳を壁にめり込ませていた巨漢が、刀冴の声に驚いたように振り返った。
「その声は、刀冴さん?」
大きな拳を壁から引き抜いた巨漢は、ランドルフ・トラウトだった。以前、子どもの失踪事件で顔を合わせたことがある。彼が見た目とは違って、非常に心優しい男であることを、刀冴はよく知っていた。
彼も、この病院内に跋扈する、正体不明の殺人者を追っているのか。
「すみません、刀冴さんがここにいるとは思わず」
「気にすんなドルフ。それよりも、あんた相手を?」
謝るランドルフに、刀冴は軽く手を挙げてみせ、矢継ぎ早に尋ねた。
「さきほど、押さえつけようとしましたが逃げられました。爆弾を使う男です」
「今どこに」
「分かりませんが、私と一緒にいた女の子を追って──」
ランドルフは、そう言いかけて目をつむった。「時間がありません、あの子は上の階に戻ったのかもしれない」
うなづく刀冴。もはや、二人の怒れる男に会話は必要なかった。
短いやりとりを終え、刀冴とランドルフは同じ方向に駆け出した。あの殺人者、ダニエル・クワンを追うために。
──── 23:45 5階、502号室 ────
特別室502号室はカーテンは締め切られ、今だ明かりは灯っていなかった。
ちょうどダニエル・クワンが1階で看護婦を殺害した頃である。ウォンは、部屋の中央に鎮座するベッドにつかつかと歩み寄っていた。
金燕会の女頭目、カレン・イップがそこに寝ているという。なぜ、彼女が入院するような怪我をしたのか。ウォンはそれを誰からも聞かなかったが、何となく理解していた。
横になっている人影に手を伸ばそうとして、彼はふと手を止め、上半身を退いた。
シャッ。
彼の鼻先すれすれのところを、銀色のものがよぎった。
匕首(あいくち)だった。
ウォンは伸ばした手を使って、匕首を持つ手を掴んだ。寝ていたはずの女の白い右腕がそこにある。眼帯もしておらず、髪も結い上げていないカレンが、半身を起こし彼に武器を向けたのだ。
だが、隻眼の男は表情も変えず、女を見下ろした。
間髪入れず、彼女の身体の上にかかっていたシーツを剥ぐ。
カレンが短い悲鳴を上げ、点滴を付けたままの左腕で手刀をつくり、ウォンに一撃を繰り出そうとする。が、男はその腕も難なく掴んでしまった。
ベッドの傍らに立つ男の視線が、自分の身体の上をなぞるのを見て、カレンの頬にサッと朱がさした。彼女は猫のような唸り声を上げ、腕を外そうともがく。──が、ウォンの力は強く、彼女の両腕は外れなかった。
彼女は下着しか身に付けていなかった。手足に打撲と思われる痣がいくつか見られたが軽症だ。一番大きな怪我は腹部から胸部にあるようだった。大きな外傷らしく包帯がしっかりと巻かれている。
それだけ確認すると、ウォンはパッとカレンの両腕を離した。
女は素早くシーツを引き寄せて自分の身体を隠し、受けた恥辱にわなわなと震えながら身体を丸めた。
「お前、何して──!」
ウォンはベッドに背を向け、すぐ後ろにまで迫っていた陰陽のメスをはたき落とし、その腹を容赦なく足で蹴った。
床に倒れこんだ陰陽を冷たい瞳で見下ろし、「逃走経路を確保できたのか?」
「大姐は動けないんだぞ」
「非常階段がある。そこを見てこい」
「ユージン・ウォン、お前、何様のつもりだ!?」
「……耳が遠いのか、陰陽。私の言葉が聞こえなかったのか?」
そう言いながら、ウォンは左手で自分のスーツの襟を掴んで引いた。ホルスターに納められた銃がちらりと見え、何かを言おうとした陰陽は口をつぐんだ。まさか自分を撃つのか、と彼を見る。
「早く行け」
陰陽はのろのろと立ち上がり、部屋の出口に向かった。最後に振り返りウォンを睨みつけると、彼はそのままおとなしく扉の向こうに姿を消していった。
「──時間が無かったんでな」
二人きりになると、ウォンはポツリとそう言った。ベッドには背を向けたままだ。
「それで謝ッてるつもりかい?」
爆発しそうな怒りを、押し殺したようなカレンの声が返ってくる。
「ダニエル・クワンを知っているな」
構わず、ウォンは淡々と話を続けた。彼にとって些細なことで、言い争っている暇はなかったからだ。
「金燕会の元幹部だったはずの男が、お前に会いたがっているそうだ……殺したいぐらいにな」
「ダンが? まさか」
相手の口から出た思わぬ名前に、カレンは素肌を見られた怒りをひとまず納めたようだった。驚いたように、「あいつはカタギになったはず──」
「だが、金福大飯店は血風呂に沈んだ。間もなく、ここにも血の雨が降るだろう」
彼女の言葉を制するように、ウォン。背後で、彼女が息を呑むのが分かる。
「お前は甘い。ダニエルが組織を抜ける時に、奴を殺しておくべきだったのだ」
「出来るわけがないだろッ。そんな仁義に反する──」
彼女の言葉に、ウォンは斜に振り返った。金燕会の現頭目は、起き上がっていて、彼と目が合うと慌てたように目をそらした。自分でも奇妙な言葉を使ったことを恥じたのか、続く言葉は小さく、途切れ途切れだった。
「ダニエルは、ディーンの兄貴分だ。あたしにとっては、義理の……兄も同然なんだよ」
「そうか」
ウォンは顔を戻し、壁面の時計を睨むように言う。
「だが、お前は自分の撒いた種に決着をつけねばならん。自分の尻ぐらい自分で拭くがいい」
「──あいつは、ディーンの仇を討つつもりなんだね?」
カレンがベッドの反対側に降り立ったようだった。点滴を引きちぎって外す音も聞こえる。
「あれから半年も経ッてるっていうのにね。あたしが憎いンなら、あの時にそう言やァ良かったんだよ。何も言わずに、姿消しちまいやがって……」
彼女らしくない口調だった。
ウォンは目を細め、いっそう壁の時計を強く睨んだ。あの程度の怪我なら、カレンは自分の足で歩くことも可能だろう。短い時間であるならば。
「2分待つ。早く服を着ろ」
「なあ、知ってるなら教えておくれよ」
冷たい床を歩く足音と、衣擦れの音。カレンは身支度を整えながら静かに尋ねてきた。
「サイモンと、ジミーは無事なのかい?」
「……。あのガキは、無事だ。今、この病院に向かっているところだろう」
少し間を開けて、答えるウォン。
「サイモンは?」
その問いには彼は答えられなかった。ただ無言で、女に背中を見せている。
やがてカレンが、長く息を吐く。重い沈黙。
「──サイモンは無事よ」
が、新たな若い女の声が問いに答えた。部屋の入口。ウォンは、目を上げて、そこに知り合いの姿を認める。
女刑事、流鏑馬明日であった。
彼女はウォンに目礼し、ベッドの向こう側に立っているカレンに視線を移した。
「店に仕掛けられた爆弾は解除済み、サイモンも手当てを受けているはずよ。残念ながら、あの店の中で生き残ったのは、彼だけになるけれど」
そう言いながら、彼女は病室に足を踏み入れる。後ろに陰陽と、もう一人の人物を引き連れて。
──── 23:55 東階段、踊場 ────
「やあ、ミスター。いい夜だね」
5階へと続く階段を登ろうとしていたダニエル・クワンは、顔を上げ足を止めた。
いつの間にか、階段の踊場のところにグレーのスーツにシルクハットを被った細身の青年が立っていたのだ。
目を細めるダニエル。背後の窓から差し込むわずかな明かりでは、相手の表情を伺い知ることは出来ない。殺人者は、首をかしげるようにコキリと鳴らした。
その時。雷が空を走り、踊場に立つ青年の輪郭を一瞬だけ浮き立たせた。その顔に浮かんだ薄い笑みも。
紳士強盗、ヘンリー・ローズウッドはあくまで優雅に。帽子の縁をつまんで殺人者に会釈して見せた。
「……ああ、いい夜だ」
ようやく、ダニエルは返事を返した。自身も笑みを浮かべながら。なぜか手にしていた携帯電話のフリップを閉じて尻のポケットにしまう。
「こんなステージが用意されているとはな。どんなショーを見せてくれるんだい? ミスター・マジシャン」
「残念ながら、たいした出し物はないんだ。ミスター。僕はあんたに比べたら三流でね」
ダニエルがボケットに手を入れるのを見、ヘンリーもおどけたように全く同じ仕草をする。そして引き抜いた手の平の上には──小さな蜘蛛の玩具。
「これは、面白いオモチャだね」
それを見て、ダニエルは顔から笑みを消した。
「……3分前、非常階段から侵入したのはお前さんか」
今度はヘンリーが眉を上げる番だった。目の前の男に、自分がこの病院に足を踏み入れた時間を正確に指摘されたからだ。
気付かれた? だが、紳士強盗はいっそう面白そうに微笑んだだけだった。
「僕にはこうした精巧な蜘蛛は作れないけれど。そう、奇術でよくある小動物なら出すことが出来るかもしれない。鳩? アヒル? 金魚? ──いいや、違うね」
パッとヘンリーは、シルクハットを外し逆さまに胸の前まで下げた。
「さあ、この中から何が出てくるかな。ワン・ツー・スリー」
──ダダダダッ!
暗闇の中に閃光が走った。サッと身体を伏せるヘンリー。
振り返ろうとしていたダニエル。だが、身体を後ろに向ける前に、その脇腹に無数の弾丸が撃ち込まれた。
階段に倒れこむように、身を投げ出される殺人者。
その前に立ちはだかるのは小さな影だ。手にしたサブマシンガンのマガジンを落とし、素早く交換しながら、また銃を構える。
そう。廊下の隅から飛び出してきた影の正体は、兎頭だった。
金燕会の少年ヒットマンは、兎の覆面は付けていなかった。だが、彼はヘンリーが呼び出した“兎”には違いない。
兎頭は間髪入れず、目の前の男に至近距離からサブマシンガンの弾丸をフルオートで叩き込んだ。その行動には全く容赦がない。
全て無言の、一瞬の動作だった。
彼の攻撃でダニエルの血肉はメチャクチャに吹き飛び、跡には人肉ミンチが出来上がるはずだった。
だが、そこに生まれたのは、まばゆい閃光と衝撃だった。
轟音とともに爆風が4階フロアに吹き抜ける!
悲鳴を上げる兎頭。少年の小さな身体は後方に吹っ飛び、壁に嫌というほど叩きつけられた。
ズル、と壁に押し付けられていた兎頭の身体が床に崩れ落ちる。手からサブマシンガンが離れ、カラカラと玩具のような音をさせて転がっていった。
倒れ伏した彼の目は閉じられていた。少年は意識を失ってしまったようだった。
「このクソガキが──!」
もぞり、と身体を起こしたのはダニエルの方だった。
何と言ったらよいか。頭は半分が無く、残ったのは左腕と両足ぐらいだ。そこから無数のフィルムが湧き出して、足りない部分を補おうと、まるで自分の意思を持っているかのように蠢いている。
少し足をひきずるように、ヒョコヒョコと。滑稽にすら映る動きを見せながら、半身を失った男は、ゆっくりと倒れた少年に近寄っていった。瞳には強い怒りの色が宿っている。
「ナメた真似しやがって」
そのまま、彼は少年の頭に片足を載せてグッと力を込めた。
兎頭が意識を取り戻し、うめき声を上げた。手を伸ばして男の足を除けようとするが、力は弱く全く適わない。ギリギリと、ダニエルは少年の頭を踏み潰さんばかりに、体重をかけていく──。
少年のうめき声が悲鳴に変わった。
「ダニエル・クワン。ご機嫌だね」
背後からの声に振り返るダニエル。踊場のところに、またあの男、ヘンリーが立っている。うまく爆風を避けたのだろう。全くの無傷である。
「今の君の姿を、鏡で見せてやりたい気分だよ。その──醜さをね」
「黙れ、ペテン師が」
殺人者は視線を足元の少年に戻す。「そこで待ってろ、次はお前の番だ」
「ハハッ、君の今の姿を見たら“彼”は、何て言うだろうね。ディーンといったかな? 君の大切な弟分は?」
ピタリ、と動きを止めるダニエル。
「あんたの“設定”を一通り聞いておいたんだ。ダニエル。それからディーンのことも。彼は随分と人望のある“設定”の男だったんだね。僕からすれば羨ましい限りさ」
ヘンリーは、心にもないことを言いつつ、肩をすくめてみせた。
「……まあ、主人公なら、それも当然かもしれないけどね。そんな男が、狂って自分の妻に殺されるなんてね。まったく罪深いねぇこの街は。君も、きっと同じ思いなんじゃないかと思ってね、ミスター?」
「黙れ!」
もう一度同じセリフを吐き出し、ダニエルはヘンリーを振り返った。
「知ったような口をききやがって、ディーンは狂ってなんかいない!」
「おや?」
ヘンリーは一瞬だけ笑みを消した。
今、相手は何と言った?
もう一度聞いてみたかったが、ダニエルは足元の少年に興味を無くし、こちらにつかつかと歩み寄ってきている。
「お喋りタイム、終了だね」
言うなり、ヘンリーはひらりと身を翻して上階へと跳ぶように駆け出した。
待て、と叫びながら、その後をダニエルが追う。その姿を背後に、ヘンリーはほくそ笑みながら5階へ。502号室を目指した。
──── 23:50 5階、502号室 ────
「非常階段から、登ってきたの。サイモンにそう言われて」
明かりを落としたままの502号室で。明日は、カレンの着替えを手伝いながら、手短かに事情を説明した。
「ダニエルなら非常階段を逃走に使うから、そこには爆弾を仕掛けないはず、と彼が教えてくれたの。そこで──二人に遭ったのよ」
「メイヒに会って、心強かったわ」
そう、口を開いたのはオカッパ頭の筋肉質の男だった。
ウォンは、一度だけ視線をめぐらせる。彼はこの人物の名前をマギーと記憶していた。つい先日、浜辺で見かけた人物だが、なぜ今、ここにいるのか。
「アタシの妹が、この病院に入院してるのよ。もう心配で、心配で」
と、マギーはウォンの心中の疑問にすぐ答えてくれた。
「ねえ、下の階は下手に動き回ると、爆弾が仕掛けられてるかもしれないから危険だって明日に聞いたんだけど、アタシどうしたらいいのかしらン? アタシのできることだったら、何でもやるつもりよ?」
「──まあ、今なら、非常階段から外へ脱出できるということさ」
最後に締めくくるのは陰陽。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「陰陽、各フロアに階段は二つずつ、だったな?」
ウォンは部屋の中央に立ち、目だけで陰陽を見た。もう一人の人物を意識的に視界から外す。
「ああ、そうだよ。ちなみに防犯カメラの類のシステムは全てアクセス不能になってる。各フロアの様子は全く分からん」
「ダニエルか」
「だろうね。ボクは奴と面識はないが、奴は爆弾もシステムも自分で作るらしいからねえ。末恐ろしい男だよ」
「無視かよ!」
二人の間でマギーが非難の声を上げた。
「手伝うって言ってるのにヒドくない? 差別よ!」
「──あたしは逃げるつもりはないよ」
そこで口を挟んだのはカレンだった。裾の長い、ワインレッドのガウンのような着物をまとっている。長い髪は明日に結わえてもらったところだ。
「屋上に、出られないかい?」
「屋上?」
ウォンはようやくカレンを振り返った。普段よりも数倍白い顔をした女が、自分を見返してくる。
「ダニエルとやり合うには狭い場所は不利だ。広い場所で、あいつを迎え撃つんだよ」
「なるほど」
と、ウォンがうなづいた時に、ゴォォン、と爆発音が聞こえた。そしてわずかな振動が床を伝わってきた。何かが爆発したのだ。それも意外に近いフロアで。
その場にいる全員が口をつぐんだ。
お互いの顔を見る。
「時間が無いようね」
明日が言った。
「──二手に別れましょう」
──── 24:00 西階段、踊場 ────
二人の男が、薄暗い階段を駆け上っていた。
一人はスキンヘッドの巨漢。もう一人は細身の青年。双方とも先を急ぐように階段を一足跳びに踏んでいる。
ランドルフ・トラウトと、刀冴だった。彼らは、殺人者ダニエル・クワンの意図を、今だ知らなかった。しかし、彼を止めなければ罪のない人間が殺されることは、火を見るよりも明らかだった。
「奴の目的は、上の階の誰かを殺すことだ。おそらくは」
白金色の瞳を爛々と輝かせ、刀冴が言う。彼は今“覚醒領域”を解放しており、常人をはるかに超える超感覚を有している。
彼の目は、病院のフロアの至るところに張られた細い糸をことごとく見つけ出していた。糸に触れると爆弾が爆発するのか。何が起こるのか、それは分からなかったが、逆に言えば糸の仕掛け方を見れば相手の意図が読めてくる。
糸はほとんど、二箇所の階段付近に仕掛けられていた。
そして、彼の行動。1階フロアでは、二人の人間を刃物の類を使って殺した。さらに襲ってきたランドルフを、閃光弾で無力化した。爆弾を使わなかったその理由は──大きな物音を立てたくなかったからだ。
標的に気付かれる前に、殺人者は相手の近くに迫るつもりなのだろう。ということは、ダニエルは騒ぎを起こさぬように動いているということでもある。下手に避難を呼びかけては逆に人々を危険に晒してしまう。
二人はとにかく殺人者の後を追いかけることにした。
また、各フロアの糸がほとんど切られずに残っているということは。逃げていった少女、ビビも、そこには足を踏み入れていないということだ。
上の階に行ってしまったのか。
どうか無事でいてくれ──。ランドルフは祈るような気持ちで、前方を見ていた。
悲鳴を上げて逃げていった5才の少女。彼女を探して1階や2階のフロアを探していた時、二人は轟音を聞いた。上方からである。
彼らがいるのと反対側の階段、4階フロアで兎頭が爆弾で壁に叩きつけられていた頃。二人は仕掛けられた糸に触らずに西階段を駆け上がり始めていた。
そして、3階から4階に上がろうとフロアを回ったときだった。
「!」
ランドルフは目の前に現われた影に足を止める。
刀冴もその隣りに並び、前方を見上げて目を細めた。
階段の踊場に、一人の少女が浮いていた。
──いや、そうではなかった。少女は縄で両手を縛られ、上階から吊り下げられていたのだ。頭を垂れた彼女の表情は分からず、気を失っているようだった。
「ビビ!」
「待て、ドルフ」
叫び近寄ろうとしたランドルフの肩を、刀冴が掴んで止めた。
「彼女の回りに、無数の糸が張られてやがる。不用意に近づくと爆発するぞ」
瞳に強い力を込めて、刀冴。その瞳孔の中には銀色の光がちらちらと瞬いている。
ランドルフには、あまりよく見えなかったが、刀冴には蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸が視えていた。複雑に組み合わされ、手を入れる隙間すら見当たらないほどの糸が。
少女を助け出そうと、糸に少しでも手を触れたら──周囲に仕掛けられた爆弾が爆発するようになっているのだ。試さなくても分かる。
「クソッ、外道が」
足止めのためか。こんな年端も行かない少女に──。怒りで刀冴は歯をきしらせる。
ブルッ。対するランドルフは自分の意識をはっきりさせるために、首を振るい、自分の両頬をパンッと叩いた。
「刀冴さん、この階段は、建物からせり出していますよね」
「──ああ」
応えながらも、まさか、という顔で隣りを見る刀冴。
ドルフは前方のビビを見上げたまま、スーッと腰を落とした。心優しい食人鬼は目の前の少女を助けることにしか興味が無いと言わんばかりに、じっと彼女を見上げている。
「ここが爆発しても建物には大した被害はいきませんね!?」
「待て、ドルフ」
「伏せて!」
刀冴の制止の声も聞かず、ランドルフは床を蹴って跳んだ。
彼の伸ばした手を見、刀冴は咄嗟に脇に飛び退いて身体を伏せた。
カッ。
手を伸ばし、縄を掴むと同時に少女の身体を抱きこむランドルフ。その大きな姿が光に包まれた。
次の瞬間、轟音と熱風が吹き荒れた。
床に伏せた刀冴の身体の上にもパラパラと瓦礫が落ちてくる。
「ドルフ!」
爆発がおさまるや否や、彼は立ち上がった。見れば、壁の塗装が剥げ落ち、半壊した階段フロアの瓦礫の中に大きな男が身体を丸めて倒れている。
もう一度、彼の名前を呼びながら刀冴は彼に駆け寄った。
「刀冴さん」
心優しい巨漢は、ボロボロになった階段の中腹で半身を起こし、腕の中に抱き込んでいた少女を刀冴に見せた。
ビビは、すやすやと眠っている。彼女は無傷だった。
だが──。
「ドルフ」
「そんな目で見ないで下さい。私は、平気です」
よろめきながら立ち上がるランドルフ。その身体には細かいガラスの破片や何かが無数に刺さり、あちこちから血が滲んでいる。常人なら立ち上がることも出来ないほどの傷だ。
いくら彼が食人鬼とはいえ。刀冴は彼の身を案じ、力なく首を振った。
が、当のランドルフはそんな傷も気にならないように装って。階段の上の方に目をやった。
「さあ、刀冴さん。これで上にも行けますよ」
その言葉を聞いて、刀冴は思わず笑みを漏らした。
「あんたって奴は」
「何ですか?」
「──無茶し過ぎだよ」
言いながら、刀冴は彼の肩をポンと叩いた。
──── 24:02 5階、廊下 ────
炸裂した爆弾の音を聞いて。廊下を歩いていたダニエル・クワンはニヤリと笑った。彼の身体は完全に再生していた。そして彼の頭脳は、この病院のどこに何を仕掛けたかを完璧に把握している。
今のは西階段の爆弾だ。あの少女を無傷で助けられるはずがない。
とはいえ、予想外の妨害に遭い、彼は正直、辟易していた。
あのシルクハット男の余興に乗って、まんまと大多数の爆弾を失ってしまった。しかも病院内の防犯カメラを制御していた携帯電話もだ。もう自分の周囲の“糸”しか把握することが出来ない。
歩きながら、手の中でカチャカチャと爆弾を作るダニエル。部品は壊れた携帯電話と、病室のあたりから失敬してきたいろいろな薬品である。
まあいい。
ダニエルは作り終えた爆弾を左手に握りこむ。
目指す502号室は目の前だ。将棋のゲームのように1階からじっくりと詰めてきた。目指す相手に気付かれようとも、行ける場所は限られている。
扉の前に立ち、中の物音に耳を澄ます。が、ダニエルは一瞬困惑した表情を浮かべ、クソッと舌打ちをした。
ひっそりと室内に侵入するつもりだったが、彼は方針を変えていきなり扉を開いた。音がしてもお構いなしだ。
一歩、中に足を踏み入れ、部屋の中央のベッドに横たわる女の姿を認めた、その瞬間。ダニエルは自分の耳のすぐ横で銃声を聞いた。
彼の首に、プツッと穴が開く。だが血の代わりに傷から噴き出したのは、黒いフィルムだ。
蚊にでも刺されたかのように傷を押さえ、ゆっくりと時間をかけて、顔を横に向けるダニエル。
そこには拳銃を手にした痩せた男がいる。陰陽だった。
息を呑みつつも、金燕会の闇医者は左手に構えていた数本のメスを放つ。
「!」
メスは殺傷用ではなかった。シャツを壁に縫いつけられ、ダニエルは持ち上げようとしていた左手が動かないことを知る。
「キェェェェィィ!」
その時、脇から奇声を上げ、影が飛び出してきた。正面にまで躍り出たその人物は、強烈な蹴りをダニエルの顎に放つ。
メシャッ、という嫌な音がした。
が、それだけだった。
仰け反っていた顔を戻し、ダニエルは右手で相手の足を掴んで無造作に脇に放った。
それは、ワインレッドのガウンを着たオカッパ頭のマギーだった。キャアアと言いながら床に投げ出された“彼女”は、助けてェ! と叫んだ。
が、ダニエルはそれを完全に無視した。
自分のシャツに刺さっていたメスを抜くと、数本まとめて右手に握る。振り返る。
陰陽がもう一発、銃を撃った。しかし、やはりただそれだけだった。
銃弾を自分の胸に飲み込みつつ、ダニエルは何の躊躇もなく陰陽の肩にメスの束を突き刺した。
「初めまして、かな。ドクター・陰陽」
言いながら、メスを相手の身体にねじ込み、捻って抜く。陰陽が大きな悲鳴を上げ、ダニエルの声をかき消した。
「もっと早く挨拶に来るべきだったな。よろしく、ダニエル・クワンだ」
「──そこまでよ!」
背後からの女の声に、ダニエルは血まみれのメスを持ったまま振り返った。
見れば、ベッドの上にワインレッドのガウンをまとって髪を結い上げた女がいて、彼に拳銃を向けている。
それは、カレン・イップではなかった。
「誰だ、お前は」
まるで芋虫のように床をのたうつ陰陽に一瞥をくれた後、ダニエルはベッドの上の女を見た。
「流鏑馬明日。銀幕署の刑事よ。ダニエル・クワン、貴方の身柄を拘束します」
「刑事だと?」
まるで、面白いジョークを聞いたように、ダニエルは笑い出した。対する明日は冷たい眼差しのまま、そろりとベッドの反対側へと降り立ち、懐から手錠を取り出してみせる。
「聞いた事有るかしら? 復讐は復讐を生むのよ……。その鎖を断ち切りなさい」
「女、いい度胸だ」
笑いを収め、ダニエルは武器を手にした両腕をだらりと下げ、一歩。明日に近づく。
「だが、俺は女に手加減するような人間じゃない。カレンはどこだ? すぐに言えば、一瞬であの世に送ってやる。言わないのなら──」
もう一歩、ダニエルは足を踏み出した。「まずは、あの女と同じように右目をくり抜いてやるよ。そこで気が変わっても、もう遅いぜ? その後は両手両足を一本ずつ切断して、そのつど感想を聞いてやる」
タ、タン!
いきなり、明日は拳銃を撃った。二発の銃弾が当たったのは、ダニエルの右ひじのあたりだった。メスを持った手がちぎれ飛び、どさりと床に落ちる。
「このアマ!」
「今よ!」
明日の声を合図に、ベッドの下から小さな影が飛び出した。
思わずギョッと身を引くダニエル。影は彼をやり過ごし、床の上の腕に飛びついた。
それは、真っ白のバッキーだった。名前はパル。明日の飼っている魔法の存在で、彼女の切り札であった。
パルは、ひるんだダニエルを尻目に、そのダニエルの転がった腕にかじりつき、もぐもぐと食べ始めた。
「なっ! まさか」
ダニエルは自分の右腕を見た。黒いフィルムが生き物のように噴き出す。そこまではいつもと一緒だった。だが、腕はいつものように再生されることは二度となかった。
バッキーが──彼の腕を食べているからだ。
「クソッ!!」
怒りに任せて、ダニエルはパルを蹴った。小さな動物は、ふぎゃっと悲鳴を上げて壁に叩きつけられ気絶してしまった。
パル! と、ペットのもとに駆け寄ろうとした明日だったが、ベッドの上に飛び乗り、自分を見下ろす男の姿を見て、さすがの彼女も足を止めた。
メイヒちゃん! と誰かが叫び、ダニエルに後ろから蹴りを放った。が、殺人者はほとんど相手を見もせずに左の拳を突き出した。ゴツッという音。その人物は、ぶべらっと悲鳴を上げて、壁に叩きつけられ、気絶してしまった。
そして、ゆっくりと。殺人者は明日を真っ直ぐに見下ろした。
「──覚悟は出来てんだろ?」
凄惨な笑みを浮かべてみせるダニエル。
その手がまさに、彼女に伸ばされようとした時──。
──ジャッ。
二つの風が、病室の中を吹き抜けた。
ダニエルは驚いたように自分の胸を見る。そこには刃が生えていた。煌めく深紅の刀身に、自分の顔が映るのを見て、ようやく彼は自分が後ろから刺されたのだと理解する。
大剣、“明緋星”。
剣を握り突き出した右手に、左手を添えて。剣の主、刀冴が吼えた。
そのまま串刺しにした相手の身体を放り投げるように廊下へと投げ飛ばす! フィルムをはみ出たせたままのムービーキラーは、ベッドの上から病室の外へ。外の壁に身体を叩きつけられた。
「野郎、俺が相手してやる!」
言いながら、刀冴は剣を下段に構え、ダニエルを追い飛び出して行く。
一方、刀冴と同時に部屋に飛び込んできた者がいた。彼は身を屈め、細い明日の身体を抱き上げて窓際へと飛んだ。
「ドルフ!」
明日は、その顔を見上げて驚いた。
彼女は今何が起こったのか完全に把握できていなかった。しかし、自分のことをこの大きな友人が庇ってくれたことだけは分かっていた。
「明日さん、無事で……」
ランドルフは、言葉を途中で途切れさせて喘いだ。まだ、さきほど爆弾で受けた傷が治っていないのだ。
顔を歪める彼の姿を見て、明日も心配そうに眉を寄せる。
「ドルフ、あなた怪我を」
「大丈夫です。明日さんが無事で、本当に良かった。あなたまで失ってしまったら私は──」
彼は食人鬼で、力を覚醒すればこんな怪我はすぐにでも治せる。だが、彼はそうはしなかった。力を得る代わりに自分が何を失ってしまうか、それをよく分かっていたからだ。
「やあ、素晴らしい。美女と野獣コンビの復活だ」
パチパチパチ……。
しん、という静寂は一瞬で。あとはどこからか拍手と男の声が聞こえてきた。
ハッとして。ランドルフと明日はお互いに離れ、声と拍手のした方を振り向く。
どこからどうやって入り込んだのか。窓際のところに、一人の青年が立っていた。場違いなシルクハットにグレーのスーツ。ヘンリー・ローズウッドだった。
「ごきげんよう、二人とも。──おや、これは邪魔をしてしまったかな」
「ヘンリー」
明日の声には、わずかながらの怒気が含まれていた。怪我人が床に倒れ、外では刀冴がダニエルと戦っている。そんな状況であるのに、ヘラヘラと笑っている彼の態度が気に入らなかったのだ。
「あなた何をしに、ここへ?」
「ムービーキラーを見物に、と言ったら、君は怒りそうだね」
いや、もうすでに怒ってるか。そう付け加えながらヘンリーは肩をすくめて見せた。
「ねえ、明日。夜の病院に、この状況。ついこの間ドクターを看取った時のことを思い出さないかい? ……ああ、そういえば。あの時、君は彼にケーキを渡せたんだっけ?」
「ヘンリー」
明日は、もう一度、相手の名前を呼んだ。強く、はっきりと。
「ムービーキラーを見にきたのなら、もう見たでしょう? 消えて。ここはあなたのいる場所ではないわ」
「いや、まだだね。カレンは屋上にいるんだろ? それを彼に教えてやらないと」
いつも冷静な彼女にしては珍しく、明日は眉間に皺を寄せてキッとヘンリーを睨んだ。隣りでランドルフが明日さん、と彼女に声をかける。
「あなた、まさかあの男にこの場所を?」
「教えたよ」
「何てことを──!」
「“何てことを”?」
ヘンリーは大げさに肩をすくめて、明日の口調を真似て言った。「同じセリフを君に返すよ、明日。君はなぜ、あの悪魔のような女の命を助けようとする? あの女はヴィランズだぞ」
「あなたにはどうして分からないの? 死んでいい人間なんて世の中に一人も──」
相手に詰め寄ろうした明日だったが、それを静かに制するようにランドルフが前に出た。傷だらけの身体を動かし、スーツの青年を威圧するように睨む。
「おっと、怖い怖い」
両手を挙げてヘンリー。トンッと後ろにステップを踏むように下がり、シルクハットの縁に手を触れる。
「これ以上言ったら、君のボディーガードにタダで済まされそうにないね。屋上か。僕は最後のショーを見に行くとしよう」
そのままヘンリーは、脇のカーテンをシャッと引いて。中に自分の身体をくるむように隠した。
そして──どんなマジックを使ったのか。急に質感を無くしたカーテンが解けると、そこにはあの紳士強盗の姿は無くなっていた。
明日とランドルフは顔を見合わせた。
「ともあれ、あのダニエルという男をどうにかしないと」
「そうね」
うなづきながら、明日はまず足早に自分のバッキー、パルの元に行きその身体を拾い上げた。気絶していた小動物は、撫でると意識を取り戻した。
こほっ、と咳をすると黒い塵のようなものを吐き出す。明日は、以前に出遭った相手が──ケーキを渡そうと思っていた儚げな精神科医が、このような塵となり消えたことを思い出した。
「ムービーキラー、か」
ぽつりと言いながら、彼女は視線を二人の怪我人に移す。壁際にもたれるように気を失っているオカッパ頭の人物と、床に倒れたスキンヘッドの医師だ。
部屋の外で、刀冴とあの男が会話をしているのが微かに聞こえてくる。
急がねば。
ランドルフが、マギーに大丈夫ですかと声をかけている。それを見て、明日は陰陽に近づき彼に声を掛けた。
「大丈夫だ、ボクは医者なんでね。自分のことぐらい診れる」
額に脂汗を浮かべながら彼はそう言ったが、明日は彼に手を貸してその身体を起こしてやった。近くのタオルを渡せば、陰陽はそれを自分の傷に当てる。
ピーッ。
突然、近くで不審な音を聞き、明日は、ランドルフは。顔を上げた。
「何?」
と声を上げた明日。が、ランドルフは頭で考える前に行動していた。咄嗟に傍らの彼女の身体を抱きこんで、身体を伏せる。
間一髪、それとほぼ同時に、部屋の中で爆弾が炸裂した。ドルフ! 明日の叫びが、爆音と立ち上がる煙の中に、消えていった。
──── 23:57 屋上 ────
「──お前は、あのトゥナセラの軍団に、手でも貸すつもりだったのか?」
女は、屋上のコンクリートに落ちてくる無数の雨粒を見つめていた。彼女はずっと何事かを考えていたのだろうか。右手は愛用の拳銃マカロフを握り、左手は無意識にか自らの腹部を押さえている。
「え?」
かなり遅れて、カレンはこちらを向いた。
ウォンは嘆息して彼女に同じことを再度、尋ねた。
病院の屋上。ここに出るためには二つのルートしかない。非常階段と、正規のきちんとした階段である。二人はその出口部分のちょうど裏側で息を潜めていた。そこであれば短いが庇(ひさし)があり、雨に濡れずにいることもできる。
隣りの男の質問を聞くと、カレンは鼻を鳴らし、笑った。
「笑うがいいさ。この街を滅ぼす近道だったのに、あたしはこんなザマさ」
やはりな、とウォンは思う。カレンはあのタナトス兵団に協力しようとして、ヘリを使って天に浮かんだ城に近づき、そして墜とされたのだ。
そして最悪のタイミングで、最悪の相手に襲撃をかけられたというわけだ。
「お前は手を広げ過ぎだ。そのせいで、あちこちに綻びが生まれている」
「うるさいね、こんな時にお説教かよ」
「岩崎議員と、よりを戻したようだな」
カレンは過去の事件の黒幕を言い当てられ、眉間に皺を寄せた。
「花火大会のとき、エディを攫おうとしたのはあのクソ議員の手の者だろう? だと言うのに、この病院に入るのにあの男の手を借りたな。あんな男に借りをつくって何になる。お前は、籠の中の鳥にでも成りたいのか」
「……ッ……」
何かを言い返そうとして、カレンは口をつぐんだ。悔しそうに小声で何事かを呟くと、彼女は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「──お前の映画を、全て見た」
ふと、話題を変えるウォン。
機嫌を損ねた様子のカレンは、チラと彼を見ただけで何も答えない。
「お前は、あのダニエルが昔から苦手なようだな。最初に出会ったときから、お前はあの男の策に踊らされ、まんまとしてやられている。実際、一度も勝てたことがない。そうだな?」
カレンは、さらにムッとしたような表情を浮かべた。
「今ごろになって、あの男がお前の命を狙ってくるのか、心当たりは?」
「ないッてさっき言っただろ!」
カレンは抑えた声のままで、腹立たしそうに答えた。昔の失態を指摘され、頭に血が昇っている様子だ。
「ダンとはあれ以来、会ってないんだ。あいつはこの半年、ギャンブルで生計を立ててたクセに、あたしや金燕会には決して近寄ろうとしなかったんだよ。それが、なんで──」
と、彼女はふいに顔をしかめた。傷が痛むのか、腹を押さえた手に力を込める。「ムー……ビーキラーなんかになっちまいやがッて……」
カレンの様子を見、ふとウォンは手を伸ばしその白い首に指を触れた。
ハッと驚いた彼女は身体を強張らせる。
「……気脈を診るだけだ。力を抜け」
ウォンは二本の指で彼女の首筋を、そっとなぞっていった。「気が乱れているぞ。呼吸を整えろ」
するとカレンは一瞬だけ戸惑うような素振りを見せたが、素直に身体の力を抜いた。荒くなっていた息を整えるように二度、深呼吸をする。
彼女が落ち着くのを待つウォン。
しばらく、雨粒の音とカレンの息遣いだけが、夜の屋上に聞こえていた。静かな間だった。
華奢な首だ。と、ウォンは思う。このまま力を込めれば──彼の力なら、女の首はあっけなく折れてしまうだろう。だが、彼はそうはしなかった。
ようやく彼女は元の調子に戻り、ウォンはただ、自分の手を戻した。
最後にポツリと言う。
「迷うな。迷ったとき、それは即、お前の死を意味する」
「フン、言われるまでも無いさ」
目を閉じるカレン。
二人の間に言葉が途切れる。
そして雨は、またいっそうとひどくなった。
──── 24:05 5階、廊下 ────
「やってくれるじゃねえか、えぇ?」
壁に叩きつけた男は、ゆっくりと立ち上がった。
刀冴は、ギリギリと強く愛剣の柄を握り締めながら、相手が体制を整えるまで待った。だが、その怒りに燃えた双眸は殺人者を刺すように見つめている。
「てめぇの都合も思惑も知ったことか、てめぇのやったことが許せねえ」
刀冴が吐き捨てるようにそう言うと、ダニエル・クワンは、ひょうひょうとした態度で彼を見返してきた。その右腕は、肘から先が消失しており、フィルムのようなものが見え隠れしているだけだ。
廊下に、男が二人。非常灯の緑色の光に照らされ、対峙している。
「俺が何をしたって?」
「なぜ、看護婦を殺した?」
「……ああ、あの女のことか」
刀冴に指摘され、彼は、今まですっかり忘れていたとばかりに、1階の看護婦のことを思い出したようだった。
「俺の姿を見られたからだよ。あそこで騒ぎを起こしたら、カレンに逃げられちまうだろ?」
顎で502号室の方をしゃくりながら言う。まるで今日の食事の内容を答えるような、何気ない口調である。
「カレン、だと?」
「カレン・イップ。金燕会のボスだ。ヴィランズだよ」
ダニエルは肩をすくめながら、「俺は、あの女を退治しにきたのさ。この街の一つの悪夢を終わらせるためにな」
「そんなことのために、あの看護婦を殺したのか」
刀冴は、足を引き、わずかに腰を落とす。言葉は怒りを抑えているために抑揚が全くなく、冷たく廊下に響いた。
あの看護婦のマグカップについていた口紅。あの色が目に焼きついて離れない。
「そんなことのために、罪のない人間を殺したのか!?」
「そうだよ」
そろり。ダニエルも残った左手に何かを握り込む。
「なるほど。なら、てめぇを潰す」
言葉に力を込める刀冴。
「へぇ?」
「――民に害なす虫は潰す、それだけだ」
「チッ、小せぇことでガタガタ騒ぐなよ、些細なことだろ? 刀冴さんよ」
ふいに自分の名前を呼ばれ、刀冴は思わず、眉を寄せた。
「──なぜ、俺の名を? って顔してるな」
おかしくてたまらないといった様子で、ダニエルは続けた。
「お前が、この病院に侵入したのは11時53分。俺はお前さんが思ってるより、いろんなことを知ってる。ひとつ教訓をくれてやろう、刀冴。有名になるってことは、不利になるってことでもあるのさ」
無言のままの刀冴。ただ微動だにせず、表情も動かさず。相手に鋭い眼光を向けている。
ダニエルは、その刀冴の目を真っ直ぐに見た。
「刀冴。ファンタジー映画『星翔国綺譚』から実体化したムービースター。そして」
「──享年、35才、だ」
ピンと張られた糸が切れたかのように、二人は動いた。
覚醒領域を本開放し、たったの一歩で接敵した刀冴は、相手の喉元に恐るべき突きを放った。人の子には見えないほどの早業だった。
避けようとしたのだろうか、ダニエルは後方に跳んだが無駄だった。“明緋星”の軌道はその動きをピタリと追い、肉食獣が獲物に襲い掛かるように彼を襲った。
男の喉に飲み込まれるように、深紅の刃が突き刺さる。
ズッ。
刀冴は二歩目を軸に、ダニエルの身体を蹴りながら剣を横に引いた。その首を断ち切ろうとしたのだ。
鮮血の代わりに、飛び散るのは黒いフィルム。
だが、さすがのダニエルも首を傾け、切断されることをうまく避けた。薄皮一枚でつながった首を、なんとか肘の無い腕で押さえたが、そのまま後ろに身体を投げ出される。
「大口叩くわりには、動きがド素人じゃねぇか!」
言いながら、刀冴は軽やかに跳んだ。相手に息をつく間も与えず、構えた“明緋星”を真下へ。
床の上のダニエルを串刺しにせんとばかりに躍りかかる。
「……俺は文系なんだよ、こう見えてもな」
が、仰向けになったムービーキラーは、上空の刀冴に向かって左手を突き出した。そこには小さな蜘蛛の玩具があり──。
そこに光が生まれた。
大剣が落雷のようにダニエルの腕を裂いたのと、二人の姿が昼のような閃光に包まれたのは、まさに同時の出来事だった。
──ゴッ。刀冴は爆音に耐え、咄嗟に頭をかばう。
背中をこっぴどく天井に叩きつけられ、肺の中の空気を残らず吐き出す刀冴。
それでも彼は、床に着地するとすぐに後ろに跳び退いて得物を構えた。熱風と衝撃で、身体中に切り傷ができていたが、痛みを気にしている場合ではなさそうだった。
ヒャハハハハ……。目の前の黒い塊が笑っている。うごめく生き物のようなフィルムの束。
これが先ほどの男の姿か。刀冴は嫌悪感に眉をひそめた。
「もう一発、プレゼントしてやるよ。受け取りな!」
にゅうっと塊の中から突き出した男の手。何かの機器を持ち、それをグッと押し込む。
──ドンッ!!
身構えた、刀冴。
しかし、爆音が聞こえたのは後方からだった。ハッと息を呑み、意識を後ろへ。
そして刀冴は理解する。爆発したのは──502号室だ。
「置き土産だよ。即席だからなァ、殺傷力を落としてある」
黒い塊は、刀冴から遠ざかるように動きながら言った。
「あの部屋に、何人いたっけかな? 俺は覚えてないが、お前さんは覚えてるだろ」
「──クソッ!」
刀冴が剣を振るった。数メートルと離れているというのに、その剣圧でフィルムがちぎれ、乱れ飛ぶ。
「ヒャハハ、無駄だよ。カレンを始末したあとに、たっぷり相手してやるぜ」
ダニエルは自らの身体をわざと四散させたようだった。細切れにされたフィルムは廊下の影に隠れ、這い回る蛇のように素早く刀冴から離れていく。
剣をもう一撃、振るおうとした刀冴だったが、思いを断ち切るように首を振ると、彼は502号室へ走った。怪我人を助けるために。
──── 24:07 屋上 ────
キィ、と屋上へのドアが開く音がした。
息を潜めていた二人は、ただお互いに視線を交わす。
カレンは手にしたマカロフのグリップをいっそう強く握り。ウォンも両手にそれぞれ握ったグロックに目を落とした。
雨は、小降りになってきただろうか。
階段から現れた人物は、気配も隠さず足音も忍ばせず。ピチャピチャと音をさせて数歩、コンクリートの上を歩いた。
その時、ふっと風が変わり、二人は──特にカレンは驚いたように辺りを見回した。降り注ぐ雨と、病院の屋上の場はそのままに。回りの建物と風景が変化していた。
色鮮やかなネオンに彩られた夜の街──。これは香港の繁華街、旺角(モンコック)地区ではないか。
「カレン、そこに居るんだろう? 出て来い」
男の声がした。ダニエル・クワンの声だった。
周囲の変化は、彼が自分のロケーションエリアを展開したのだった。自分が住んでいた香港の街に。カレンや義兄弟と過ごした街を、この銀幕市に再現させたのだ。
動こうとしたカレンを、ウォンが手で制する。
彼女は笑った。任せたよ、と彼に目で言うと、雨の中へ出ていく。
姿を晒した彼女の姿を見ると、雨に濡れながら立っていた男は、にんまりと笑みを浮かべてみせた。
「懐かしいだろ、カレン? この光景」
「ああ、そうだね」
短い言葉を交わし、旧知の間柄である二人はじっと相手を見すえた。カレンの目にダニエルは、左腕の肘から先を無くしている以外は普段と変わらない様子に見えた。
「──この場に全て、糸を張った」
ダニエルが言う。その言葉は、ロケーションエリアを展開するとともに、この屋上のいたるところに爆弾を仕掛けたという意味だ。
「フン、あたしが逃げるとでも?」
「念のためさ」
「なら、あたしもあんたの意気込みに答えなきゃァね」
カレンの服装が一瞬にして変わった。映画の中とこの銀幕市で、最も知られている彼女の姿──紫色のチャイナドレスに、二振りの胡蝶刀を両手に持った姿へ。カレンも自分のロケーションエリアを展開させたのだ。
満足そうにうなづくダニエル。ネオンの光と、空から落ちる雨が二人の輪郭を際立たせた。
「あとは、邪魔者が一人」
殺人者はニィっと笑った。「──そいつを先に、殺っておくこととしよう」
ダニエルは、残った左手を素早く振るった。何か小さなものが宙を舞う。それはカレンの頭上を越えて後方へ。小さな蜘蛛の玩具は、羽虫のように空を飛んだ。
タン、タンッ、タン! が、一瞬早く、銃声が鳴り響いた。上空にあった蜘蛛を誰かが銃で撃ったのだった。物陰から半身を見せ、真っ直ぐに銃を構えたウォンが。
だが、カレンは伏せろ、と叫ぶ。
──遅かった。
爆弾とは思えないほどの、まばゆい閃光が、ウォンの残った片目を眩ませた。
「そいつは囮だ、ボケが!」
間髪入れず、ダニエルは右手で何か握りこむようにして自分の胸元に引く。まるで、束ねた糸を引くように──。
同時にカレンは地を蹴り、跳んでいた。
重い、ドォンという爆発音が三つ。屋上に響き渡り、建物を奮わせた。ウォンが潜んでいた階段裏の地点を三点で囲むように爆弾が爆発し、コンクリートも見事に吹き飛ばされた。雨の中。瓦礫の山からは炎すら上がっている。
「ダン……!」
一方。音もさせずに、カレンの胡蝶刀がダニエルの心臓の位置に滑り込んでいた。目線を交わす二人。カレンはもう片方の刀で相手の首を飛ばそうとした。が。
「──遅せぇんだよ!」
ダニエルは女の腹を蹴った。
カレンは片方の武器を相手の胸に残したまま、後方の床に投げ出された。悲鳴は上げなかったが、その顔を見れば彼女が激痛に襲われたことは一目瞭然だった。苦痛に耐えるために歯を食いしばり、身動きも取れない状態だ。
その前に、殺人者が立ちはだかった。自分の身体から抜いた刀を手に、ダニエルは義理の妹を冷たい目で見下ろした。
そして彼は、カレンの肩に胡蝶刀を突き刺した。鮮血が、女の白い肌から飛び散る。
「ワザと急所外してやってるんだ、分かってんだろ?」
刀から手を離し言う。カレンはそれでも悲鳴を上げず、荒い息をしながら男を見上げた。自分の肩に刺さる刀を抜こうと、その手が弱々しく刀身に触れている。
「ダン、どうして……」
「どうして? お前がディーンを殺したからだ。俺の弟分をお前が殺した。俺はお前を許さねえ」
「そうかい。なら、どうしてもっと……」
カレンは口の端に笑みを浮かべていた。「早く来なかったんだよ。あたしは待ちくたびれちまッたよ」
「──お前、ディーンが海辺に小さな物件を借りてたことを知ってるか?」
「え?」
ふいに口調を変えたダニエル。その言葉の意味が分からず、カレンは眉を潜めた。
「あいつが半年前何の準備をしてたか、お前は知らねえはずだ」
「ダン、何の話を?」
「お前にも教えてやる。この半年で俺が知りえたことをな」
一度言葉を切って、ダニエルは暗い目で義理の妹を見る。
「ディーンは一人で遊んでたわけじゃない。あいつは手料理を食わす店をやろうと準備してたんだよ。笑っちまうだろ? 奴はちっぽけな料理屋を始めて、お前を店の女将に。俺を漁師にするつもりだったんだ。あの馬鹿は真剣に、俺たちを……カタギにしようと考えてやがったんだよ──!」
「なんで、そんな」
突然、自分の思いを語り出したダニエルを前に。カレンは目を見開き、傷の痛みなど忘れたかのように男の顔を見る。
「あいつは、リンが──お前らの息子が死んだ時、何て言った? こんなことのために生きてきたんじゃない。自分の家族すら守れない男が街を守る資格なんてない。──そうだよ、この街でも、あいつは俺たちのことを見捨ててなんかいなかった。本気で足を洗うつもりで、その準備をしてただけだったんだ」
ダニエルは抑えた声で。だが、強く。そう言った。
「──俺たちは、あの崇高な男の魂を闇に葬ったんだ」
「嘘だろ? やめておくれよ、そんな」
「今のが嘘だと思うか」
頭の中が真っ白になったかのように、呆然と相手を見つめるカレン。
「苦しめ。俺の痛みを分けてやる」
ズッ。ダニエルは刀を女の肩から引き抜き、高らかに振るい上げた。胡蝶刀に付着していたカレンの血は雨に流され、ダニエルの身体を伝って流れ落ちていった。
「死ぬんだ、カレン。粉々になって、溶けて、俺たちは子宮に還るんだ。何よりも大切な人間を信じてやれなかった自分を暗い地の底に押し込めて。さあ、次はどこを刺したらいい? お前に苦痛を。罰を。俺がくれてやる」
──ザンッ!
その時、後ろから躍り掛かった影が、男の腕を肩から断ち斬った。
地に叩きつけられる胡蝶刀と男の腕。刹那、ネオンの明かりの中で、深紅の刀身がひるがえって、男の身体を横に薙ぐ。
ダニエルが自身の異変に気付き顔を上げた。そこにはいつの間にか“明緋星”を水平に保ち、静止している刀冴の姿がある。
ツツー……と、ムービーキラーの上半身は大剣の上を滑り、後方へ落ちた。ドサリと重い音をさせて。
「眠れよ。あんたの魂はもう死んでるんだ」
刀冴は目を閉じ、剣から離した左手を揺らめかせた。
「──『紅蓮姫』第五節、【煉獄頌】!」
カッ、彼の前に光が。虚空に紅蓮の炎が生まれ、ダニエルの身体を飲み込んでいった。刀冴が炎魔法を使ったのだった。切断された二つの身体それぞれが、あっと言う間に炎の柱に包まれる。
ダニエルの顔から肉が剥がれ、黒いフィルムが見え隠れしその頬をうねった。彼は炎に焼かれながら、ギョロリと刀冴を睨んだ。
「お早いお着きじゃねえか、刀冴」
ダニエルの身体の切断面から、フィルムが噴き出した。お互いに吸い付こうと奇妙な動きを見せて地を這いだす。「……無駄だと言ったはずだぜ、この身体はもう痛みを感じない。俺は不死身なんだよ!」
彼の視線が、自分の肩を押さえながら半身を起こすカレンの姿に移る。動けないなりにも必死に後退しようとする彼女の足に、ダニエルは自身を焼かれながらも身体の一部を伸ばそうとした。
フィルムがカレンの足に巻きつこうとした時。タンッ、と乾いた銃声がし、フィルムが四散した。
「不死身だと? 笑わせる」
瓦礫の上に、黒い影が一つ。銃を構え、じっとムービーキラーを見据えていた。
爆弾の直撃を受けたはずのウォンの姿だった。スーツはいたるところが裂け、惨たらしい裂傷が見えている。顕わになった左胸には銃創が。映画の中で彼の命を奪った傷がそこにあった。
まさか、先ほど死んだはず──。と言わんばかりにダニエルが炎の中で言葉を無くす。
「No one lives forever──永遠に生きる者無し。それが自然の理だ」
一瞬にして繁華街のネオンが失せ、代わりに仄かな月明かりが場を支配した。屋上から暗い路地裏へ。旺角から魔窟、九龍城に辺りが変化していた。ウォンが、自らのロケーションエリアを展開したのだ。
何者も死から逃れることの出来ない空間が、そこに生まれていた。
「これは!?」
驚くダニエル。
その脇で刀冴が状況を察し、ウォンに目配せして後方へと跳び退いた。
「『冬華仙』第五節【恒久氷】!」
次に彼が放った魔法は、凍てつくような風だった。焼かれては再生を繰り返していたダニエルの身体が、絶対零度の冷気に包まれ一瞬のうちに凍結した。
それでも、恐ろしい形相で刀冴を睨むムービーキラー。
「今だ!」
が、刀冴は叫び、もう一歩身を退いた。ギョッとするダニエル。彼の顔に大きな影が差した。
──ゴゥン!
大きな岩の塊が、凍った男の上に落下しその身体を押し潰した。
それは正確に言うと、岩ではなかった。家々の壁を形勢していたコンクリートを、叩き割りムービーキラーの上に落としたのは、ランドルフ・トラウト。
巨漢の食人鬼、だった。
瓦礫の上に降り立った彼の背中には女が一人乗っていた。流鏑馬明日だ。彼女がスタッと地上に降り立つや否や、ランドルフは唸りをあげる拳を足元に叩き込んだ。
足元で押し潰されているはずの殺人者を完膚なきまでに破壊せんとばかりに、次々に両手の拳を打ち込む。その姿はまるで悪鬼のようだ。
「ウォン」
もうもうと煙が上がる中、明日はウォンの姿を目に留め、駆け寄った。
彼はいつの間にか、カレンを助け出し両腕で抱き上げていた。女の目は閉じられている。
「彼女は?」
「怪我はひどいが、生きてはいる」
と、ウォンは明日のポケットから顔を出すバッキーに目を落とした。「あの男の腕はさぞかし不味かったろう?」
微かに笑う明日。
「だが、よくやってくれた。糸さえ操ることが出来なければ、奴は無力だ」
「──甘めぇんだよ!」
しかし、男の声が上がったのはランドルフの向こう側からだった。
その場にいた全員が、ハッと声の方を見る。砂塵の中に、地面に生えた生首と腕らしきものがあった。ランドルフの攻撃からかろうじて逃げ出したのか、皮は剥げ落ち、やっと表情が分かる程度の代物になっていたが、それでもダニエルは皆の視線を受け笑った。
「クソどもが、俺の仕掛けた爆弾は全て生きたままだ。こんな閉鎖空間を作り出したことを呪いやがれ」
死ね、と叫んで。ダニエルは残った手をくるりと動かした。爆弾を作動させるための糸を引く動作だった。
間に合わない!
明日はギュッと目を閉じ、刀冴は身構え、ランドルフは自分が守りたい者の姿に視線を走らせた。
「──お探しのものはこれかな? ムービーキラー君」
だが、爆弾は爆発しなかった。爆音の代わりに聞こえたのは若い男の声。
どこからどう現われたのだろう。瓦礫の上にグレーのスーツを着た青年が立っていた。誰かがヘンリー、と驚いたように声を上げる。
彼はそれに答えるように軽く手を挙げ、そして自分が握っていたものをゆっくりと、ダニエルに見せた。
──細い、無数の、糸の束を。
「馬鹿な!」
首と手だけになったムービーキラーは驚愕し、呆然とその糸の束を見つめた。それは誰もが初めて見る彼の表情だった。
相手を見下ろして、ヘンリーはククッと声を上げて笑う。
「これを見せたときの君の顔を、見てみたかったんだ」
ダニエルの唇が震え、目に色が浮かんだ。
それはヘンリーの見たかったもの。ムービーキラーは虚空を見つめ、うわ言のように何かをつぶやく。
何だろう。もっと──もっと近くで、感じなければ……。
紳士強盗は、ムービーキラーの目を。その中に広がる深淵を覗き込もうとする。
タン!
が、ヘンリーが何かを見つける前に、ダニエルの顔は飛び散ってしまった。
振り返るヘンリー。
片腕にカレンを抱いたウォンが、銃を手にしていた。凍てつくような視線が青年を射抜く。
「よせ」
ただ、それだけを言って。彼は銃を収めた。
「終わった、の?」
静かに問う、明日。
辺りの物音は、雨の落ちる音だけになっていた。
ダニエルの頭はもう再生することは無かった。ここは何者にも等しく死が訪れるウォンのロケーションエリアだ。たとえムービーキラーであってもそれは例外ではない。
「……ダン」
カレンが小さく声を上げて、ウォンの腕を外した。よろよろとふらつきながら、ダニエルのいた辺りへ来ると膝を折りうずくまった。誰も何も言わなかった。彼女は震える手で、まだ、そこに残っていた旧友の腕に手を触れようとする。
しかし、すぐにそれはボロボロの黒いフィルムに変わってしまった。あれは、やはり──。何人かがそう思った時、カレンの手の中でフィルムは砂のように崩れ去ってしまった。
塵芥は、降る雨に流され彼女の手をすり抜けて地へと消えていく。それを集めようとした女の手がむなしく空をきった。
かなわず、カレンはただ瓦礫の上に手をついた。能面のような無表情で、ただ旧友の消えたところを見つめている。
その脇に黒い影が立った。
「終わり無き夜を逝くとこうなる。お前もその男のような道を逝くつもりか? お前は夜明けを目指せ」
答えは無かった。
そばで、刀冴がゆるゆると首を振る。
「カレン、あんたがしでかした事の中にゃあ釈然としねぇものも多々あるが、今はそれを責めるべき時でもねぇ。因果は応報。いずれ、全部あんたに還って来るんだろうさ。だから、今はまず生きろよ、そのくらいの手伝いはさせてくれてもいいだろ」
ゆっくりとカレンはウォンと刀冴を見上げた。だがその目には色が無い。彼女はまた地面に視線を戻す。
「帰りましょう」
明日が彼女の隣に腰を下ろし、ハンカチを取り出して肩の傷に応急処置を始めた。カレンは嫌がり避けようとしたが、痛みに顔をしかめた。仕方なく、明日に身を任せる。
いつの間にか辺りは元の病院の屋上に戻っていた。
「多くの人が傷つき、そして、死んだわ」
「私たちは……」
ぽつりと、ランドルフが口を開いた。
「私たちは、こちらに存在していて良いのでしょうか……。魔法が消えれば、私たちは元に居た所に帰るだけですが、この街の人たちはそうじゃない」
「ドルフ」
明日は、大きな友人を見つめた。「あなたのせいじゃないわ」
「人は死ぬのだ。誰であっても。それが早いか遅いか、ただそれだけだ」
ウォンが言う。
「私はこの街の行く末を見届けるつもりだ」
彼はきびすを返した。「──あの暗く冷たい真夜中の世界に戻るまでな」
自分の役目は終わったとばかりに、皆に背を向けて歩き出す。ふと、気付けばあの紳士強盗の姿はどこにも無かった。
空から落ちる雨が、またひどくなった。
その場に残された者たちは、それぞれの思いを胸に、ただその身を雨に。降り注ぐ雨に打たれ続けていた。
***
おじさんには、友達がいたんだ。
とっても大切な友達だよ。
──ふぅん。
でも、そいつは死んじゃったんだ。
おじさんはそいつのこと助けてやることも出来たのに、助けなかった。
──どうして?
おじさんはそいつが裏切ったと思ってたのさ。
でも、違ってた。
おじさんの方が間違ってたのさ。
おじさんは、友達を信じてやることが出来なかったんだ。
なあ……おじさんは、どうしたらいいのかな。
悲しくて、辛くて、おじさんは、もうどうしたらいいか分からないんだ。
──ごめん、って謝ればいいんじゃない?
謝る?
どうやって?
──会いにいけば?
ああ……。
そうだね。
君の言う通りだ。
会いに行けば……いいんだね。
***
(了)