★ 夜の帳は黄昏て往き ★
<オープニング>

 クリスマスを迎えるための仕度に忙しい街中の賑やかな空気とはかけ離れ、常から人足の寄る気配すら窺えない廃車置き場には照らすものすらない夜の漆黒ばかりが満ちている。
 スクラップになる日を待ち侘び眠っているような廃車の山を横目に見ながら、女はまろびそうになる足を懸命に奮わせ、手にしている懐中電灯の明かりひとつを頼りに、迷路のようにも思える闇の中をひた歩いていた。老いた身には深夜の風の冷たさは想像以上に厳しく、時に深い皺を刻んだ肌を裂くように吹く風の強さに首をすくめる。
 銀幕市のはずれに、まるで忘れ去られたかのように広がっている廃車置き場。その奥にある小屋に向かい、報酬を払い、願を言えば、誰とも知らぬ何者かたちがその願を叶えてくれるのだという。そんな噂を耳にして以来、女はただひたすらに祈り続けてきた。

「娘と孫を助けてほしいんだよ……!」
 辿り着いたその小屋の中、人の気配はおろか応える声のひとつすらない闇の中に向かって女は言葉を紡ぎ続ける。一度開いた言葉はとりとめもなく溢れ、女はそれまでの苦渋を吐き散らした。

 サンタの家を見つけた。五歳になる少女はそう言いながら祖母の袖を引き、その家がどこにあったのか、その家の中に住むサンタがどんな風貌であったのかを少女なりの表現で懸命に訴えてきた。けれどもその時祖母は夕飯の仕度で忙しく、頬を紅潮させながら話す孫の言葉のほとんどを聞き流していた。だからその家がどの辺にあるのか、サンタがどんな風貌であったのか、今となってはほとんどが薄らぼやけたものでしかない。
 早くに駆け落ち同然に結婚して家を出ていった娘だったが、数年後、夫と死に別れ孫を連れて帰ってきた。娘が結婚した相手が難病に臥し、どんなに酷い末期を迎えたのかは女もよく知っていた。もちろん娘がどれほどに心を痛めたのかも。だから女は娘と孫とを快く迎え入れ、やがて仕事を始めた娘にかわり孫の面倒を見るようになってからも、女なりに精一杯にやってきたつもりだった。
「あのね、サンタさんが、きょうのよる、サナの家にあそびにいくねって言ってたの」
 孫はそう声を弾ませたが、祖母はそれをも聞き流した。「そう、良かったねぇ」そううなずき、孫の小さな頭を撫でてやりながら。

 果たしてその夜、孫のサナは姿を消した。サナと共に眠っていた娘もまた姿を消した。ふたりが眠っていた部屋は一階の角にあり、ひとつだけある窓は全開になっていて、部屋の中には荒らされた痕跡や争った痕跡はひとつも残されてはいなかった。
 警察は失踪として処理を済ませ、そこにはおそらく事件性はないであろうと断じて帰って行った。働くようになった娘が新しく恋人を作り、その恋人と共にどこかへ行ってしまったのだろう、と。

「けれどね、アタシは知ってるんだ。おんなじように行方不明になってる子供が他にもいる。みんなみんな、サンタの家を見つけたって言ってたらしいんだよ!」
 女はそう言って両手で顔を覆い隠し、泣き崩れるようにして膝を折った。
「昨日、行方不明になってた子供が何人か見つかったんだ。……みんな乾物みたいになっちまって、身体中の血がなくなっちまってたって……! ……ああ、神さま……!」

『――それで』
 その時、沈黙を守り続けていた闇の中から男の声が応えた。
『あんたは、どうしてほしいんだ』
「娘と孫を助けてほしいんだよ……! ”サンタの家”がどこにあるのか、アタシは知らない。でも、きっと今もそこに捕まってて、助けてもらえるのを待ってるに違いないんだ……!」
『もしも娘と孫が……死んでいたら』
「――あの子たちはアタシの宝だ!」
 どこから聞こえてきているものかもしれない声に向かい、女は声を震わせる。
「その時はアタシも生きてやいられない。アタシの通帳とハンコ、それにアタシの命をくれてやる。――だから、その時には、犯人を……! 犯人を同じ目に遭わせてやってほしいんだ……!!」


 
 老婆が小屋を出ていった後、残された通帳をひらひらとめくりながら、寺島は闇のそこここにいる同志たちを検めながら口を開けた。
「どうにもいけ好かねぇ臭いがするが……まぁ、俺ぁやるぜ。――おまえらはどうすんだ?」 
 

種別名シナリオ 管理番号847
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
クリエイターコメントこの度、仕置き人シリーズと称しましたシナリオの第3弾目のお報せにあがらせていただきました。
今回は季節的なものも踏まえたシチュエーションを織り交ぜながら、さらにちょっと違う要素も練りこみつつ、でも結果的にはシンプルにをモットーにしたシナリオをと思っています。

情報としては以下の通りです。
・サンタの家を見つけたと主張していた少女は五歳。友だちと一緒に遊びに行って”見つけた”のだと想定しても、距離的には祖母の家からさほど遠くはない位置にあろうかと思われます。
・祖母の家は普通の住宅地にあります。周囲には築年数の経った一軒家やアパートといった住宅が並びます。
・ムービーハザード等が発生したという情報はありません
・少女の母親は近くの私塾で講師として働いていました
・行方不明になっているのはいずれも女児、あるいは女性が中心。見つかった死体は女児のものばかりで成人ものは未だありません


また、シリーズ通してのものですが、参加される方々には
「仕置き側に回る(基本殺しが生じます)」「仲介役にまわる(この場合基本殺しはしません)」「仕置き反対(殺しはなし)」
いずれかの立ち居位置を選択していただきます。その旨、プレイングに添えていただきたく思います。

それでは、お目にとめていただいてありがとうございました。もしもよろしければご縁をいただけますよう、お待ちしております。

参加者
藤(cdpt1470) ムービースター 男 30歳 影狩り、付喪神
ゆき(chyc9476) ムービースター 女 8歳 座敷童子兼土地神
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
ギル・バッカス(cwfa8533) ムービースター 男 45歳 傭兵
イェータ・グラディウス(cwwv6091) エキストラ 男 36歳 White Dragon隊員
木村 左右衛門(cbue3837) ムービースター 男 28歳 浪人
<ノベル>

 ――どんな理由があったって、誰かを殺していいわけなんかない
 友達にそう言われたのは春の初めの頃だった。どんな理由があったって、死んでいいひとなんかいない。彼女はそう言って寂しそうにふわりと微笑んだのだ。
 ひょうひょうと音を鳴らしながら夜の風が空を走る。今日は月の姿はない。ちらちらとまたたく星影はいくつか見えているのだから、ひょっとすると新月なのかもしれない。あるいは雲がその姿を隠しているだけなのかもしれないが。
 ぼんやりと夜空を仰ぎ見ながら、ゆきは小さく短い息をひとつ吐き出した。そうしてから手がかじかんでいるのを思い出し、白い息を冷えた手のひらに吐きかける。
 先ほど、また“依頼”があった。依頼主は年配の女性で、行方の知れない娘と孫とを探してきてほしいというものだった。――しょうじき言えば内心で安堵した。もしも単純な「捜索」に終始するだけの依頼になったならば、少なくとも今は今以上に胸を痛めなくてもいい。“依頼”を通し、誰かが誰かを殺すことなど、決してあってはならないことなのだ。
 ゆきはこれまでも数度にわたり“仕置き”に携わってきた。親しく交流している(少なくともゆきはそう思っている)寺島が、裏側では冷徹な殺人者の顔を持っている。それを知った後、ゆきは彼がなぜそんな行為をしているのか、その理由を見極めたく思った。直に訊ねたところで寺島は応えてなどくれない。ならば自分が実際に現場に触れ、そこにあるであろうものを自分なりに見極めるより他に手段などないだろう。……そう考えたのだ。
 けれど、春先での仕置きの際、事件に巻き込まれて重傷を負った友達が、それでも微笑み言ったのだ。どんな理由があっても誰かを殺していいはずなどない、と。
「おまえに仕置きは不向きだと言ったはずだが」
 そのとき、静かな声がしじまを破り、不意に男の姿がゆきの視界の端に映りこんだ。
「……シャノン」
 返し、ゆきは視線だけを動かして声の主の顔を見る。シャノンは黒い外套の中からステンレスのウォッカフラスコを抜き出し、口に運んでいる。そうして廃屋の壁に背を預けて空を仰ぎ、ゆきと同じく白い息を吐き出した。
「……わしにはやはり理解できん。なぜ信夫や……信夫だけではない。おぬしたちは“殺す”のじゃ?」
「なぜかって?」
 フラスコは空になってしまった。シャノンはわずかに眉をしかめ、無造作に外套の中に突っ込んだ。
「おそらく俺にはゆきを満足させるだけの答えを出すことはできないな」
「わしはこれでも長い間あちこち歩き回ってきたんじゃよ。どこに行っても争い事はあった。人が人を憎んで殺すのをいくつもいくつも見た。そうすればまた新しい憎しみが生み出されるんじゃ。それではいつまで経っても何ひとつ変わらん。……違うかの?」
 ゆきはシャノンの顔を見ようとはしない。まるで独り言のように呟き、空に向けていた視線をゆっくり足もとへと落とした。
 シャノンは横目にゆきの顔を確かめた後、外套のポケットに両手を突っ込み、寒さをやり過ごしながらかぶりを振る。
「理想論を論じたいのなら違う場所に行けばいい。おまえに向いた、もっと陽のあたる場所がいくらでもあるだろう。いつまでもこんな場所で俺たちのような……寺島のような人間と関わらないほうがいい」
 言い残し立ち去ろうとしたシャノンにすがるように、ゆきは半歩ほど進む。
「わしは……!」
 信夫にもシャノンにも、仕置きに関わるすべての者たち、もちろんそうではない者たちもすべてが。皆が殺生などといったものから外れてほしいと願う。けれど。
 シャノンはゆきをわずかに振り向いたが、立ち止まることなく闇の中に姿を紛らわせて消えた。気配すらもすぐに消え、むしろ今まで本当にここにシャノンがいたのかさえ曖昧なほどだ。
 ゆきは言い出しかけていた言葉をそのまま飲み込み、拳をかたく握りしめながら俯く。
 ――それは無理な願いだということも、ゆきにはよく解っていた。

 廃屋の中には寺島の他、和装姿の青年の姿だけがあった。青年は古いテレビを置いたダンボールの横に腰かけ、硬い表情で腕を組み、離れた場所にある割れた窓を眺めていた。
「稚い幼子を残忍な手にかけて殺めるとは……。ましてさんたくろうすというのは幼子たちに夢を与える存在だと言うではないか。それを悪しき行為に使うとは赦し難き非道。――それがしもこの依頼、請け負おう」
 言いながら腰を持ち上げたのは木村左右衛門だった。左右衛門は寺子屋で子供たちに読み書きを教え、実体化後も書道や剣道の稽古を見てやったりしている。時代や場所が移ろっても、子供たちが放つ輝かしい光は得難く、大切なものだと思える。
 寺島は壁にもたれたまま依頼主が残していった通帳をぺらぺらとめくり眺めていたが、左右衛門の声を聞くとわずかに片眉をつりあげ、左右衛門の顔を睨みつけた。
「それはてめぇの自由だが、……てめぇ、私情で動くんじゃあねえだろうな」
「……私情?」
「オレたちはあくまで“依頼”のために動く。それ以上でも以下でもねぇ。仕事に私情を挟んだら終いだ。――忘れんなよ」
「……」
 応えず、左右衛門は小さく目を瞬かせる。
 そうして場を去ろうとした時、廃屋のドアが開かれ、不精髭をたくわえた男がひとり、ゆったりとした歩調で歩き進めて来て口を開けた。印象に残る低音の声だった。
「依頼を請けて仕事をする連中がいるってんのはここでいいんだよな」
 言って、男は肩に担ぎ持ってきていた大槍を下に向けた。斧に似た二枚の刃をもった大槍は男の肩から放たれると重量を思わせる音と共に床に置かれ、それに身をあずけるような格好をとって首を掻きながら言葉を続ける。
「俺様の事はギルとでも呼んでくれりゃあいい。どうせここじゃあ自己紹介なんざ不要なんだろ? とある筋からおまえらの話を聞いてな。――金、もらえんだろ?」
 言ってニッカリと笑った男はそのまま左右衛門と寺島とを見比べ、ついで廃屋の中をぐるりと見渡した。
「洒落っ気のねぇ場所だな。っつっても、別に小洒落た場所である必要なんざねぇんだろうけどな」
「失礼。貴殿は何故にここへ参られたのか?」
 ギルと名乗る男が興味深げに周りを見渡しているのに口を挟み、左右衛門が静かに問いかけた。それを受けてギルは再び左右衛門の顔に目を向ける。右目には黒い布が巻かれてあり、必然的に顔の半分近くは窺いにくい。だが左右衛門に向けられている左目は宝石のような、けれども妖しげな光彩を放つ緑色で、わずかほどの隙も感じられない眼差しを持っていた。 
「言っただろ? “とある筋”から情報を聞いたのさ。俺様はこう見えて傭兵なんざやったりしてるからな、その手の情報は黙ってても聞こえてくる」
 ギルの応えはそれ以上の情報を一切明かそうとしない。左右衛門はわずかに押し黙り、まっすぐにギルの目を見据えてみた。
「――なるほど、……それがしの名は」
「あーあー、名乗りなんざ不要だろ? なぁ、そっちに突っ立ってるボウズ」
 左右衛門の言を遮って笑い、ギルはちらりと寺島の方に顔を向ける。
「さて、俺も噛ませてもらうぜ。――ってことで、詳しい話を聞かせてほしいんだがな」

 そこは小さな竹林を抱えた茶房だった。
 地元民の有志の手で細々と歴史を重ねて来たといった風体の小さな神社。その近くに建てられた古い民家を改築して造られたのだという茶房は、女将である婦人が手作りした団子と丁寧に点てた抹茶を主な品書きとしている場所だ。婦人が趣味で続けているだけの、ごく小さな店なのだ。
 夏ならば竹林を渡り吹く風はさぞかし涼しく感じられることだろう。けれども冬が訪れた今となっては、その風は寒さを煽るものでしかない。
 竹林を眼前に見ることのできる長椅子の上に腰をおろし、熱い茶の湯を愉しんでいた藤の後ろにどかりと腰をおろしたのは、細身に見えるわりには重量を感じさせる体躯をもった壮年の男だった。独特なその歩き方や放っている空気から、背中越しに座る壮年が傭兵か、そういった種の人間であろうことを窺い知ることができる。
 が、藤は素知らぬ顔で茶の湯をすすり、団子を頬張った。
 壮年は藤を気に留めるでもなく、注文を聞きにきた女将に藤と同じものを頼み、しずしずと去っていった女将を見送りながら独り言のように口を開ける。
「おまえが“仲介役”でいいんだよな」
 壮年が告げたそれは問いかけではなく断定だった。
 藤はわずかに眉を動かし、しかしすぐにゆったりとした笑みを浮かべて湯呑みを長椅子の上に置いた。梅重の重色目を真似て洒落てみた袷を身につけた藤の頭にななめ掛けされた般若面が、わずかな翳りを帯びたようにも見える。
「俺に何か用かな?」
「情報を仕入れに来た。――今回の“依頼”、俺も噛ませてもらうぜ」
 藤の言葉に、壮年は飄々とした口調でそう返した。
 ――依頼。
 なるほど、そうか。肯き、藤は般若面を指先でなぞりながらゆったりと口を開く。
「今晩、廃屋に来てくれ。そこで話す」
 言って、藤は袖に片手を突っ込んで茶代を長椅子の上に置いた。壮年の男は振り向きも応えることもせず、女将が運び持ってきた湯呑みと団子を口に運ぶ。そうして藤もまた壮年の顔を確かめようとしないまま、静かに茶房を後にした。
 仕置きに関わる者たちは、知己であれ他人であれ、一度仕置きを離れてしまえば互いに“そう”と知らぬ間同士でなければならない。顔も名前も、本来なら知る必要もないのだ。
 席を立ちほどなくして消えた藤の気配に、壮年――イェータ・グラディウスは団子を頬張りながらわずかに後ろを確かめる。
 たった今まで背中を合わせ座っていたはずの気配が、まるで初めから誰もいなかったかのように立ち消えていた。
「……お見事」
 呟き頬を緩める。それを耳にとめた女将が首をかしげたのを見て、イェータは満面の笑みを作り団子の残りを頬張ってから空になった皿を差し出した。

「この団子、見事だよ、ねえちゃん。おかわりもらえるかい?」

 あれはまさに風の噂と譬(たと)えるに相応しいものだった。この街のどこかにひっそりと身を隠す『仕事人』がいるのだと耳にしたのだ。仕事人などテレビや銀幕の中にしか住まない存在だと思っていた。否、世の中にはそういった暗部に潜む者たちもいるのであろう事を知覚していても、それはあくまでも架空のものでしかなかったのだ。金品と引き換えに誰かを殺す、あるいは司法ではどうしようもない事件を解決に導いてくれる。そういった者たちが、実際に、しかもこの街にもいるのだという。それを耳にとめたとき、老婆の決心はすぐに固まった。藁をも掴むような気持ちを抱きながら『その場所』へと赴き、心のどこかでは疑りながら依頼をかけた。――応えは、あった。姿の見えない何者かが彼女のかけた依頼を請けてくれたのだ。
 娘と孫を連れ戻したい。――もしもふたりがすでに殺されていたならば、その時には犯人をふたりと同じ目に遭わせてやりたい。
 そうかけた依頼に、闇からの声は応と応えたのだ。
 昼夜と問わず街中を徘徊し、娘と孫の姿を探し回っていた彼女は公園のベンチの上で小さなため息をついた。陽は傾きかけている。公園の街灯がちらちらと光を灯し始め、遊んでいた子供たちもぱらぱらと帰路に向かい始めていた。
「バアさん、こんな寒空ん中うろうろしてちゃあ風邪ひいちまうぜ」
 ふと孫のことを思い出しかけていた彼女の耳に、突然男の声が届いたのは一番近くの街灯が明かりを灯した瞬間のことだった。
 驚き振り向こうとした彼女の目の端に刹那映りこんだように思えたのは女物かと思しき濃紅色の袖だった。だがそれを身につけているのであろう人物の、顔はおろか、姿の一片ですらも捉えることはできない。振り向いたそこには空虚な薄闇が広がってあるばかりだった。ただ、灯された街灯の下、ゆらゆらと揺らぐ影のようなものがあったのを、しかし老婆は見出すことができずにいた。
「悪ぃな、バアさん。バアさんは俺の顔を見れねぇよ。……ところで夕べ、俺らに依頼してきた件なんだけどな」
 男の声は淡々とした調子で紡がれる。彼女は声が紡がれるたびにきょろきょろと首を動かして声の主を探したが、どこにもその姿を見出すことはできなかった。
「もういっぺん、改めてちゃんと情報を聞かせてもらいたくてな。バアさん、孫がよく遊びに行く場所とか、よく一緒に遊ぶ友達とか、そんぐらいは承知してんだろ? それも知らねぇぐらい放置してたわけじゃあねえよな」
「……! もちろんさ!」
 声の主の姿が窺えそうにないのにようやく馴染んだのか、老婆は膝の上で拳を握る。
「じゃあ教えてくれねぇかな、バアさん。孫は普段どの辺で遊んでいたのか。どの辺に住んでる友達と遊んでたのか。――それと、孫がその“サンタクロース”とやらを見つけたとき、友達は一緒にはいなかったのかどうかとかな」
 問うと、老婆は小さく肯き、口を開けた。
「うちのすぐ裏に公園があってね。あの子はたいがいその公園で遊んでた。あたしらの足だと三分もありゃ着けるような距離さ。子供の足だともう少しかかるかね。……それとその公園からもう少し離れた場所に、いくらか大きい公園もあってね。その公園にもたまに行ってたねえ。あたしん家の近所には孫と年頃の近い子供が多くてね。中でもお向かいにあるアパートに住んでる女の子が、孫をよく遊びに連れ出してくれてねえ」
 楽しげに遊びに出かける孫の姿を思い出しているのだろうか。老婆の顔にはやわらかな笑みが浮かび、直後再び強張った表情へと変じた。うつむき、拳をかたく結ぶ。
「そのアパートの子供さんってのは無事なのか?」
「元気だよ。さすがにひとりで外に出たりっていうのは、しばらくしてないみたいだけどね」
 姿を見せない男はしばし口をつぐんだ。何事かを思案しているのだろうか。
「一緒に遊んでるんだろ? その子はサンタクロースってのを見なかったのかな」 
「それがどうも見たらしいんだけどね。……なんであの子だけさらわれちまったんだろうね」
「――その友達もサンタクロースを“見て”んだな? なのに今も無事だってんだな?」
 訊ねた男に、老婆は再び肯いた。
「ってことは、その子供はサンタクロースの姿を見て知ってるってことだな」
 男の声も肯いたように思えた。
「ところで、バアさん。――こればっかりは余計なお世話ってやつかもしんねえけど」
 男の声は先ほどまでのそれとはいくぶん調子を変え、今度は穏やかに、言い聞かせるような音を含んで老婆に語りかける。
「人間、死んだらそれで仕舞いなんだよ。いいか。弔い合戦なんてなぁ意味ねぇんだ」
「……っ!」
 男の言葉に老婆は弾かれたように腰をあげ、男の声のしたほうに振り向いた。そこにはやはり誰の姿もなく、夜の闇に沈んだ風景だけが広がっていた。
「だから、あんたも死ぬなんて言わないでくれ。……なんてこと、的外れかもしれねぇけどな」
「あんたに何が分かるってんだ!」
 声を荒げた老婆に、男はわずかに笑ったような気配を窺わせた。
「あんたは、ふたりは生きてるんだって信じてやるべきだろ。――信じようぜ、バアさん」
 言って、男の気配は立ち消えた。
「あ、あたりまえだろっ、そんなこと……っ!」
 老婆はそう返し、両手で顔を覆って肩を大きく震わせた。

 行方不明になった母子のうち、母親のほうは近所にある私塾で講師を勤めていたらしい。よくありがちな英会話塾で、小学校ほどの年齢の子供を中心に、常時十名弱ほどの人数を教えていたそうだ。
 依頼人の家、つまり母子が住んでいた家から徒歩で十数分。決して遠くはない。開拓中の土地なのだろうか、家と家との距離は数メートルずつほど離れている。
 シャノンは私塾用に開いているという一軒の家を遠くに眺め、間近に臨む一軒の古びた家にかけられているめんどう表札を確かめた。家そのものはさほど古さを感じさせないものの、木製の表札はそれなりに古さを思わせるようなもので、消えかけた墨字で「蔭宮(かげみや)」と書かれていた。  
 庭先には古いもの干しが一本あったが、洗濯物などは確認できなかった。
 ――サンタの家、か。
 呟き、眉をしかめる。
 額面どおりにとるならば、少女はサンタが住む家を見つけたのだということになる。クリスマスシーズンだという背景を思えば、案外とサンタのいでたちをした人間は珍しくもない。宅配のピザ屋など、サンタの服装でバイクにまたがっているのだから。
 そう考えて、シャノンはふと目を細ませた。
 ――そうか。少女は決して比喩でサンタだと言ったのではなく、まぎれもなくサンタの格好をした人間を見たのではないのか。時節も時節だ、しかも無垢な子供であれば、サンタという存在に逢うのはある種夢のようなものになるかもしれない。ましてここは夢が現実になっている街だ。「夢」が自分を迎えに来てくれると知ったなら、子供はそれを拒むだろうか。しかしこの地区周辺にはハザード等の確認はなされていないという。
「……迅速な行動が必要になるな」
 ごちて、シャノンは踵を返す。
 ――“夢”を悪用しようとしている者がいるのかもしれない。

「ってことは、そのアパートの子供が未だ無事だってんのは、その子供が男だからってわけだな」
 壁に背を預けた格好でギル・バッカスが肯いた。
 廃屋の中、今は情報を収集してきた藤を合わせて六人が顔を揃えている。それぞれが闇の中に身を紛れさせているせいで、それぞれの顔や姿は本来ならば判然とはしないはずだ。だがギル・バッカスの左目には闇の中の風景が克明に映し出されている。闇黒の中で生きてきたギルにとり、夜に沈んだ闇など明かりを要さずとも眺め通せるのだ。ゆえに彼の目には今ここに揃っている他の五人の姿がはっきりと見てとれている。
 和服の上に、女物と思しき振り袖を羽織り着ている男。先ほどから情報の整理と説明を担っているのはこの男だろう。煙管をくわえ、時おり思い出したように紫煙を吐き出している。
 その男から比較的近い位置にいるのは身丈の大きな男。月光のような色味の髪は比較的短めだが、ところどころに赤い色が覗き見えている。腕組みをして静かに情報を聴いているようだが、ギルの視線を感じ取ったのか、琥珀を浮かべたような眼差しをギルに向けて投げかけてきた。
 年端のいかぬ少女の姿も窺える。少女は着物を身にまとい、その上から半纏を着けていた。何事かをいいたげな顔で周りを見渡し、次いで少女の傍にいる男を仰ぎ見ている。男は少女の視線にも素知らぬ顔で目を伏せ、ギルが続けるであろう言葉の先を待っていた。ふと持ち上げた視線がギルの顔を捉えている。男もまたギルの視線に気がついているのだろう。
 竹刀袋を携えた若い男はテレビの傍に腰かけている。背丈はさほど高くもなく、身につけているのも決して高価そうではない着物だ。長い髪を背でまとめ、小さく「ふむ」と唸るような声を吐いてから口を開けた。
「下手人は男児には手をかけておらぬという事か」
「その通り」
 情報を説明していた男が肯く。
「失踪しているのはいずれも十に満たぬ年頃の女児、もしくは年若い母親ばかりだ。これまで確認されているのは八名の女児、五名の母親の失踪。内、四名の女児が骸となって返されている。いずれもほとんどの血液を失った状態、つまり失血死との検知らしいな」
「母親たちは見つかっておらぬのか」
「ひとりもな」
 応え、和装の男は小さく肯いた。それを聴いて竹刀袋を携えた男もまた肯く。
「いずれにしてもだ。今回はまず依頼人の娘と孫、それに失踪者たちの救出が先決だな。まだ見つかってねぇ残り全員が死んでるってわけでもねぇかもしれねえんだし」
 月光のような髪を揺らし、身丈の大きな男が告げる。それに賛同したのか、少女もまた大きく肯きながら身を乗り出した。
「そうじゃ。なるべく血の流れない方法を考えて、一刻もはやく助けてやるんじゃよ。――わしは、そのためなら囮にでもなろうと思う」
「囮?」
 隣にいたスーツ姿の男がゆっくりと目を開けた。少女は男を振り向いて肯く。
「さらわれておるのは皆女児ばかりなのであろう? わしはこの通り、見た目は女児と変わらぬ。わしが下手人に囚われ連れて行かれれば、皆が囚われておる場所も特定されやすくなるであろう?」
「……くだらねぇ」
 男は小さな舌打ちをして腕を組んだ。苛立たしげに片手で片腕を叩き、足もとの砂を踏みつけている。
「それはおまえの自己満足に過ぎないんだ、ゆき」
「わかっておるよ……! わかっておるんじゃが、わしはイヤなんじゃよ! 誰にも血を流してほしくはないんじゃ。罪を犯した者なら法に委ねるが良かろう? 信夫や、皆が手を下さずとも、司法がしかるべき裁きを下してくれるであろう!?」
 すがるように言い放つ少女に対し、男は冷ややかな視線をもって返す。
 少し離れた場所から、黒い外套を身につけた金髪の線の細い男が少女に向けて声を放った。
「言っただろう、ゆき。おまえが言っているそれは理想論に過ぎない。司法がすべてを裁けるのなら俺たちのような存在は不要なんだ。万物が光で照らされ明確に知れているわけじゃない。影に潜む裏側で足掻くこともできずにいる者は少なくない。そういった連中の心を晴らすために俺たちのような闇が必要になる」
「わかっておる! そんなこと、言われずともわかっておるんじゃよ!」
 少女は大きくかぶりを振りながら声を荒げる。
「わかっておるんじゃ」
「……話は戻すけどよ」
 空気をやぶり、ギルは閉じていた口を再び開けた。
「それで、犯人の目星はついてんのか」
「一応、しぼってある。そこにいる金髪の兄ちゃんも、俺と同じ場所に目星つけてるよな。同じ場所探ってたしな」
 ギルの問いかけに応じ、藤が首をかしげる。言葉を投げかけられたシャノンは小さなため息をひとつもらし、わずかに肯いてから応えた。
「依頼人の家から徒歩十数分。子供の足ならもう少しかかるか。公園とは逆の方向に向かうが、依頼人の娘が講師として雇われていたという私塾がある」
「その私塾の主が犯人だってんのか」
 イェータが問う。塾、しかも私塾といった小さな場所なら近所に住む子供たちが足を寄せてもおかしくはない。
 しかしイェータの言葉に対し、藤もシャノンもはっきりと首を横に振った。
「初めはそう思ったんだがな。その家を私塾として開いていたのは五十近くの男で、依頼人の娘とは比較的“親しく”していた間柄だったようだ」
 シャノンが応え、それに次いで藤が続けた。
「問題はその隣……まぁ近くっていっても数メートルは離れてんだけどな。そこに住むジジイだ」
「ジイさん?」
「その老人が、如何様な?」
 ギルと左右衛門とが同時に口を開け、藤は少しだけ言葉を濁し、しかしすぐに意を決したような顔を浮かべて顔をあげた。
「そのジイさんは長く病気がちで患い伏しがちだったらしい。面倒をみてくれる親類にも恵まれず、孤独を絵に描いたような生活だったらしいな」
 藤が言うには、その老人は蔭宮といい、若くして妻子と別れた後はひとり暮らしていたのだという。が、ここ数ヶ月、蔭宮は日に日に健康を取り戻し、むしろ若さをすら取り戻していくようにすら見えたと、近所に住む者たちは口々に評判しあっていたらしい。
「返された女児たちの死体には血液が残されていなかったって言ってたな。……それってのはつまり、いわゆる吸血鬼とかそういったもんが絡んでるとみていいのか」
 イェータが訊ねる。藤はシャノンの顔を検めた後に深々と肯いた。
「そう見て間違いないだろうな」
「吸血鬼とは」
「人の生き血を吸い、存える連中だ」
 シャノンが応えたのに肯いて、左右衛門は神妙な顔で眉をしかめる。
「今回はただの仕置きではなく、化け物退治となるわけでござるな」
「化け物だろうが何だろうが、依頼は依頼だ。――殺るのか、殺らねえのか」
 口をつぐんでいた寺島が静かに言葉を編んだ。
「それがしは請ける」
 左右衛門が腰を持ち上げ、次いで、ギルが大槍を持ち上げる。
「金は貰うぜ」
 言って笑ったギルに、寺島はどこか不愉快そうに舌打ちをした。

 蔭宮のところに一通の手紙が舞いこんできたのは初秋の頃だっただろうか。日をおうごとに寒さが増してゆく朝夕、身体の節々が痛み苦痛なばかりだった。時々訪ねてくるのはサービスで弁当を届けてくれる女や野良猫や胡散臭い勧誘員ばかりで、他には誰ひとりとして孤独な老人のことなど気にかけてくれる様子もなかった。一番近くの家には日々かわいらしい子供たちが出入りして賑やかにしているというのに。
 そんな中に届いたその手紙には、封を開けてみると不思議な言葉が羅列されていた。
 自分たちはあなたの味方だ。自分たちならばあなたを幸いにしてさしあげることができる。だから自分たちを怖れず招き入れてほしい。
 初めは新手の勧誘か何かかと思い読み捨てていた蔭宮だったが、毎日のように届くその手紙を、いつからか心待ちにするようになるにまで至っていた。
 ある時、蔭宮はその手紙の言うとおり、玄関の鍵を閉めずに夜を迎えた。その夜、久しぶりに来客があったような気がした。それは夢だったのだろうかと思ったが、翌朝はひどく頭や身体が重く、深く考えるにまでは至らなかった。
 その日の晩もまた夢を見た。次の日も、次の日も。数日ほどそれが繰り返された後、蔭宮は起き上がる体力すら失っていた。が、その代わりに“仲間”を得たのだった。
 夜になると訪れてくる仲間たち。彼らはある時こう囁きかけてきた。
 ――食事をするんだ。そうすれば前よりもずっと楽になる。


 蔭宮の家は平屋建てで古く、しかし比較的広い庭と面積を抱えた造りをしていた。ひっそりとした夜の闇に沈むその風景からは、そこに住まう者の気配をすら感じ取ることはできない。
「呼吸(いき)してねぇんだから当然か」
 笑い、イェータは庭に面して続く石壁を軽々と乗り越えた。 
 この敷地の中にいるのは人間としての理を外れた化け物だという。もっとも、吸血鬼として身をやつしてしまったこと自体を化け物だと称するわけではない。もしも本当に幼い子供たちを手にかけてまで存えることを選び取ったというのなら、そう判じることこそが化け物としての証なのだと思うのだ。
 空には糸のように細い月が張り付いている。その薄い光の下、イェータの琥珀色にも閃く眼光が鋭利な刃物の切先のような光彩を得て瞬いた。
 相手が常態な人間と異なる存在である以上、例えば夜気にまぎれての急襲などといった動きをとったとしてもさほどには成果を生まないだろう。……いや、しかし、行方不明となった少女はサンタを夜間に目撃したわけではないはずだ。少なくとも日没前、日があった時分だったはずだ。
「……一般的な吸血鬼とは違うのか?」
 呟きながら懐に手を突っ込み、銀コーティングを施したナイフを取り出し、次いで銀弾を装填したS&W 1911DKをベルトに差し込んだ。
 
 雨戸はここぞとばかりにびったりと閉じられ、電気も点けられてはいなかった。玄関には新聞やチラシの類が多く差し込まれたままになっており、家主は長く留守にしているのだろうかと思わせる節を漂わせていた。家主は一人暮らしの老人だという。昨今は孤独死というものも珍しくはない。そういった危惧を抱き様子を窺いに来る者はいないのだろうか。確かサービスで弁当を届けに来る者もいたらしいが、そういった者も最近は寄らずにいたのかもしれない。
 シャノンは裏口にまわり、勝手口と思しきドアに手をかけ、押し開けた。施錠すらされていない。開かれたドアの向こうからはかび臭い空気が漏れ出てきた。
 もしも蔭宮がただの罪のない老人でしかなかったのなら、シャノンはこの開いたドアをそのまま閉じて帰ろうとも思っていた。だがシャノンはそのまま重くたちこめる空気の中に足を踏み入れた。
 かび臭い空気の中に混ざっているのは何かの腐臭。何か。――そう、血肉の。

 畳や床板はいくぶん腐っており、大槍をもったギルが踏むと今にも崩れて落ちそうな軋みをあげた。
 一見すれば無人の家としかとれないようなほどに閑散とした気配。住人の息吹ひとつ聴こえない。家電や食器、そういったもの全てが残されたままになっており、しかし食材などはことごとくに腐り、溶けていた。
 ひとつひとつ部屋を検めていく。どの部屋にも人の住んでいる気配はない。部屋数は思っていたよりも少なく、五感を研ぎ澄ませていることで廊下の奥――ギルが進入してきた場所とは逆の方角からシャノンが進入してきている気配を窺い知ることができる。庭にいるのはイェータだろう。イェータは家の周辺を探っているようだ。
 犯人が何者であろうと、――そう、仮に吸血鬼などに類するものであったとしても、大人と幼児のふたりを一度にさらい連れていくことは難しいはずだ。犯人は複数。少なくともふたり以上の人数が揃っているはず。血肉を欲する理由は定かではないが、もとよりそれを知る必要はない。
 肩に担ぎ持っていた大槍を持ち替え、ギルはわずかに片頬を歪めあげた。
「――さあ、やろうぜ」
 ごちたその声に応えるように、無人であったはずの闇の中、わずかに何者かが動いた気配を漂わせた。

 ゆきは蔭宮と書かれた表札を仰ぎながら、その場からわずかにも動くことができずにいた。イェータにシャノン、ギルの三人が敷地の中に進み入っていくのを見送りながら、それを止めることも、そこに加わることもできずにいたのだ。しかし別の場所でぼんやり泣きとおしていることもできず、こうして現場の前で佇むことしかできないでいる。
「俺ぁゆきが何をどう考えて、何をどう悩んでいるのかとか、解ってるつもりでいるだけで実はなんにも解ってねぇんだと思う。だから的外れなこと言ってたら悪ぃな」
 廃屋を後にするとき、ゆきは藤にそう言われて足を止めた。
「でもな。それは違うって思うんならはっきりそう言ってやりゃあいい。自分のことも他人もことも、変化ってもんを怖がってたんじゃあなんにもできやしないぜ」
 藤はそう言ってゆきの頭を軽く撫でた。藤の頭にかけられていた面が憂いを帯びた増女のものへと変じ、藤自身はひどくやわらかな、けれどもひどく寂しそうな笑みを湛えてゆきを見つめていた。
「……変化を怖れていてはならぬ、か。……確かにそうかもしれんのう」
 呟き、動かすこともできずにいた足をほんのわずか前に進めようとした、その瞬間。
 背中に何か得体の知れぬものの気配を感じ、ゆきは再びその場で足を止めた。
 ――クリスマスおめでとう、お嬢ちゃん。
 年枯れた男の声が、ゆきの耳元でそう囁いた。

 勝手口からあがりこむとすぐに土間のような場所に出た。干乾びた野菜などが置かれたままになっている。土間をあがると板張りの廊下、左に庭に面した大きなガラス戸が続き、右手には小さな物置部屋が見えた。シャノンはその物置部屋に足を向けると、その隅に置かれていた長持に目を落とし、眉をしかめた。
 血肉が腐敗した臭い。それは長持の中からも強く漂ってきている。片手で銃を構え持ちながら片手で長持の蓋を持ち上げた。
「……」
 小さく舌打ちをする。
 長持の中には大量の蛆がわき、蛆は折り重なるように置かれた女と女児の死体に群がっていた。腐臭が辺りにたちこめ、シャノンは苛立たしげに間近の壁を蹴り上げた。
 物置部屋の隣は部屋のように思われたが入り口らしいものはなく、一見すれば廊下がひたすらに長く続いているだけのようにも見える。
「……そんなわけないよな」
 ごちて、壁と思しき場所を軽く叩いてみた。明らかに、そのすぐ向こうには部屋がある。部屋のドアを完全に塞いでいる状態なのだ。眉をしかめ、壁を蹴破る。予想通りに広がっていた空間には明かりもなく、閉ざされていたせいで空気までもが腐っている。しかし、その闇の中、弱々しく動くいくつかの影があるのを見つけ、声をかけた。
「――おまえたちは」
 できるかぎりに静かな声音で語りかける。――そこにいるのが“人間”であることが、直感的に知れていたからだ。しかもおそらくひどく疲弊している。
「……た、助けて……っ!」
 弱々しく枯れた女の声だった。女の腕にはぐったりとした女児が抱きしめられており、見目に衰弱しているであろうことが容易に知れた。
「すぐにここを出て病院へ行こう。――ところでその子供は“サナ”という名前の子か?」
 訊ねると、女は一瞬目を大きく見開き、直後に大きく肯いた。
「そうか。あんたのところのバアさんから、あんたたちの救出を依頼された。……ともかく、ここを」「う、後ろっ!」
 サナの母親の悲鳴が空気を裂く。シャノンは肩越しに後ろに立ったものの姿を検め、それが若い女であるのを見ると刹那逡巡したが、女が手にしていた棍棒がシャノンの頭を割る直前に小さく跳躍し、その勢いのまま女の背にまわり、同時に銀弾を装填した銃を女の頭に押し当てていた。
「あんたは……さらわれた母親のうちのひとりか?」
 問うが、女は応えない。振り向きシャノンの銃を奪おうとするが、シャノンは女の動きの先手をとり、女の腕をひねり上げて、代わりにサナの母親の顔を見た。サナの母親は怯えながら小刻みに肯き、応えた。「血を吸われて……あいつらの仲間になってしまう人もいるんだって……」
 シャノンは小さく毒づいた後、サナの母親に「子供の目を塞げ。おまえも目を閉じて何も見るんじゃない」そう告げた後、吸血鬼と化してしまった女を壁に押し付け、額に銃口を押し当てて、今度は逡巡することなく引鉄に指をかけた。

 闇の中に浮かび上がったのはシルクハットにスーツを合わせたいでたちの男、だった。体躯から察するに男だろう。いまひとつ判然としないのは男が全身を黒で包み込み、顔をシルクハットの中に深くおさめてしまっているため、その顔が杳として窺い知れないでいるからだ。唯一覗き見えているのは薄い笑みを浮かべた口もとで、ギルの視線を受けても揺らぐことなく頬を歪ませたままでいる。
「あんた、この家の主の家族か何かか? ここの家にゃジジイしか住んでねぇって話だったが、まさかあんたがそのジジイなわけでもねぇよな」
 大槍を構えなおし、ギルは眼前の男にそう問いかけてみた。男はギルの言葉に応じるわけでもなく、ただ静かに笑っている。ギルはしばしの間を置いた後に肩を竦めて頬をゆるめ、不精ひげを撫でつけながら首を鳴らした。
「ところであんた、この家に捕まっているのかもしれねぇ子供とかの居場所、教えてくんねえかな? 教えてくれるってんならさ、なるべくラクに殺してやってもいいんだけどよ」
 緑色の眼に暗い光を宿し、ギルはまっすぐに男の顔を見定めた。途端、
「ヒ  ヒヒヒヒハハハっヒヒャヒヒハハハヒャっ!」
 男は箍が外れたかのように身を歪めて笑い始めた。それは文字通り、眼前に広がっている闇がぐにゃぐにゃと歪んで見えるようだった。
「残念ですが、ここにはもうエサは残っていませんよ。ご存知ですか? ミイラ取りがミイラになるというすばらしい言葉があるのを。まぁそれとは意味も使途も異なりますがね。エサ用に用意したはずがエサでなくなってしまったりってこともねえ。あったりしますしねえエエエエヘヘヘヘ」
 男は闇を震わせるエコーがかった声で笑い続けている。ギルは鳴らしていた首をさするようにしてから、「なるほどなあ」肯き、そうして
 次の瞬間、大槍の切っ先は男の首を捕らえていた。
「まぁ、いいや。――頭ぁ潰すから、とりあえず死んどけや。……っつっても、もう死んでんだったっけか、てめぇら」

 突如現れた人の気配に全身が粟立ち、みじろぐこともできずにいるゆきの身体は、サンタのいでたちをした小柄な男の腕によって難なく抱え上げられてしまった。
「お嬢ちゃんもサンタさんのおうちに遊びに来てくれたのかな? さぁて、プレゼントをどうしようかなぁあ。良い子には特別イイプレゼントしてあげなきゃなあああ」
 皺枯れた声でカタカタと笑うその声に、ゆきはしばし呆然とした後、ゆっくりと恐怖を思い出した。
「お、おぬしが“蔭宮”かの?」
「んん? ボクのことを知ってくれてるんだねええ、えらいなあ、お嬢ちゃん。そうだよう、ボクはこの家のジイちゃんさああ」
 言いながら、蔭宮は老いた齢を感じさせないほどの力でゆきを羽交い絞め、門をくぐり、庭をくぐって玄関の引き戸に手をかけた。ゆきはどうにかして蔭宮の手を離れようと試みたが、蔭宮の片腕で羽交い絞めにされた身体は不思議なほどにびくりともしない。見れば、蔭宮の目は黒い液体を流しいれたような色を浮かべ、大きく、そうして三日月の形に歪んでいる。口は大きく吊りあがっていて、これもやはり三日月のようだ。――笑っているのだ。この世のものとは思えない表情で。
 背筋が凍りつくような心地がした。玄関が開き、カビの匂いと何かが腐ったような腐臭とが入り混じった空気が流れでてきた。大きく口を開けた闇のただ中に咀嚼されそうな恐怖が全身をめぐる。
「た、たすけ……」
 空気は口から漏れて形にならない。
 絶望に陥りそうになった、その時だ。
「……っ!」
 突然小さな悲鳴に似た声をあげ、蔭宮の手からするりと力が抜け落ちていった。その流れでゆきの身体も自由を取り戻し、転げそうになりながらもなんとか体勢を整えた。
 見れば、蔭宮の腕に数本のナイフが突き立っている。
「……信夫!?」
 名を呼んでみたが、寺島の姿はどこにも見当たらない。しかし、ふ、と、風が流れたような気がして、ゆきは視線を移ろわせた。そうして再び背筋の粟立つような感覚を得た。
 すぐ目の前に蔭宮の顔がある。引き攣ったような、歪んだ表情を浮かべている。
「あああああ、どこからこんなものが……くそっ、誰がこんな……あああ、ごめん、ごめんねえ、お嬢ちゃん。痛くしなかったかい? ――うん、血の匂いはしてないから怪我はしてないみたいだねえ。さあ、じゃあプレゼントをあげよう。お友だちもいるんだよ」
 ヒヒヒと引き攣れた笑い声をあげながら、蔭宮は無理矢理にゆきの腕を掴む。
「友達……? 友達じゃと? 皆はまだ生きておるのか!?」
 思わず訊ねたゆきに、蔭宮の動きが止まった。
「……そうかぁあああ……お嬢ちゃんはぜぇんぶ知ってるんだねえ……?」
 蔭宮の声は低くくぐもり、どこか深い水の底から響きあがってくるような音を放っている。
「……ひ」
 恐怖に喉を震わせようとした刹那、今度は何者かが廊下を大きく踏み込み、同時に刀を抜刀したのが見えた。真っ暗な中に一閃、鈍色の光彩が跳ねる。
 次の瞬間には、蔭宮の顔は視界の中から消えていた。否、首から上の部分だけが消えていたのだ。その代わり、その向こうに左右衛門の姿があるのが見えた。
「ひひいいい……お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、……たすけておくれ」
 足もとから蔭宮の声がする。その声がどこから発せられているのかを確かめようとした瞬間、左右衛門の刀が、今度は縦に構え持ち替えられ、そのまま垂直に床板の上へと突き立てられた。
 声は止んだ。
 しかし、ゆきはその場から動くこともできず、ただまっすぐに、左右衛門の顔だけを見据えていた。

 庭から進入したイェータは、家のちょうど真裏辺りに停められていた一台の車を見つけて眉をしかめた。
 車体も窓ガラスの色も黒く、ともすればそのまま夜の中に溶けこんで消えてしまいそうな色をしている。ワンボックス型のものだ。
「誰か乗ってんのか?」
 ガラスをこつこつと叩きながら声をかける。一見すれば誰の気配も感じられないような静寂に包まれている。「なあ、ちょっと話だけ聞かせてくれねぇかな。――どうせあんたの仲間はみんなやられちまったんだろうし、あんたもこの後どっかに移動するんだろ?」
 言いながらコツコツとガラスをノックし続けた。するとやがて窓が静かに開かれ、その奥から若い――せいぜい十代後半ほどだろうかと思しき見目の女が顔を見せた。
 女はひどく不機嫌そうな顔でイェータの顔を睨みつけ、わざとらしく大きなため息をひとつ吐く。
「何?」
「この家のジイさんを“仲間”にしたのはあんたたちだよな」
「――それって質問になってないわよね」
「なんでここのジイさんだったんだ? っつか、なんでこの辺で狙った?」
「別に。……あたしは彼を助けてあげようと思っただけよ」
「助ける?」
「そうよ。――永遠に続く命。彼はそれが欲しかったの。病に臥して不自由することもなくなるし、仲間が欲しければ食事をして作っていけばいい。もちろん全員が全員、仲間になるわけじゃないんだけどね」
 言って、女は肩をすくめる。そうして窓を開ききり、顔を押し出してきてイェータの顔を覗きこんだ。
「あんただって同じようなもんなんじゃないの? ねえ、あたしには解るのよ。あんたはこっち側にいないっていうだけのことで、あたしたちの仲間みたいなもんだわ。いっそこっち側に来ちゃえばいいじゃない。何ならお友だちも仲間にしちゃえばいいし」
 そう続ける女の顔はひどく無邪気で明るく輝いている。イェータは「……そうか?」と笑い返しながら、女の隣に座る初老の男の姿を見とめた。車の運転は男が担っているらしい。おそらく、この女こそが“彼ら”の中で上位をおさめている立場にあるのだろう。
「もう少し詳しく聞きてぇんだけど。中に入らせてもらってもいいか?」
 問うと、女は満面の笑みを浮かべて肯いた。その隣で、初老の男は訝しげな顔を浮かべている。イェータは笑って首をすくめ、ドアを開けて乗り込んだ。
 車内には香のような匂いは立ち込めていて、イェータは思わず眉をしかめた。
「あんたが話の解るタイプで良かったわ。それに蔭宮よりもずっと若くてステキだし」
 女はシートの上に深く座りなおしながらミラーごしにイェータの顔を見つめる。ミラーには女の姿も初老の男の姿も映し出されてはいなかった。イェータは自分の姿しか映されていないそれを覗き見ながら笑みを浮かべ、そうして、
「褒めてもらっといて悪ぃけど、俺ぁおまえらの仲間にはならねぇし、冗談にもなんねぇよ」
 やわらかな語調でそう言い放ち、女と男の首に突き立てたナイフをそのまま同時に横に引いた。
 女は目を見開き、落ちかけた首を必死に押さえながらイェータを睨みつけていた。
「裏切った……の?」
「裏切り? は」
 女の言葉を笑い飛ばし、面倒になったのか、ナイフから手を離して、今度は銃を構え持つ。
「俺は話を聞きてぇっつっただけだぜ」
 歪んだ笑みを満面にたたえる。
 次の瞬間、銃声が同時に二発、闇の中に響き渡った。


「結局助かったのはバアさんとこの娘と孫だけか」
 サナが入院している病室を仰ぎ見ながら、藤は小さなため息をもらす。
 シャノンがサナと母親とを連れ出し病院に運び終えたのとすれ違う形で、蔭宮家には近所の住民の通報によるパトカーが数台押し寄せてきた。近隣の住民が言うには、少し前から異臭が漂いだしてきていたという点と、加え、発砲音が数発聴こえてきたのだという。
 警官が蔭宮家に乗り込んだときには家主の姿はおろか誰の姿も気配も窺えず、結局発砲音は何かの間違いだったのではないかという結論に達したらしい。が、漂っていた異臭は家の中に放置されていた数体の死体によるものだという事実が判明し、それらが行方不明になっていた母子たちのものだという発見がなされると、近隣はおろか、しばらくの間新聞を賑わせることとなったのだった。
 サナとその母親が吸血鬼に変じていないとも限らなかった。その可能性を疑わずにいるわけにもいかなかったのだ。だが現在、その可能性はゼロに近い状態だ。
 病院を臨む場所にあったベンチの上、藤は煙管を口から離して煙を一筋吐き出す。
「さぁてと、……結果報告だけしとかねぇとなあ」
 ひとりごちながら立ち上がり、冬晴れの空の下を歩き出す。途中、サナの祖母――すなわち今回の依頼人が急ぎ足で病院に向かって行くのとすれ違ったが、彼女は藤に気付くこともなく、嬉しそうな微笑みで、そのまま小走りに病院の中に消えていった。
 

クリエイターコメントお届けが遅れてしまい、申し訳ありません。
あけましておめでとうございます。旧年中はオファー等ありがとうございました。
長くかかりましたが、楽しく書かせていただきました。少しでもお気に召していただければ幸いです。

口調・設定その他、ここは違うなどといった点がございましたら、お気軽にお申し付けくださいませ。
公開日時2009-01-02(金) 17:20
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