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<ノベル>
−−銀幕市内某所 某廃ビル前 AM1:00
夜はすっかり更けていたが、春先の匂いのするほんのり暖かい風が吹いていた。
「良い夜ですね」
ランドルフ・トラウトが月を仰ぎながら大きく息を吸い込んだ。自然と頬がゆるむ。
「こんなにも素敵な夜なのに……」
そう呟いたのはコレット・アイロニーだ。両手を胸の前できつく組み合わせており、不安がっているのがわかる。視線の先には、寂しい雰囲気を醸し出す廃ビルが立ちつくしていた。
「コレットは心配性やな。まだ中に入ってもないねんで」
晦(つごもり)がつとめて明るく言うと、コレットはぎこちない笑みを返した。
「あまり楽観視するのも良くないと思いますけどね」
ファレル・クロスが皮肉げに肩をすくめる。晦の意図は理解しているつもりだ。皆の緊張を解こうというのだろう。しかし、その相手がコレットとなると胸中おだやかではいられない。
「楽観視しとるわけやないで。わしかてこないだトゥルーファングッズとやらのお世話になっとるからな」
ファレルの心中になど気づかずに、晦が歯をギリと鳴らした。『計画者』佐野原冬季(さのはら とうき)から尊師たちの思想や計画を聞いてからというもの、言いようのない怒りが渦巻くのを感じている。
「わしはトゥルーファングッズをぶっつぶして、尊師に文句のひとつも言うてやらな、気がすまへん」
パンと拳を打ち鳴らす晦の肩に、ランドルフがその大きな手のひらを添えた。
「私も晦さんと同じ想いです。できれば尊師という人物に伝えたいことがあります」
「私も、尊師さんと会ったら、ゆっくりお話ししたい」
コレットも同意する。
そして、三人ともがファレルを見た。
ファレルは「もちろん私も賛成ですよ」と苦笑した。
柊市長の汚職疑惑事件の際に尊師なる人物の目的が判明するに至り、冬季がひきつづき対策課の依頼を受けこの件に対処することとなったのが、つい三日ほど前のことだ。トゥルーファングッズの存在を知られた以上、尊師側も動きを早めてくるに違いないと予測されてはいたが、これほど早いとは予測を遥かに超えていた。すでに尊師はトゥルーファングッズを量産しており、あとはエネルギー源であるプレミアフィルムを調達するだけの状態だと言うのだ。
そこまで情報をつかんだ時点で、冬季はあらたにトゥルーファングッズ部隊鎮圧のためのメンバーを集めた。トゥルーファングッズと実際にやりあった経験のある晦とファレルに、新たな志願者としてランドルフとコレットが加わった。もうひとり、神出鬼没の紳士強盗も参加することになっていた。
そうして、尊師らのアジトである廃ビルがわかり、今彼らはそこに集結している。
「冬季さんの話しだと彼らのアジトは地下にあるそうですが、どうやって侵入しましょう? まさか正面から乗り込むわけにもいかないと思いますが……」
ランドルフの指摘はもっともで、まずは侵入する方法が問題だった。今回の目的地は地下だ。屋上もなければ窓もない。おそらくはそこへ降りる階段かエレベーターなどを使わなければならないだろう。出入り口が限定されている。
「おそらく、敵もそれを狙って地下に拠点を築いたのでしょう」
ファレルの分子分解でも、もはや容易に潜入できるとは限らない。なにせ前回のハイテクビルには分子分解状態の彼を探知するアンドロイドがいたのだ。今回もそういったムービースターなりシステムなりが備えられている可能性がある。
「わしが鼠に変化して先に忍び込むか?」
「ひとりは危険だわ」
晦の提案を、コレットがすかさず拒否する。
「そない言うてもなぁ」
「今回は――」
ファレルが思案しながら言う。
「いっそのこと正面から乗り込んではどうでしょう? 地下に集まっているのは、尊師の思想に共感したエキストラたちが多いと聞いています。さらにはトゥルーファングッズも、プレミアフィルムの供給不足で稼働しているものは数えるほどしかないとも。こう言ってはなんですが、トゥルーファングッズを持たないエキストラが相手ならば命を奪わずに昏倒させることなどたやすい」
「今もっとも惜しむべきは時間ですからね。そこを考えるなら、それが一番の方法かもしれません」
ランドルフは暴力をあまり好まない。できれば拳をふるうことなどない方がいい。しかし、この場合はそうも言っていられないようだった。自分たちが間に合わなければ、尊師たちは理想を信じるままに無謀な行動へと打って出るだろう。
「ま、今回はしゃあないかもしれんな。やけど、無駄な争いは避けるっちゅう方向性は曲げられへんで」
「もちろんです。気絶させるのも最低限邪魔になる者たちだけ、ということです」
こうして、尊師率いる組織アジトへの潜入がはじまった。
−−銀幕市内某所 某廃ビル名 AM1:10
廃ビル内への侵入にはなんの苦労も必要なかった。人員が地下へと割かれているからか、見張りのひとりもいなかったのだ。
「まずは地下への入り口を探さんとな」
晦が皆を制して、鼠に変化する。
ほどなくして、1階のすべてを探索し終えて戻ってきた。
「ざっと見てまわったけどな、地下への入り口らしきもんはひとつだけや。1階の隅の方に階段があってな。その前にごっつい体格の男がふたり立っとるで。あれは見るからにムービースターやな」
「ひとりは私が分子分解状態で近づいて始末しましょう」
「始末するって、殺すってこと?」
コレットがファレルに訊ねる。
「エキストラだから気絶させるにとどめる。ムービースターだから殺してもよい。なんてことは考えていませんよ」
ファレルは苦り切った口調で答えた。
ファレルからすれば、コレットの優しさは度が過ぎていて、お節介のレベルにまで達することがしばしばあるように思われる。なんとも面倒だと思いつつも、彼女のそういった部分を否定しきれない自分がいるのもまた事実だ。なにしろ、ほっとした彼女の顔を見て、ほっとしている自分がいるのだから。
「もうひとりは、わしがなんとかするわ。ランドルフじゃ相手に気づかれんように動くんは無理やろうからな」
ランドルフが「晦さんは走り回って疲れているはずなのに。お役に立てずすみません」と頭を下げる。
「人それぞれ、得手不得手があるんやから、助け合わんとな」
晦はにかっと笑った。
その晦の案内で、四人は身を潜めつつ階段の近くへと移動した。コレットも、ひとりでいては危険だと判断し、ここまでは同行している。
通路の陰から覗くと、たしかに屈強な男がふたり、階段の前に陣取っていた。
「ほな、打ち合わせどおりに」
晦が鼠に変化し、ファレルが自身の身体を分子レベルに分解しようとしたとき、閑散としたフロアにあわただしい足音が響き渡った。
それを耳にし、全員が身を固くする。
あれよあれよという間に、地階から上がってきた多数の男たちが階段の前に展開した。青年から壮年まで、年齢はばらけていたが、手にしている物は同じ。無骨な形状のショットガンだ。
晦とファレルの脳裏に記憶がよみがえる。まさしくあれこそはトゥルーファングッズ――スチルショットだ。しかも、バッテリーとしてのプレミアフィルムも取り付けられている。
「これは……私たちのことがバレていますね」
言いつつ、ファレルがコレットを後方にかばう。
「私が行きます!」
ランドルフが飛び出した。
「援護するで!」
晦は胸の宝玉を手に取った。
ランドルフは、敵にスチルショットを撃つ暇を与えないよう、一気に間合いを詰めるつもりだった。実際、彼は全力疾走だったのだが、相手もそれなりの訓練を受けているらしく、構えて照準を合わせる動作の方が遥かに速かった。
ランドルフは咄嗟に、横へ跳びのこうかと迷う。どれほど彼が怪力を発揮しようと、スチルショットの光にはかなわない。強制的に1分間動きを止められてしまう。
迷いが行動を遅らせる。そうこうしているうちに、もはや避けるのも近づくのもかなわなくなってしまった。
そこで、スチルショットを構えていた何人かが不自然に吹っ飛んだ。
晦の援護だ。彼が胸に下げている宝玉には、他人を操れる能力があるのだ。
しかし、それでも三名の兵士が無事にスチルショットを発射した。
無駄とは知りつつも、ランドルフは両腕をクロスさせて防御の姿勢をとる。
炸裂する光。
おそるおそる目を開いたランドルフは、まぶたが動くという現状に驚きを隠せなかった。なにかが弾丸と光を防いだのだ。
とにかく今は原因を考えている場合ではない。まっすぐに敵目がけて突進し、あっという間にすべての兵士の意識を奪った。
ムービースターらしき門番ふたりにはさすがに苦労すると思われたが、すでに晦とファレルも駆けつけており、ほどなくトゥルーファングッズ部隊の制圧に成功した。
「手荒な真似をしてすみません」
意識のない者たちに謝罪するのは滑稽に思われたが、それがランドルフの人となりだ。
「さっきのはファレルがやったんか?」
エキストラたちから奪ったトゥルーファングッズを、使えないように壊しながら晦が訊く。
「ええ。ランドルフさんの目の前に空気中の分子を集めて壁をつくりました。スチルショットは途中で障害物にぶつかれば、その時点で爆発するはずですからね。ならば、こちらが被弾しないように壁をつくればそこで弾丸は消え去ってくれます。あとはムービースターの動きを止める光ですが、これも、空気を湾曲させれば光を屈折させることなど難しくありません」
「ははーん、なるほど考えたな」
「先日はトゥルーファングッズのお世話になりましたからね。借りを返さなくては」
ファレルがにやりと笑う。
「わしは、宝玉の力を使って弾丸になにかぶつけるつもりやったけど、それよりは盾をつくった方が確実やな」
「次は私も何らかの盾を持って突進します」
ランドルフだ。
「さて、対策もできたことやし、さっさと地下に降りるで」
先を急ごうとする晦を、ファレルが「ちょっと待ってください」と制した。
眉をひそめて「なんやねん?」と振り返る晦に、ファレルが鋭い眼差しを突きつける。
「おかしいとは思いませんか?」
「なにがや?」
「彼らは私たちのことを待ちかまえていました。まるで私たちの存在を前もって知っていたかのように……」
「そやな。どっかでバレたんかもしれん。ほなら、なおさら急がんと……」
「どうして私たちの存在がバレてしまったのでしょう?」
ここまできてようやくファレルの意図がわかったらしく、晦は彼をにらみ返した。
「なんや、わしが偵察中にヘマして見つかった言うんか?」
「違います。貴方がすでにトリックスターと入れ替わっているのではないか、と私は考えているのです」
ランドルフとコレットが目を見張った。ふたりともそのようなことは露とも思わなかったからだ。
トリックスターと呼ばれるムービースターの存在が明らかになったのは、柊市長を内偵した時のことだ。内偵メンバーを罠にかけようと、冬季になりすましていたのが、このトリックスターだった。彼の特殊能力は変身。つまりはどのような人物にも、体格や性別などを完全に無視してなりすますことができるのだ。
ファレルは今、本物の晦は先ほどひとりで偵察に出た際に捕えられており、目の前の晦がトリックスターなのではと疑っているのだった。
「そやったら、わしらの存在がバレてしまっとることも説明がつくってか?」
晦は深呼吸をすると落ち着いた様子で言った。
「ほなら、こんなときのために準備しとったことを活用しようやないか」
彼らも愚かではない。トリックスターの存在を知ったからには、それなりの対策を立ててここへ赴いたのだ。
「ランドルフ、頼むわ」
「わかりました」
ランドルフが鼻をひくつかせて、晦、ファレル、コレットの順番で匂いを嗅ぐ。コレットに鼻先を近づけるときは「失礼します」と断り、顔を赤らめていたのが、ランドルフらしい。
「全員同じ匂いです」
あらかじめ晦が準備した匂い袋を全員が持つことにしており、それを嗅覚が鋭敏なランドルフが判別することになっていたのだ。とりあえず、この判定方法では全員がシロとなった。
「では、次の手順ですね」
ランドルフがうながす。当然ながら、匂いも真似される可能性があったため、方法はこれひとつに絞られてはいない。それに、判別するランドルフがトリックスターである可能性もあるからだ。
「じゃあ、私が……」
そう申し出たのはコレットだ。彼女は手のひらを胸に当てると、ゆっくりと「銀幕」とつぶやいた。すると、ほぼ同時に、晦とファレルとランドルフも同じように胸に手を当て、「夢」と返す。
これで合い言葉もすべて一致したことになる。
「これで誰も入れ替わってないってわかったわね。きっと尊師さんは他の方法で私たちのことを知ったのよ」
コレットが嬉しそうに笑顔を閃かせた。静かに事の成り行きを見守っていた彼女だったが、仲間同士争うことになりはしないかと内心不安でたまらなかったのだ。
「とりあえずは、問題なしということですかね」
それでもファレルは疑惑を完全にぬぐい去ったわけではなさそうだ。彼は彼なりに秘密の判別法を持ってるたのだが、現段階ではそれも晦のことをシロと判じていた。それでも、疑いを捨てることは危険に思えたからだ。
「あのぉ、みなさん」
ランドルフが遠慮がちに手を挙げる。
「一度この入り口を塞いでしまってもいいでしょうか? 逃げ道をなくして、一網打尽にしたいのです。彼らがこのようなことを二度と起こさないように」
彼の願いは切実であるように思われた。
ランドルフが全員の了承を得て、そこいらに放置されている建材や、時には壁や柱の一部を破壊したもので、地下への入り口を急いでふさいだ。ただのエキストラではこの壁を突き破ることはできまい。
彼らは薄い光しか差さなくなった階段を、足早に降りていった。
−−銀幕市内某所 某廃ビル地階 AM1:50
コレットが晦と再会したのは、もうだいぶ歩き回ったあとだった。
「晦さん、よかった。無事だったのね」
「それはこっちの台詞やで。こないな状況でよくもまぁ無事で……」
廃ビルの地下に降りた四人は、トゥルーファングッズ部隊による激しい攻撃を受けた。
十分に対策を練ってきたつもりであったが、想像以上に敵の数が多く、戦っているうちに散りぢりになってしまったのだ。それから、お互いの居場所もわからないまま、それぞれが組織のボスである尊師を探している状態だった。
コレットが晦に駆け寄ろうとして、ふと立ち止まった。晦も立ちつくしたままだ。
これだけ離れていたのだ。お互いがお互いを偽物と疑ってもしょうがないだろう。特にコレットはエキストラだ。無傷で捕えられもせずに長時間逃げ回れたこと自体が怪しい。
「銀幕」
「夢」
お互いに合い言葉を確認してから、合流した。
「尊師の居場所とか、なにかわかったことはあるんか?」
コレットはしょんぼりと首を振った。
「ごめんなさい。逃げるのに必死だったから」
「いやいや、それはしゃあないわ。とりあえず、部屋をひとつずつ確認していこか」
そうして、ふたりがそっと開いた最初の部屋に、目的の人物が待ちかまえていたのは、本当に偶然だった。
その部屋はとても殺風景で、なぜか武装した兵士のひとりもいなかった。ただ、オフィス然としたデスクが並ぶ中に、初老の男性が座っているだけ。
「おやおや、もうこんなところにまでたどり着く方がいらっしゃるとはねぇ」
その男――おそらく尊師は、敵を前にして穏やかな笑みを浮かべていた。
晦は「あんたが尊師かいな」とずかずかと部屋に入り込む。コレットは次の行動を決めかねているように入り口でおろおろしていた。
「あんた、阿保らしいこといろいろやっとんな。やめて欲しいねんけど」
尊師は、晦の無遠慮な物言いに動じた様子もない。
「ふむ。それは無理な相談というものですねぇ。もう準備は整っています」
「準備ができてるできてないの話ちゃうやろ? こっちは、あんたのやっとることが間違っとる言うてるんや」
「ほぅ。面白いことを言う人ですねぇ。どこが間違っていると言うのです?」
尊師の思想は、銀幕市におけるハッピーエンドの秩序を信じ、その秩序を世界中に広めようというものである。そのために、もう一度リオネに魔法を使わせようとしているのだ。
「世界中がハッピーエンドに終わるならば、それ以上の幸せはないでしょう?」
映画とはたいていハッピーエンドで終わるものである。その映画が実体化した銀幕市でもたいていの出来事がハッピーエンドで終わる。これはみんなが幸せになれる秩序である。と、彼は言うのだ。
「あんたの言うハッピーエンドっちゅうのは、単に『事件が解決すること』やろ?」
「『事件が幸せのうちに解決すること』です」
そこは勘違いされては困るとばかりに、尊師が注釈をつけた。
「まぁ、それでもええわ。そんなん些細なことや。あんた、結果ばかりを考え過ぎて、過程を無視しとるんちゃうか? 銀幕市で起こる事件はな、たしかにほとんど解決されるで。せやけどな、解決するまでに、ハザードから被害を受けた人とか、犠牲になった人とか、残された人とか、ぎょうさんおるんや。そういう人らにとったらな、ハザードなんてもんが――事件なんてもんがな、発生した時点でもう『幸せ』やないんや。たとえ、事件が解決したとしても、そこに『幸せ』なんてあらへんねん」
尊師に語りかけながら、晦は怒っていた。あふれる感情をおさえきれない。彼の胸には、今までに助けられなかった人々の姿があふれていた。
「人がな、一人いなくなるだけで、ぎょうさんの人が悲しむことになるねん……」
ありえない声が彼の鼓膜を揺らす。つごもりちゃん――
救えなかった少女。木刀に伝わる感触。噛みしめたガムの味。
「世界中にな――」
晦は尊師をきっと睨みつけた。
「世界中に魔法がかかったらな、世界中でムービーハザードが発生することになるねんで! 魔法が広がるっちゅうことは、悲しみをばらまくこととおんなじや!」
尊師は、晦の言い分を最後まで聞き届けると、パチパチと手を叩いた。拍手されていると晦が気づいたのは、すこし間が空いてからだった。
「なかなかご立派な考えですねぇ」
「なっ!」
晦が絶句する。この男は自分の話の真意を理解できていないのか。理解したうえでこのような言動をとっているのか。どちらにしろ人を食った態度だ。
「そちらのお嬢さんも、私に何か言いたいことがあるんですか?」
お嬢さんとはコレットのことだろう。
コレットはにっこり微笑むとなぜかまったく別のことを切り出した。
「尊師さんに訊きたいことがあるんだけれど、いいかしら?」
「なんなりと」
「どうしてこのお部屋にはボディーガードの方がいらっしゃらないのかしら?」
「私は守られようとは思いませんねぇ。みずからが矢面に立たなければ理想の実践などできませんよ」
「では、もうひとつ。ここには通信設備のようなものがないようだけど、どうやってここから指示を出してらっしゃるのかしら?」
「ふむ、おかしなことを訊く方ですねぇ」
これには尊師だけでなく、晦すらも不思議な顔した。いったいコレットは何を言いたいのか、と。
「なにか言いたいことがあれば、はっきりおっしゃったらどうです?」
尊師がずばりそう言うと、コレットは人差し指を顎に当ててこう訊ねた。
「あなた、本当に尊師さんなのかしら?」
しんと静まりかえった。
静寂を破ったのは尊師だった。
「はははは。よくぞ見抜いたものだね」
一瞬、世界が暗転する。部屋の電気が消えてまた点いたのだと気づいたときには、尊師の代わりにピンク色の燕尾服を着た男がデスクのうえに立っていた。
「こんばんは。晦くんに、コレット嬢」
「トリックスターって奴かいな」
晦がうなる。頬に羞恥の朱が差しているのは、尊師に向かって投げかけたつもりの説得が、まったくの別人に対して投げていたことが判明したからだろう。さすがに気まずい。
コレットは――見事敵の正体を見破ったにもかかわらず、きょとんとしていた。そして、少しだけ嫌そうな顔をした。
トリックスターは、そんなコレットを見て笑っている。
晦が木刀を構えた。
「おとなしくしてもらおうか?」
「そう言われて素直におとなしくなるのも面白くなかろう」
トリックスターが身を翻す。と、まるで透明人間になったかのように、ピンクの燕尾服がかき消えた。
そして、声だけがどこからともなく降ってくる。
「私の正体を見破ったご褒美として、君たちに本物の尊師の居場所を教えよう」
これまたどこからともなく、ひらひらと一枚の紙切れが舞い落ちてきた。
コレットが拾うと、この地階の通路図のようだった。
「また会えるのを楽しみにしているよ。理想主義の狐くん、それに美しいコレット嬢」
それを最後に、トリックスターの気配は完全に消えてしまった。
−−銀幕市内某所 某廃ビル地階 AM2:00
トリックスターの残した通路図には印がつけてあった。言葉通りとらえるなら、それは尊師の居所ということになろう。
しかし、真であるか偽であるかには議論の余地がある。
晦とコレットが部屋を出ると、ランドルフが走って通り過ぎるところだった。
「みなさん、無事だったんですね」
ランドルフはその体格から見つかりやすかったのだろう。激しい逃亡劇の末、服がボロボロに破けていた。
再会の喜びも束の間、三人は匂いと合い言葉を確認し、通路図について手早く話し合った。
「きっと罠に違いないわ」
と主張したのはコレット。
「しかし、これほど露骨な罠があるでしょうか」
と疑問を呈するのはランドルフ。
「とにかく行ってみたらええんちゃうか」
と考えるのももどかしいのは晦だ。
コレットがしつこく反対したものの、最終的に他に手がかりも時間もないということで、印の場所へ向かうことが決まった。
「これ、ホンマに当たりとちゃうんか」
晦が思わず呟いたのも無理はない。彼らの行く手には、完全武装したトゥルーファングッズ部隊が強固な守りを敷いていたのだ。
三人とも廊下の角に隠れてはいるものの、絶え間なく銃弾が襲いかかってくる。
そう、敵が使用してきたのはスチルショットではなく、通常の銃弾だった。これまでの経験から彼らも作戦を変更してきたのだ。スチルショットやディレクターズカッターは一撃必殺の武器であり、それらを防がれたとき彼らに勝ち目はない。だからこそ、まずは通常の兵器で牽制して、トゥルーファングッズを使うチャンスを待っているのだ。
「これはこれで突破するのが難しいですね」
ランドルフの言うとおり、これがなかなかに打破しづらい状況だった。なにせ通常の弾丸でもダメージは食ってしまうのだ。エキストラのコレットに至っては、たやすく命を落としてしまう。かと言って、多少無茶な特攻をかければ、ここぞとばかりにスチルショットやディレクターズカッターで狙われるだろう。そうなればおしまいだ。
「やっぱり戻って別の場所へ行きましょう」
コレットが晦の着物の裾をひっぱる。
「コレットは退がっとき。ランドルフ、行くしかないで」
どこから取り出したのか、晦は金属バットを手にしている。ハイテクビルでディレクターズカッターと斬り結んだ際に、木刀は折られそうになったからだ。ムービースターの持ち物でないならば、対等に戦えるだろうと思ってのことだ。
「なんとかするしかなさそうですね」
言うが早いか、ランドルフの身体がひとまわり膨張する。もともとボロボロだった服が完全に破れ去り、隆々たる筋肉があらわになる。口元からは鋭い牙が伸びた。覚醒状態――ランドルフが本気で戦うことを心に決めたのだ。
「私が咆吼で相手の動きを止めます」
銃弾の嵐の中へとランドルフが飛び出した。金属板に当たったような音を立てつつ、筋肉が弾丸をすべて弾き返す。
口が大きく開かれ、喉の奥から絞り出されるように、獣の咆吼が建物全体に響き渡った。
彼の雄叫びは敵を怯ませる効果がある。そのすきに、晦も飛び出した。
まずは走りながら、宝玉の力を使う。前回はスチルショットを持った敵自体をなぎ倒したのだが、今回はスチルショットそのものに力を作用させ、取り付けられたプレミアフィルムを引きはがす。当然バッテリーを奪われたトゥルーファングッズは使用できない。
「省エネってやつや! わしかて経験から学ぶっちゅうねん!」
ひとりツッコミをしながら、敵部隊の中心へと躍り込む。
ようやく咆吼の呪縛から解放された兵士たちが、腰のディレクターズカッターを抜いた。
金属バットとディレクターズカッターの刃がぶつかり合い火花を散らす。
「よっしゃ! 斬れへん。いけるで」
こうなれば、元々ただのエキストラである兵士たちが、晦にかなう道理はない。剣術など少しかじった程度では、人を斬れるほどの腕前になるはずもないのだ。
「生兵法は怪我の元やで!」
金属バットが次々とディレクターズカッターをたたき落としていく。そこにランドルフがなだれ込み、丸腰の相手をそっと気絶させていく。見事なコンビネーションだった。
これですべて片が付くかと思われたとき、ふたりの耳に絹を引き裂く悲鳴が聞こえた。
「コレット?!」
「コレットさん?!」
振り返ると、コレットが兵士のひとりに捕えられ、こめかみに拳銃をつきつけられていた。
「武器を捨てろ!」
怒鳴る声も銃を持つ手も震えていた。尊師の思想に賛同しただけの、もともとは一般人なのだろう。
「お願い。この人の言うとおりにして」
コレットが哀願する。
ランドルフがおとなしく両手を上げた。晦は「武器なんか持ってへん。これはただの野球道具や」ととぼけようとしたが、当然のごとく無理だった。金属バットを投げ捨てて、ランドルフに習う。
「こっちだ。こっちに来い」
兵士はコレットを引きずるようにして後じさった。通路図の印がついた場所とは逆の方向へ誘導しようとしているのは明らかだった。
「なにか少しおかしくありませんか?」
ゆっくりと兵士についていきながら、ランドルフが小声で話しかける。
「なにがや?」
「コレットさんなんですが――」
ランドルフが言いかけたとき、現状が一変する出来事が起きた。
高笑いとともに、派手な燕尾服が、コレットと兵士、晦とランドルフの間に突如として現れたのだ。
「トリックスター?!」
晦の言葉にランドルフが反応する。
「彼がトリックスターですか」
名を呼ばれ、満足顔のトリックスターは、大仰に両手を広げると独り舞台を展開した。
「せっかく尊師の居場所を教えたというのに、まだこんなところでもたもたしているのかね?」
「おまえに言われたないわ!」
ふたりの立場を考えれば、なんとも不思議なやり取りだ。敵であるトリックスターが晦たちに有利な情報を与え、晦はそれに感謝するどころか罵声を浴びせているのだから、筋が通っているような通っていないような。
しかしトリックスターは晦のツッコミなど完全無視だ。
「なるほどなるほど」
周囲を見渡し、独り納得する。
「どうやらコレット嬢とそちらの方が邪魔をしているようだね」
トリックスターの剣呑な眼差しに、兵士は身震いした。コレットは静かに見つめ返している。
ぽん。小さな爆発が起こり、トリックスターの手のひらに拳銃が生まれた。
「何をする気です?!」
ランドルフも晦もあわてて身構える。
ところが、銃口が向けられたのはコレットに対してだった。
「ちょ、なにすんねん!」
「コレット嬢が人質になっているのだろう? だったら、コレット嬢さえいなくなれば、君たちは安心して尊師のもとへ向かえる。そういうことだよ」
敵であるトリックスターが、ランドルフたちが尊師のもとへ行けるよう味方をしているようだが、その方法はコレット殺害というまるで味方とは思えないもの。ますます状況は混迷を深めていくようだ。
晦はだーっと頭をかきむしり、ランドルフも迷いながら冷や汗をかいている。兵士もどうしてよいかわからず固まったままで、コレットは苦々しげな表情だ。
ただトリックスターだけが笑っていた。
「わしらをおちょくっとんのか……」
「悪趣味ですね」
晦とランドルフはそう囁き交わしつつ、トリックスターに飛びかかる隙を狙っていた。自由に動けるようになろうがどうしようが、コレットを見殺しにするわけにはいかない。だが、トリックスターもこういった場において油断するような人物ではなく、状況は奇妙な三すくみだ。
「献身的なコレット嬢も、みずからが倒れることで本望なのでは?」
この台詞に敏感に反応したのは兵士だった。コレットという人質の存在がなくれば、自分の立場が危ういと思ったのかもしれない。
まごつく兵士に、コレットがにっこり微笑みかける。動揺する兵士の腕にいきなり噛みついた。
ぎゃっと悲鳴をあげて兵士が拳銃を取り落としたのを確認して、晦が宝玉を使う。兵士の身体が見えない力に吹き飛ばされて、コレットから数メートル離れた位置に転がった。
その間ランドルフはトリックスターに攻撃をしかけている。といっても、羽交い締めにしようと両腕を大きく広げて迫っただけなのだが。
「甘いね」
巨体ゆえの鈍さが災いし、軽いステップでかわされてしまう。
トリックスターはそのまま姿を消してしまった。
「ホンマややこしい奴や。なにがしたいんか、さっぱりわからへん」
兵士を気絶させ、コレットの安全を確保した晦が独りごつ。すると……
「トリックスターとは元来、悪戯好きの意味だからね」
なんと本人から返答があったので、これには晦もランドルフも口から心臓が飛び出る思いをした。
「消えたか思うたら、隠れて聞き耳たてとるやなんて、悪趣味にもほどがあるで」
どことも知れぬ声の発生源に、拾い直した金属バットを向ける。
「もしかして……」
ランドルフが慎重な様子で口を開いた。
「あなたの雇い主である尊師という人物は、この銀幕市には事件がハッピーエンドで終わるというルールが働いていると考えていますよね? そのおかげで、彼がしてきたこと――悪事はすべて不成功に終わった、とも。それはつまり、今回のこの潜入劇においても、私たちが、言うなれば正義、尊師側が悪とみなされている限り、自分に勝利の女神は微笑まないと考えているのではないですか?」
考えているような一瞬の間があり、声が流れた。
「たしかに、そう考えているかもしれない」
トリックスターの返答にはどこか面白がっている響きがある。
「だとすれば、あなたが私たちの味方であるかのような行動をとるのは、どちらが正義でどちらが悪かという境界を曖昧にするというか――もっとはっきりと、その秩序とやらに、私たちを悪と、尊師側を正義とみなさせたいのではないですか?」
「なるほど、私がどちらにも味方をすることで、秩序を混乱させようとしていると。そういうことかね?」
ランドルフはうなずいた。
「残念だが、不正解だ」
あっさりとトリックスターは言ってのけた。
「私は常に君たちの味方だ。尊師なんて人物の味方をした覚えはない」
それきり、声すらもその場から消えてしまった。
「ただの嘘つきやんか」
振り上げた鉄バットを振り下ろす先が見つからず、晦は面白くなさそうに壁を叩きつけた。
−−銀幕市内某所 某廃ビル地階 AM2:15
ランドルフ、晦、コレットの三人は、トリックスターの残した通路図をもとに、尊師がいると考えられる部屋の前に到着した。ランドルフは通常形態に戻っている。
「ファレルさんは大丈夫かしら」
いまだ合流できない最後の仲間の身を案じて、コレットが顔を曇らせる。
「あいつ、なんちゃら分解とかいう技を持ってんねんから、一番に合流できそうなんやけどな」
「もしかしたら、ファレルさんの身に何か起こったのかも。先に探しに行ったほうがいいんじゃないかしら?」
「うーん、せやけどなぁ。ここまで来て引き返すっちゅうのもなぁ」
「ファレルさんの命が危ないかもしれないわ」
「あいつはそう簡単に殺られるような奴やない思うけど」
「晦さんって冷たいわ」
「え? そ、そない言われてもなぁ……ランドルフはどう思う?」
コレットと晦の会話に加わらず、ランドルフはじっと考え込んでいる様子だった。
「ランドルフもファレルを助けに行ったほうがええと思うか?」
晦がもう一度訊ねると、ようやく返事をした。
「少し不思議に思っていることがあります」
そう切り出したランドルフは、言い出したもののまだ迷っているように見える。
「もしかしてコレットさん、あなたは偽物ではないのですか?」
単刀直入に投げかけられた疑惑に、コレットは瞳を潤ませ、晦は盛大に吹き出した。
「ひどいわ、ランドルフさん。私は本物よ」
晦もどこか気遣わしげな視線をコレットに向けながらフォローを入れる。
「コレットが偽物て……変身能力を持っとるっちゅうトリックスターは、さっきから何度もわしらの前に現れとるやないか」
「それはそうなんですが……」
「それにコレットは、合い言葉も知っとったし、わしの用意した匂い袋の匂いもしたやろ。ランドルフが自分で確認したやないか」
「匂いは、本物のコレットさんを捕まえた際に匂い袋を奪えば問題ないですし、合い言葉もコレットさんから聞き出したのかもしれません」
「コレットが合い言葉を敵に教えるなんて、ありえへんで。コレットは味方が危うくなるようなことは死んでもせぇへん思う」
ランドルフが意を決したようにコレットを見据えた。
「私が不思議に思うのはまさにその点なのです。先ほど晦さんにも言いかけたのですが、私がジャーナルなどで知るコレットさんならば、人質になるような事態に陥ったとき『この人の言うとおりにして』などとは口が裂けても言わないと思うのです。真に献身的な彼女であれば、たとえば『私のことはかまわず、この可哀相な兵士さんを止めてあげて』などと言うのではないかと」
そこまで聞いて、晦も思い当たる節が出てきたのか、その可能性について考えはじめた。
当のコレットは「たしかに私は足手まといだったかもしれない。ごめんなさい。人質になんかなった私が悪いのね」と、とうとう泣き出してしまう。
女性の涙に弱いランドルフは、さっきまでの勢いはどこへやら、急におろおろした。
しかし、今度は晦が「ちょい待った」とふたりに手のひらを向けた。
「もし、コレットが偽物――トリックスターが変身してるんやとしたら。入れ替わったんは、一度全員がはぐれてからやろ。ちゅうことは、わしが偽物の尊師に会ったときにはもうコレットも偽物やったっちゅうことや。あんとき……わしとコレットが偽物の尊師に会うたとき、コレットがその正体を見破ったんや。『ここにボディーガードがおらへんのはなんでや?』とか『通信設備がないんはなんでや?』みたいなことを言うてて、なに言ってんねん思うてたけど、最初から尊師が偽物やって知ってて、それであないなこと言ったんやないか? そうや。それにあないな、相手を追いつめるようなこと、コレットやったら言わへん」
「わかったわ」
コレットが涙をぬぐって言った。
「だったら、私を縛り付けて。それで偽物じゃないっていう証拠になるなら」
まるで自首した犯罪人のように両手の手首をそろえて、晦に差し出す。
これには晦も参った。確証もないのに女性を乱暴には扱えない。
「騙されてはいけません。その女は間違いなく偽物ですよ」
ランドルフ、晦、コレットの三人が同時に声の主を探す。
「ファレル!」
「ファレルさん!」
いつからそこにいたのか、ファレルが三人の輪の中に立っていた。自身の身体を分子分解していたのだろう。そうすればさながら透明人間のように振る舞える。
「本物のコレットさんを捜し出すのに時間がかかってしまいました。申し訳ありません」
晦とランドルフに頭を下げるファレルに、「どういうことや?」「どういうことです?」とふたりとも疑問符を浮かべる。
「実は、この中にトリックスターが混じった場合、すぐに見分けがつくように、事前に細工をさせていただきました」
ファレルが、偽物のコレットに冷たく微笑む。
「晦さん、ランドルフさん、コレットさんの細胞分子の一部に、とある金属分子を埋め込んでおいたのです。つまり、その金属分子の反応があれば本物、なければ偽物ということですね。私は定期的に金属分子の存在の有無を確認していました」
「その反応が、こちらのコレットさんからは感じられない、ということなのですね」
ランドルフの確認に、ファレルが首肯する。
「ちょい待てや。そやったら、最初にファレルがわしのことをトリックスターやないか? 言うて疑ったときも、その金属なんちゃらで、わしが本物やってわかってたんちゃうんか?」
地下への入り口でトゥルーファングッズ部隊と交戦したあと、情報が漏れたことに関して晦が偽物ではないかと疑ってかかったのはたしかにファレルだ。
「あれは私が迂闊でした。申し訳ありません。変身能力のレベルがわからなかったので、匂いや合い言葉で確認したかったのです。もし、トリックスターの能力が身体の内部まできちんと写し取るようなレベルの変身を可能にするのなら、金属分子までをも真似されて終わりですから。もっと確証が欲しかった。しかし、私の慎重さが逆効果だったようです。そのことによってこのトリックスターに匂い袋や合い言葉を知らせてしまった」
つまりは、あの地階への入り口での確認行為を、このトリックスターはどこかで見ていたということだろう。それによって、匂い袋や合い言葉の存在を知ることができた。
「だから、晦さんや私に出会ったとき、匂いも同じだったし、合い言葉も間違えなかったのですね」
ランドルフも納得した感じで唸る。
偽物と断じられたコレットは、もはや泣いてはいなかった。むしろ唇を三日月のかたちに歪めている。
「いやいや、お見事」
手を叩く偽コレットに、三人とも警戒を強める。
「そんなに殺気立たなくても、もうネタ切れだよ」
見る間にコレットがピンクの燕尾服を着た男に変わる。本物の正真正銘のトリックスターだ。
「君たちが侵入してきたのは警報装置でわかっていた。最初は地下へ入れる前にトゥルーファングッズでやっつけてしまう予定だったのだがね。あっさりやられてしまうのだから、味方ながら情けない。あとはそこの透明人間の彼が言ったとおりだね。合い言葉と匂いの仕組みが判明したゆえに、誰かになりすまして罠に陥れるというプランに変更になったわけだ。ま、それも失敗してしまったわけだがね」
苦笑するトリックスターの頬を、なにかが浅く切り裂いた。見ると、ファレルがひどく冷淡な眼差しで能力を行使している。
「コレットさんを危険にさらしたことは赦せません」
空気中の分子を固めた不可視の刃が、次々とトリックスターに襲いかかり、燕尾服と皮膚を容赦なく破いていく。トリックスターは苦鳴を漏らして片膝をついた。
「ファレル、やりすぎや」
晦が止めに入る。
「彼は敵ですよ。なぜ止めるのです?」
「熱くなりすぎや、言うてんねん」
「誰も熱くなってなどいません」
「なっとるやろ」
ふたりが押し問答を繰り広げているうちに、ランドルフがすっと前に出て、トリックスターの首筋に当て身を食らわせた。気絶してくずおれる身体を支え、持参したロープでさっさとぐるぐる巻きにしてしまう。
「こうしておけば十分でしょう。なにも殺す必要はありません」
トリックスターに戦闘能力はない。それは事前情報でわかっていたことだ。ランドルフの処置は十分すぎるものだったが、想い人を傷つけられたファレルはまだ納得しかねているようだった。
「それよりも、本物のコレットさんはどこに? 先ほど見つけたようなことをおっしゃってましたが」
そこでようやく最優先事項を思い出したのか、ファレルは自嘲気味なため息を流すと、「彼女はそこの部屋に。尊師といっしょにいます」と近くの扉を指さした。そこはまさしく、いまや偽物と判明したほうのトリックスターが残した通路図に記された場所だった。
「思えば、彼が残した最後の言葉。『私は常に君たちの味方だ。尊師なんて人物の味方をした覚えはない』とは、真実だったのですね」
ランドルフの意見ももっともだ。偽物のトリックスターは、本物の尊師の居場所を正確に伝えていたし、偽物であるコレットを排除しようともしていた。彼は一貫して、ランドルフたちの味方だったのだ。
「ふむ。ランドルフさんと晦さんのお話を総合すると、そのトリックスターの偽物というのは愉快犯のようですね。コレットさんがトリックスターの変身した偽物だとわかっていながら、わざわざトリックスターの姿でみなさんの前に現れたのですから。本物のトリックスターもたいそう困ったことでしょう。自分自身が本物のトリックスターなのだから、目の前のトリックスターは偽物に違いない。しかし、それを言ってしまえば、今度は自分がコレットさんの偽物だということを告白することになってしまうわけですから。本物のトリックスターは、さぞややきもきしたことでしょう」
ファレルは、トリックスターのディレンマを思い、少なからず復讐心を満たすことができたようだ。いつもの冷静さを取り戻していた。
「あーなんか想像ついたわ」
晦が少々げんなりしながら頭をかいた。
「そんなめんどくさいことする奴言うたら、あいつしかおらへん」
「きっとあのトリックスターはあの方でしょうね」
ランドルフも微苦笑する。
「今頃あの扉の向こうで、尊師と苛烈な舌戦を繰り広げているのではないですか」
ファレルにも予測がついていたらしく、こちらは楽しそうだ。『彼』がコレットに危害を及ぼすはずがないと安心しているのかもしれない。
「では、最終決戦と参りましょう」
ファレルが口元を引き締めた。
−−銀幕市内某所 某廃ビル地階 AM2:15
尊師と呼ばれるその男は考えていた。
外では乱戦が繰り広げられているらしい。侵入者は、妖狐の晦、食人鬼のランドルフ、超能力者のファレル、そして、彼が腰かける隣で縛られているコレットの四人だ。つい十分ほど前までは、通信機をつうじて逐一外の様子が報告されていたのだが、いまや散発的なものにとどまっている。それは、とりもなおさず、報告する人員がいなくなっているという証明だろう。トゥルーファングッズの力をもってしても、彼は敗れ去りつつあるのだ。
「どこで失敗したのでしょうねぇ」
尊師はデスクに肘をつき、遠くを見つめた。
コレットはしばらくして、それが自分に向けられたものだと気づき、かぶりを振った。答えようにも、彼女の口はガムテープでふさがれていたのだ。
「おや。これは失礼しましたねぇ」
尊師はガムテープを優しくはがした。
コレットは自由になった唇を、舌を使って湿らせる。
「私、あなたに会えたらゆっくりお話ししたいと思っていたの」
コレットの口調はせっぱ詰まったものだったが、対して尊師の口調は呑気なものだった。
「そうですか。では、答えて欲しいものです。私たちはどこで失敗してしまったのでしょう?」
投げやりな訊き方は、このような小娘から答えが得られるとは真に思っていないからだろう。
「尊師さんの、みんなを救いたいって気持ちは大切なものだと思うわ。だって、世界中にハッピーエンドを広めたいって、素敵な考えだと思うもの」
「では、コレットさんは正義は私にあったと認めるのですかねぇ? だったら、この銀幕市も外の世界と同じで――そう、あなたのお名前のように、皮肉でできているとしか言いようがない。そもそも、正義である私が失敗するということは、この銀幕市では映画の秩序にしたがいすべてがハッピーエンドに終わるという仮説が正しくなかったことになりますねぇ。十分に秩序に関しての検証を行ったつもり――」
「そうじゃないわ」
コレットは必死に否定した。
「人を救うものっていったら、神さまの力とか特別な能力とかじゃなくて……人の思いやりとか共感とか、そういうものじゃないかなぁと思うの」
「銀幕市の秩序という、超自然的な力に頼った時点で間違いだったと? いや、そもそもそういった秩序など存在しないと言いたいのですかねぇ?」
「それは……わからないわ。尊師さんが言うような秩序があるかないかなんて、わからない。でも、もし尊師さんの言うことが本当で……尊師さんたちの方法が上手くいっても、対策課の人たちが傷付いたり、尊師さんたちだって罰を受けたり、するんじゃないんのかしら? 尊師さんが苦しむことになったら、尊師さんについていっている人たちや家族は、どうなるの? 自分の周囲の人たちのことを救えないのに、世界の人たちのことを救えるなんて、思っているの?」
コレットが言い募れば言い募るほど、尊師のため息が深くなっていく。
「私はもともと過程を気にしてはいませんねぇ。すべての過程において、すべての登場人物が、幸せのままに進む物語などありはしません。それこそ、そのような理想は絵空事でしょうねぇ。ただ私はハッピーエンドが――幸せな結末だけでもあればよいと思っているのです」
すべてを最良の結末に導く。その道のりには不幸が満ちあふれているかもしれない。それでも、多数の不幸のあとに不幸な結末が待っているという最悪の事態は避けることができる。コレットの指摘した、終幕への過程で生じる不都合は織り込み済みだと言うのだろう。
そうであれば、先刻、晦が偽の尊師に対して吐露した心情も、否定されたことになる。ムービーハザードが不幸せな事件を引き起こしたとしても、最後に幸せになる者がいればそれでいい。不幸がそれ以上拡散しなければそれでいい。と、尊師は言うのだ。
コレットは胸の内にわきあがる感情を、なんとか喉の奥から絞り出そうと努力する。でもそれはすべて徒労に終わる気もした。
「言葉で説得しようなんて、無駄だよ。思想なんてものは、心の奥底から吹き出すものだからね」
ぱっとスポットライトが当たる。部屋の中央に、ステッキを持った強盗紳士がいた。
「あなたは……ヘンリー、ヘンリー・ローズウッド」
尊師は死刑宣告をうけた受刑者のような口調で『彼』の名を口にした。
ヘンリーは変幻自在の奇術師だ。その彼がここにいるということは、同じく変幻自在のピンク色の紳士――トリックスターは敗北したということだろう。実際、この時刻には壁一枚隔てた廊下で、トリックスターは晦らに包囲されつつあるところだった。トリックスターに対して先手を打ったのはヘンリーであり、打たれたまま、後手後手にまわるかたちで、トリックスターは敗北しつつあったのだ。
「トリックスター……なかなか面白い相手だったよ。僕の手のひらのうえで綺麗に踊ってくれたしね」
「やはりトリックスターをあなたたちの中に紛らわせて正義と悪の境界を曖昧にしようなど無理だったようですねぇ」
ここでヘンリーが露骨に不機嫌な態度をとった。つかつかと尊師に歩み寄り、ステッキの先を突きつけたのだ。
「僕を正義だなどと呼ぶな」
尊師は軽く肩をすくめた。
すぐにヘンリーも普段の調子に戻った。
「トリックスターに化けてミスター・ランドルフの味方をした僕は果たして正義なのかな? 偽物のミズ・コレットを拳銃で撃とうとした僕は果たして正義なのかな? 正義とか悪とかそんなものはこの世界には無関係だよ。それに、この事件の結末はどうだろう? あなたの計画を阻止した者たちの勝ちかい? それが彼らにとってのハッピーエンドかい? すべてがハッピーエンドに終わるだって? ハッピーエンドの魔法……そんなもの、この僕が認めない」
この街にはハッピーエンドなんて転がっていやしない。綺麗事を並べて、ハッピーエンドを装っている人々がたくさんいるだけなのだ。
「映画なんてのは、悲劇の上のエンターテインメントさ。ミステリが始まるためには誰かが死ななければならない。パニック映画では主人公が生き残る前に大勢が死ななければならない。たとえば『死に至る病』、たとえば『Be Happy』の彼ら。ムービーキラーも勿論同じ。危ういバランスの上で、見せかけの平和が保たれているだけ。知らないのかい? 映画の幸せな結末もみせかけにすぎないんだよ」
ヘンリーの口上が終わるまで、尊師は黙っていた。なにかを考えているようでもあり、なにも考えていないようでもあった。
「なるほどねぇ」
尊師がゆっくりと立ち上がる。
「あなたの存在を象徴するものを見つけましたねぇ」
そのままヘンリーの突き出したステッキをつかむ。
「それは……混沌。秩序とは真逆のもの。あなたは正義も悪もないと言いましたねぇ。ハッピーエンドも存在しないと。この世界に秩序が存在しないのならば、それは混沌ということでしょう。もしかしたら私は、最初から――この銀幕市に秩序があると考えたときから失敗していたのかもしれません。世界にあまねく混沌だけがあるのだとしたら、秩序どおりに進むはずがないですねぇ。秩序に関して必死に考え、動いてきたことが、根本から無駄になってしまう」
それは尊師と名乗る人物にとって、思いも寄らぬ解答だったのだろう。秩序とは思想だ。思想同士がぶつかり合うとき、そこに答えは生まれない。誰も彼もがそれぞれの不明確な根拠にもとづいて理想を語るからだ。相手が納得するだけの理由付けなどできようはずもない。衝突するだけで、妥協点など見つかりはしない。
「べつに――」
ヘンリーは尊師の手を振り払い、ステッキをおさめた。
「べつに、僕は秩序や混沌なんてものについて語ったつもりはない。ただ、この世界が大嫌いなだけさ」
尊師の肩から力が抜けるのが目に見えてわかった。
「勝ちにこだわった私の負けとは……いやいや、なにがハッピーエンドでなにがバッドエンドなのか……」
秩序に負けたのではなく、混沌だからこそ勝負などつかない。
そのとき、トリックスターを退けたファレルたちが部屋に入ってきた。
「コレットさん!」
コレットの無事な姿を確認して、ファレルが顔をほころばせた。晦とランドルフは、ヘンリーの姿を認めて、予想の的中を喜んでいいのやら悲しんでいいのやらわからないでいた。ただし、尊師が抵抗する素振りもなくうなだれていたので、事件が解決しつつあることだけははっきり確信できた。
「なかなか面白かったよ」
ヘンリーはそう言い残すと、最初からそこにいなかったかのように、現場からいなくなった。いつものことだ。強盗として、尊師から、もしくは今回の事件から、なにか満足できるものを奪い去ったのだろう。
ファレルがコレットの拘束を解いている。代わりに、晦とランドルフが尊師を拘束するのだった。
−−銀幕市内某所 某廃ビル前 AM3:00
まだ夜明けにはほど遠い時刻。対策課の職員と銀幕署の署員らが、せわしなく行き交っている。ランドルフが出入り口をふさいでいたため、関係者のすべてを逮捕、もしくは保護することが可能だった。ランドルフら自身は、なんと天井を突き破って外に出た。
「なんやったんやろな。あの尊師って男が引き起こしたことは」
晦が誰にとはなしに呟く。
「私、結局なにもできなかった……」
コレットは暗澹たる心持ちで、手錠をかけられた人々を見送っている。
「ただ捕まって。一番長い時間、尊師さんのそばにいたのに説得もできなかった」
大粒の涙を溜めたコレットに、ファレルがそっぽを向きつつ吐き捨てるように言う。
「私には彼の言っていることが理解できませんでしたね。ハッピーエンドになる秩序などというものは、誰かによって証明されたわけでもなんでもないのでしょう。そんな曖昧なものを拠り所にして他人を傷つけるなんて、無責任にもほどがあります」
ファレルは暗に、尊師の無責任さが問題であって、コレットには責任がないことを伝えようとしているようだった。
「わしもファレルの言うとおりやと思う。あのおっさんは無責任やで。世界中にハザードが起こるようにしたかて、それだけ悲しむ人間が増えるだけや」
「でも……でも、ハッピーエンドを世界中に広めたいって、その気持ちは素敵なものなのに。尊師さんたちがあまりにも可哀相だわ。人を救うものっていったら、神さまの力とか特別な能力とかじゃなくて、思いやりとか共感とかだって、わかってほしかった」
コレットの無力感は誰にも救済できないようだ。
「私もコレットさんと同じ想いですね」
最後に優しき巨人が口を開いた。
「私たちは神様の力を使わないとハッピーエンドにはなれないのでしょうか。それではこの先、なにかあるたびずっと神様の力に頼ることになってしまいます。夢は終わるもものです。いつかは誰もが現実に戻らなければなりません」
そこでいったん言葉を切る。
「いつまでも夢を見続けるわけにはいかないんです」
それは尊師だけに捧げられた言葉ではなかった。きっとこの場にいるすべての人に。もしくは、銀幕市全体に捧げられた言葉だったろう。
「ここまで言うとリオネちゃんのことを責めているように思われるかもしれませんがね。そうではなくて、私はこの世界に現れることができて本当に感謝しているのですよ」
照れ隠しのようにうつむき加減で笑う。
この銀幕市では、何百というエキストラやムービースターやムービーファンが、それぞれの想いを抱いて生活している。そのすべてを秩序や混沌、正義や悪、ハッピーエンドやバッドエンドなどといったものに分類することは不可能なのだろう。
そしてそれは、銀幕市の夢の終わりが来ようと来まいとなにも関係なく、連綿と続いていく世界の理なのだろうと、誰もが思った。
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クリエイターコメント | ようやく一連の事件に決着をつけることができました。 今まで関連シナリオやイベントに参加してくださったすべての皆様に最大限の感謝を。
今回はとにかくプロットの段階で苦労しました。 推理ものなど書いたことがないので、コレット嬢やトリックスターの正体を、なるべくわからないように、それでも気づけるように、とヒントを散りばめていくサジ加減が難しくて……
トゥルーファングッズへの対処法やトリックスターへの対処法はみなさんお見事でした。 尊師への説得ですが、理想に燃える彼はすべての理屈に耳を貸さないと決めていたので、「それは間違っている。これこれこうだろう」という説得には応じないと決めていました。 この世界にはっきりと黒白割り切れることなどありはしないことを、強盗紳士様が態度で示してくださったので、そこにほだされたかたちになりました。
最後にすべてのPC様への感謝の言葉でシメさせていただきたいと思います。 これまでありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-04-17(金) 18:10 |
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