★ 勇気のないライオン ★
<オープニング>

 常木梨奈は、さっきから興味津々でテラスにいるスーツ姿の男性の話に耳を澄ませていた。
 別段、有名人というわけではない。どこかの映画から実体化したのだとしても、生憎と梨奈に見覚えはなかった。それでもうずうずと興味をそそられるのは、あまりに不自然な二人連れ(?)だから。
 先に店に入って来たのは、向かって右に座っている男性。葬儀に参列する為かと思うほど、上から下まで見事に黒一色といった出で立ちだった。スーツは言うに及ばず、シャツもタイも靴も黒。靴下も黒ならカフスも黒、眼鏡の蔓まで黒。短い髪も、眼鏡の奥に覗く目も細いながら辛うじて黒と分かる。挙句の果てには薄い黒の手袋までしていて、真夏に行き会ったなら軽く殺意が湧くこと請け合いだろう。
 昼にもそぐわない闇色はそれだけでも目立つのに、彼が席に着くとその向かいに現れたのは猫だった。
(猫、よね。どう見ても)
 椅子に座ると顔が覗かないからか、テーブルの上にお行儀よく鎮座ましましているのは、青い石の首輪をつけた青灰色の毛並みも美しいロシアンブルー。特に猫好きでなくとも別嬪さんだと評価したくなる美猫だが、いい年をした男性の連れとしては、色んな意味で注目の的だ。
 しかもその猫は所謂ファンタジー映画でありがちに人語を操るのではなく、にゃーにゃーにゃーにゃー、基本的猫語(?)で語っている。
 勿論、猫好きな飼い主さんなら、家族に等しい猫さんとは話せるのかもしれない。最近は猫カフェなるものも流行っているし、猫を連れてカフェに来るのは猫好きならば当たり前の行動なのだろう、多分。
 カフェの店員として動物様の持ち込みはどうよ、と思わないではないが、他のお客さんはそんなに多くないし、大体が店内で寛いでいる。テラスにいるのがその一組だけだからと大目に見ているが、黒スーツ姿の男性は凡そ猫好きの飼い主には見えなかった。
 何しろ先ほどから熱心に、にゃーにゃーと鳴いている猫に対して適当な相槌しか打っていないし、苦笑めいた笑顔を浮かべているが面倒だと全身で語っている。それは愛猫とお茶を楽しんでいるよりは、愚痴っぽい同僚にお義理で付き合っているようにしか見えなかった。
「んなーっ!」
 しばらくして痺れを切らしたように、その灰青色の毛を逆立ててお猫様が叫んだ。と、目の前の男性は煩そうに手を振って、聞いてますよぉと語尾を伸ばす。
「真面目ですよ、大真面目ですってー。こんな真昼間からカフェで猫と向き合って茶をしばくなんて、とてもまともな人間の神経ではできないことをやってのけている、この真摯な僕に対して相変わらず失礼ですよねぇ」
 怒って帰りますよーとやる気なく抗議した男性は、溜め息交じりに縁のない眼鏡を押し上げた。その拍子に全身黒尽くめの男に初めて別の色を見つけた気がして、梨奈は思わず身を乗り出させた。
 やはり見間違いなどではなく、今ほど眼鏡を押し上げた男性の左手は手袋をしておらず、中指にごつごつした印象の銀の指輪を嵌めている。手の甲には袖の下にも続いていそうな刺青があって、黒ばかりの彼の手にある鮮やかな翠は目を惹いた。
「んなっ、にゃーにゃーっ」
「だから大真面目にですね、嫌だ、と答えているんじゃないですかー。いい加減に納得しましょうよお」
 僕って面倒臭いの嫌いなんですよねぇと、どこか遠い目をして空を仰いだ男性に、猫はふーっと唸るようにして彼の態度を諌めた──のだろう、多分。けれど彼は皮肉げに唇を歪め、ひら、と小馬鹿にした様子で手を揺らした。
「僕に何を期待してるんですか。馬鹿馬鹿しいですよー、いい加減」
 やめましょうよと心底嫌そうに続けた男性が足を組むと、テーブルの上の猫は、うにゃあ! と声を荒げて側にあるカップを払い落とした。
 弁償、と梨奈がぽつりと心中で呟いた時、ゆったりした動作でそれを受け止めた男性は、紅茶が溢れたじゃないですかーとどうでもよさそうにぼやきながらカップを戻し、嫌そうに猫に視線を変えた。
「さっきから、にゃーにゃーにゃーにゃー煩いですよ。僕、動物と馬鹿って嫌いなんですよねぇ。馬鹿な動物なんて最低だ、殺したいほど大っ嫌いですよー」
 にっこりと笑顔になって吐き捨てた男性に、猫はひどく人間臭い様子で身を震わせた。
 んなあ、と、人で言えばドスのきいた声を発した猫は、今にも男性に飛び掛って爪を立てそうな勢いだが、男性は気に止めた風もなくへらへらしている。
「僕とやり合う気ですか? たかが、猫の分際で? へえ? 君で作った三味線なんて最悪の音色でしょうけど、お望みならば最高の職人に仕立ててもらってあげますよー?」
 物騒なことを口にしながら音もなく取り出されたナイフは、案の定というか何と言うか、柄はおろか刃まで黒く染まっている。猫も獲物に飛び掛るように身を低くして唸っていたが、男性の手が動いたと思った時に耳を劈くような爆音が響いた。
「な、ななななな何事!?」
 何が起きたのと軽くパニックに陥りながら耳を塞いで蹲った梨奈は、咄嗟に音のした方向を確かめるように空を仰いだ。青い空に相応しくない黒煙がまだそこに残っており、焦げた匂いのする破片と黒いナイフが一緒に落ちてくるのを確かめて、ひょっとして投げつけられた爆発物にナイフを投げつけて途中で爆発させたのだろうかと訝る。
「あー、そこの店員さん。危険ですから、下がっていたほうがいいですよー」
 巻き込んだらすみませんーとどこまで本気か分からない様子で続けられて思わず身体を竦めると、男性は楽しそうに笑いながら右手で首の後ろを捕まえていた猫を放り投げてきた。
「すみませんが、ちょっと預かっててください。僕はちょっぴり報復に忙しいのでー」
 にこりと笑って告げられた時には、男性は楯代わりに使っていた引っ繰り返したテーブルの影から、店と反対の方向に黒いナイフを投げつけている。途端に別の方向から今度は普通のナイフが何本も投げつけられてきたが、手近の椅子を取り上げて防いだ男性は鬱陶しいですねぇとどこか嬉々として呟き、正確に飛んできた方角へと黒いナイフを投げ返した。
 何本かは新たに放たれたナイフとぶつかって落ちたが、もう何本かは木に突き刺さったりその奥へと消えた。梨奈には何の音も気配も感じられなかったが、男性は無造作に立ち上がると倒したテーブルとナイフが刺さったままの椅子を戻して始めた。
「あ、あの……?」
「ああ、ご迷惑おかけしましたー。本格的な報復はまた今度にしますから、今はもう大丈夫ですよ?」
 ああいう馬鹿な手合いは嫌ですよねぇと肩を竦めた男性は、梨奈が咄嗟に抱き止めた猫へと目を向けて梨奈に視線を合わせ、にこりと笑った。
「ここで会ったのも何かの縁、ということで、その猫の護衛を引き受けてもらえませんかねぇ?」
 男性が声をかけているのはどうやら何事が起きたのかとこちらを窺っている内外の野次馬のようで、それ、と梨奈が抱いた猫を軽く顎で示した。
「いつまでたっても勇気がないんですよねぇ、その猫。なのに上司から大事な預かり物をしてまして、それを届けないといけないんですよお」
 引き受けなければいいのにと辛辣に吐き捨てた男性は、にゃーにゃーと鳴いて抗議する猫に皮肉な笑みを浮かべた。
「煩いですねぇ、巻き込んだ以上は僕も同行しますよ、すればいいんでしょうー? ただ僕は、その猫を守ってやる気はこれっぽちもないので。あなた方がその猫を守って、目的地まで送り続けてやってもらえませんかー?」
 同行ついでに通訳くらいはしますよとやる気がなさそうに続けた男性は、頼みますーと語尾を伸ばしてへらりと笑った。

種別名シナリオ 管理番号590
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
クリエイターコメント二本目のシナリオ、こちらは今度こそ少し軽いタッチで、と目論んでいます。

上記の通り、にゃーにゃー鳴くだけの猫ではありますが、どうかその猫を襲撃の手から守り、目的地まで連れて行ってください。
生命に関わるほど深刻な事態にはなりません、襲撃者の目的はあくまでも「預かり物の奪取、無理な場合は破壊」であって、直接的に生命を狙っているわけではありません。ただ破壊も辞さないので下手をすれば多少の怪我はあるかもしれませんが、その点はご了承ください。

連動シナリオを提出予定ですので、そちらを参考にしたプレイングも歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしております。

参加者
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
花咲 杏(cyxr4526) ムービースター 女 15歳 猫又
簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
<ノベル>

 はいはいはい、と元気よく手を上げて真っ先に名乗り出たのは、花咲杏。せっかくパフェを堪能していたところを邪魔した無粋な輩は、本来なら許されざる敵だが。猫又たる彼女にとって、困っている同族を放っておくのは忍びない。
(それに、何か面白そうやん〜)
 同族の為になって、自分の好奇心も満たされるなら喜ばしい事態だろう。だからと隣にいた男性の手をがっつり掴んで、護衛に名乗り出たのだが。
「おいおいおい、何だって俺の手が引っ張られてるんだ……」
 俺は呑気に寛ぎ中だぞと心なし嫌そうに突っ込んでくるのは、偶々隣に居合わせたミケランジェロ。杏が手を取らなければちらりと一瞥して終わりにするところだっただろう彼は、一緒に護衛してくれはるやんなー? とにこやかに問いかければ取られていないほうの手でがりがりと頭をかいた。
「巻き込まれる意味が、さっぱり分からねェ」
「嘘ついてもあかん。あの猫はんに興味津々やん。しかも暇そう! うん、護衛には打ってつけやわ」
 せやし一緒に護衛しよともう一度笑いかけると、わざとらしいまでに大きい溜め息をつかれる。けれどそれが拒絶でないのはお見通しなので、にんまりと笑みを深めて黒尽くめの男にぶら下げられている同族に目をやった。
「おいない。うちが抱いたげよ」
 お嬢はうちが守ったげるわと手を伸ばすと、男に放り投げられるようにして飛びついてきた猫を抱き抱える。喉を鳴らす猫を撫でて可愛がっていると、あちきでお役に立てるなら、と店の外からひょろりとした印象の男性が手を上げた。
「その護衛、仲間に加えてやっておくんなさい。あちきは腕の立つほうじゃあありませんが、まぁ、猫さんを守るお手伝いはできますでしょう」
「ええお人が多ぉてよかったなぁ。うんうん、一緒にこのお嬢守ったげよな!」
 ええ心意気やでと猫を片手に抱いたまま親指を立ててみせると、かんざしと書いた笈を背負った男性は、ははと少し声にして笑った。
「しかし、どうでもいいがその猫。雌なのか」
 さっきからお嬢呼ばわりだなとあまり興味もなさそうにミケランジェロが突っ込んできたそれに、見て分からへんの!? と聞き返すと分かるはずがないとその場の全員に返される。
「そんなん、喋ってんの聞いても分かるやん。あ、せやせや、お嬢。お名前は? うちは杏や。花咲杏。旦那はんらも自己紹介してや」
「へえ。あちきは簪と申します」
「ミケランジェロ。しがない掃除屋だ」
「このお嬢は、瑠璃、いうらしいよ」
 ええ名前やねぇと猫を抱き上げて紹介すると、一人だけさっきから会話に加わろうとしていない黒尽くめの男に目を向けた。
 じぃ、とそのまま睨むように見据えていると、黒尽くめの男はへらりと笑った。
「僕のことは、どうとでもお好きに呼んでくださいねぇ。というか、その猫の言葉が分かる人がいらっしゃるなら、僕なんて用なしですよねぇ」
 それでは僕はこれでーと嬉々として踵を返そうとする男の襟首を、問答無用で捕まえて引き摺り戻したのはミケランジェロだった。
「お前一人でとんずらかまそうたァ、いただけねェなァ。案内と通訳はするんだろ?」
「でも、通訳はそちらのお嬢さんがしてくださいますよねぇ? いくら馬鹿猫でも上司の居場所がずっと分からないわけじゃないですしー、それなら寧ろ僕なんかいないほうが、」
 意地でも逃げようと足掻く男に、んなあっ、と猫──瑠璃が吠えるように鳴く。と、簪がくすりと笑い、今のは通じなくても伝わりますねと男に目を向けた。
「逃げるのは格好よろしくありませんよ、旦那さん」
 一度口にした以上は約束を果たされては如何です? と簪にやんわりと釘を差され、男は幾らか憮然とした顔で暴れるのをやめた。
「で、こいつの名前はその猫も言わねェのか?」
「ああ、せやんね。瑠璃はん、このお人、」
「スケアクロウ」
 杏が瑠璃に問いかける直前、憮然としたまま男が吐き捨てるように呟いた。
「その馬鹿猫に、僕の名前なんて口にされたくないんですよお。……聞かないでくださいよ」
 失礼な人たちですよねーと、自分のほうが失礼極まりなく拗ねたように続けた男は大きく溜め息をついて背を向けた。完全に拗ねた子供としか言いようがない態度にむかむかしたけれど、謝罪するように瑠璃が鳴くので喉の下を撫でて苦笑気味に笑いかけた。
「ええんよ、自分が謝ることやなし。それより、目的地がどこか教えてくれる? またいつ襲撃されるとも限らへんし」
 スケアクロウと名乗った男に尋ねるよりも埒が明くとばかりに瑠璃に尋ねると、それは僕も知りたいところだなと唐突に声が割り込んできた。
「襲撃者に興味が湧いた、というのは護衛理由には不服かい?」
 肩を竦るようにして尋ねてきたのは、黒い巻き毛の男性。物憂げというよりもどこか怠惰そうに軽く髪をかき上げ、杏と目が合うと僅かに口の端を緩めた。
「その猫に襲撃をかけてきた相手の気配を追っていたんだが、途中で消えてしまった。何の前触れもなく、ね」
 まるで魔法だとだるそうに続けた男性は、ちらりと黒尽くめの男に目をやって猫に視線を変えた。
「君がその猫に向けた言葉や名前から察するに、襲撃者はブリキの樵か、魔女だろう。あの消え方からして、後者だと推察するが」
 どんなものだろうとやる気なく続けられたそれに簪が、はあ、と感嘆ともつかない息を吐いた。
「猫さんたちの名前だけで、襲撃者が分かるんですか」
「ミスターの風体を見れば、知らないのも無理はない。けれど感嘆には及ばない、外国の童話にそんな話がある、というだけだ」
 知っていて自慢にもならないと気だるげに答えた男性は、あくまでも黙っている黒尽くめの男を見る。
「護衛をと頼んだのなら、襲撃者の情報くらいは教えるべきだ」
 そう思わないか? と視線も向けないままの男性が同意を求めてくると、どこか不審げな顔をしていたミケランジェロは、調子が狂うとばかりに首の後ろをかきながらも頷いて後押しするように続ける。
「襲撃者も目的地も。知っている限りの手を明かすのが礼儀じゃねェのか」
「……そうですねぇ。では、僕が知る限りを語りましょうかー。目的地は、僕らの上司の居場所。その猫が持つ預かり物を、上司の元に返してほしいんですよねぇ。襲撃者はそこの、」
 どちら様でしたっけー? とすっ呆けた様子で尋ねた男に、黒い巻き毛の男は探偵、とだけ名乗る。
(こいつら、自己紹介の仕方一から教えたろか……)
 名を名乗れ。と首を締め上げたい気はするが、ここはぐっと堪えて襲撃者の情報を待つ。黒尽くめの男はなっていない名乗りにそれでも何度か頷き、探偵さんのと続ける。
「探偵さんの推察通り、西の魔女です。僕の上司とやたら仲が悪くてですねー、僕らが預かった物を上司に返させたくないらしいんですよねぇ。できれば自分が手に入れたい、無理なら壊してでも返したくない、ってところでしょうか」
 困った魔女ですよねーと呑気に語った男に、瑠璃が唸るように鳴いた。
「あ、せやんね。また襲撃が来る前に、ちょっとでも早よその上司はんのとこ帰らな」
「その帰るべき場所というのは、ここから遠いんですか?」
 簪が瑠璃にとも杏にともなく尋ねたそれで、黒尽くめの男がぽんと手を打った。
「そうそう、言い忘れてましたけどー。今ってちょうど上司の居場所が分からない時間帯なので。実際に向かうのは明日の朝から、ということでお願いしますねー」
「ちょっと待て、こら。今ちょうど分からねェってどういうこった!?」
「言葉のままですけどー? 僕の上司って、いつも自分の周りに結界を張ってるんですよお。しかもあの人の結界って、強力な時と弱っちい時と、むらが大きいんですよねぇ」
 今は素晴らしく強力な時間帯なのでさっぱり居場所が掴めませんと、いっそ清々しい笑顔で断言される。
「それで、どうやって上司さんの元に辿り着けるんでしょうか……」
「あの人の結界が弱まる翌朝には、そこの馬鹿猫でも上司の場所へ案内くらいできそうですけどねー」
 今はお手上げですねーと特に興味もなさそうに男が答えると、つまらなさそうに聞いていた探偵は髪をかき上げてちらりと視線を動かした。
「聞きたいことが余計に増えたが……、お客さん、のようだ」
 当たると痛そうだなと淡々と告げた探偵の言葉ではっとそちらに視線を巡らせると、棘のついた拳代の鉄球がこちらに降り注いでくるのを見つける。
「何ちゅうもん投げてくんの!」
「壊すどころの騒ぎじゃねェだろ、これは」
「三十六計、ですかね」
 下手に打ち返すより避けたほうが吉、と全員一致でその場を離れるべく駆け出したはいいが、ただの鉄球にしか見えないそれらは案外最新装備を備えているらしい。
「あの。あちきには、あれが追いかけてきているように見えるんですが」
「残念ながら、俺にもそう見える。目の錯覚と頑なに信じたら消えてくれねェもんかね」
「やらはるんやったら、ミケはんだけにしてな。うち、そんな戯言信じるほどには乙女とちゃうわ」
「呑気に話している間に、あちらはスピードを上げたようだ。君たちは猫を抱いて先に行くといい、あれは僕が引き受けよう」
 分散したほうが数も減りそうだと言いながら足を止めた探偵に、瑠璃を抱いて後ろ向きに走りつつ大丈夫なん!? と声をかけると、片手を軽く持ち上げられた。
「レディに心配をかけるのは主義に反する。事の顛末も気になるから、目的地が判明するという翌朝には合流しよう」
 それまでご機嫌ようと背を向けたまま手を揺らした探偵に、ミケランジェロが同じく留まるべきかと逡巡したのが分かる。けれど黒尽くめの男が、それなら僕がと先に手を上げて探偵から少し離れた場所で立ち止まった。
「あれは僕のことも狙ってますから、僕が残れば一先ずまけるはずです。後の襲撃の対処は頼みましたー」
「って、お前が離れてどうすんだ!」
「お兄さんが留まられるくらいなら、あちきが、」
「僕のことなら、お気になさらずー。その馬鹿猫を守ってくださったら、後はどうでもいいですから」
 僕は一人で大丈夫ですと告げる男が、寧ろ逸れたがっているほうが気にかかる。杏は急いでパーカーを探って鈴を取り出し、男に向かって投げつけた。
「それ、近くにおったら鳴り合うし、鳴らしたらうちには分かるから! 逸れんように持っといて、捨てても分かるからな!」
「……お気遣い、どうもー」
 余計なことをと舌打ちしそうに礼を言った男は、カフェで見かけたのと同じナイフを取り出して鉄球と対峙すべく駆け出した。
 追いかけるのも違う気がするので、腕の中で瑠璃がにゃあにゃあと鳴くのを宥めながら前に向き直った。
「とりあえずあの旦那はんがいいひん間に聞きたいこともあるし……、今は落ち着けるとこ探そか」
「そうですね。あちきも、歩くのはさておき走り続けるのはちょっと」
 辛いものがと泣き笑いのような顔で簪が頷くので、ミケランジェロもしばらく後ろを窺っていたが仕方ねェと同意した。


 瑠璃を抱いた杏を真ん中に、掃除道具らしき物を抱えたミケランジェロが右、簪は左側を歩きながら頻りに後ろを気にしている瑠璃を眺めた。
「瑠璃さん、あのお兄さんが気になって仕方がないようですねぇ」
「にゃあ」
「確かに、このまま合流したがってへん気ぃはすごいする……。けど、うちが渡した鈴でいつでも探せるし」
 ちゃんと見つけたげるよと確かに瑠璃と会話している杏は、彼女の喉の下を撫でながら簪たちを見てきた。
「あのお兄はんの言わはること、どこまで信じられる思う?」
「まぁ、猫を嫌ってることと、預かり物を守りたいってェのは本音だろうな」
 見事にそれ以外に興味はなさそうだとミケランジェロが鼻で笑うと、杏の肩に顎をついて後ろばかり見ている瑠璃は項垂れるようにして、にゃあ、と鳴いた。
 宥めるように杏が背を撫でるのを眺めながら、気になっていたことを口にする。
「瑠璃さんは、あのお兄さんを連れ戻しに来られたんですか?」
 問いかけに躊躇うような間を置いてから、うなあ、うなあと瑠璃が鳴く。
「『預かり物は三つ揃ってないと意味がない』? 瑠璃はんとお兄はんと、もう一人預かり物してるん?」
「あの探偵が言ってたろ、ブリキの樵がいるんじゃねェのか? そいつらで預かり物を分担してたが、あの黒尽くめが一人で逃げやがったってところか」
「けれど逃げたにしては、あのお兄さんも預かり物を守りたがっていたようでしたが」
 あちきもあれが嘘には見えませんでしたと首を捻ると、瑠璃が小さくにゃあと鳴く。
「『上司を嫌って逃げたわけじゃない』って、そしたら何で逃げたんやろ」
 分からへんと杏が頭を抱え、簪も考え込んだところにいきなり後ろから腕を引かれた。慌てて振り返ると、いつの間にか腕に何かが巻きついている。何事かと目を瞬かせている間に後ろへと引っ張られ、途中で解放されたものの勢いは殺せず蹈鞴を踏む。腕に巻きついていた細い物が道路の左側に立ち並ぶ街路樹のどれかの元へと撓るように戻っていくのは目で追いかけたが、途中で聞こえた杏の叫び声に遮られた。
 振り返った先では意地でも瑠璃は落とすまいと抱き抱えている杏の足に、蔦が絡まっているのを見つける。背の高い建物が整然と立ち並び、精々が街路樹が並ぶ以外に植物など見受けられない場所だというのに、蔦はまるで当然の顔をして杏に絡んでいる。
「杏さん、大丈夫ですか?!」
「うん、驚いたけど別に痛ないわ。けどこれ、どこから生えたん、離れへんーっ!」
 片足にだけ巻きついている蔦を引き剥がそうと、足を振り上げて杏が暴れる。確かに怪我はなさそうだとほっとして蔦を外すのに協力しようとした時、ミケランジェロの姿がないのに気づく。
 どこにと問うまでもなく、今度はミケランジェロの上げた声が少し先の角を曲がった辺りから届いた。
 どうにか杏に絡まった蔦を解いて駆けつけたが、そこで思わず二人(+一匹)して足を止めてしまった。
「……えーと、ミケランジェロさん……?」
 ご無事ですかと恐る恐る尋ねてしまうと、そう見えるのかと低く怒りに満ちた声が返って返答に困る。
 すっかり日が暮れて深く佇む夜の中でも、ミケランジェロの惨状は容易に窺えた。何しろ美しく星の輝く夜空の下、彼は頭の先からべったりと別の色を纏っているのだから。
「石に蹴躓いて持って歩いてたペンキ缶に頭から突っ込んだー、て落ちやったら笑うけど。ちゃうよなぁ?」
「誰がそんなコントじみた面白おかしいことを日常生活の中でしなきゃなんねェんだ!」
 たっぷりと含まされた色水を撒き散らしながら全身で怒鳴りつけてくるミケランジェロに、せやんねぇと杏は笑いを堪えながら頷いている。簪としても慰めの言葉が見つからず、一体どうしてそんな事態にと戸惑ったまま尋ねて視線を巡らせる。
「知るか! 角を曲がったとこで足に引っ掛かった何かをモップで払ったら、頭からペンキがぶちまけられてたんだよっ! よりにもよって一番シンナー臭ェペンキを選びやがって……!」
 どうしてくれようと拳を震わせるミケランジェロの言葉に応えるように、瑠璃がうにゃあうにゃあと抗議めいた声を上げている。杏の身体に鼻先を擦りつけるようにしているのは、その匂いが堪らないからだろう。
「とりあえず、それを洗い流すのが先決でしょうね。目的地もしばらく分からないようですし、その程度の時間はありましょう」
「ああくそっ、しょうもねェ襲撃してきやがって!」
 ぶつぶつと文句を言いながら粘り気のある色水の足跡を残して歩くミケランジェロについて歩き、簪はぐるりと周りを見回した。
「簪はん? どうかしはった?」
「大したことじゃあございません。ですが……」
「何か気になる?」
「へえ。今の仕掛け、杏さんは預かり物を壊せるようなものだと思われますか?」
 少なくとも先ほどまでの襲撃は、敵意に満ちていた。瑠璃に怪我をさせても、預かり物を破壊しようという意思が感じ取れた。けれど今のそれは、言ってしまえば単なる嫌がらせにしかならないのではないか。
 その疑問に答えが返る前に、近くの建物に入って交渉していたらしいミケランジェロが出てきた。
「おい、お二人さん。ここでシャワーを貸してくれることになった、先に行ってるぜ」
「着替えどうすんの?」
「洗濯すりゃ何とかなんだろ。それより、今の内に飯でも食って休んどけよ」
 俺はこれを何とかしてくらァと真っ青に染まった手を揺らしてげんなりと告げたミケランジェロは、そのまま建物の中に入って行った。
「探偵さんも依頼人さんも、まだ追いついてこられませんが……、ここが分かられますかね?」
「あの黒いお兄はん、信用ならへんしなぁ。ミケはんが洗い流さはったら、探すとこから始めよか」
 それまではご飯でも食べてよーとほくほくと笑った杏に笑いながら同意した簪はもう一度周りを見回し、軽く首を傾げてから後に続いた。


 頭から被せられたペンキを洗い落として何とか一息つき、瑠璃から預かり物や黒尽くめの男について話を聞いている最中に窓を割って銀色の球体が飛び込んできた。何とかビルは出たものの今度は痺れ薬を吐き出され、微量ながら吸い込んで咄嗟に動けなかったミケランジェロを助けてくれたのは「蔦」らしかった。
 とりあえず瑠璃の安全を確保すべくオフィス街を抜ける辺りまで走って離れ、小さな公園を見つけてそこのベンチで休憩がてらこの先の予定を話し合っているのだが。まず何より気になるのは、先ほど彼の背を押した蔦のことらしい。
「あちきの見間違いでなければ、あれは杏さんの足に絡んだものと同じ蔦のように見えました」
「って、あんなオフィス街のアスファルトからいきなり生えるか、蔦が」
 無理がありすぎるだろとずぶ濡れの頭を振りながらミケランジェロが突っ込むと、杏は水がかからないだけの距離を取りつつ首を傾げた。
「蔦が生えた謎は置いといて、ミケはん助けてくれはったんは間違いないよな?」
 あれは西の魔女の襲撃なんやろかと首を捻る杏に、瑠璃がうにゃあと小さく鳴いた。
「『西の魔女は生物を操らない』? そしたらあれは、」
「別のチームがいるんじゃないか。西の魔女とは別に、単に足止めだけをしたがっている誰かが、ね」
 面倒なことは重なるものだといきなり現れて口を挟んできたのは、黒い巻き毛の探偵。ミケランジェロは簪が笈から取り出した手拭を借りて頭を拭きながら、音もなく隣に佇んでいる探偵をちらりと一瞥する。
「落ち合う場所を決めてたわけでもねェのに、よく追ってこられたな?」
「別に難しい作業ではない。いつ襲撃を受けるとも知れない君たちが人気の多い場所に行くとも思えず、夜間に静まり返る場所は限られている。中でも手近だったオフィス街に赴けばペンキのすごい匂いと足跡、少し先には水浸しのそれがあった。辿ることは容易いだろう?」
 推理を巡らせるまでもなかったと肩を竦める探偵に、不審を覚えないわけではない。けれど今問い詰めるべきは、探偵の行動の怪しさではなく。
「西の魔女とは別の、……仮に足止め班、として。探偵さんはそれについて何か情報をお持ちですか?」
「残念ながら、そこまで調べられるだけの時間はなかったけれど。足止めをされたがっている人物なら……、そこに」
 いるんじゃないかとやる気なく探偵が目を向けた先には、明け始めた空気の下には不釣合いなほど夜を纏った男が立っている。
「嫌ですねぇ。まるで僕が誰かに足止めをお願いしたかのような言われ方は、心外ですよお」
「明らかに行きたがってねェのはお前だけだろ」
 他の誰が頼むってんだと思わず突っ込むと、探偵もしたりとばかりに頷いている。
「ペンキだの水だのをかけてくる程度では、預かり物の奪取も破壊もできないだろう。猫に怪我を負わせる意思が感じられない」
「それなら尚更、容疑者から外してほしいですねぇ。僕は別にそんな馬鹿猫、どうなろうと知ったことじゃないですよー?」
 やるならさっくり殺害する方法を試みますーとあくまでもにこにこと答える男に、瑠璃が唸るように牙を剥く。煩そうに右手を振って聞き流した男は、そんなことよりーと語尾を上げた。
「結界が弱まったので、上司の居場所が分かりますけどどうしますー?」
「どう、とはまた不思議な仰りようです。瑠璃さんをそちらにお連れするのが依頼なのでは?」
「別に僕は、預かり物さえ守ってさえくださればいいですよお。あんな場所に戻れずとも、」
「うなあっ!」
 いいわけあるか! とでも突っ込んでいそうな勢いで鳴いた後、瑠璃は杏に抱かれたまま耳をぴくぴくさせて顔を巡らせている。馬鹿猫、と本気の嫌悪を込めてぼそりと呟いた男は、あっちですよーとにこやかに杵間山あたりを指し示したが。
「にゃーっ!」
「海やーて瑠璃はん言うてはるけど……」
 真反対やんと冷たく杏が突っ込むと、男は笑顔のままちっと舌打ちして、つつつと指を反対に動かした。
「こっちかもしれないですねー」
「信用ならねェ!」
「感知能力はお兄さんのほうが高そうですが、瑠璃さんのほうが信用できますね」
 つらっと黒尽くめの男を切り捨てた簪の言葉に杏も大きく頷いている横で、どちらでも構わないが急がないかと珍しく乗り気らしい探偵が促す。
「その信用ならない依頼人は、検知できなくなってからリミットを越えたと教えかねない。結界が弱まって、居場所が判明している時間は?」
「そういえば、力の強い時と弱い時があるとか」
「怖っ。言う気なかったやろ、クロはん!」
 なんてなってへん依頼人やと憤然として詰め寄られた黒尽くめの男は、僅かに眉を顰めて杏を見下ろした。
「その、クロはんというのは……?」
「スケアクロウて長いもん。兄はん真っ黒やし、丁度ええ思て。クロはん」
 決定とばかりに頷いて断言する杏に、黒い男は複雑そうな顔と声で、はぁ、と頭をかいた。
「まぁ、どうでもいいんですけどー。タイムリミットは二時間、といったところでしょうねぇ。西の魔女も今が最後のチャンスと知って、そろそろ本格的に嫌がらせしてきそうですし。お気をつけくださいねぇ」
 あくまでも他人事のように告げた男が海に向かって足を進め始め、ミケランジェロたちも視線を交わすとその後に続く。探偵も今度は逸れる気がなさそうで、つかず離れずの距離を保ってついてくる。
 黒尽くめの男は後ろに続く誰のことも見ないでふらふらと歩き、たまに道を逸れそうになっては後ろから瑠璃に唸られて進路を正している。
(一体何がやりてェんだ、こいつ)
 帰りたくない、守りたい。捕まりたくない、見つけてほしい。矛盾を詰めてどうにか形を整えたなら、この男の姿になるのではなかろうか。
 猫と男、どちらの味方をしたいかと問われれば、間違いなく瑠璃と答える。目の前を歩く暗い闇は知らないだろうが、三度目の襲撃を受ける前に彼女は杏を通して真摯に語った。
 上司の為に、何より目の前の男の為に。預かり物を、自分の身を危険に晒してもあの闇を連れ帰りたいのだ、と。
(猫がここまで親身になってくれてるってェのに、のらくら逃げ回る根性が気に入らねェ)
 瑠璃の目がなければ、叩きのめして昏倒させてでも引き摺って行きたいくらいだが。自らの足で帰らせなくては意味がないと聞いてしまったから、下手に手出しもできない。
 面倒臭ェと頭を掻き毟りたくなっていると、先に角を曲がったはずの男が面白くなさそうな顔で引き返してきたのを見つける。
「どうかしましたか?」
 簪が尋ねると、男はひょいと肩を竦めて少し場所を空けた。気になって男の横からその道を覗くと、触ったらぶつりと突き刺さってきそうな棘を備えた茨がびっしりと生えて道を塞いでいる。
 思わず言葉を失うほど、それは明らかに彼らの行く手を邪魔する為だけに存在していた。最初に我に返った杏が抱いていた瑠璃を簪に預け、側の家壁を駆け上がって屋根からその向こうを窺おうとしたが、その間も成長を続けた茨が杏の視界を遮っている。
「どうあっても、あちきたちを進ませる気がないようですね」
 困ったように頭をかいた簪の、別の道を探しますかといった提案以外に術はなさそうだった。
「現実的な選択だな」
「まァ、そうするしかねェだろ」
 彼だけなら乗り越えるくらいはできそうだが、簪や瑠璃には無理がありそうだ。幸いにして海に向かう最短ルートが塞がれたわけではないのだから、別の道を探したほうが早いだろう。
「時間もねェんだ、先を急ぐぞ」
 とりあえず海まで出るのを最優先に踵を返したミケランジェロは、さて本当に辿り着くかなとぼそりと呟いた声に振り返ったが。やる気がなさそうについてくる探偵か、時間だけが経ちますねーと呑気に呟いている男か、どちらの不吉な予言だったかまでは分からなかった。


 今回この依頼を受けて一番の貧乏籤を引かされたのは、間違いなくミケランジェロだろう。妨害チームの誰かに恨みを買っているのか、最初から執拗にトラップを仕掛けられているのは依頼人ではなく間違いなく彼だ。
 ヘンリーにとってそれは別に興味のない事態だったが、次から次へと嫌がらせとしか呼べないトラップにかけられるミケランジェロはいっそ賞賛に値した。
(切れるのは時間の問題、か)
 それはそれで面白そうだと考えながら視線だけで周りの様子を探り、仕掛けられた他のトラップや妨害チームの居場所、襲撃の予兆じみた気配を確認する。されると分かっていれば探すのに大した苦労はなく、依頼人も薄っすらと把握しているのが分かる。
 他の面々は苛立ちを募らせていくミケランジェロと、申し訳なさそうな瑠璃を宥めるほうに忙しいらしく、ちょっと突き崩せば全ての罠を悪意をもって発動させることはできそうだった。
 いっそそうしてしまおうか、という誘惑に駆られないではない。けれど手軽に使えると思われるのも癪だが、使えないと判じられるのも業腹だった。適当に状況を楽しんで様子を見るのがよさそうだと黙っていたが、右手側から向けられる悪意に気づいて何気なく足を止めた。
 ひゅっと目の前を通り過ぎた矢に何となく嫌な予感がして、斜め後ろを歩いていた簪を突き飛ばすように後方に押し遣ると、壁に当たった矢が激しく爆ぜた。
「っ、毎回思うねんけど一体どこから襲撃してくんの!」
「魔女ですからねー。標的を捕捉できればその空間に襲撃用の機械を放り投げればいいんですし、どこからでもー。といったところですねぇ」
「って呑気に解説してねェでお前も対処しろ!」
 とりあえず杏と簪の前に立って次々と放たれてくる矢をモップで弾き飛ばしつつ怒鳴りつけるミケランジェロに、依頼人がはいはいと適当に答えて黒いナイフを取り出したのだが。
 そこから更に黒い影が降ってきたり、大量の花弁が驟雨よろしく降ってきたり、視界が悪いどころの騒ぎでなく様々な色が周りを埋め尽くしてしまって碌に身動きも取れなくなった。
 花弁は襲撃者の放つ矢の狙いを付け難くするという意味では有難かったが、黒い影のほうはゆらゆらと全員を取り囲んで離れない。僅かでも動けばすかさず追ってくるし、杏が妖火で焼き払おうとしても同じような影を灯して攻撃を仕掛けてきた。ただ簪が懐から出した銃を向けると同じように構えられたが即座に撃たれることはなく、花弁の合間に立ち尽くす影は自主的に害する意思を擁していないように見えた。
(これは本当にただの影、か……?)
 こちらが何もしなければ立っているだけではないかと予想をつけていると、その間もゆらゆらと彼らを取り囲み続けた影に分断された向こう側から低い笑い声が聞こえた。
「うぜェ……、うざすぎる……。いっそ狙いたいなら好きなだけ狙いやがれ!」
 その自暴自棄にも聞こえる言葉はどうやらミケランジェロらしく、何をするのかと視線を巡らせると、にゃあ、猫の鳴き声が聞こえた。
 瑠璃はん? と杏の戸惑ったような声の後、落ち着いてくださいと簪の宥める声が届き、足元にわらわらと気配が増えた。咄嗟に下を見ると、瑠璃と同じ青灰色の毛並みの猫が影の足元を縫うようにして這い出ている。
「っ、猫……」
 猫、としか言い様がない。まったく見分けのつかない同じ色形の猫が、未だにわらわらと湧いている。さすがの依頼人もこれは予測していなかったのだろう、殺したいくらい鬱陶しい様ですねぇと僅かに尖った声を震わせている。
「ミケはん、落ち着きよし! もう十分すぎるくらい見分けつかへんしっ」
「最初に見失ってしまった時点で、どれが誰やら……」
 もはや諦めるしかないといった体で辺りを見回す簪の言葉通り、にゃーにゃー鳴きながら走り回っている猫はどれも同じに見えた。まだ降っている花弁にじゃれついたり、ゆらゆら立っている影に纏わりついたり、中にはどこから持ってきたのか玩具の戦車みたいな物をばしばしと叩いている猫もいる。
 どうして玩具の戦車なのかと不審に眉を顰めていると、色んな意味で鬱陶しそうに花弁を払っていた依頼人が、ああとどうでもよさそうに呟いた。
「ようやく引き摺り出せましたねぇ。本物よりお役立ちで何よりですー」
 言うなり男は手にしたままだった黒いナイフを無造作に投げつけ、猫が絡んでいる戦車に何本も突き刺さっていく。ぱしぱしっとプラスチックにひびが入るような音がしたと思うと、それを構っていた猫ごと戦車がいきなり爆発した。
 かなりの爆風で花弁が舞い上がり、彼らを取り囲んで揺らめいていた黒い影も薄らいで消えた。いきなり視界がよくなった後に広がる光景は、けれど決して気持のいいものではない。
 玩具の戦車が粉々に吹き飛んだ側で、当然ながら巻き込まれた何匹もの猫がぴくりともしないで横たわっている。ただ誰かが悲鳴を上げるより早く、猫の哀れな死骸は青灰色のペンキになって地面に張りつき、瑠璃ではなかったと教える。
「何ということを……、本物の瑠璃さんだったならどうするんですか!」
「別に馬鹿猫が巻き込まれたところで困りませんけどー、それの周りにあの馬鹿猫がいるはずないですからねぇ」
 あれの勇気のなさは格別ですからと皮肉に笑った黒尽くめの男は、批難めいた全員の目を気にした風もなく粉々になった玩具の戦車から一番大きな破片を拾い、指先に力を込めてそれを更に細かく破壊した。
「西の魔女が今回送り込んできたのは、これだったみたいですねぇ。ここまで破壊したら次を送り込むのに時間がかかるはずですから、守り通して頂いたということです」
 依頼達成ありがとうございますーと呑気に笑った男に、杏が怒気を隠しもしないで詰め寄りかけた時。
「主様(ヌシサマ)」
 涼やかな声で呼びかけながら、小柄な女性が舞い降りてくるようにして現れた。黒尽くめの男は隣に降り立った彼女を一瞥すると、笑顔のまま憎々しげに舌打ちした。
「お前が来ましたかー」
「水色では、主様の居場所は探せませんでしたので。水色の主様のお迎えに上がりました。どうぞお戻りください」
 表情をぴくりとも動かさずに一礼した女性に、簪とミケランジェロは顔を見合わせて彼女に視線を変えた。
「ひょっとして、クロさんの上司さんのお迎えですか」
「結局タイムリミットは過ぎちまったってことか」
 がりがりと頭をかいてぼやいたミケランジェロの言葉ではっと我に返った杏が、まだ地面でうにゃうにゃと鳴いている猫の群れに視線を落とした。
「瑠璃はん!?」
「「にゃー」」
 呼びかけに計ったようなタイミングで、一斉に猫たちが鳴く。どういうことやのと杏がミケランジェロに詰め寄ると、ちょっと真面目に描きすぎたかーと遠く目を逸らしている。
「全部あの猫と思って描いたからな。見分けがつかねェことはないんだが……」
 もうちょっと集中したらなと他人事みたいに答えるミケランジェロに、せっかくお迎えがいらしてますのにねと簪も苦笑する。
「ここから瑠璃さんを探し出すのも、また一苦労です」
 どうやって見分けますかと誰にもなく尋ねられたそれに答えられる者はいなかったが、迎えの女性が来てからそっぽを向いていた黒尽くめの男が渋々といった様子で向き直ってきた。そのまま簪に近寄り、失礼ーと声をかけて彼の服に収まっていた塊を引き摺り出している。
「ああ、その猫さんは増え出した後であちきの服に匿ったので。瑠璃さんとも限りませんよ」
「ええ。でも認めたくありませんが、これが僕の同僚ですよー。勇気がないことこの上ない馬鹿猫が、こんな状況で隠れもせず、にゃーにゃー鳴いてるはずありませんしねぇ」
 ねぇ、と皮肉に語尾を上げて猫を持ち上げた黒尽くめの男に、それを言うならとミケランジェロが杏のパーカーのフードを引っ張った。
「ここにも一匹入ってるが?」
「ミスターの服にも隠れているレディがいるようだ」
 やる気なくヘンリーが指摘すると、ミケランジェロのツナギから猫がひょいと顔を出す。依頼人はそれらをちらりと一瞥してから肩を竦め、でもこれですよおと首の後ろを捕まえている猫を大きく揺らした。
「何なら、証拠をお見せしましょうかー?」
 言うなり猫の首輪に手を伸ばした男がそれに触れるか否かといったところで、猫がぎゃんと悲鳴を上げて弾かれた。依頼人の黒い手袋も無残に焼け焦げていて、痛いからしたくないんですけどねぇとぼやきながら地面で寝そべっていた別の猫に手を伸ばしている。今度は何が起きるでもなく、ぼろぼろの手袋をした手は首輪の青い石を何事もなく取り上げた。
「その馬鹿猫が預かった物に、こんな風には触れられないんですよお。だから、弾かれたあれが本物です」
「せやからて、あんなひどいことせんなでも!」
「だって、他に証明のしようがないじゃないですかー。別に殺したわけでなし、責められる覚えもないですけどー?」
 噛みつく杏を面倒そうにあしらった依頼人は、気絶して飛ばされた猫──どうやら瑠璃らしい──を受け止めている、迎えを名乗る女性に目をやった。
「黄緑、それを持って帰りなさいねぇ」
「了解しました。主様は如何なさいますか」
「僕が帰るとでもー?」
 馬鹿を言うと殺しますよーとにこやかに笑った黒尽くめの男に、黄緑と呼ばれた女性は瑠璃を抱いたまま一礼した。
「水色の主様は私がお連れ致します。主様も、なるべく早くお戻りになりますように」
「ご冗談ー」
 僕は帰りませんってーと舌まで出す依頼人に、ミケランジェロが剣呑に目を細めた。
「今ならあの猫も気を失ってんだ、お前も同じ状態にして連れ戻させるのも手だよなァ?」
 目的地に連れて行くまでが依頼だろうとモップに手をかけながらミケランジェロが声を低めると、杏も攻撃態勢に入って身を低くしている。簪の手もさり気なく懐に伸ばされいて、今にも黒尽くめの男を取り押さえそうな空気が張り詰める。
 依頼人は軽く眼鏡を押し上げただけで特にどうとも言わないが、逃げる隙を窺っているのは分かる。三対一では分が悪いと見越し、ヘンリーは自分の服を探ってそれを取り出した。
「ミス杏、こちらをお返ししよう」
 忘れていたとわざとらしく告げながら柔らかく投げると、ちりん、と綺麗な音を立てながら放物線を描いた鈴は杏の手に収まる。
「これ、クロはんに渡したうちの鈴、」
 何で探偵はんがと驚いて聞き返された時には、ヘンリーは黒尽くめの男を連れてその場から消えていた。少し離れた家の屋根まで一瞬で移動したヘンリーは、助かりましたーとどこまでも呑気に礼を言ってくる依頼人をちらりと横目で見る。
「これは依頼にはなかったけどね。ま、サービスだよ」
 黒い巻き毛の探偵姿から、先ほど対峙した金髪に灰色スーツへと早変わりしているヘンリーに驚いた様子もない依頼人に、彼はステッキでシルクハットを押し上げながら不敵に笑ってみせる。黒尽くめの男はどうもーとやる気なく頭を下げ、その場で立ち上がった。
「それではご親切な皆様方。馬鹿猫の護衛、無事に果たしてくださりありがとうございましたー。これで僕も心置きなく家出に戻れます、また会う日がありましたらその日まで。御機嫌ようー」
 いつの間にかぼろぼろになった手袋を新品に付け替えている自称スケアクロウは、その手をひらひらと振って姿を消した。
 すっかり太陽が昇ってしまった今、夜が留まっているのはおかしい。だから闇は退散するのだとばかりに消えた男を止める術を持った者は誰もなく、まだ消されていない大量の猫たちだけがどこに行くのかを問うように、にゃあんと鳴き声を揃えた。
 ヘンリーとしては両方で受けた依頼を、そつなくこなしたことにはなるのだろう。少し離れた場所で護衛を引き受けた三人が複雑そうな顔をしながらも目を覚ました猫に喜んでいるのを見届け、指先でシルクハットを摘むようにして引き下げると、こちらも溶けるように姿を消した。

クリエイターコメント またしても、やたらと長い話になってしまいました……。が、思いっきり楽しんで書かせて頂きました、参加してくださった皆様に篤く御礼申し上げます。
 全ての謎解きができたわけではありませんが、これ以上は冗長なだけですので猫も無事だったことですし今回はこの辺で。
 同時進行シナリオでもある「頭の悪い案山子」にてちょっと補足はあると思いますが、また改めてこの某童話メンバー(今更)から別の依頼があるかもしれません。
 その時はまたどうぞ宜しくお付き合いくださいますと幸いです。
 今回は色々と無謀に挑んだシナリオでしたが、無事に形に出きました。お付き合いくださいまして誠にありがとうございました!
公開日時2008-06-21(土) 12:50
感想メールはこちらから