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<ノベル>
下駄の底がアスファルトを鳴らす音が、何故かやけに大きく響く。
猛攻を誇る今夏の暑気も、落日の後にはいくぶん勢力を弱めるようになる。
住人が涼を得るために撒いたものであろうか。路沿い、アスファルトは全面に水の跡が見受けられた。
落日を過ぎ、辺りをぼうやりとした薄闇が漂い始めた刻となり、鬼灯柘榴はからりころりと下駄を鳴らしながら散歩道をのんびりとひとり歩んでいた。
薄闇に咲く曼珠沙華の見事な紅が夕風をはらんで小さく揺れる。
艶めいた黒髪を片手で軽くいなしながら、しかしその時、柘榴は歩んでいたその足取りをひそりと止めて目を細ませた。
視界に映るのは柘榴と同じく和装の、片手には笠を抱え持ち、残る片手で持つ長い煙管をふかしている男の姿。
紫煙がゆらゆらと風に乗り暮れかけた空へとのぼる。
「心地良い夕べとなりましたわね」
言って、柘榴は止めた歩みをゆっくりとひとつづつ進めた。
和装の男は頭髪のない、つるんとした頭をしている。しかしながら何より印象的なのは、右頬に刻まれた菊模様の刺青。青と赤とで彫られた菊は、男が頬を歪めあげるのと同時に小さな歪みを生じた。
「まこと、昼日中の暑さが嘘のように」
男は柘榴の言に静かに応えた。
「月も、望月とまではいかないまでも、さえざえとして、美しい下弦でありますこと」
「ええ、まこと」
ふたりは同時に空を仰ぐ。
紅と濃紺と、そうして黒とが織り交ざった空。そこに白々とした光を放つ下弦の月が架かっていた。
「私に御用でもおありですか」
空を仰ぎながら訊ねた柘榴に、男はやはり間を置かず、口許に小さな綻びを浮かべた。
「他の皆さんはもうお揃いで」
返し、男は笠を被って顔を隠す。ただ、覗き見える口許にだけ薄い笑みが張り付いている。
「迎えに来てくださったのですね。――それはそうと、あなたのお名前を伺えますでしょうか」
「あっしはしがない読売でしてねぃ。それ以外に名乗る名はただのひとつも持っちゃあいません。生憎とケチな野郎でございやす」
「そう」
うなずき、柘榴は読売の足下に目を向けた。
伸びている影はただひとつ。――柘榴の分のみだった。
電信柱の上、狐面の少年は眼前、いくぶん離れた場所に見える屋敷を向きながら、持ち上げた指先で面をとんとんと小さく弾いた。
屋敷が現出したのはつい最近のこと。が、子供たちの失踪、それに重なる怪異はもう数件にも及ぶ。それらの現象が現出したこの屋敷――紛れもなくムービーハザードではあるのだろうが――に関与しているのは、おそらくは間違いのないことだろう。
こつこつと面を弾きながら、少年は面に隠れた眼をゆらりと細め、屋敷の前に集いおろおろと右往左往する母親たちを見る。次いで道の向こうから屋敷に歩み寄ってくる笠を被った和装の男と、同じく和装の女に目を向けた。男は先刻母親たちに何事かを語りかけていた。口の動きを読むに、彼は子供たちの行方を捜す助力者を求めに行ったはずだ。ならば、あの女はその中のひとりということになろうか。
続けて、少年は道の逆側に顔を向ける。
作務衣を身につけた巨(おお)きな体躯の男と、その知己であるだろうか。身丈の高い、痩躯の男が連れ立って歩き、屋敷に向かってきていた。
彼らは互いに積極的に言を交わす風でもなく、互いに群れようとするでもなしに、ともすればまるで他人のように見えなくもない距離を保ちながら歩みを進める。
少年はしばしそうして面を弾きながら辺りの景色を見渡していたが、やがて弾いていた指を一際大きくかざして面をことさらに強く叩いた。
「よっしゃ」
言って、彼は足場を軽く蹴って宙に躍り出る。
首に巻いた赤いマフラーが風をはらんで大きくはためいた。
そうして、彼が地表に足を着けた時、彼の姿は少年のものではなく、せいぜいが五、六つ程の齢だろうと思しき見目の、稚い幼児へと変じていたのだった。
「はぁん、こりゃまた」
言いながら、刀冴は眼前の屋敷、その門を眺めてうなずいた。
夕方の散歩ついでに揃えの良い酒屋にまで足を伸ばし、なかなかに良い品を入手した帰り道。刀冴の耳に触れたそれは、この数日間に連発している失踪事件に係わる情報だった。
その話を耳にしたとき、しかし、刀冴は、その事件には昏い影の関与を感じなかった。胸を悪くするような予兆めいたものもなく、ゆえにそれは少なからず悪しき何某かによるものではないだろうとは踏んでみたのだが。
「空間が歪(ひず)んでやがる」
呟き、それから低い唸り声と共に口を噤む。
彼が手にしている袋の中には酒瓶が数本程あり、その重量たるや結構なものになっていたが、しかし刀冴の腕には露ほどにもその重みを与えない。
と、ふと顔を横手に背けた刀冴の視界に、朱の花を袖に咲かせた女の姿が映る。
「鬼灯殿」
軽く手をあげて女の名を口にすると、呼ばれた女――柘榴もまた整った顔に小さな笑みを浮かべてうなずいた。
からりころりと下駄を慣らしながら現れたのは、ゆうに二メートルは超えているだろうかという身丈をもった、いかにも頑強といった体躯の男だった。
作務衣を身にまとっている男はそうして屋敷の前に辿り着くと、不安そうに屋敷と自分とを見ている女たちに向けて慇懃に腰を折り曲げる。
ともすれば悪人そのものといった風に見えなくもない大男は、反して存外に柔らかな空気を作りだしながら、子供たちを案じる母親たちに向け優しげな微笑みを見せた。
「初めまして。私はムービースターのランドルフ・トラウトと申します」
丁寧な、極力落ち着きを心掛けた語調で挨拶を述べる。
母親たちは眼前に立ったランドルフの圧倒的な迫力に初めこそ物怖じしたように静まり返っていたが、けれどランドルフが見せた穏やかな優しさ、そうして温かな人柄を思わせるその物腰に、次第に安堵の色を浮かべていった。
ランドルフの後ろには長身痩躯の青年の姿がある。こちらは黒衣で身をかため、胸元には十字に閃くネックレスを提げた、どこか中性的な見目をもった青年だ。
黒衣の青年はランドルフとは異なり、名乗るでもなく、あるいは挨拶を口にするわけでもない。ただ腕を組みランドルフ越しにこちらを見ている。
ランドルフは背にした青年に構うでもなく、眼前にいる女性たちのひとりひとりの顔を検め、ひとりひとりに労いの言葉をかけた後、再び静かに微笑み、口を開けた。
「お子様方は必ず私たちが連れて帰ります。ですから、どうか、落ち着いて待っていてください。……お子さんたちが皆様の腕の中に戻られたとき、当のお母様方が取り乱していては、お子さん方も同じく心を乱されてしまうかもしれませんから」
言って、ランドルフは改めて深々と腰を折り曲げた。
「あの、……ランドルフ、さん?」
女性の内のひとりがおずおずと進み出て、ランドルフの顔を仰ぎ見るようにして視線をあげた。
「はい」
「その……私たちも詳しくは知らないのだけど……。最近、ちょっとおかしくなっちゃったムービースターさんたちが起こした事件っていうのがあったでしょう」
おずおずと告げる彼女の視線は拠り所を得られずに忙しなく移ろっている。
「……ええ」
ランドルフは申し訳なさげにうなずいた。後ろで、連れ立ってきた青年が小さく深い息をひとつ落としたのが聴こえる。
「大丈夫です。私たちが必ず、この身にかえても、皆様のお子さん方を連れて戻ります。信じていただくのは難しいことだろうとは思いますが、……必ず」
かたく誓う。同時に見せた真剣なまなざしに、母親たちはようやく、ぎこちないながらも頬を緩めてうなずいた。
「お任せします、ランドルフさん」
「必ず」
返し、ランドルフは再び深くうなずいた。
どこからともなく降りたった狐面をつけた子供に、古森凛はわずかに首をかしげた。
妖怪の気配を感じ取り、それに懐かしさを覚えて足を運んだ場所は一軒の屋敷の前だった。
複数の女性たちがたむろし、それぞれに口にしていたその会話から、この屋敷周辺で異変が生じているのだということが把握できた。
そうしている間に以前同じチームに属したことのあるランドルフの姿を見つけ、声をかけようかとした矢先、凛の前に突然子供が降りてきたのだ。
子供は身体に似つかわしくない、いくぶんサイズの大きな赤いマフラーを巻いている。顔には狐面を被り、そのため表情などは読み取れない。
が、凛の視線を感じてか、不意にくるりと振り向いて懐こい声を発したのだった。
「なあなあ、旦那さん。旦那さんもあの家に行きたいんか」
ころころと転がるような声音。
「ええ。……あなたも、ですか?」
「うん、まあな。あ、俺、漆って言いますねん」
言いながら漆と名乗った少年はおもむろに面を外し、その下から懐こい笑みを満面に浮かべた顔を覗かせた。
「こん中に妖怪がおるんやろ。俺、妖怪と遊んでみたいなあって思うて来てみたんやけど」
「そうですか」
うなずきながら微笑み、凛はそっと膝を折る。
眼前の子供、漆の眼を覗きみて、心の奥底だけで納得したようにうなずいた。
「どうやって中に入ればいいんか、旦那さん、知っとるか」
「いいえ。申し訳ないのですが、私もつい先ほどここに着いたばかりなのです」
「そうか。ほんなら、誰か知っとるようなやつはおらんかなあ……」
漆は小さな手で頭を軽くかきまわしつつ、辺りを探るように見渡した。
「あ、なあ、なんかちょっと知ってそうなやつがおったで。あの旦那に声かけてみよか」
言いながら示した方に見えたのは笠を被った男と袖を身につけた女の二人連れだった。折りしもそこに駆け寄っていく壮年の姿もある。
「あれは、……確か、刀冴さん」
呟くように落とした凛の言葉を耳にして、漆もまた同じく刀冴に目を向けた。
「ああ、ほんまや。ありゃ刀冴の旦那やな。――そういや、旦那の名前まだ聞いてなかったわ。名前なんて言いますのん?」
「あ、……ああ、そうでしたね。私は古森凛といいます。あなたとはこれが初めてになりますね、漆さん」
「せやね。よろしゅう頼みます」
返した漆の言はいちいち子供らしからぬ小生意気なものだった。
が、凛は微笑みながらそれらにうなずきを返し、先んじて走り出した漆を追ってゆったりと歩きだした。
◇
「さてと、それでは参りやしょうか」
笠を脱ぎ、その下に隠れていた顔を六人の前にさらしてから、読売は薄い笑みで唇を歪めてそう述べた。
「この屋敷は大人の侵入を拒むと聞きました」
ランドルフが告げる。それに続き、ランドルフの隣に立っていた黒衣の青年――シャノン・ヴォルムスが屋敷の門をねめつけるようにしながら口を開ける。
「子供が立て続けに失踪している。営利目的の誘拐でもなく、かといって快楽を目的とした誘拐でもなさそうだ。なら今回の失踪は一種の神隠しとかいうやつにあたるんだろうが、」
言いながら、シャノンは視線だけを横手へと移した。
視線の先、賑やかな鉦太鼓の音と共にうねうねと蠢くいくつかの影がある。時にぐにゃりと大きく形を崩すそれは、けれども確かに人間の影だ。鉦太鼓を鳴らしながら「かやせやぁい」と叫び、そして列をなして街路を往く人間たちの影。影だけが街路をうねり歩き、そうして屋敷の門前ではたりと姿を消すのだ。
シャノンの言にランドルフがうなずく。刀冴が小さな唸り声をあげて門の向こうを見やり、凛は手にしてきた小さな鞠を手の上でころりと転がした。
「凛の旦那、それって手鞠?」
漆が興味深げに目を輝かせて凛の手にある鞠を見上げる。「貸して、貸して」
伸べられた漆の手に鞠を渡しながら、凛は読売に目をやり、訊ねかけた。
「私は妖怪の群れの中で暮らしていました。だからこそ分かります。この屋敷の中にいるのは私の同胞――妖怪ですね」
「ええ、まあ、そのようですねェ」
応え、読売は口角をさらに歪める。
「子供たちの気配……匂いはこの門の他には残されていないようです」
ランドルフが目を細めた。
「どのようにして中に踏み入るのです?」
柘榴が問い掛けたとき、漆が鞠を門の中に向けてころころと転がした。
鉦太鼓を鳴らす影が再び姿を現し、門の前で歩みを止める。転がった鞠はその影をすり抜けて難なく門戸を潜り抜けた。
「なあ、読売の旦那。俺と手えつないでくれへんやろか」
鞠を転がした後、漆はいつの間にか読売の傍らに立っていて、懐こい眼差しで笠の中を仰ぎ見ていた。
読売は「いいですよ」と返して片手を差し伸べ、漆はそれを取って楽しげに弾むような足取りで歩を進める。
ふたりが、やはり難なく門を通り抜けていったのを目の当たりにした五人は互いに互いの目を確認した後に、
「私たちも行ってみましょう」
柘榴の言にうなずいて、影をすり抜け、そして思いがけずあっさりと、門の向こう側へと踏み入れたのだった。
「なんや、なんてことないやん」
読売と手をつないだまま、漆は振り返って満面の笑みを浮かべる。
「なあ、読売の旦那。なんてことないのに、なんであのひとらは入っていかれへんとか言ってんのやろ」
続けて言って読売を仰ぐ。
読売は「そうですねェ」とうなずき、意味ありげに口許を歪めてから再び足を進めた。
「さて、それでは参りやしょう」
言ってきびすを返し屋敷の入り口へと歩みだしたふたりを追って、ランドルフはいくぶん足早に歩き出す。
シャノンは眉をしかめて読売と漆、まるで親子連れのようにも見える背中をねめつけるように見据えた。
「ひとまずは、だ」
訝しげに面持ちをかたくするシャノンの肩を軽く叩き、刀冴が整った顔に穏やかな笑みを浮かべ、あごで屋敷を促す。
「今は子供らを連れ戻すのが先だ。――だろ?」
「……ああ」
うなずくシャノンの横をすり抜け、柘榴が横目にふたりを見やってすれ違い様言を落とす。
「容易に踏み入れたのならば、それで良いではありませんか」
言いながら肩越しにちらりと振り向き、今は門の向こう側にいる母親たちの姿を目にとめた。
「あの方々は幾度試してもこちらへは踏み入ることが出来なかった。ここには確かに、何らかの力――例えば結界のようなものがあるのかもしれません。でも私たちはそれを難なく通ることが出来た。あるいは屋敷の主が私たちを招き入れてくれたのかもしれませんでしょう」
「そうですね」
返し、凛は転がっていた鞠を拾い上げる。
「あの方に関して思うところは個々あるのでしょうが、今は刀冴さんの言うとおり、子供たちを彼女たちの手に返してあげるのが先決です。……疑問をぶつけるのはその後でも間に合うかもしれません」
そうでしょう? 微笑んだ凛に、シャノンは不承不承うなずいた。
「そうだな。――その、新しい友達とやらに会いに行くか。そうでなくては始まらん」
◇
玄関口に提げられた提灯の内のひとつが、来客を知ってか、ちかちかと小さな明滅をみせた。あるいは風がそれを揺るがしただけなのかもしれないが、ともかくも、童はひとり、それを見つめた。
合わせて二十畳分ほどになる広さをもった畳の間。格子に張られた障子が外界と部屋とを遮蔽している。
行灯の火がやわらかな灯を宿す光源となり、遊ぶにも書を読むにも苦にならない程度の明るさで部屋の中を満たしている。
部屋の中には数人の子供たちがいる。今は皆遊びつかれて寝入っているが、つい先ほどまでは敷いた布団の上でも明るくはしゃぎ遊んでいた。
子供の数は合わせて十に満たない程度。皆、せいぜいが六つ七つの年頃の、稚い、幼い幼児ばかり。それを見守る童もまたせいぜいが八つほどの見目の子供だ。
外界は盛夏。落日を迎えたとはいえ、それでも昼に猛威を揮った暑気は未だその気配を至るところに残しているだろう。だが、屋敷内は暑くも寒くもない、心地良い気温で保たれている。これは童がこの屋敷で生まれ落ちて以来、ただの一度も変化したことがない。
衣食住に困らぬ、おそらくは恵まれた環境に育った童だが、しかし、それは上辺だけのものだった。
友人もなく、家に係わる者は父親に至るまで全員が笑顔の肉面を張り付かせている。誰も彼もがかれの機嫌を損ねようとせず、悪戯を叱りもせず、泣けば甘い金平糖や音匣(オルゴォル)を差し出して機嫌を取ろうと躍起になった。
唯一の味方であり同士であった母が亡くなった後はいよいよかれの孤独は強まり、誰もかれを理解しようともせずに、気付けば幼いかれは広い屋敷に囚われた籠の鳥と化していたのだった。
気が触れ始めたのは母が亡くなってから十数年を数えた頃からだっただろうか。
屋敷を出られぬかれは、母を喪失してから成長をすらしなくなった。数え八つの姿のまま、老いてゆく奉公人や父の姿を目にする。
父がかれに――息子に希った(こいねがった)のは不老不死。尽きぬ財を永久に我が物とするための、それは途方もない望みだった。
むろん、かれにそれを叶えるだけの力があろうはずもない。そもそも座敷童であった母の血とヒトである父の血と半々を継いだかれは、妖としての力など母の半分ほどしか持ち得ていなかったのだ。
すなわち、かれ自身の不死。それも絶対的なものではなく、首を刎ねられれば絶命してしまうようなもの。
病に冒され日に日に彼岸へと近付いてゆく父の狂気を一心に受け、かれ自身もまた気狂っていった。
ああ、ならば、あるいは、かれは初めから気が触れていたのかもしれない。
子供のひとりが肌掛けを蹴飛ばして寝返りをうった。
かれはふと我に戻り、つと歩んでその子供の腹に肌掛けをかける。
ふっくりとした頬、夢を見て微笑む口許。子供たちの顔はどれもが幸福そうに輝いている。――きっと幸福な夢を見ているのだろう。
かれは哀しげに眉をしかめると、そのまま音を立てずに部屋を後にした。
◇
屋敷の中には調度品の類も少なく、どちらかといえばうら寂しい印象の、がらんとした空間が広がっていた。
外観こそ和の屋敷といった風だったが、一歩中に踏み入ればガスで点く洋燈(ランプ)がぽつぽつと壁にかかっているなど、存外に欧米を思わせるような風でもあった。
ただ、壁の随所に古びた札が貼られてある。
「こいつぁ封印の札か」
刀冴が札をひとつひとつしげしげと検めながら首をかしげる。
柘榴がそれに目をやってうなずく。
「なにか――いいえ、誰か、かしら。とにかく、対象を屋敷から外に出さないようにするための呪のようです」
「呪、ねえ」
眉をしかめ、刀冴は深く息を吐き出した。
「害悪をなすモンを封じ込めるってんならまだしも、俺にはここにいるってえヤツに暗いモンなんか感じねえな。それをこうやって無理矢理に封じ込めるってんのも好かねえなあ」
「同感です」
凛がうなずく。
「まして、この屋敷内にはヒトのひとりも住んでいないようですし……もしもこの中にただひとり閉じ込められているなら……」
「ひとりだから遊び相手が欲しくって友達を呼んでるんやろ」
読売の手を離れ、漆がひたひたと廊下を走る。板張りの廊下はきっちりと磨かれ、燈のあかりを受けてひらひらと輝いていた。
「俺、思うんやけどな」
言いながら、頭の後ろにまわしていた狐面に指をあてる。それを軽く弾きながら、漆は子供姿のままではどれだけ手を伸ばしてもおよそ届きそうにない位置にある札を仰いだ。
「よそんとこならともかく、ここは銀幕市やろ。なんかけったいなモンがおるっちゅうて怖がられてるだけで、ちゃあんとあいさつしたらええねん。ご近所まわりとか大切やって近所のオバハンも言うてたわ」
言いながら狐面を指先でかつりかつりと幾度か弾く。と、それまではきらきらと輝く子供の眼光であったその目にちろりと青い光のようなものが奔ったが、それは誰も目にしてはいなかった。
「俺はこの札の効果をどうにかしといてみますわ。何箇所かあったやろ、時間もかかるかもしれんし、皆さんには妖怪と子供らの件を任せてもいいやろうか」
「了解しました」
ランドルフが丁寧に腰を折る。
「私もお手伝いいたしますわ、漆さん」
柘榴が笑む。
「俺はランドルフと一緒に子供を捜しに行く。こいつの鼻があれば子供らの居場所なんざすぐに知れるだろうしな」
シャノンはそう言い残しランドルフと共に場を後にした。
「私は妖怪を捜しに行きます。少し、話してみたいような気もしますし」
「だな。俺も行くぜ、凛」
凛の言葉に刀冴が賛同をみせてうなずく。
「ほんなら、後で合流ってことで。――読売の旦那はどないします」
「あっしはひとまずあなた様と一緒させていただきまさ」
言いながら煙管の先で自分の肩を叩く読売を見やり、漆は「ほうか」とうなずいた。
「それでは、後ほど」
ランドルフが言ったのを合図に、六人はそれぞれの目的を果たすために散開した。
◇
「どうだ、ランドルフ。分かるか」
宝石のように妖しく光る緑色の眸で燈を確認しつつ、シャノンは数歩分先を歩くランドルフに声をかけた。
ランドルフは鼻が利く。シャノンはいかなる闇の中にあっても対象を判別することができる。そのふたりには燈による明かりなど不要なものに等しい。
「匂いはそこら中にあるのですが……たぶんこれは子供たちが屋敷内を自由に駆け回っていたためだろうと思います」
「だろうな」
返し、シャノンは通り過ぎた一室に目を向けた。
客間として使うための部屋だろう。スプリングのきいていそうなベッドに小さなテーブル、ソファ。アイボリーの壁には高価そうな額がある。
その部屋の至る場所――例えばベッドの上、ソファの上、あらゆる場所に玩具が転がっている。
「別に、不自由はしていなそうだがな」
「そうだとしても」
ランドルフはふと足を止めてシャノンを振り向き、見事に剃りあがった頭に片手を伸べながら口を開けた。
「そうであるとしても、子供たちが母親から引き離されているのは事実です。子を想う母が毎日泣いているのも事実です。子供たちが自由に楽しく過ごせているとしても、それが正当なことだという言い訳にはならないです」
「だな」
うなずき、シャノンは足を止めたランドルフに追いついてその腕を軽く叩く。
「なるべくなら、力づくでどうこうするっていうようなことにならなきゃいいな」
言って笑ったシャノンにランドルフもまた小さく笑う。
「……ええ」
返してシャノンを追う。
子供たちの匂いは廊下の一番奥から流れている。安定した空気を覚えるのはたぶん、子供たちが寝入っているためかもしれない。
静かな空気を壊さぬように配慮しつつ、ランドルフは軋む廊下をそろりそろりと歩みだした。
◇
そこに向かったのはたぶん、一口に言うならば勘だった。七歳からの十年弱、妖しの森と呼ばれる深い深い安寧の世界で幸福の内に過ごした凛。凛にとり、妖怪という存在はむしろ人間よりも身近な、愛すべき存在であり、大切な家族だった。
ゆえに、おそらく凛は五感の総てで家族の居場所を悟るのだ。否、『悟り』の力を持つ凛にはこの屋敷を構築する木材や空気、それらの総てがさざなみのように静かに耳打ちして報せてくれる。
「刀冴さん。妖怪はどうやら自分からこちらへ向かってきてくれているようです」
振り向いて告げた凛に、刀冴は「そうみたいだな」とうなずいて、凛の向こう――廊下の端に目を向けた。
刀冴には凛が聴いている囁きは聴こえない。が、それであっても彼は将軍誉れ高き星翔国正規軍第三部隊の青狼軍、その将軍を務めるほどの者。耳を澄ませ、気を研ぎ澄ませれば、それなりにヒトの気配を読み取ることはできる。
その、言わば長年に渡る直感めいたものが知らしめているのだ。『この廊下の先に、少なくとも今しがた行動を共にしていた彼らとは異なる何者かがいる』
「しかし、悪意のようなものは感じられねぇな」
言いながらアゴを撫でる。
「ええ」
凛も応えながら廊下の先に目を向けた。
果たして、程なくして姿を見せたのは年端のいかぬ子供の姿をした人間――否、
「半妖……?」
凛がひとりごちる。
男児の姿をした妖は身にかすりの着物をまとい、いくぶん伸びた黒髪を背でひとつに結いまとめた出で立ちをしていた。
どこかおどおどとした、人見知った風が見てとれる。
「おう」
が、刀冴は長年の親交を得た知己に対してみせるような挨拶を述べて笑う。
「あんたがここの主か」
訊ねると、妖は思いのほかするりとうなずいた。
「俺ぁ刀冴だ。あんたは?」
続けて訊ねた。
妖は少しばかり迷った風をみせて、おずおずと目を持ち上げて口を開く。
「素白(そはく)」
「素白ってんのか」
言って、刀冴はずかずかと素白の前に進み出た。
「私は凛といいます。……あなたが子供たちをこちらへ招いたのでしょうか」
続けて歩み出た凛が問い掛けると、素白はかくりと首を縦に振り、申し訳なさげに睫毛を伏せる。
「……友達が欲しかったのですか」
「…………はい」
長い沈黙の後、素白は絞り出すような声で応えを述べた。
「そうですか」
うなずく凛の眼前で、刀冴が力任せに素白の頭を撫で回す。
「なんだ、おまえ、遊び相手が欲しかったのか」
言って豪快に笑い、次いで素白の小さな身体を軽々と抱き上げて目線を同じくすると、刀冴は満面に笑みをたたえて素白の目を覗きこんだ。
「そんならそれで、さっさと街ん中に出てくりゃいいんだよ。ダチなんざいくらでも増えるぜ」
「でも」
「結界があるから外に出られない」
凛が告げる。素白はがっくりとうなだれた。
が、刀冴は変わらず満面の笑みでさらに言を続けた。
「ンなもん、今ごろあいつらがどうにかしてくれてるだろうさ」
そう口にして、同意を求めるように凛に目を移す。
凛は「もちろんですよ」と応え、片手を持ち上げて素白の幼い頬をそっと撫でる。
「私たちはあなたの友達です。……この屋敷から自由に出入りできるようになれば、あなたが呼び寄せた子供たちだってきっと自由に行き来できるようになります。街の人たちだって、きっとあなたを歓迎してくれるでしょうし、それになにより」
「外の景色ってのは、そりゃあいいもんだぜ。今度パンでも作ってやるから、みんなでどっか遊びに行こうぜ」
刀冴が凛の言葉を続けた。
「……はい」
返された素白の声は、まだどこか不安を払拭しきれずにいた。が、刀冴が再びぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜてやると、今度は少しだけ明るくうなずいた。
◇
風の流れる音
刻々と移り変わる空の色
歌
木立ちが落とす葉擦れの音 誰かが砂利を踏み鳴らす
雨 雷 荒れ狂う風
夜 朝 鳥が言葉を交わしている
図鑑で見た星 かか様が障子を開けて見せてくれた満天の星 虫籠の中の蛍 すぐに死んでしまった蛍を、かか様がかわいそうにと泣いた
蓮の花 朝顔 菖蒲 桜 ぜんぶがガラスの向こう 触れるのは摘まれた花だけ
とと様が死んだ
おまえのせいだ役立たずかか様でなくおまえが死ねば良かったのに
とと様が死んで、みんなみんな出ていった
おまえがいればどうせ放っておいても財は集まってくるのだろう だったらこれはわたしがおれがわしが持ってゆく 賃金代わりさ安いもんだろう
かか様
かか様
ぼくは死んだほうが良かったの
だって、ひとりでいるのはこんなにも怖い
助けてかか様
またあの歌をうたってください
◇
「こちらは万端整いましたわ」
屋敷の外に出て改めて強力な符術をかける仕度を整えた後、柘榴は術を執るための用意を整えていた漆の傍らに歩み寄った。
屋敷内に張られた結界は札によるもの。札は剥がせばその効力を喪失するが、剥がすことができるのはそれを貼った当人のみであるようだった。さもなければ屋敷を破壊するしかない。
それならと打ち出したのは漆で、ならば外部からそれを破壊してしまえばいいのではないかと提案したのだ。
より強固な術を以って古い術を決壊させる。歪んだ空間を均(なら)して整えることで、どうにか封じを破壊できはしないだろうかと。
「よっしゃ、ほんならやってみるで」
言って揚々と印を組む小さな漆を心配げに眺め、柘榴は深々とため息を漏らす。
「大丈夫ですか? 本当にできますの?」
「大丈夫や! たぶん!」
「たぶんって」
「他の奴がやっとるのを目の前で散々見てきとるっちゅうねん! みよう見真似の一発芸や。花咲かせたるでー」
「キャラが違ってきていますわよ」
柘榴のやんわりとした言葉を余所に、漆は組んだ印と共に術を発動させた。
◇
風が流れた
◇
「子供たちはご両親のもとに戻してさしあげましょう。あの子たちには帰る場所があるのですから」
凛が刀冴から素白を受け取って、両手で優しく抱き包む。
「私たちがいつでもあなたの傍にありますから。――死んだほうが良い存在など、この世にただひとりたりともいないのですよ」
私もあなたもここにこうして存在していていいんです。
◇
「おう、ランドルフ。シャノンも。子供見つかったか」
屋敷から出てきたランドルフとシャノンを見つけ、刀冴は親しげに片手をあげて声をかけた。
ランドルフとシャノンの腕には子供が抱きかかえられており、子供たちは皆眠たげに目をこすったりしている。中にはすっかり目を覚ました子供もいて、そういう子供たちは一様にランドルフの足や背にしがみつき、楽しげに声をたててわらっている。
「見ての通りだろ」
やはり不承不承、シャノンが応える。
ランドルフは子供たちと群がっているのが楽しいのか、巨躯を上手く使い肩に乗せたり腕に数人を一度にぶらさげてみたりして遊んでいた。
「さあ、みんな。あそこでお母さんたちが待っているよ」
門の向こうを指差して告げたランドルフに導かれ、子供たちは一斉に駆け出し、母親の腕をめがけて駆けてゆく。
ランドルフは子供たちの後を追いかけて母親たちの前に進み、やはり丁寧に腰を折って深く頭をさげた。
「お約束通り、お子様たちはみんなお返しします。……今回の一件の説明は……必要でしょうか」
さげた頭を持ち上げて女性たちを見渡す。彼女たちはいずれも不安を拭いきれないような面持ちを並べ、ランドルフとシャノンに急ぎ礼を述べた後に駆け足で場を去ろうとした。
が、
「ちょー、ちょー待ってーや、姐さんたちー」
狐面を再び後ろ頭に引っ掛けなおした漆が彼女たちを呼び止める。
見た目六つの子供姿のままでいる漆を、母親たちは一様に憐れんだような目で見つめる。が、漆は全力でそれを否定し、「提案があるんやけど」と打ち出した。
「その子らな、あいつに遊ぼ言われて、ちょーっと無断外泊しただけやねん。誰にでもあるやろ。反抗期っちゅうやつや。誰でも盗んだバイクで走り出したくなる時期っちゅうのはあるもんや。それがちょおっと早くきただけっちゅうかな」
「反抗期ってのとは違うんじゃねえかな」
漆を抱き上げ、刀冴が愉快そうに頬を緩める。
「まあ、それはそれ、ご愛嬌ってやっちゃ。ほんでな、あいつ、素白っちゅうねん。もしかしたらちょびーっと世間知らずかもしれへんけど、悪いやつやないねん」
「世間知らず……」
母親たちの関心が素白に向いた。
素白は恥ずかしそうに俯き、しかしシャノンに背を押された勢いでよろけるようにして数歩を歩み出た。
「この子は今まで長い間ずっとひとりでこの屋敷に住んでいたんです。友達もなく、母親も父親もなく、たったひとりで」
ランドルフが口を挟む。
「この子がしたことは、確かに、容易に許されるようなことではないと思います。しかし、お子さん方はみんな元気でお返ししました。この屋敷も、これからは内外共に開けた場所として存在することになります。皆さんも自由に出入りできるようになるんです」
懸命に訴えかける。
素白はランドルフの横顔を仰ぎ見て顔を紅潮させ、やはり睫毛を伏せて俯いた。口の中で何事かをもぞもぞと練ってはいるが、声に変じる様子は感じられない。
「あんな、思うんやけど、素白ってたぶん姐さんたちよりもずぅっと長く生きてきてるって思うねん」
再び漆が言を述べる。
「ってことはやで。素白にお勉強やらいろいろ教わったりなんてこともできるわけやな。どうせ書道やなんやら一通りできるんやろ?」
言って視線を素白に移す。素白は俯いたまま首を深く縦に動かしてみせた。
「なるほど、素白からいろいろ教えてもらえばいいってことか」
刀冴がぽんと手を打つ。その横では柘榴が同じように首を動かし「お得ですわね」などと相槌を打っていた。
「心配なら母親が子供についてくればいいだけの話だろう。ここはもう開放された場所だと言っているんだ、なにを危惧する必要がある」
苛立たしげにシャノンが述べて、ランドルフが嬉しそうに頬を緩める。それを受けてシャノンは小さく舌打ちをし、ふいと素白に顔を背けて指先で素白の顔を持ち上げた。
「貴様もなにか言ったらどうだ。そう暗く引っ込まれていては、貴様のことが連中に伝わりきらんだろうが」
「シャノン」
ランドルフが慌てて制し、シャノンは再び顔を不意と背ける。
素白はしばしまごまごと口淀んでいたが、やがて思い切ったように口を開けた。顔をゆでだこのように赤く染めて。
「あの……! ぼく、みんなと仲良くなりたくって……その、ごめんなさい……!」
「ぃよーし、ちゃんと言えたじゃねえか!」
刀冴が素白を抱き上げる。
「ほら、怖くなんてないでしょう?」
凛が素白の頬を撫でる。
「寂しくなったらいつでも私の家においでなさい。私ひとりで住むにはいくぶん広くて。あなたが来てくれたら私も嬉しいわ」
柘榴が艶然たる笑みを浮かべた。
ランドルフは再び深く頭をさげ、それでもどこかまだ逡巡している彼女たちに向けて告げる。
「ムービースターやハザード絡みの問題は、皆さんのお心をひどく痛めているのではと思います。しかし、どうか、それによって皆を悪く思わないでください。……今後も、もしも何かありましたら、私たちが責任をもって止めてみせますので」
「ランドルフ……さん」
素白の手がランドルフの作務衣の袖を掴む。
ランドルフは深く頭をさげながら、素白の小さな手をやわらかく握りしめた。
◇
かか様
風が吹いてます すごく優しい風です
かか様、かか様の歌のかわりに、凛さんが笛をふいてくれるようになりました
ランドルフさんが遊んでくれます あいすくりいむを買ってもらいました
シャノンさんはいつも機嫌悪そうにしています でもこの間けん玉を教えてくれました
柘榴さんはよく散歩につれていってくれます じゃあなるにもつれていってもらいました
刀冴さんはお野菜や、ぱんという食べ物をごちそうしてくれます お顔のもようがとてもきれいです
漆さんは、じつは子供じゃなくておにいさんでした 新しいおようふくを作ってもらいました
かか様
かか様、
ぼくはもう少しだけ、ここで生きていきます
◇
煙管をたんと叩き、吸い終えた煙草を足下に落とす。
笠の下の双眸をゆるりと歪め、波打つ潮を見据えた。
膝の上には束になった紙があり、横には墨と筆とが置かれてある。
読売はいつの間にか屋敷を離れ、ひとり、星砂海岸の近くへと移動していた。
紙にしたためたのは屋敷での案件。予想通り、波風立つこともなくするりと解決してくれた。
「のらりくらりが一番、ってねえ」
言って、読売はそのまますらりと闇の中へ透けて消えた。
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クリエイターコメント | まずはお届けが遅れましたことをお詫びいたします。 ひとえに自身のスケジュール管理の甘さが原因です。大変にご迷惑をおかけしました。
さて、今ノベルでは「和でしっとりとしたもの」を目指し書かせていただきました。が、随所随所、なんだかちょっとユルい場面があるようにも思えます……。どんなでしょうか。 また、うまいぐあいに和の空気が出せていればよいのですけれども。
ちなみに種を明かしますと、素白は白椿の一種の名前にあたります。「屋敷シリーズ?」と銘打ち先に納入しておりました幽霊屋敷中、幽霊画というものを出しているのですが、その画の中で女が手にしている花も椿です。…なんていう点はどうでもよくて。
素白は、お声があればNPCとして今後も登場願おうかなと思います。読売はすでに登録済ですので、ご興味がおありでしたら、よろしくご覧になってみてくださいませ。
それでは、今ノベルが少しでも皆様のお心に残るようなものとなれれば幸いに思います。 口調・設定など、修正がございましたら、お気軽にお申し付けくださいませ。
また皆様にお会いできる日がきますよう、心から祈りつつ。 |
公開日時 | 2007-08-23(木) 09:50 |
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