★ 掻き毟りのソナタ ―花一輪の熱― ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-5623 オファー日2008-12-06(土) 20:33
オファーPC マリエ・ブレンステッド(cwca8431) ムービースター 女 4歳 生きている人形
ゲストPC1 ヴィクター・ドラクロア(cxnx6005) ムービースター 男 40歳 吸血鬼
ゲストPC2 ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ゲストPC3 ベルヴァルド(czse7128) ムービースター 男 59歳 紳士風の悪魔
ゲストPC4 エズヴァード・ブレンステッド(ctym4605) ムービースター 男 68歳 しがない老人(自称)
<ノベル>

 1.焦げ吸血鬼とマリエ

 くるくる、くるくる、くるくる。
 赤い日傘が回る。
 繊細なレースを、穏やかな陽光に遊ばせて。
 つい先ほどまでは分厚い雲に覆われていた空は、強い風が雲を吹き払ったのか、晩夏の、鮮やかに高い青を覗かせ、眩しく強い光を大地に注いでいる。
 マリエ・ブレンステッドは、その陽光の下を、祖父にもらった綺麗な日傘を指して歩いていた。
 ゴシック調の真紅のドレス、真紅の傘、緩いウェーブを描く艶やかな黒髪に、ルビーのような真紅の瞳、そして白磁のように滑らかな肌。
 すれ違う人々が、彼女を目にすると、思わず感嘆し、また頬を緩める。
 何せマリエは、神の手わざを持った人形師が、己が魂をすべて捧げて創り上げた最高傑作のように精緻で美しい、愛らしい少女だったので、人々の視線が集まるのも、致し方ないことだった。
 もっとも、彼女は、普通の人間の少女などではなく、事実、祖父によって創られた、『生きている人形』なのだが。
「ううん、とてもむずかしいもんだいだわ……」
 人々の視線にも気づかぬまま、歩きながらマリエは考え事をしていた。
 それは彼女にとって由々しき問題で、今一番解決すべき事柄でもあった。
「けいろうのひは、おとしよりに、おくりものをするひ……」
 マリエはそれほど表情豊かなわけではないが、この時の彼女は、明らかに悩んでいる顔、困っている顔をしていただろう。彼女の困り顔の愛らしさを目にしたら、きっと祖父は、目尻を下げて何を悩んでいるのですかと尋ねただろう。
「……なにがいいのかしら」
 しかしその悩みごとは、楽しい考え事の時間でもあった。
 敬老の日というものが、この世界にはあるのだという。
 あと数日で訪れるその日には、お年寄りに、何か素敵な贈り物をして、日頃の感謝を告げ、もっとずっと長生きをしてほしいと祈るのだそうだ。
「おじいさまは、なにがおすきかしら?」
 マリエを愛し、彼女の幸いと平穏のために日々心を砕いてくれる、大好きな祖父。
 マリエが、彼に何か贈り物をしたいと思ったのは当然の流れだった。
 しかし、実年齢はともかく、精神は見た目と同じ四五歳の幼女であるマリエには、祖父が喜ぶ贈り物がどんなものなのか見当もつかず、彼女は延々と悩んでいるのだった。
「……そうだわ」
 誰かに意見を聞くことを思い立ち、友人知人のいそうな辺りへ向かおうとしたマリエは、視線の先、小さな公園の隅っこに、奇妙なものを見つけてぱちぱちと瞬きをした。
 黒い影が、木の下で、ぐねぐねと動いている。
 と思ってみてみれば、影は長身の男だった。
「おじさん、どうしたの?」
 マリエが声をかけたのは、黒いマントに身を包んだひょろ長い男で、彼は、樹齢十数年程度の小さな木の下に――おそらくは、その木が作る木陰に――、面白いほどアクロバティックな体勢で自分の身体を押し込めようと奮闘していた。
 ――奮闘していたのだが、残念ながら彼の長身を木陰は受け止め切れておらず、男の身体のあちこちが、影からはみ出て陽光にさらされている。
 不思議なことに、日の光を浴びた彼の身体のあちこちが、ぷすぷすと煙を上げ、なんだか妙に香ばしい匂いを立ち昇らせていて、一体何の遊びだろうかと、マリエは首をかしげた。
「おじさん、どうしてこげているの?」
 問うと、男の赤い目が、情けない表情でマリエを見下ろした。
「私は平凡な吸血鬼なので、日光に当たると灰になって消えてしまうんです……」
 隠しきれなかった身体のあちこちが焦げているのは、そういう理由であるらしい。
 マリエはそうなの、と小さく頷き、赤い日傘を彼に差し出した。
「あら、たいへん。じゃあ、マリエのかさにいれてあげるわ。おじさんのおうちまで、おくってあげる」
 マリエの申し出に、男はしばらく瞬きをしていたが、ややあって苦笑し、
「じゃあ……お願いしようかな」
 そう言ったあと、ヴィクター・ドラクロアと名乗った。それから、マリエの差し出す傘に――正確には、傘の作る影に――、長身をねじ込み、縮こまらせる。
 とは言え、身長100cmに満たないマリエと、倍はありそうなヴィクターとでは差がありすぎ、おまけに日傘は小さ過ぎて、必死で身体を小さくするものの、やはり傘からはみ出てしまって、ヴィクターはあちこちを焦がしていた。
「……おじさん、だいじょうぶ?」
「え、ああ、大丈夫ですよ。身体の大半が無事なら何とでもなるからね」
「そう、ならよかったわ。ええと……こういうのを、なんというのだったかしら。――……そう、あたまかくしてしりかくさず、というのよ」
「はは、ま、まさしく……」
 苦笑するヴィクターが、なるべく傘の中に収まるよう気をつけながら、マリエはヴィクターの住まいまで急ぐ。――もちろん四五歳の幼女の歩幅は狭く、それほどの速度は期待できなかったが。
 ヴィクターがお世話になっているのは、ブラックウッドという人物の邸宅だという。
 マリエは興味津々で、歩きながら色々なことを尋ねた。
「おじさんといっしょにいるひとは、どんなひと?」
 ヴィクターはあちこち焦がしつつも穏やかに微笑み、マリエの他愛ない問いにも逐一丁寧に答えてくれる。
「一言で言うのは難しいんですが……素晴らしい人、だね。能力的にも、その人柄も、私の何倍……いや何十倍も出来た人で、とても尊敬しています」
「おじさん、そのひとのことがだいすきなのね。いつけっこんするの?」
「だ、大好き……そ、そう、大好き……ですね、敬愛していますし。屋敷に住まわせてもらっていることだし、全く頭が上がらないですね。……って結婚は、しませんよ。出来ません。私などよりもずっと大切な人がおられるようだし、ね」
「すきなのに、けっこんしないの?」
「ええとマリエさん……好きだからといって、必ず結婚するわけではないですよ……?」
「あら、そうなの? ……ああ、そうね、マリエもおじいさまのことをだいすきだけれど、おじいさまとけっこんするわけではないものね」
 なるほど、と、世界の真理でも発見したかのように頷くマリエに、ヴィクターが苦笑している。
「そうだわ、おじさん。おじさんはけいろうのひをしっている?」
「知っていますよ。九月十五日……だから、もうじきですね。先達に敬意と感謝を捧げる日、と認識していますが……それが何か?」
「あのね、マリエ、けいろうのひに、おじいさまにすてきなおくりものをしたいのよ。プレゼントはなにがいいかしら?」
 マリエがヴィクターを見上げると、彼はぱちぱちと瞬きをして、それからふっと優しく笑った。
「それは、とても素敵なことだね。きっとおじいさまは、さぞかしお喜びでしょう。マリエさんは、何を贈りたいと考えているのかな?」
「それがわからなくて、こまっているのよ。あまいおかしがいいかしら? それとも、すてきなおてがみ? それとも、きれいなおはなかしら? ねえおじさん、なにがいちばん、おじいさまをよろこばせられるとおもう?」
 マリエが、自分が素敵だと思う贈り物を挙げて首を傾げると、ヴィクターはそうだね、どれも素敵だね、と笑った。
「私はマリエさんのおじいさまを存じ上げないけれど、マリエさんが一番素敵だと思うものを差し上げればいいのではないかな」
「そう……そうかしら……」
 言ってマリエが首をかしげた時。
「いたぞっ、あそこだ!」
 妙に殺気立った濁声が響き、ばたばたという足音がした。
「……?」
 マリエが振り向くと、そこには、十数人の男女がいて、マリエとヴィクターを睨みつけ、指差している。
「血祭りにあげろ、粉微塵に砕け……!」
 男が叫んだ。
 途端、人々が、ナイフや包丁、鉄パイプやバットなどの、物騒な品を掲げ、こちらへ殺到する。
「なにかあったのかしら……?」
 マリエは特に怯えるでもなく、口汚く喚きながらこちらへ向かってくる人々を見ていたのだが、
「何だろう……この波動は……?」
 眉をひそめてヴィクターが言い、マリエに、日傘をしっかり差していてくれるよう頼んだあと、彼女を抱き上げたので、不思議そうに彼を見上げた。
「よくない気配がします。ここで応戦するのは、得策ではない」
 そう言って走り出したヴィクターに、彼が焦げぬよう日傘を傾けてやりながら、マリエは、追い縋る人々の周囲を、不可解な力が包んでいるような気がして、小さく首をかしげた。



 2.魔性の美壮年とマリエ

「それは、災難だったね」
 三十分後。
 マリエはヴィクターがお世話になっているという、ブラックウッドの邸宅で、午後のお茶をいただいていた。
 ストレートのダージリンは薫りが素晴らしく、ここのメイドさんが焼いたというふわふわのシフォンケーキに添えられた、ホイップされた濃厚な生クリームと、五種のベリーのコンフィチュールは、ケーキとの相性が抜群だった。
 マリエの肉体は、祖父に創られた人形だが、味覚もきちんとあり、彼女は甘いものが大好きだ。
「ブラックウッドさん、このケーキ、とってもおいしいわ。だれがつくったのかしら?」
「それかい? うちのメイドが、今日のお客のために丹精込めて作ったのだよ。……美味しいかい、マリエ君」
「ええ、とっても。あとで、メイドさんにおれいをいわなくちゃ。とってもおいしかったです、って」
「ああ……きっと、彼女も喜ぶよ。どうもありがとう」
 言って目を細めるブラックウッドは、灰色の髪と黄金の目をした、品よく整った美しい面立ちの壮年男性だった。マリエはものの価値については明るくないが、ぱっと見て好感の持てる上品なスーツで、細身だがか弱くは感じない身体を包んでいる。
 左手の中指に、太陽のような輝きの、金とも黄色ともつかぬ美しい石を抱く蛇の形状をした、神秘的で美しいアンティークの指輪をはめていて、マリエはそれを、ブラックウッドの瞳のようだ、と思った。
「……それで、ヴィクター君」
 ケーキに夢中なマリエを好もしげに見詰めたあと、ブラックウッドがヴィクターを見遣る。
 ヴィクターのすぐ近くでは、蝙蝠に似た、真っ黒な、小さな何かが、ぷぎゅぷぎゅと声を立てながら、ケーキをもりもり食していて、尋ねると、これはブラックウッドの使い魔だということだった。
 ヴィクターは何とか焦げた部分の再生が終わり、安堵の溜め息をつきながらお茶を飲んでいたが、ブラックウッドに声をかけられると居住まいを正した。
「はい、なんでしょう」
「先ほどの、暴徒たちのことだけれどもね」
「……ああ、はい」
「どんな様子だった?」
「あれは……本人の意志ではなかったように思います。目つきが、正気のものではありませんでしたし……彼らの頭の中で、何かよくない『音』が、蠢いているようなイメージでした」
「ふむ、『音』……か」
「『音』というより『声』かもしれません」
「なるほど」
「……何かご存知なのですか、ブラックウッドさん」
 ヴィクターの問いに、ブラックウッドは、かたちのよい指を、同じくかたちのよい頤に当てた。
「最近起きている、奇妙な事件と一致しているね、それは」
「奇妙な事件、ですか」
「ああ。何の変哲もない、平凡で善良な人々が、突如として暴徒と化し、建物を破壊したり、罪のない人々を襲ったりしているのだよ。彼らは警察や有志によって鎮圧されたあと、夢から醒めたような顔をして、一様に、『頭の中に聞こえて来る声に従っただけ』と答えているらしい」
 ブラックウッドの説明に、ヴィクターが難しい顔をした。
 残念ながら迫力は皆無だったが。
「やはり、操られて……?」
「と、考えるのが妥当だろうね」
「しかし、一体、誰が」
「――その問いには、私(わたくし)めがお答えいたしましょう」
 唐突に響いた、聞き覚えのある、慕わしい声に、マリエはケーキの入ったお皿からぱっと顔を上げた。そして、背後に、見慣れた姿を見い出し、笑顔になる。
「おじいさま!」
 マリエに呼ばれ、マリエをマリエとして創った好々爺――中身は傀儡師の名を持つ老獪な悪魔だ――、エズヴァード・ブレンステッドがにっこりと微笑む。
 彼の腕には、今にも動き出しそうなほどに精巧なアンティーク・ドールが抱えられていた。
「……エズヴァード君。少し、久しぶりだね」
 ブラックウッドが微笑む。
 エズヴァードは慇懃に一礼し、腕の中の人形をブラックウッドに差し出した。
「ええ、一月は間が開きましたでしょうか。――こちらは、ラプンツェル様に。ご無沙汰をしたお詫びも兼ねて」
「おや……それは、かたじけない。あの子もきっと喜ぶだろう」
 ブラックウッドは、黄金の目を細めて人形を受け取ったあと、それで、と続けた。
「一連の事件とは?」
 ブラックウッドが椅子を勧めると同時に金髪のメイドさんが現れて、エズヴァードがマリエの隣に腰を下ろすのを見計らい、テーブルにティーカップ&ソーサーを置く。
 慇懃に礼を言うエズヴァードに、メイド嬢ははにかんだ笑みを見せてお辞儀をし、退室した。
 エズヴァードは、お茶の香りと色合いを楽しんでから口を開く。
「まずは、暴徒化した人々の調査を致しました。『頭の中で声がした』と証言しておられる方々の共通点として、ある人物の講演会に行かれたことが浮かび上がっております」
「講演会……かね」
「ええ。講演会は何回か行われておりますが、内容は様々で、いわゆる普通の学術的なものであったり、政治問題についての問題提起であったりで、中身に問題があったようではございませんでした。しかし、それを聞いた方々は、一様に講演の内容に感激、あるいは心酔しておられるようです」
「……ほう」
「講演会を行われた方の背後を洗ってみましたが……いまひとつはっきりいたしません。しかし、不思議なこともございましてね。声の印象が強くて、どなたも、『どんな見た目だったか』を覚えておられないのです」
「ああ、なるほど……興味深いね、それは」
「ええ、興味深うございますね。……そして、講演会に行かれた方々は、その声を聞かずにはいられなくなり、何度も通い続けた末に、一連の事件を起こしておられます。……恐らくは、声の主に支配されたのでございましょうね」
「ふむ。その口ぶりからして……正体の見当はついている、ということかな」
 ブラックウッドが言うと、エズヴァードは上品に微笑した。
「私とも、因縁のあるお方でございまして」
「……なるほど」
 祖父の言葉に、マリエはいんねんって何かしらなどと思っていたのだが、そこへ、唐突に声が響いたので、ぱちぱちと瞬きをして声の主を見遣った。
「『耳』の師団長エクサプロシス。――違いますか?」
 そこには、黒い丸サングラスに仕立てのよいダブルのスーツに身を包んだ、背の高い男性が佇んでいる。年のころは、祖父より十ほど年下に見える辺りだろうか。
「おや……ベルヴァルド君」
 ブラックウッドの声に、ベルヴァルドと呼ばれた男は、優雅な物腰で一礼してみせた。
「少々ご無沙汰をしておりましたね、ブラックウッド殿。息災でおられましたか?」
「もちろんだとも。ベルヴァルド君も、相変わらずのようだね?」
「ええ、日々を楽しく過ごさせていただいていますよ」
 言ったあと、ベルヴァルドがエズヴァードを、そしてマリエを見る。
「こちらに来ていることは知っていましたが……まさかこんなところで君に会うとは思いませんでしたよ、エズヴァード」
「私もでございますよ、ベルヴァルド様」
「彼女は……君の孫娘ですか。……なるほど、興味深い」
 黒い丸眼鏡の奥で、ベルヴァルドが目を細めたのが判った。
 ベルヴァルドがマリエに手を伸ばそうとすると、
「『耳』の師団長の目的は、ベルヴァルド様と私の抹殺、ですね?」
 その手をやんわりと、しかし断固とした態度で遮って、エズヴァードが言う。
 くっ、とベルヴァルドが笑った。
 そして、小さく頷く。
「あれの配下が、ずっと復活を画策していたようですからね。悪魔と言うのは執念深い生き物です、復活してまず第一にやることといえば、自分を殺した相手への復讐でしょう」
「やはり、そうでございましたか……まったく、厄介な」
「ええ、まったく身のほど知らずなことです」
 と、エズヴァードがやれやれとばかりに溜め息をつき、ベルヴァルドが飄々と肩を竦めた時だった。
 ざわざわと、唐突に周囲が騒がしくなった。
 マリエが声のした方向を見遣ると、
「困ります、今はお客様が……きゃあっ」
 手に手に物騒なものを持った人々が、一生懸命彼らを押し留めようとする金髪のメイド嬢を突き飛ばし、ずんずんとこちらへ向かってくる。
 彼らの目つきが尋常ではないことを見て取って、マリエが祖父を見上げると、エズヴァードは小さく頷いて前へ出ようとした。
 しかし、
「待ちたまえ、エズヴァード君。彼らは『頭の中に聴こえる声』に操られているだけなのだろう? ならば、少し、考えがあるのだよ」
 妖艶に微笑んだブラックウッドが立ち上がり、メイド嬢に避難しておくよう指示してから、殺気立った視線をぶつけてくる人々に向かい、口を開く。
 その手には、いつの間にか、『声に出して読みたい古典文学』と書かれた本がある。タイトルは『徒然草』。
「要するに……彼らの頭の中で響いている『声』を掻き消してしまえればよいということなのだろう?」
 悪戯っぽい微笑とともに、ブラックウッドの視線が、『徒然草』の文字を追う。
 暴徒たち、恐らく祖父とベルヴァルドを抹殺するために――無論、それほど簡単なことではないだろうが――送り込まれた人々は、自分たちの前に何を恐れるでもない風情で立つブラックウッドの姿に、ざわざわとざわめき、様子を伺っている。
 ブラックウッドという人物がただものではないと、操られていてもなお、理解出来るのかもしれない。
「――徒然なるままに」
 最初の一文が声に出されると、脳裏に浮かぶのは草の庵だ。
 日暮らし、硯に向かひて。
 頭の中で、質素な庵に独り座す法師の姿はいつの間にか読み手に置き換わっている。
 世の中のよしなしごとを、そこはかとなく。
 筆を持った手が優美なまでにさらさらと文字を紡ぎ出し、墨染めの袖が手の動きに応じて衣擦れの音をたてる。
 ……書き尽くれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ。
 序段を書き終わった筆が置かれ、法師はもの憂げに窓外へ目を遣る。都のはずれで四季とこの世の移ろいを見続けるその目、すりたての墨の香りを纏ったその姿は、誰の目を意識したわけでもないのにひどく艶やかで……
「――……あ、あれ?」
 のちに、聞くだけで妊娠できる『徒然草』だった、と黒木家使用人の皆さんが証言する、ブラックウッドの美声が、滔々朗々と響くこと数分。
「俺は一体何を……?」
 ふと気づけば、無理やり暴徒に仕立て上げられていた人々は、きょとんとした表情で、周囲を見回していた。
 それは、ブラックウッドの美声が、頭の中に碌でもないことを命じる『声』に打ち勝った瞬間だった。
 自分たちがいつの間にか見知らぬ邸宅へ入り込んでいたことに困惑する人々へ――覚えがあろうとなかろうと、人様の家に無断で侵入しているうえ、手には武器まで持っているのだ、通報されたら何ひとつとして言い訳出来ない――、ブラックウッドはまた、悪戯っぽい、魅力的な笑みを向ける。
「君たちは、私の朗読会に来てくれただけだ、そうだろう?」
 ザ・大人の魅力。
 狐につままれたような表情で、人々が帰って行くのを、ブラックウッドは慈愛の眼差しで見送っていた。
「ブラックウッドさんは、やさしいのね。とてもすてきだわ」
「おや……マリエ君にそう言われると、照れるね。……エズヴァード君、素敵なお孫さんじゃないか」
 くすりと笑ったブラックウッドが言うと、エズヴァードは目を細めて頷いた。
「ええ……これが私の元へ来て六百四年、一日たりと退屈をしたことはございません。この子は私の宝物なのでございますよ。得難い花を一輪、手にしたようなものなのでございます」
「えっ」
 そこで唐突に上がった素っ頓狂な声はヴィクターのものだ。
「ろ、ろっぴゃくよねん……マリエさんが? ……つまり、六百四歳?」
「ええ」
「と、年上、だったんですか。……そうですか……」
 アンニュイな眼差しでふっと息を吐くヴィクター。
 どうやら、マリエの年齢に衝撃を受けているらしい。
 その仕草が面白くて、マリエがくすくす笑った時だった。

『……何も知らぬまま命を落としておけば、恐怖を味わわずに済んだものを』
『仕方があるまい、エウテイア。虫けら同然の命にも、失うことへの恐怖はあろう。――ならば我らは己が責務を果たすのみ』
『そうだな、カンプテール。偉大なるエクソプロシスのおんために』

 声は庭から響いた。
 マリエがそちらを見遣ると、そこには、長く尖った耳を持つ、悪魔と表現するしかない姿かたちの男がふたり、瞳孔が縦に切れた目でエズヴァードとベルヴァルドを睨み据えながら、佇んでいた。
 エウテイアと呼ばれた悪魔は、額から突き出た三本角に、蜥蜴のような尻尾を、カンプテールと呼ばれた悪魔は、両こめかみから突き出た水牛のような角に、鱗に覆われた腕を持っていた。
「エクソプロシスの懐刀が出てきましたか……」
 ベルヴァルドが小さく呟く。
 そこに隠し切れない喜悦と、食欲めいたものを感じ取り、マリエは首を傾げたが、彼が敵ではない――少なくとも、今は――ことは判るので、彼女は、椅子に立て掛けてあったパラソルを取り、庭に向かって一歩進み出た。
「……マリエ」
 エズヴァードが小さく名を呼ぶのが聴こえたが、マリエは振り返らないまま首を横に振る。
「おじいさまがいつもマリエをまもってくださっていることをしっているわ。マリエも、すこしくらい、おじいさまをおまもりしたいのよ」
 ましてや、彼らの狙いが、大好きな祖父であると言うのならば。
 マリエの言葉に、祖父が苦笑する呼気が伝わってくる。
 しかし彼は、それ以上何も言わなかった。
 マリエを認めてくれてもいるのだと、そう思ったら、幸せな気持ちになった。だからこそ、尚更、負けられないとも。
「お手伝いします、マリエさん」
 隣にヴィクターが並び立つ。
 見上げると、凜として知的な眼差しと目が合った。
「おじさんって」
「はい、なんですか?」
「そんな、かっこいいおかおも、できるのね」
「え、いや、あの……そ、それは喜んでいいこと、なのかな……?」
 ニュアンスが微妙だったからかヴィクターが首を捻る。
 それにくすり、と笑って、ブラックウッドが庭へ続く大きなガラス戸を開け放った。
「無粋とはいえ、君たちがともに楽しい時を過ごそうという客人であるならば、我が邸宅へ招き入れることはやぶさかでない、が……」
 その隣に、薄い笑みを浮かべたベルヴァルドが歩み寄った。
 ブラックウッドの唇を、魔物としての冷酷な笑みがかすめる。
「向かい合って茶を楽しめぬ輩を、客と呼ぶわけには、行かないね」
 あくまでも優雅に、悠々と――ゆったりとした動作でブラックウッドが庭へ降り立つと、二体の悪魔が身構えた。
 エウテイアが酷薄に嗤う。
『好きに吼えているがいい。貴様らすべて、じきに、かのお方の足元に跪くことになるのだから』
「おや……それはなかなかに貴重な体験になりそうだね」
 くすり、というブラックウッドの笑い。
 多分に余裕の含まれたそれに、悪魔たちがざわりと殺気立つ。
 ――それが、戦いの始めを告げる、合図だった。



 3.悪魔とマリエ

 マリエには、祖父が、魔力の糸を使って、黒木邸が戦闘の被害を受けぬよう、結界を張ったのが判った。彼の結界は強靭なので、多少荒っぽい戦い方をしても、問題はないだろう。
『貴様のような小娘に何が出来ると言うのだ?』
 エウテイアと向き合ったマリエに、悪魔が嘲りの眼差しを向ける。
「マリエはおじいさまをおまもりするの。そのためのちからを、おじいさまからいただいているわ」
 マリエは微笑み、『それ』を強く意識した。
 途端、
「うわあ……」
 上がるのは、ヴィクターの感嘆の声。
『……何と』
 エウテイアも驚きを隠せないようだった。
 何故ならそこには、年の頃で言えば十代後半から二十代前半の、娘盛りの姿を取ったマリエが佇んでいたからだ。
 祖父より与えられた力を全開にすることで現れる、マリエの戦闘形態。
 長時間それを発露することは出来ないが、長引かせるつもりもマリエにはなかった。
 パラソルの持ち手から仕込みレイピアを引き抜きながら、マリエは艶然と微笑み、
「……参ります」
 静かな言葉とともに黒木邸の庭の土を蹴る。
 その背後では、ヴィクターが、木の枝を使って地面に何か円陣を描いていた。同時に、呪文の詠唱が聞こえて来る。
 (大変申し訳ないけれども)ヘタレの代名詞のようだと思っていたヴィクターとは別人のように朗々とした声が、高らかに術式の発動を唱えるのと、鋭く長い爪でマリエのレイピアと組み合っていたエウテイアに、光の色をした不可触の茨が襲い掛かったのとは、ほぼ同時だった。
「――……咲き乱れよ、“ロサ・エルガストゥルム”」
 やはり別人のように静かで理知的な、ヴィクターの声。
『小癪な、真似を……!』
 ぎしりと奥歯を噛み鳴らしたエウテイアは、金の茨に全身を裂かれながら、しかし余裕を失ってはいなかった。
『だが……浅い』
 エウテイアが言うと同時に、彼の全身からどうとも表現し難い、音とも振動とも取れぬ『何か』が放出され、マリエは盛大に弾き飛ばされる。
 同時に、不可触の茨もバラバラに引き裂かれ、消えた。
「……ッ!」
 頭が、身体が重くなり、マリエは膝をついた。
「ははあ、……超音波、ですね……」
 背後からヴィクターの声が聞こえて来る。
 『耳』の師団長に仕える悪魔が音に関する能力を持っているのは当然とも言え、マリエは、ヴィクターと目配せを交わし、頷きあう。と、ヴィクターが、するり、と大きな蝙蝠に姿を変えた。
 エウテイアの全身から、意識を、身体を重くする振動が――そう、『音』とは即ち、空気が震えることに他ならないのだ――放たれているのが感覚的に判る。
 恐らくあれは、エウテイアを守る鎧の役割も果たしているのだ。
 しかし、
「なら、低周波には、低周波を」
 超音波に超音波をぶつけることで、それは容易く相殺されてしまう。
 吸血鬼が蝙蝠に変化できること、蝙蝠が超音波を操れることは、漠然とした知識としてあっただけだったが、先ほどのヴィクターの首肯から鑑みて、間違いではなかったらしく、
「……では」
 蝙蝠化したヴィクターの全身から『何か』が放たれると同時に、エウテイアの周囲を覆っていた同じ波長の『何か』はあっさりと掻き消され、それとともに、頭や身体に重苦しく圧し掛かっていたものも、消えた。
『む』
 低く唸ったエウテイアが、もう一度超音波を発生させたが、それも、ヴィクターによって無効化されてしまう。
「ありがとう、ヴィクターさん」
 マリエは艶然と微笑み、レイピアを構えた。
 そして軽やかに地面を蹴り、エウテイアへと向かう。
『……小癪な奴らめ……!』
 最大の武器を無力化されてか、エウテイアが歯噛みしながら身構えた。
 マリエは冷徹な眼差しで彼を見つめ、レイピアを揮う。
 鋭く、速く、舞うように。
 エウテイアが繰り出す、ナイフのような十本の爪を優雅に回避しながら、マリエは的確に、容赦なく、刃を彼の身体へ埋めていく。
 一歩踏み出し突き入れた先はエウテイアの脇腹。
『ぐっ』
 呻いた彼が揮った爪を軽やかに避け、下段からレイピアを跳ね上げる。
 祖父から与えられたこの刃は、不可視の存在をも斬る業物だ。
 フルで力を使える形態に変化していることもあって、レイピアは、右脇腹から左の鎖骨までを易々と斬り裂き、決して赤くはない血を、パッと飛び散らせた。
『ぐぐぐ、き、貴様……!』
「……おじいさまはわたしがお守りするの」
 怨嗟に満ちたエウテイアの言葉など聞こえぬ風情でマリエは微笑み、鋭く踏み込んで彼の間合いに入り込むと同時にレイピアを横に払った。
 がつり、という硬い手応え。
 それは、狙い過たずエウテイアの首筋を捕らえ、得物がレイピアだとは思えぬ見事さで、その首を斬り飛ばし、高々と跳ね飛ばした。
『……ッ!!』
 悪魔の首が、驚愕の表情を浮かべる。
『わ……』
 どさり、と地面に落ちたあとも、首はまだ『生きて』いた。
 ぐらぐら揺れた首から下の身体が、ゆっくりと倒れていく。
『我らごとき、を、斃した程度で……いい気には、ならぬ、ことだ……』
 硬く強張った舌が、嘲笑を紡ぐ。
『あの方、は……我らが、師団長閣下、は、我々の何百倍、も……恐ろし、』
「そうでなくては面白くありません」
 ぱき、めきょ、という不吉な音は、いつの間にカンプテールとの戦いを終えていたのか、どこまでも酷薄な、余裕の笑みを湛えたベルヴァルドが、エウテイアの頭を踏み潰したものだ。
「……大して歯応えもありませんでしたね。懐刀などと呼ばれてはいても、やはり、雑魚は雑魚」
 足の下で、エウテイアがプレミアフィルムに変わっているのを確認することもなくベルヴァルドが言う。
 彼の背後では、この場面においては不釣合いなほどに穏やかな笑みを浮かべたブラックウッドが、カンプテールが転じたものと思しきもうひとつのプレミアフィルムを拾い上げたところだった。
「超音波使いと言うのは、なかなかに面白かったけれど、ね」
 優美な唇を笑みがかすめる。
「周波数をひとつずつしか使えないようでは、まだまだ」
 マリエはそれを、疲労でぼんやりする思考の中で転がしたあと、ゆっくりと意識を手放した。
 ――彼女の身体は、大人の姿で最大の力を行使することに耐え切れないのだ。
 全開で力を使うと、意識が持たない。
「マリエさん、大丈夫ですか……!?」
 ヴィクターの、驚いたような、焦ったような声が聞こえた気がする。
 ぐらりと揺らいだマリエの身体を、支え、抱き上げたのは、祖父だった。
「おじい、さま」
 マリエは微笑み、彼の腕に、すべてを委ねる。
 おじいさま。
 マリエはおじいさまを、おまもりできたかしら?
 そう、声に出して問う前に、意識は、完全な闇の中に沈んだ。
 しかしそれは、決して不快なものではなく、むしろどこか、誇らしかった。

 * * * * *

 幼女の姿に戻ったマリエを抱き上げ、そっとその頬を撫でて、エズヴァードは微笑む。
「よくやりましたね……今はゆっくり休んでいなさい」
 昏倒した彼女を、優しくソファに横たえてから、エズヴァードが庭へ戻った瞬間、辺りは異空間と化した。
 覚えのある感覚に、エズヴァードは目を細める。
 どろどろと凝る、意識を掻き毟るかのように不快で、不安を喚起させもする、それでいてほんのわずかに懐かしさも感じるこの空間、この空気は、魔界のそれに相違なかった。
「……ようやくお出ましですか」
 ベルヴァルドが薄く笑み、呟く。

『力は及ばなかったようだが……褒めてつかわすぞ、エウテイア、カンプテール。ようやく……この大願を、果たすことが出来る……』

 印象的な、耳に、思考に残る――耐性のない人間の意識を容易く籠絡し、掻き毟る類いの――、美しい声が響いた。
 どろり、と闇が凝り、そこに一体の悪魔をかたちづくる。
「ほほう……彼が、『耳』の師団長閣下なのだね。確かに、耳に心地よい声をお持ちのようだ」
 くすりと笑うブラックウッドに、長く尖った耳と、額や頭から突き出る七本角、そして背に大きな竜翼を持つ壮年の男が、不吉な赤い目を向ける。
『貴様のその『声』……』
 赤い眼差しをチラとかすめたのは、紛れもない嫉妬だった。
『……妬ましいぞ。彼奴らを屠った後、貴様も喰らって、その声を我がものとしてくれよう』
 『耳』の師団長・エクサプロシスの言葉に、ブラックウッドが飄々と肩を竦める。
 いつの間にかブラックウッドの背後に移動していたヴィクターは、ちょっとしたビビリ状態でエクサプロシスを見ている。平凡な吸血鬼だという彼からすれば、高位悪魔などというものは信じられない存在なのかもしれない。
「御託は結構です、始めましょう。精々楽しませてくださいね?」
 殺意を……そして歓喜を充満させてベルヴァルドが言う。
 いつの間にか彼は、本性の一部を表し、額を始めとした身体のあちこちに、真紅の目を浮かび上がらせている。
 エクサプロシスが獰猛に嗤った。
『その言葉を……後悔しながら死ぬがいい……!』
 轟、と周囲の空気が音を立てる。
 空気が震えている。
 ――来る、と思った瞬間、凄まじい衝撃波が四人を襲った。
 とはいえそれは、エズヴァードが咄嗟に紡いだ『糸』の結界で、大半が散らされてしまったが。
「なるほど、なかなか手強そうだね」
「ええ、ですが、そうでなくては面白くないでしょう?」
 老獪な笑顔で淡々と言葉を交わし、ベルヴァルドとブラックウッドが動く。
 そこから一歩遅れてエズヴァードも動いていた。
 エクサプロシスが、猛々しい、憎悪のこもった眼差しで三人を見据え、両腕を開いた。
 ベルヴァルドが両腕に発生させた魔力の刃、ブラックウッドの長く鋭い鉤爪、エズヴァードの見えざる恐るべき『糸』。
 一斉に襲い掛かったそれらは、エクサプロシスの周囲を取り巻く『何か』によって阻まれ、『耳』の師団長には届かない。
『貴様らが音とともに在る限り、私は貴様らを常に把握することが出来る……』
 音とは即ち、振動だ。
 実体のあるなしに関わらず、それが音を発生させる、即ち空気を振るわせる存在である限り、『耳』という感覚器官を司る悪魔の長であるエクサプロシスにとって、相手取ることは容易いのだ。
 そして、彼の周囲には、エウテイアやカンプテールと同じ種類の、しかし規模や濃度は何十倍にも及ぶ、『音』の防護膜が張り巡らされている。
 特にめげるでもないベルヴァルドが――むしろ楽しげだ――、魔力の刃を発生させ、それを投げナイフの要領でエクサプロシスにぶつけても、ブラックウッドが、魔力を込めた拳で、細身に似合わぬ怪力で持って打擲しても、『糸』を波状に織り上げたエズヴァードが、まさに怒涛の勢いでそれをぶつけても、それらは、エクサプロシスの周囲をほんの少し揺らがせるだけで、なかなかダメージを与えるには至っていない。
 同時に、エクサプロシスの攻撃は激しかった。
 ソニックブームに似た、音による空気の超振動を操って、次々と三人を――否、逃げているもしくは無効化しているだけのヴィクターを加えれば四人だ――打ち据えて行く。
 最初に吹っ飛ばされたのはベルヴァルドで、次がブラックウッドだった。
 無論、ふたりとも危なげなく着地して、特にダメージは負っていないし、エズヴァードは済んでのところで『糸』を繰り、ガードしたお陰で、ダメージは受けていないが、なかなか決定打を与えられずにいる、その糸口も見い出せずにいるのも事実だ。
 蝙蝠化したままだったヴィクターは、音の攻撃を無効化しきれず、衝撃波によって撃ち落とされ、地面に墜落してぺしゃりと音を立てた挙げ句、ぼろぼろの姿で人型に戻り、どうやら強く打ったらしく腰を押さえて呻き声を上げている。
『力の差が判っただろう? 私と、我が同胞と、そして魔王陛下を害した罪、陥れた罪を、死を持って償うがいい』
 手に、おどろおどろしい形状の剣を持ち、エクサプロシスが朗々と告げる。
「あれは……確か、“贄の剣”……?」
 見覚えのあるそれに小さく呟く。
『そうとも。私は……否、我らは、最善の努力で持って、偉大なる魔王陛下に目覚めていただかなくてはならぬ。そのためには、強きものの魂と、絶大なるエネルギーが必要だ』
 エクサプロシスのそれは、エズヴァードへの答えというよりも確認の様相を呈していた。
『私は貴様らに復讐が出来、そのうえ魔王陛下に目覚めていただける。人間どもはこれを、一石二鳥……と呼ぶのだったか』
 くくく、と声を漏らしてエクサプロシスが嗤う。
 同時に地を蹴ったエクサプロシスが、“贄の剣”を揮い、ベルヴァルドに斬りかかった。
『どうした、『目』の師団長よ? 動きに精彩を欠くようだが?』
 切っ先が鋭く翻るたびに、ベルヴァルドのあちこちに切り込みが入る。
 普段は超高速の再生能力を有するベルヴァルドだが、エネルギーを存在の根幹から奪う“贄の剣”に傷つけられては、さすがに再生が間に合わず、傷口からは黒い靄のようなものが零れている。
 しかしベルヴァルドは、常日頃からの、余裕の表情を崩していなかった。
「何、君が健闘できるように、ハンデを与えて差し上げているのですよ」
『まったく……貴様のその減らず口は、どこにいても変わらぬようだな……!』
「お褒めに預かり光栄ですよ、『耳』の師団長閣下」
 あくまでマイペースな、あくまで悠々としたベルヴァルドの物言い。
 エズヴァードは、正直なところ、自分の能力を利用することばかり考えている悪魔たちの『熱烈なアプローチ』も、我が身の平穏のために利用したベルヴァルドに何故か気に入られてしまったことも、いい迷惑だと思っているだけだが、ベルヴァルドのああいう態度はさすがだとも思う。
 とはいえ、エクサプロシスが『音』の防護膜をまとっている限り、彼らが不利で、決定打に欠けることは確かな事実なのだが。
『さあ……茶番は終いだ。偉大なる魔王陛下のおんために、その命、差し出すがいい……!』
 余裕の表情で、傲然と言ったエクサプロシスが、“贄の剣”を構え直した、その時だった。
「み、耳とは、音を知覚するための器官……そ、そうだ」
 先ほどまでへたり込んでいたヴィクターが、懐に手を入れながら声を上げた。
「音速を超えて動くことが出来れば、或いは……?」
 ヴィクターの言葉に、ブラックウッドが小さく頷く。
「なるほど、秒速340m以上で向かって来るものには、『音』を捕える『耳』の特性上反応しきれない、というわけだね。……では、君の使い魔で……?」
「ええ、あれの、限定解除ならば、と思うのです、が……ッ」
 ヴィクターの声が裏返ったのは、懐から取り出した彼の使い魔――ヘタレの使い魔なので通称はへたいまであるらしい――が、鼻提灯すら膨らませて爆睡していたからだ。
「何故この騒ぎでも寝ていられますか……!」
 五つの目を閉じ、平和な表情で――としか表現出来ない――眠るへたいまをガクガクと揺さぶり、ヴィクターが呼ばわるものの、ケルベロスの血を引く(らしい)クリーチャーの幼獣は、目覚める様子もなかった。
『どんな猛者が現れるかと思えば……笑わせてくれる』
 鼻で嗤ったエクサプロシスが、ヴィクターとへたいま目がけて衝撃波を放つ。
 顔を引き攣らせたヴィクターが回避や無効化を行うより早く、
『ぷぎゅうっ(へたいまくんあぶないのです)!』
 ブラックウッドの使い魔が飛び出してきてひとりと一匹の前に立ちはだかり、身代わりに衝撃波を受けて吹っ飛んだ。
 ぷぎゅ、という悲鳴とともに地面にぽてりと墜落し、目を回す使い魔。
『……麗しい友情という奴か? 馬鹿馬鹿しい』
 そう、エクサプロシスが嘲笑った、その瞬間。
 ヴィクターの腕に抱えられていたへたいまの五つ目がカッと見開かれた。
 そして、それは見る間に姿を変え、爛々と輝く巨大な五つ目、裂けたような巨大な口と、ナイフめいてずらりと並んだ鋭い牙、その間から呼気とともに蒼い炎をちらちらと吐き出す巨大なクリーチャーとなって、空間を轟かせる咆哮を上げた。
 それが一歩踏み出すと、それだけで地面が震える。
 そんな錯覚すら覚える、勇壮で獰猛な『それ』が、牙を剥いてエクサプロシスに襲い掛かった。
 その速さは、『目』でも、『耳』でも捉え切れぬほど。
『な、何……ッ!?』
 正面から凄まじい勢いで激突されてエクサプロシスがよろめく。
 その拍子に、彼を包み込んでいた『音』の防護膜が揺らぎ、薄まったのを、エズヴァードは見逃さなかった。
 ――無論、ベルヴァルドも。
「エクサプロシス様の仰ることは判りますが……私めにとっては、己と、孫娘の平穏だけが、心に留めるべき事柄でございますので」
 エズヴァードの織り上げた『糸』の津波がエクサプロシスを打ち据え、吹き飛ばし、切り刻む。
「もう少し、楽しませてくださいよ?」
 ベルヴァルドが魔力で刃を生み出し、エクサプロシス目がけて解き放つ。
 流星のように飛んだそれが、『耳』の師団長の全身に突き刺さる。
『ぐ、がっ』
 さすがの高位悪魔も、たまらずに膝を折った。
 そこへ響く美声は、ブラックウッドのもの。
「我は胃に18の霊を宿す者にして、一劫を経てなおも光を希う者なり。神聖にして大いなるIAOの御名に於いて、我は諸力の根源へ彼の者を引き戻さん」
 彼の詠唱に、ヴィクターの描く円陣が重なり、光を放つ。
 その円陣が浮かび上がり、繊細なツタとなってエクサプロシスに絡みつくと同時に、彼の足元に、大きな穴が――驚くほど虚ろで、それでいてどこか神々しい穴だった――ぽっかりと開いた。
「おや……殺さずに強制退去、ですか? ……まぁ、楽しみが次回に持続する、ということですね」
 薄く笑みを浮かべてベルヴァルドが言う頃には、光るツタを引き千切ろうともがくエクサプロシスは、その穴に身体の半分以上を飲み込まれている。
 光るツタは繊細で美しかったが、エクサプロシスの全身を絡め取って決して解けず、彼は少しずつ、穴の中に引きずり込まれてゆくのだった。
 悔しさからか、ぎちぎちと歯を噛み鳴らし、エクサプロシスが怨嗟の声を上げる。
『忘れるな……貴様らを抹殺すべく、『皮膚』も『鼻』もその時を待っている……! 貴様らに、安寧の時など、許されぬのだと、知るがいい……!』
 彼が言い終わるとともに、首までが『穴』に沈んだ。
『偉大なる魔王陛下に栄光あれ……!』
 その言葉とともに口が『穴』に飲み込まれ、一気に額までが沈み、すぐにすべてが消えてなくなる。『穴』はエクサプロシスを飲み込むと同時に、元から何もなかったかのように掻き消えた。
「『皮膚』に『鼻』……ですか。……楽しみが増えましたね」
 ベルヴァルドがくつくつと笑う。
 周囲は、いつの間にか黒木邸の庭へと戻っていた。
 目を回したままの使い魔を拾い上げ、一同を見渡して、ブラックウッドが微笑んだ。
「ひとまず、お茶会のやり直しなど、いかがかな?」



 4.おじいさまとマリエ

 マリエが目を覚ますと、もうベルヴァルドはいなかった。
 何でも、従僕がカフェ『楽園』から限定タルトを仕入れてくる頃なので……ということらしかった。
 マリエはカフェ『楽園』を知らないが、甘いお菓子が大好きな身としては、そんなに美味しいお菓子が出る場所なら、一度訪れてみたい、などと思いもする。
「おじいさま」
 ソファに身を起こし、マリエが呼ばわると、エズヴァードは穏やかに笑って彼女のすぐ傍に膝をついた。
「よくやりましたね、マリエ」
 祖父に抱き上げられ、椅子に座らせてもらいながら、ほめてもらったことが嬉しくて、マリエは笑みを浮かべた。
「ほんとう? マリエはおじいさまをおまもりすることができたかしら?」
「ええ、マリエのお陰で、問題はすべて解決しましたよ、ありがとう」
「そう……よかった」
 金髪のメイドさんが、お茶と、ナッツがたくさん載ったクッキーとを運んで来てくれる。
 とはいえ、力を全開にして戦ったことと、そもそも普段から普通の人間たちよりも長時間の睡眠が必要なこともあって、眠気は今もマリエを包み込んでおり、彼女は小さく欠伸をして目を擦った。
「ああ……まだ眠いのですか、マリエ。……いいですよ、眠ってしまいなさい、私が見ていてあげますからね」
 再度マリエを抱き上げながらエズヴァードが言い、マリエはかすかに笑って頷く。
 眠くてふわふわとした思考の中で、敬老の日のことを思い出し、マリエは、エズヴァードにしがみつきながら、祖父を呼んだ。
「ねえ……おじいさま」
「どうしました?」
「あのね、マリエ……けいろうのひを、いっしょにおいわいしたいの」
「……ほう」
「おじいさまがいちばんよろこぶおくりものをしたいのだけれど……なにがいちばんなのか、わからなくて」
 言って、欠伸をもうひとつ。
 ふわふわとして、考えがまとまらない。
 実は、自分が何を言っているのかも、あやふやだ。
 敬老の日まで、贈り物のことは内緒にしておこうと思ったことも、この瞬間には忘れていた。
「おじいさまにとって、いちばんうれしいことは、なにかしら……?」
 それを、敬老の日に、贈りたい。
 そこまでを、寝言のような、吐息のような言葉で言ってから、マリエは、思考を……意識を放棄した。
 穏やかな、温かい、心地よい眠りの中へ、ゆっくりと身を委ねる。

 すぐに寝息を立て始めたマリエは、だから、知らなかった。
 眠る彼女の頬を撫で、慈しみの眼差しでマリエを見詰めたエズヴァードが、
「贈り物など……」
 緩やかな微苦笑とともにつぶやいたことを。
「その寝顔だけで、充分ですよ」
 ――大好きな祖父に守られて眠る、幸いの真っ只中にあるマリエは、祖父もまた満ち足りて幸いであることを、知らない。

クリエイターコメント大変お待たせいたしました!
たくさんの猶予をいただいておきながら、本当に申し訳ありません。

ともあれ、オファー、どうもありがとうございました。
普段あまり書かないタイプの物語でしたので、興味深く書かせていただきました。マリエさんを中心に、渋い年齢層の方々を絡めるという、年上好きにはたまらない舞台設定でもありました。

それぞれに、皆さんの魅力、素敵さを描けていればいいのですが。
とりあえず、エズヴァードさんにとってマリエさんは、目尻が下がっちゃうくらい可愛くて仕方ない存在なんだろうなぁと仄かに共感しながら書かせていただきました。

素敵なオファー、どうもありがとうございました!

細々と捏造させていただいた部分もあるので、もしも不都合な箇所などございましたら、お気軽にご連絡くださいませ。可能な範囲で訂正させていただきます。

それでは、どうもありがとうございました。
遅刻をお詫びしつつ、またどこかでご縁があるように祈る次第です。
公開日時2009-02-11(水) 20:20
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