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<ノベル>
ざわり。美術館の周囲に植えられた広葉樹がざわめいた。今日はいつもと様子が違う。暖かい午後の陽射しが木の葉を射抜いて、柔らかな篭れ日が溢れている樹々の姿は何処にも無い。仄暗い陰を纏い、物言わず美術館の周囲に佇んでいる。天気が良くない性だろうか……物々しい雰囲気に包まれていた。まるでそう、美術館に警戒の視線を投げ掛けているかのように。
白く白く曇った空が、来館する者達に不気味な胸騒ぎを与えた。最も……その違和感を肌で感じ取れた者は、ごく僅かに過ぎなかったが。
ぽつりぽつりと、美術館へ客が入っていく。それを眺めている視線がひとつ。
「可笑しな影も、幾つか」
宙に浮いている銀髪の若者や、老婆のような臙脂色のマントの女を見つけて、彼はうっすらと笑んだ。
さあ、白い世界の諸君よ。
魔滅の展覧会の始まりだ。
白を基調とした館内は、清潔で爽やかな内装が印象的だ。展示作品の良さを損ねないようシンプルで在りながら、かつ西洋の歴史的なデザインがそこかしこに盛り込まれていた。
〈Art cafe〉
美術館入り口、中央ロビーを通り過ぎて左通路の奥に、ガラス張りの拓けた空間がある。茶色のニス塗りの床上に広がるのは、幾つもの白いテーブルや椅子、食事風景だ。飲食スペース「アートカフェ」。珈琲やパスタの美味しそう匂いが漂ってくる。
会話や厨房からの雑多な騒音の中、マイペースに腹ごしらえをしている若者が居た。
黒い衣装の中に浮かび上がる色白の顔と、細い銀色の髪。反する二色を携える彼、神撫手早雪は、柔らかい表情のままもりもりとパスタを召し上がっていた。
カフェは本来軽食を主にする休憩所の筈だが…とにかくお構いなしに次々と皿を重ねていた。店員もやや冷や汗を掻きながら、注文通りに料理を運んでくる。
「うん、うん。美味しい」
生活能力に些か問題がある彼が、財布をきちんと持ち歩いているかどうかは、その穏やかすぎる表情からはさっぱり読み取れなかった。
カフェ内の壁の大部分はガラス張りで、美術館を出入りする客がよく見渡せるようになっていた。クリーム色の柱には、ランプの形をした電飾が幾つもくっ付いている。
「ふんふん」
辺りを見回しながら、意味が有るのか無いのか分からない相槌を打つ。
「……ん?」
と、早雪が唐突に、フォークを握ったまま背後に振り向いた。
誰かに呼び止められた訳ではない。彼の、常人ならざる感覚が違和感を訴えたのだ。ある意味それは、嗅覚に近い感覚だった。空腹を満たす物が近くにあるぞ、と言うむずがゆい神経の末端。
「……」
早雪の視線は、カフェの奥――壁がガラス張りではないスペースの一角に捉えられていた。そこに一枚の絵が飾られている。黒い額縁に納められた、夕陽の絵。
そして、絵を眺めている男。
早雪はパスタの皿を持ち上げると、もぐもぐと口を動かしながらふわりと宙に浮いた。周囲の客が視線を寄せる中、絵画を眺めている男の元へ移動する。
「ちょっと、変な感じ」
背後から声を掛けられたのだと気付いて、黒い巻き毛の男は振り返った。
「かなぁって…あ。こういう時、『こんにちは』って言えばいいんだよね?」
見ると、宙に浮いた少年がパスタを頬張りながら柔らかく笑んでいる。
唐突にやって来た少年に特に警戒する様子も見せず、男は軽く会釈し、静かに言葉を返した。
「変な感じ…か」
「とても美味しそうだったから、寄ってみたんだ。さっきまでは何とも無かったのに……今は何でか、ぐるぐるしてる感じ」
いまいち要領を得ない内容だったが、男は目を細めて「なるほど」と呟いた。
「これ、凄くぐるぐるしてる。さっきまでは大人しかったのになぁ…」
オリーブオイルまみれの口で言い、絵と男を交互に見た。
「さっきまでは。そうか」 男がそっと呟く。
紅く遠い夕陽の絵。絵の前で静かに佇む男の目は、海底のような深い青色だ。対照的な二色だがしかし、二つは酷く似通っていた。
その先に秘められた……遥か底知れぬ色。
「ああ…こんな時間だ」
ふと男が懐中時計を取り出し、時間を確認して懐へ戻す。早雪は彼を不思議そうに眺めていた。
「では、失礼する」
「ええと…『またね』でいいのかな」
男は小さく頷き、「また」と返して、去って行った。
〈Smoking room〉
ふわりと紫煙が揺れる。
「ああ。では、水彩なんかも?」
「ええ。オイルペイントがメインですが、多少は」
「なるほど」
吾妻宗主は小さく笑みを溢すと、灰皿の縁でトン、と軽く煙草の灰を落とした。
換気扇の音が聞こえ、煙草の匂いが染み付いている室内は、展示回廊の一角に設置された喫煙室だ。革製のソファと灰皿が幾つか並んでいる。喫煙室の窓は二ヶ所あり、一方からは展示回廊の白い壁が見え、もう一方からは美術館の外、空と広葉樹が覗いていた。
宗主は喫煙室のソファに腰掛け、白いバッキーを撫でながら、ガラス越しに展示回廊を眺めていた。回廊の壁面に向かって筆を奮っているのは、絵の具まみれの黒ツナギの男。そして、
「他方面に渡ってご活躍なさってるんですね。ファイシェイさんは」
宗主の背後で煙草をふかしているのは、黒いエプロンの男、ヒューだ。
「活躍と言うほどでは…」
苦笑が聞こえる。宗主は背後に視線を送った。こちらに背を向けた男は、煙草を片手にスケッチブックを広げている。
「…白で表現する派ですか、それとも陰で?」
「おや…貴方も、アートをお嗜みか」
ヒューは窓の外に視線を送ったままだ。時折スケッチブックに目を落とし、手元を動かす。
「ええ。美大に通ってるんです。俺なんてまだまだ未熟者ですけどね」
さらさらと鉛筆が走る音が聞こえる。その微かな摩擦音は、淀みなく。
「私は……如何に光を加減するかよりも、陰で塗り込む癖がある。貴方は?」
「両方です」
宗主がにこりと笑って答える。はは、と笑い声がした。
「面白い方だ……さて、暇潰しは終わりのようです。もう行かなくては」
ヒューが時計を見上げ、立ち上がった。宗主の脇を通過し、ドアの前に立つ。
「個展を開くのです。お暇が在りましたら、是非」
「ええ。そのうち」
ヒューの漆黒の瞳に対し、宗主が緑の目を細めて笑みを返した。ヒューが退室しようと扉を開くと、扉の向こうに黒ツナギの男が立っていた。
ヒューと男が擦れ違う。擦れ違い様に――ヒューが楽しげに男の背中に目をやったのを、宗主は見逃さなかった。
パタン。扉が完全に閉じた。
「………んだァ?」
「お疲れ様、ミケランジェロ」
後ろを振り返っていた男に宗主が声を掛けた。
「ん、ああ」
汚れた黒ツナギの男、ミケランジェロは、面倒そうに半端な挨拶を返し、ソファにどっかりと腰を落とす。
「あー、俺も一服」
ツナギのポケットや懐を探し始めるものの、煙草が出てこない。宗主は煙草ケースを取り出し、彼に渡した。
「凄いね……今日が描き始めなのに、もう描き終わりそうだ」
「別に凄くはねェよ」
ミケランジェロがだらしなくソファに身を預け、天井を仰いで煙草をふかした。
〈Display gallery〉
鮮やかな色彩だった。けれど主張が強い訳ではない、見る者の心を受け入れ、そして解き放つ色彩。
「……凄いな」
「ぴゆゆー」
宗主が改めて感嘆の声を漏らした。肩に乗ったバッキーも小踊りしている。
美術図書室や音楽ホールへ向かう為の回廊は、片側を除いて圧迫感の少ない白の壁色で統一されている。片側の壁面は今現在、柵で囲われており、『作業中』の看板が提げられていた。辺りにペンキのつんとした匂いが漂う。
最後の一筆が加えられ、ミケランジェロはようやく顔を上げた。
「…終わったぞー」
「お疲れ様でしたー!」
端で待機していた美術館スタッフが、てきぱきと道具の片付けに入る。
「今度こそお疲れ様」
宗主が声を掛けた。ミケランジェロは脚立から降りながら、相変わらず「んー」と中途半端な相槌を打つ。
回廊の壁面に描かれた世界は、鮮やかな地平線の絵だった。表情豊かな海を越えた先に臨む、崖の街。土壁の四角い建物が並び、白い灯台が海原を見渡していた。灰色の雲を押し退けて光が射し込み、鳩が風に飛ばされるようにして空を渡っていく。
宗主はこの風景を何処かで見た事がある気がした。これは……地中海を見渡すシチリアの街並みによく似ている。
「へぇ…」
長い壁の特徴を活かし、左右に延び延びと描かれた風景。雑然として繊細なタッチは、確かな技巧を感じさせられた。圧倒的な世界観で在りながら威圧を感じさせず、逆に奥深い遠近感によって、回廊に、より広々とした解放感を与えていた。
これを匠の作品と呼ばずして、なんと呼ぶ。
「凄いな、本当に。勉強になる。……楽しみにしていた甲斐があった」
宗主が目を細めて笑った。
「そりゃあどうも」
「仕事が終わって…この後の予定は?」
「俺は忙しいんだ……不貞寝と言う大仕事が待ってる」
「暇そうだ」
欠伸をしながら歩き出すミケランジェロに、宗主が苦笑した。
「せっかく美術館なんだから――ああ、そうだ。確か今日は個展を開くとか…」
「個展?」
喫煙室で会った男の言葉を思い出し、宗主が美術館のパンフレットを確認した。ミケランジェロとバッキーが覗き込む。
「油彩中心の絵画展らしいね」
「ぴゆゆあー」
「絵画展ねえ……」
〈Art hall〉
ホール入り口に『ヒュー・ファイシェイ作品展』と書かれたポスターが貼られている。
「えぇ、買えないんですかぁ?」
「申し訳ありませんお客様、展示品は販売出来ないんです」
「あぁ、そうなんですかぁ。トドネラさんみたいな気色の悪い女には売れないって事ですかぁ〜」
「いや、そういう訳では……」
かつて無い来館者に、受付スタッフは困り顔で対応していた。
展示室、美術図書室、館内の美術分野に関わる施設の中でも最も広いスペースを確保されているのが、この「美術ホール」だ。白塗りのホール内には何十点もの芸術作品が展示され、来館者が行き来していた。天井から吊された照明は位置が工夫されている。作品を日光で傷めないよう、窓も限られた数しか無い。
行き交う来館者に紛れて、如何にも怪しい容姿の女がホール内をうろうろしていた。先程受付でトドネラと名乗った彼女だ。臙脂色のマントを羽織り、胡乱な眼差しで展示作品を眺めている。ほつれた髪は白髪混じりではあるが、大部分は銀色の光沢だ。
骨張った細い手を伸ばし、物欲しげな表情でひたひたと陶芸品に触れた。『作品に触れないで下さい』と書かれた札が立っていたが、まるで気にする様子もなく。
「うぅ〜ん…買えないんですねぇ」
赤茶色の壺を持ち上げ吟味し始めた。
「なるほどねぇ、いひひ」
壺の底や内側にびっしりと刻まれた細かい文字のようなものを見つけ、トドネラが粘着質な笑みを溢した。
「……」
一方、ホール入り口では、黒い巻き毛の男が内部の様子を眺めていた。
何か起こるとしたら、此処だろう。
油彩画や立体作品の配置にそっと目を配り……中へと歩き出す。
「どう思う?こういう描き方の絵とか」
「絵ってのは見るもんだろ、どうのこうの語るもんじゃねェ」
絵画が並ぶスペースを、宗主とミケランジェロが連れ立って歩いていた。
「そうじゃない。絵から感じることってあるでしょう?俺はそれが聞きたい」
憮然と言い放ったミケランジェロに対し、宗主はにこりと笑みを見せた。
「……ん…?」
そこで突然、気だるそうに作品を眺めながら歩いていたミケランジェロの足が、止まった。
「こりゃあ……何だ」
彼が立ち止まったのは油彩画の前。日差しを浴びる柔らかなヒナギクの絵を凝視し、眉間に皺を寄せる。
「……何かあるの?」
言いつつ、宗主はそっと目を細めた。こうして散歩がてらホール内を歩いているものの、美術館の言い知れぬ『違和感』には、来館した時から気付いていた。
何か可笑しい、と。
「こんなものは…絵でも何でもねェ……これは、こいつらは」
「初めは、Daisy」
油彩画が飾られた壁周辺を、トドネラが行ったり来たりしている。
「なるほど、なるほどぉ〜。Eagle、Moon、」
ヒナギクの油絵の前を小走りし、神秘的な月夜の油絵の前でぐるぐる回り、
「Ocean……、」
遥かなる海を描いた油絵の前を、ゆっくりと通り過ぎた。
星が瞬く夜の絵に触れ、ぼそりと呟く。
「そしてNight――mare…作りましょうかねぇ?ひひひ」
鮮やかなりし『悪夢』を。
この狂った儀式場にこそふさわしい――混沌の色を。
〈混沌の 美術ホール〉
見えない力の影。
『そういうもの』を感じ取れる者ならば、恐らく気付いただろう。
此処に飾られた展示作品の内側に、およそ容器などでは量れぬ――魔力と言うものが籠められていた事を。
「ふざけやがって……」
ミケランジェロが嫌悪感を露に作品達を睨みつける。正確には、作品越しに――制作者への怒りを表していた。
――芸術を何だと思ってやがる。
彼はヒナギクの絵に手を伸ばし、触れた。すると絵がぐにゃりと歪み、乾き切った筈の絵の具がぽたぽたと床に滴り始める。
後に残ったのは、無地のキャンバス――
の、筈だったが。
「これは……魔法陣、とか言う奴かな」
宗主が淡々と呟いた。
キャンバスの布地を織り成す白の糸は、単調な平編みでは無く、捻り、編み込まれ、まるで刺繍のように複雑に織り込まれて……キャンバスと言う平面の上で、糸による円状の図形が描かれていた。魔力を象る術式が、そこにはあった。
宗主のバッキーがすんすんと匂いを嗅ぐような仕草をしている。
「…『本体』は、こっちか――?」
「御名答」
「……!」
唐突に声がした。二人は振り返り、窓の方を見る。
開いた窓の桟に腰掛け、スケッチブックを開いているのは、黒いエプロンの男だった。
「ヒュー・ファイシェイ…」
「しかし外れでもある……何故なら我が作品達もまた、媒介のひとつだから」
漆黒の男が微笑んだ。
辺りがしんとしている事に気付き、宗主が周囲を見渡すと、いつの間にか美術ホールは自分達だけになっていた。
「てめェか、作り主は」
「如何にも。ああ、ご挨拶が遅れました。貴方様にお会い出来て光栄だ」
射抜くような眼差しで睨んでくるミケランジェロに笑みを送り、スケッチブックを膝に置いて、静かに一礼して見せる。
「私の絵を駄目にしてくれましたね……まあ、ひとつぐらい対した事は無いが」
「黙れ。てめェに絵を描く資格なんかねェんだよ」
トーンを落とした低い声。ミケランジェロの口調は静かではあったが、彼がどれ程の怒りを感じていたかは、傍らに居る宗主にも分かった。
芸術とは彼の追い求めるものであって、彼の領域そのものなのだから。
それを汚した罪は重い。
「資格。貴方様に言われては、私は画家を辞めるしかあるまい」
ミケランジェロの怒りを嘲笑うかのように、ヒューがくく、と笑った。
「こんなものを用意して…貴方は一体何がしたい」
「言ったでしょう。美大生さん。私の個展があるのだと……」
宗主の緑の目を見つめ、やがてスケッチブックのページを捲り始める。
「この白きキャンバスに、芸術の獣を呼び起こして見せようかと。代償となる絵の具は――」
「俺達か」
微笑を称えたまま、宗主がヒューを見据えた。ヒューはにこりと肯定の意味で笑む。
「たくさんある。それも良質なものが」
「――馬鹿げてるね」
怒りも恐怖も見せることなく、ただ淡々と、宗主の瞳は彼を捉える。ほんの少し溢した苦笑は、酔狂への呆れか、諦めか。或いは嘲笑か。
「さあ…お目覚めの時間だ。とくとご覧あれ、諸君」
ヒューが漆黒の瞳を細め、立ち上がった。
殺那、
「――ッ」
―――ヒュン…ッ!
ミケランジェロが近くの陶芸品を無造作に掴み、ぶん投げた。
「ぴゆゆー!」
「はは、邪魔はさせない」
ヒューの腹に命中した壺は、沼地に落とした岩のように……どぽん、と。エプロンの黒に飲まれて消え失せた。
ヒューが薄笑いを浮かべてミケランジェロを見る。ミケランジェロは、静かに怒りの篭った眼差しで睨み返した。
「傷痕の君。我が焔は焼けるだけでは済まないよ…精々、噛み砕かれてしまえ」
じょわり。
ざわりざわりざわり。
ヒューの足元より、黒い文字列が――不完全燃焼により齎される煤色〈ランプブラック〉のように――ざわざわと、次第に濃密な闇となって広がり、美術ホールを覆い始めた。
〈白と黒 の 展示回廊〉
紳士服に身を包んだ金髪の男が、シチリアの風景が描かれた回廊を走り抜ける。彼の背後からは、黒い闇がざわざわと迫って来ていた。
「はは、ビンゴだ」
植村の靴の裏に仕込んだ盗聴機も暇潰しには持って来いだ。こうして愉快なミュージカルにありつけるのだから。
紳士にして強盗、探偵にして奇術師、そしてヒールにして傍観者、二律背反の捻くれ者ヘンリー・ローズウッドは、走りながら心底愉しそうに笑みを溢した。
「Demonね…僕の世界じゃ、イカレた悪魔主義者の妄想の産物だね」
まるで誉め称えるかのような口調で罵る。
ざわさわざ わ
例のホールは既に舞台が開演したらしく、真っ黒い闇で覆い尽された。
始まるようだ。
だが、それだけでは終わらないだろう。
美術館のあちこちに飾られた、小型爆弾のように素晴らしく良い位置にある『絵画』、窓の少ないホール、入り口各所その他諸々――不自然な箇所は笑える程沢山あった。
恐らく例の彼は、大勢の人間を舞台に引き摺り込むつもりなのだろう。
とんだ監督だ――嬉々とも嘲笑とも取れる表情で、ヘンリーが笑った。
だが、それだけでは終わらない筈だ。
「監督殿の思い描くシナリオが、ついにお披露目されるって訳だ」
夢の街と嘯く、美しく醜悪なるステージ上で、彼がどんなダンスを繰り広げるのか。いや、繰り広げさせるのか。
実に楽しみ極まり無い。
(味気無い黒焦げだけじゃあ退屈だ。焼け爛れるような、真っ赤な真っ赤な呪いに囚われてしまえばいい。何もかもがね)
そして自分は、怠惰な傍観者を演じて見せよう。
ざわさわ ざわ ざわ
「ファンタジー映画のワイズマンみたいに吟ってみようかな。『時は満ちた』……とかね」
懐から懐中時計を取り出し、時間を確認してすぐに仕舞う。
前方、回廊の両壁に、『展示室』と書かれた幾つもの扉が並んでいる。
手前のドアを蹴破り、内部を覗く。
室内は仄暗く、床や壁を黒い闇がめらめらと蠢いていた。
「おっと……此処じゃなかったか」
ざぷんと襲い掛ってきた闇の塊をステッキで払う。
(さあ、舞台監督はどちらかな)
帽子をくっと目深に被り、海底のような青い瞳と……微笑みとは到底呼べぬ強い笑みを、誰にともなく隠した。
捻くれ者の奇術師殿は、再び闇に染まりつつある白い回廊を走り抜ける。
ただ、不幸を嘲笑うが為に。
〈燃え上がる アートカフェ〉
ざわ。
「……あれ」
ざわりざわりざわり。
壁に飾られた夕陽の絵を見つめ、早雪が首を傾げる。見た目には何の変化も無いので、カフェ内で食事をしている客は、浮いたままその場を動かない早雪に時折好奇の視線を送るだけだ。
「ああ、そっか――」
遠い夕陽を見つめたまま、早雪がそっと呟いた。
その表情は、何処か希薄さも感じられ。
「君達は――縛られていたんだね」
ざわり。
ざああああぁあぁぁぁ
「……!」
突如、異変は発生した。それは早雪が見ていた夕陽の絵とは別な所だ。カフェの入り口より……真っ黒い煤のような闇の塊が、ざああと店内へ侵入してきた。
「きゃああああ!」
「な、何だこれは!?」
客が騒ぎ出す。
闇は壁を伝い、床を這い、小蝿のように醜悪に蠢きながらカフェを黒く染めていく。
入り口付近に居た客が、食べ物や食器が散らばるのも無視して慌てて反対側へ走り出す。
「あれは……」
早雪は逃げることなく黒い闇を見つめていた。犇めき這いつくばってくる闇は、文字が並んでいるようにも、鎖の繋ぎ目にも見えた。
いつの間にか早雪の眼前まで迫り、
どっぷん。
黒い闇は、勢いよく夕陽の絵画に飛込んでいった。
ザワザワザワザワ――ッ
「そう。君達を縛る鎖は……これだったんだ」
魔術の檻に閉じ込められていた火の精霊〈サラマンダー〉は、呪いの闇に捕えられ、冷たい闇色の炎と化して夕陽の絵画より噴き出した。
辺りを覆っていた闇と混ざり合い、一気に膨張し、陽炎のような揺らめきと共に美術館へと広がり始める。
「う、うわああぁ……!」
腰を抜かした男性客の元へ、闇の炎が迫っていた。
「わ、危ない」
早雪が彼の前に立ち、炎をぱしりと払う。早雪の手に触れた闇は、一瞬纏わりつくように蠢いたが、すぐにしゅわりと……早雪の青白い皮膚に吸い込まれるようにして消えた。
「大丈夫?」
「あ、あぁあ……」
男性客に手を差し延べ、彼を立ち上がらせた。
と、突然、
ぐぅきゅるるるるる……
「……あれ?」
あまりにも場違いな音が響き渡り、はたと早雪が腹を押さえた。
「お腹すいてたみたい…」
先程までたらふく食べていた筈だが…腹の虫は見事に鳴いていた。
ひゅううぅしゅうぅ。
呪いの黒い炎が、ゆらゆらと迫り来る。
「お腹…すいた」
早雪の腹が、いや、もっと奥深いところが、獰猛な飢えを訴えていた。
ぐうきゅる。そこに腹を満たすものがあるぞ、と……もう一度腹の虫が鳴いた。
〈Display room…?〉
「白い世界だとは……思いませんか」
仄暗い室内はさほど広くなく、静かだった。人々がパニックに陥る音や叫び声も、此処には届かない。
室内の灯りも点けず、窓の外の曇り空の白さだけを頼りに、ヒューはキャンバスと向き合っていた。
「白?ああ、そうだね。醜く腐り切っていると言う意味でなら、限りなく純粋な真っ白だ」
可笑しな絵の描き方をするヒューを眺めながら、ヘンリーは室内の棚に寄り掛っていた。
「糸のような軌跡も、あらゆる鮮やかなる色彩をも受け止め……何者にでも成り得るその力は『無』だ。白とはつまり、全ての眷属であって、最も掛け離れた色なのでしょう」
「色彩とはまたユニークな表現だね」
くく、とヒューが笑う。
「……面白い、いや、可笑しな方だ。私はこの世界を、油煙に染め上げようとしているのに。貴方は一体、何の為に此処へ」
ぴちゃり。絵の具を練る微かな音がする。
「別に君をどうこうしようって訳じゃあない。僕はただ、観劇する為に来ただけだ。怠惰で愉快で傍若無人な傍観者、ヘンリー・ローズウッドとは僕の事さ」
「観劇、か……私が狂気を抱いているとは思わないのですか?」
ヒューが目を細めて室内の暗がりを見据えた。陰の向こうの傍観者は、相変わらず飄々とした口調で告げる。
「何、気にする事は無い。君以外にも頭のイカレた人間は沢山居るからね。意のままにタンゴでも踊ると良いよ」
おどけるように言い放つ奇術師と、薄笑いを称える魔術師。真の道化は、果たしてどちらなのか。
「油煙〈ランプブラック〉は、均衡の崩れによって生まれる色だ。カーボンとオキシジェンが完全に燃え切らず――」
「一酸化炭素が発生する」
くす、と笑う声がした。と、そこでふと、ヒューが首を傾げる。
「……おや。またどなたか、いらっしゃったようだ。……ん?」
ヒューはヘンリーに声を掛けたつもりだったが、暗がりからは既に人の気配が消えていた。
「ははは。まるで手品だ」
呟く彼の元へ、光が差し込んだ。
扉が開け放たれ、蛍光灯の灯りが室内を照らし出す。そして、無機質な光を背に受けて立つ、黒い影。
「ええと…『こんにちは』?」
早雪は柔らかな表情のまま首を傾げた。ヒューは彼を見つめ、目を細める。
「我が呪いの魔力を……喰らったか」
「うん。あ、でも別な子達の方は、鎖を解いたら在るべき所へ帰っていったよ」
早雪の片手に携えられた獲物は――儚げな外見にはあまりにも不釣り合いな、不気味で巨大な鎌だった。
刃の背に沿って、細い銀弧が煌めいている。
「簡単には解けぬ魔術を施したつもりだったが…まさか魔力ごと食われるとは。とんだ誤算だ」
「うん。お腹が減っていたから、つい」
刃を手に、入り口の前に立ちはだかる姿はまるで、死神か……冥界の門番のようだった。
スピネルのような紅い瞳をすぅと開き、番人の少年は魔導の男を見据えた。
「油断したものだ…本当に。均衡を崩されたのは、私の方だったか」
ヒューの呟きの直後、
ドゴォオォッ
辺りに突然の地響きが轟いた。
室内の壁や隙間から、闇とも鮮やかな虹色の絵の具ともつかぬ、どろどろとした不気味なものが漏れ始めた。
早雪の目の前で、瞬く間に床を浸し――
どぷん。
ヒューの体が飲み込まれていった。
〈hueは……色合い、そして いひひひ〉
ひゅうしゅううぅぅ ぅぅぅ。
勢いを増した闇は、いつの間にか炎のような姿でホール内を覆い始めていたが、それだけでは留まらなかった。
こぽりごぽり。ごぽぽ。
美術ホールの至る所から、色合い鮮やかな、虹色の化け物が現れ出した。子供程度の背丈で角が生えた、鬼のような奇怪な化け物。
化け物は口からどろどろとした絵の具のような液体を吐き出している。
「ひやああ〜。大変ですよぅ〜」
トドネラがおどけたように声を上げ、小鬼をぱしぱし払っている。
広がりつつある黒い炎を避けながら、宗主は牙を剥き出して寄ってくる小鬼に蹴りをかました。宗主のバッキーは炎をもぐもぐと食べている。
「ミケランジェロ。どうする?」
「…知るか!こっちが聞きてェって」
ミケランジェロは闇に侵されていない床にさらさらと絵を描き、直ぐ様三次元へ解き放った。
しゃらんと銀色の鳥が飛び立ち、小鬼を一掃していく。
「ふざけやがって」
ゆっくりと立ち上がり、闇を見据える。静かにも見て取れる眼差しには、強い感情の色が宿っていた。
芸術とは何だ?形の在るもの無いものをその手で表現し、他人と分かち合うものでは無かったのか?言葉よりも素直で、文字よりも深いものでは無かったのか?不器用な人間が唯一、他人に心を伝えられる手段では無かったのか?
彼があの穢れた街で見つけた真実は、こんな馬鹿げたものでは無かった筈だ。
「あっちゃならねェ。ならねェんだよ……」
エゴかもしれない。その領域に手を伸ばす者の、『描き手』としての自意識過剰な。
けれど本質はもっと深い処にある筈だ。何故なら巧く描けるとはつまり、他者に感動を与える事に繋がっているのだから。それは書道であれ、音楽であれ、等しく同じ事。心を表現し、他者に与える力なのだから。それが出来るのは人間、動物でも土くれやあばら骨でも無い、人間だからこそ。
その神聖な領域は、こんな形で踏み躙られて良いものではない。
「土足で踏み入りやがって。そういうヤツはな……俺が許さねェ」
神と呼ばれる存在の前に、一人の描き手として――芸術の体現者は、怒りを身の内に秘め、真っ直ぐ闇と対峙した。
ゴオォォオ……
「ミケランジェロ」
「分かってる」
来る。壁に並んだ五つの絵画より、強い力の波動を感じる。
『芸術の獣を――呼び起こして見せようかと』
魔導師の言っていたそれが今、目覚めようとしている。
ズオオォ――
闇の炎が、彼等の足元を侵食して行く。
「きひひ、来ます来ます、来ますよぅ。どうしましょう〜!」
トドネラが何処か愉しげに叫び散らし、虹色の小鬼がわらわらと蠢いた。
「俺に出来る事は限られてると思うんだけどね?」
宗主はにこり笑い、周囲を見回した。寄ってくる小鬼を蹴り飛ばし、近くの手頃な展示物を掴む。
「やるだけやってみるよ。トドネラさん、ちょっと下がってて。危ないから」
「はぁい〜」
穏やかな緑の双眸を鋭く細め、手にした装飾品のナイフを――投擲した。
―――ザシュッ!
ナイフは銀線を描いて素早く飛んで行き、見事天井に設置された煙感知器に突き刺さった。
ビービー
サアアアアア…
降り出したのは、雨。煙感知器が誤作動し、人工の雨が美術ホールを濡らし始めた。大量の水を浴び、闇の炎が次第に弱まっていく。
足元を覆っていた黒が減り、白い床が顔を出した。
「薄めてしまえばいいかなって思って」
「サンキュ。…宗主」
広くなった床の面積を見て、ミケランジェロが素っ気無く礼を言う。
「どういたしまして?」
銀髪の美大生は相変わらずの微笑だ。
ズズズ ズ……
飾られた五つの魔法陣が額縁ごと歪み、割け、目玉が、舌が――
月の煌めきをしたそれは角か、海の泡のようなそれは腕か、もはや壁とも絵ともつかない、不気味なものが顔を覗かせていた。
デーモン召喚。
ミケランジェロは出来損ないの物体を見据え、少しだけ眼つきを和らげた。
「お前は…こんな風にして、生まれたかったんじゃねェよな」
静かに言い放ち、そして。
「悪く思うなよな」
床の上に一枚の絵画を完成させた。
天使が舞い踊り、彼岸花が咲き乱れ、阿鼻叫喚、エデンとアビスが高らかに謡い合うそれはまさしく――地獄の門だった。
ギィイィイ……
扉がゆっくりと開かれる。じゃららららと鎖が延び、デーモンを絡め取る。
ギャアアアアアッッ
瞬く間にそれを引き摺り出し、飲み込んで――扉が閉じた。
「………」
役目を果たした門が、さらさらとと消えていく。宗主もトドネラも、少しの間、それを眺めていた。
〈降り止んだ びじょびじょホール〉
「あれ?これはどう使えばいいのかな…」
「ぴゆゆあ」
「早雪君、それはこう持って、床を拭くんだよ」
騒動が終わり、美術ホールからはすっかり闇の気配は消え失せていた。
のだが。
「わわ、難しいなあ…あれれ」
「ぐァ!おいガキんちょ、何しやがる!」
ホール内の混沌は去っていなかった。騒動で壊れた展示物が散らかり、壁には巨大な穴が開いていた。床は水浸し、黒い煤の欠片と混ざってさらに性質が悪い。
「君が入り口を確保しててくれたから、被害が少なくて済んだんだ。本当に良かった」
「そんなこと無いよ。ええと、『ありがとう』?」
早雪があはは、と穏やかに笑った。宗主は宗主で破壊した煙感知器の弁償を求められていたりするのだが、騒動を治めた、と言うことで――掃除と引き換えにカタが付いた。
まぁ安く済んだよね。と暖かな微笑を溢し、床を雑巾掛けしているバッキーを撫でる。
「…そういえば、あの人が居ないね」
「……あの人?」
「うん。さっきまで居た人」
「うーん、僕とすれ違った人かな?あの人なら、ぐるぐる縛ってたものの友達を抱えて、皆と一緒に帰っちゃったよ」
「ふうん……変わった人ばかり集まってたな、本当に」
微妙に分かり辛い事を言いつつ、早雪は首を傾げた。宗主が小さく苦笑する。
「……あー。面倒だ。俺には向いてねェ。帰る」
床掃除を放り出して歩き出すミケランジェロ。
「こら。ミケランジェロ。掃除屋でしょ。本職は」
宗主が制止の声を掛ける。
「掃除は掃除でもなァ、消すのと拭くのは同じじゃねェんだよ」
「ミケランジェロ」
「………。分かったよ、やりゃあ良いんだろ……!」
宗主の笑みに耐えきれず、仕方無しにまたモップを構えた。
「と、ありゃ?滑るなぁ……」
ドゴッ!
「ぐァ、痛ェ……!さっきからこのガキんちょ!」
「わぁ……!ごめ」
バシャバシャ走り出す二人に、溜め息をひとつ溢し、黙々と掃除を続ける宗主だった。
〈Emergency stairs〉
白い白いキャンバスのようだった空は、いつの間にか薄暗い雨雲を迎え、さあさあと地上に水の子を生み落としていた。
古びたビルに備え付けられた非常階段から、地上を眺める一人の男。
「彼はイデアを求めていたのかな?そんなもの、何処にも存在する訳無いのに」
くす。錆びた手摺に凭れ掛かり、小さく笑みを溢す。
「あの虹色の小鬼。レディのペットだろう?」
「おやぁ〜。何の事でしょうねぇ……トドネラさんには分かりませんよぅ」
階段にちょこんと腰を掛けた銀髪の女が、にまにまと不気味な笑みを溢した。
彼女の膝には、細かな紋様が施された円盤のような物が乗っていた。明らかに展覧会の出品物である。
「ええ、分かりませんよぅ。分かりません。いひひひ」
虚ろな眼差しで、まるで赤子でも抱くように……優しく優しく、それを抱えていた。
「ま。何でもいいんだけどね」
男は空を見上げ、降り出した雨を眺めていた。
このまま永久に止まなければいいのにと、心中で呟きながら。
白い世界の諸君。暫しのお別れだ。また何時の日か、魔滅が訪れるその日まで。
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クリエイターコメント | 大変長らくお待たせしてしまって、申し訳ありませんでした……!(滝汗) 魔術と芸術と闇の物語、如何で御座いましたでしょうか。あまり暗くなりすぎないように、コメディ的な要素もちょこっと入れてみました。ヒューは恐らく銀幕市の何処かで、スケッチブックを開いている……かもしれません。
少しでも皆様のお心に残るような、素敵な物語に仕上がっていれば……幸いです。 口調の違和感や誤字・脱字・ご意見等御座いましたら、お気軽にお知らせくださいませ。 この度は、シナリオへのご参加、誠に有難う御座いました。そして、お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。 |
公開日時 | 2008-04-20(日) 20:30 |
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