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<ノベル>
「行ってみたいです。できるなら、手を繋いで」
無理でしょうけど、と前置きして彼女は言った
彼女が初めて俺に求めたそれはあまりにもささやかで
そんな可愛らしいお願いすら叶えてやれぬ身がもどかしくて
◇ ◇ ◇
吾妻宗主が風景画を描きにその場所を訪れていたのも、がこん、がらがら、というその物音に気付いてふと顔を上げたのも偶然であった。
視線の先にはゴミ箱から立ち去る人影。ゴミ箱に何かを放り投げたのだろうか。女だ。肩にようやく届く長さの黒髪を無造作に風に散らし、黒いトレンチコートの裾から白い脚を覗かせてまるで散歩にでも来たかのような足取りで歩いていく。
(ずいぶん乱暴に捨てて行ったみたいだけど)
蓋のないゴミ箱の中を何気なく覗き込み、宗主は軽く眉を持ち上げた。
携帯電話だ。真っ二つになった携帯電話が無残な内容物を晒してゴミの中に横たわっている。
「きみ。ちょっと」
スケッチブックを閉じて思わず声をかけると、黒髪の彼女は怪訝そうに振り返った。
「いいの? 携帯」
へし折られた機体を丁寧に拾い上げて示す。彼女は不快そうに眉間に皺を寄せた。
「いらないから捨てたんです」
「それはそうだよね」
険のある声に宗主は柔らかな苦笑を返す。「だけど、どうして? 壊れた……というよりは自分で折ったように見えるけど」
携帯電話はただの電話機ではない。他の多彩な機能もさることながら、最重要視されるべきは機体に記録されたデータであろう。友達や家族、大事な人の連絡先。思い出の写真。交わしたメールの履歴……。たくさんの大切な記憶と気持ちが小さな機体の中に詰まっているのだ。
「この分じゃショップに持って行ってもデータは取り出せそうにないね」
打ち捨てられた機体の上を白くしなやかな指先が往復する。無機質なチップの中に詰め込まれていたはずの感情を悼むように、優しく、切なげに。
「――大事な記憶を自分の手であっさり壊せるなんて、どんな気持ち?」
乾いた風が吹き、緩く束ねた髪の毛をさらっていく。さらさらとなびく柔らかな銀色の下、涼しげな緑眼がかすかに憂いを帯びて、濡れた。
「良かったら聞かせてくれないかな。ねえラダ、きみも聞きたいよね?」
肩に乗ったピュアスノーのバッキーの鼻先を撫でると、ラダという名のバッキーはことりと首を上下させた。
ここは元の世界とは違うんだ、好き合ってんならくっついちまえ!
(……とは言えんよなぁ。っていうより、言える筋合いじゃねぇ)
一歩後ろから二人の様子を傍観しながら、セバスチャン・スワンボートは長い前髪の下の目を軽く眇めた。
(正直、難しい話だ)
たまたま対策課を訪れたところ、硬い表情で走り去っていく将吾を見かけた。様子が変だと思って声をかけたのだが……。
「きついことを言うようだけど……あなた、自分を守りたいだけなんじゃない?」
一方、香玖耶・アリシエートはセバスチャンとは対照的だ。食ってかかるというほどの勢いではないにしろ、躊躇も遠慮もなく将吾に意見をぶつけている。ストレートな物言いにセバスチャンは唇をへの字に曲げるが、香玖耶はそれに気付かない。
「そりゃ、出会い系や離婚のせいなのかも知れないけど。自分が傷つかないように予防線を張ってるだけのように見えるわ」
(そもそも、であいけいって何なんだ?)
現代社会の事物や常識には疎いセバスチャンである。出会い系という単語自体は耳にしたことがあったかも知れないが、それがどんなものであるのか分かっているとは言い難い。
将吾に聞けば教えてくれるだろう。口ぶりからして香玖耶も出会い系の何たるかを知っているようだ。だが、二人のやり取りに口を挟むだけの気概はセバスチャンにはない。
香玖耶もセバスチャンと同じように偶然対策課に居合わせた。セバスチャンに声をかけられた将吾がぽつぽつと事情を話し始めたのを耳にしてやって来たのが香玖耶である。
「予防線と言われても。俺はもう充分傷ついてますよ」
将吾はあくまで穏やかに香玖耶に応じている。「好きな女性に嫌いだの何だのと言われ続けてるんですから。だけど仕方ない、俺が悪いんですし。嫌われていることは事実ですしね。いつでも身を引く覚悟はできてます」
「だからそういう態度が――」
「あー、その、何だ」
香玖耶の前で諦めたように微笑む将吾が何だか気の毒に思えて、セバスチャンは思わず口を挟んでしまった。振り返った二人の視線を受けた後で「しまったな」と独りごち、ぼさぼさの頭を掻く。
「まぁ、よく分からんが、あれだ。嫌われてると思ってるなら、なんでそのセリとやらを探そうとしてるんだ?」
素朴な問いに将吾は口をつぐんだ。香玖耶の唇にわずかな苛立ちの色が差すが、彼女が言葉を紡ぐ前にセバスチャンが言葉をかぶせる。
「悪い、言い方がまずかった。質問を変える。……探してどうするんだ?」
「……伝えたいことがあります」
一拍置いてからもたらされた答えにセバスチャンは思わず「へえ」と声を漏らした。
「こちらに来てから映画を最初から最後まで見ました。――あの結末は、あんまりです」
もう一度顔を見てきちんと伝えたいのだと言葉を切った将吾の脇で、アメジストのような香玖耶の双眸が物問いたげに彼を見つめている。
「じゃ、こんな所でごちゃごちゃ言ってないで探したほうがいいんじゃないのか。そうだろ?」
将吾の背中に手を添えて促しながら、セバスチャンは彼にだけ聞こえるように呟いてみせた。
「女心がよく分からないのは俺も同じさ」
ムービーファンの少女に告白されたセバスチャンは「済まん」の一言で断ってしまった。彼女とはいまだにぎごちない関係が続いている。将吾がそれを知るわけもあるまいが、事情があることは何となく察したらしい。「どうも」という短い礼とともに静かな微笑が返って来た。
「――そこの三人。そう、そこの銀髪の女性とみすぼらしいぼさぼさ頭と、年長の冴えない男」
ちょっといいかと不意に声をかけられ、三人は一斉に振り返った。
「何事だ? さっきから揉めているように見えたが……」
白衣を身に纏って眼鏡をかけたその男は栗栖那智と名乗った――が、彼の白衣のポケットで何かがごそごそと動いていたように見えたのは気のせいだろうか。
時刻は昼過ぎ。とりあえず方針を話し合うために四人は近くの喫茶店に入り、ゆったりとしたボックス席に腰を落ち着けた。
「やみくもに探したって見つからないんじゃないか……?」
「そうね。彼女との思い出……一緒に出かけた場所とか」
彼女の居場所に心当たりはないのかと将吾に尋ねるセバスチャンに香玖耶も同調した。
将吾自身がセリの居場所に思い当たり、見つけ出してくれれば良いと香玖耶は思う。そうでなければ意味がないとも。
「一緒に出かけた場所ですか」
将吾は力なく微笑んだ。「いつも食事をした後はホテルに入るだけでしたからね……」
「……ずいぶん直截的なお答えね。そういうデートを繰り返していたのはあなたの事情? それとも彼女の希望?」
「前者でしょう。さっき話した通り、離婚したてで色々と制限のある身ですから。文句を言われたことはありませんけど」
軽く唇を歪める将吾に対し、香玖耶は「そう」と応じるだけだ。
――要はあなたの一方的な都合ってことね? 彼女はそれに文句も言わずに応じてたわけだ?
喉元までせり上がったその台詞は辛うじて呑み込み、言葉には出さない。
(喧嘩する気なんかないのよ。怒りつけたいわけじゃないんだから)
批判する気もなければやり込めたいわけでもない。だが、将吾の態度や言動に些か苛立ちを覚えることも確かだ。
都合を聞き分け、体を重ねる相手が口にする『嫌い』という言葉の意味をこの男は分かっているのだろうか。敢えて分かろうとしないのではないか……。
「電話通じないって言ったっけ? それって、見つけてほしくないってことじゃないのか」
窓際に座ったセバスチャンは小さな銀色のミルクポットに手を伸ばす。
「……いや。どうなんだろうな。本名があるのなら、そっちで市役所に登録すればあんたが探そうとすることもなかったんだろうから……違うのか?」
将吾はセリの本名を知らない。本当にセリが将吾から離れようとしているのなら本名で住民台帳に登録すればいいはずだ。そうすれば将吾はセリが実体化していることを知らずにいたのかも知れないのだから。
「分からん」
ぼそりと呟き、セバスチャンは温かいコーヒーにミルクを垂らして頬杖をついた。とろりとした乳白色が曖昧なマーブル模様をえがき、黒褐色の中でゆるゆるとほどけ、とろけていく。そんな何でもない光景をぼんやりと眺めながら頭を占めるのはあの少女のことだ。
(そういや、あのギモーブ……コーヒーに入れてもうまかったな)
意気地なし。
調理実習で作ったギモーブをセバスチャンにくれたヴァイオリニストの少女はそう言った。
「済まん」などではなくもっと他の言い方があっただろうと思う。だが彼女はまだ若いし、先がある。自分はムービースターという不安定な存在、いつ消えるか分からない身だ。彼女に永遠の喪失感を味あわせたくないがための、彼女を大切に思うからこその一言だった。
「……分からんよな」
もう一度呟き、機械的にカップを持ち上げ、無防備に口に運ぶ。そして淹れたてのコーヒーの熱さに悲鳴を上げたセバスチャンがコーヒーを噴き出したのは二秒後のことだ。もっとも、セバスチャンの隣に座っていた香玖耶は素早く通路に立ったし、向かい側に座していた那智も己の分のカップをさっと持ち上げて避難したため被害はなかったが。
「ねえ、あなた」
真っ赤になった舌を出して苦しんでいるセバスチャンを無視して席に戻り、香玖耶は終始無言の那智に水を向ける。
「さっきからずっと黙ってるけど。どう思うの?」
「分からない」
「は?」
「何故そのセリとやらに避けられているのか、全く見当が付かない」
男女の機微というものをいまいち理解していない那智は傍らの将吾に向き直り、眼鏡のブリッジを鼻の上に押し込んだ。
「おまえが彼女に信頼されていないのは今までの会話の内容からよく分かったし、明白な事実なのだろう。だが、問題はその理由だ」
眼鏡の奥から切れ長の双眸が将吾を観察している。そこにあるのは嫌味でも皮肉でもなく純粋な興味と好奇心だ。
「信用されていないということは、何か疑われるようなことをしたのではないのか?」
そして、那智の問いは純粋ゆえに少々残酷だったようで、将吾の唇が軽く歪むのが香玖耶にもセバスチャンにも見てとれた。
「半年間関係が続いていると言ったか。出会い系で知り合った相手という先入観は消し難いかも知れないが、それだけの期間があれば多少の不信感は打ち消せるはずだ。それでも彼女に信用されていないということはそれなりの理由があるのだろう。むしろ、そもそも彼女のほうは本当に暇つぶしでおまえの相手をしていただけであるとか――」
医科大学にて日々研究に没頭する助教授――現在は准教授と呼称を改められているが――は、理路整然と自説を展開する。だが途中で「いや」と首をひねり、すぐに自論に疑問を呈した。
「半年……か。ふむ。それだけ長期間続いているのなら、彼女もおまえに対して愛情を持っていると考えるのが自然だな」
女心を全く判っていない那智にもそのくらいのことはすぐに察しがつく。だが、それならそれで、何故将吾にはそれが分からないのかという新たな疑問が湧く。
「期間は関係ないんじゃないですか?」
那智の弁舌に圧倒されていたらしい将吾がようやく口を開いた。「そもそも、俺たちはそんなに頻繁に会ってたわけじゃないし……二年や三年の間付き合っているカップルなんてざらにいます。半年イコール長期間とは思いません」
「成程、一理ある。『長期間』の定義も曖昧だろうしな。――が、本当に彼女がおまえを嫌っているのならとっくに愛想を尽かしていてもおかしくない期間ではある。何故おまえにはそれが判らない? 自信が持てないのか?」
将吾は視線を伏せ、上唇の下に巻き込んだ下唇を軽く噛んだ。
「これは仮説だが、彼女がおまえを受け入れない理由もあるはずだ。だが、私にはその理由が分からない」
次に那智は香玖耶に顔を向ける。「だから皆の考えを聞かせてほしい。香玖耶さんといったか。あなたはどんな可能性があると考える?」
「おい、あんた」
お冷で舌を冷やしていたセバスチャンがすかさず抗議の声を上げた。「俺は無視か?」
「おまえから有効な解答を得られる可能性は低いと推測する」
セバスチャンは唇をへの字に曲げてお冷の氷をかっ込んだ。「あんたにゃ言われたくないぜ」と口に出さなかったのは、下手なことを言えば言葉の速射砲で蜂の巣にされそうだったからだ。
那智の発言を促したのに逆に意見を求められた香玖耶は一瞬戸惑ったが、すぐに「そうね」と口を開いた。
「将吾さんの態度が煮え切らない……とは感じるわ。及び腰っていうの? 正面からぶつかって来てくれない相手に彼女が信頼を抱けないのは当然よ」
「何度好きだと言っても嘘だと言われました。何を言っても伝わりませんでした。どう伝えても受け入れてもらえない。その繰り返しじゃ臆病にもなりますよ」
「だけど、彼女のことを少しでも喪いたくないと思うなら身を引くだなんて簡単に口にはできないはずよ」
「彼女は26歳です、将来のことを真剣に考えなきゃいけない年齢です。出会い系で知り合った年上のバツイチ男なんかに拘束されたら気の毒でしょう」
「それなら最初から付き合ったりしなければいいのよ。彼女のほうだって、あなたが年上で離婚歴があることなんて最初から知ってたんでしょ?」
やや強い調子で将吾を遮った香玖耶に那智は肯き、セバスチャンも控え目に同意を示した。
「……ごめんなさい。言い過ぎたかも知れない」
反論する術もなく視線を伏せたままの将吾の姿にさすがに罪悪感を覚え、香玖耶は軽く詫びた。
「だけど……綺麗事の言い訳ばかり並べているように見える。踏み込むことから逃げているようにしか見えないのよ、私には」
彼女との間に分厚いガラスを張ったのは、彼女じゃなくてあなたのほうかも知れない。
静かに付け加えられた一言に、将吾の肩が小さく震えた。
「彼女に会うまでにその辺りをちゃんと自覚して欲しいの。なりふり構わず……ある意味捨て身になって、純粋に自分の想いだけで彼女と向き合えるようになって欲しい。そうじゃないときっと後悔すると思うから」
人は弱い。人の心は、こんなにも弱い。
だけどその弱さを厭うことはしない。弱さを乗り越えられるのもまた人間であることを、永き時を生きるエルーカはきちんと知っている。
(はて。何の話をしていたのでしょう)
尾行しているわけではない。が、気になったことは確かだ。
いつも通り市内を歩き回っていた簪は、休憩のためにたまたま入った喫茶店で男三人と女一人の一行を見かけた。聞き耳を立てていたわけではないが、丈の長い古着に身を包んだぼさぼさ頭の男が熱いコーヒーに悲鳴を上げた時は何事かと思ったし、白衣の男がまるで論文でも読み上げるかのようにすらすらと長台詞を喋っている姿には目をぱちくりさせたし、黒を基調としたタイトな服装に身を包んだ銀髪の女がやや強い調子で年長の男に意見を述べている様子は和気藹々としたティータイムには見えなかった。
(しかし……肝心のあの旦那さんはどう思っているんでしょうねえ?)
店を出て、一行からつかず離れずの距離を保って歩きながら簪は軽く顎をさする。
どうやらいちばん年長らしい男が渦中の人物であるらしいことは簪にも容易に想像がつく。だが、彼はさして発言していなかったようだ。
「もし」
四人が信号待ちで立ち止まったのを見計らい、後ろからさりげなく並んで声をかけた。「何かお困り事でも? 先程、喫茶店で様子を見かけましたもので……」
柔らかな微笑と相手に警戒心を抱かせぬ声音は商人の性(さが)である。案の定、振り返った四人は大した不審の色も見せずに口を開いてくれた。
「人を探しているの。26歳の女性なんだけど……」
香玖耶・アリシエートと名乗った女性が簡潔に事情と状況を説明してくれた。だが現代とは異なる時代設定の映画から実体化した簪には今ひとつ事情が呑み込めない。
「であいけい……とは、何でしょう?」
だから、首をかしげて素直に尋ねた。香玖耶はやや躊躇ったように口をつぐみ、セバスチャン・スワンボートは「あー」と曖昧に返事をしてぼりぼりと頭を掻く。
「出会い系というのは俗称だ。正式には……そうだな、法律の条文などでは『インターネット異性紹介事業』などとカテゴライズされるらしい」
代わって説明役を買って出たのは栗栖那智である。「定義としては、18歳以上の男女を対象にしたインターネットサービスの一種だ。ネット上の掲示板またはそれによって構成されるコミュニティサイトを介して不特定多数の男女が――」
「へ、へえ?」
耳慣れぬ単語を次々と並べられ、簪は目を白黒させる。
「要は」
那智の説明が一段落すると(もちろん簪には半分も理解できなかったが)、いちばん年長の将吾という男が皮肉げに唇を持ち上げて口を開いた。
「気軽な性交の相手を手軽に求める場所のことです、セリの言葉を借りればね。恋愛や出会いという看板を掲げてはいても実態はセックスの相手を募るための場所だと彼女がよく言っていました。事実、セフレ探しが目的で利用している人も多いそうですよ」
香玖耶の眉が中央に寄り、セバスチャンは諦めたように肩を揺すってみせる。その脇で那智は「一理ある」と呟いた。将吾の言葉がすべて真実というわけではないにしろ、巷に流布している出会い系のイメージとしてはあながち間違った説明ではなかろう。
「……はあ」
簪はもう一度ゆるりと首をかしげ、ゆっくりと視線を将吾に向けた。
「『さいと』云々はよく分かりませんが……つまり、軽い遊びの相手を探す場で知り合ったということで?」
「そういうことです」
「へえ、なるほど……」
物腰は相変わらず静かなままだったが、穏やかな面(おもて)の上で冷めた色がさざめくのがはっきりと見てとれた。
交差点を睥睨する信号が黄色から赤へと変わり、車道を行き交う車が緩やかに停まる。歩行者用の信号が鳥の鳴き声を模した電子音を奏で、止まっていた歩行者たちが一斉に流れ出した。
「それでは、あちきはこれで」
「ちょっと」
一向に背を向けた簪を香玖耶が慌てて呼び止める。「一緒に探してくれるんじゃないの?」
「はて……あちきは何かお困り事でもあるのですかと声をかけただけですが。協力するとか相談に乗るなどとは一言も申し上げておりませんよ」
足を止めて半分だけ振り向けられた簪の顔にはやはり微笑が湛えられていたが、その眼差しにはどこか冷えていた。
「だけど――」
「あいにく他に用がありますので。すみませんねえ、お役に立てませんで……」
香玖耶の視線をはんなりと受け流し、簪は笈を背負い直して一行に背を向けた。「ああ……早く渡ってしまったほうが良いですよ」
歩行者が車道を闊歩できる時間はあまりに短い。簪が指し示した信号は既に明滅し始めている。
一行が点滅する信号に気を取られた一瞬。
人の波に押しやられるようにして、簪の背中は遠くへと流れてしまっていた。
◇ ◇ ◇
今すぐは難しいけどそのうち連れて行く、と彼は答えた
いつもこう……否定はしない代わりに明確に肯定もしない
いつだってまともに答えてはくれないんだ
「無理しないでください」
汗ばんだ胸板に頬を押し当てながら、ほんの少し切なくて……
裸の肩を抱いてくれる腕の優しささえ憎らしくて
「本当に連れてってもらえるなんて思ってませんから」
だから、いつもと同じような台詞がつい口をついて出た
◇ ◇ ◇
黒のトレンチコートに身を包んだ彼女はセリと名乗った。変わった名前だねと宗主が言うと、本名ではなくハンドルネームなのだという答えが返って来た。
「――ふうん。『所詮出会い系』で知り合って、初めて会ったその日に関係持っちゃったんだ」
風はもはや冬の気配を十分に纏っていた。この場所では余計に冷たい風に晒される。宗主は自動販売機で温かい紅茶の缶を二本買い、一本をセリに渡した。
大体の経緯は把握した。彼女に対しても彼に対しても少なからず思うところはある。だが宗主は何も言わない。今はまだ自分の意見を口にするべきではないと知っているからだ。
「あ。紅茶、嫌いだった?」
一向にプルタブを開けようとしないセリに気付いて宗主は尋ねた。ベンチにちょこんと腰かけたセリは紅茶の缶を大事そうに両手で抱え込んだままだ。
「いえ……後からいただきます。こうしてると指先があったかくて」
将吾さん、いつかこれと同じ紅茶飲んでたな。
セリが漏らしたそんな独り言には気づかなかったふりをして、宗主は軽く笑みかける。
「寒いなら中に入って待ってればいいのに。せっかくこういう場所に来たんだし、入らなきゃ損じゃない?」
「……ここでいいです」
頑固な女である。だが、頑迷というよりは一途というべきだろう。
宗主は好意的に目を細めた。
「そうだね。中は結構広いし……中に入ってしまったら、彼も見つけるのに少し手間取るだろうなあ」
独り言を装って呟いてみると、案の定、視界の端で華奢な肩がぴくりと震えた。
「人の気持ちを試すような真似はどうかと思うけど」
でも、と紅茶の残りを喉に流し込んで宗主は静かに立ち上がった。「うん。きみの心情も分からなくはない、かな」
猜疑と安堵の入り混じった眼が宗主を見上げる。宗主が次の言葉を紡ぐより前に、肩の上のラダが「ぴゅあいあー」と鳴き声を上げた。
まるでそれは、少しでもセリを和ませようとしているかのようで。
「……その白い動物、バッキーっていうんでしたよね」
そして――セリはかすかに微笑を漏らしたのだ。「変な鳴き声。でも可愛い」
(ああ……良かった)
ほんの少しだけど、ようやく笑ってくれた。
「行こう」
だから宗主も心からの笑みを返し、ふわりと彼女の腕を取った。「寒いから、少し中に入ろう。これから夕方になるし、気温も下がる一方だよ」
「でも……」
「彼は来るには少し時間がかかるんじゃないかな。ここ、街中からは離れてるし。一通り見物しながら待つだけの余裕はあると思うけど」
ね? と緩やかに首をかしげて微笑みかけると、セリはほんの少し躊躇った後で小さく肯いた。
どうやら困っているらしいことは分かったが、セリにも将吾にも親近感は持てなかった。きっかけや環境がどうであれ幸せになれればそれでいいとは思う。だが、現実問題としては難しいと感じることも確かだ。
簪は以前も世話になった対策課の資料室で『ガラス越しの魚』を探し出し、冒頭から終わりまで鑑賞した。二人が会うことが本当に幸せなのかどうか、まずは二人の軌跡をえがいた映画を最後まで見届けたかった。
(――まあ、映画のほうは良い終わり方ではない……といったところですね)
律儀にスタッフロールまで見届けた後で真っ先に抱いた感想がそれだった。慣れない手つきでテレビとデッキのスイッチを切る。
(もう少し意見があると良いのですが)
他の人間の見解も必要だろう。この映画に詳しい人間がいれば尚良い。できれば製作に関わった者の意見も耳に入れておきたいものだ。
(さて……幸いここは対策課ですし、『ガラス越しの魚』に詳しい人がいるかも知れませんねえ)
まるで聞き込みのようだと独りごちて、簪は浅い苦笑を漏らした。
例えばセリが心から笑顔を見せた時、二人で訪れたスポット、彼女が行きたがっていた場所。香玖耶は思いつく限りの可能性を将吾に挙げさせた。
例えばセリの好きそうな店、喫茶店、働きそうな場所。那智も思い当たる選択肢を挙げつらねて将吾に尋ねた。
「彼女はああいう性格ですから。あまり笑いませんでしたね。食べ物の好みですか? そうですね、パスタとスイーツが好きだということくらいしか」
「うーん……どうかしら。美味しいスイーツやパスタを出すお店なんていくつもあるし」
「その通りでしょうね。働きそうな場所も……さて。事務系の仕事をしているとしか聞いていないものですから。洋服やアクセサリもお気に入りのブランドなんかはないみたいですし」
将吾なりに真剣に考えてはいるのだろう。しかし思い当たらないのではどうしようもない。
(一応、探し物や探し人系の依頼なら得意なほうなんだが)
香玖耶と那智に挟まれ、交互に質問を受ける将吾を一歩離れて身守りながらセバスチャンは腕を組む。
過去視の力を使えば将吾が持つセリとの記憶を垣間見ることができるだろう。だが、見てはいけないものまで見てしまいそうで、躊躇いがあまりにも大きい。
(まるでかくれんぼだな。見つけてごらん、鬼さんこちら……ってか)
ああいやそれは鬼ごっこか、と独りごちて頭を掻く。(そういやぁ、かくれんぼは鬼に見つかったら駄目なんだよな)
だが、本当に鬼から逃れたいのならもっと他にやりようはあるはずだ。将吾に本名を知られていない以上、何一つ手がかりを残さずに姿をくらますことも容易だったはずである。
「おまえの感情はその程度なのか?」
嫌味ではなく、一向に手がかりを得られないことに苛立ちを覚えたわけでもなく、ただ純粋な疑問が那智にその台詞を言わしめた。
「本当に彼女を愛しているのなら、彼女の居そうな場所くらいは見当がつく筈だ」
「彼女のこと、何も知らないんです。何も教えてはもらえなかった。彼女がどこに住んでいてどんな仕事をしていて、どんな音楽を聴いて、どんな本やテレビが好きで、休日は何をして過ごすのか……俺は何も知らないんですよ。名前すら教えてもらえなかったくらいですから」
「あなたはそれで平気なの? ううん……どうして平気でいられるの?」
愛していると言いながら、その相手の名すら知らず、知らないままに過ごせることを香玖耶は疑問に思う。
「言ったでしょう、聞いても教えてくれなかったと。嫌いな男には教えたくないっていうことなんじゃないですか」
(ああ――そうか)
諦めたように笑う将吾の横顔を見ながら苛立つ一方で、香玖耶は妙に冷静に、すとんと確信した。
大人ぶった訳知り顔で「仕方ない」と笑って、すべてをセリのせいにして。ただでさえ出会い系で知り合って、隠れて肌を重ねている間柄だ。その上、こんなふうにすぐに一歩引いて諦める将吾にセリが信頼を寄せるわけがないではないか。
「……あのね。名前って、ただの呼び名じゃないのよ」
「はい?」
「相手に名前を教える行為は信頼と絆を表すものなの」
真名で精霊と契約する香玖耶にとって名前は特別なものだ。精霊は自らの真名を与えることで術者に自らを使役させる。精霊は真名を術者に教えることで術者を受け入れ、術者は精霊の真名を知って初めて精霊を迎え入れることを許される。
「彼女が名前を教えてくれないのは……あなたを愛していないんじゃなくて、あなたに覚悟が見えないから全てを委ねられないんじゃない?」
名前という信頼を得るためには自らも覚悟が必要だ。相手を受け入れるためにはそれ相応の覚悟がいるのだと香玖耶は諭すように語りかける。
しかし、というよりはやはり、というべきであろう。香玖耶の切実で真摯な言葉を受けた将吾は、相変わらず諦観の笑みを浮かべて「そんな大袈裟な」とかぶりを振るだけだ。
「たかが名前でしょう。彼女は普通の人間です、精霊とやらの話とは次元が違う。人間の名前なんて些細なことです。事実、サイトを離れて会うまでは何の疑問も持たずにハンドルネームで……いわば偽名でやり取りしてた間柄ですよ、俺たちは」
香玖耶は軽く唇を噛んだ。
百聞は一見に如かずという。必要とあらば目の前で精霊を呼び出し、真名で使役してみせるつもりだった。相手の名を得ることの意味を理屈云々ではなく感覚に訴えて伝えようと考えていた。だが、冷めた笑顔の前と投げやりな言葉の前ではそんな気勢すらも殺がれてしまう。
(どうして)
握った拳がかすかに震えた。(どうしてこの人はこんな言い方しかできないんだろう?)
出会い系だから。歳が離れているから。戸籍に傷がついた身だから……。彼の言うことも分からぬではない。
だが、本当にセリを愛しているのならなりふり構わずぶつかってほしい。そうすることが今の彼女にはきっと必要だ。何故彼にはそれが分からないのだろう?
「たかが名前……些細なこと、か」
それまで黙っていたセバスチャンがぼそりと呟いた。「じゃあ、彼女がその“些細なこと”すら教えてくれないのはどうしてなんだろうな」
セバスチャンにしてみればふとした何気ない疑問だったのだろう。だが案外的を射た意見だったようで、将吾はうなだれるようにして視線を落とした。
「お願い。真剣に考えて」
香玖耶の能力を使えば比較的簡単にセリを見つけることができるだろう。例えば、精霊を街に放てば広域探査もたやすく行える。しかし香玖耶はそれをするつもりはなかったし、探索先を将吾に提案する気もなかった。きっと将吾がセリを探し出すことができなければ意味がない。だから将吾自身がセリの居場所に思い当るよう導きたい。
それでも焦りはある。時刻は既に午後三時半近い。もしセリがどこかの施設にいる場合、閉館時刻や閉園時刻というものがあるからだ。その時間を過ぎてしまえば探すことは難しくなるかも知れない。
遊園地か水族館なのではないかと香玖耶はひそかに考えている。遊園地ならば夜間もライトアップして営業しているだろうが、水族館は午後五時か六時には閉まってしまうものではなかったか。
「いつも飯食って、その後……あー、その、なんつーか。いわゆる“夜の営み”ってやつをしてたわけだろ」
艶っぽい単語に年甲斐もなくどもりながらセバスチャンが口を挟むと、将吾はやや力なく「ええ」と答えた。
「彼女はそれで満足してたのか? 女ってのは好きな男といろんな場所に行きたがるって聞いたことあるぞ」
「そうだな。私もそこは疑問だ。毎回ホテルに入るだけでは、女性からすれば体ばかり求められているように感じるだろう」
「聞き分けの良い子ですから。俺の事情を分かってくれてましたし」
「それで何とも思わなかったの?」
香玖耶はもどかしそうに、じれったそうに柳眉を寄せて尋ねる。「たまにはどこかに連れて行ってあげたいと思ったり、どこか行きたい所はないかって彼女に聞いたりはしなかった?」
「ありますよ。どこか行きたい所はないかって。だけど彼女、無理しないでって言うだけで――」
言いかけて、将吾は「あ、いや」と自分で続きを遮った。
「……あります、一度だけ。ある場所に行ってみたいと言われました」
「で、実際に行ったのか?」
「ええ、少し時間が経ってからでしたけど」
でも、と将吾はそっと眉を寄せた。「彼女がそれを『思い出の場所』と思っているかどうかは……分かりません」
三人は一様に口をつぐんだ。
この男は臆病なのかも知れない。セリが自分と同等に自分のことを想ってくれているのかどうか、確信を持ちたくても持てずにいるのかも知れない……。
「……だけど……今のところ、あなたと彼女の共通の思い出として思い当たるのはそこだけなんでしょ?」
だったら行ってみるべきだという香玖耶の言葉に那智とセバスチャンも同意する。
「寒がってないといいんですが」
三人の意見に肯きつつ将吾はぽつりと独りごちた。「セリ、冷え性だから」
めっきり冬めいてきた空を見上げる横顔は、セリのことを心配しているようにしか見えなくて。
(やっぱり、気にかけてるんだよな)
恋愛経験の少ないセバスチャンにとっては女心など苦手分野でしかない。だが、将吾がセリを案じ、将吾に無理をするなと言ったセリもまた彼の立場を気遣っていたらしいことくらいは分かる。
それでもセリは将吾が嫌いだと口にしたという。
(やっぱりよく分からん。ただのへそ曲がりってわけでもないんだろうし)
何となく――香玖耶や那智の言動で、初めよりはセリの気持ちが分かったような気はしている。だが将吾の心情とて非難ばかりされるべき性質のものではないことも確かだ。
「知っていることもあるじゃないか」
将吾の脇に並びながら、那智が人差し指で眼鏡を押し上げる。
「そうよ。彼女のこと、何も知らないなんて言ってたけど」
香玖耶はようやく愁眉を解いて微笑みかけた。「ちゃんと知ってるじゃない。彼女が冷え性だって」
「ああ……それは。夏場でも指先を冷たくしてましたから、そう思っただけです」
「それでも、彼女に触れて彼女を気遣わなければ分からないことでしょ?」
基本はその気持ちよ、と香玖耶は晴れやかに笑った。
(そうなんだよな。気遣ってるから……大切だから苦労なんかさせたくないし、幸せになってほしいんだよな)
三人の会話に口を挟むことこそなかったものの、セバスチャンはほんの少しの間将吾の背中を見つめながら頭を掻いた。
大事に思っているからこそ不幸にしたくない。いずれ消える身である自分が唯一無二の恋人という形で彼女の人生に関わるべきではない。だからセバスチャンは「済まん」とだけ言った。
だが、セバスチャンの頬に平手打ちを喰らわせたあの少女とてムービースターがいずれ消失する運命にあることくらいは承知の上なのだ。いつか運命に引き裂かれるのだとしてもその時までは傍にいたいと――別れの悲しみを乗り越えられるだけの思い出と気持ちを重ねていけると彼女が信じていたことを、セバスチャンは知っていたのだろうか。
「ねえ。気になってたんだけど」
香玖耶が隣を歩く那智にそっと耳打ちする。「白衣のポケットでもぞもぞしてるの、何? さっきから時々動いてるように見えて」
「ああ……恐らくバッキーだろう。普段は殆ど姿も見ないが、よく私にくっついて来ているようだ」
「へえ、あなたムービーファンなのね。バッキーに名前付けてたりするの?」
「一応は」
「なんて名前?」
「……ランランだ」
「ランラン? へえ、ランラン」
このあるじからは想像もつかぬ可愛らしい名前に香玖耶はぷっと噴き出した。
「あ。ってことは、もしかしてカラーはブラック&ホワイト?」
「そうだが」
眼鏡の奥の目にわずかに怪訝の色が差す。「何故分かる?」
「だって、ランランっていったら――」
「断っておくが、パンダとは無関係だ」
那智はむすりとした横顔で香玖耶の言葉に声をかぶせた。
ランランの名の由来は那智のみぞ知る。
◇ ◇ ◇
「大丈夫なんですか? 人がたくさんいるのに」
「行きたいって言ってただろ」
「言いましたけど。でも」
誰かに見られたらまずいのではないかと彼女はしきりに気にしていて
ああ……皮肉屋のふりをしているけれど、やっぱり本当は優しい子なんだ
『セリのそういうところが好き』
嘘だと言われるのが怖くて、その言葉を口にすることはできなかったけれど
◇ ◇ ◇
『ガラス越しの魚』に詳しい映画ファンは対策課職員や来庁者の中にもいたが、それ以上に作品と関わりの深い人間に遭遇することができた。
即ち、映画に出演した俳優本人である。
「さあ。このまま自然消滅したほうがいいんじゃないでしょうか」
将吾の同僚役で映画に出演したというその男が述べた感想は、簪がそれまで得た意見とはやや毛色の違うものだった。
「受け入れるか受け入れないかは別としても、気持ちをちゃんと伝えるためにきちんと会ったほうがいい」。簪が聞き込んだ相手は概ねそう口を揃えていたからだ。
「そこそこ愛し合っていたことは事実でしょう、きっかけはどうあれね。だけどセリもそろそろいい歳です。いつまでも軽い恋愛をしていられるわけじゃありません。今後も将吾と関係を継続したとして……仮に二人の間柄が深まった結果、結婚だの何だのという話になった時にどうしますか?」
銀幕市内に滞在しており、ちょくちょく対策課に顔を出しているというその俳優はひどく現実的な意見を述べた。
「出会い系で知り合ったバツイチの36歳が未婚の愛娘を嫁にくれと頭を下げに来たら親はどう思うでしょうか。説得は簡単ではないと思いますよ。将吾のほうもさぞかし肩身の狭い思いをするでしょう。仮に説得したとしてもその後は親戚への説明が待っている。もちろん、本当に愛し合っているのならそういった煩雑さを厭わぬだけの気概は持ち合わせて然るべきでしょう……が、あの二人がそれだけの気持ちと覚悟を持ち得るかどうか、僕には分かりかねます」
「へぇ……そうですねえ。何だかんだ言っても、結婚というところまでいくと二人だけの問題ではありませんから。親や周囲など関係ない、気持ちさえあればどうにかなるなどというのは、子供かよほどの世間知らずの言うことです」
対する簪の意見もどこか冷めている。「相応の覚悟がなければ難しいでしょうね」
「セリが言っていました。出会い系で知り合った女を簡単にお持ち帰りするような軽薄野郎と、出会い系で知り合った男をあっさり受け入れる尻軽女だ……と」
俳優は静かに苦笑して肩をすくめてみせた。「そんな二人がくっついて幸せになれるのかとね」
へぇ、とだけ簪は相槌を打った。
冷たいようだが、それが現実だろう。恋愛至上主義がはびこるこの現代、人を愛することは何よりも素晴らしく優先されるべきことだなどという風潮があるが、愛や恋は夢で、我々が生きているのは現実だ。夢を語らう前に片をつけなくてはならない現実の問題は山ほどある。それに人の心は移ろいやすきものの代名詞。男女の情など所詮は水物、永久(とわ)の愛などまやかしにすぎぬ。
「もっとも、ここは映画の中ではありません。実体化しているのが二人だけならとりあえず周りの目は関係ない、好きに生きればいい理屈です。まあ……いったん筋書きを離れることができたとしてもいずれは映画の中に強制送還される運命にあるわけですがね。残酷なことじゃありませんか? いったん幸せを得たと思っても、結局は元の筋書きの中に連れ戻されて逃れることはできない。映画に出演する僕ら俳優としては複雑な思いですよ」
やけに饒舌な俳優はどこか自嘲めいた笑みを浮かべ、するすると言葉を紡ぎ出していく。
「セリの台詞で『誰でも良かったんでしょ』『所詮出会い系だから』というのがよくありましてね。遊び相手が欲しかっただけだろう、と」
「きっかけにこだわるくらいなら最初から関係など持たなければ良いでしょうに」
「セリがそんな意識を拭えなかったのは将吾のほうにも原因があるのかも知れませんよ」
「はあ。もう少し前向きに考えてみても良いのでは?」
意見を聴くばかりだった簪が初めて小さく異議を差し挟んだ。映画のラストでセリが見せた意味深な微笑はどこか悲しそうにも見えた。二人に対して親近感も共感も抱けぬ簪には彼女の真意など分からない。それでも、あの結末があの時の二人が心から望んだものではないらしいことは察しがついている。
しばしば、男は女心が分かっていないなどと言われる。ならば女は男の気持ちを分かっているのだろうか。映画の中の将吾は徹底して煮え切らない卑怯な男としてえがかれているが、想いを伝えることを彼に諦めさせたのはいったい誰なのだろう。
「ちなみに、セリさんの居場所にお心当たりはおありで? あちきは映画の中で二人が一度だけ手を繋いで訪れたあの場所なんじゃないかと思いますが」
「ええ、いわばあそこは二人の思い出の場所ですからね。行きたいのであればご案内しますが……」
「……いえ」
数瞬思案した後で簪はゆっくりとかぶりを振った。「他の方の意見などももう少し。映画の製作に関わった人の話を聞ければ一番良いのですが、どうしたものか」
「製作スタッフなら心当たりがあります。これでも俳優の端くれです、多少は業界に顔が利くんですよ」
俳優はいたずらっぽく微笑んで携帯電話を取り出した。
那智とて過去に幾度か異性と付き合ったことはある。きっかけはすべて女性側からの告白だった。嫌いではないし、人並に性的興味もあったから、彼女たちの告白を受け入れて交際した。
だが、那智は那智である。勉強や研究にまさるものなどないし、少なくとも恋人という異性は勉強を上回る存在にはなり得ない。従って、それが原因でことごとく相手の女性に別れを告げられ、破局した。
那智の恋人になった女は例外なく「あなたは女心が判っていない」と涙ながらに訴えた。その度に那智は「私に判るように見えるか?」と答えた。「やっぱり判ってない」とさめざめと泣き出す恋人に、決まって「だからいつもふられてきたんだ」と淡々と返すだけだった。
大学生の頃のことだ。当時付き合っていた彼女に話があるとファミレスに呼び出され、渋々研究室を抜け出して白衣を引っかけたまま会いに行った。
「なっちゃんは私のことなんか別に好きじゃないんでしょ!」
「まあ、あまり」
それ以前になっちゃんと呼ばれるのは大嫌いだ。相手を殴りたくなるほどの嫌悪感に襲われる。だが、那智とて女性に手を上げるような真似はしない。
そもそもそんな暇などなかったのだ。那智が行動を起こそうとする前に、彼女は運ばれて来たばかりのビーフシチューを渾身の力で那智の顔面に投げつけていたのだから。
激怒した彼女はそのまま店を飛び出した。一方、残された那智は平然と二人分の会計を済ませて帰宅した。このエピソードはのちに仲間内で『伝説』として語り継がれることになるのだが、当の那智が抱いた感想を強いて挙げるとするならば、「せめてクリームシチューのほうが良かった」ということくらいだった。コクのあるブラウンソースをたっぷりと吸い込んだ白衣は洗っても元には戻らず、泣く泣く捨てるしかなかったからだ。ホワイトソースであればそれほどシミも目立たなかったと思われる。
要は――そんな那智であるので女心などまったく判っていないし、恋愛感情というものも欠落しているといっていいほど希薄なのである。理解しようと努めたことはあるが徒労に終わった。那智にとっては出会い系という場所に足を踏み入れてまで異性との関係を求める将吾の気持ち自体が全くもって不可解だ。
未知を既知へと変える喜びは何物にも代え難く、人間の本能に根ざした欲求でもある。己に乏しい恋愛感情というものを客観的に知りたくて那智が将吾に協力したのは当然のことだったのかも知れない。
「出会い系に登録したのはなぜだ?」
バスに揺られ、目的地へと向かいながら那智はストレートに将吾に尋ねた。
「仕事と離婚のことでストレスが溜まっていたから、ですかね」
「では、ストレスのはけ口として異性との関係を求めたということか」
「まあ……動機はそうかも知れません」
何か言いたげな香玖耶の視線を気にしながら将吾は苦笑する。バスはそこそこの乗車率で、那智と将吾は並んで吊皮を掴んでいる。香玖耶とセバスチャンは少し離れた一人がけの席にそれぞれ座っていた。
「誰でもあるでしょう? 可愛い女の子と遊びたいな、なんて思うこと。合コンに参加するような気軽さとでもいいますか」
「気軽な遊びなのか?」
「……今は、違います」
だけど、と将吾は窓の外を流れる景色に目を投げた。「セリは……どうなんでしょうね。前の彼氏と別れて寂しかったからサイトに登録したと言っていました」
「ふむ。ならば彼女は、寂しさをおまえで埋め合わせていたのだろうか」
肯定も否定もせずに、将吾はただ窓の外を眺めている。
「俺はね」
だが、ややあってから、外に視線を投げたままぽつりと口を開いた。「それでも良いと思ってます。彼女が俺の傍に居てくれるなら理由は何でもいい。今はただ……もう一度あの笑顔が見たいんです」
「笑顔」
頭の中の記憶のページを素早く捲り、那智は人差し指で軽く眼鏡を押し上げた。「確か彼女はあまり笑わない女性だと聞いたが?」
「あそこに行った時は珍しく笑ってました。いつも澄ました顔してるくせに、子供みたいに無邪気に笑って……ああ、おかしいな。こんな大事なこと、どうして今まで思い出さなかったんだろう」
あんな笑顔をいつも見たいとあの時思ったのに。
苦笑とともにそう呟く将吾の隣で、那智は吊皮を掴んだまま黙考に沈む。
ただ傍に居てほしい。いつも笑顔を見ていたい。それは紛れもなく愛情の発露ではないのか。
「どうやらおまえも私と同じ人種のようだ」
「はい?」
「女心というものが全く判っていない。もしかすると、おまえに比べれば私のほうがマシかも知れないとまで思える」
「そう……ですかね」
「そうだろう。ただ傍に居てほしいとか、笑顔が見たいとか……そんな台詞は、私ではなく彼女本人に面と向かって言うべきだ。この私にもそれくらいのことは分かる」
しかつめらしく考察を述べる那智に将吾は目をぱちくりさせたが、すぐに淡く笑みを浮かべた。
「手、繋いだんですよ。ここに来た時」
深海のような色の闇の中、ヒールの音がゆっくりと響く。
「一度きりでしたけどね。それ以降は全然」
おおっぴらに手を繋ぐことすらできない関係だから、と呟くセリの半歩後ろに宗主が静かに続く。
平日の館内は静かだ。明かりを落とされた人工的な闇の中で、等間隔で壁に埋め込まれた水槽がぼんやりと光を放っている。小さな水槽が並ぶこの通路を抜ければ次はトンネル水槽が出迎えるはずだ。
「だけど、きみはそれを受け入れていたわけだよね。人目を忍んで体を重ねることしかできない不自由な関係を」
「仕方ありません。将吾さん、離婚したばかりですから。元奥さんとの間もトラブル続きだったみたいですし」
「そうやって彼の都合に合わせられるのも愛情ゆえなんじゃないのかな?」
半歩前を行くセリの足が止まり、宗主の肩が彼女の隣に並んだ。
「好き……なんでしょ?」
更に半歩前に出て、宗主はゆっくりとセリを振り返った。整った色白の面(おもて)には追及でも非難でもなく、ただただ穏やかな許容と共感の色だけが浮かんでいる。
「彼の立場を気遣えるのは、彼のことを大事に思っているからでしょ? どうでもいい遊び相手だっていうんならそんな気遣いはできないはずじゃないのかな。ううん……それ以前に、そんな制限のある相手なんかさっさと捨ててもっと自由で便利な男を探してたんじゃない? もし本当にきみが寂しさを埋めるためだけの相手を求めていたのなら、の話だけど」
セリは答えない。うつむいて、バッグを握り締めたまま立ち尽くすだけだ。
日の届かぬ海の底のような通路の先には、真っ青な空の青を映したような海の色が広がっている。暗闇とアクアブルーの光の境で銀色の髪が緩やかになびく。後ろ向きのまま数歩下がった宗主は絹糸のような微笑を浮かべ、セリを導くように手を差し伸べた。
「おいで。このトンネル水槽がここの売りなんだよ」
「え……」
「早く。そんな暗い所にいないで」
言った後で思い直したように「あ」と呟き、伸ばした手を持て余すかのようにうなじを掻いた。
「ごめん、野暮だったね。彼とだって一回しか手を繋いだことがないのに」
小さく詫びる宗主の前でセリはきょとんとしていたが、やがてくすりと噴き出した。
「いいんです」
そして遠慮がちにヒールの音を響かせ、前に出る。「……この先、あの人と手を繋げる機会がないと決まったわけじゃないし」
宗主の手は男性にしてはずいぶん白くてしなやかだが、女性であるセリの手はもっと華奢で、小さかった。
小さな手を壊してしまわぬように。ひんやりとした指先をガラス細工でも梱包するかのようにそっと包み込んで、彼女を光の下へと導く。セリは宗主に手を引かれ、深海の闇に別れを告げた。
青だ。
青の世界が広がっていた。
トンネル水槽など今時珍しい代物ではなかろう。それでも、この深い青には目を奪わずにはいられない。
体の左右を、頭上を、魚たちが悠然と泳いでいく。特徴的な白い腹を見せて頭上を這っていくのはエイの一種か。青い水の奥には海より青いスズメダイの姿。ふと手元に目をやれば、宝石のかけらのような魚たちが群れを作って軽やかに舞っている。
「ほら、見て」
「あ」
宗主に促されて頭上を仰いだセリは小さく声を上げた。
水槽に気泡がいっぱいに広がり、蛍光イエローのスーツに身を包んだマリンガールが姿を現した。餌付けショーが始まるらしい。
マリンガールが手にしているのはミンチ状の塊である。釣りの際に使うコマセのようなものだろうか。水槽の中が一気に華やかになる。鮮やかな原色の競演だ。鮮やかな蛍光の黄色はすぐに魚で埋め尽くされてしまった。魚たちの間から時々大量に漏れる気泡はまるで彼らにじゃれつかれたマリンガールが笑っているかのよう。
やがて給餌が終わると、マリンガールは蛍光色のフィンをゆったりと動かしながら二人の頭上を通り過ぎて行く。にこやかに手を振りながら泳ぎ去る彼女を、宗主は笑顔で手を振り返しながら見送った。
「タイミングが良かった。ずいぶん賑やかなショーだったね」
「ええ。……でも、静かでした」
静けさを取り戻した人工の海の前でセリは呟いた。
「間にガラスがあるからこっち側には何も伝わりません。いや、これだけ大きな水槽だとアクリルなのかな。どっちでもいいけど」
セリのすぐ目の前を赤い小魚の群れが通り過ぎて行った。白い手をひたりと水槽に当ててみるも、熱いのか冷たいのかもわからない感触があるだけだ。分厚いガラスは水温さえも伝えてはくれない。
こちら側とあちら側を隔てる仕切りは透き通っているのに、ひどく頑なだ。その向こうで華やかな体を惜しげもなく披露して舞い踊る魚たちの姿は、どこか他人事のように静謐で。
「ね? こんなに近くにいるのに、触れられないんですよね」
誰にともなく呟くセリの瞳は、ぼんやりとガラスの向こうを見つめたままで。
「姿は見えてるのに――」
彼女の目と鼻の先を仏頂面のアオブダイが無言で泳ぎ去って行く。「……絶対に届かない。何も分からない」
「まるできみたちのように?」
セリは弾かれたように宗主を振り返った。
宗主の形の良い唇はただ静かに言葉を紡ぐ。
「いくら好きだと言われても、信じるには勇気がいるよね。きみが言う『たかが出会い系』で知り合って、体から始まった関係なら尚更かも知れない」
冷えた指先を気遣うように包み込み、青く深い光の中で微笑む宗主はただ穏やかで、柔らかい。
「だけど、きみが相手を受け止めようとしなければ相手もぶつかってきてはくれないよ。嫌われてるなんて彼が言うようになったのは、もしかするときみが彼の言葉を否定し続けたからじゃないのかな?」
「あの人は、肝心なことは何も答えてくれないから」
きつく結んだセリの唇が苦しげに震え、掠れた声がこぼれた。「自分は年上だから、離婚経験のある身だからって……あたしを幸せにはできないだろうから、って。いつも一歩引いて。仕方ないから、って言うだけで」
「引いた相手をきみは一度でも追い掛けたの? 全部彼のせいにしてるけど、肝心のきみ自身の気持ちはどうなんだい?」
反論する術を見失ったセリの顔がくしゃくしゃに歪む。
「……怖かったから」
そして、頬の上をとうとう涙が転がり落ちて行った。
「追い掛けて、拒絶されたらと思うと怖かった。ストレスを紛らわせたくてサイトに登録したってあの人言ってました。だから手軽な遊び相手を求めてるだけなのかも知れないって……真剣な相手なんか望んでないんじゃないかってずっとずっと思ってた。だからあたしの気持ちなんか重荷になると思った。だから……」
「うん。お互い様だったんだよね」
握った手にもう片方の手をそっと添えて、小さな手をいたわるように両手で包み込む。
「遠慮したり気遣ったりで、相手と自分をガラスの中に閉じ込めてた。だからお互いに分からなかったし、伝わらなかった……。それだけなんだよ」
涙は止まらない。滑らかな頬を伝って顎から滴り、宗主の手の上でぱたぱたと跳ねる。
(今は思いっきり泣くといい。彼が迎えに来たらちゃんと笑えるように)
だけど――と内心で独りごち、腕時計に目を落とした宗主の面(おもて)がかすかに曇った。
(こういう所って、五時には閉まっちゃうんじゃなかったかな)
時計の針は既に夕方の四時半を超えている。
海風の強さと冷たさに顔をしかめつつ四人は進む。辺りは既に黄昏だ。猶予はそれほど残されていない。場所は海浜公園とセットで建設された水族館。海際に大きくせり出した敷地は広く、公園の入口から水族館の本館までたどり着くまでにも何分か歩かなければならない。
園内には水棲動物たちが暮らすプールが点在していた。夕焼け色のしぶきをまとったカマイルカが軽快にジャンプする。水辺の陸地にのったりと寝そべっているのはゴマフアザラシだろうか。岩山の上に仁王立ちになったフンボルトペンギンは小さな翼を夕日に向かって大きく広げ、体を乾かしていた。胸を張ってぷりぷりとしっぽを震わせる姿などはたいそう心が和むものだが、愛嬌のある動物たちを愛でる余裕は四人にはない。
敷地内に設えられた看板が閉館時刻が五時であることを伝えている。先頭を行く将吾の顔にやや焦りが浮かんだ。
「建物の中にいるのではないか」
眼鏡の奥の目を眇めた那智が公園内をぐるりと眺め回してみるが、彼女らしき人影は見当たらない。
「そうですね。この寒い中、外にはいないかも知れません」
「あんなに大きな建物の中に? あと10分と少ししか――」
その時、鳴り響く館内放送が香玖耶の声を無慈悲に掻き消した。
『本日は当水族館にお越しいただき、まことにありがとうございます。ご来館のお客様にお知らせいたします。今から10分後の午後五時をもちまして当水族館は閉館とさせていただきます。本日のご来館、まことにありがとうございました……』
「ここまで来たら俺たちが見つけてもいいんじゃないか?」
手分けして探そうとセバスチャンが提案する。香玖耶はかすかに眼を揺らした。とにもかくにも将吾はこの水族館に辿り着くことができたのだから、目的は達せられたともいえる。召喚師の能力を行使して探索するべきか。
そこへからころと転がる下駄の音。
「おやまあ。皆さん、お揃いで」
のんびりと姿を見せたのは笈を背負った簪だった。
「あなた! さっき、他に用があるからって……」
「ええ、対策課に行って将吾さんとセリさんの映画を観て来たんです。間にガラスがあるかのようにすれ違う男女と水族館が鍵になっているから『ガラス越しの魚』。まあ、種明かしをしてしまえば分かりやすい連想ですねえ」
あの後、簪はあの早川という俳優の紹介で映画製作者の話を聞くことができた。
この先関係を続けたとしても幸せなのかどうかは分からない。だがあの映画は、互いに気持ちを伝え合わぬままに繋がりが途切れることの切なさをテーマにしたものだったそうだ。
素直な想いを伝えずに後悔するのと伝えてから悔やむのと、どちらがましであるか。映画の意図がそんなところにあったという制作関係者の言葉を受け、簪は将吾を見つけ出して水族館に連れて行くべく市内を探し回った。将吾がセリに会うことはもちろん、セリのほうも将吾ときちんと向かい合う必要があるのではないかと感じた。
しかし歩き回って聞き込みをする術しか持たぬ身では将吾を探し出すことは難しい。閉館時刻も迫っているし、もしかして将吾は既に水族館に向かったのではないかと考えて一人で此処までやって来たのだが、見込みは当たっていたようだ。
せっかちな初冬の夕日はどんどん地平線へと溶け入っていく。空の茜色を海がきらきらと乱反射して、空気全体が静かな夕焼け色に染まっているかのようだ。
静謐な黄昏の中で、見覚えのある人影をまず見つけたのは那智であった。
(確か、あれは)
水族館の本館入口前に立って煙草をふかしている銀髪緑眼の華奢な男。吾妻宗主という名の彼は友人というほどではないにしろ那智の知り合いの一人である。セバスチャンも宗主の姿に気付いて「お」と声を上げた。
宗主のほうも気付いたらしく、携帯用の灰皿に煙草を押しつけて軽く手を振る。
彼の後ろから躊躇いがちに現れたのはセリであった。
◇ ◇ ◇
「手、繋いでいいですか?」
恐る恐る尋ねてみると、彼は答えるより早く手を握ってくれた
内側に握り込むようにして、ぎゅっと、やけに強く
待ってましたと言わんばかりの性急さが可笑しくて、躊躇っていた自分が馬鹿馬鹿しくなって……
カラフルな魚を見上げながら、くすくす笑い合った
◇ ◇ ◇
「……えーと」
セリを目の前にして立ち尽くす将吾の背中をちらりと見やり、セバスチャンはぼりぼりと頭を掻きむしった。
(俺が言えた柄じゃあないが……)
それでも、ありったけの勇気を振り絞って右手を持ち上げる。
「とりあえず、行って来たほうがいいと思うぞ」
どん、とセバスチャンに背中を叩かれ、将吾はややつんのめるようにして進み出た。
「ほら、ちゃんと迎えに来てくれた。寒空の下で待ってた甲斐があったね」
セリに言い聞かせるように、しかしその実将吾の耳にも届くように言って宗主は静かにセリの傍を離れる。セリは不安そうに宗主を見るが、宗主は「大丈夫」と唇を動かしてぱちんと片目を閉じてみせた。
香玖耶は無意識のうちに息を詰め、胸のロザリオを握り締めていた。
本心からセリを愛しているのならきちんと向き合ってほしいと切に願う。そうしなければ何も伝わらない。顔を見て、触れ合い、言葉が届く距離に居られることの幸いを――想いを伝えられずに迎える別れの悲痛さを、香玖耶は恐らく誰よりも知っている。
「……泣いたのか?」
将吾の第一声がそれだった。
確かにひどい有様だった。マスカラもアイラインも薄墨のように流れて、ファンデーションもところどころはげ落ち、瞼も腫れぼったく膨らんでいる。だが、その場に居る誰もがセリのその顔をみっともないとは思わなかった。
「……少し」
「少しじゃないだろ、その顔は」
将吾が一歩進み出る。セリはびくっと肩を震わせ、わずかに後ずさった。
だが――将吾はセリの両手をしっかりと握り締めて、彼女がそれ以上後退することを許さなかった。
「手、こんなに冷たくして……」
冷え切った指先を温めるように包み込む将吾の手は、大きくて、温かで。
「……つらかったよな。ずっと、ずっと」
ほんの短い言葉だったけれど、その場に居合わせた全員を安堵させるには充分すぎて。
そして――いちばん安心したのは、きっと他でもないセリで。
彼女をようやく見つけ出した将吾は、体温を感じ、息がかかるほどの距離で――ほんの少し残っていた迷いを振り切るようにして息を吸い込み、セリの身長に合わせて軽く膝を曲げた。
「色々考えた。俺なんかがって何度も躊躇った。……だけど、やっぱり、好きだ」
「うん」
嘘だとも嫌いだとも言わず、セリはただ肯く。
「だから、君にも俺を好きでいてほしい」
「うん」
将吾の言葉のひとつひとつを受け止めて、律儀に、丁寧に肯いていく。
「ずっと、ずっと……想ってました。何を見ても将吾さんを思い出した。一緒に入ったお店。将吾さんが着てたスーツの色。将吾さんの愛車と色違いの車、将吾さんが飲んでた紅茶の缶、それから、それから――」
次々とこぼれ出す気持ちはどうしようもなく震え、腫れぼったい瞼の下に再び涙が満ちる。
「ごめんなさい。素直になれなかったのはあたしのほう。何も分かってなかったのは……分かろうとしなかったのは、あたしのほう」
「謝らなくていい。それより、名前教えてくれないか?」
「……郁。前田、郁」
「郁か。そっちのほうが可愛い」
「うん……」
もう、それ以上言葉は続かなくて。
「彼が来たらちゃんと笑えるように、って思ったのに」
将吾の腕の中に泣き崩れる彼女の姿を見守りながら、宗主は好意的な苦笑をこぼした。「まあいいか。たまには彼の前で泣いてみせたほうが効果的かも知れないし。ね、セバンくん?」
「なっなななんでおお俺に振る!」
不意打ちを受けてどもりながら挙動不審になるセバスチャンの脇で、香玖耶はツンとした鼻の奥の痛みを懸命にこらえる。
(良かった。良かった……)
かくれんぼなどではなかった。きっと見つけてもらうことが目的だった。彼に捕まえて欲しいから彼女は逃げるふりをしてみせた。
素直にぶつかることも受け止めることもできなかったのは彼女も同じだったのだろうと今は思う。きっかけや相手の態度を言い訳にして自分の気持ちに蓋をしていたのは二人とも一緒だった。
「あー。そういやあ、あんた」
動悸息切れをこらえつつ、セバスチャンが簪に向き直った。「あの二人の映画を見たって言ってたな。結局、映画の結末はどうなるんだ? 将吾が『あの終わり方はあんまりだ』なんて言ってたんだが」
「へぇ……ある日突然、セリさんが将吾さんの前から消えるんです。メールアドレスも電話番号も変えて」
将吾は彼女の名前も家も職場も知らない。連絡手段を断たれればコンタクトを取ることはできなかった。半年後、もやもやを抱えたままの将吾の元に、どこでどう住所を調べたのかセリからの葉書が届いた。
「何の葉書だ?」
「セリさんがお役人と結婚するという葉書です。将吾さんとの連絡を絶ったすぐ後にお見合いパーティーとやらに参加して、そこで知り合った相手と結婚することになったそうで」
セバスチャンは「へえ」と小さく息を漏らした。
もちろん正式な招待状などではない。葉書には挙式の日取りと場所だけが簡潔に記されていた。迷った挙句、将吾は挙式当日に式場の教会へと赴く。やがて新郎と腕を組んで礼拝堂から出てきたセリが招待客の後ろで立ちすくむ将吾を見つけ、ライスシャワーの祝福の中で複雑な微笑を向ける――。スクリーンはそこで暗転し、物語は幕を閉じるのだ。
「よく、男性は女性の事を見ていないと言いますが……ならば、女性は男性を見ているものでしょうかね?」
緩く腕を組んで簪は呟いた。「案外、お互い見落としてしまった所があるのかもしれません。――あちきも含めて」
長期的に考えれば映画通りの結末を辿ったほうが彼女の幸せに繋がるのだろう。それでも、あの意味深な微笑が瞼の裏からどうしても消えない。
(もっとも……将吾さんとくっついたらくっついたで茨の道を歩むことになるのでしょうけれど)
互いの心を伝え合わぬままに関係が途切れるよりはましだったのかも知れないと、今はほんの少し素直にそう思える。
「見落としてしまった所が“あるのかも知れない”っていうよりは、あった……んだろうさ。多分、二人ともな」
俺の想像だけど、と慌てて付け加えるセバスチャンに簪は浅く微笑んだ。
閉館を告げるアナウンスが流れ、泣きじゃくっていたセリ――郁はようやく顔を上げる。それを見計らって那智が進み出た。
「ひとつ気になっていたのだが。電話が通じなかったのはなぜだ?」
「あ……壊したんです。携帯を」
郁は慌てて涙を拭って応じた。
「壊した? 本当か」
那智の眼鏡が夕焼けを反射し、きらりと赤く光る。
「ならば、その機体を私にくれないか」
「は……い?」
「データになど興味はない。携帯電話はレアメタルの宝庫だ、壊して捨てるなど勿体無いだろう」
「レアメタル、ですか」
「希少金属のことだ。携帯電話にはチタンやパラジウム、金などのレアメタルが含まれている。名前の通り数が少なく貴重なのだが世界的な需要の高まりと最大産出国の輸出規制によって価格が高騰して調達が難しくなっているのが現状だ。業界団体が協力して使用済み携帯電話のリサイクル活動を自主的に行っているが成果は芳しくない。現在の日本国内に存在する携帯電話の数を考えればおよそ3トンから4トンの――」
レアメタルやレアアースが枯渇しているこの昨今、使用済みの携帯電話がいかに貴重な資源であるかをせつせつと語る那智に郁は噴き出した。
「お話はよく判りました」
そして、ぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔で声を上げて笑った。「面白い方ですね」
ああ。
彼女は、こんなに無邪気に笑うのか。
黄昏に凪ぐ海と空の間で、何となく、誰もが、穏やかな安堵の色に満たされた。
◇ ◇ ◇
「次はイルカショー! その十五分後にアザラシのお食事タイム」
「アザラシはさっきも見ただろう……」
「何回でも見るんです」
「分かった、分かった」
「……飽きてるでしょ?」
「楽しいよ。楽しそうな笑顔が見られるから」
彼女は呆れたようにそっぽを向いたけど、しっかり繋いだ手だけは最後まで放そうとしなかった
俺がきつく握り締めていたせいもあったかも知れないけど
彼女は、くすぐったそうに笑っていたから。
(了)
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クリエイターコメント | 参加してくださったお客様、ここまでご覧くださったお客様、ありがとうございました。 珍しく早めにノベルをお届けいたします。
セリの居場所のヒントはOP中の「彼女との間に分厚いガラスがあるかのよう」「こんなに近くにいるのに触れることはできない」「人の多い場所」、そして映画のタイトル『ガラス越しの魚』。 これらを繋ぎ合わせて連想される場所、というわけで水族館です。 ちなみにNG要素は「PC様の力だけでちゃっちゃとセリを見つけ出す」でした。
NPCたちが偏屈な発言をしておりますが、こいつらはこんな偏った考え方をするのかまったくしょうがねえ連中だなと苦笑してくだされば幸いです。 それでは、ご参加・ご拝読、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2008-11-10(月) 19:30 |
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