★ 【傍らに立つ仕置き人】眠れる奴隷 第二部 ★
<オープニング>

 自分の中に、もうひとつの人格があるような気がする。
 初め、それは夢物語的なものでしかなかった。荒唐無稽な話でしかなかったのだ。けれど、思えば、寺島は少年時代頃から周囲から奇妙な目で見られていた。
 そうして、その人格が、もしかすると随分と非道な性格をしているのではないかと思ったのは、高校の後期になってからだった。
 認めたくはなかった。例え、将来を共にしようと心に決めた女が大怪我をし、その後遺症で両足の自由を奪われてしまったとしても。その原因が自分にあることなど、認めたくはなかったのだ。
 けれど――認めなくてはならないのかもしれない。それは真実なのだ、と。

 ★ ★ ★

 気がつくと、そこは嗅いだことのあるようなないような、けれどけして不快ではない香で満たされた部屋の中だった。香の元は部屋のあちらこちらに置かれてあるアロマキャンドルだと、比較的すぐに気がついた。
 薄暗い部屋の中、女はぼんやりとする頭を抱え、しばらくの間呆けていたが、耳を澄ませるとどこか遠くない辺りから婚約者の声が聴こえてきたような気がして、ふらふらと立ち上がり、部屋の出口らしきドアに手をかける。ドアは開いていて、近くに数人の男が倒れているのが見えた。
 倒れている男たちに声をかけてみようかと思ったとき、婚約者の声が、今度は何者かと会話していると思しき様子で届いた。
 ――彼女には手を出さないでくれ
 婚約者の声がそう告げている。
 声が聴こえた部屋を覗き込んでみようかとも思ったが、その時、女は、後ろ首に軽い衝撃が加えられたのを知った。
 途切れていく意識の中、スーツ姿の男の姿が見えた。
 

 つい最近までハザードによりギャング街と化していた街並みも、今ではもうすっかり元通りになっている。スーパーがあり、コンビニがあり、ATMを備えた銀行があり、喫茶店や美容室がある、どこででも見受けられる、至ってありきたりな風景だ。
 その街並みの中、女がひとり、ふらふらと頼りなさげな足取りで歩道を彷徨っていた。どこから現れたのかもしれない女は、数歩を歩み進めたところでバランスを崩し、アスファルトの上に転げる。
 大半の人間は女を避けるようにして去っていくが、中には親切にも声をかける者もいる。「大丈夫ですか?」と声をかけてきたその人影に、女はすがるような目で口を開けた。
「私を……私をあの場所まで連れていってください……! 廃車置き場まで……!」

 
 
 女が人手を借りて廃車置き場に着いた頃には、もう辺りは暗くなりかけていた。
 連れてきてくれた人間も、女がふらふらと廃車置き場の中に消えていくのを見て不気味に思ったのか、いつの間にかいなくなっていた。もっとも女は視界もボヤけていて、助けてくれたその人間のこともあまり記憶できてはいなかったが。
 ともかく、迷路のようにも思える空間を辛うじて進み、ようやく辿り着いた廃屋の中に倒れこむようにして入り込む。
 廃屋の中は薄暗く、そもそも視界が明瞭としない状況下にあっては、その中に人がいるのかどうかの判別すらも危うい。しかし女は口を開けた。
「お願いです。彼を……彼を助けてください!」


 銀幕市は様々な”災害”に見舞われて混乱している。須田流未(すだ・るみ)はボランティアとして、住む場所を失くした者たちや不運に見舞われた者たちの手助けをするため、銀幕市を訪れていた。
 婚約者である大東凌の出身がたまたま銀幕市だったということもあって、しばらく滞在していた外国から最近になって帰国を済ませたばかりだった。
「彼がどんな仕事をしていたのか、私は知りません。でも、彼の命が脅かされていることは分かります。……違う。もしかしたら彼はもう”殺されて”しまったのかもしれない……」
 言って、流未は泣き崩れた。
「彼を……彼を助けて」

 
 ★ ★ ★


 しばらくの間海外に渡っていた大東 凌(おおひがし・りょう)が銀幕市に戻ってきたという情報は、比較的早い内から仕入れていた。何より、誰よりも憎い相手の内のひとりだ。大東と、もうひとりの男。昔、あのふたりが美夜子にした事を思えば、それだけで激しい殺意が沸き起こる。彼らを裁くため、仕置きという道を選んだのだと言っても過言ではない。
 しかし、帰国した大東を見て、寺島は激しく驚いた。
 隣に婚約者を連れていた。ボランティアに心身を捧げている、心優しい女だ。そんな女と共にいるからか、大東本人も随分と穏やかな人間になっているように見えた。大東自身も時おりはボランティア活動に従事しているという。けれど調べてみると、その裏ではやはり細々とした悪事を続けてもいた。
 その大東と婚約者が、先だって現出したギャング組織に狙われだした。――美夜子の身体を乗っ取ろうとした”ボス”だったのだが、どうやら新たな身体を捜しだしたらしいのだ。理由は寺島の知るところではない。とにかく、その情報を知ったとき、しょうじき、寺島は歓喜した。
 美夜子が”ボス”から解放されるなら、それにこしたことはない。大東がボスに乗っ取られてしまえば、あとは躊躇なく仕置きできる。
 しかし、それは同時に、大東の婚約者である須田流未から大東を奪い去ってしまうことになるのだ。それではある意味、かつて自分たちがされたことと同じことになってしまわないだろうか。
 そんな中、捕らわれた流未に”アクアネックレス”が渡されていたことを知った。アクアネックレスは”ボス”の愛人が持つためのものだ。”愛人”は前回の依頼時、身体を失くしている。今度は流未をターゲットに定めたのだろう。
 
 ――「その……下品なんだが……フフフ……君のその身体を俺にくれないかなァ。……そういえば君の婚約者の……なんて言ったかな。そうそう、流未……。彼女は俺の部下が『保護』している。引き受けてくれれば彼女は解放しよう」
 美夜子の……ボスの声が部屋の中から聴こえてくる。
 ――「……分かった。そのかわり……彼女には手を出さないでくれ」
 大東の声が応えている。
 どうやら”交渉”は終わったようだ。大東は流未もまた狙われているのだということを知らずに、自らの身体をボスに献上すると覚悟してしまった。
 ふと横に目をやると、そこには流未の姿があった。ふらふらとおぼつかない足取りで、捕らわれていた部屋を出てきて、今の会話を聴いてしまったらしい。
 もっとも、彼女が部屋を出てこれるようにしたのは寺島だ。そのために部屋の鍵を開け、見張りの男たちを始末した。
 
 ……ともかく、今は、やらなくてはならないことがいくつもある。ボスを斃すのはその後でもできる。今はまず、未だに残っている麻薬の工場と麻薬窟を完全に壊滅させることが最優先だ。
 そのためには手助けしてくれる人員が必要になる。
 ――この女を、流未を使って依頼をさせる。
 
 流未を街中へと逃した寺島は、その後再び屋敷へと戻った。古い下水道を用いて生じているハザードだ。ここがギャングたちの本来の拠点となっている。麻薬窟も麻薬工場もこの中にある。
 そしてもちろん、ボスの棲家も。
 

種別名シナリオ 管理番号989
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
クリエイターコメント今回は、桐原WRとのコラボシナリオ後編のお知らせにあがりました。例の、分かる人にしか分からないかもしれないネタが満載なシナリオです。
もちろん今回も前編と同様、とある少年漫画を元ネタにしたネタを散りばめていきます。該当作品をご存知でなくても楽しんでいただけるようなノベルには、もちろんしていきますが。
 
・高遠サイドでは”麻薬窟の壊滅”を担っていただきます。
・ちなみに、”ボス”はまだ大東には乗り移っていません。依然変わりなくッ、ボスは美夜子さんのままです。
・大東と流未との対峙は高遠サイドで担います。OPをご覧いただければお分かりいただけるかと思いますが、大東と寺島とは浅からぬ因縁を持っています。
・寺島は大東の仕置きを望みながらも、躊躇している状態です。展開はご参加いただけるPC様方のプレイングによって変化します。が、今回はあくまでも「仕置き人」として依頼を請けていただく形になりますので、殺しに躊躇のある方には不向きかもしれません。
・今回も、ご参加くださる皆さま方の内、『ムービーファン』『エキストラ』の方に限り、特殊な能力を保有していただくことが可能です。前回ご参加くださった方はそのまま継続されますし、そうでない方はご希望の能力を指定いただければ、善処いたします。
・もちろん、場合によっては『ギャング』になってしまうかもしれません。
・なお、当シナリオは同時系列で生じています。同一PC様による複数参加はご遠慮ください。

それでは、相変わらず長いOPと長い説明書きで申し訳ないです。皆さまのご参加、心よりお待ちしております。

参加者
リシャール・スーリエ(cvvy9979) エキストラ 男 27歳 White Dragon隊員
ジョシュア・フォルシウス(cymp2796) エキストラ 男 25歳 俳優
エドガー・ウォレス(crww6933) ムービースター 男 47歳 DP警官
イェータ・グラディウス(cwwv6091) エキストラ 男 36歳 White Dragon隊員
<ノベル>

 こころというものの最奥から沸き起こる感情を無理矢理に押さえ込もうとすることは、まるで無駄な、ひとつも意味を成さないものに他ならない。何ら有益でもなく、むしろそれは諸手をあげて迎え入れるべきものであるはずだ。
 この街の暗部に、人の晴らせぬ恨みを、代価を得て代わりに晴らす、仕置き人と呼ばれる者たちがいるらしい。その噂を初めて耳にしたときには心の底から歓喜した。
 何ら縁も所縁もない者を、一応は「仕事」という名目のもと、遠慮なく殺すことができるのだ。しかも金銭をも得られるという。むろん、金など欲しいとは思わない。欲しいのは快楽だ。そうして彼が欲する快楽は人の身体から溢れ出る血飛沫によってのみ果たされる。――エドガー・ウォレス……否、“今”はシャドウという、エドガーの闇黒面が表層を支配している状態だ。

「おまえ、エドガーじゃあねぇよな」
 
 以前に一度顔を合わせたことのあるイェータ・グラディウスが訝しそうに眉をしかめながら口を開けた。
 以前イェータは、とあるハザードに関わりを持った。そのハザードは、今はもう表向き消滅したように見える。現に、今彼が立っているのはごくごくありふれた街並みというより他にない、何ら変哲のない場所なのだ。前回ここを訪れたときには、およそ日本のものと思えないような風景が広がっていたのだけれども。
 その街中を歩き進めながら、イェータは数歩分離れて立っているエドガー・ウォレスに声をかける。
 マンホールの入り口が足もとにある。その下には地下道があり、そこには“一見、消滅したかのように見える”ハザードが現存しているはずだ。すなわち、ギャング達の住処や麻薬やギャングたちを取りまとめる存在である“ボス”たちが、今、彼らの足もとに息づいているということになるのだ。
 エドガーはそのマンホールに身を沈ませながら、肩越しにちらりとイェータを振り向き、「悪いけど、君が何を言っているのか解らないな」
 応え、喉を小さく鳴らして嗤う。そうして、いよいよ訝しく眉をしかめたイェータの顔を見据えて一笑した後、そのままするりとマンホールの穴の中へと沈んで消えた。
「…………イェータ、俺たちも行こう」
 エドガーをねめつけるような目で見ているイェータの肩を軽く叩き、リシャール・スーリエがわずかに頬を持ち上げる。どうやら笑っているつもりらしいが、その表情にはおよそ変化らしいものが見当たらない。いつもと変わらず、陰鬱とした目をしていた。
 リシャールによって毒気を抜かれたか、それまでわずかに厳しい表情を浮かべていたイェータも、小さなため息をひとつ吐き出した後にうなずき、歩みを進める。
「だな。――この前は結局ハンパに終わっちまったしな」
 言いながらマンホールに足をかけた。
 リシャールの目はイェータの頭に向けられている。
「やっぱり…………帽子なんかかぶってないよな」
「あ? どうしたリシャール。俺らもとっとと行こうぜ」
 言って、マンホールの中から指先だけをちょいちょいと覗かせてリシャールを呼ぶ。
 リシャールはのそのそと片手を持ち上げて頭を掻きまわし、それからイェータを追ってマンホールを降りていった。

 ジョシュア・フォルシウスは廃車置き場で依頼を請け負った後、他の三人に先駆けて地下道に足を踏み入れていた。
 地下道はしばらくの間明かりひとつなく、足もとすらおぼつかないような暗闇が延々と続いているのかと思えるような空間で支配されていた。が、それは何の前触れもなく終わりを告げた。――たまたま触れた壁に、ドアのようなものがあるのを見つけたのだ。
 慎重にドアを押し開けて内部を覗き見たジョシュアの目に映りこんだのは、地下道のそれよりはいくぶんか仄明るい、湿った空気と、どこかで嗅いだことのありそうな香りで満ちた空間だった。人の気配らしいものは、感じられない。
 ――得てきた情報を照らし合わせて考えてみれば、今ジョシュアが目にしている場所こそが”ギャングたちが存在しているハザード”ということになるだろう。
 しかし、どうにも、得てきた情報は量が少ない。何しろ、今回の依頼を請けたとき、そこには寺島の姿がなかった。情報を収集してくる役どころを請け負う者もおらず、結果、得られたのは依頼人である流未が口にした情報と、前回ハザードに関わりを持ったというイェータやリシャール、それにルートを別にすることになった翼姫やギル・バッカス、フォーマルハウトから得た情報のみだ。
 ルートを同じくしたイェータやリシャール、それにエドガーはおそらくそれほど距離を置かない地点にいるはずだ。ジョシュアが歩き進めてきた方向からわずかに彼らの気配が感じられる。
 ――この場にハザードへ通じるドアがあることを、後続してくる三人にも伝えなければ。考えて、ドアを開けたまま、ジョシュアは仄暗い廊下に歩を進めることにした。

 
 自室としてあてがわれた一室の中で、寺島は両手を組み、その上に額を乗せる格好でテーブルについていた。テーブルとはいっても、椅子が二脚しかない、ごく小さなものだ。その上には小さな写真たてが飾られ、けして新しくはない写真が一枚おさめられている。
 寺島は静かに目を伏せ、何かを思案しているかのように眉をしかめて小さなため息をひとつ漏らす。
 と、携帯電話が鳴った。”ボス”から渡されているもので、本来は緊急時や召集を請けるときのみに使用されるはずのものだ。が、”ボス”はとりたてて用事がないときでも、何かにつけてこうして電話を鳴らす。寺島はその大半を”気がつかないふりをして”無視している。
 コール音が止んで静かになると、寺島は伏せていた目をゆっくり持ち上げて写真に向けた。
 学生時代、まだ身体に不自由なく、幸福に満ちた毎日を送っていた、寺島と美夜子とが笑っている。
 ――解っている。これは、過去への決別のための復讐だ。
 頭を振りながら立ち上がり、上着の中にナイフを仕込み直すと、寺島はそのまま部屋を後にした。
 


 前回ハザードを訪れた際に身についた”異能”は、残念ながらハザードの外に出ることで消失してしまっていた。何度かビー玉やパチンコ玉のような小さな球体をてのひらにのせて神経を集中させてみたりもしたが、回転どころか、何という反応のひとつも得られずじまいだった。
 だから、もしかするとこのハザードをもう一度訪れることで、もう一度”異能”を(リシャールはこれに”アミーコ”、つまり”友だち”を示す名前をつけていた)身にできるかもしれない。そんな淡い期待を胸にしていた。
 リシャールは地下道の暗闇を進みながら、暗闇に馴染んできた視界で周囲を見渡す。先ほど道途中で拾った小石は、てのひらの中で見事な回転を見せた。
 少しばかり前を行く男(イェータは「あいつァ”エドガー”じゃあねぇ」とか言っていたが)は、まるで初めから地下道の地図を把握してでもいたかのように、少しの迷いもなく突き進む。時おり鼻歌めいたものさえ流れ聴こえてくる。よほどに上機嫌なのだろうか。
「ジョシュア……っつったかな。廃車置き場で一緒にいたよな。あいつは先に潜入しちまってんのかな」
 隣を歩くイェータがため息を吐き出すように口を開く。イェータの目は先を行く”エドガー”をねめつけるように見据えている。その目に何かを訝しんでいるかのような光が宿っているのをリシャールは見てとったが、触れず、気付いてもいないようなフリをして顔を背けた。
「どうかなあ…………なんか……先に出てったみたいだったけど」
 リシャールも、見るともなくエドガーの背中を見ながら応える。
 ジョシュアと名乗っていた男は、一見すると”仕事”とは無関係な位置に立つ人間であるかのように見えた。柔らかな印象の漂う、人懐こい笑顔を浮かべる男だった。初見となる自分たちに向けて「ジョシュア・フォルシウスです」と丁寧に名乗りだしてきたときはさすがに少し驚きもした。
 仕置きに関わる人間たちは、基本的には仕事を離れれば他人同士だ。縁故を持たない者同士であるなら、例えば街中ですれ違っても見知らぬ他人同士でなければならない。例えばイェータとリシャールのように日頃から交流を持っている者同士であったとしても、仕事以外の時には互いにその部分には触れ合わない。――これはいわば暗黙の了解となっている。
「…………仮にひとりで潜入しようって思ったんならさ……誰かに邪魔されるのがイヤだから…………なんじゃあないかな」
「だろうな」
 リシャールの言にイェータはうなずいて、そうして歩み進めてきた足を止めた。つられて自分も足を止め、リシャールは前方を検めた。
 照明のひとつも用意されていない漆黒の地下道に、一筋、ぼうやりとした光がある。それはどうやら壁の向こうから漏れ出てきているもののようだ。
「先客がここから中に潜入したようだね」
 エドガーがこちらを振り向き、笑う。酷薄な笑みの裏には薄ら寒くなるような何かが見え隠れしている。
 イェータは小さな舌打ちをひとつついて、エドガーの身体を押しのけてから壁の向こうを検めた。
 地下道のそれとは明らかに異なるが、やはり仄暗い空気に満ちた空間がそこに見えた。壁掛けの小さな照明、床に敷かれた真紅の絨毯。廊下にはいくつかのドアが確認でき、そのドアのひとつの前に、スーツ姿の男が倒れ伏しているのも確認できた。
 ――ジョシュア、ではない。おそらくはギャングのひとりだろう。倒れたまま身動きひとつしないのを見る限り、むしろジョシュアによって”仕置きされた”ととるべきか。
 イェータが眉をしかめたのを横目に見ながら、リシャールは小さくうなずき、薄く開かれたままの入り口に手をかけた。
「…………あの”匂い”だね」
 教会で、その教会の地下で。あるいはギャンブラーと共に姿を見せた女の身体から発せられていた、あの”アロマキャンドル”の匂いだ。それが仄暗い空間の中に満ちて広がっている。
「早く、……早く中に進みましょうよ」
 足を止めているふたりの後ろからニュッと顔をさしいれてきたエドガーの声は奇妙な弾みを持っている。
「この”仕事”ならどれだけ殺してもいいんだろう? 楽しそうじゃあないか、早く進もう、早く、早く」
 声を弾ませながら、エドガーは目をギラギラと輝かせた。その表情に、あるいは漂う混沌とした気配に、イェータだけでなくリシャールまでもがわずかに表情を曇らせる。
「解ってると思うが」
 静かに口を開けたのはイェータだった。
「今回の依頼内容は”大東の救出”だ。殺しを目的として来たわけじゃあないぜ」
「それはもちろん、キチンと理解しているつもりだよ。でも、だからといって、このハザードを放置したまま帰るつもりでもないんだろう?」
 後ろ手にハザードへ続く入り口を指差しながら、エドガーはわずかに肩をすくめておどけたような表情を浮かべる。「君たちは前回ここに来て、ハザードを壊滅していくことはしなかった。ああ、もちろん、出来なかったのか、それともやらなかっただけなのかは判らないけどね」
「……」
 エドガーの言をうけ、イェータの目がさらに険しさを強めた。今にも隠し持ってきたコンバットナイフでエドガーの首を掻き切りに出そうなほどに。
 しかし、エドガーはまったく怯むことなくまっすぐにイェータの目を見つめ返して薄く笑う。
「だからこそ、君たちは今回このハザードを壊滅しようと思って来ている。――違ったかな? そして、壊滅させるには多少の犠牲も否めない。そうだろう?」
 微笑み、エドガーはイェータの肩を軽く数度叩き、イェータとリシャールを押しのけて入り口を押し開けた。
「俺は金や名声、ついでに言えば仲間なんていうモノに一切興味がなくてね。血と、それを噴き上げる人間の、可愛い悲鳴さえあれば満足なんだ」
 肩越しに振り向き片頬を歪め上げるエドガーに、イェータは追いつき掴みかかろうと試みたが、それは察したリシャールによって制された。
「やめようよ、イェータ…………。…………めんどくさいだけだし」
 イェータの腕を掴みやんわりとかぶりを振るリシャールに、イェータはしばし激情を滲ませた眼光でエドガーの背を見ていたが、
「……そうだな。……すまない」
 自噴を収め、大きく息を吐き出した。
「――行くか」
「だね」
 うなずいたリシャールに小さな笑みを見せて、イェータもまた仄暗いハザードの中へ足を踏み入れる。
 ハザード内にはイェータを不快にさせる匂いが満ちていたが、それに気を悪くしている時間も惜しい。
 エドガーはダンスのステップを踏むかのような足取りで躊躇なく歩き進め、ほどなくしてイェータやリシャールの視界から姿を消した。

 
 ”ボスの部下”、つまりギャングの幹部に乗っ取られたのは日頃”表”に出ている方の人格だった。すなわち、おどおどとしていて、少しのことにも驚く、小心者の”寺島信夫”が乗っ取られたのだ。
 けれど、これには大きな穴がひとつあった。――”寺島信夫”はふたつの人格を有している。”裏”で”仕置き”を続けている人格にまでは、ハザードの影響はもたらされなかったのだ。
 もちろん、ボスはこれを知らない。いや、あるいは知っているのかもしれない。――とにかくも、美夜子の姿をしたボスは、幹部としての仕事を寺島に対し命じてくるのだ。
 果たして、それを請けているのが”乗っ取られた表側の寺島ではなく、仕置きを務める、つまりは殺しを生業としている裏の寺島である”ことを知っているのかどうかすらも判然としないままではあるのだが。
 ボスは電話で屋敷内に侵入者があるらしいことを報せ、これを迎撃するようにと命じてきた。
 侵入者の存在など、言われるまでもなく把握している。呼び寄せたのは他でもない、寺島本人なのだから。
 ボスは最近あまり調子が良くないらしい。――少し前まではちょくちょくと顔を合わせていたが、ここに来て、対面の回数は減る一方だ。
 むろん、手を回しハザードの外へ逃がしてやった流未がわざわざ依頼をし、呼び寄せてくれた面々の邪魔をするつもりは毛頭ない。
 ただ、彼らが(あるいは彼女たちが、かもしれないが)少しでもこの中にいるギャングたちを片付け、隙を作ってくれさえすればいい。
 ――ようは、大東に近付くための機会を作ってくれればいいのだ。
 考えながら、寺島は仄暗い廊下の中を歩き進める。
 大東だけはこの手で屠りたい。
 昏い願いを手に、やがて廊下の向こうから小走りに現れたギャングのひとりに向けてスローイングナイフを構え持った。



 廊下のそこここにあったドアはそれぞれが客室のような作りになっていた。よく見受けられるビジネスホテルの部屋のような、飾り気のない、面白みのない部屋だ。
 中には室内に人の気配はすれども外から施錠されているような部屋もあり、開けてみると中に昏睡状態の人間が横たわっていたりもした。彼らに目立った外傷はなく、症状だけを鑑みるに、いわゆる麻薬中毒者に多く見られるような状態だった。
 ――どの部屋にも、特に強烈な匂いが充満していた。イェータたちから得てきた話によれば、廊下やあの部屋、否、この屋敷内の隅々にまで広がっているこのアロマ香こそが麻薬のそれにあたるのだろう。
 しかし、
 歩きながら、ジョシュアは思い出していた。
 屋敷内に潜入してすぐに、ジョシュアは黒服の男と鉢合わせた。サンジェルマンと書かれた紙袋を持っていた。男はジョシュアを見て数秒後には事態を把握したらしく、どこからともなく釣竿を抜き出して構え始めた。
 男が釣竿を振るうよりも早く、ジョシュアは男に向かい走り出した。そうして男に触れようとした、その瞬間だった。――異変は起きたのだ。
 ジョシュアの身体から”何か”が現れたような気がした。それが男の身体に触れたような気がして、次の瞬間、男は口中から大量のカミソリの刃を吐き始めたのだ。
 呆然としたジョシュアに代わり、”何か”はさらに男に触れる。男の身体の内側からありとあらゆる刃物が突出し始めた。それはハサミであったり包丁であったりしたが、そのどれもが男の身体を突き破り出てきたのだ。結果、男は多量の血と共に崩れ落ちた。
 ジョシュアは男が崩れ落ちたのと同時に再び姿を消した”何か”に驚いたが、けれどなぜかほどなくして理解した。
「これは……私の能力」
 不思議なほどにすんなり受け入れることが出来た。
 次に鉢合わせたギャングの男たちに対しても試みてみたが、やはりジョシュアの直感は正しかった。ジョシュアは対峙した相手の体内に鉄製品を生成することが出来る。考慮した結果出た答えは”体内の鉄分を利用”して、それを自在に鉄製品(凶器になりうるものを含め)を作製、体外に現出させることが可能なのだろう、というものだった。
 ところで、鉄というものは何も人体にのみあるわけではない。気がついた後のジョシュアはとても気楽に屋敷内を進むことが出来るようになった。
 そこここにある鉄分を集約させ、これを身にまとうのだ。そうすることでジョシュアの姿は背景に紛れる。いわば不可視の存在となることが出来るのだ。
 壁を背に立っているだけで、ギャングたちはジョシュアを見出すことが出来ずに通り過ぎていく。それはとても滑稽だった。
「まあ、……動きを邪魔されるのは好ましくないですしね」
 静かに笑い、ジョシュアは廊下の奥に目を向ける。
 ――依頼人である流未から預かった写真に写っていた男の姿がそこにある。ふらふらとおぼつかない足取りで、周囲を取り囲む数人の男たちに導かれるようにしてどこかへ向かう途中のようだ。
 大東凌。――彼を救出すれば、少なくとも依頼は完了することになる。
 ジョシュアは柔らかな微笑みをたたえ、大東たちの傍へと歩みを寄せた。誰ひとりとしてジョシュアに気がついてはいない。
 ゆっくり、ゆっくりと。――もうすぐだ。


 大東凌は混濁する意識の中、夢ともつかない記憶をめぐらせていた。
 
 大東は、俗にいうチンピラだった。学生時代から評判の悪い連中と徒党を組み、性質の悪いヤクザのような人間たちとのパイプも持っていた。
 周囲の人間は大半が大東を恐れ、避けた。家族ですら極力目を合わせないようにしているのが見てとれた。
 その中にあって、ひとりだけ。ただひとり、大東を、まるで養豚場に送られる豚を見るかのような目で見てくる男がいた。
「寺島……」
 うめくように呟き、大東は頭を抱える。
 あてがわれた部屋は外から施錠されている。室内には濃密なアロマ香が満ち広がっていて、換気のための窓はない。考えてみれば、ここは地下道の一郭にあたるのだ。窓などあろうはずもない。
 これまでも色々なタイプの麻薬を試してきた。効きの強いものもあれば弱いものまで、実に多様だった。耐性が身についた、とでも言うのだろうか。吸引するタイプのものではさほどの効果を得られなくもなっていた。
 だから、香で吸引するタイプの――例えるならば阿片に似ているのだろうか。それには強い影響を得ることはないだろうと高をくくってもいた。
 間違いだった。

 ある時、寺島に付き合っている女がいるという情報を入手した。興味本位で調べてみると、相手は寺島が在学していた大学の後輩だった。同じサークルに所属しているらしい。
 際立って美人というわけでもない、言ってしまえばいたって平凡な女だった。だが、その隣にいる寺島はひどく穏やかな顔をしていて、幸福そうで、見ていると全身に虫唾が走るようだった。
 寺島には裏の顔がある。安穏と平穏に微笑むあの顔の裏には、触れる者のすべてを両断してしまうであろう冷酷な顔が隠されているのだ。
 あの女はそれを知っているのだろうか。知っているのだろうか。知らなかったとして、もしもそれを知ったなら、あの女はどういう顔をするだろう。
 大東は手を打った。
 ある夜、寺島が美夜子と共に寺島のアパートへ向かおうとしているところを捕らえ、寺島の眼前で美夜子に暴行を加えてみようと試みたのだ。

「こいつ、ボスの新しい”入れ物”になるんだよなァ?」
「だからクスリ漬けにしたんだろォ? ボスはクスリでブッッッ飛んでる身体のほうが好きだからよォ」
「でもよォォ、こいつ、たまに暴れんだぜェ。暴れて何人かブッ殺しちまったって話じゃあねえか。ボスがそれ聞いて喜んでたって話だぜェ」
 大東の周りで男たちが下卑た笑いをあげる。
「もっとブッ飛ぶようにって、”阿片窟”に閉じ込めろって言ってもよォォ。こいつがいたんじゃあ、オレたちが”窟”を使えなくなっちまうよなアアア」
 笑いながら、男はふと顔を持ち上げた。
 視界の先には彼らが”阿片窟”と呼ぶ部屋がある。むろん彼らが常時吸引しているのは阿片とは異なるものではあるが。その部屋の中には他所とは比べようもなく濃密な香が焚かれ、生半可な者がそこに入れば半日と待たず廃人となってしまうという。
 けれど、香は彼らギャングにとっては必要不可欠な要素だ。それをもって、ハザードと共に現出したギャングたちの魂は、入れ物となる肉体との固着を強力なものへと繋げていくことができるのだから。
 ”ボス”の魂を固着させるには必要以上の労力を必要とする。
 大東としての人格など、もはや不要なのだ。それを打ち消すため、大東はこれから窟の中に”浸けられる”。
 しかし、男は視界の先にひとりの見知らぬ男の姿を見た。
 銀色の髪をゆったりと撫でつけた、身丈の高い男だ。その顔には薄い笑みが張り付き、手には抜刀された一振りの紅い刃が握られている。
「やあ」
 男は友人に声をかけるかのような気安さで片手を持ち上げ、笑った。
「その人が”大東君”かな? ちゃんと写真を見てこなかったんだよねェ。だからどれが”大東君”なのか、はっきりとしなくてね」
 言いながら、男はゆったりとした歩幅で一歩、二歩。
 ギャングたちは思い出した。今、この屋敷内に、侵入者がいるらしい。顔も姿も、人数でさえも定かではないのだが。
「ところで、大東君を助けてくれっていう依頼を請けて来たんだけど……。あいにく、俺はその依頼には興味もなくてねぇ」
 ゆらりと頬を歪める。
 ギャングたちはその時初めて気がついた。
 男が手にしている刃が紅いのではない。それに染み付いている血糊の赤が奇妙なほどにギラギラと滑った光を放っているのだ。
「テメェ、」
 ギャングのひとりが声を荒げた瞬間、男の手が流れるような所作を見せた。
 次の瞬間、仄暗い空間に真っ赤な鮮血がピルピルと音を吐き出しながら噴き上げた。天井や壁が鉄の臭いで染まっていく。
「ぴ、ひぎぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぐああああああああ」
 ギャングは喉笛から噴き上げる血をどうにか止血しようとして、両手でその箇所を押さえ、血泡を噴いている。
「ン〜、ンン〜、イイね、イイね〜。やっぱり死にいく人間が喚く悲鳴が一番可愛らしい。ゾクゾクするよ。――ねぇ。ジョシュア君」
 男の視線がふいに横に向けられた。 
 男――エドガーは愉悦をたたえた眼光を細め、崩れ落ちるギャングの血がついた頬を手の甲で拭う。
 エドガーの視線を反射的に追ったギャングたちの目には、仄暗い廊下の風景のみが映る。
 が、そこには確かにジョシュアの姿があった。風景に紛れ込み、隙をみて大東を奪取しようと、機を窺っていたのだ。
 ジョシュアは整った顔にわずかな翳りを浮かべ、まっすぐにエドガーをねめつけながら口を開ける。
「……邪魔をしないでくれませんか、エドガー」
 言いながら能力を解く。
 ジョシュアの姿は誰の目にも可視のものとなり、ギャングたちは眼前に現れたふたりの”新手の敵”を前に、それぞれに身構えた。
 が、ギャングたちが身構えたのを検めたエドガーが嬉々とした面を浮かべて高々と嗤い、叫ぶ。
「構えた! 構えたね、君たち! これで君たちは正式に俺の獲物だ! ヒハハハハ、獲物だ、俺の!」
 エドガーが狂喜を吼えると、ギャングたちの身体がベキベキベキョと鈍い音をたて、身体の節があらぬ方に歪み曲がり、あるいは節に関わらず捻じ曲がりだした。まるでボロ雑巾を絞っているかのように、彼らの身体は捻じれていく。
 ブツブチブチブツブチャ メメタア
 耳をふさぎたくなるような不快音と共に、ほどなくギャングたちの身体は血と臓物と汚物と、あらゆるものを撒き散らして砕け散った。
 大東は周囲を染める惨状にも虚ろな顔を浮かべているばかりで、まるで夢の中にいるかのようだ。
「……エドガー。……貴方は」
 眉をしかめ、ジョシュアはわずかに口を開きかけた。が、すぐに口を閉ざして視線を大東へと移した。
「大東君には手出ししなかったんだ、褒めてほしいぐらいだよ」
 エドガーは未だ低くくぐもった笑みを洩らしている。しかしジョシュアはエドガーの声には耳を貸さず、まっすぐに大東の傍へと歩み寄った。
「ジョシュア君。大東君がどういう種類の人間か、知っているかい?」
 大東の腕を掴みかけたジョシュアをエドガーの声が呼び止める。
「……知りません」
 短く応え、ジョシュアは大東の腕を掴んで場を後にしようと試みた。が、その試みは他ならぬ大東によって遮られた。
 大東はジョシュアの手が自分の腕に触れたのと同時に形を成さない叫びを張り上げ、ジョシュアの手を振り切って後ずさり、足もとに転がっていたギャングの千切れた片腕に目を落とした。
「とうおるるるるるるるるるるるるるるる るるるん とおおるるるるるるるるるるる とぉるるる……」
 何事かをぶつぶつと口にしながらそれを拾い上げる。
「ぶつッ!! もしもし、はい、オレです……ええ、ボス、オレです。……こういうのを奇跡っていうんだな、めったにあることじゃねぇ……。こんなところに偶然携帯電話が落ちてるなんて……」
 至福を絵に描いたような表情で呟きながら、大東はさらに独り言を口にし続けている。
「大東君は今、最高にハイってやつらしいよ、ジョシュア君! ヒヒャハハハハ!!」
 救出を拒んでいるかのように、大東は屑となった死骸のただ中にうずくまり、ぶつぶつと独り言を続けていた。


 ギャングたちはまさに掃いて捨てるほどいた。銃火器を構えた者、そうでない者。その数はいちいち数えるのも面倒なほどだ。
 ただひとつ分かるのは、銃火器を携えていない者。彼らはその大半がイェータやリシャールたちと同じく、特異能力を身につけているらしい。
 ホワイトドラゴン――傭兵として生きてきたふたりにとり、銃火器を構えている彼らはさほど脅威にならない。弾道を読み、それを避けることすら簡単だ。しかも、ハザード内にいれば”異能”も使用できるようになる(もっとも、イェータはそれを自覚していないようだが)。イェータの”異能”はどうやら時を数秒ほど止めることができるらしい。
 イェータは頭髪と同一化しているキャップを目深に被りなおし、どこから湧いて出てくるのかも知れないギャングたちに向かい、足を速めながら呟く。
「やれやれだな」
 控え隠してきたコンバットナイフを手に構え、間近に迫ったギャングのひとりの喉に向けて薙ぐ。グッパオンという音と共に、手に確かな感触が残ったのを確かめながら、続けてその姿勢のままで振り向き、イェータの背後をとろうとしていたギャングの鳩尾に容赦のない蹴りを一発。蹴りをくわえられたギャングは胸部から腹部にかけて鈍い音をさせながら後ろに吹っ飛んでいく。ついでに数人が巻き込まれ倒れていったのを横目に、別方向から向けられた弾道を視界の端に捉えて口を開けた。
「時よ、止まれ」
 イェータの言葉と同時、ピタアァァァッと周囲の全てが動きを止めた。
 振り向き、リシャールの姿を検める。リシャールはイェータのいる位置からけして遠くない場所、壁の隅に身を潜ませていた。その手にはアサルトライフルが構え持たれている。
 どちらかといえば短〜中距離戦を得手とするイェータとは逆に、リシャールはどちらかといえば接近戦を得意としない。それならば後方からイェータの動きを補佐・支援する形をとったほうがベストだ、と。あるいはそう思っているのかもしれない。
 現に、リシャールが放った弾道もまたイェータの能力により止まったままの状態を保っているが、それはわずかほどのミスもなく、イェータに銃口を向けているギャングたちの眉間を狙い定めているのだ。
 リシャールの援護があれば、イェータは余計なことを計算に入れる必要もなく、思うさま突っ込んでいくことができるだろう。
 イェータはリシャールの援護を、何よりもリシャールの存在を頼もしく思いながら、自分が立っている位置をずらした。同時に自分を狙い放たれたギャングの弾を指先で弾き飛ばし、真横の壁に向けておく。
「リシャール……おまえは、本当に頼もしいヤツだ。おまえと同じチームで本当によかったぜ。そして、やれやれ……時は再び動き出すってやつだな」
 イェータが小さな笑みを洩らし呟くのと同時、止まっていた”時”が再び動き始める。
 ギャングたちはその瞬間、目の前の光景を目にして驚愕した。――視界の中にいたはずのイェータの姿がどこにもないのだ。しかも、自分たちが放った弾丸はイェータではなく、まるで見当違いに、壁に穴を開けている。
「よう。俺ならこっちだぜ」
 リシャールが連弾したライフル弾は呆然としたままのギャングたち数人の眉間を撃ち抜き、何人かが声もなく後ろに吹っ飛んだのを尻目に、イェータが悠然とした語調で口を開けた。
 ギャングたちは心の底から恐怖した。――イェータは、まさに一瞬の間に、自分たちの背後に移動していたのだ。おそらく彼らがもしも仮に生きてこの場を去り、仲間にこの場で目にしたことを報告する機会があるのならば、彼らは間違いなくこう説明するだろう。
 あ、ありのまま、見てきたことを話すぜ、と。
 戦慄しているギャングたちの背をとった格好で、イェータはやれやれと小さくため息をひとつ。
「てめェらは麻薬を流しすぎた。しかも、この”匂い”は、俺にはムカつくばかりだぜ。てめェらが俺たちにツブされる理由。その答えはシンプルだぜ。てめェらは俺たちを怒らせた」
 イェータがそう言い終えるのと同時に、イェータの足もとから再び何か――人の姿形をとった色鮮やかな影、とでも言おうか。その影が現出し、ギャングたちをすさまじいスピードで殴り始めた。
 ドギャアアァァアアンッ!
 派手な効果音を響かせてぶっ飛んでいったギャングたちに向けて、イェータは身体をのけ反らせながら立ち、ビシィッと効果音がつきそうなほどに指をさしながら言葉を続ける。
「ドゥー・ユー・アンダスタン? 理解したか?」

「…………別に俺は怒ってないけど…………」
 一度に複数人のギャングたちをぶっ飛ばしたイェータを援護しながら、リシャールは頭を軽く掻き混ぜる。
 実際のところ、リシャールが使用できる異能よりは使い慣れた銃火器のほうがよほどに使える。連射が可能なライフルなどに比べれば、単発でしか撃つことのできない”異能”ではどうしても隙が大きくなってしまいがちだ。
 ギャングたちはリシャールの後ろからも現れ、そちらへの対処も兼ねて、リシャールはそれなりに忙しくしていた。
 しかし、それでも、異能がまったく使えないものかというと、そうでもない。リシャールの手を放たれた物(それこそライフルの弾でも)は、リシャールの意思を汲み取っているかのように、その弾道を自在に折り曲げることが可能だった。大きな四角形を描くような動きで、一度に複数の相手を撃ちぬくことも可能だったのだ。
 異能と、銃火器と。それらを器用に使いこなしてギャングたちを斃しながら、リシャールはふと見覚えのある顔を目にした。
「……えーと…………あれ?」
 首をひねり眉をしかめたリシャールに気がついたのか、イェータもまた顔を向けてよこし、訝しげな表情を浮かべる。
 周囲にいたギャングはひとり残らず斃し終えている。再び静まり返った屋敷の中、その場に不釣合いなほどに穏やかないでたちで立っていたのは、
「流未……っつったっけかな」
 イェータがその名を口にし、リシャールも納得したのかポンと両手を打った。
 ふたりの視線に先にいたのは、廃車置き場で”依頼”をしてきた女、須田流未だったのだ。
 流未は首にネックレスを提げ、仄暗い廊下の中を、まるで馴染み深い場所に立っているかのように、笑みさえ浮かべている。
「あんた…………なんでここに……?」
 リシャールが声をかけると、流未は初めてリシャールやイェータの気がついたかのように瞬きをした。
「……? なぜ……ですって……? ふぅぅ〜……。そうね……なぜ……ここに……」
 まるで他人事のように、あるいは夢を見ているかのような。どこかふわふわしている感の強い流未は、ぼんやりとした、不気味なほどの穏やかさで、胸元で揺れるネックレスを指先で撫でながら微笑んでいる。
 流未が見せるその仕草に気をとめたのはリシャールだった。そういえば、と、リシャールは別行動をとっている翼姫から聞いた情報を思い出した。
「…………ねぇ、イェータ。……姫がさ、なんか…………ネックレスがどうのこうのって言ってたよね」
 傍にいるイェータに声をかける。
 見れば、イェータもまた訝しげな表情で流未を見ていた。
 もちろん、イェータもリシャールと同じく、ネックレスを気にとめているというわけではないかもしれない。そもそも、流未がなぜこの場にいるのか。大東を捜しに? それにしては”表情が穏やかすぎる”。大東の救出を願い泣き崩れていた、あの流未とはまるで別人のようだ。
 リシャールの言を受け、イェータは視線だけをリシャールに向けてよこし、小さな唸り声のような返事をした。
「……そんなこと言ってたな」
 そうだ、確か。ボスの愛人の魂が宿る媒体として、アクアネックレスとかいうものがあったとかいう話を聞いたような気がする。その愛人の魂の入れ物として選抜されていたエステ店の女から離れた後、ネックレスはそのまま行方が知れなくなってしまった、とも。
「……流未がボスの愛人の入れ物候補だ、ってことか」
「…………かもね」
「なぁ、リシャール。あのネックレスが媒体だってんなら、あれをぶっ壊しちまえばいいだけなんじゃあねぇのか」
「…………かもね」
「だよな」
 リシャールの無気力そうな応えを気に止めるでもなく、むしろそれに背を押されたように、イェータは弾かれたように足を踏み出す。
「そのネックレス、悪いがぶっ壊させてもらうぜ!」
 言って、流未の首で揺れるネックレスに手を伸ばし、指先がネックレスに触れた。と、そのときだ。
『触レタナ』
 どこからともなく、無機質な、生気の感じられない声が沸き立った。
『触レタナ』
 再びその声が耳に触れて、イェータは声のした側に目を向けた。指はネックレスにかかったままだ。
「イェータ!」
 リシャールが珍しく、声を少しだけ大きくする。
 目をやったその場所に立っていたのは、黒いマントで全身を覆い包み、ツバの大きな帽子を目深に被った、性別の知れない何者かだった。人間的な気配はまるで感じられない。
「……てめぇは誰だ」
 訊ねたイェータに、それは応えようとしない。
『ソレニ触レタナラバ、オマエヲ試サセテモラウゾッ! オマエガッ! コノアクアネックレスノ魂ノ器トシテッ! ”相応シイ”カドウカヲッ!」
 言い放つがはやいか、それは大きく揺らぎ、ほどなくして辺りを包む仄暗い闇の中へと溶け込むように消えていった。
 流未はイェータがネックレスを掴んできたのに驚いて目を見張り、イェータの手から逃れようとしてか、大きく身をよじらせた。その瞬間、
 流未の足もとから現れた鮮やかな影が、大きな矢のようなものを振りかざし、イェータに襲い掛かったのだ。
『カカッタナ、アホガ!!』
 哂う影の姿は、流未には見えていないらしい。空虚を思わせる目を驚愕に見開き、イェータの顔をまっすぐに見据えている。
 だが、影がかざした矢がイェータを傷つけることはなかった。影がかざした手のようなものにはビー玉がいくつか直撃し、しかもかなり深くえぐるようにめりこんでいる。
「…………波紋入りのビー玉は、……痛いよね。……波紋入ってるかどうか…………わかんないけど」
 ビー玉を放ったリシャールが喜色を滲ませ口角をあげる。
 前回ハザードを訪れた後、リシャールはハザードの元ネタとなっている漫画を新刊まですべて網羅しなおした。そのおかげもあって、咄嗟にセリフを応用して返すこともできるようになった。
 影はリシャールの言葉に耳を貸す隙すら与えられず、矢を持った両手ごと後方へと大きく吹っ飛び、そのまま壁に激しくぶつかった。
「ほう、壁にぶつかるということは……つまり殴り斃すこともできるってわけだな」
 間を置かず、続けてイェータがやんわりと口角を歪め、上げた。
 同時、イェータの足もとから現出した異能が大きく拳を振り上げて吼えた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ――――ッ!」
 叩き込んだそれは激しいラッシュ攻撃だった。
 流未は自分の真横で突然突風が起きたのに驚愕し、続いて後方の壁や床が自ら壊れ崩れだしたのを目にして小さな悲鳴をあげる。
 その隙に、イェータは再び流未の首に揺れるネックレスを掴み取って力をこめた。
「き、きゃああああああ!!」
 叫ぶ流未に、イェータは迷惑そうに顔をしかめてかぶりを振る。
「やれやれ……やかましい女は嫌いなんだがな」


 すぐ近くで派手な破壊音がしたのを耳にして、ジョシュアはわずかに視線を横に向けてずらした。
 エドガーには気を抜くことができない。空気はまさに、今にも暴発しそうなほどに緊迫している。
 エドガーが大東をも手にかけようとしていることなど容易に知れる。むろん、ジョシュアの身についた異能を使いエドガーの動きを抑止することは可能だろう。ただし、どうやら異能を使うためにはそれ相応の条件もあるようなのだ。例えば射程距離。異能がどの距離にまで力を及ぼすことができるのか。――ジョシュアのそれは遠距離タイプではないようだ。
 エドガーを抑止するためには射程距離内に踏み込む必要が生じる。が、それは同時に、エドガーの攻撃範囲に足を踏み入れることにもなるかもしれない。現に、先ほどエドガーはギャングたちに触れることなくねじ切り殺している。
「大東くん。教えてくれないかなァ? 君は”ボス”の入れ物になるために選ばれたんだよね? 今の時点では、ボスは斉藤美夜子という女性の中にいるらしいんだけど……君は彼女に会ったことは?」
 ジョシュアが静かに神経を尖らせているのを知ってか知らずか、エドガーは壁に背を預けたまま顔を歪め嗤っている。その手には抜刀されたままの刀身が握られ、鈍い光を放っているが、エドガーにはそれを振るうつもりはないようだ。少なくとも、今は。
 大東は奇行をやめ、今はむしろ落ち着き払い、エドガーの顔をまっすぐに見据えている。
「……なんて訊いても答えてくれるはずないかな」
 喉を低く鳴らして嗤うエドガーに、ジョシュアが不快そうに眉をしかめながら口を開きかけた、その時。
 ジョシュアは視界の外側から飛んできたスローイングナイフに気がつき、視線を寄せるよりも先に手を伸べた。ジョシュアがナイフの柄を掴み止めたときには、二刀目が放たれ、大東の眉間を狙い、飛んできた。
「オラァ!」
 誰かが走り寄ってくる気配がして、次には二刀目のナイフは床に叩きつけられ落ちていた。
「寺島、おまえだろ」
 ナイフを殴り落とした影を背に、走り寄ってきたイェータが低い声音で寺島の名を呼んだ。「このナイフ、おまえのだよな」
 イェータの後ろから顔を覗かせたリシャールは床に転がるナイフを検め、その後にイェータの視線の先にいる寺島の姿を検めた。
 寺島はいつもと同じスーツ姿で、いつもと変わらない佇まいでそこに立っていた。ただいつもと違うのは、大東をまっすぐにねめつけているその表情が憤怒のそれを呈しているという点か。
「……邪魔をするな」
 絞りだすような声で寺島が言う。
「邪魔? …………違う、違う。……俺たちは”依頼”をこなしてるだけ」
 リシャールが応えると、寺島は大東をねめつけていた視線をリシャールに向けて放ち、小さな舌打ちをひとつ。 
「貴方が彼女を……流未さんをここから逃がしたのでしょう? 私たちに依頼をかけさせるために」
 ジョシュアがリシャールの言を繋ぐと、大東が初めて小さな反応を見せた。
「流未……。流未は」
 言いながら小さく身じろぐ。と、その首元にエドガーの刀があてられた。
「ああ、ダメ、ダメ。君は今ここで俺らに”生かされている”だけなんだよ。勝手に動いたりしちゃあ困るなあ」
 薄い笑みを浮かべるその目には、しかし言葉とは裏腹に、何かを期待しているような色がありありと浮かんでいる。
「彼女なら無事だ。アクアネックレスも外してぶっ壊したからな。地下道から外に出してもきた」
 イェータが告げると、それを耳にした大東は初めて安堵の色を見せ、小さなため息を漏らした。
「心配…………だったんだね」
 リシャールが問う。大東は応えず、今度は寺島の顔をまっすぐに見据えて口を開けた。
「おまえには悪いことをしたと思っているよ、寺島」
「……」
「謝って済む話じゃあないよな。分かってる。……俺たちはあの女から自由を奪ったんだからな」
 そう続け、大東は目を伏せて唇を噛む。    
「流未と会って、初めて……おまえの気持ちが解ったような気がする」
「……おまえに俺の気持ちが解るはずもねぇだろう」
 応えた寺島の声は震えている。怒気を無理矢理に押さえ込んでいるのだ。それを検め、ジョシュアはわずかに目を落とした。
「美夜子は……てめェらのせいで両足を……広がっていたあらゆる可能性を……失くしたんだ」

 大東は仲間を集わせ、美夜子を襲った。寺島の目の前で、おそらく本来の目的はもっと卑劣な内容だっただろう。だが寺島もまた大東たちに応戦をした。美夜子を護るため、美夜子の目の前で大東の仲間を数人、再起不能に貶めた。
 そうして不運な事故は起きたのだ。
 逆に寺島を庇おうとした美夜子はその事故で両足の自由を失ってしまった。
 当然、この事件は大ごとになるはずだった。大東の所業も白日のもとにさらされ、しかるべき処遇を受けるべきはずだったのだ。
 が、大東は裏の世界にパイプを得ていた。彼らは大東の所業を隠すため、何らかの策をこうじたのだろう。事件は結局新聞に載ることすらなかった。
 が、これを機に、大東は海外へと逃避した。
 そうして、この事件を機に、寺島は美夜子との距離を置いた。もう二度と会うこともないと決めていた。それはもしかするとただの我が侭な結果だったのかもしれないけれど。
 ただ、美夜子にもたらされていたであろう可能性は、少しだけでも取り戻してやりたかった。幸福になってほしいと、願って。
 それには大金が必要だった。美夜子の足を治療するために。
 それを現実とするため、寺島は闇に身をやつすようになった。それがより一層、美夜子との距離を広めていくものであったとしても。

「君はこの男が憎いんだね、寺島君」
 寺島の追想を打ち破り、エドガーが声を弾ませた。
「詳しい話は解らないが――ともかく君はこの男に恋人を奪われた。それを復讐したいんだ、この男に」
「寺島」
 エドガーの声を阻むように口を開けたのはイェータだ。
「俺たちは大東の救出を依頼された。――大東の恋人からな」
「そういうわけだから…………俺は依頼を優先する……」
 イェータに次いでリシャールが続けると、寺島は再び大東をねめつけ、上着の内側に手を突っ込んだ。
「俺は依頼を請けちゃいない」
「確かにね」
 エドガーが小さく笑う。
「この男――そこにいるイェータ君はエドガーって呼んでるけれどね。まあ、ともかく、この男も恋人を殺されたんだよ。それで憎悪に染まった。恋人を殺した相手を自分の手で殺してやりたい、ってね」
 君と同じだよ。そう続けて肩を震わせた。「でもこの男は結局殺せなかった。何かな、あれは。憎しみよりも理性ってやつが勝ったのかな。でも憎悪は消えない。そりゃそうだ。だから殺してやったんだよ、――俺が」
「……エドガー、貴方の話は、今、ここでは不要のはずでは?」
 ジョシュアがやんわりと諌める。が、エドガーはジョシュアをちらりと一瞥してみせただけで、まるで楽しい昔話を語るかのような表情で続けた。
「君からは俺と同じ匂いを感じるよ、寺島君。君はあの女……ええと、流未? だったかな。あれが”ボスの愛人”の入れ物に選ばれているのを知ってたんだろう? その彼女を使って依頼させたのはなぜだ? 君はあの女が大東の大事な女だということも知ってて――それで利用した。ああ、最低だね、君は」
「エドガー、てめェ、もう黙らねェと」
 イェータが口を挟む。
「親指をてめェの目の中につっこんで! 殴りぬけるぜッ!」
「君はこの男を殺したい、そうだろう? 殺したいなら殺せばいい。憎しみは復讐でしか癒せないんだ。――そうだろう?」
 クツクツと喉を鳴らしながら、エドガーは大東の首にあてていた刀を静かに退けた。そして静かに大東の背を押しやり、寺島の傍へと差し向ける。
「寺島ッ! ここでそいつを殺せば、流未は美夜子以上の不運を背負いこむことになるんだぜ!?」
 イェータが声を荒げた。
 ここで異能を使い大東を寺島から遠ざけることは可能だ。しかし、寺島の心を鎮めることは、少なくともイェータの異能では不可能だ。――否、おそらく誰にもそれは出来ないだろう。
 寺島は静かに佇んだまま、大東をまっすぐにねめつけている。イェータの声も、あるいはエドガーの声も届いてはいないかもしれない。
 寺島は静かに目を伏せた。手の中のナイフを握り直し、小さく息を整えている。
「……大東は法で裁くのが一番でしょう」
 ジョシュアが穏やかな語調で寺島に声をかけた。
 が、それを合図にしたかのように、寺島は次の瞬間、大東をめがけて走り出していた。
 エドガーに押しやられた大東との距離は数メートルも離れていない。ほんのわずかなダッシュで容易に辿り着くことのできる距離だ。
 エドガーの顔が狂喜に歪む。
 どこかで”ボス”の――否、斉藤美夜子の叫びがしたような気がした。もちろんそれは現実のものではなかったのだが。

 イェータが時を止めようとした矢先、
 リシャールが寺島の手を狙い定めビー玉を放った矢先、
 ジョシュアが大東を庇おうとして身を乗り出した矢先、

 何よりも早く、エドガーの動きは済んでいた。

「悪いね。――俺も一応、依頼を請けてここに来たんだ」

 
 ポケットにしまいこんでいた携帯が小さな振動を伝えている。
 湿った息が喉の奥から断続的に放たれる。ともすれば今すぐにも意識が混濁してしまいそうだ。
 すぐ近くでイェータたちの怒号が響いているが、それは今は遠い場所で響いているもののように聴こえる。
 携帯を手に掴み取って、着信を検めた。――もっともそれは”ボス”が連絡手段として渡してきたものだ。相手はボスでしかありえない。
 ボスからの着信はいつだって不快だった。
 美夜子の声をした別人。美夜子の身体を動かす別人。その顔も表情も美夜子のものなのに、それは紛れもなく美夜子ではない別人だ。
「――」
 ジョシュアが寺島の身体を支えようとしている。それを払いのけ、寺島は壁に身を預けて携帯を耳にあてた。
 そしてわずかに目を見開き、きびすを返して廊下の別方向へと足を向けた。

「寺島ッ!?」
 エドガーを押さえ込んでいたイェータが寺島を呼んだ。寺島はジョシュアの制止を振り切り、廊下の奥に向けて歩みを進めている。
 肩から腹部へ続く深い創を得た寺島の身体からは、ほんのわずか動くだけで多量の血が流れて落ちる。
「動くんじゃあねェぜ、寺島! ……ッ!?」
 寺島を追おうとして、しかし、イェータは周囲に生じた大きな異変に気がつき、目を見張った。
 空間が大きく崩れている。歪んできているのだ。
「――ハザードの消滅……?」
 ジョシュアが呟く。
 それに呼応したように、リシャールの携帯がメールの受信を報せた。
「姫からだ…………ボスを斃したって」
「……!」
 イェータが目を見開き、リシャールの手から携帯をひったくる。
 そこには短い、用件のみの文字列が並んでいた。
「ボスが斃れたんなら…………ハザードも消えるよね」
 リシャールが呟いた瞬間、屋敷内の景色が大きく崩れて落ち、大東を含めた五人の身体は地下道へとはじき出された。
 遠くで地響きのような音がしている。
「寺島!? 寺島ッ!?」
 イェータは懸命に壁を叩いたが、そこにあったはずの”入り口”はすでに消えていた。


 大東はそのまま警察へと引き渡された。流未は初めて大東の”裏の顔”を知ったようだったが、それでも大東の帰りを待つという。
 アクアネックレスのことも屋敷のことも、何一つ、ふたりの記憶には残されていなかった。


「あのまま…………寺島も美夜子さんも行方不明だってね」
 リシャールが呟く。
 ハザードが消滅した後、イェータたちはふたりの消息をあたってみた。が、ふたりの消息はそのまま杳として知れないままだ。
「あのふたりはムービーファンだ。バッキーがいたよな。……もしも仮にふたりが死んだら、バッキーがモンスター化する」
「現時点ではハングリーモンスターに関する報告はないみたいだね」
 イェータの言にジョシュアがうなずく。
 まだ陽も高いのに、大通りを歩く人の姿はずいぶんとまばらになった。客足も少なくなったせいか、三人がいる喫茶店の従業員も退屈そうにあくびをしている。
 その喫茶店のテラス席で、イェータは両手を組み、その上に額をのせて目を伏せた。
「……バカヤロウが」
 誰に向けたものともしれない声が、のどかに晴れ渡った青空に消えていった。 
 

クリエイターコメント大変に、大変にお待たせいたしました。方々にグリグリと土下座させていただきたいです。

銀幕でのシナリオはこれでラストになりますので、わたしとしては妥協せず、内容の展開、ネタの盛り込み方等々、わたしなりに色々とやらせていただきましたァん
すみません、調子にのりました。

最後のシナリオがこうまでお待たせしてしまうものとなってしまったのはどうよって思います。
本当に申し訳ありませんでした。

ご参加、まことにありがとうございます。
公開日時2009-05-18(月) 00:00
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