★ 誰そ彼とれいん§黄泉の汽笛に手を振って ★
<オープニング>

その日はただ、ぼうっと空を眺めて居たい気分だった。
「……あぁ、」
 はっと我に返って辺りを見回すと、いつの間にか砂場で遊ぶ子供達の姿は消え、道路の向かいの並木通りを歩く帰宅途中のサラリーマンの姿が見えた。
 うっかりうたた寝をしていたようだ――心地良い微睡みに落ちていた意識を慌てて引き戻し、彼はぱしんと軽く自分の頬を叩いた。
 頭の上には一面に、不思議な空色が広がっている。爽やかなラムネソーダにラズベリーとオレンジのフローズンをミックスしたような、甘酸っぱい夕焼け色のグラデーションだ。沈みかけた夕日を浴びた雲は、まるで雷の竜が吐き出した息吹のようにごうごうと黄金色に燃え盛り、淡く滑らかな天上を這っていった。
 まだ明るい空とは裏腹に、周囲は刻一刻と薄暗い闇に包まれ始めている。ゆっくりと太陽が傾き、眼下に見える街並みに、ぽつりぽつりと小さな灯が燈っていく。
(さっきまで、あんなに青空だったのに)
 焼けるような夏の暑さも通り過ぎれば、帽子ひとつで散歩にも出掛けられる。色の薄青い、草原のような空に身も心も預けていたくて、こうしてお気に入りの公園のベンチに腰掛けて空を眺めていたのだが……緩やかな風が心地良かったせいか、いつの間にか寝入っていたようだった。
(時が経つのは早いものだなあ)
 昼間はまだ、夏の面影を残す爽やかで若々しい青空だから良い。けれど夕方を過ぎると、あっという間に太陽が地平線の向こうへ沈んでしまうのだ。季節の盛りを過ぎてからの日の時間は、次第に短くなっていく。
(何だかな……)
 綺麗な夕焼けだとは思うが、あまり好きにはなれなかった。何となく物哀しさを感じてしまう。こんな色の空に出会うくらいなら、いっそ夜まで眠ってしまえば良かったのに。そうしたら、秋の一番星を探しながら、金木犀の香る夜の道を歩いたのに。
「…我ながら…子供じみてるなあ」
 男は自嘲気味に苦笑いを零すと、脇に置いた一冊のスケッチブックを手に取り、ぼんやりと表紙を眺めた。
 父さんのお話がたくさん読みたい。きっかけはたわいもない、幼い日の息子の一言だった。もともと小説書きなんて仕事の合間の息抜き程度にやっていた「副業」だったが、読み聞かせる度に喜んでくれる息子可愛さについつい没頭するようになり、今では路線を絵本創作に変えて、本業と入れ替わるくらいにのめり込んでしまった。
 職業は絵本作家。
 それも夢が在って良い。良いかもしれない、けれど。
「……」
 スケッチブックの表紙をめくると、一ページ目に描かれたメルヘンチックな子猫のイラストが、真ん丸のつぶらな瞳でこちらを見上げてくる。これが最初の作品の「原案」だ。今まで描いてきた絵本のキャラクター達も皆、このスケッチブックの中に眠っている。
(本を書いて、絵を描いて……夢を与える仕事だなんて、良い大人の自己満足じゃないか)
 与えようとしなくても、夢なんてこの街の何処にでも散らばっているではないか。大量印刷された温かみの無い絵本より、生きて動き回る怪獣の方が、よっぽど子供達の心に強く、鮮明に刻まれるだろう。
 そして眩しく純粋な子供時代も、風のように過ぎ去って行く。

――時が経つのは早いものだ。

 お話の続きは? と無邪気に首を傾げていた息子も、とっくの昔にスーツを着込んで社会の輪に加わっている。あのどんぐり眼の少年は、もう何処にも居ない。

 大人になる為に、多くを切り捨てて成長するのが人間なら、
 あの日の憧れや、瞳に写った宝物は……
 一体何処に。置き忘れてしまうのだろう。

「……大分、暗くなってきたな」
 膝の上に落としていた視線を上げ、公園内を見渡す。陰を帯びたハナミズキの木々が頭を垂れ、鈍い銀色の滑り台はぼんやりと星明かりを反射していた。薄暗い夕暮れの闇は、いつの間にかこの辺りにも届いていたようだ。
 そろそろ帰るか、とベンチから腰を上げようとした……その時である。
『そっこのぉぉぉ……あんたー!』
「……はい?」
 妙に間延びした陽気な男の声がして、思わず返事をしながら振り返る。
 てっきり公園の外の道路から呼び止められたのかと思った。公園の中には、彼一人しか居なかったからだ。だが、後ろを振り返って道路や並木通りをぐるりと見回してみるものの、誰かがこちらを見ている様子どころか、通行人は一人も居ない。
『ようし、あんただ。良い返事だあんた』
 何処だ、何処から声がするんだとキョロキョロしている彼の肩が――ぽん。と軽い調子で叩かれた。
「ほいほいさ。こんゆうわ」
「は……? コ、コンユウ――」
 振り返った彼が見たものは、自分の肩に乗せられた片手である。手の持ち主はと言うと――
何とも馴れ馴れしい様子で、彼の肩を抱きながら隣に腰掛けていた。
「うわぁ……!? いつの間に……!」
 慌ててベンチから飛びのく。
「今日和と今晩和の真ん中だから、今夕和」
 何処から沸いてきたのだろうか――。お分かり? と、ひらひら手を振ってくる男は、深緑のスーツを着込んで、同じ色をした駅員のような特徴的な形の帽子を被っている。顔を見れば30代前半ぐらい、だろうか。足を組み直し、片眉をひょいと上げてひょうきんそうな笑みを浮かべた。
「どちら様……でしょうかね」
 恐る恐る尋ねると、男はうぅぅんと大袈裟に唸り始めた。
「あー。ほら、あれだ。最近つまらない?」
「……はい…?」
 会話のキャッチボールなど全く気にする様子も無く、ははーんと意地の悪い笑みを浮かべ、じろじろと無遠慮に眺めてきた。夕闇の中で、オレンジ色の眼がゆらりと光を放っているような錯覚を覚える。
「そう、ほら。その顔だ。人生につまらなさを感じている。エンジョイが足りないと感じている。おいマジ旅に出てえよーと思っている。だろ?」
「いや、同意を求められても」
 ……全く意味が分からない。
ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている彼の背後から、
「失礼だ。愚弟」
 別な男の声が掛かった。
 砂利を踏む音と共に現れたのは、ベンチに腰掛けた男と揃いの衣装を着た――と言うより、顔立ちも全く同じ外見をした男だった。
 二人目の男は紫色の瞳を静かに細め、深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした。お客様」
「お客様……?」
 呼称に疑問を抱いて尋ね返すと、男は無表情のまま小さく頷いた。
「現在のお時間は『黄昏』、観光電鉄たそがれの発車時刻となっております。今宵たった半時間の旅路ですが、お乗りになりますか?」
「お乗りになりますかって……」
 何に?と言おうとした時だ――ゴトトン、と聞き覚えのある音と揺れを感じた。
 まさかと思って振り返ると……

「観光電鉄たそがれってんだぜ、いわば俺達の船!」

 ゴトトン。

 たった一両だけの古びた電車が、公園の真ん中に出現していた。
 四角い箱のような車体は、藍色の塗装に緑と白のラインが引かれている。何処か懐かしい昭和レトロな外装だ。車両の側面にペンキで書かれた文字は「号レガソタ光観」。ドアの無い入口や並んだ窓から、蛍光灯とは違う柔らかな黄色い光が漏れ出し、薄暗い砂利の地面を照らした。
「狭間だよ狭間!良いか?昼と夜の境目に横たわる黄昏れの狭間を走るんだ。忘れられし負の遺産やら、迫り来る魑魅魍魎の合間を駆け抜けて、黄昏れの地平線を目指すんだぜ」
 呆然と立ち尽くしている彼の周囲をくるくると踊け回りながら、陽気な男が謡い文句のようなツアー内容を語る。
「暇してる奴を見つけてな? 案内するのが俺達の仕事なの。ただの観光! 目的なんて糞喰らえ、楽しけりゃあそれで良いんだっつの」

 ギギ……ゴトトン。

 電車がゆっくりと、少しだけ動き出し……入口を彼の目前に移動させ、再び停車した。
「さって、自己紹介がまだだったよなー。俺はペヨーテ。『還り』の運転担当でぇーす」
 陽気な男は二本の指で敬礼のポーズを取り、オレンジ色の眼でにやりと笑って見せた。
「……アーピェンと申します。『逝き』の運転士を勤めさせて頂きます」
 静かな男は小さく頭を下げ、紫色の瞳を細めた。
「あ、ええと私は……」
 思わず固まっていた自分にはっとして、慌ててぱたぱたと上着やらズボンのポケットに手を突っ込む。飴玉やらハーモニカやら携帯電話は出てくるものの、名刺が1枚も出てこない。
「いや、名刺はいらないか……鱧田です。ええと、こう見えて物書きとか脚本家なんかやっていて」
 何で職業まで語ってるんだ俺、などと内心思いつつ、とりあえず自己紹介はしてみた。相手が名乗っているのに何も言わないのは失礼だろう。
「なるほど、なるほど。ハーモニカってのか。よろしくー」
 うんうんと頷き、ペヨーテと名乗った男が鱧田の肩をばしばし叩く。
「ハーモニカ……?」
 『ハ』と『モ』しか合ってない。
 朗らかに笑う陽気な阿呆を無視して、アーピェンと名乗った男が、そっと、白い手袋をはめた手を差し出してきた。
「では……鱧田様。お乗りになりますか?」
アーピェンの掌に乗っていたのは、小さな紙切れ――『キ逝レガソタ』と刻まれた、1枚の切符だった。
「楽しいぜ! ハーモニカ!」
「…いや、鱧田ね」
 苦笑をひとつ零し、ハーモニカ――じゃなかった鱧田は、アーピェンから受け取った切符を片手に、電車の入口に足を掛けるのだった。

種別名シナリオ 管理番号809
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
クリエイターコメントお久しぶりで御座います。亜古崎シナリオ第四弾のオープニングをお届けに参りました。…久しぶりで何だか緊張します……。よろしくお願いします。
黄昏時に現れる、双子の車掌と観光電車の物語です。その時間帯に出歩いてる人や、暇そうにしている人を見つけては、気ままに夢の旅へ誘っているようです。
行き先「黄昏」は、アーピェンとペヨーテのロケーションエリアで展開しますので、時間は30分きっかりです。黄昏の中では乗客の「忘れていた大事な思い出」か「心にずっとこびりついているもの」が、ほんの少し形を歪めて姿を現すようです。

プレイングについては、
・失くしてしまった宝物、忘れていた大事な思い出や、心にずっとこびりついているもの
・電車の中で他の乗客とどんなお話をしてみたいか
などを書いて頂けましたら幸いです。そういえばハロウィンも近い事ですし、仮装してくるのも楽しいかもしれませんね(笑)ちなみにNPC「鱧田」も一緒に着いてきますので、ついでにお相手して頂けましたら(笑)
ほんの少しの寂しさと、全体的には明るくて楽しいお話の予定です。
ほのぼのですので、戦闘は―――無いと、思います(目を逸らす)

黄昏は「置き忘れてきたもの」が散りばめられた場所、「捨てられた思い出」が集まる場所です。黄昏は必ずしも優しい思い出ばかりではなく、それらはあくまで「過去」でしかないと考えております。なので、黄昏の中で再び出会ったものは連れて帰ることが出来ず、変える事も出来ません。御了承下さい。

それでは、気ままに楽しい狭間の旅をお楽しみ下さい。素敵なプレイングをお待ちしております。
※募集期間が若干短めになっております。すみません、御了承ください。

参加者
エドガー・ウォレス(crww6933) ムービースター 男 47歳 DP警官
ユリウス(chyh9180) ムービースター 男 28歳 大学生
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
三月 薺(cuhu9939) ムービーファン 女 18歳 専門学校生
<ノベル>

§ルクニイ遭 ハ彼ソ誰§

 その日はただ、のんびりと空を眺めて居たい気分だった。
(あれは……飛行機?)
 金色とオレンジ色が織り成す夕焼け空の、僅かに残った薄青い部分に浮かぶ雲を真っ直ぐ突き抜けるように、きらりと一粒の光が空を渡っていく。
 見つめている限りはゆっくりと。此処からでは小さな星の粒にしか見えないけれど、実際は自動車よりもずっとずっと大きな身体で、風を裂くようにもっと速く飛んでいるのだろう。
(あそこから私の姿は……見えるのかなあ)
 夕焼け空を仰ぎながら、三月薺は薄暗い並木通りをとぼとぼと歩いていた。
 季節はハロウィン。クモの巣柄のテーブルクロスに金色のモール、カボチャのチョコレートやお化けの顔が描かれたマシュマロや、可愛らしい魔女帽子や猫耳のカチューシャをバスケットにいっぱい詰め込んで、特に急ぐ事もなく、ゆっくりと家路に着いていた。薺の肩に乗ったラベンダーのバッキーが、すんすんと鼻を鳴らしている。
 何処の店も今年はとても品揃えが良い。一緒に暮らしてる愉快な家族や、素敵な友達と楽しいハロウィンパーティーを開く為に、ハロウィングッズの買い出しに歩いていたのだ。当日の事を想像すると、思わずふふっと笑みが零れるくらい、それはもう楽しみで仕方なかった。今年はもっともっと素敵な思い出を作ろう。
 薺の隠れた熱血魂に火が点き、準備物のショッピングに一層の気合いが入った。
 それでいつの間にか、こんなに日が暮れていた。
 時間帯の所為か並木通りを歩く人は殆ど無く、横道の奥に見える小さな公園や商店街も、染み入るように薄暗い陰が差し始めていた。時々ぶーんと虚しいエンジン音を立てて、車が何台か道路を走って行くぐらいである。
 脇を通り過ぎて行く軽トラックを見送ったりしながら、薺はもう一度空を眺める。
 どうしたら、あんな綺麗な空が生まれるのだろうか。
 さっきよりも大分位置が変わった飛行機の光は、もうすぐ黄金色の積乱雲に到着する。
(あそこから私の姿は……)
 理由は言葉にならなかった。何故だか、私は此処に居るよ、と手を振って空の彼方へ伝えたい気持ちが過ぎった。
 寂しいとか孤独だとか、そういう虚しい感情ではなくて。自分でもよく分からないけれど……それはとても些細な、けれど明るくて暖かい、不思議な気持ちだった。

「もう一軒くらい寄っても、大丈夫だよね。ばっくん」
 帰り掛けにハロウィングッズを販売している雑貨屋を見つけたら覗いてみよう、とバスケット片手ににこにこ歩いていると――
「ちょいと、お嬢さ……」
 ばふっ。
「きゃっ」
 突然現れた壁に頭から突っ込んだ。
 ぶはっと顔を上げて薺は目を見開く。そこにあったのは壁ではなく、ボタンとかポケットとか襟とか――深緑の駅員のようなスーツを着込んだ男性の懐だった。
「ご、ごめんなさい……! よ、よそ見してました」
 思わず顔を赤くして、ぺこぺこ頭を下げながら後ずさる。
 相手の男性は、被っている帽子の奥で朗らかな笑顔を作ると、薺の頭をぽむぽむと叩いた。
「はっはっはー。気にするなお嬢ちゃん。ところで旅しない?」
「……へ?」
 お茶しませんか、ならドラマでよく聞いた事があるけれど、旅しませんかなんて誘い文句は聞いた事が無い。
「たび、ですか?」
 薺が首を傾げると、男はきょとんと子供のような表情で、
「お、可愛い髪飾りしてんなー。カンガルーかー。俺も好きだぜ」
 突拍子も無く話題がすっ飛んだ。
「カンガルーじゃないです、これは兎ですよ」
 薺も律儀に言葉を返している。
「あれだ。そう、お嬢ちゃん名前は?」
「私ですか? えと、三月薺です。この子はばっくんで。駅員さんは……」
 ころころ話題転換する彼に特に怪訝な顔をする事なく、薺は自然な様子で答えた。男は片眉をひょいと上げ、にこにこと薺とバッキーの顔を交互に見つめる。
「俺はペヨーテ。通り縋りの案内人さ」
「案内…ですか?何処へ――?」
 もう一度首を傾げようとした時だった。

ゴトトン。

 その音は、薺の脇にある道路から……すぐ近くから聞こえた。

「わあ……!」
 一瞬それは古びたバスにも見えたが、形の違いで一両しかない電車だと分かった。路面電車など通る筈も無い道路に、まさに電車が停車していたのである。
 車内から漏れる柔らかい光を瞳に映し、薺は顔を綻ばせた。
「観光電鉄たそがれ号、逝き先は黄昏さ! 目的なんて要らない楽しい楽しい楽しい観光! 愉快な仲間達との愉快な一時は如何かな? ナズリーナ!」
 からからと笑いながらペヨーテが語る。
「楽しそう……! あっ、でも」
 薺は困ったような顔でうーんと唸り始めた。
「もう暗いし…観光って言ったら、やっぱり遅くなっちゃいますよね」
「時間はたったの30分なのだぜ」
「じゃあ行きます」
 ペヨーテの一言にあっさり承諾し、薺はぽわんと柔らかい笑みを見せた。
「ペヨーテさん、よろしくお願いします!」
「こちらこそな、お客のナズリーナ。あとバックー」
「鞄じゃないです、ばっくんです」
 吊られてぽわわんと緩んだ笑みになっているペヨーテに案内されながら、薺は電車へと乗り込んでいった。

 §

 こつり。こつり。
 コンクリートで舗装された地面は砂利道よりもずっと歩きやすい。それでもいくらか細かい石が含まれており、靴が地面を叩く度に、じり、と火花が散るのにも似た微かな音がした。
「暗いな……」
 薄暗い坂道を歩きながら、彼はそっと眉を寄せた。
 頼り甲斐のあるがっしりとした体格とは裏腹な、穏やかな紫色の瞳。彫りの深い、理知的な顔立ちはまさに『何処かのお金持ちの旦那様』である。服装は割とカジュアルではあったが、その姿勢の良い歩き方や雰囲気からは、深い教養と育ちの良さが窺えた。
 憂いを湛えた瞳で、悩める旦那様が一枚の白い紙を見つめている。そこに刻まれた文字は、

『今晩のおかず の材料』

「………」
 ――暗くてよく読めない。
 秀麗な眉を寄せ、ユリウスは大学ノートの切れ端と睨めっこしていた。
 奥さんでも居れば一人で買い出しに出掛ける必要も無いのかもしれないが、残念ながらユリウスは独り身である。それを最も哀しんでいるのは当の本人ユリウス……ではなくて、ご近所に住む世話好きなおばちゃま方だ。時々肉じゃがやロールキャベツを振る舞ってくれるのはとても有り難いとは思うけれど、お見合い写真まで持って来られるのは正直困る。
(そんなに……老けてるだろうか)
 おば様方からユリウスは『愛妻を亡くした可哀相な旦那様』と勘違いされているようだが、そもそもユリウスは背広の似合う渋い旦那様ではなく、何を隠そう花も恥じらう28歳大学生である。
 ふぅ、と溜息をひとつ零し、ユリウスは腕時計に目をやった。薄暗くてきちんと読み取れなかったが、五、六時は回っていると思われる。学校帰りに食材を買いに向かっているので、やはり時間帯はこのぐらいにはなるようで。

 こつり。 こつり。
 見上げる空は高く、遠い。
 ビルの背後に落ちた夕焼けが、その輪郭を煌々と黄金色に縁取っている。昼間の光が失われつつある街は、ただぼんやりと、静かな陰に満たされていく。暗闇を恐れるように家の窓に電気が点り、何処からともなく夕食時の微かな雑音や味噌汁の良い匂いが、緩やかな風に乗って運ばれてきた。
 ユリウスは坂道から街を見渡し、人知れず穏やかな笑みを浮かべた。
 と、気を抜いた拍子に、手に持っていたメモがふわりと風にすくわれる。
「あ」
 一瞬慌てそうになったが、強い風では無かったので、遠くへ飛ばされずにぱさりと地面に落ちた。
 拾おうと手を伸ばした――が、彼の手がメモに触れるより先に、何者かがメモを拾い上げた。

「やあ、ごきげんよう。良い黄昏だね」

 ゆぅらり。朱色を孕んだ夕闇に染まる坂道に、濃密な、しかし形の定まらないシルエットが差した。
 ユリウスの前に……ベストを着込み、片目に古めかしいモノクルをした細身の男が佇んでいる。柔らかな微笑を湛えた男――京秋は、拾ったメモをしなやかな手つきで彼に返した。
「どうも、有難うございます」
「何、礼には及ばないよ」
 京秋は顎に手をやると、微笑を浮かべたまま視線を街へと落とした。
「此処は街がよく見渡せる場所だね。良い眺めだ」
「……? そうですね…」
 つられるようにユリウスも街を見下ろす。
「闇、と呼ばれるものにも種類がある。宵闇、暗闇、夕闇……まだ宵闇には早い、今はまさに夕闇。昼と夜の狭間に横たわる時間帯だ。この街は今、夕闇に支配されている」
 ご覧、と街を指し示すように手を拡げる仕草をして見せる。その指先は決して若くは無かったが、水のように滑らかだった。
 一つ、また一つと、民家の明かりが燈されていく。
「まるで夜空に浮かぶ星のようだね。だが、星空と呼ぶには少々味気無い……論理も根拠も無い只の言葉遊びだよ。何故この風景は『足りない』と感じるのか。答えは単純にして明快だ、君は分かるかね?」
 ユリウスは京秋の横顔を見た。街を見渡す左目は……闇の色にも、夜の色にも見えた。
「全部の家に電気が点っている訳では無いから…でしょうか。完全に夜ではありませんから、多少暗くても大丈夫なのでしょうし……まだ家主が帰宅していない家も少なくないのかもしれません」
「そう、それこそが夕闇と宵闇の最もたる違いだ。宵闇が全てを覆い尽くす時、人間は家という唯一の安息の場所へ帰って行く。だが夕闇が地上に蔓延るその時は、未だ全てのものが『帰った』訳では無いのだよ」
 何を言いたいのだろうか。京秋の心中は理解し難かったが、ただ、語る声は心地良く、聞き手に全く不快感を与えない話し方だった。買い出しの途中だと言うことなどすっかり忘れ、ユリウスは彼の語りに聞き入っていた。
「夕闇を恐れず遊び続ける子供も居れば、家で孤独に家族の帰りを待ち侘びている者も居るかもしれない――敢えて言葉にするのなら。実に『中途半端』な時間帯なのだろうね」
 一息。京秋はユリウスに視線を戻し、彼のラベンダー色の瞳を見た。
「君は先程、何を思って街を見下ろしていたのかな?」
 唐突な質問に思わず目を逸らす。が、何も隠す必要は無いと思い至り、ユリウスは苦笑を零しつつ告げた。
「深い意味はありません。ただ……家族の団欒は、良いものだな、と」
「ほう」
 京秋が目を細め、顎に手をやろうとした時……

ゴトトン。

「………?」
「おや…」

 一両の古びた電車が、黄昏に佇む二人の元へ――じゃらりと鎖の音を響かせて、現れたのだった。

『おぉぉい……そっこの、あんたらー!』
 何処からともなく聞こえてきた陽気な声に、京秋はほんの少し眉を上げ、
「君達は……」
 何事かを言いかけ、微笑を浮かべた。


 §

くぅぅぅん。
 何処となく懐かしい古びたエンジン音が聞こえ、車内は小刻みに振動している。
 小さな音とは言えなかったが、まるで胎動のような、心地良い音と揺れだった。

ゴトトン。

 古びた吊り革が、振動に合わせて一斉に揺れた。
 車内の壁は全体的にクリーム色で統一されてはいるものの、所々微妙に色が違かったり、ペンキがぼこぼこになっている箇所があった。何度も塗り直しを繰り返してきたようだ。車両の 前方には『運転セキ』と縦に書かれた木製の扉がある。
 二人掛けの木製の椅子が運転席から左右に二つずつ、向かい合って設置されており、電車の後方部分は、ずらりと並んだ窓の下に左右それぞれ長い椅子が伸びている。
 たそがれ号の内部は、外から見た外観と同じく、やはり昭和レトロを地でいく造りになっていた。

 すっきりとセットされたシルバーグレイの髪の男性は、運転席に背を向ける形で二人掛けの席に腰掛け、車内を見渡していた。日本人の平均身長が低い所為か、長身の彼が座ると、椅子の背からひょいと頭が飛び出すようだ。
(頭が…ゴリゴリする)
 エドガー・ウォレスはのんびりと落ち着いた表情で、壁と椅子の背凭れの僅かな段差に、はみ出た後頭部を預けていた。電車の振動で地味に攻撃力があったが、なんやゴリゴリやで、ぐらいの余裕であまり気に留めていないようである。数々の修羅場をくぐり抜けて来た男にとって、ゴリゴリなど取るに足らぬ痛みなのか――
 エドガー・ウォレスは近未来欧米が舞台のSFアクション映画「ディビジョンサイキック」から実体化した特殊警察官、通称DP警官だ。一般の他部課から回されたリスクの高い厄介な事件、超能力を持つ人間達が引き起こす犯罪を解決していくのが、彼らDP警官の任務である。中でもエドガーの階級は警部に相当する。言わば管理職だが……DPに属する者は皆、能力者に対抗する為に少なからず超能力を持っている。そう、彼エドガーもまた、あらゆる能力者と渡り合える特殊な超能力を身に備えているのだ。
「おっと……今のゴリゴリは痛かった」
 スーツの似合うビジネスマンな外見に似合わず、エドガーは天然ボk――とても穏やかな人格者だった。此処までの説明で執筆者はゴリゴリを使い過ぎた。

ゴトトン。

「いつも兄がお世話になっております」
 ユリウスは長椅子に腰掛ける銀髪の女性に声を掛けると、苦笑交じりにお辞儀した。
「あ、そんなご丁寧に。こちらこそ、」
 知人に丁寧に頭を下げられ、香玖耶・アリシエートは慌てて頭を下げ返した。銀色の髪の間から、紅い石の耳飾りがきらりと光る。
 ユリウスはとある友人の義理の弟で、二人とも銀幕市に実体化してからの知り合いだ。
「こちらこそお世話に……ん? なってるかしら。いや、うん。なってるわね」
「…ご迷惑をお掛けしてない事を祈ります」
 破天荒な兄とは違い、ユリウスはとても落ち着いている。香玖耶はううん、と首を振って笑みを見せた。
「大丈夫、仲良くやってるわよ。あれで結構優しかったりするし。こないだはこないだで……思いっきりビンタしちゃったけども」
「何だか……すみません」
 何かやらかしたんだろうかと眉を潜めつつ、ついつい頭を下げてしまうユリウスだった。
「それにしても……」
 ふと、香玖耶が後ろを振り向き、窓の外を眺める。
「凄く、不思議な感じよね。此処」
「はい……そうですね。何て例えたら良いか分かりませんけど」
 電車の外を走り去っていく景色は、黄金色の海のようにも、或いは夕日を浴びた雲の中を走っているようにも思える。景色と呼べるほどのものでもない、何処までも続く黄昏の色。
 窓ガラスに香玖耶の横顔が写り込む。憂いを帯びているのか、それとも懐かしさに目を細めているのか。その表情の意味は、本人にも分からなかったかもしれない。

ゴトトン。

 京秋は落ち着いた表情で椅子の端の方に腰掛け、電車の内部を興味深そうに観察した後、流れ逝く景色に目を向けた。彼の瞳に笑みの色が浮かんだが――それは普段と何かが違う、例えるなら古い故郷にでも帰ってきたかのような……懐かしさの篭る、穏やかな笑みだった。

「鱧田さん、どうしたら良いでしょうか」
 薺はほんの少し眉を下げ、隣に座る壮年の男に声を掛けた。
「うーん…」
「起こさないでそっとしといた方が良い…かなぁ。ばっくん、どうしよう」
 二人の前の向かい合わせの席には……ペヨーテがどっかりと腰掛け、盛大にいびきをかいて居眠りしていた。
「ペヨーテさん、お疲れなんでしょうか」
「常日頃の体力はこうして補充してるのかも…」
 ふんふん。二人が息もぴったりに揃って頷いた。通路の向かい側からその様子を眺めていたエドガーが、小さく笑みを零しつつ声を掛ける。
「でもそのままだと、首を寝違えるかもしれないね」
 彼の一言に薺が「あっ!そうかも……」と呟いた。

 と、そこで、プツッと何かのスイッチが入る音がして、車内放送が流れ出した。
『観光電鉄たそがれ号へのご乗車、誠に有難うございます。黄昏への旅、どうぞ最後までお楽しみ下さい。何かご用の際は、お気軽に車掌までお申し付け下さいませ』
 タンタンタンターン。
 木琴を叩くような軽やかな音色が聞こえ、もう一度放送が入る。
『業務連絡。………愚弟。居眠りしていたら許さん』
「わぁぁぁ!?」
 頭から水でも掛けられたのかという勢いでペヨーテが飛び起きた。
「わあっ!」
「ひゃぁ!」
 反射的に鱧田と薺が声を挙げる。車両の後方に座っていたユリウスや香玖耶まで目を見開いて驚いていた。
「……な、何!?」
「どうかしたんですか……?」
「いや、気にしないで下さい、すいません…」
 鱧田が慌てて手を振る。
「ペヨーテさん、お早うございます?」
「んー…オハヨー。何か今すげぇ殺意を感じたんだ」
 薺に挨拶を返し、軽く手を振ってくるエドガーに何気なく手を振り返し、ペヨーテがぽりぽりと頭を掻いた。鱧田と薺が顔を見合わせて苦笑いする。

ゴトトン。

 電車が大きく揺れ、再び車内放送が流れた。

『間もなく壱の駅、壱の駅です。お降りの際は足元にお気をつけ下さい……』


§駅ノ壱・丘ヶ色花§

「わあ……!」
 降り立った先は、真っ白い絨毯のような……一面、純白の花畑だった。
 薺は目を輝かせ、ぱたぱたと白い世界を駆けていく。
 ふわり、ふわり。
 いくつもいくつも、視界を覆うように花びらが降ってくる。そっと手を伸ばし、
 香玖耶は一枚の花びらを掌に受け止めた。
「綺麗ね、まるで雪みたい」
 ふわり。
 柔らかな薫りが鼻孔をくすぐる。香玖耶の服装は黒っぽく、純白の花畑の中ではかなり目立っていたが、それは不思議と絵になる風景だった。色の白い香玖耶の肌に、花雪と銀色の髪がはらはらと零れ落ちる。銀髪が頬をくすぐるのは、精霊の悪戯だろうか。
「此処、は……」
 ユリウスは呆然と立ち尽くし、花畑を見つめていた。何処までも続く真っ白い世界の彼方に、大きな教会が見える。
「……黄昏です。忘れられし、思い出の欠片」
 いつの間にか隣に立っていた運転士のアーピェンが、ぼそっと呟いた。
「『思い出』か。ならば一体、誰の為のものだろうね? この思い出とやらは」
 京秋の微笑混じりの質問に、アーピェンは無表情で頷いた。
「……それは、御本人が一番ご存知の筈です」
 答えを示すかのように、二人の前を、ユリウスがゆっくりと歩いていく。

 白い花が咲き乱れていた。ユリウスは知っている。
 風景こそ見知らぬものだが、彼はこの花を、よく知っている。
「……マーガレット」
 白い花が咲き乱れていた。それはとても大好きだった、たった一人の、掛け替えのない、
(――姉さん)
 大好きな姉の、大好きな花だった。


 愛情は時に絆となり、擦れ違いとなり、檻となる。
 たったひとつの切り傷で、信じていたものがぱりんと砕け散ってしまう事もあるかもしれない。けれど、例え一時の過ちを侵そうとも、愛情が深く強く清らかなものであれば、もう一度取り戻す事が出来る筈だ。
 愛したその人が、命を落とさない限りは。

『お前は出来の悪い子だ』
『何故貴方のような子が、オードフォール家に生まれなければならなかったの』
 両親の口から放たれる言葉はいつも似たようなものばかりで、その言葉を聞かされる度にユリウスは目を逸らした。
(俺にどうしろって言うんだ)
 努力はしている。けれど『出来が悪い』と、何をやっても駄目な奴だと言われてしまえば、全ての努力はその言葉の前に塵と化す。
『何故貴方のような子が――』
(……だったら何故)
 何故、生んだ。


「花言葉は……何だったかな」
 なるべく花を踏み潰さないように、足元に気をつけながら歩いて行く。
 日の当たる草原があれば、何処にでも咲いてしまうような他愛もない花だ。薔薇のように豪華でも無ければ繊細でも無い、逆に言えばあまりにポピュラー過ぎる花。季節がやって来ると群れるように咲き乱れる。この花は虫がつきやすいのだ。だから綺麗好きな貴族には毛嫌いされていた。
 それでも姉は、この花が大好きだと言った。
 だから俺も――
(俺も……?)
 脳裏を掠めていく言葉があまりにも不明瞭で、思わずユリウスは立ち止まって地面を見つめる。
 マーガレットの花は相変わらず、無垢な姿で咲いている。


 素直で賢い姉は両親から愛され、大事に育てられてきた。それを羨ましいと思った事は無い、と言ったら嘘になる。けれどそれ以上にずっと、ユリウスは姉を心から尊敬していた。
 家の中で居場所の無いユリウスにとって、彼女は唯一の味方だったのだ。
 姉が居てくれるから自分は、この家で暮らして行く事が出来る。きっと理解してくれている――そう思い込んでいたのかもしれない。
 だから彼女が、
『私、好きな人と一緒に……居たいの』
 その言葉をユリウスに告げた時、ユリウスの顔に優しい笑顔は浮かばなかった。
『………』
 おめでとう、たったその一言を告げるどころか、ユリウスは彼女に背を向けたのだ。
 彼女はきっと、彼の背中に手を伸ばした掛けただろう。
 きっと、苦しい表情に精一杯の笑みを浮かべて俯いただろう。
『……ごめんね』
 ぱたん。扉の閉まる音がした。
 それきり、だった。

 これがユリウスの、二度と償う事の出来ない『失敗』だった。


「兄さんの事……ずっと、許せなかったんだったな」
 当時のユリウスにとって、彼は大切な姉を奪った憎しみの存在でしか無かった。
 大切だった姉の好きな人を同じように大切に思える程、ユリウスは大人では無かったのだ。何よりも彼女が手の届かない所へ行ってしまう気がして、心に暗い陰が差していた。

 愛情は時に絆となり、擦れ違いとなり、檻となる。
 一時の過ちは一時の過ちでしかない。二度目に償おうとも、永遠に取り戻す事は出来ないのだ。例え愛情が深く強く清らかなものであろうとも。
 大好きだったその人は、二度と手の届かない所へ逝ってしまったのだから。

『なんと、馬鹿な……!』
 母親のすすり泣きが聞こえる中、父親が口汚く吐き捨てる声がした。
『ユリア、ユリア……ううっ』

『貴女は……オードフォール家を穢す事は無いと…信じていたのに……!』

 姉に向けられていた愛情は? こんなちっぽけなものに過ぎなかったのか?
 ユリウスはこの時初めて、大切な事に気が付いた。姉は駆け落ちして正解だったと。
 そこに、姉の幸せは在ったのだと。


 ふわり、ふわり。
 マーガレットの花弁が振り散る中、薺と鱧田が花畑に座り込んでいた。香玖耶が近付いて覗き込み、やがて一緒に座り込む。
「はい、香玖耶さん」
「ん?」
 薺の手にはマーガレットの花を編み込んで作った花輪が用意されていた。
「あら、くれるの? 有難う」
 頭を下げ、首に花輪を掛けて貰う。代わりに、と言って香玖耶は薺の髪を梳かし、可愛く三つ編みにし始めた。花冠をつけたバッキーが、肩からひょいと薺の膝に飛び降りる。
「三つ編み二つにして、輪っかにしたら可愛いかしら?」
 何だか照れます、と薺が笑った。鱧田は時折二人の様子を眺め、スケッチブックを広げて絵を描き始める。その絵には、花畑と教会と、花の中を歩いて行くユリウスの後ろ姿が描かれていた。

 ユリウスは教会が見える位置まで歩くと、ぼんやりと空を見上げながら立ち止まった。
「大丈夫かい?」
「え?あ……はい」
 首にマーガレットの花輪を下げたエドガーが、ゆっくりと歩いてきた。
「色々、思い出してしまって。私には亡くなった姉が居るんです」
 ユリウスの言葉にそうか、とだけ呟いて、エドガーはほんの少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「俺も昔、大切な人を失った事があるんだ」
 ふわり。白い花弁が振ってくる。
「彼女との別れは辛かった。けど、辛かった事も楽しかった事も、何もかも――掛け替えの無い思い出だよ」
 ふわり。

 掛け替えの無い思い出。その言葉を心の中で反芻した時、
「ユリウスさーん」
 薺が手を振って呼んでくるのが聞こえてきた。振り返ったユリウスの瞳に……その光景が飛び込んできた。


『ユリウス』
 記憶は幼い頃にまで遡る。
『ユリウスったら、こんな所に居たの』
 建物の陰でしゃがみ込んで石ころを弄って遊んでいたユリウスの元に、少女はやってきた。
『ねえさん……習い事は?怒られるよ』
『いいの、それよりも』
 彼女は首を振り、ユリウスの手を引っ張って日の当たる庭にやってきた。
『一緒に遊びましょう』
 楽しそうに鼻歌を歌いながら、咲いていた一輪の花を摘む。もう一輪摘み、くるりと絡ませる。
 出来上がったのは真っ白い花冠だった。
『これはね、マーガレットよ。私の大好きな――』


「あ……」
 それは失くした宝箱の鍵を見つけた時のような感覚だった。懐かしい思い出が今、ぱっと鮮明に、ユリウスの中に蘇ってきた。
 ずっと忘れていた。
 姉と過ごした、とても些細で、大切な思い出を。
 あの時確かに感じた、大切な気持ちを。
 あまりに小さな出来事だったから、記憶の彼方に忘れ去っていた。
(俺も――マーガレットが大好きだ、姉さん)
 姉の大切なものだから。自分も大切にしよう、と。

ゴトトン。

 アーピェンが早歩きでやってきて、無表情で告げる。
「お時間です。発車時刻となりますので、お早めにご乗車下さい……」

ゴトトン。

 花畑を後にして、電車はゆっくりと走り出した。

 開け放たれた古びた窓枠の向こうから、ふわりと幾らかの花びらと、柔らかい花の薫りが流れ込んでくる。優しい風を頬に受けながら、ユリウスは窓の外を眺めた。
 遠く離れつつある花畑へ、かつて言えなかったあの言葉を贈る。

 結婚おめでとう。
 出産おめでとう、それから、
 傍に居てくれて、有難う。

 言葉は口から紡ぐ事無く。敢えて心の中で呟いた。
 せめて、このたくさんのマーガレットが、貴女への花束になれば良いと。

 §


ゴトトン。

「車掌さん達はいつも何処に居るんですか?」
「んー?そうだなー、排水溝とか蛇口の中かな」
「え、ええぇ……!」
 ペヨーテと薺の妙な会話の向こうでは、香玖耶が鱧田のスケッチブックを覗き込んでいる。
「絵本って素敵よね」
「そうですか?」
 何気なく呟かれた言葉に、鱧田が照れ笑いする。
「どんなお話を知ってます?」
 映画が違うと童話も変わるかな、と鱧田が興味津々尋ねると、香玖耶はうーんと首を振り、言った。
「絵本を読み聞かせて貰った事無いのよ。私、孤児だったから」
 親の居なかった香玖耶にとって、絵本を通して親が子供に与える無償の愛情は、一つの興味で有り純粋な憧れでもある。
「素敵よね、そういうコミュニケーションって」
 香玖耶の笑みに鱧田が眉を下げる。
「あ、いいのよ、気にしないで……それよりも、せっかくだから何か聞かせて?」
「あ、じゃあ。自分が描いた絵本で……」
 スケッチブックを香玖耶に渡し、何ページが開かせた。
「絵を描く魔法使いの話とか。絵の街から奪われた色を取り戻す為に、悪い魔女をやっつけに行くって話ね」
「ふんふん」
「これは知り合いの映画監督に気に入られて、映画化して貰った奴だったなあ」
「ふんふん」
 いつの間にか、香玖耶の周りにギャラリーが集まって、一緒になってふんふんと頷いていた。


§駅ノ弐・園公空青§

『弐の駅、弐の駅です。お降りの際は、足元にお気をつけ下さい――』
 車内放送と共に入口から真っ先に飛び降りたのは車掌ペヨーテだ。電車の外へ出た途端、「ふーん」と一人で頷き始めた。
「こりゃあまた見事だな」
 電車から降りたユリウスは、ペヨーテが眺めているものを一緒になって見上げてみた。
 それは、青空だった。
 まるで海原のような真っ青な空が、何処までも果てしなく、天上いっぱいに広がっている。青い海を横切る飛行機雲が伸びる以外は、雲のひとつも無い。
「青空かぁ。綺麗だね」
 よいしょ、と呟きながら鱧田が降りる。続いて、薺やエドガー、京秋が電車を降りた。
「様々な形があるようだね。こんな快晴にすら、黄昏は姿を変えられるとは。……最も。望む望まざるに関わらず、だろうが」
「ほんと、人間ってこれだから愉快だぜ」
 ペヨーテは、微笑を浮かべる京秋と首を傾げる薺の前を通り過ぎ、鼻歌を歌いながら空を見上げる。
「こんなにさっぱりしちまってさ。よっぽど思い出を余すこと無く、大切にしてる奴なんだなー」
 くるりと後ろを振り返ると、面子を見渡してこう言った。
「はーい、この風景に見覚えがある人は手を挙げてー」
「はい……?」
 陽気な車掌の突拍子も無い質問に、一同は首を傾げた。
「どうだろう」
「……うーん…」
「空はいつも見てるよ?」
「あの。漠然としすぎでは無いでしょうか」
 ユリウスが控えめに挙手しつつ尋ねると、ペヨーテはうーんと唸って、
「うんじゃあ…此処に見覚えがある紫の目の人ー」
「えー……?」
 微妙に質問を変えた。
「ユリウス君かな」
「香玖耶さん?」
「エドガーさんもですよ」
「そういう薺ちゃんもだよ」
「あ。忘れてました……!」
「一人抜けているよ。運転士の彼、アーピェン君がね」
 と言うか、皆ほとんど紫色じゃあ――などと根本的な事に気が付いた人が居たかは知らないが、一同は口々に言ってから、揃ってペヨーテを見た。
 で、彼はと言うと。
「えっとー。此処に見覚えがある紫色の目でスーツの人ー」
「何で、スーツ……」
 更に微妙に変えられた質問に暫し首を傾げ、一同は顔を見合わせた。
 やがて、皆の視線がゆっくりとエドガーに向けられる。彼らが気付く前から、既にペヨーテはエドガーをじーっと見つめていた。
「……」
「……」
「………」
「………うん?」
 エドガーは涼しげな笑みで面子を見回し、
「――あ、俺か」

 ようやく自分だと気が付いた。
 ――遅っ。などと心の中で突っ込みを入れた人が居たかは知らないが、ペヨーテはからからと笑ってエドガーの肩を叩いた。
「そうそう、あんただよ。気付くのおっそいぜー全く」
「――分かってたなら何故に問い掛けた……?!」
 流石に鱧田が突っ込んだ。

「という訳でエドさん。お散歩いってらっせー」
「その呼び方は…変な感じがするよ」
 エドガーは苦笑を零し、とりあえずその辺を眺めながら歩き出してみた。
 青空ばかりに目がいっていた為に気が付かなかったが、空の下に広がる景色は、とても奇妙なものだった。
 黒いアスファルトの地面が、所々、干上がった川のように亀裂が入り、ひび割れている。その割れ目から樹木が幾つも顔を出していた。まだ葉の柔らかい幼い木も有れば、青々と生い茂った樹もあった。どの木も背が低く、エドガーの身長の半分ほどしかない。
(見た事が無い、こんな場所は)
 そもそもこんな風景は現実に有り得るのだろうか。
 異質な空間を、エドガーはぐるりと見回した。

 ふと、簡素なベンチがひとつ、エドガーの前方に在るのが見える。
 つかつかと近付いていき、ベンチを見下ろした。

『エドガー』
「………」
『エドガー、ハッピーバースデー』

 ――幻聴だ。耳から聞こえてくるのではない、記憶の中に刻まれている声。長い年月が過ぎてなお、脳が忘れる事を許しはしない。
『――こんなにさっぱりしちまってさ。よっぽど思い出を余すこと無く、大切にしてる奴なんだな』
 先程のペヨーテが放った言葉を思い出し、苦笑した。
「余すこと無く大切に……か」
(――いや)
 全てを受け入れられるほど人間は強くない。ただ、過ぎ去った月日の前に傷みが和らぐか、風化してしまうだけだ。
 どちらにせよ、少しずつ忘れていく事で、人は自分を保っていられる。

「――ミリアム」
 エドガーは薬指に嵌めた細い指輪に触れ、今は亡き愛しい人の名前を呟いた。こうして何気なく彼女の名前を口に出来るようになるまでに、どれほどの時間が掛かった事だろう。

 ――俺は今でも君と共に在る。けれど、君はもう居ない。

 思い出に縛られている訳ではない。思い出にしか生きられない訳でもない。それでも、エドガーの誓いが破られる事は無かった。例え彼女が喪われて十数年が経とうとも。その全てはエドガーの中で、大切な思い出として息づいている。

 傷みも。
 哀しみも。
 血まみれの贈り物も。
 砕け散ったフロントガラスも。
 無残にひしゃげた車も。
 冷たい指先も。
 二度と開かない瞳も。
 最期の口付けも。

 笑顔ばかりではない、苦しみの記憶でさえも。二度と重ねる事の叶わない、失われて逝くだけの不安定なものを抱いて、それでもエドガーは想う。俺は今でも君と共に在る、と。

 エドガーはベンチに腰掛け、空を見上げた。今は居ない彼女の思い出を心に浮かべて。


 十数年、いや、二十年は昔になる。当時はDPではなくそもそも警察官ですらない、一般企業の会社に勤めていた。あの頃は本当に若かった、と思う。判断の甘さで多くの失敗をしたし、感情を抑え切れず冷静さを欠いた事もあった。
 当時のエドガーには恋人が居た。仕事や生活で辛い事があった時、彼女はそっと身を寄せてきて、
『……』
 どうしたの、と聞いたりせず、ただ静かに腕を絡めてきた。何も言わない優しさが心に染みた。勿論、聞かせたくも無かったので弱音を吐いた事は無かったのだが、どういう訳か、いつも彼女には見抜かれていた。

『エドガー、どうしたの。急に改まって』
『話があるんだ』
 首を傾げるミリアムに、ひとつの小箱を差し出した。

『結婚しよう』

「あの時のミリアムの顔は……今でも忘れられないな」
 微笑を零し、空を見る。
 エドガーの想いは本物だった。自分の未来を托し、託されるなら、彼女しか居ない、と。
 だが――二人で生きていく筈の未来は、訪れることは無かった。


§車内風景§

 たそがれ号は現在停車中により、モーター音やあのゴトトン、という駆動音は無く、車内は静まり返っていた。
「……どうぞ」
 窓の外を眺めている香玖耶に、アーピェンが緑茶の入った湯呑みを差し出す。有難う、と言って、香玖耶は湯呑みを受け取った。
「……御気分が優れないようですが」
「え?ああ、そんなじゃないの」
 顔色を窺うように見つめてくるアーピェンに首を振り、香玖耶は小さく笑みを見せた。
「大した事じゃないんだけど、ね。何て言うか、綺麗な空だなあって」
 目を細め。
「私の思い出は……こんな色をしているかしら」
 青い青い空が、窓の向こうに広がっている。

 §

『エドガー』
『何だい?ミリアム』
『もうすぐやってくるハッピーデイは何の日?』
『さあ、何だったかな』
『お茶目でマイペースな人の誕生日よ――』

 悲劇は突然、だった。
 彼女は会社から帰宅途中だったようだ。いつものように車に乗って、いつものように道路を走っていただけだろう。突然現れた暴走車に避ける間もなく接触し、彼女は還らぬ人となった。
『逃走中の殺人犯、だったそうです。相手側の車を運転していたのは』
『可哀相に……』
 潰れた車から彼女の亡き骸と、小さな小箱がひとつ、出て来たらしい。
 血で黒ずんだカードには、
『ハッピーバースデー エドガー』
 と。
 赤茶色に染まる潰れた箱を抱き締め、エドガーは冷たくなった彼女に最期の口付けをした。
 何故、何の罪も無い彼女が失われなければならなかったのか。
 何故、彼女が。どうして。
 この世に正義というものが存在するのなら、何故、理不尽な殺生が許されてしまうのか。
 空を割るような慟哭を受けても、天上は変わらず、青々しいままだった。

『エドガー・ウォレスさんですか』
『そうですが』
『先日、見事な腕前で強盗犯を撃退したと聞きました。敬意を評すると共に……ひとつ、お話を持って来ました』
『話ですか』
『是非、貴方の力をお借りしたい。この街を守る為に、一人の警察官として』


 果てない空は涙の色に似て優しく、追憶の木々は育つ事なく、それでも地を割って力強く根付く。ずっと昔に鳥は飛び立ってしまった。
 今となっては過去でしかない、一人の男の思い出話。
『エドガー』
『ミリアム。君は此処に居たのか』
『いいえ、私はずっと、貴方の傍に居る』
 すっと手が伸びてくる。悪戯に目隠しをしてくる両手に触れ、小さく笑みを零した。
『ミリアム……俺は君を忘れたりしない。けど、君の為にもう、泣く事も無い思う。こんな俺を、どう思う?』
 くす、と笑い声がした。
『そんな事気にしなければ良いのに……貴方は未来へ行く人だから』
 だから。今まで通り、先へ進んで。
『ミリアム……』
 エドガーはその手を解いて振り返ろうとしたが――いや、と呟いて、結局振り返る事は無かった。


「お、此処にブランコが在るぜ。ちょっと遊ぼう」
 アスファルトの上にタイヤがぶら下がった遊具を発見し、ペヨーテが薺とユリウスの手を引いて走り出した。
「良いか?見とけ!俺の超必殺技たそがれローリングを!」
「ペヨーテさん、それは危ないからやめた方が………うぐっ」
「ユリウスさんが巻き込まれてる!ブランコそんな風に遊ぶなよってわぁぁ」
 騒がしいじゃれ合いを眺め、危ないけど楽しそうですよね、と京秋と目を合わせ、薺が笑った。
「いつの間にか仲良しだ」
「あ、エドガーさん」
 後ろからやってきたエドガーに目を丸くし、ぺこりとお辞儀する。
「そろそろ時間かと思ってね、戻ってきたんだ」
 ブランコで無茶苦茶に遊ぶペヨーテが、エドガーの顔を見つけ、おー、と言って飛び降りる。
「おかえり。そいじゃ、電車に戻るか」
 一同は歩き出し、電車へと戻って行った。

 例え誓った未来を失おうとも。命の在る限り、人は生き続けなければならないから。
それが、愛した人の命を、繋ぐ事にもなる筈だから。

 §

ゴトトン。
「この街の事をどう思う?」
 エドガーの何気ない質問から、その話題は始まった。
「そうねー…平和な街、かしら。ワイワイしてて毎日楽しいわ」
 長椅子に腰掛けた香玖耶が、カボチャのチョコレートを片手に、にっと笑んで答える。チョコレートは薺から貰ったものだ。
「ご近所の方々が親切で、暖かい街だと思います。今まで出来なかった事にも挑戦出来てますし」
 自分のカジュアルな格好に目を落とし、ユリウスが苦笑を零した。
「『不思議』な街、と一言で言い表せば簡潔に片付くかな」
 長椅子の端に座る京秋は、すっと足を組み直し、一同を見渡して言った。
「あまり論理的では無いがね。町並みや風景、生活感こそ私が見てきた世界と些かの違いが有るが……そこに住まう人間の価値観や心理というものは、あまり差が無いと感じるよ」
 ゴトゴトと揺れる電車に、京秋の深く静かな声が響く。
「そうか」
 何度か相槌を入れながら皆の話を聞いていたエドガーは、小さく頷き、今度は隣に腰掛ける薺の方を見る。薺は京秋から貰った鳥の形の飴を美味しそうに食べていた。
「これ、可愛いですねー」
「ハロウィンの時期だからね。仮装した子供達にあげようかと持っていたものだよ。美味しいかい?」
「きっと夜に飛んでる鳥を取っ捕まえてぺったんこにして、飴にしちまうんだぜ」
「ええぇ……!!」
 そんな訳ないでしょと香玖耶から裏拳ツッコミを喰らいながら、ペヨーテがテケテケと笑った。そんなやり取りを微笑ましげに眺めつつ、エドガーが口を開く。
「この街では、我々ムービースターも君達、この街に住む人々と同じようにシナリオに縛られる事なく、在るがままに生きて行ける。もし、」
 すっと目を伏せ。
「もし、誰かがこの街の行く末というシナリオを作ろうとも……君達なら、その脚本家の度肝を抜くアドリブをこなせると信じているよ」
 薺はバッキーを抱き締め、こくりと頷いた。安心させるように笑み、エドガーが薺の膝の上に居るばっくんを撫でる。
「頼もしいナイトもついているしね」
 む?と首を傾げ、バッキーがエドガーの手を、長い鼻でちょいちょいと突いた。
 この先に何が待ち受けているかは誰にも分からないが……何があっても、強く前向きであって欲しい、と。それは穏やかな応援であって、力強い励ましの言葉だった。

ゴトトン。

『間もなく、参の駅、参の駅です。お降りの際は足元にご注意下さい……』


§駅ノ参・(フテコヨクハコ)丁横珀琥§

 黄金色、と言えば良いのだろうか。黄と朱色の入り混じった、蜂蜜の色にも似た光が、辺りの建物に降り注いでいた。光は暖かさを帯びて柔らかい。紅い漆塗りの六角堂や、錆れた円柱のオブジェが建ち並ぶ不思議な空間に夕焼けのような光が振り注ぎ、その陰を細長く延ばしていた。
「けーんけーん」
タ ン、タン、タン。
 声と共に、軽やかに地面を蹴りつける音が響く。
「ぽ」
タタン。
 続いて、着地音。
「あれ?『けんけんぱ』……じゃなかったでしょうか」
「え?けんけんぽでしょ?」
 あれ?と首を傾げる薺に、香玖耶がきょとんとした顔で振り返る。
「けんけんぱ、では?」
 香玖耶と薺の後から、ユリウスが軽く息を切らしながらやってきた。
「それよりも、どうして私達は――けんけんぱをして遊んでいるのでしょうかね」
「さあ……?」
 薺はともかく――優しい夕焼けの光の中を、銀髪の女性や背の高い旦那様や電車の車掌が並んでけんけんぱをして遊んでいる様子は、何だか奇妙である。
「後ろから無表情で片足上げて進んで来るのって、妙な怖さがあるわね」
 香玖耶が最後尾に居るアーピェンに目をやると、彼は何故か無言で小さくお辞儀した。


こつ、こつ、こつり。
 軽やかな足音がよく響く。
 緑青がこびりついた銅像や、毒々しい赤色の鳥居を颯爽とくぐり抜け、京秋は先へ先へと歩き進んでいた。
 目的地などはない。歩みに淀みが無いのは、寧ろ目的なく進んでいるだけ、だからかもしれない。
(――またか)
こつ。
 京秋は立ち止まり、辺りを見回した。
「………」
 周囲は耳鳴りのするような静寂に包まれ、誰の姿も、ましてや陽炎のように揺らぐ黄金色の夕日以外、動いているものすら無い。
 だが、京秋は気付いていた。自分の移動に合わせて、脇を通り過ぎていく壁やオブジェの陰に、不自然なシルエットが蠢いていた事を。
 そして、こうして立ち止まる事で分かる、
「―――」
 微かな、何者かの気配。

(私に用でも在るのか、やれやれ)
 一緒に電車に乗っていた彼らの気配ではない事は確かめるまでも無い。彼らがこんなこそこそと陰湿に尾行してくる訳が無いし、第一誰もこのような――『影』の気配を纏っては居ないからだ。
 だから、京秋は歩き進める。
 相手の意図を窺うように。
 歩もうと立ち止まろうと、特に何かしてくる様子は無いので、危害を加えるつもりは無いようだが、
(――いや。そうとも言えない、か)
 そもそも目的も無く、いつも気まぐれに動き回る奔放で野蛮な知り合い――京秋としては知り合いと思いたくも無いのだが――が居た事を思い出し、深く溜息を吐いた。


§車内風景§

 鱧田がスケッチブックを開いて、窓の外に広がる風景をスケッチしていた。
「絵を描いているのかい?」
 エドガーは隣に腰掛け、鱧田の鉛筆の動きを眺めていた。
「ええ。癖、のようなものです。綺麗な風景を、こうしてスケッチブックに綴っておくのは。最近は何だか……良い歳した大人が、って気分になるんですけどね」
 絵を描きながら、鱧田は語り始めた。
 絵本創作の楽しさを。
 最近感じる、なんて事の無い淋しさを。
 いっそやめようかと考えている事を。
 淡々と吐き出される彼の思いを、エドガーは相槌を入れながら静かに聞き、そっと告げた。
「夢を与える仕事に、もっと誇りを持つべきじゃないかな」
 説教ではない、優しいアドバイス。
「人間の心を育む為に、絵本は必要なものなんだよ。親に絵本を読んで貰って喜ぶ子供達の姿を想像してごらん」
「……そうだとは、思うんですけどね。頭では、形として分かってるんです。でも」
 スケッチブックを見つめ、鱧田が呟いた。
「それは自分の本である必要は無いんじゃないかと」
「君の、お子さんは?」
「とても喜んでくれましたよ。でも数十年も昔の話です。もう、よく覚えて無いんです」
 白髪混じりの頭をかき、苦笑を零した。

 §

こつり。こつり。
 前方に紅い漆塗りの六角堂が見えてきた。六角形の屋根を柱6本が支えるだけの、壁の無い木造建物だ。避けて通るか突っ切ろうか一瞬迷って、結局突っ切る事にした。

こつ、こつ、
 石畳を歩いていく。

コツ。
 紅い段差に足を掛ける。

コツ。コツ。
 柱と柱の間を通過する。

コツリ。
 立ち止まった。

「私に何の用だ」
 気配は濃密だった。
 いつの間にかすぐ背後に居る何者かへ、京秋は振り返る事なく声を投げ掛けた。
 肩越しにちらりと視線を送る。

「………」

 相手が動じる様子は無い。
 間違いなく気配は在る。息遣いが聞こえる。
 こちらに一撃を投じて来る可能性を頭に入れつつ、京秋が動いた。
 動作は簡単だ。振り返るだけで良い。

「――」
――ザザッ。

 京秋が背後に向き直ると、尾行者は素早い動きで近くのオブジェに姿を隠した。
 その一瞬の間に、京秋の瞳は相手の姿を捉えていた。
 長い黒髪の女、のように見えた。

 京秋が目を細めた次の瞬間、

ザッザッザッ
ザン、ザッザッ

 異変は京秋の前方ではなく、彼の周囲で起きた。影が、生き物が六角堂の周囲をぐるぐると走り回っているかのように――何かのシルエットが、次から次へと柱に写り込んでいく。右へ、右へ、奥へ、奥から、左へ、左へ、後ろへ回って、まるで遊んでいるかのように、ぴょんぴょんと跳ねるような影は写り込んでいるものの、その影を作っている筈の本体は、何処にも無い。
「いい加減にしたらどうだ」
 姿の見えない相手へ、飽きれているような、僅かに怒りが篭る静かな声で京秋が言った。

 だが、相手にやめる気配は無い。

「―――」
 こんな『おふざけ』を仕掛けてくるのは彼女ぐらいだろうと、思わず口にしたくも無い知り合いの名前を言い放ちそうになったが、

 とうか、と言い掛けた所で、京秋の片眉がぴくりと動いた。

 悪戯な黒髪の、女。
 まるで、気付け、と言わんばかりに。

 京秋の僅かな動揺を悟るかのように、相手の動きが変わった。
 影が突然、消えて。
 京秋の視界の中央――柱と柱の間から、ゆっくりとその人物は立ち上がった。
 細い腕と首筋は病的に白く、しかし体つきはしなやかで女らしい、妖艶な女性の後ろ姿がそこには在った。美しいラインを描く背中に、滑らかな黒い髪が流れ落ちる。
「……君は」
 京秋はその後ろ姿を知っていた。橙香(とうか)のものでは無い。それは、その女性は。
 女が、ちらと肩越しにこちらへ視線を送ってくる。切れ長の金色の瞳が笑っているようにも見えた。
「―――」
 京秋の口から声が発せられたかは、本人にも分からなかった。ただ、その口元は、たった二文字の名前を呟いていた。
 ――絢(あや)、と。


 羽根をもがれ、喉を噛み千切られ、腸(はらわた)をずるりと食い尽くされ、その夜色の鳥は、自身の真っ赤な血に染まる。本当に血の色をしていたかは、よく分からない。闇色の霧だったかもしれない。激烈な赤色は、激しい怒りが引き起こした錯覚だったかもしれないし、迸る激痛が見せた幻だったかもしれない。
 それは遠い遠い昔の話。
 全ては朧な闇の中へ。

 漆黒の翼を持つ闇の住人だった筈の彼を喰らったのは、美しい黒猫の妖魔。
 名を、「絢(あや)」と言った。
 金色の瞳を爛々と光らせ、真っ赤な口からは血に濡れた白い牙が伸びていた。悍ましい筈の姿を、どうして美しいと感じてしまったのか。
 身体を失った一羽の鴉はやがて闇へと沈み、数十年という長い年月を、自らの形を成せずに闇と同化して過ごす事となる。かつて愛した筈の女へ、激しい憎悪を燃やしながら。
 それは遠い遠い昔の話。
 全ては朧な闇の中へ。


(……絢)
 京秋は目を細め、女の後ろ姿を見つめていた。
 彼女はその線の細い横顔をちらとこちらに向けるだけで、振り返ろうとはしない。
 京秋の眉が潜められた。それは怒りによるものでは無く、強いて言うなら、「何故だろう」と。
 喰らい尽くされた頃は、彼女への激しい怒りと絶望が在った筈なのに、何故か今、こうして彼女と対峙する京秋の胸の内に、激情は込み上げて来なかった。哀しみですら込み上げて来なかった。判然としないそれは何色の感情なのか、疑問と共に小さな驚きが沸き上がる。
(気も遠くなるほどの長い年月の間に――)
 許したい、などと思った事は無かったのに。
(――あの感情は色褪せてしまったのだろうか)
 ならば、忘れたい、とでも思っていたのだろうか。

「絢」
 どちらもお互いの距離を縮めようとはしない。二人の間を埋めるのは、黄金色の夕焼けの光だけだ。少し離れた位置に居る彼女へ、京秋が言葉を贈る。
 その背中を懐かしいとさえ、感じながら。
「感情が一巡りして――また君を、愛しいと思えるようになってしまったみたいだ」
 苦笑。

 女は背を向けたままだったが、横顔が、その口元が、言葉を紡いだ……ように見えた。

 秋。
 久しぶりね。
 貴方って相変わらず、

――ゴーン。ゴーン。ゴーン。

 突然、何処からともなく古びた鐘の音が鳴り響いた。
 京秋がふと顔を上げ、戻した時にはもう――彼女の姿は何処にも無かった。
(……お互い様だろう。相変わらずなのは)
 やれやれ、と溜息を一つ零した。

「……京秋様、いらっしゃいますか。京秋様」
「京秋さーん」
「おっと。私は此処に居るよ」
 たそがれ号の彼らが探し回っている姿が見え、京秋は軽く手を振りながら戻って行った。

 §

ゴトトン。

 電車の心地良い揺れに身を預けながら、香玖耶が口を開いた。
「皆は……思い出の篭った品物って有る?」
「思い出の?」
 鱧田が目を丸くする。
「大切にしている物や思い出深い品物には、少なからず力が宿るものなの」
「場所によっては魔道具、もしくは工芸品(アーティファクト)と呼ばれるものの事かね?」
京秋が片眉を上げて尋ねた。
「祭事の際に使用される杯や、魔女の刃『アサメイ』などが良い例だ。『物も歴史を刻む』という考え方は、古来より割と多くの土地で根付いている」
「ええ、そんな感じ」
 京秋の言葉に、香玖耶が頷いた。
「最も、私達の世界ではもっと分かりやすく具現化しちゃうんだけどね。力としても、意思としても」
 『意思』――その言葉の重さを香玖耶は知っている。
 彼女の出身映画では、物に遺された強い想いは、精霊というひとつの存在に変じる。彼らと契約し、その想いを自らの中で繋いでいくのが香玖耶の役目であり、エルーカの宿命だ。
「簡単に言えば、想いは力になるって事」
 『想い』が如何なるものか知っているからこそ、香玖耶の興味心がつき動かされたのかもしれない。
「俺は、これかな?婚約指輪なんだ」
 薬指にはめた指輪を見せ、エドガーが笑んだ。
「自分はこのスケッチブックとか。もう言わずもがなかな」
 はは、と鱧田が頭をかく。
「わ、素敵ですね……。私はそうですね。料理用のお玉でしょうか」
「お玉……!?」
「はい。たくさんの料理を味わい尽くしたプロなお玉です。おばあちゃんの代から使ってたらしく」
 ある意味何よりも強力な力が宿っているのではないか、とか妙な想像をしてしまった香玖耶だった。


§駅ノ肆・(ミズイノフコンセ)泉ノ紅鮮§

 絆が深い程、愛情が大きい程に、想いは、遺された者を縛り上げる茨と化す。
 その哀しみを消し去る事が出来ず。遺された彼女の心に、僅かな渇きと長い長い月日を与え――
 錆びつく筈の想い出は。今なお鮮烈な痛みとして、彼女の中に生き続けている。
 無限の時を生きる彼女と共に、終わる事なく、永遠に。

 ちゃぷん。

 地面につけた筈の足に冷たい水の感触を覚え、香玖耶は漸く、足元が浅い水で満たされているのだと気付いた。
 真っ暗闇の世界は音も無く、僅かな月明かりでさえ内包しない。
「暗いわね……」
 電車から漏れる明かりを頼りに、香玖耶は数歩だけ闇の中へ進んでみた。
「……何かがあるようには、思えないけど」
 歩むべきかやめておくべきか考え始める香玖耶の元へ、ゆっくりと丸い光の球体が近付いてきた。提灯を掲げながら歩いてくるのは、車掌ペヨーテだ。
「おいカグヤッコ。忘れもんだぜ」
 ペヨーテは手に持った提灯を揺らし、香玖耶に渡した。
「ちょ……変てこ過ぎよ、そのあだ名は」
 思わずツッコミを入れる香玖耶をにやにや眺め、ペヨーテは首を傾げて見せる。
「何にも無いなー、此処。何でだろな?」
「そんなの、聞かれても分かんないわよ」
 訝しげな香玖耶へ、車掌は告げる。
「良いか?教えてやるよ。黄昏は失くしちまったもんが落ちてる場所なんだ。失くしちまったもんって何だか知ってるか?」
 ちゃぷん。
「どうでも良かったもんは、此処へは、やって来ない。そんなもの、人間は鼻っから覚えてすらいないからな。失くしちまったもんってのはな――あんたが忘れたく無かったものの事だ。香玖耶」
 提灯を握る香玖耶の手に、僅かな力が篭る。
「私が、忘れたくなかったもの……」
 そうだ、と頷き、車掌は香玖耶の前に立つ。
「忘れたくなかったものがあんたの手を離れた時、そいつは此処へ辿り着く。凝り固まった、それでも結局忘れられた、哀しい姿を晒して」
 両手を広げて、何も無い世界を指し示した。
「今のあんたに暗い影を落とすかもしれない。それでもそいつの正体が知りたいなら……行って来いよ。あんたの気の済むまで」
 香玖耶は広がる闇を見つめた。僅かな戸惑いの表情を浮かべた後――
「勿論だわ。覚悟ならとっくに出来てるもの」
 強気の笑みを浮かべ、黒い世界を歩き始めた。

 ちゃぷ、ちゃぷん。

 浅い水を蹴り、香玖耶は暗闇の中を歩いた。歩く以外に何をすればいいか分からなかったので、行き着く所まで歩く事にした。
「忘れたく無かったもの……」
 反芻するように何度も言葉を呟く。
 忘れたくなかったもの。
 失くしたくなかったもの。
 思い出すべきものがあまりに多い程、彼女は永い時を生きてきた。沢山の出会いがあった。その愛すべき想い出達のどれかを忘れてしまったかもしれないと思うと、少し淋しかった。精霊の真理は身の内に刻まれ、何ひとつ失われる事など無いと言うのに。
「……失くしたくなかったもの」
 呟く度に、意識はやはり、ひとつの想い出に辿り着く。もしかして。きっと。そうではないか。
(私が、私が失った、失くしたくなかったものは――)
 それは永きを生きた彼女にとって、どの想い出よりも不器用で、どの想い出よりも確かな、大切な、大切な彼との――
『カグ、ヤ……』
 聞き覚えのある声にびくりとして、香玖耶は足を止めた。
『俺はさ……、お前を、――』
 大切な彼との、―――苦い傷みの記憶を、黄昏は残酷に掘り起こし始める。


 掌を染め上げた鮮烈な命の色は、彼の命が終わっていくまでのカウントダウン。
(いや、)
 鋭い槍が、彼の身体を貫いていた。それは『魔女』と呼ばれた彼女を穿つ筈だった、人々の恐怖が凶器へ姿を変えたもの。
(止めなくては、)
 彼はゆっくりと崩れ落ちてゆく。
(止めなくては、)
 命は必ず終わり逝く。そんな事は分かっている。彼がいずれ彼女を遺して去って逝く事も、とっくに分かっていた筈なのに。
(流れ落ちていく彼の命を、止めなくては、)
 けれど……こんな所で、こんな形で、彼女を庇って死んでいくだなんて。誰が思い至った事だろうか。
(彼は死なない! もっと、もっと沢山学んで、沢山の経験をして、沢山の人と出会って、たくさん、恋をして――)
 彼の身体はまだ冷たくない。まだ生きてる。少し眠っただけ。まだ生きてる。死んでない、死んだりなんかしな―――
 彼の鼓動が止まり、かくん、と身体から力が抜けた。
『……いや、』
 私の為に死なないで。
 お願いだから笑って、憎たらしい、可愛い膨れっ面で、私を見て。

『いやぁぁぁぁぁぁぁあぁッ!!』
 
 悲痛な慟哭。
 それでも心が空っぽになる事は無かった。何故と問い掛け真理を求め続ける意思、溢れる思念とに満たされ、彼女の中から『心』が失われる事は無かった。
 愛する人は、永遠に失われてしまったというのに。

 人の生はいつだって鮮やかだ。感情というものがあるから、心というものが在るから、火のように暖かく、時に炎のように燃え上がり、時に暗闇を照らす光となるのだろう。
 その命は、美しく散る為に美しく生きてゆくのだと言う。そういう意味では、青年の最期はあまりに美しかっただろう。最愛の人を守ったが故に、命を落としてしまったのだから。
 だが――遺された者にとって、それは身を引き裂かれるに等しい、耐え難い痛みでしかない。遺された彼女の後悔や哀しみは癒される事なく、青年の炎のような死に様は……終わらない彼女の命と共に、永遠に心の中にこびりついていた。


§車内風景§

「ああ、そうだ。先程、中途半端になってしまった質問があったね」
 良いかね?と微笑みを浮かべてくる京秋に少し目を細めながら、アーピェンは小さく頷いた。お盆に乗せたレトロな紅茶のカップを差し出す。
「有り難う。良い香りだ……立ち話も何だ、君も座りたまえ」
 お礼を言ってアーピェンはお盆を下げ、長椅子に静かに腰を下ろした。
「君達も……光と闇の狭間を彷徨う者達なのかね?」
「………」
 沈黙。

 京秋はアーピェンの表情を観察している。彼はただ、驚いたように目を丸くし、京秋を見つめていた。
 やがて、ゆっくりと口を開き。
「そうとも言えるし、そうとも言えません」
 それが彼の答えだった。

「時に童に紛れて鬼ごっこをし、」
「時に古びた家屋に住み着き、」
「時に花の中で笑い、」
「時に空を渡り秋風と共にじゃれ合い、」
「時に心の澄んだ者に、悪戯を仕掛けるもの」
 アーピェンは目を伏せ、淡々と語る。
「闇に堕ちる前に、光の中に生まれてすら居ない。その反対ですらも。私達は、そういうものです」
 京秋はふむ、と顎に手をやり、椅子の背に深くもたれた。
「人間は成長を知っている。大人になる為に要らないものを切り捨て、磨かれていく。そのほんの一部を見守る事が…私達の仕事なのでしょう。きっと。そして誰も、私達を忘れて行く」
 ほんの少し、寂しさの篭る瞳で窓の外を見つめ。
「最も……それに該当しないのでしょうね、貴方様の場合は」
 アーピェンの物言いに一瞬意外そうな顔をしてから、京秋は苦笑を零した。

「ペヨーテ君」
 電車の車体に寄り掛かって腕を組んでいるペヨーテの元へ、エドガーがやってきた。
「ナズリーナとハーモニカは中で寝てる。ユリーは布団掛けてた。アッキは兄者とくっちゃべってる」
 聞いてもいない事をつらつらと口走るペヨーテの瞳の動揺を、エドガーは見逃さなかった。
 恐らく今、彼の気にかけているだろう事を、そっと尋ねた。
「香玖耶君は?」
「……」
 ペヨーテは苦い顔で帽子を深く被り直した。
「……やばい臭いがするんだよな。黄昏の。ざわめいてるような」
 エドガーは眉を潜める。
「カグヤッコは忘れちゃいねえんだよ……本当は何もかも。此処に『何もない』のは、つまり何も落ちてないからなんだ。ただ」
 はっと息を吸い。
「茫洋としてるだけだ」

 §

ぴちゃぴちゃ。
びちゃびちゃ。ぴちゃぴちゃ。

「な……に?」
 溢れる哀しい想い出に支配されていた彼女の耳に、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音が聞こえた。

ぴちゃぴちゃ。ぴちゃ。
びちゃびちゃびちゃびちゃ。

 音が次第に近付いてきている。香玖耶は警戒心を胸に、ゆっくりと立ち上がった。
「……ユリウスさん?」
ぴちゃぴちゃ。
「薺ちゃん?」

ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ。

(……違う)
 彼らじゃない。香玖耶は一歩後ずさる。

 おいてかないで
 わすれないで
 おとなにならないで
 わたしをきりすてないで

「これは……」
 闇の中で、姿の見えないもの達が手を伸ばした。香玖耶の腕を掴み、切ない声を上げた。

 おいてかないで

 と。それは、行き場を失って黄昏に落ちてしまった――思い出達の、哀しき成れの果て、だった。

 絆が深い程、愛情が大きい程に、想いは、遺された者を縛り上げる茨と化す。

「あなた達は、忘れられてしまったのね……?」
 香玖耶は悲痛な表情を浮かべ、縋ってくる見えない彼らを見つめた。
 思い出が泣いている。
 世界の一端を内在し、想いを繋ぎゆく彼女にとって、心の苦しみは分かり過ぎる程に分かってしまう。

 わすれないで
 おもいだして
 わすれないで

 おもいだして

 繰り返されるフレーズに、香玖耶の眉が潜められる。

 ねえおもいだして

「私に、言ってるの……?」

 あなたはわすれてないから
 おもいだして
 おもいだして
 あなたのそばにある
 おもいだして

まるで呪文のような言葉が耳に入ってくる。心に染みいってくる。
その時だった。

『カグヤ――俺は、カグヤを守れたのか?』
「…シ――ッ!」
 喉から出掛かった名前に、どきりと胸が圧迫されるような緊張感が走った。
 只の幻聴だったかもしれない。黄昏が見せた幻だったのかも。
 けれど確かに……香玖耶の中に、目覚めようとしていたものがあった。

 ロザリオは輝いていた。
 彼の最期の想いが、その十字を美しく輝かせていた。壮絶な死を遂げておきながら、彼のロザリオは眩しい想いに満ちていた。神への誓いや讒言では無い。そんな厳かなものではなく、もっと庶民的で、何よりも強く純粋なものだった。
 あなたを護りたい。
 あなたに生きて欲しい。
 あなたに……幸せになってほしい。
 そして、
 誰よりも愛している。

 彼は失われてしまった。
 真っ赤な最期の瞬間に囚われ、彼の今までの命が、香玖耶の中で朧になってしまっていた。
 けれど彼は、彼のロザリオは、最期に何と言った?

 世界は彼の魂を受け止め、やがて天へ、再び世界へと受け入れていくのだろう。
 輪廻の揺り篭に抱かれながら、彼は再び、あの世界へ降りてゆく。沢山の涙と沢山の笑顔を浮かべながら。彼の命を受け入れ続ける優しい世界を、憎むべきなのか。慈しむべきなのか。
 答えは明白だった。

『召喚師エルーカの前に、一人の女性、カグヤとして』

 彼の優しい笑顔が浮かんだ。朝起きた時の眠そうな顔、愛らしい、子供みたいな膨れっ面。
 まだ朧げではっきりと思い出せなかったが――それでも、ほんの欠片が胸の中に蘇ってきた事に気が付いて、香玖耶はロザリオを強く握り締めた。
「シヴ……」
 やっと呼べた。その名前を。

 おもいだした
 ありがとう

 ふと、いつの間にか周囲の気配が消えている事に気付き、香玖耶は顔を上げ、電車の元へ、皆の元へ走り出した。
 何かが頬を伝っているらしい。視界がぼやけているような気がしたが、暗闇の中でよく分からなかった。

 §
 
ゴトトン。

「実は夕飯の献立で悩んでいるのですが……何かオススメのものって、ありますかね?」
「寒くなってきてますし、シチューとかどうでしょう」
「カレーライスは?」
「寧ろスパイスから拵えてしまえー」
「スパイスからは本格的過ぎですね……」
「後はー…お鍋も良いですよね!暖かくて身体がほかほかになります」
「じゃあキムチ鍋とかどうかしら。温まるわよー」
「寧ろ鍋から拵えてしまえー」
「鍋から……!?」
「オニオンスープはどうだろう。ユリウス君」
「君の先程の買い物リストを見た限りでは、煮物類でも良しと思っていたようだね。豚肉。じゃが芋。人参。玉葱。茄子。サランラップ」
「あ、酢豚は?あれ、じゃが芋が抜けてました」
「うーん。茄子のチーズ焼きとか。おつまみっぽいかな……」
「もうカレーライスで良いじゃないの」
「麻婆茄子とか」
「酢豚は…ああ、さっき言ったね。ごめん」
「卵焼き」
「キーマカレー」
「冷製スパ。寒いな」
「パエリア」
「アジア料理」
「リンボーダンス」
「途中からただのしりとりになってませんか……!?」
思わず頭を抱えたい衝動に駆られたユリウスだった。


§駅ノ伍・(ワガタウべラワ)川唄童§

「あれ……?」
 窓の外を小さな生き物が通り過ぎていく。
ひゅーん、ひゅーん。
 数匹の蜻蛉が、風を切るようにすいすいと空を飛んでいった。

ゴトトン。

「ほら、ナズリーナ。着いたぜ」
 車掌にぽんぽんと肩を叩かれ、薺は電車から降りようと入口に立ったのだが、
「あ、あの……川、です」
「川?」
 ユリウスや香玖耶が窓から顔を出して下を覗いた。
 電車の外には、青緑色の流れのある水が広がっていた。地面はこれっぽっちも無い。ちらちらと、水の中を細かな生き物が動いているのが見える。魚だ。
「入るんですか……?」
 眉を下げ、少し怖がりつつ薺がペヨーテに尋ねた。
「水の中でも息出来るし、溺れないから大丈夫だぜ。ほらレッツラ」
 もう一度肩を叩かれ、薺は一歩を踏み出した。

ちゃぷん。
とぷん、とぷん。


 ――水が少し、苦手だった。
 トラウマとか。そんなんじゃないけど、
 少しだけ。苦手だった。

 水の中はあまり濁っていなかった。寧ろ、とても澄んでいるぐらいだ。ほの暗い水底は、まるで光を知らないインディコライトの宝石のようで、深い青緑色をしている。眩しい明かりに照らし出されたら、瞬く間に煌めき始めるのだろう。今はただ、ぼんやりと頼りない月明かりのような光に照らされ、その片鱗を僅かに見せるばかりである。
「不思議。水の中じゃないみたい」
 水圧の所為なのか、持ち上げる足は少し重みがあって、どうしても歩みがゆっくりになる。
ぷわ、ぷわ、ぷくり。
 銀色の泡を吐きながら小魚が泳いでいく。小魚に紛れて、蜻蛉まで水の中を泳いでいた。
「エドガーさん?何してるの?」
 しゃがみ込んで地面の石を摘んでいるエドガーに、香玖耶が首を傾げる。
「いや。此処に落ちてる砂利が、変な形だなと思ってね」
 京秋やユリウス、鱧田も覗き込んだ。
「この石も。こっちの石も――うさぎの形だ」
「……か、」
可愛すぎる。


(水の中から見る水面って、こんなに綺麗だったんだ)
 降り注ぐ青白い光の中、羽をちかちかと煌めかせて蜻蛉が泳いでいく。薺の髪に纏わり付いたり、ばっくんの頭を突いたりして、ふわり、ふわりと通り過ぎていった。
「あれ……?」
 玉砂利の地面を歩きながら、薺は考える。
 ――この風景を、私は見た事がある……気がする。
 それは微睡みによく似た、心地良い水底の夢。
 薺の記憶に、ほんの小さな思い出の欠片を蘇らせた。


 あと少しで追い付く、あと少しで。
 小さな足がたどたどしくステップを刻む。
 伸ばした手が虚空を掴む。
 足元から地面が消えた。
 伸ばした手は虚空を掴めない。

 水の感触。
とぷん。じゃば、じゃば。


 脳裏を過ぎった映像から醒めた途端、
「どうして……」
 口から自然と零れ出た言葉に、薺自身も驚いた。
「ねえ、どうして」
 触れては去っていく蜻蛉や小魚に手を伸ばす。生き物達は相変わらず泳ぎ続け、薺の傍を離れていく。
「待って」
 薺はいつの間にか、蜻蛉を追い掛けて走り出していた。水の中で思うように足が進まない。その間に生き物達は、自らの羽で素早く自由に泳ぎ去ってしまうのだ。
「思い出せそうなのに、どうしても思い出せないの。とても、とても大事な事だった筈なのに」
 泣きそうな顔で、歩き辛い玉砂利の道を進んだ。ぷかぷかと銀色の泡が現れては、薺の視界を塞いで邪魔をする。
 ――この風景を、この気持ちを、私は知ってる筈なのに。
 微睡みによく似た心地良い水底の夢は、優しくて、ひんやりとしていた。
 薺の記憶にほんの小さな思い出の欠片を蘇らせ――それ以上は、何も与えてはくれなかった。

ちゃぷん。

 いつだって、忘れたいものほど忘れられなくて、忘れたくないものほど忘れてばかりだ。
 遠く離れてしまったものほどずっと心を締め付けて、傍に在るものほど見失いやすい。だけど、人はいつだって――


『薺、あんまり遠くへ行ったら駄目だよ』
『だいじょうぶ』
 兄の注意する声をよそに、幼い少女は蜻蛉を追い掛けて走り出した。買って貰ったばかりの可愛い靴を見つめ、嬉しそうにスキップを始める。
 畦道を走り、銀色の羽を生やした虫を追い掛ける。
 ひとつ。ふたつ。みっつ。
 一匹だと思っていた蜻蛉は、いつの間にか群れになって沢山飛んでいた。すいすいと空を泳いでいく姿が風の妖精のように思えた。
『ねえ、どこへ行くの』
 目を輝かせながら少女が蜻蛉の群れに近付くと、蜻蛉達はわらわらと薺を避けて逃げ出した。
『まって、まって』
 手を伸ばして追い掛ける少女の小さな足は、いつの間にか――小川の、すぐ手前まで来ていた。
『まっ――』

どぷん。じゃばじゃば。

 銀色の泡が視界を覆い、冷たい水をごくごくと飲んでしまった。深い青緑色の川の中を、小さな身体が彷徨いかける。

『薺!薺!』
 兄が慌てて駆け寄り、川に落ちた少女を大急ぎで引き上げた。
『うえぇぇん、びえぇぇん』
『おばか、だから言ったのに……!』

 真っ赤な夕日に染まる橋の上を、少女を負ぶった兄と、小さな弟が歩いていた。
 川の水面は夕日で真っ赤に輝いている。
 兄の背中と弟の手のぬくもりを感じながら、水面に飛び交う蜻蛉を、幼い少女は見つめていた。


とぷん、とぷん。

 小魚が薺の髪の毛を咥えてつんつんと引っ張っては、すぐに泳ぎ去っていく。
「……そっか、そうだった。懐かしいな……」
 薺がぽそりと呟くと、何処からともなく、さわさわと幾つもの声が聞こえてくる。
『なずな なずな』
『思い出した?』
『なずな なずな』
 くすくすと、含み笑いをしているようにも聞こえる声に、薺は小さく照れ笑いを零して頷いた。
『なずな なずな』
『ありがとう』
『思い出してくれて』
『もう落ちちゃ駄目だよ』
『泣き虫なずな』
 微睡みによく似た心地良い水底の夢は、ひんやりとして、少し意地悪で、とても優しかった。

「二人の事……忘れてた訳じゃないのに」
 薺にとって家族は掛け替えの無い存在だ。例えいつも一緒に居られなくても。
 ただ今は、薺の隣に居候の二人が居る。
 ――二人は代わりなんかじゃないのに。
 いつの間にか、兄弟と彼らを重ね合わせていた自分に気が付いて、薺ははっとした。
 孤独を埋めてくれる暖かさの余り、大切な想いを失いかけていた。
 独りぼっちはとても淋しいよ。
 でも、だから、
 凄く大切だって分かる。

「二人とも……元気にしてるかな」
 砂利道をゆっくり歩きながら、薺は呟いた。
「たまには、連絡くらい欲しいよね。ばっくん」
 小さな相棒は首を傾げ、薺の腕の中にもそもそと潜り込んだ。
「家に帰ってきてほしいな……あ、そしたら、皆でお鍋を囲みたいな。ロシアンルーレットタコ焼きとか」
 色々な事を思い描いて、薺の顔に笑顔が浮かぶ。

「……?あれ。何かなあ…」
 青白い光の向こうに、白っぽい何かが――にょきっと。水面から生えるように伸びていた。そっと近付いてよくよく眺めてみると、それは……
「手?」
 人間の手が一本、水の上から生えている。
「誰の……?」
 とりあえず、恐る恐る突いてみた。
 ぴくり。手が微妙に反応し、わさわさと水の中を掻き出した。
「きゃあ……っ」
 驚く間もなく、その『手』が薺の腕を引っ張り、水面に引きずり上げた。

じゃぽん。

「はい。釣れました」
「ぷはっ。――あ。ユリウスさん……?」
 電車の入口にしゃがみ込んで水面に手を突っ込んでいたのは、ユリウスだった。
 ユリウスは「すいません」と丁寧に断りを入れてから、薺の両脇を抱えて電車の中へ引き上げた。
「もー。一人であんまり遠くへ行ったら駄目じゃない。心配しちゃうでしょ」
 香玖耶が薺の額をこつんと小突く。ごめんなさい、と薺が俯いた。その顔は、何だか照れ臭くて嬉しそうで。
「……おかえりなさい、薺様。これより電車は、折り返しとなります」
 アーピェンが近付いてきて、静かにお辞儀した。


§ウセマイ逢タマ ヨ人ル見夢§

ゴトトン。

『観光電鉄たそがれ号の旅、皆満足したのかよー!?こっから先の運転は俺、ペヨーテの担当だぜ!最後までよろしくなー!』
 どうしようもない車内放送に咳払いを一つ入れ、車掌アーピェンが乗客を見渡して言った。
「観光電鉄たそがれ号、本日のご乗車、誠に有り難うございました。最後までお楽しみ頂けましたでしょうか」

ゴトトン。

 窓の外を、黄金色の景色が走り抜けていく。それを横目に眺めながら、エドガーが車掌に尋ねた。
「出会った思い出達は……ずっと、あそこに在るのかい?それとも、何処かへ消えてしまうのかい?」
「それは……貴方がたが、一番にご存知の筈です」
 ふと、京秋と目線が合ってしまい、お辞儀をしてから目を逸らした。

 §

ゴトトン。ゴトトン。

 薄暗い闇を切り裂くように、光が地面を照らし出す。
 電車から降りると、周囲はもうすっかり夜になっていた。たった30分の間にこれだけ日が暮れていたとは。
 小さな公園に降り立った面子から、アーピェンが小さな切符を回収して、軽くお辞儀をして電車に乗り込もうとした時だ。
「また来ても良いですか?」
 薺の声に、アーピェンとペヨーテが振り返る。
「今日は有り難うございました!これ、どうぞ」
 お礼ですと差し出されたネコミミを受け取って、双子の車掌が顔を見合わせた。
 代わりに、とアーピェンとペヨーテがそれぞれ自分の懐に手を入れて、薺にお菓子を差し出した。
「……」
 二人とも、全く同じカラフルロリポップだ。
 もう一度顔を見合わせて……アーピェンはそのまま薺にロリポップを渡し、ペヨーテは被っていた深緑の帽子を脱ぎ、薺の頭に被せた。
「ありがとな、薺」
 あ、と目をまるくした薺にニヒっと笑みを見せてネコミミを装着し、ペヨーテは電車に飛び乗った。
「楽しかったわよ、また会いましょうね!」
「また会えたら。二人とも」
「おやすみなさい、車掌さん」

「まったなぁあ、みーんーなー!!」
 面子が見送る中、電車はゴトトンと音を立てて、星が散りばめられた夜空の中へ、姿を消したのだった。


 §

「うん。うん。元気でやってるか。良かったよ」
「ところで絵本を書いたんだ。はは、良い歳した大人に何言ってるんだって?まあ、そう言うなよ」
「小さい坊主に聞かせてやってくれよ。本好き?そりゃあ、嬉しいなぁ」
「題名は……『たそがれとれいん』って言うんだ。なかなかだろ。うんうん」
「じゃあ、頑張れよ。たまには遊びにおいで。…本しかないけど。うん、またな」
 ガチャン。受話器を置いて、彼はしばし窓の外を見つめる。

 ――時が経つのは早いものだ。

 冬色に染まりつつある街へ、何て事のない笑みをひとつ、零すのだった。

クリエイターコメントお待たせしました、遅くなってすみませんでした……!(汗)
皆様の素敵なプレイングに書きたい事がふつふつと湧き上がり、がつがつと書かせて頂きました。もっと盛り込んでみたかった事があったぐらいです。とても楽しく書かせて頂きました。黄昏の旅は、如何で御座いましたでしょうか。
NPC鱧田……はどうなるかあまり考えておりませんが、双子の車掌は今後も何処かに登場すると思います。恐らく。
少しでも、皆様のお心に残るような、そんな物語に仕上がっていたら幸いです。口調の違和感や誤字・脱字・ご意見等御座いましたら、お気軽にお知らせくださいませ。
この度は、シナリオへのご参加、誠に有難う御座いました。お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。
公開日時2008-11-13(木) 19:40
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