★ 【神隠し温泉ツアー】 深い森 ★
<オープニング>

「『迷泉楼』――、ここですね」
 柊市長は、その建物を見上げる。
 古々しい、東北地方の古民家を思わせる日本家屋であった。入口に掲げられた木の看板に、古風な書体で、右から左へその名が書かれてあった。
 それは市長が――いや、今はプライベートであるから柊敏史と呼ぼう――彼が久々にとった休暇の日であった。
 そのつもりはなかったが、周囲が、ここ最近の一連の出来事で、彼の顔色がいっそうすぐれなくなってきたのを慮って、半ば強制的にとらされた休暇だった。よい部下をもったことを、彼は感謝する。
 そしてそこ……「岳夜谷(がくやだに)温泉郷」は、杵間連山中にひっそりと拓けた温泉地であり、銀幕市の奥座敷と呼ばれる知るひとぞ知るひなびた観光地であった。正直、観光地としてはあまり流行っているとはいえないようで、人出は静かであったが、それが今の彼には心地いい。今日はリオネも家政婦とミダスに(!)任せ、バッグひとつを手に持って、気ままな一人旅だ。
 久々に、浮き立つ気持ちを胸に、彼は、その旅館の門をくぐった。
「予約していた柊ですが」
「いらっしゃいませ」
 和服の女将らしき女があらわれて、にこやかに、彼を迎える。
 艶やかな黒髪と抜けるような白い肌――楚々とした所作が控えめでありながらどこか艶めいた風情を醸し出す女だった。
 緋色の唇が、笑みをつくった。
「ようこそ『迷泉楼』へ――」

 ★ ★ ★

『おかけになった電話は、電波の届かない地域におられるか、電源が入っていないため……』
「つながらないな」
 小首をかしげて、電話を切る。まあ、いいか、様子を聞こうと思っただけで、用があるわけでなし。植村直紀は、携帯をしまって、パソコンに向きなおった。
「植村さん、岳夜谷に大きな温泉宿のムービーハザードができたの、ご存じでしたか」
 ――と、灰田が話しかけてきたので、それに応えて口を開く。
「ええ、知ってます。『神獣の森』から温泉の湧く森が出てきたんですよね。それで、いっしょにあらわれたムービースターの方が営んでいるとか。評判いいそうじゃないですか。これで岳夜谷のほうも活性化するといいですよね。そうそう、それで、ちょうど今――」
「その温泉宿なんですけど、ちょっと気になる話を聞いたんです。ここ数日――」
 植村と灰田の次のセリフは、ほぼ同時に発せられた。

「市長におすすめして、休暇で出かけておられるんですよ」
「その宿に泊まったひとたちで行方知れずになる人がいるらしくって」

「え」
「……市長が、その宿に?」
 眉根を寄せる灰田汐。彼女の目の前で、植村の顔色が変わっていった。
「あの……植村さん?」
「ええと……胃薬の買い置き、あと何箱ありましたっけ……?」


「……と、いうわけで、対策課主催で岳夜谷温泉郷へのツアーを企画しました。どうぞごゆっくり、温泉を楽しんできてください」
 満面の笑みで、植村は市役所を訪れた人々に、強引に「旅のしおり」を手渡していく。
「旅行のついでにですね、先に現地入りされているはずの市長を探し出して無事を確保――いや、あの、挨拶でもしてきてもらえると嬉しいなーと思います。よい報告、お待ちしておりますので」

 ★ ★ ★


 飢餓状態の犬の首を斬りおとし、それを辻道に埋めて、人々がその頭上を往来する事で怨念を増した霊を犬神と呼ぶ。あるいは犬の頭部より下を土中に埋め、その前に食物を見せ置き、今まさに餓死しようとする時にその頸を斬りおとす。すると頸は食物に飛んで喰らいつく。これを焼き骨を壷などにいれて祀る。すると永久的にその人に憑き、願望を成就させるのだという。
 ――犬神憑依現象、その云々


 
 少女が見つけたのは、生まれてせいぜい数週間ほどだろうかという、小さな柴犬だった。
 もっとも、よく見ればその犬の尾は先端が分かれ、ガラス玉のような瞳が何をも映さぬ飾りであるのも知れただろう。が、なにぶんにも少女は幼く、仔犬の、ぬいぐるみのような愛くるしさの前には他のどういった事情などおよそ関知するところではなかった。
 少女はその仔犬にチャータという名をつけて家に連れ帰った。今まで住んでいたものとは違う、山間に建つ古い小さな木造の家だ。そこには少女がこれまで片手で数える程度にしか会った事のない祖父母が住んでいて、少女は祖父母と三人で暮らす事になっていた。
 小さな腕の中でぱたぱたと尾を振る仔犬に頬を緩めながら家に戻った少女を、しかし、祖父母はいかにも薄気味の悪いものを見るかのような眼差しで迎える。
 チャータは祖父母には見えていないのだという。少女が確かに抱きしめている仔犬は、少女以外の者の目には映っていなかったのだ。
 祖父母は早々に少女を用意していた部屋の中に押しくるめ、夕食の盆を部屋の前の廊下に置いて、まるで少女もそこにいないかのように振る舞っていた。

 少女の両親は反対を押し切っての、半ばかけおちに近い状態での婚姻を結んでいた。だが長年子供に縁を持てず、結婚後二十年近い歳月の後にようやく少女を産んだ。
 だが、その喜びも束の間だった。
 少女の両親は、少女が七五三を迎えるその年に祖父母に挨拶に行こうとして、その道中、車ごと山中に落下。不遇な死を迎えてしまったのだ。
 幸いにしてほぼ無傷で命をとりとめた少女を、祖父母は初めの内こそ蝶よ花よと愛でていたのだが、それも少女が見せ始めた奇行によって波が引けるように失せていった。
 少女は両親の死後、他者には見えぬものを見る力を備えたのだ。けれどそれは幼い少女にとって”目に見える”もののひとつであり、祖父母のいる側と何ら違わぬ現実の延長に過ぎない。ゆえに臆する事もなく、ただ無邪気に、それをそのまま口にしているに過ぎなかった。
 
 仔犬とふたりだけの日々はそれから数日間続いた。
 他に遊ぶ相手もいない少女には、仔犬は大切な家族であり、かけがえのない友人であって、今やなくてはならない存在となっていた。
 少女の前にひとりの女が現れたのは、そんなある夜の事だった。
「わたくしと共においでなさい」
 艶やかな和装に身を包んだ女は、テレビなどで見るどんな女優よりも妖しく、美しかった。
 チャータが少女の腕を飛び出して女の許に駆けていき、少女はチャータを追って小さな両腕を伸べたものの、しかし、知らない女に近寄るのはさすがにいくぶん躊躇われる。
 女は、少女の迷いを見てとったのか、双眸をすうと細めて親しげな、やわらかな表情を浮かべた。
「今よりわたくしがそなたの母。この腕で包み、あたたかな食事を与え、愛し、護ってあげましょう」
 だから心配などせずにおいでなさい。
 そう言って両手を広げた女は、どこか母親の姿と重なって見えて、

 少女はそのまま女の腕に飛び込んで行った。


 ★ ★ ★


 パンフレットを手に和気藹々と出立しようとしている者達の後ろ姿を見送りつつ、植村は、ふと笑みを小さなものにして、内の数名を呼び止めた。
「あのですね。……ええと、たぶん、まあ、心配は要らないと思うんですけれども」
 もごもごと言い辛そうに言葉を淀ませつつ、植村はちらりと足を止めた彼らの顔を順に見ていく。

 今回、入手できている現段階での情報によれば、山中――温泉郷のそこここで年端のいかない少女が見かけられているという。
 むろんこれは未確認の情報であって、もしかすると女将の娘や従業員の娘、あるいは客の娘であるという可能性も充分に考えられるのだが。それにしても気を引くのは、少女が常に大きな――それこそ少女を背に乗せる事の出来そうなほどの犬と共に現れているらしいという点であろうか。

「今回の一件なんですが……。温泉郷のもととなっている映画は”神獣の森”という和風ファンタジー映画でして。温泉郷には神獣も一緒に現出しているものと思われるのです。ご存知ですか? ちょっとした話題になった作品なんですが」
 
 古代の日本に似せた世界観、その美しさ。その美しい太古の森に住む神獣たちと、その森を拓き文明を進めていこうとする人間との争い。その根底に秘められたエコロジカルなメッセージは、公開当時ちょっとした話題となっていた。

「その中に出来た温泉なので……言いにくいのですが、やはりそれなりには何事かが生じるかもしれません。……皆さんを見込んでのお願いなのですが、温泉を堪能される傍らでも結構ですので、宿と女将をちょっと調べてきてはいただけませんでしょうか。……目的ですとか、そういったもろもろをですね」
 眼鏡のフレームに指をかけつつ、植村はちらちらと彼らの顔を盗み見る。そうして眼前の彼らが快い顔を見せているのを確認して胸を撫で下ろし、
「ついでに、温泉郷では大型犬を連れた少女の姿も目撃されているという事です。よろしければその少女が何者であるのかも調べてきていただきたいのですが」
 言って、植村はようやく胸のつかえが取れたような面持ちを浮かべる。
 そうして再び満面に笑みを浮かべると、再び歩き出した彼らに向けて大きく手を振るのだった。


種別名シナリオ 管理番号303
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
クリエイターコメント温泉郷に行きましょう。

ということで、こちらでは温泉郷の女将との対峙もご用意しているシナリオとなっています。
立て続けに生じているらしい神隠し。彼らをさらう理由は何であるのか。なにを目的としているのか。どのようにして彼らをさらっているのか。彼らの安否は。
女将との問答が生じてくるノベルとなりますので、よろしければそういった疑問などをプレイングにまとめていただければと思います。
少女に関しては、救出するも女将のもとに置いておくも、それはプレイング次第となっております。

それでは、ご参加、お待ちしております。

参加者
木村 左右衛門(cbue3837) ムービースター 男 28歳 浪人
白彌王(cfzu3109) ムービースター 男 10歳 狼神
鬼灯 柘榴(chay2262) ムービースター 女 21歳 呪い屋
ベアトリクス・ルヴェンガルド(cevb4027) ムービースター 女 8歳 女帝
八之 銀二(cwuh7563) ムービースター 男 37歳 元・ヤクザ(極道)
斑目 漆(cxcb8636) ムービースター 男 17歳 陰陽寮直属御庭番衆
<ノベル>

★ 


 やわらかな陽光が瞼を透いてきて、ベアトリクス・ルヴェンガルドは目を覆うようにして両手をあてがい、小さな呻き声を口にしながらころりと横に転がった。
 ゆっくりと目を開く。
 そこは井草の香りのする畳の上で、ベアトリクスはふわふわと温かな毛布に身を包み横になっていた。
 いつの間に寝入ってしまったのか、寝起きの、ぼんやりとする頭で考える。
 同じ下宿に住んでいるみんなと数人で温泉に来ていたはずだが、今、窺う限り、その部屋の中にはベアトリクスひとりだけしかいないようだ。自分が果たしていつ寝入ってしまったのかも定かではないが。
 小さなあくびをつきながら身体を起こし、改めてまわりを見回してみる。――やはりそこにはベアトリクスひとりだけが残されていた。
「……ビイを置いてどこ行っちゃったのかな……」
 呟きながら部屋から板張りの廊下へ向かう。
 廊下は磨き上げられ、一目できちんと丁寧に掃除の行き届いているのが知れる。
 ベアトリクスは部屋の中からひょっこりと首だけを廊下に突き出し左右をしつこく確かめてから、こわごわ、ひっそりと静まり返っている板張りの上に両足を進めた。
 外観から見れば、何という事のない広さをもった温泉宿であったはずだった。が、いざこうして内部を歩いてみれば、その規模たるや明らかに外観から見たものと異なっている。
 ともすれば容易に迷子になってしまいそうな、広い宿内。
 ともかくも、こうしてひとりでいるのは心もとない。ひとまずは誰か――出来れば一緒に部屋にいたはずの、よく見知った面々であればよいのだが。そういった、言葉を交わす事の出来る相手が欲しい。
 ベアトリクスはこそこそと、探るような足取りで、けれどもどこか人の気配を感じるような方に向けて歩き出した。


  ◆ ◆ ◆


 森中がざあざあと唸っている。
 斑目漆は、ひとり、深山を巡り渡っていた。
 ――あの、今にして思えばまるで夢現のものであったようにすら思える、杵間山中で邂逅した、あの深い闇。なぜか、あの場所に戻ってみようとしても、その場所は霞がかったようで、杳として知れない。けれどもあれが何であったのかを知るために、漆はあれ以来ずっと山中に篭ったままでいるのだ。
 ざあざあと唸る森の木々はすっかりと冬枯れだしていて、景色はもう侘しい冬のそれへと変じている。
 狐面をつけたまま、漆はふと足を止めて頭上高い樹林の隙間から覗く白い空を仰ぐ。
 雪が降るのだろうか。
 思いながら、つと指を持ち上げて面についていた細かな葉や土を拭い落とした。
 寂々とした冬の景色の中に佇むその姿は、一見すれば静謐な、何事かをあぐねているのか、それとも深山の風景に目を奪われているだけなのかといった風情を感じられただろう。だが反面、漆という人間を少なからず知覚している者であれば、今の彼が放つ微細たる違和感をも感じ取る事が出来るかもしれない。
 おそらくは、同種の人間でなければ嗅ぎ取る事の出来ないであろう、幽かな血の匂い。狐面をつけているためもあって、その下の表情は窺えそうにもない。
 森を渡る風に消し流されてしまいそうな、弱い、けれども確かな不穏の気配。それを身に染ませながら、漆は、止めていた足で土を蹴り上げかけ――そうして、その視界の端に大きな狼……否、犬の姿があるのを捉えた。
 犬は一見柴犬に似た犬種であるようにも思えたが、しかし、それにしては大きさがありすぎる。幼子であるならばゆうに背に乗せて走る事の出来そうなほどの。否、幼子に限らず、幾分成長した少年少女をも乗せられるであろうほどに大きな身丈をもっていた。
 その犬の、ガラス玉のような空虚な眼光が漆を見ている。
 両者の間にある距離はおよそ数十メートル。漆ならば、そうしてあれほどに大きな身をもつ犬の脚でならば、この距離を縮めるには僅か数瞬もあれば充分足り得るだろう。
 漆はそのまま足を踏み留め、面をつけたまま、真っ直ぐに犬の視線を受け止めた。
 ざあざあと唄うのは冬枯れた深い森。
 犬は漆としばらくそうして向き合っていたが、やがて飽いたように踵を返し、そのまま森の奥へと駆けて行って姿を消していった。


  ◆ ◆ ◆
 
 
 今にも雪を降り落としてきそうな気配を漂わせている天の下、岩風呂から立ち昇っていく暢気な湯気を仰ぎ見て八之銀二は深い息をひとつ吐く。
 背にある岩に両肘をもたれかけ、ゆったりと背中を預けた姿勢で白磁の猪口を口に運びつつ、銀二はふと視線を横手にずらして一声を放った。
「なあ、あんた。あんたも植村君に依頼されてここに来た口かい」
 声を向けた相手は銀二よりも十は年若くみえる青年で、安穏とした面持ちの、けれどもどこかに鋭角な気を感じさせた。
 青年は銀二の声を受けて顔を向けてよこし、湯に濡れた前髪を不精にかき上げながら頬を緩める。
「如何にも」
「だよな。あん時呼び止められた面子の中に見た顔だと思ったんだ。――俺は八之銀二という。……あんたもいける口かい」
 言いながら、銀二は青年の手にある猪口に視線を落とした。
 青年は銀二の視線を受けて「ああ」と呟いて目を細め、お猪口の中に残っていた酒を一息に干す。
「それがしは木村左右衛門と申す者。八之殿と申されるか。斯様な場で酌み交わそうとは、縁とは実に奇なるもの」
 返し、左右衛門は銀二の猪口に自らの酒を注ぎ入れる。銀二はこれを快く受けて一口に飲み干すと、入れ替わり、自分も徳利を手にして左右衛門の猪口に差し向けた。
「さて、木村君。あんたは今回の一件、どう見ているのかな」
 互いに酒を酌み交わした後、何の前触れも置かず、銀二は唐突にそう切り出して左右衛門の顔を見る。
 露天風呂には今、銀二と左右衛門のふたりだけしか浸かっていない。窺う限り周辺には誰の気配も感じられず、ゆえに切り出した話題なのだが、それ以上に、銀二は眼前の青年が放つ気を受け、左右衛門は信頼するに足る男だと嗅ぎ取ったのだ。
 案の定、左右衛門は唐突とも言える銀二の話題の振り方に眉ひとつ動かさず、ふうむと小さく唸ってみせはしたものの、やはりどこかのんびりと猪口を口に運ぶ。
「聞き及ぶに、神隠しなるものが生じているという事なのだが……しかしこの地の空気を受けてみる限り、それは力尽く……というわけでもないように思われる」
「市長がこの宿で行方知れずになったという事だが、彼はまだこの宿にいるんだろうかね」
「さて」
 首を小さくひねり、左右衛門はやんわりとした笑みを浮かべた。
「あるいは、この宿から帰りたくない……と思わせるようなものがあったのやもしれぬ。あるいは心のどこかに湧いていた願望を煽り増幅させた何某がいるのか」
「神隠しってのは、こう、名前通りな現象じゃないのかな。木村君は、今回の案件には何者かが糸を引いているものだと考えているのかい」
 空になった徳利を引っくり返して酒が一滴も残っていないのを確かめ、その後に左右衛門の目を覗きこむようにして微笑む。
 左右衛門は銀二の猪口に徳利を差し向けて肯き、
「それがし、この宿に着いた後、しばし、周辺を散策して回ったのだが……。正直、斯様に美しい土地に害悪たるものが息衝いているものとは思いたくないのだ」
「なるほどな」
 つられて肯き、銀二はふと周辺に広がっている風景に視線を走らせた。
 
 冬枯れているとはいえ、見えるのは針葉樹が落とす深い緑と赤い南天の色。雪を降らすものであるらしい雲に覆われた白い天空に、赤や黄に染まった葉がゆらゆらと舞っている。
 
「しかし、理想と事実は明らかに非なるものだろう。――俺はまあ、市長の足取りを追ってみようかと思うよ。そうすれば、彼が一体何に遭遇したのかが見えてくるかもしれないからね」
「市長殿の行動、八之殿に解ると?」
「胃痛仲間だからなあ」
 からからと笑って、銀二はざばりと湯船を出る。
「彼の行動理念は、まあ、何となくだがな。ともかくもそれを真似れば何かが見えてくるかもしれん。あるいは同じように神隠しに遭遇するかもしれんさ」
「……それでは、それがしは失踪者の痕跡を調べてみる事にいたそう。――宿内で彼らを見た者がいれば、消失する前の様子などを聞けるやもしれぬ」
「だな。それじゃあ、また後で合流しよう、木村君」
「後ほど、ゆっくりと杯を酌み交わしましょう」
 にこりと笑った左右衛門に満面の笑みを残し、銀二は先にその場を後にしていった。


  ◆ ◆ ◆

 
 白彌王は温泉のロビーの入り口に座り、熟した木の実の色を映したような視線をもって宿内の様子を窺っていた。
 陽は少しずつ翳りだしている。天はそれでも未だ昼の様相を呈してこそいるが、しかし広がっている白く厚い雲の影響を強く受けてか、陽光の眩しさはひとつも感じられない。
 吹く冬の風が白彌王の、銀がかった黒い毛並をさやさやと梳いて流れていく。彼は全長二メートルを超える身丈を誇る狼だ。けれどもその眼光は、まるで、総てを見抜き知覚する、叡智そのものを思わせる。
 宿内には湯治客が賑やかに行き過ぎ、中には時おり白彌王の姿を見とめて何がしかを発する者もいたが、そこは銀幕市に住まう者ゆえのものだろうか。ほとんど、誰ひとりとして、そこに居座る巨躯な狼に恐怖を叫ぶ者はいなかった。
 その人の流れを黙したまま見据えていた彼は、その時ふと赤い目を細めてひとりの女に視線を止めた。
 灰桜に金糸で見事な花を咲かせた色留袖を身につけた、雪のように白い肌をもった、それはまさに妖艶を画に描いたかのような女だ。
 女はすれ違う湯治客のひとりひとりに向けて丁寧に腰を折り、そうしてついと細い切れ長の視線を白彌王に向けて寄せる。
 紅をひいた唇が薄い笑みを浮かべたのを、白彌王は女と目が合った瞬間、確かに見た。


  ◆ ◆ ◆


 宿の入り口に巨きな狼がいる。すれ違った見知らぬ客がそう交わしあっていたのを耳にして、鬼灯柘榴は歩み進めていた足をちらりと一瞬だけ止めた。
 市役所で依頼を受け、こうして件の温泉宿にまで足を運んだ彼女ではあったのだが、その柘榴を迎えたのは波打つ太古の深い森が放つむせ返るような緑、冬枯れた樹林、赤や黄に染まる野山の風景だった。が、その、心の奥を震わせるような懐古的な景色の中には確かに清廉とした美しい空気があるのも窺えた。そうして、それが、およそヒトと呼べるものが放つそれとは異なるものである事をも、柘榴は嗅ぎ取ったのだ。
 曼珠沙華を咲かせた赤い着物を身につけた柘榴は、灰桜の色留袖を身につけた上品な女とすれ違い、女が丁寧に腰を折り曲げてよこしたのに微笑み、会釈する。
 女は、確か、名を玉乃梓(たまの・あずさ)と言っただろうか。柘榴たちが訪れた温泉宿『迷泉楼』を取り仕切る女将だと、到着して初めに紹介を受けたように記憶している。
「当宿はお楽しみいただけておりますでしょうか」
 すれ違う瞬間、不意に梓に声をかけられ、柘榴は狼を捜そうと移ろわせていた視線をそのまま梓に向けて寄せ、「ええ、もちろん」と応えて首を傾げた。
「外観からすればさほど広く感じられなかったのですけれど……。中に踏み入れてみれば、こちら、随分と広く造られた場所であるのですね」
「当宿はご覧いただけますように、従業員の数も幾分多めに雇っておりますので、湯治でおいでになられるお客様がゆるりとおくつろぎいただけるだけのスペースの他、彼らが生活をするスペースなども要り様になってまいりますので」
 するりと返された梓の言に肯いて、柘榴はそのまま、再び視線を狼がいるという側へと寄せた。
 と、そこへ。
「おかあさん、おかあさん!」
 まろびそうになりながら駆けてきた小さな少女がひとり、梓の着物の裾を両手でぎゅっと掴んで嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「チャータがおでかけしたまま帰ってこないの」
 頬を赤く染め、わずかながら息を切らしているようにも窺える少女は、おそらく、その”チャータ”を捜して駆け回っていたのだろう。 
 柘榴がやんわりと頬を緩めて少女を見ていると、その視線に気がついたのか、気恥ずかしそうに梓の後ろに身を潜め、けれど上目にちらちらと柘榴を覗くその視線からは、少女の人懐こそうな気配が充分に感じられた。
「奈保ちゃん、お客様の前ですよ。きちんとなさい」
 言いながら奈保の頭に片手を乗せる梓の目には深い慈愛が浮かんでいる。
 奈保は梓の言葉に背を押され、ぴょんと飛び出るようにして柘榴の前に立ち、「こんにちは。迷泉楼へようこそ」そう言ってぺこりと頭を下げた。
「まあ、お利口なお嬢さんでいらっしゃいますのね。あなたの娘さんですか?」
 奈保に向けて会釈を返し、柘榴は真っ直ぐに梓を見る。
 齢はせいぜい三十前後といったところだろうか。むろん、子供がいても不思議ではない年齢なのかもしれない。が、けれど、梓が放つ、微弱ではあるけれども確かな”異質”な空気を、眼前の少女自身はまといつけてはいない。
「ええ、わたくしの娘でございます。どうにも懐こい性格でございまして、こうして、お客様方には誰彼かまわずに寄って行ってしまいます」
「賢いお子なのでしょう。……チャータというのは? もしや、あちらにおいでの、あの狼の事なのでは?」
 言って、柘榴は視線をついと動かした。
 宿の入り口の向こう、先ほどからこちらを真っ直ぐに見つめ続けている、一匹の大きな狼がいる。
「ううん、チャータは奈保のワンちゃんなの。この前までこんなにちっちゃかったのに、いっぱいごはん食べたら、こおんなに大きくなったんだよ」
 小さな両手をいっぱいに広げて『チャータ』の大きさを説明してよこす奈保に頬を緩めつつ、柘榴はすっと膝を立てて、
「そのような犬を見ましたらすぐにお報せいたしますわね」
 奈保にそう言い残し、梓にもう一度深々とお辞儀をすると、物言いたげにこちらを見ている狼のもとへと歩みを進めた。 
 

★ 


「む」
 自分よりも小さな少女の姿を目にしたベアトリクスは、そこで少しばかり歩みを速めて少女の傍に駆け寄った。
 少女は何かを捜しているのか、しきりにきょろきょろと周りを見回している。そうして走り寄るベアトリクスに気がついたのか、はたりと顔を持ち上げて目をしばたかせた。
「暇そうだな、娘」
 ベアトリクスが声をかけると、少女――奈保はふるふると首を横に振って、
「奈保、チャータをさがしてるの。おねえちゃん、チャータしらない?」
 奈保よりもいくぶん背丈の高いベアトリクスを見上げて訊ねた。
 ベアトリクスは「チャータ?」と、眉をわずかにしかめ、少女の顔を覗きこむ。
「チャータとはなんだ。ひとの名前か?」
「ううん、チャータは奈保のワンちゃん。ごはんの時間だよって呼びに行ったらいなかったの」
「なるほど、そちの犬か。して、その犬の特徴は? いかなるものなのだ?」
「あのね、ちゃいろくて、おなかとあしが白いの。あとお顔も白いよ」
「ふむふむ」
 少女が口にする説明を聞きながら、ベアトリクスは頭の中にチャータなる犬の全容をもやもやと描いていく。と、そこに、新たな情報がプラスされた。
「それで、こおんなに大きいの」
 言いながら小さな両手をいっぱいに広げてみせる少女に、ベアトリクスは思わず一瞬だけ動きを止めた。
「……そんなに大きな犬か」
 少女が示した大きさは、軽く見ても一般的な大型犬よりもよほどに大きい。少女はベアトリクスの問いかけに対して力強く肯き、きょとんとした面持ちでベアトリクスの顔を見つめる。
「おねえちゃん、奈保といっしょにチャータをさがしてくれるの?」
「なぬっ!」
 少女の言葉に驚愕し、ベアトリクスはぎょっとした顔で少女を見やったが、しかしすぐに小さな咳払いをしつつ、意味もなく周りをきょろきょろと確認してから肯首する。
「仕方がない、余が相手をしてやるのだ。……言っておくが、余は別にそちと遊びたいわけではないのだぞっ! そちが困り顔で余にすがりついてきた、だから渋々力を添えてやるだけなのだ!」
 ベアトリクスが言い聞かせるようにそう告げると、眼前の少女はきょとんとした顔のまま、ベアトリクスの顔を見上げる。次いでゆるゆると微笑んでいき、
「ありがとう、おねえちゃん!」
 嬉しそうに満面の笑みを浮かべたので、ベアトリクスも思わずつられて笑みを浮かべてしまいそうになった。頬が紅潮して熱を持つ。
「しししし仕方なくなのだぞ。余、余の戯れなのだ。そ、そそそれに、余も、そちの犬のようなものを連れておる」
「おねえちゃんもワンちゃんとおともだちなの?」
「余の召喚幻獣であるぞ」
 言って、ベアトリクスはふっと小さく笑んだ。同時に、その小柄な体の傍にどこからともなく現れた銀色の狼が身を寄せる。
 奈保は、突如として現れた銀狼――フェンリルの姿に驚愕し、目を大きく見張り、それから嬉しそうに頬を大きく緩めて、
「わああああ……! おねえちゃん、すごいねえ!! 奈保のおかあさんのおともだちみたいだねえ!」
「ふむ、そちは奈保というのか。余はルヴェンガルド帝国187代皇帝ベアトリクスである。呼びにくければ陛下と」
 言いかけて、ベアトリクスは奈保の顔を見る。
 奈保はフェンリルに深く興味を惹かれたようで、フェンリルがもつ鉄の牙をものともせずに寄っていく。
 肩で大きく息を吐き、ベアトリクスはふるりと小さく首を傾げてフェンリルの背を撫でた。
「よいか、奈保の犬を捜してやれ。……け、決して奈保が困っておるからではないぞ。いつまでもまとわりつかれては困るというだけだ」
 自分に言い聞かせるように、フェンリルに向けて命じる。
 フェンリルはしばしベアトリクスの顔を見やった後、のそのそと脚を進め、ふたりを先導するようにして廊下を歩みだした。

 しかし。

 嬉しそうにフェンリルを追う奈保の背を見据え、ベアトリクスははたりと首を傾げた。
 ”奈保のおかあさんのおともだちみたいだねえ”
 ――あれは一体、どういう意味であったのか。





 あの大きな犬の後を追いかけて来たのは、いわば何か、直感的なものが強く作用したためであったのかもしれない。
 漆は深山を抜け出て、半ば唐突に眼前に広がった一軒の温泉宿を前にして足を止めていた。
 瓦の敷かれた屋根をいただいた、一見すれば古風なともとれる和風の古民家だ。どちらかといえばこじんまりとした趣の、旅館というよりは民宿といった方がしっくりとくるような佇まいだ。
 周辺を囲むのはどこか懐古を誘う深々とした深い森、それを彩る赤や黄といった風情。
 宿には『迷泉楼』という看板が提げられ、ガラス張りの戸口から覗く宿内には案外と多くの人影が行き交っている。
 いくぶんか離れた辺りからは温泉の気配が漂い流れてきており、それと同時にあちこちに見知った者の気配もが窺えた。
 と、戸口の向こう、たまたま通りかかったといった風の男が漆に気付き、からころと下駄を鳴らしてガラス戸を開ける。
「斑目君じゃあないか。どうした、斑目君も依頼を請けて来たのか?」
 満面に人の良さげな笑顔を浮かべ、銀二が漆を手招く。
 漆は顔に面をつけたままで銀二に軽い会釈をし、「いや」と小さくかぶりを振った。
「八之の旦那、……おひさしぶりです」
「近頃ちっとも顔を見てなかったな。どのぐらいぶりだ。……ああ、トゥナセラ君の、」
 言いかけた銀二の顔がわずかに曇る。
 漆は面をかぶったまま。その面立ちが銀二の目に触れるわけではない。だが、
「……泥だらけじゃないか、斑目君。良かったら、どうだ、一緒に風呂でも。いやあ、ここの宿の露天はなかなかにいい。斑目君は、酒はイケる口だったかな。風呂に浸かりながらの一杯ってのはオツなもんだよ」
 わざとらしくない程度の明るさで話題を逸らす。
 あの一件以来、漆の様子がおかしくなったのは銀二も知り得ている事だ。しかも、今、確かに、漆が纏う空気がごくわずかに――そう、本当にごくごく僅かにではあったのだが、ほんの少しだけ爆ぜたような気がした。
 触れてはいけないのだ、おそらく。否、触れてほしくないのだろう。そう受けたからこそ、銀二は極力明るく、それに勘付いていないように努める。
「いや、俺は」
 面を伝いこぼれる声は穏やかで、小さく笑っているようにすら取れる。
「ああ、でも……ここはなんやら面白そうな宿ですなあ」
 続けて放ち、漆はぐるりを宿を見渡した。
「市長がこの宿に来て、そのまま行方不明になったんだと。市長に限らず、この宿を訪れて、そのまま足取りを消したっていう奴が結構な数にのぼるらしいな」
「行方不明」
「神隠しってやつかなあ。今回、俺らは植村君から依頼を受けてここに来たんだがな。斑目君が力を貸してくれるんなら、その方がありがたい」
 どうかな。そう続けて、銀二は面を透かすような視線を漆に向ける。
 漆はしばし考えるような素振りを見せた後、面に片手を添えてそれを外して銀二を見た。
「俺で務まりそうなら、喜んでお手伝いさせてもらいますわ」
 青の眼光を細めて笑みの形を描き、漆はふわりと頬を緩ませた。
「そういやあ、ここに来る途中、なんやらデカい犬を見ましたわ。他にも、なんや知らん生き物がぎょうさんいはりましたが……あれも関係あるんやろうか」
「大きな犬? 子供が一緒ではなかったかな?」
「? いや、犬だけやったと思います。柴犬を大きゅうした感じの」
「ふむ」
 肯き、銀二はそのまましばし思案に耽る。
 植村の話では、確か、大きな犬を連れた少女も頻繁に目撃されているといった内容であったはずだ。漆が見た犬が件の犬に該当するなら、その少女はどこにいるのだろう。よもや、冬の気配が色濃くなった深山にひとり居るわけではないだろう。物語中ならばともかく、ここは仮にも”現実の”世界なのだ。防寒しなければ凍えて死んでしまう。
 考え付いて、銀二はふと迷泉楼の看板に目を向けた。
「ひとまず、女将に挨拶しに行ってみようか。俺らはまがりなりにもここの客なんだ、女将に挨拶しに行くのもなんら不思議じゃあない」
「行方不明になってるって人達の足取りは追わなくていいんやろか」
「それなら、さっき露天風呂で一緒した木村君が追ってくれているはずだ。なかなかに頼れる若者だよ。ひとまず彼に任せる事にしよう。――後で合流する手はずになってる。斑目君も一緒するだろう?」
「はあ」
 肯いた漆ににこりと笑みを残し、銀二は再び宿の中へと踏み入った。





 左右衛門は、ひとまず、宿内の地図を確認し、それに基づいて一通り辿ってみる事にした。
 宿は出入り口を中央にして、大きく分けて左右に伸びる。東館と西館といった造りだ。さらに、出入り口から入って中央ロビー、そこから真ん中に奥まった箇所に続く廊下があり、その奥には従業員用の私室があるらしい。二階部分はなく、全体的に平屋建ての、けれども見た目以上に面積のある広い宿だ。
 宿内は自由に歩き回る事が出来る。部屋数が桁外れに多くとられているのもさることながら、用意されている温泉の数も並の宿に比べれば格段に多い。
 しかし、どう考えても、外観から想像する規模を遥かに超えた広さをもっている。しかも、すれ違う従業員たちは皆、人間とは異なる気配を漂わせているのだ。中には左右衛門がふと放ってみた細い殺気に、尋常ではない反応を返してよこす者もいる。そういった連中の、その瞬間の目は、明らかに人のものではない。――野生の獣のそれに近い。
 さわさわと静かに揺らぐ空気を肌に感じながら、左右衛門は、東館の奥まった辺りらしい場所で歩みを止める。
 途中、すれ違ったのは、なにも従業員たちだけではない。むしろ湯治客がそのほとんどであり、しかし、湯治客として来ているらしい彼らはいずれもが、どこかがおかしい。
 子供たちだけで連れ立って湯治に来たのか、小学生程度の齢の少年少女が複数人集まり群れを作って左右衛門を通り越していく。彼らは左右衛門の見ている先、どうやら自分たちが宿泊しているらしい部屋の襖を開けて中にくぐって消える。部屋の中からは子供らの楽しげな声が洩れ聴こえ、その場にはどうやら面倒を見る大人は不在であるらしいことが知れた。
 また、あるいは、背広を着た壮年の男や、主婦らしい中年女性といった者ともすれ違ったりもした。が、彼らの大半はひどくぼんやりとしていて、試しに挨拶を声掛けしてみる左右衛門にもあまり気がついてはいないようだった。
 獣耳や獣の尾を生やした従業員も所々で見受けられ、そういった者たちを目にするたびに、左右衛門は頭のどこかでこの事態がいかなるものであるのかを理解したのだ。
 ――おそらくは、この宿は、人とは逸した者が治めている場所にあるのだ。
 ならばそれはやはり宿の女将、玉之梓が”そう”なのだろうか。
「会ってみねばなるまいな」
 呟き、きびすを返した、その時。
「そこなお前」
 呼ばれ、左右衛門は視線だけを声のした方に寄せた。むろん、呼ばれたのが自分であるという確証などない。が、しかし、今、板張りの廊下の上にいるのは左右衛門ただひとりだけ。
 視線を寄せたそこにいたのは一匹の大きな狼で、左右衛門は狼がいつからそこにいたのかを驚くよりも先に、その毛並の見事さに目を奪われた。
「女将に面会に行くつもりなのであろう?」
 光の加減では銀に映える黒い毛並をもった狼は、思慮深い意識を連想させる赤い眼光でまっすぐに左右衛門を見ている。
「左様、……貴殿もそれがしと目的を共にしておられるのか?」
「如何にも。お前はこの森に、あるいは宿に住まう多くの神獣の息吹を感じてはおるのか?」
「神獣?」
 訊ね返した左右衛門に肯いて、狼はふと首を横に向け、窓ガラスの向こうに目を放った。
「この森にはあらゆる獣たちが息衝いておる。興味深いことに、彼奴らの中には深い思慮と智慧とを持った種……即ち神獣の域にあるものもいるのだ」
「貴殿もそれであられるのか?」
「否とも言えるし、あるいは是とも言えるな」
 狼はそう応えてちろりと左右衛門を検め、そうして小さく笑んだ――ように思えた。
「しかして、ここに渦巻いておるのは決して慈愛の念ばかりではない。むしろあるのは憎悪に偏った思念ばかりよ」
「如何にも」
 肯いて、左右衛門は片手で顎に触れる。
 宿内では、彼は身に馴染んだ和服でいることが出来る。町中とは異なり、それはじつに心を落ち着かせるのだ。
 和装の襟元から片腕を抜き出して思案に耽る左右衛門に、狼はついと首を向けて、次いで会釈をするような仕草で頭を垂れた。
「私は白彌王(はやおう)と申す者。斯様な形(なり)で恐縮なのだが、女将のもとに参るのならば同行させていただこう」
「願ってもない」
 にこりと微笑み、左右衛門は会釈を返すようにして丁寧に腰を折り曲げる。
「それがしは木村左右衛門と申す。是非ともお供つかまつる、白彌王殿」





 さわさわと空気が揺れていた。
 迷泉楼の女将・梓は、灰桜の留袖から伸びる細くしなやかな腕を伸ばし、文机の上に立てていた写真たてに指を這わせる。
 まだ真新しい写真の中に映し出されているのは梓の娘、幼い奈保の笑顔だ。

 奈保を見つけ出すきっかけになったのは、実のところ、奈保の家系に憑いていた犬神であった。
 犬神は、彼女と共に実体化した神獣たちとは異なる種の存在にあたる。いわば呪いによる産物であるのだから。が、いずれにせよ、何らかの理由で長い歳月を眠りについていた犬神が、目覚め、そうして久方ぶりの主を奈保と定めたのだ。その折に放たれた息吹が、他ならぬ梓に感知されたのだった。
 犬神は神獣とは異なる。けれど、それを人里に置き留めることには深い抵抗を覚える。結果、梓は犬神を――その主である奈保ごと手元に連れ立ってくるしかなかったのだ。
 そう、言ってみれば、梓が奈保を連れてきたのは妥協によるところであったのだ。

 人間たちは、映画の内でも外でも、結果的には何ら変わらない。
 大いなる自然をまるで我が物であるかのように振る舞い、開発し、殺してゆく。文明という名のもとに土地は穢され、生命は絶やされて、獣たちはその住処を喪って智慧をも失い、末路には文字通りの獣と化して絶えていくのだ。
 人間はとてつもなく愚かだ。救い難い阿呆なのだ。
 ――――ならば、
 ならば人間たちの勢力を弱体化させ、その社会を無力化させてしまえば良い。人間たちの文明を蹂躙し、奪い、追いやってしまえば良いのだ。そう、自分たちがこれまでそうし続けてきたように。
 そうして代わりに神獣たちによる支配を布いて、喪い続けてきたものを少しずつでも取り戻してゆけばいい。
 自分には、自分たちにはそれを可能とするだけの力が備わっている。しかも、おあつらえむきにも、摩訶不思議な効能をもった温泉までもが共に出現してきてくれたのだ。これを活用しない手はないだろう。
 そして、梓は手始めに何ということのない人間たちを引き寄せて、自慢の湯に彼らを浸けたのだ。
 日頃のストレスを忘れてしまえるという効能をもった白濁湯。
 彼らはストレスと共に己が自身に関することすら忘れ、そのままこの宿の中に留まるのを選択した。
 その内に自ら足を運んできてくれたのが銀幕市の市長本人であったのは、梓にとり、願ってもない幸運と言って過言ではなかっただろう。
 この男を足がかりに、少しずつ侵食していけば良い。
 手ぐすねを引きつつ哂う梓を、けれど、奈保の純然とした笑顔で呼んだ。

 母と呼ばせたのは梓自身であったのだが、
 そも、それは妥協であったはずだ、
 しかし

 気付けば、そこにあったのは穢れのない、何にも侵されていない、人間の姿であったのだ。

 人間とは一体、果たして、

「ああ、奈保。……妾は」
 自分が何をしたいのかが解らぬ。
 
 



「うわ、ぶ」「あああっと、大丈夫か」
 勢いこんで駆けて来た子供が足にぶつかり転げたのを見て、銀二は慌てて両手を伸べた。
「ん? ベアトリクス君じゃあないか」
 転げた子供の顔を見て、銀二はわずかに驚き、すぐに笑みを浮かべて目を細ませる。
 ベアトリクスは見事にすっ転んで、やや涙目になりつつも、けれど後ろにいるであろう奈保の手前、涙をぐっとこらえて銀二を仰ぎ見た。
 銀二はといえば風呂上りであるにも関わらず常通りの白スーツに、灰色の髪はびしっとオールバックにまとめている。宿内であるからさすがに足に革靴は履いていないし、サングラスもかけてはいなかったが。
 いかにもヤクザといった風体の銀二を見れば、奈保も驚き泣き出してしまうかもしれない。だから余計に泣き出すわけにはいかないのだ。
「何をこのような場所に突っ立っておるか、痴れ者!」
 言いながら銀二の足をぽかりと叩き、振り向いて奈保の顔を検める。
 奈保は、眼前の巨躯な男と、その隣に居る忍装束の男が珍しいのか、ぽかんと口を開けたままでいた。
「いて、いてて、勘弁勘弁。ベアトリクス君、まさかひとりで来てたわけじゃあないよな」
「知らん! 余がちいと目を離した隙に皆どこぞへ消えてしもうたわ」
 腕組みをしてぷいと顔を背け、ベアトリクスはその視線を銀二の横に立っている漆へと向ける。
 忍装束の男は穏やかな笑みこそ浮かべているものの、けれどもどこか近寄りがたいような風でもある。
「待て、……そちはマダラメウルシじゃな? その装束に赤いマフラー、……狐面。うむ、余は聞いたことがある。そなた以前、余の父親と場を共にしたことがあったであろう」
「ん? 嬢ちゃん、俺を知っとるんやね。嬢ちゃんのおとんかあ……誰やろなあ」
 漆はのんびりとした口調でそう答え、次いでちらりと奈保に目をやってわずかに目を細くした。
「そっちの嬢ちゃんは? 嬢ちゃんの友達なん?」
「俺も初めて見る顔だな。友達になったのかい、ベアトリクス君」
「奈保はこの宿の女将の子供なのだ」
 ベアトリクスが応える。
 と、銀二と漆はふと視線を交え、
「へえ、ここの女将の娘さんか」
 ゆるゆると微笑む。
「ちょうどいい、君のお母さんに挨拶に行こうかと思ってたところなんだよ」
「奈保のおかあさんに?」
 うんと肯いた銀二の横手から、漆が静かに声を降らせる。
「俺もこの宿に泊まらせてもらう予定なんやけど、やっぱり、あれやろ。いっぺん挨拶しとくのが筋ってもんかと思ってな」
「おかあさん、おきゃくさんのお部屋に行って、ちゃあんとごあいさつしてるよ」
「うん、そうやろうけどな。結構お客の入りも多いみたいやし、それを一個一個回るんじゃしんどいやろ」
 だからこちらから訪ねて行くのだ。漆の、一見優しげなものに見える笑顔の下には、ごくわずかながらも苛立ちに似たものが隠されている。否、それが苛立ちなのか焦燥なのか、あるいはもっと別のものであるのかは、漆以外の誰にも知れるはずもないのだが。
「なるほど、なかなかに気の利く意見であるな。それならば余も共に行こうぞ。奈保の母に一言挨拶をせねばなるまいな」
 ベアトリクスが大きく肯く。
「そうなの? わかった。じゃあおかあさんのお部屋につれてったげるね」
 奈保は何を警戒するでもなく、無邪気に笑って首を傾げた。


 影に潜んでいる使鬼たちがさわりと揺らいだのを感じ取って、柘榴はふと視線を足下に落とした。
「どうしたの?」
 訊ね、視線を肩越しに後ろへと投げかける。
 後ろにはまっすぐに伸びる長い廊下があっただけだったはずだが、今、そこには一匹の大きな犬がいる。
 腹から前を壁からこちら側に突き出していて、腹から後ろは壁の向こう側にあるのか、未だ見えてはいない。つまりは壁を通り抜けているのだ。
 そうしている間にもすっかりと壁をすり抜けてその全容を顕わにしたその犬は、柘榴に目をよこし、何かを言いたげに鼻先を鳴らす。
 その眼はまるでガラス玉のようで、そこにあるのは何をも映さぬ空虚ばかりだった。
「あなたが”チャータ”ですのね」
 柘榴の声を耳にとめたのか、どこかへか去って行こうとしていたその犬がふと足を止める。
「やっぱり。……奈保さんが捜していらっしゃいましたよ。察するに、あなた、……奈保さんを守護するのがおつとめなのでしょう?」
 穏やかに目を細め、柘榴はじわりと歩みを進めた。
 チャータは、柘榴が動きを進めるにつれ、じりじりと引き下がる。警戒しているのだろう。柘榴はやんわりと笑った。
「脅かしはいたしません。ただ、あなたの毛並を少しだけ触らせていただきたく思っただけですよ」
 言いながら細い腕を伸ばす。
 と、チャータが警戒の色を色濃いものへと染めて牙を剥き、柘榴をめがけて飛び掛った。が、その牙や爪が柘榴の皮膚を裂くよりも早く、柘榴の影より跳ね跳んだのは白い兎だった。
 兎は長く鋭い耳で、自分よりもはるかに大きな体をもつ犬の牙を受け、爪を流し、そうしてその巨躯を跳ね飛ばしたのだ。
 けれど、柘榴は兎の背に指を伸ばしてひっそりと微笑む。
「大丈夫ですよ、安底羅。その子は私が先ほど出会った可愛らしい女の子のお友達なのです。私がむやみに触れようとしたから警戒しただけで、決して害悪をもったわけではないのですから」
 諭すような口ぶりでそう告げると、安底羅は不承不承、最後にチャータをねめつけて、そうして再び柘榴の影に戻っていった。
 チャータは小さく唸りながら柘榴の影を睨みつけている。
「ごめんなさいね、チャータさん。……ほら、奈保さんがこちらにいらっしゃるようですわ。……まあ、それに、この気配。銀二さんも一緒のようですね」
 言って、柘榴は振り向いた。
 視線の先、廊下の向こう側からこちらに向かい歩いて来る数人の人影が見えた。





「不躾な訪問、何卒ご容赦願いたい」
 宿の女将である梓を訪ねた左右衛門は、白彌王と共に深々と腰を折り曲げた。
 従業員に訊ねてみたところ、梓はちょうど休憩に入っており、自室に戻っているところだという。さすがに休憩中を訪ねるのもどうかと躊躇われたのだが、しかし、おそらく行動は早めにしたほうが良いだろう。それはふたりの一致した意見でもあったのだ。
 梓は訪ねてきたふたりを訝しく思うでもなく、むしろ彼らがこうして訪ねてくるであろうことを事前に知っていたかのように、静かにかぶりを振った。
「いいえ、構いません。それよりも、わたくしが皆様のもとに伺うべきでありましたのに、わざわざご足労をおかけいたしましたこと、お詫びいたします」
 左右衛門と白彌王とを部屋に招きいれた梓は、そう言って、慇懃な所作で頭をさげた。
 いや、とそれを制したのは白彌王。
「斯様な身での非礼、お詫びいたす」
「いえ、当宿では如何なお客様をも歓迎いたしておりまゆえ」
 艶然とした笑みを浮かべる梓に、白彌王は「すまぬ」と再び一礼し、その後にふと口を開ける。
「失礼ついでにお訊ねするが、私が斯様な身で言語を繰ることに関し、何ら違和感なく接してくださるのだな」
 ひたりと告げたその言葉に、梓の笑顔が束の間強張ったように見えた。
「ご存知の通り、当宿は銀幕市の敷地内にあるものですゆえ、それは様々なお客様がおいでになられますから」
「なるほど、それは然り。――ところで、女将。ひとつ訊ねたいのだが」
 続いて左右衛門が口を開ける。
「こちらに、銀幕市の市長殿が――」「おかあさぁん!」
 ノックをするでもなく飛び込んできた奈保が、梓の腕の中めがけて飛び込んでゆく。
 次いで部屋の中を覗きこんできたのは銀二と柘榴、それに漆とベアトリクスの面々だ。
「奈保、お客様の前ですよ」
 奈保を受け止めながらも、梓は毅然とした態度で奈保を叱る。
「これ、ここを通すのだ」
 漆と銀二、それに柘榴までもが加わり、その上でさらに左右衛門と白彌王という先客までもがいた。その間をすり抜けるのは、小さなベアトリクスにとってはいささか難しい。
 大人たちを押しのけながら進み入ってきたベアトリクスは、奈保と梓の前に立ち、威を誇るようにして胸を張った。
「余はベアトリクス・ルヴェンガルドである。そこな女将、そちは余の連れを知らなんだか」
「お連れ様、でございますか」
 白く細い首を傾げる梓に、ベアトリクスはさらに言葉を続ける。
「髪を茶色に染めた、はたちの女だ。急に消えたのだ。この者たちと共に宿のあちこちを見てまわったのだが、どうにも見つけられん。女将ならば何か知ってはおらぬかと思ってな」
「急に消えたという話なら、ベアトリクス君の連れだけに限らずに多数寄せられている話だな。さっそくで悪いんだが、女将。――何か知ってはいないか?」
 ベアトリクスの後ろに立った銀二が梓をまっすぐに捉えている。
 否、梓を見据えているのは銀二だけではない。その場にいるすべての者たちの視線が梓に注がれているのだ。
 梓はゆっくりと周りを見渡した後に頬を緩め、切れ長のすらりとした目を笑みの形に細める。
「いいえ、何も」
「それとはまるっと関係のない質問なんやけど」
 間を置かずに漆が手を挙げた。
「女将さんと、そこの嬢ちゃん。ほんまに血の繋がった母子なんかな?」
「斑目君」
 銀二が漆の言を遮ろうとする。が、漆は構わずにさらりと言い放ち、肩をすくめるような仕草をみせた。
 梓の腕の中で、奈保はどこか不安げに目をきょろきょろとさせる。ベアトリクスが奈保の傍に踏み寄った。
「のう、奈保。余と外で遊ばぬか? 大人の話はつまらん。余のフェンリルと、そちのチャータとやらと、あ、遊んでやらんでもないぞ」
 言いながら頬をほんのりと染めるベアトリクスに、奈保の目がきらきらと輝く。
 さらに、それを後押しするように、梓が奈保の背を軽く押しやる。
「遊んでおいでなさい。わたくしも後で参りますからね」
 母のその言葉を受けて大きく肯くと、奈保はベアトリクスと連れ立って梓の部屋を後にした。そうして廊下に出て、そこにチャータの姿を見つけたのか、歓喜の声をあげてばたばたと廊下を走っていく。
 梓は奈保の足音が遠のくのを確かめるようにして目を伏せ、それから頬に浮かべていた笑みをじわりと色濃いものとした。
「わたくしが”何も存ぜぬ”と申したところで、皆様方はおそらく納得なぞしてはくださらぬのでございましょう?」
「……それでは、やはり、何かをご存知なのですね」
 柘榴が問う。
 白彌王は柘榴の言葉を継げるようにして鼻面を持ち上げ、射るような眼光で梓を見据えた。
「この森には神獣の気配が多く感じられる。宿内のそこここにおいてもそれを感じられるのだが、これを統括しておるのもお前か」
「あなた様は神獣なぞ足下にも及ばぬ、人智を超えた御方でいらっしゃいますね」
 梓は白彌王の視線をまっすぐに受け止めてそう返し、ふと小さな息を吐き出してから視線を障子窓へと寄せる。
 窓の向こうからは奈保とベアトリクスの楽しげな笑い声が聴こえ、反して、部屋の中には深い沈黙が落ちていた。
 その、長く続くかと思われた沈黙を破ったのは銀二だった。銀二は重い空気に耐えかねたのか、不精気味に頭を掻きむしった後に口を開ける。
「――で、だ。俺はこんなんだから、質問なんかもしごく直球なものになっちまうんだが、それは勘弁してくれ。不躾になんだが、あんたがもしも本当にまちの連中を隠しちまってるってんなら、その理由だよな。それを教えてもらっちゃくれないかな。目的なんかも、もしもあるんなら、だが」
 訊ねる銀二の目は、笑みを浮かべている口許とはうらはらに、辛辣そのものといった風だ。
 梓は銀二の声に耳を寄せつつも、薄い陽を透く障子に両手をかけて横に開く。
 窓の向こうに、すぐに深い森が広がっていた。庭、と称するには、それはやはり相応しからぬものであるように思える。
 頭を垂れてこちらを覗き込んでいるかのような樹木たち、その樹木の葉を借りて窓を叩く風の音が部屋を満たす。
「目的、で、ございますか」
 背を向けつつ、梓は静かに笑った。そうして肩越しにちらりと振り向いて、すうと伸びた目で眼前の客人たちを捉える。「わたくしに、皆様方に御満足いただける答が申せますかどうか」
「市長殿はこちらにご滞在であられるのか」
 左右衛門が問う。
 が、女将はじわりと口許を緩めるばかり。白彌王が赤い眼光で窓の外を検め一声吼え上げたのは、その次の瞬間だった。

 窓を鳴らしていた風が、あたかも小刀のように化した葉を巻き上げてガラスを烈しく叩き出したのだ。そうして、
 割れてもいないはずの窓がごうと吹く風を招き入れ、瞬時にして、風景が、人知れぬ深山の、人足の踏み入った気配など微塵にも窺えぬような轟々とした緑の色彩の底へと叩き落された。
 遥かな樹齢を数えているであろう巨木を背に、梓が艶然と微笑んでいる。巨木のひとつの影から顔を覗かせたベアトリクスが不思議そうに目をしばたかせていた。
「――まあ」
 柘榴がのんきな声で呟き、視線だけを周囲に走らせる。そこには、つい今しがたまで柘榴たちが立っていたはずの温泉宿ではなく、巨木と背の高い草花といった原生の森が広がっているばかりだ。
「幻覚なんかやなさげやな」
 漆が落とす。
「囲まれておる」
 続けたのは白彌王。果たして、白彌王のその言葉通り、あるいはその言を合図としたかのように、森がもう一度、轟と鳴った。そうしてそれが止むのと同時に、玉乃梓はその姿態をひとのそれから別のそれへと変容していたのだった。
 ベアトリクスの後ろから顔を覗かせた奈保が、おかあさん、と呼んでいた。





 森は怨嗟をうたっているのだ。
 人間たちの身勝手ゆえに一方的に食われてゆく彼らの、あるいはそこに住まう者たちの、否応なく削られ侵されて消えて往かねばならなかった数知れぬ生命たちの遺した声をうたっているのだ。
 轟々と鳴り続けるそれに身を強張らせる奈保の身をチャータが護るように抱き包む。その奈保がおかあさんと呼ぶ梓は、灰桜の着物をまとった、人型の狐だ。艶やかだった黒髪は月光を映したような白銀に色を変え、ふさふさと生える九尾もまた白銀に閃いている。
「妾が人間共をさらう理由を知りたいと申されたかえ」
 紅をひいたように赤い唇が笑みを滲ませる。その梓の周りを、ぽつり、ふつりと、ぼうやりと光る狐火が取り囲んだ。
 どこか、遠くとも近くともとれるような場所から複数人の叫び声が聴こえたように思えたのは、その狐火が七つを数えた頃。弾かれたように振り向いたのは左右衛門と銀二と同時であった。
 梓を囲むようにしているのは青白くちろちろと光る狐火だけではない。白彌王の言が示した通り、彼らは鹿や猩々、大猪、あるいは山猫や狼といった獣たちがそこら中にいるのだ。
「……宿の従業員たちか」
 左右衛門がかすかに舌打つ。
 そこにあるのは、左右衛門が宿を歩き回っていた際にすれ違った従業員たちの視線とまるで同じものばかり。違うのは、今、眼前にある彼らの視線は、明らかに敵意に満ちているという点だろう。左右衛門は常に携えている竹刀袋に指をかけた。中には彼が使う刀がしまわれてある。
 チャータに庇われた奈保は、周囲を埋める獣たちに対する怯えなどまるで見せずにいる。けれども先ほどから賢明に母親を呼んでいるのは、たぶん、漂う空気の尋常でないのを幼いながらに察したからなのだろう。
「奈保、余とここにおるのだ!」
 ベアトリクスが奈保の手を引こうとしたが、奈保はそれを振り切って駆け出し、そうしてぱたりと漆の手にぶつかった。奈保から離れた位置にいたはずの漆は、いつの間にか奈保のすぐ傍にまで来ていたのだ。
「あかんあかん、嬢ちゃん。あないなバケモンのとこに行ったらあかんよ」
 そう言う漆の表情は、穏やかに笑みを浮かべてこそいるが、しかし奈保はそれを仰ぎ見て表情を強張らせる。
「漆さん、奈保さんをこちらへ」
 割って入ったのは柘榴だ。柘榴は身を強張らせたままでいる奈保に笑みを見せ、「チャータさんと一緒に、こちらへおいでなさい」と口にした。
「この犬もこいつらの仲間なんかな。バケモンやな、ほんま。なあ、嬢ちゃん、見てみい、あんたがおかあさんって呼んどる女。よう見てみい。あんなん、おかあさんちゃうで。ただのバケモンや」
「漆さん」
 柘榴がやんわりと遮ろうとするが、漆は穏やかな笑みのまま、凍りついたように佇んでいる奈保に視線を向ける。
「ええか、よう聞いとき。犬も女将も生き物やないから。あの宿のぜんぶ、ぜんぶがバケモンやったんや」
「いい加減にせぬか、この痴れ者めが!」
 ぽかりと漆の足を殴りにかかったベアトリクスが、泣き出しそうな奈保をぎゅっと抱き締めて漆をねめつけた。
「余の友達をいたぶる輩、たとえそちでも許さぬのだ」
「友達? ともだち、なあ」
 漆はベアトリクスの言葉に低い笑みを洩らし、引き攣れたように喉を鳴らしながら奈保を離れる。
「テレビなんやと一緒や。見てるときは楽しいかしらんけど、電源が切れればそれで終いや。その犬も、女将も、俺らもな」
 そう続けて巨木のひとつに背を預け、狐面を再び顔につけて、漆はそれきり口を閉ざした。
 ベアトリクスは奈保を庇いつつ漆をねめつけ、そうして視線を梓へと向ける。梓はベアトリクスたちに対して背を向ける格好となっており、その表情は窺い知れない。
 
 梓は奈保の気配を背に受け止めながら、心の底だけで固く唇を噛んでいた。けれど、それは表には出さぬよう、懸命にそう努めながらゆるゆると頬を緩める。
「そなたらには解るまい。妾が、――同胞(はらから)たちが味わい続けてきた辛酸を、それが如何なるものであったのか。一方的に弱者と断じられて侵食され、利用され、削られてゆく、我らの思いなぞ、解るまいの」
「辛酸」
 銀二が眉をしかめる。
「そなたら人間共がどれほどに無邪気に、あるいは無為に、己が便利と欲を満たすためだけに我らを食い物にし続けてきたのか、そなたらは解るまいな。どれほどの眷属が、その影でひっそりと喪われていったのかを、そなたらは知るまいの」
 梓が凛と告げるその声に共鳴するかのように森が大きく鳴り出した。遠く近く響く叫び声は次第にその数を増やし始め、それに堪えきれなくなったのか、左右衛門が刀を抜き出し、それを横一文字に薙ぎ払った。ひょうっという鋭い風が森を裂き、辺りの緑が音もなく斬り払われる。
 幾分かクリアになった風景の向こう、遠くに、迷泉楼のあるのが見えた。そこに神獣たちが出入りしているのが見え、右往左往する人間たちの姿が見える。
「……人間を喰らっておるのか」
 振り向き様、左右衛門は怒気を含めた声で問い掛けた。が、梓は怯むこともなく首を傾げる。
「人間なぞ喰ろうて何になろう。むざむざ我が身を穢すような愚行、するのは人間どもばかりぞ」
 くつくつと笑う梓に眉をしかめながら、弾かれたように駆け出そうとした左右衛門のその足を、「木村君」銀二の声が引きとめる。
「もしもそうしようとしていたなら、湯治客たちはもうとっくに皆喰われているだろうさ。腑抜けになった連中を殺して喰らうのには、何ら労力も要さないんだからな」
「人間の穢れを取り込んで自分たちも穢れてしまうのがお嫌なのでしょう」
 柘榴が続ける。
「確かに、私たち人間は、無意識の内に、多くの穢れを積み重ねてしまう生き物ですもの」
 森に住まい息衝き続けてきた彼らには、おそらく、穢れなど微塵たりともないのだろう。きちんと統制のとれた連鎖を続け、そうして命を継げてきたのだ。
「人間があなた方が大切に続けてきたもの全てを壊そうとしている、と。……そう仰りたいのですね」
 訊ねた柘榴に梓は小さく目を細める。
「妾たちはこれまで多くの辛抱を重ねてきたのじゃ。今、それが逆転したところで、如何なる問題もないであろ。妾の同胞たちがこの世を治めるのじゃ。森を広げ、神獣や精霊、獣や――そういったものたちが社会を支配する。何ら問題なぞないはずだえ」
「左様。お前の言い分、私は解らぬでもない」
 間を置かずに静かな声音で返した白彌王が、小さなため息のようなものをひとつ漏らす。
 梓の目が白彌王へと寄せられ、それにつられる形で周囲を囲む神獣たちの視線もまた白彌王へと注がれた。白彌王は自分に集まる幾多もの視線をよそに、まっすぐに梓を見据えてさらに口を開けた。
「人間とは、実に雑多で、あまりにも稚い。己が自身の手で己が首をじわじわと締め付けていくような愚行を、人間はどれだけの時を経ても一向に止めぬ」
 言いながら、白彌王は梓に向けていた視線をすっとずらして奈保を捉える。
「戦いは一向に止まぬ。互いの優劣を競うことで己が位置を確約しようと懸命になるあまりに、残されていくものたちのことなぞ顧みようともせぬ。残されたものは己が不遇を呪うばかり。過去に縛られて傷を慰めるばかり。痛みに驚き立ち止まっては自ら歩もうとする意地も誇りも見失ってしまう」
「そうであればこそ、我らが手綱を握り、軌道を導いてやるのじゃ。我らが策は、ひいては彼奴らにとり救済ともなろう。慈悲なのじゃ」
 狐火が心持ち勢いを増した。
 ベアトリクスはきゅっと唇を噛んだまま、背しか見えぬ梓をねめつけていた。
 奈保はベアトリクスとチャータに庇われたまま、それでも梓のもとへ行くのを望んでいる。
「んん〜。まあ、あんたの望み? そんなもんとかは、まあ、解ったような気がするよ。それはそうとして、だ。女将。あんた、その娘さんの実母ってわけじゃあないんだよな」
 面倒くさげに頭を掻きながら訊ねた銀二に、梓は小さく肩を震わせた。
「姿形が女なだけや。ややこを孕むことすら出来ん、所詮はただの贋物にすぎんバケモンなんやから、嬢ちゃんの実母なわけあらへんがな」
 喉を鳴らし、漆が口を挟む。銀二は漆の言葉には口を閉ざしたまま、ただちらりと一瞥を向けた。
「見れば、他の客とは扱いが異なるようだ。手元で育てて、随分と懐かせてもいるようだが――それはあんたの愛情ゆえかい、それとも」
 打算なのか。
 何がしかの裏があって、それゆえに奈保を引き取り育てているというのならば、
「もしもそうだとしたら、ここから離さねばなりませんね」
 柘榴が銀二の言を継いで眉をしかめる。そうして奈保に向き直って膝を折り、奈保の目を覗きこむ格好をとってゆっくりと言葉を紡いだ。
「奈保さん、……先ほどあの方が仰られたことは、残念ながら、真実です。どれほどに大切な、愛しい相手であっても、何時か必ず別れなければならない時は来るものなのですよ」
「……!」
 奈保を抱き寄せているベアトリクスの肩が震えた。――否、あるいはそれは奈保とベアトリクスと、ふたりが同時に震えたものであったのかもしれない。
 柘榴はふたりの肩に手を置いて、言い聞かせるような口調で言を続けた。
「その上で、貴女にお聞きします。貴女はここにいるのを望みますか? あの、あちらの御方と共に」
 言って、柘榴は梓に目を向ける。
 梓は、いつのまにかこちらを振り向き、物言いたげな目で奈保を見ていた。
「けれども、望めば必ずそこには代価が必要になってくるものでもあります。……例えば、それは、過去との決別であるのかもしれません」
「おかあさん!」
 柘榴の声を聞くより前に、奈保はついにベアトリクスの腕を離れて梓のもとへ走り寄って行く。
「……のう、女将よ」
 白彌王の静かな声が森に降る。
「人間を、憎むなとは言わぬ。しかし、降れとも言わぬ。だが、虚しい憎悪の応酬が、お前たちに一体何を残すというのだ」
 奈保が梓の腕をめがけて飛び込んだ。梓は反射的にそれを抱きとめていた。
 左右衛門は、奈保からいくぶん離れた距離に座るチャータを見やって首をかしげ、抜刀したままでいた刀を鞘に戻して竹刀袋の中におさめる。
「――要らぬ危惧をしてしまったようだ」
 言って銀二を見れば、銀二もまた左右衛門を見て首をすくめていた。
「解放してやってくれるな、女将」
 白彌王が問う。
 梓は、それに応えることもなかったが、しかし、その顔は一介の母のそれと変じていた。
「しかし、宿を囲う獣たちはどうする。早いところ手を打たないことには、少なからずの血は流れるだろう」
 銀二が口を開け、左右衛門とふたり地を蹴りだそうとした矢先。
 白彌王が高く咆哮した。
 それはただ一声だけであったが、おそらくはそれで充分であったのだろう。
 森中が、白彌王の一声の前に平伏したように思えた。無論、獣や神獣たちまでも。
 びりびりと緊迫する空気に耳鳴りを覚えたのか、ベアトリクスが不快を顕わに顔をしかめる。けれど、その顔にはどこか安堵したような色も滲んでいた。





「そういえば、私、まだこちらの温泉に浸かっておりませんでした」
 柘榴が、ふと思いついたようにそう言ったので、銀二ははたりと足を止めて振り向いた。
「入ってくればいいじゃないか、柘榴君。なかなか良い湯だったよ」
「そうですわね。――混浴なんていうものも、こちらでしたらあるでしょうし」
「混浴希望なのかい」
「せっかくですもの。温泉に浸かりながらの一献なんていうものも、なかなかに素晴らしいものでしょう? それに」
 言って、柘榴は横手に続くガラス窓の向こうに目を向ける。
 ガラス窓の向こう、日の暮れた夜の中に、降りだした雪がちらちらと揺らめいていた。
「雪見酒というものもおつなものでござろうな」
 左右衛門がふたりの後ろで暢気に笑う。
「ご一緒にいかがですか?」
 振り向き、にこりと微笑んだ柘榴に、左右衛門もまた穏やかな笑みを返して肯いた。
「是非に。斯様な美女と盃を共に出来ようとは、恭悦至極に存じる」
「……呪われないようにな、木村君」
「まあ、銀二さんったら、楽しい御方。ふふ」
 細い首を傾げて目を細ませた柘榴を一瞥し、銀二はいそいそと逃げるようにその場を去って行った。

 雪が降れば、かまくらというものを造り、その中で餅を焼いて食すことが出来るのだという。
 ベアトリクスは梓の部屋に呼ばれ、奈保とチャータと三人で火鉢を囲み、干し餅の焼けてゆくのをじっと見ていた。
 チャータは、今は奈保の膝に乗れるほどの大きさになっている。そこで奈保に撫でられて、気持ち良さそうに眠っていた。
 上目に視線を持ち上げて奈保と梓とを見てみれば、ふたりはとても睦まじい親子であり、見ているベアトリクスの心までもがほっこりと暖かくなるような気がした。
「ところで、ベアトリクス様。あなた様のお連れ様のことなのですけれども」
 不意に梓がそう口を開けたのに驚いて、ベアトリクスは「へ?」と声を裏返し、慌てて声の調子を整える。
「よ、余の連れか。そうなのだ、髪を茶色に染めた、はたちの女なのだが」
「ええ。その御方でしたら先ほど市の病院に搬送されておいでです。何でも、お友達がお作りになられた洋菓子をお召し上がりになられた直後、痙攣を起こして昏倒されてしまったとのことで」
「な、なに〜!? 余に黙ってひとりだけで菓子を食うからなのだ!」
「もう落ち着かれたとの報告を受けてございますよ。――さ、もう焼けたようでございます。召し上がってくださいまし」
 にこりと微笑む梓は、今はもうどこから見ても一介のヒトにしか思えない。子を愛しむ母親としての顔が、そこにある。
 ベアトリクスはふと口をつぐみ、森の中で目にした梓の姿を思い出した。おそらく狐に縁故する者なのだろうと言ったのは柘榴だった。確かに、あの尾や狐火を見るに、それは違いないことだろう。
 ――自分の意識の外でひっそりと喪われていくものがあるのだということを、これまではあまり認識していなかったような気がする。
「……余も、良い王になるためには、細かな部分にまで目を向けねばならぬということだな」
 自分に言い聞かせるようにして呟くと、それを受けて梓が目を緩めて肯いた。奈保はベアトリクスの言うことが理解できなかったのか、あるいは聞き取れずにいたのか。ぼうっとした顔で首をかしげた。
 ふたりの視線を受けて、ベアトリクスは頬を赤く染めて目を泳がせる。
「た、食べごろに焼けたのは余が食すのだ。余が自ら味を見てやるというのだ、感謝するがよい」
 少しばかり声をうわずらせて告げる。奈保の膝の上、チャータがのんびりと欠伸をした。



 ――それならば、もうしばしだけ猶予を与えてしんぜよう

 狐の本性を示した梓がその目的を折った理由の真相は、梓本人にしか知れないことだ。
 同じように、誰しも皆、自分の心の真は己自身にすら知れぬ、触れられぬ部分であるはずだ。
 漆は降りだした雪を仰ぎ見る格好で森の中に佇んでいた。
 どこへ向かえば良いのか、どうすれば良いのか。何をしたいのか、何が欲しいのか。”確かめたい”それは果たして真なのだろうか。
 森がざあざあと静かに夜をうたう。
 身体はとうに冷えきっていて、かぶったままの面には薄く雪が積もっている。
”嬢ちゃん、ええか、あんたが女将を母やと慕うたび、死んでもうたほんまの母親はこの世から磨り減っていくんやで”
 別れ際、奈保にそう囁いてみた。揺さぶってやろうと思ってみたわけではない。虚構を慕う、その反面で削られて消えてゆく真があるのを報せたかったのだ。
 あるいは、そうすることで、同じような虚ろな心を作り出したかったのかもしれない。今の己を自分自身で肯定出来るようにするために。
 けれど、奈保はきょとんとした顔で漆を仰いでかぶりを振ったのだ。
”ママはいなくならないよ。ママもパパも、ずっとずっと覚えてるもん”
 答えた奈保は漆を仰いで、そうして首をかしげてにこりと笑ったのだった。
”おにいちゃんも、きっとだいじょうぶだよ”
「斑目漆、とか言ったか」
 湿った葉をがさりと踏んで歩み寄って来た白彌王に気がついて、漆は面をつけた顔を下におろす。
 夜の闇の中にあっても鮮明な光を放つ白彌王は、たたずまいひとつだけで、その風格を必然的に体感できる。
 漆は白彌王の声に応えず、面の下、拒絶の色を滲ませた眼光でまっすぐに見据えた。
「世界は如何なる命をも受け入れている。紛い物であろうと、なかろうと」
 白彌王は独白のように言葉を落とす。その声に耳を傾けるように、夜をうたっていた森がひたりと動きを凪いだ。
「虚しいだけの者なぞ、この世にはただのひとりすらおらぬよ。漆も、奈保も、梓も、皆が”そこにある”意味を持っているがゆえに存在する」
「……意味やて」
 落とした漆の言にはわずかながら怒気めいた色が含まれていた。が、白彌王はそれを気にとめるでもなしに首を縦に振る。
「いずれそれも見えてくるのであろう。――足掻くのは自由だ、どれほどにでも足掻けば良い」
 言って、白彌王はそのまま森の土を蹴り上げる。
 漆はそれを追って数歩ばかりを進んだが、ほどなく自らそれを止め、間近の巨樹を拳で殴りつけた。
 白彌王がすっかりその気配を消してしまうと、森は再び夜をうたいだす。
 雪が漆黒をちらちらとかすめていた。 

クリエイターコメントこのたびはお届けが大幅に遅れてしまいましたこと、何よりも先ず謝罪いたします。
遅延の理由を言い訳するつもりは毛頭ございません。ひとえにわたしの不届きのいたす結果であります。
大変に申し訳ありませんでした。

気がつけば年も新たに、皆様には年越しを迷泉楼でお迎えいただく結果となってしまいました。
温泉場面が少なく、ほのぼのというわけでもなく、どちらかといえば多少暗い色のあるノベルとなってしまったように思いますが、出来るだけ楽しんでいただけるようにと書かせていただきました。

それでは、ご参加、まことにありがとうございました。お楽しみいただけていれば、せめても幸いです。
公開日時2008-01-01(火) 01:00
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