★ 頭の悪い案山子 ★
<オープニング>

 夜に紛れるようにして現れたその男は、見事なまでに全身黒尽くめだった。髪色も眼鏡の奥の細い目も黒なら、身に着けているあらゆる物が黒。違和感なく夜を纏ったその男は、細い目をなお細めるようにして笑うとにこりと笑いかけてきた。
「あのー、ちょっとお願いがあるんですけど」
 聞いてもらえますかねー? と語尾を伸ばした男は、不審げに向けられる視線にもめげた風はなく、知り合いに話しかけるような気安さで続ける。
「あなたが依頼の仲介をしてくださる、と聞きました。それなら是非、僕の行く手を妨害してもらえませんかー?」


 いきなり現れて素っ頓狂なことを言い出した黒尽くめの男は、聞こえてましたー? と呑気に確認してくる。
 彼のところに来る客は、大体がワケアリだ。だから物騒な依頼もたまにはあるが、自分の行く手を妨害とはどういうことかと眉を顰めた。
「……あんたの行く手を妨害、て聞こえたようやが?」
 どれだけ馬鹿げたことを言っているかとわざわざ繰り返したのに、黒尽くめの男はそう言いましたねぇとのんびりと頷く。
 竹川導次は検分するように一つきりの目を細め、まるで隙だらけといった体でそこにいる男を改めて眺めた。
 今ここで銃を抜いたなら、即座に撃ち抜ける気はしないでもない。けれど黒い以外にさしたる特徴を持ち合わせなさそうな男は、その実、開いているかもよく分からない目で彼の動きを確実に捉えていると分かる。
 嫌な相手だと心中で密かに評価した導次は、とりあえず男の発した言葉の意図が気になって水を向けた。
「わざわざ自分の妨害せえて面倒臭い依頼せんでも、あんたがするんをやめたらええだけの話とちゃうんか」
「それができたら、そうしてるんですけどねぇ。何かこう、成り行きで。ついて行かざるを得ない流れに」
 迷惑な話ですよねぇと頭を振った男は、その口調とは裏腹に導次が懐に手を入れるのを冷めた目で眺めてくる。
 緩やかな殺気、とでも呼ぶべきだろうか。咄嗟に反応してしまうほど明確ではないが、導次が武器の類を取り出すまでもなく手に触れた瞬間、それは彼を害する意思として発動するだろう。そんなことを考えながら煙管を取り出すと、それを確認した男は何事もなかったかのようにふっと口許を緩めた。
「あなたに頼めば、どんな無茶も聞いてくれるんですよねー?」
「いつからそんな話に、」
「受けて。くれる。ん、ですよねー?」
 強い口調ながら不快を与えないぎりぎりのところを保ち、有無を言わせぬ強さで遮った男に導次は心中で舌打ちする。
 この手の人間は、得てしてしつこい。話を聞くどころか、その依頼を聞くまで付き纏ってくるのは想像に難くない。
 面倒臭い手合いに捕まったもんだと内心頭を抱えたが、誰かを害せという依頼でないならば聞くだけは聞いてやるべきかもしれない。それに、と闇に紛れそうな男を隻眼で見据える。
(暴走したほうが手に負えんやろ……)
 その前に自分を止めろという依頼ならば、聞いておくに越したことはない気もする。
「まぁ、頼ってきたもんを追い返すんも野暮な話やろ。とりあえず話くらい聞かせてもらおか。……兄さん、あんたの真実、話してみぃ」
 ふーっと紫煙を吐き出しながら促すと、男は息を吐くようにして笑った。そうしてくつくつと喉の奥で笑いつつ、眼鏡を押し上げた。
「僕の真実、ですか。いいですよぉ、どうせ主観でしか物を言えないんですから。語りましょう、僕の真実を」
 左手はポケットに入れたまま、右手を胸に当てると大仰に一礼した男は道化た仕種で語り出した。
「僕には同僚が二人いまして。その片方がまた悲しいことに、馬鹿な動物なんですよ。猫ですよ、猫。にゃーにゃー鳴くしか能がない猫。ねー、その時点で最悪でしょう?」
 可哀想ですよね僕ってと愚痴るくせに、どうでもよさそうに頭を振った男は導次の意見を求めたわけではなさそうで、どこか遠い目をして薄っすらと笑った。
「だからね、僕はあの同僚が嫌いなんですよー。できたら殺して埋めて記憶を抹消して、最初からなかったことにしたいくらいに、ね。でもそうすると、僕の上司は怒るんですよねぇ」
 別にあんな動物如き、いらないと思いません? と語尾を上げる割に相変わらず答えを聞く気はないらしい。
 否、多分にその黒尽くめの男は、目の前にいる導次はおろか、語っている自分にも興味がないようにも見える。妨害とはつまり男の人生そのものを妨害しろ、ということだろうか。
(まさか、自殺志願者やないやろな)
 そんな生温い自殺に手を貸すのは勘弁してほしいものだと溜め息を噛み殺していると、察したように視線を巡らせてきた男は導次を見て笑みを深めた。
「僕は自分を殺すくらいなら、相手を殺しますよぉ。そんな、自殺してやるようなお人好しに見えます?」
 僕が? と揶揄するように語尾を上げた男は、だからあの馬鹿猫こそ殺したいんですけどねぇと物騒なことを呟きながらまた視線を外した。
「上司の側にいなくちゃいけないのに、その上司に怒られるのは嬉しい事態じゃないでしょう? だから頑張って我慢してたんですけど、こっちに出て来て逃げるチャンスができちゃったんですよねぇ。で、試みたら逃げられちゃった、と」
 やれやれですよねとどこか他人事に肩を竦めた男は、その張りつけた笑顔の下で何を思っているのか窺い知れない。ただへらりとした笑顔を剥がさないまま、右手で軽く眼鏡を押し上げた。
「逃げたからには、戻る気なんてないんですよねぇ。そもそも、戻る気があるなら逃げてませんよ。それをあの馬鹿猫が、馬鹿な理屈で馬鹿な真似をして、僕のことを見つけ出しやがったんですよねぇ」
 本気で傍迷惑な馬鹿ですよと、初めてに近く感情を乗せてうっそりと笑った男の声は寒気がするほど低い。長く極道の世界で生きている導次さえ、ちらりと嫌そうに眉を寄せるほど。
 けれど男はすぐに声からその寒気を消し、何かを思い出すように空を仰いだ。
「まぁ、見つかった程度で帰る気なんてさらっさらないんですけどぉ。あの馬鹿猫、上司から大事な預かり物をしてるせいで、西の魔女に付け狙われてるんですよねぇ」
 相変わらずどうでもよさそうに呟いた男は、右手で頭をかいて初めて困ったような顔をした。
「どうせ逃げてるんですから、あの馬鹿猫だけならいっそ僕が始末してやってもいいくらいですけど。上司の預かり物を奪われたり壊されたりされると、僕も困るんですよねぇ」
 困ったことにと特段ふざけた様子もなく肩を竦めた男は、溜め息をつきながら頭を振った。
「だから、あの馬鹿猫ではなく上司からの預かり物は、守ってやらなくちゃいけなくて。さっきカフェで襲撃を受けた時に、僕の代わりに護衛してくれるよう、お願いしたんですけどねぇ」
 僕は逃げてる最中なんですよねぇと、幾らか恨めしそうに男が続けた。
「でもあの馬鹿猫、本気で馬鹿なのでにゃーにゃー鳴くだけなんですよ。普通の人は通じませんし、護衛を頼んだ以上はせめて通訳しないと、でしょうー?」
 面倒臭いのも嫌いなんですけど、と嫌そうに吐き捨てた男は、がりがりと頭を掻き毟って導次に縋るような目を向けてきた──のだと思う、細すぎて分かり辛いが──。
「ある程度は、まぁ、僕が逃げたのも原因ですし。付き合うのも仕方ないと思うんですけど。帰りたくないんですよねぇ、切実に。心から。意地でも」
 誰が上司の元になんて戻りたいものかと複雑そうに小声で呟いた男は、すぐに気を取り直したように笑みを張りつけた。
「だから、僕の行く手を妨害してくださいよー。僕が、帰らずにすむように」
「あんたが帰らへんのはともかく、その依頼やとその……、猫か? それに護衛頼んだ言う連中も、目的地に着けへんのとちゃうか」
 それは問題なんちゃうんかと導次が尋ねたそれに、男はひらひらと右手を揺らして笑った。
「いいんですよー、そんなこと。要はあの馬鹿猫が預かった物が無事なら、それで。それに上司の元にまだもう一人、同僚もいますし。あの馬鹿猫の帰りが遅ければ、迎えくらい寄越すはずですしねぇ」
 それまでは護衛の人たちが頑張ってくださるはずですからと他人事のように語った男は、本気で同僚の無事ではなく上司からの預かり物以外に興味がないらい。
「あんたがその預かり物を預かる、ってわけにはいかへんのか」
「それが一番ですよねぇ。そうしたら心置きなくあの馬鹿猫を囮にして悠々と逃げられますし、預かり物も無事なわけですしー」
 理想ですねぇとしみじみ頷いた男は、できるものならねとどこか自棄気味に笑って続けた。
「それができたら、こんな依頼してませんよお。僕は僕で、既に預かり物をしてるんですよねぇ。一緒に持つとまずいんですよ、色々」
 だからもう一人の同僚も迎えしか寄越せないんですと投げ槍に答えた男は、導次の言葉を予測したようにこちらを見て笑った。
「僕は護衛なんていりません。あの馬鹿猫と違って、僕は戦えますから。何より一人のほうが気楽でしょう。上司が許してくれるなら、西の魔女なんて僕がちゃちゃーっと片付けてくるんですけどねぇ」
 許してくれないからささやかな報復程度で済ませてるんですよとつまらなさそうに答えた男は、闇に紛れるようにして一歩後ろに下がった。途端に、導次の視界から男の姿が見えなくなる。
「僕はね、あの場所に帰りたくないだけなんです。上司の元になんて、帰りたくないんですよお。それでも預かり物だけは死守しますから……、ねぇ、頼みます。僕の行く手を、妨害してくださいねぇ」
 帰りたくないんですよと囁くような声が繰り返し、闇色だけ纏った男はそのまま夜の中に溶けた。

種別名シナリオ 管理番号591
クリエイター梶原 おと(wupy9516)
クリエイターコメントこちらは「勇気のないライオン」と、並行シナリオになります。黒尽くめの男の行く手を妨害する、それだけが目的のシナリオです。「勇気〜」でご参加くださった方の、裏切り御免も歓迎します。とりあえず、どんな手を使って妨害を試みるか、お聞かせください。

因みに裏切り御免ですので、こちらで妨害したせいで「勇気〜」の面々が目的地に辿り着けないこともあります。ですがあちらの面々が頑張られたなら、妨害が失敗することもあります。意地でも妨害したい方は、あちらも参加して協力の妨害してくださってもいいですし、成り行き任せで片方だけ楽しんで頂くのも歓迎です。

協力か、妨害か。どんな協力・妨害を試みるか。
全てはご参加くださる方の心一つ、心よりお待ちしております。

参加者
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
ムジカ・サクラ(ccfr5279) エキストラ 男 36歳 アーティスト
香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
ジャスパー・ブルームフィールド(csrp6792) ムービースター 男 21歳 魔法使い
<ノベル>

「やる気しねぇ」
 開口一番きっぱり言い切ったのは、先にその場にいた赤い髪の男性だった。夜のオフィス街、一番高いビルの屋上。本来なら誰もいないはずのその場所で不機嫌そうに顔を顰めている彼は、煙草めいた細い物を咥えて上下にゆらゆらさせながら眼下に広がる風景を睨みつけている。
「やる気しねぇっつーかするわけないだろ、そう思わねぇってか思うよな思え」
 振り返らないまま尋ねるというよりは完全たる同意しか求めてこない男性に、香玖耶は知るかとばかりに肩を竦めた。
 香玖耶・アリシエートは何でも屋として今回の依頼を受けたのだが、様子見に赴いて多分に同じ依頼を受けているのだろう相手から、まさかこんな風に絡まれるとは思ってもみなかった。というか、やる気がしないなら依頼を受けなければいいのではないかといった突っ込みも思い浮かぶが、賢明にも口にするのは控えてみた。
 赤い髪の男性は香玖耶が同意しないことも気に留めた風はなく、胡坐をかいた自分の膝に肘を突きながらぶつぶつと続ける。
「だって猫だぜ。猫だぜお前あんな可愛い生物が健気にお届け物をしている道行き邪魔しろってどーいうことだよ、なぁそう思わねぇ?」
「そうデスよネー。猫サンの邪魔はよくないデス。依頼は黒いヒトの邪魔デスよネ? 黒いヒトを邪魔します、ケド猫サンは辿り着いてイイのでは?」
 幾らかぎこちない喋り方で赤い髪の男性に答えたのは、香玖耶のすぐ後にその屋上に入ってきた白スーツの青年。こちらも同じ依頼を受けた相手ならば、聞いたターゲットの進行方向は間違っていないのだと確信する。
 彼が現れてから微かに花のいい香りがして、香水か胸に挿している花のせいかまでは分からなかった。ただそのふわりとした香りの印象のままにこやかに笑いつつ、しれっと言ってのけられた言葉には苦笑を禁じえない。
「確かに、私も猫に危害を加える気はないけど。一応この依頼を受けたんだから、思ってても口にしないほうがいいんじゃない?」
 結果はどうなるにしろねと香玖耶が肩を竦めると、白スーツの青年もそうデスネと簡単に同意してくる。赤い髪の男性は相変わらず振り返ってこないまま、お前らがそのつもりなら問題ねぇかと伸びをして立ち上がった。
「あの猫に手を出す気ならここから突き落とすのも辞さなかったけどまぁ、そうでないなら精々あの黒尽くめに嫌がらせしてやろうぜ。自分で頼んできたからには相応の覚悟はしてやがる、」
 はずだろうとでも続けたかった言葉を中断させて振り返った男性の視線を追うように目をやれば、いつの間にそこに現れたのか、灰色のスーツにシルクハットといった様相の紳士然とした男性が優雅に一礼してきた。
「悪役会から依頼を受けたご面々、かな。黒尽くめの男の妨害を頼まれた? ああ、やっぱり。どうやら彼らは翌朝から本格的に動き出すそうだけど、知ってたかい?」
「知らないわ。というか、どうしてあなたはそれを知ってるの?」
 幾らか警戒しながら尋ね返すと、灰色スーツの男性はひどくにこやかに笑いかけてきた。
「それは勿論、僕が最初に依頼を受けて先に彼らの同行を探っていたからだよ、レディ。目的地がどこかも告げずに消える依頼人だ、自分から調べなくては始まらないだろう?」
「先に調べてくれたデス、ありがとうございマス。目的地はどこデスか?」
「残念ながら、そこまでは。どうやら彼ら自身も知らないようなのでね」
 肩を竦めながら答えた男性は、ついて見ろとばかりに視線を巡らせた。思わずそちらに目をやると、丁度このオフィス街に差し掛かったばかりの奇妙な三人連れを遠く見つける。その内の一番小柄な存在が腕に抱えているのは、依頼人曰くの同僚たる猫だろう。
 しかし当の本人はどこに行ったのだと首を傾げる前に、ははと誰かが低く笑った。
「そうか猫の護衛かお前が猫の護衛側か! 気乗りしねぇ仕事だと思ったが気が変わったつか目的が変わった、邪魔してやる徹底的に邪魔してやる……!」
 やる気出た! といきなり握り拳を作って肩を震わせているのは赤い髪の男性で、見つからないようにと小声を努めつつも今までのやる気のなさをすっかり払拭してやたらと燃え上がっている。
 灰色スーツの男性はそれを確かめるように眺めると、シルクハットのつばを下げて表情を隠すようにくすりと笑った。
「ミスターがやる気になったようで、何よりだ。僕は依頼人があの猫たちに合流するまで、探索に戻らせてもらおうか。レディ、」
「香玖耶。香玖耶・アリシエートよ。まだ自己紹介もしてなかったわね」
「そうデシタ。僕はジャスパー・ブルームフィールドと言いマス」
 香玖耶に続けて白スーツの青年が名乗ると、唐突に何かを取り出してがちゃがちゃと組み立てていた赤い髪の男性が顔だけ振り返ってきた。
「ムジカ・サクラ。俺はこれから妨害に努めるがお前らあの猫に手出ししたらタダじゃおかねぇぞ!」
「怖いね、ミスター。それでは僕は、依頼人を探しに戻ろう」
 失礼とシルクハットを軽くステッキで押し上げた男性がそのまま消えそうだったので、名前! と呼び止める。ばれたか、とでもいった表情になった男性はにっこりと笑うと、くるりとステッキを回した。
 ヘンリー・ローズウッドと呼んでくれたまえとだけ告げて姿を消したのを見て、すごいデスねとジャスパーが小さく拍手をした。
「ヘンリーさん、本当に消えマシタ。どこかに行ったではないデス」
 楽しそうに感心しているジャスパーに、香玖耶が消えたってどういうことと聞き返すより早く、どうでもいいとムジカがひらひらと手を振った。
「それより俺はこれを仕掛けてくるからお前らあの連中を誘導してくれ。あの黒ツナギが先頭になるようにだぜ頼んだぞ!」
 ツナギが先頭だぞと繰り返して屋上から降りるべくそそくさと階段に向かっているムジカを視線で追いかけ、残された香玖耶とジャスパーは顔を見合わせた。
「何か、いきなりノリノリよね」
「黒いヒト、いないデス。妨害、しマスか」
「まあ、手出しするなと言いつけてきたくらいだから猫に危害を加える気はなさそうだし。誘導くらいは協力してもいいんじゃない?」
「そうデスね」
 特にすることもないデスしと身も蓋もなく頷くジャスパーに苦笑しつつ、ムジカの向かった先とターゲットを確認しに屋上を離れた。


「こんなところで道草かい、ミスター?」
 護衛チームと合流するのじゃないのかなとステッキでシルクハットを押し上げながら声をかけると、左手をポケットに突っ込んだままぼうっと立っていた黒尽くめの男は顔を上げ、側のブロック塀の上に腰掛けている彼と目を合わせてきた。
「……はじめましてと言うべきですかー? それとも姿が変わっていることを尋ねるべきですかねぇ」
 笑ったように口の端を持ち上げて皮肉に尋ねてくる依頼人に、どちらでもとくすくす笑いながら足を組み直した。
「それより僕の問いに答えてないよ、ミスター」
「合流、ね。しないですむなら、妨害なんて七面倒臭いことは頼んでないんですけどねぇ」
 何方も手を貸してくださらないのでーと、恨み言の割に軽い口調で続けた男は溜め息混じりに視線を前方に戻した。
「じきに、上司の居場所が判明しますねぇ」
「本当に帰りたくない様子だね。そんなに上司と仲が悪いのかい?」
「仲。仲が良いとか悪いとか言っていられる内は、十分良いんだと思いますよー?」
 もはやそんな言葉で語れるような関係じゃありませんからーと相変わらず語尾を伸ばしてへらりと笑った男を眺めながら、ヘンリーはすうと目を眇めた。
「それならミスター、預かったという物を捨ててしまえばどうだい? あの同僚たる猫を、見捨てたがっているように」
 そうすれば何からも解放されるのでは? と唆すように小声で告げると、黒尽くめの男は想像よりも無反応に近く、見上げてくることもしない。
「ミスターが自身で捨てられないのならば……、僭越ながら僕が手を貸してもいい」
 叩き壊してしまおうかと笑いながら指を鳴らすと、ようやく黒尽くめの男が再び彼を仰いできた。にっこりと笑いかけながらヘンリーが左手を開いてみせると、そこには銀色の指輪。カフェで一度だけ見かけた、依頼人の左手にあったはずの指輪を殊更に見せつけると、のろのろと手を取り出した男は自分の指にそれがないのを見つけて僅かに笑ったらしかった。
「お見事ですねぇ。一体どうやって?」
「奇術は種を明かすと白けるものだろう、ミスター?」
「成る程。一理ですねー」
 それでは野暮はよしましょうと肩を竦めた男はそのまままたポケットに手を突っ込み、返せと詰め寄ってくることもなかった。
「やはり、これが預かり物ではないらしいね」
 それとも本当に壊してほしいのだろうかと興味深く眺めていると、どうぞとやる気なく勧められた。
「それは預かり物ではないですが、……、まぁ、僕を縛る物という意味では似たようなものですのでー。壊してもらえるならいっそ有難いですよお」
「……言われて壊すのも癪だね」
 お返ししようと興味を失って投げ返すと、どうもーと言葉だけで礼を言った男は右手で受け取ったまま胸のポケットに片付けている。他に男が持っている物など何もなくて、預かり物ね、と呟きながら観察する。
「面倒な依頼をしてくれるね、本当。エメラルドシティに行きたがらない案山子なんて、話が成立しないじゃないか」
「行って絶望するのが嫌なら、行かないほうが賢い。そう思いませんー?」
「賢い案山子なんて、余計お話にならないね」
 はっと鼻先で笑いながら切り捨てると、男は眼鏡を押し上げながらくすりと笑った。
「最初から、話なんて成立してないんですよー。翠の街なんて、ありはしないんです。ない場所には行けない。真理でしょうー?」
「──差し詰め、エメラルドシティは火の街、ということか」
 成る程と納得しながらブロック塀から飛び降りると、視線の高さが近くなった黒尽くめの男は不審げに眉を顰めて彼を見てくる。それがどういう意味かと尋ねてきているのが分かるので、だってそうだろう? と肩を竦めた。
「頭の悪い案山子は火のついたマッチが怖いっていうのが相場だからね」
 怖いから近づかないんだろうと揶揄しながら、ステッキで後ろから飛んできた矢を払い落とす。そうして後元に転がった矢に、ぱちんと指を鳴らして火をつけた。
 僅かに残る夜気を払うように燃え盛るそれを面白くもなさそうに見下ろした男は、ヘンリーが声をかける前に何かに惹かれるようにして空を仰いだ。
「ああ。あの人の力が弱まったようですねぇ」
 呟いた男の声を掻き消し、どんっと圧し掛かってくるような音と圧力が加えられてヘンリーも思わず空を仰いだ。東側から白く青く、夜を押し退けるように染まり始める空以外には何もないのに、ここだと教えたげに点滅して主張する力を感じ取れる。
「タイムリミットは後二時間、というところですねぇ。再びあの人の力が強くなれば、また居場所が分からなくなる。それまでにあそこに辿り着ければ馬鹿猫の勝ち、その時間を過ぎて上司の遣いが馬鹿猫を迎えにくれば僕の勝ち、といったところですかー」
 まるで他人事のように呟いた男から、ちりん、と小さな音がした。先ほど指輪を片付けた胸ポケットを探って男が取り出したのは、小さな鈴。
(一体どこから……?)
 先ほどまで確かに指輪しか持っていなかったのにと表情を変えないまま疑っていると、黒尽くめの依頼人は笑いながらその鈴を揺らした。
「探偵さん。それとも見知らぬ人、というべきですかー? どうやら僕はあの馬鹿猫たちと合流せざるを得ないようですが、あなたはどうしますー?」
「僕は僕のやり方でやらせてもらおう。まだ知りたいことは山のようにあるのでね」
「そうですかー。では、また後ほど」
 このゲームが終わる頃にとにっこり笑った男は、面倒臭そうな欠伸をしながら踵を返して歩いて行った。
「ゲームはあまり簡単に運ぶとつまらない、と思わないかい?」
 ワンサイドゲームなんて面白くないと誰にともなく呟いたヘンリーは、見惚れるほどの笑顔を浮かべるとくるりとステッキを揺らして依頼人とは反対の方角に足を進めた。


 香玖耶が笈を負った男性の、ジャスパーが猫を抱いた少女の足を止めている間に、ツナギの男はムジカの仕掛けたトラップにかかって頭からペンキを被る羽目になった。それを見てムジカは喜んでいたが、香玖耶としてはそのツナギの男に同情せざるを得なかった。
「あれはちょっと、色んな意味で可哀想だったわよね」
「匂いもすごかったデス。デモ、カラフルで楽しい感じデシタ」
 遠くカラ見てる限りは、とにこやかに続けたジャスパーに、そうだろそうだろとムジカも頷いている。
「嫌がらせだってのに粋に決めてやる俺の優しさに感じ入るだろ!」
(粋……。な人は、ペンキを頭から被せたりしないと思うの)
 ターゲットたちがペンキを落とすべく入ったビルの様子が窺える、そこより二階分ほど背の高いビルの屋上。今回は屋上待機ばかりだとそれにもちょっとうんざりしつつ密かに突っ込んだ香玖耶は、他に人影のないオフィス街を見回しながら本来の依頼人はどこに行ったのかと溜め息を噛み殺す。
「行き先も分かってないって、本当なのかしら。そんなの、妨害するもしないもないじゃないね」
「そうデスね。妨害しようにも、黒いヒトもいマセんし、」
 香玖耶に同意したジャスパーの言葉が途切れたのは、慌てた様子でビルからターゲットが出てきたのに気づいたから。笈を負った男性が最初に出てきて猫を抱いた少女が続き、その後ろからモップを振り回して何かを叩き落しているらしいツナギの男が出てくる。
「まさか、ビル内でも襲撃を受けたの!?」
「危険デス、あれ、ガスじゃないデスか?」
 それが毒を含んでいるかどうかまでは、判断できない。それでもツナギの男が叩き落した端から、落ちた銀色の球体からしゅうしゅうと煙が吹き出ている。
「ちいっ、めんどくせぇ! 香玖耶とかいったかお前これあの野郎に投げつけろ!」
「これって、」
 さっきからせっせと作っていたらしいボールを一つ渡されて戸惑ったのは一瞬、猫に危害を加えないと断言したムジカを信用してそれを投げる。ムジカも同じく手にしていたそれを幾つか投げつけていて、ツナギの男の側で割れたボールからは大量に水が溢れ出た。煙を吐く球体は水に濡れて大半がショートしたように転がったが、ツナギの男もずぶ濡れになっているのは半ば以上計算されていたのではなかろうか。
「今度は水攻めの予定でしたか、ムジカさん……」
「猫にかかったら事だが今は言ってらんねぇからなっ」
 已む無くだと断言するムジカに軽い眩暈は覚えそうになったが、ずぶ濡れになっても煙に覆われる最悪の事態は避けられた。けれど煙は確かに毒素を含んでいたらしく、ツナギの男は今にも駆け寄ってきそうな連れに、近寄るなと怒鳴りつけはしても動けずにいる。
「っ、あれでまた煙に巻かれたら……!」
 どんな毒かは分からないが、危険なことに変わりはない。助けに行くと飛び出しかけた時、大丈夫デスとジャスパーがそれを止めた。
「僕がやりマス」
 ジャスパーがそう言った時には、水がかからなかったせいでまだ煙を吐き出している球体の側から蔦が生え出している。そのまま半分は球体を覆い始め、もう半分はするすると伸びてツナギの男の背を遠く突き飛ばした。
 笈を負った男性が慌ててツナギの男を支え、急いでその場を離れていく。しばらく離れた場所でツナギの男が自力で走り出したのを見届け、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、痺れ薬程度の効果だったみたいね」
「煙も止まったようデス。蔦も枯れてませんし、もう危険はないデス、……多分」
「くっそ、トラップ仕掛ける暇はなかった上に予測違いの方向に行きやがった……! どこ行く気だあいつら」
 目的地くらい教えやがれと小声を努めつつムジカが吐き捨てると、とりあえず海にーと後ろから声が応えた。
 振り返れば、黒一色の男が明け出した空に似つかわしくなくそこに佇んでいる。風体からして間違いなく今回の依頼人だろうが、何故妨害すべき相手が彼女たちの目の前にいるのだろうか。
「海? 何でまた海なんだっつーか今までどこにいやがったてめぇ」
「西の魔女の襲撃を受けて、分散してましてー。今から猫と合流するところなんですが、行き先が判明したのでご連絡しておこうかと」
 何しろ妨害してもらわないといけませんからねーと呑気に笑った依頼人を、ジャスパーが何だか興味深そうに眺めている。香玖耶としては聞きたいことがあったので、不愉快そうに目を眇めているムジカが何か言い出す前に口を開いた。
「行き先が判明したって、どういうことなの」
「言葉のままですよお。僕の上司の結界が弱まらないと、行き先が分からなかったんです。後二時間くらいは結界も弱いままでしょうし、移動速度から考えて海に出るまでが勝負、といったところですねぇ」
「移動速度? 目的地が、移動しマスか」
 不思議そうに尋ねたジャスパーに、依頼人は何か疑問ですかと逆に聞き返してくる。
「目的地は僕の上司の居場所、です。上司も西の魔女に狙われてますから、もう一人の同僚が一つ所に留まらせないんですよー。だからあっちにふらふらー、こっちにふらふらーと移動してます」
 そうでなければいくら馬鹿猫でも帰り着いてますよおとへらへら笑った依頼人が手を揺らすと、ちりん、と小さな音が聞こえた。
「綺麗な音がしマシタね」
「何だそれ鈴か?」
「……ええ、護衛チームに渡されて。これのせいで合流せざるを得ないんですよねぇ。とりあえず僕はあちらと合流しますのでー、妨害。宜しくお願いしますねー?」
 海に向かってくださいともう一度言い置いてひらと手を揺らした依頼人は、そのまま無造作にビルの屋上から飛び降りた。香玖耶が慌てて下を覗くと、どうしてか無事に着地したらしい依頼人が軽い足取りで遠ざかっていくのを見つける。
「どこまで信用できるのか分からんが妨害されたがってんだからとりあえず行く先は嘘つかねぇだろ。奴らが来るまでに先回りして仕掛けとくぞ!」
 今度はもう少し本格的にだとやる気で立ち上がったムジカの宣言に、誰に対する妨害だろうなとちらりと思ったが深く考えないことにする。
「二時間が勝負ということは、それを過ぎれば迎えも来ると考えてよさそうよね。時間制限があるなら妨害はやりやすいわ、早く向かうことに異議はなしよ」
「そうデスね。ルートが分かりやすくなるヨウに、茨でバリケードも作れマス」
「ああ、そりゃトラップにかかりやすくできていい案だ。奴らの向かった先から海まで狭い道に入らねぇように塞いどいてくれたら野郎の顔面に今度はパイでも投げつけてやる」
 どこから調達するのかは、敢えて聞くまい。それにパイを投げられたところで、怪我はしないだろう。しないだろうが、実際にやられたら屈辱的な仕掛けばかりだなと密かに感心しながら止める気はない香玖耶は、先に海に向かい始めたムジカを追うように走り出す。
 ジャスパーも隣をついて走りながら、カグヤさんと声をかけてきた。
「ふしぎデスねー。あの黒いヒト、どうして僕たちが妨害チームと分かりマシタ?」
「……そういえばそうね。でも、悪役会から聞いてたんじゃない?」
「ナルホド。ヘンリーさん、どこ行きマシタでしょうネ?」
「依頼人についていると思ったけど……、姿を見なかったわね」
 何をしてるのかしらと眉を顰めると、ジャスパーが何かしら考え込んでいるのに気づく。
「気になることがある?」
「チョット少し」
 重複表現がわざとかは別として、少しでないことは伝わる。依頼人が信用ならないのはこの依頼を聞いた時から一貫した印象だが、少し気を引き締めた。
「とりあえず、迎えが来るまで無事に終るといいけど……」
「そうデスね。黒いヒトの預かりモノが、どうなるカモ気になりマス」
 後はムジカさんの行方もデスねーと軽く笑ったジャスパーの言葉で、ムジカの姿がとっくにないことにはっとする。
「もおっ、連携くらい取りなさいよ!」
 好き勝手に動く奴が多すぎるの苦情は、確かな本音だろう。


 ジャスパーがどうにか見つけ出したムジカの要望に応えて細い道を塞ぐように茨を張り巡らせると、行く先々に仕掛けたトラップはたまに依頼人や笈を負った男性を巻き込みつつ、主にツナギの男を妨害していた。
 例えばツナギの男の額を目掛けて仕掛けてあった柳の枝は、猫を抱いた少女の頭は通り越したけれど依頼人の額に赤い筋を残した。さすがに痛かったと見えて額を押さえて身体を折り曲げた依頼人がツナギの男の胸に肘打ちを食らわせる格好になったし、いきなり飛んできたパイ──本当にどこから仕入れてきたのかは謎だ──を咄嗟に避けた男性の笈がツナギの男にぶつかり、泥水を張った浅い落とし穴にツナギの男の片足がはまった。
 ついでに言うなら続けて飛んできたパイを黒い巻き毛の男が避けたせいで、落とし穴に毒づいていたツナギの男の横顔にヒットしていた。
「他人事ながら散々よねぇ、あの人」
「黒いヒトより妨害されてマスねー」
 足止めはできてマスと笑顔で続けるジャスパーに、色々間違ってるけどと小声で突っ込んでしまう。ただそれらの細々したトラップは時間を稼げはしても、既に海に辿り着きそうなところまで来ていた。
 見つからないように屋根の上から追いかけてつつトラップの順調を確かめるのに手を取られていたが、今は西の魔女が襲撃を仕掛けているせいでターゲットの足も止まっている。香玖耶たちも足場のいい校舎の屋上を選び、様子を窺う。
 まだ夜が明けたばかりの学校は、夜のオフィス街ほど人気がない。ここでなら落ち着いて精霊を召還できそうだと踏み、依頼人の願いを叶えるべく努めますかと香玖耶は手を打ち合わせた。
 精霊を召還するのは場所よりも体力的に限りがある為に今までは控えていたけれど、そろそろタイムリミットも近い。影の精霊ならば危害を加えず時間を稼げるはずだと判じて召還すると、ジャスパーが興味深そうに眺めてくる。
「面白い技デスね! これは何デスカ?」
 そうと手を伸ばして一体に触れようとしたジャスパーの動きを真似て、召還した全ての影の精霊も彼に向かって手を伸ばす。驚いたように彼が手を引くと精霊も同じ行動を取り、ゆらゆらと黒く揺らめきながら覗き込むような仕種までを一斉に真似ている。
「びっくりデス。まるで鏡デス」
「そうね、影だから似たようなものね。この子たちなら行く手の妨害だけできそうでしょう?」
 ついでに、西の魔女から受ける襲撃の邪魔にもなればいい。妨害よりは寧ろそちらを重視して影の精霊を向かわせると、ジャスパーが楽しそうに目をきらきらさせた。
「とても面白いデス。僕も、エリザベスを呼びたいデス!」
「エリザベス?」
 今までの行動を見ていれば、植物だけを操るのだと思っていたが。使い魔でも持つのだろうかと首を傾げて聞き返すと、可愛いデスよー! と、にこにこと自慢そうに言われる。
「食人植物なんデスが、ウネウネ動いて追いかけマス!」
「うねうね……、ってちょっと待って、食人って!?」
 聞き慣れない単語が聞こえたと頬を引き攣らせて聞き返すのに、次なるトラップ作りに没頭していたはずのムジカがきらんと目を輝かせて顔を上げた。
「よしあのツナギにだけ嗾けることを許す! ぱっくり食ってやれ頭半分とかな!」
「半分は難しそうデス、でも甘噛みできマスよー」
 それでは早速とばかりに呼び出し体勢に入りかけるジャスパーに、頼むからお願いだからやめてと香玖耶は悲鳴じみて懇願した。
「甘噛みなんて言って、間違って本当にぱっくり食べちゃったらどうするの!? ぐちゃってなってでろっとなってぐちょってなったら……ああいやいや想像するだけでも嫌ーっ! そういうグロテスクなスプラッタホラーは嫌いなのよ!!」
 トラウマになるじゃないのーっと頭を抱えると、猫に見せるには刺激が強すぎるかとムジカも変な方向で納得している。ダメデスかとしゅんとしたジャスパーに、違う路線で行ってくださいと縋るように頼んでしまう。
 分かりマシタと頷いたジャスパーがしょんぼりしているのは申し訳ない気がしたけれど、悪夢に魘されたくはない。
「それでハ、景気ヨク華やかに妨害しマス」
「え?」
 何をするのかと尋ねる暇もなく、ジャスパーはぱちんと指を鳴らしていた。途端、ひらりと何かが舞い落ちてくる。香玖耶がそれが何かを理解した時にはターゲットたちの上にどさどさと勢いよく、降ると言えば土砂降りといった様で花弁が降り注いでいる。
「おお、シュールにメルヘンだな」
「というか、ここから様子が窺えなくなっちゃったんたけど……」
 煙草じみたものをゆらゆらさせてムジカが手を叩き、綺麗だしいいけどねと香玖耶が苦笑すると、ジャスパーは嬉しそうにほくほくとした顔になる。
(妨害というより、やっぱり嫌がらせだけど。まぁ、いっか)
 要は依頼人が目的地に辿り着けなければいいのだと無理やり納得して花弁の下に目を凝らしていると、にゃあ、と猫の鳴き声が聞こえた気がした。聞き間違いでない証拠に全員に聞こえたらしく、思わず顔を見合わせた後にもう一度目をやると、ピンクや白、黄色といった色取り取りの花弁の下からわらわらと青灰色の毛並みが覗く。わらわらと。
「え、えっ!?」
 これは何事と誰にともなく尋ねてしまうほど、ターゲットの猫にそっくりの色と毛並みの猫はまだ溢れてくる。何を仕掛けたのとジャスパーを仰ぐと、僕じゃないデスと頭を振られる。それではと振り返ったムジカは不愉快そうな顔をしていて、あの野郎と愚痴るように呟いている。
 この事態の理由を知っていそうだと見当をつけて何事なのと尋ねると、絵だとぼそりと答えられた。
「絵? 絵って、ピクチャーとかスケッチとかの、あの絵?」
「その絵だよこんなことできんのはあいつしかいやがらねぇっつか猫パラダイスか!」
 どこまで増やす気だと喜んでいるのか不機嫌極まりないのかよく分からない様子でぼやいたムジカの言葉通り、猫は止め処なく湧いてくる。
 大量の花弁が舞う中、黒い影にゆらゆらと取り囲まれて西の魔女からの襲撃も受けながら延々と湧き出る猫。これはこれで、悪夢に魘されるようなカオスと言ってもいいのではなかろうか。
(私、護衛チームじゃなくてよかった……)
 思わずしみじみと呟いてしまった香玖耶のそれは、妨害チーム全員の同意を簡単に得られそうだ。
 とにかく事態が収拾するまで見守るしかないだろうかとぼんやり考えていると、後ろから溜め息が聞こえた。何の気配もなかったことに驚いて振り返ると、見覚えのない小柄な女性がそこにいる。
「黄緑の主様(ヌシサマ)も、水色の主様も、何をしておいでか……」
「誰だお前っつーかどこから現れた?」
 ヘンリーが現れた時とはまた別の警戒心を持つのは、その女性は人型をしているがあまりに人じみた気配をしていないからだろうか。香玖耶の本質はエルーカ(召喚師)だ、人外の者は少なからず馴染みがある。それでも精霊でも人でもない、何と言っていいかも分からない存在は薄気味が悪かった。
 ムジカも少なからず警戒しているようだが、ジャスパーだけが軽く目を眇める程度であまり変わらなかった。
「ヒトじゃないデスね。どちら様デスカ?」
「心のないブリキの樵たる主様にお仕えします、薄紅と申します。水色の主様をお迎えに、主様の主様に遣わされて参りました」
 不親切すぎる説明ではあったが、薄紅と名乗ったこの女性が依頼人の言っていた迎えなのだろう。
「西の魔女の襲撃を受けている猫のお迎えがあなた、なのね?」
「猫……? 勇気のないライオン様、です」
 言っていることが分からないと首を傾げつつ訂正する薄紅の様子に、思わずムジカとジャスパーに向き直る。
「信用できると思う?」
「言葉にウソはないデスね」
「それで信用できるかは別問題だろっつかこっちも増えるかっ」
 どうなってんだと苛々したようにムジカが指摘した通り、薄紅と名乗った女性の隣にまったく同じ顔と体型をした女性が空から舞い降りてきた。彼女はそこにいる香玖耶たちを気にした風はなく、写し鏡のようなもう一人の自分にのみ話しかけている。
「薄紅。水色の主様は?」
「まだ下に。黄緑の主様とご一緒だ」
「主様もご一緒か……」
 面倒臭いとばかりの台詞は、けれど表情が動かない為にどこまで本気なのかは分からない。ただ疑るように二人を見比べていると背後から突然の爆発音が聞こえ、慌てて様子を窺う香玖耶たちの後ろから顔を出すほどには気になっているようだった。
「……花弁は、モウ必要ないデスね」
「そうね。迎えが来たなら、精霊も戻したほうがよさそう」
 自分たちでやったことながら、花弁も影の精霊も視界の邪魔でしかない。爆風で飛ばされたついでに消してしまうと、大量に現れた猫の数匹が黒尽くめの男の前で横たわっている。猫を本気で殺したのかと咄嗟に頭に血が上りかけたが、ムジカが手で制してきて軽く顎をしゃくった。
「よく見ろ全部絵のほうだ、本物の猫じゃねぇ」
 そんなことしてやがったら俺が先に殺しに行ってると物騒なことを笑うように告げるムジカの目は、怒りに満ちてはいたがまだ冷静だった。
「悪趣味デスね」
 黒いヒトの神経を疑いマスと憮然としたジャスパーがぼやくと、申し訳ありませんと薄紅の後から降りてきた女性が謝ってきた。
「主様は、他の主様を気遣うことなどできぬ性分。これ以上のご迷惑をおかけする前に引き取りますので、どうぞご容赦を」
 申し訳ありませんと重ねて謝罪した女性は、失礼致しますと断ると何もない空中へと足を踏み出して、彼女曰くの主様の元へと向かった。
 ヒトではないのだから、無事に辿り着くのは当たり前かもしれない。それでもふわりと依頼人の側に舞い降りるまでを見届けてから、ようやく見つからないようにと身体を引いた。
 猫が望むと望まざるとに関わらず、迎えが到着したのなら香玖耶たちが受けた依頼は達成したことになるのだろう。黒尽くめの男は思惑通り、目的地に着かずにすんだのだ。
「あの野郎に嫌がらせすんのは楽しかったからいいけど黒尽くめの思った通りってのが気に入らねぇな」
「これでもう襲撃はなくなったと思っていいのかしら」
 彼女まで巻き込んで襲われないでしょうねと香玖耶が眉を顰めると、何故かずっとそこにいる薄紅が今回はもうございませんと保証する。
「どうして分かるデス?」
「西の魔女は、機械を媒介に襲撃を仕掛けます。今回は黄緑の主様が破壊された、玩具の戦車がそれだった様子。一つの機械が破壊されれば、次の機械を作るのに時間がかかります。このまま黄緑が水色の主様をお連れするまでに、次を送り込むことは不可能です」
 ですからもう襲撃はございませんと断言する薄紅に、香玖耶は目を据わらせた。
「それって、あの依頼人も知っていたのよね? だから破壊できたんでしょう?」
「媒介が何かはご存知なかったと思います」
「そうじゃねぇだろ西の魔女がそういう襲撃を仕掛けるのが分かってんなら護衛の連中に教えるべきだったんじゃねぇのか!」
 フェアじゃねぇだろと不愉快そうに怒鳴りつけたムジカに、薄紅は分からなさそうにする。
「黄緑の主様は、頭の悪い案山子様です。伝えることも教えることも、あの方のお役目ではありません」
 何をお怒りなのでしょうと本気の様子で尋ね返す薄紅に、無駄デスよとジャスパーが諭すように呟いた。
「ヒトでないモノは、ヒトの理屈が分かりマセン。問うだけ無駄デス」
「でも!」
 あの依頼人はひどすぎると香玖耶がやり場のない怒りに襲われていると、すみませんねぇと呑気に腹立たしい謝罪が届く。
「薄紅、黄緑ももう帰りますよー。お前も早く帰りなさい。僕の居場所は探らなくていいですよお」
「主様が早くお戻りを、と」
「樵の言うことを聞いてやる義理もないですよお。勿論、お前の言うことも、ね」
 帰れと言いましたよねー? と黒尽くめの男が声を低めると、薄紅は溜め息をつきながら頭を下げた。
「伝言はお伝えしました。これにて失礼致します」
 ご迷惑をおかけしましたと香玖耶たちに頭を下げて薄紅がそこから消えると、依頼人が薄っぺらな笑顔を張りつけて向き直ってきた。
「あなたたちのおかげで、僕は戻らずにすみました。ありがとうございましたー」
「お前の為にやったことなんて一つもねぇよ。家出を続けたいが為に猫を危険に晒したのか」
 今回の事態はお前のせいかとムジカが目を眇めると、依頼人はくすりと笑う。
「僕のせいといえば、僕のせいでしょうねぇ。けれど僕が逃げるのを見逃したのは、僕の上司ですよお。それをあの馬鹿猫がわざわざ探しに来たせいで、色んな人を巻き込むことになってしまった、というだけで」
 あの馬鹿猫のせいもあるでしょうよとつまらなさそうに答えた男に、ジャスパーが一つと指を立てた。
「あなたの預かり物、ホントに預かり物デスカ?」
 犯罪者サンじゃないデスよね? と笑顔を取り繕いながら真面目な声で尋ねたジャスパーに、黒尽くめの男は楽しそうに声にして笑った。
「これを強奪できるほど、僕はあの上司に信用されてませんよお?」
 癪なことに預けられたんですよおと吐き捨てた依頼人は、とりあえず助かりましたーと黒い手袋をした右手を胸に当てて優雅に一礼した。さっきは聞こえたちりんとした音が届かず、香玖耶は首を傾げた。
「鈴は? もう返したの?」
「僕に渡された鈴は探偵さんに奪われたっきりなので、返すも返さないもないですけどー?」
 預かり物然り、持っていない物は返せないと肩を竦めた男は、眼鏡を押し上げて細すぎる目を尚細めた。
「さて、そろそろ夜は退散すると致しましょうー。馬鹿な案山子が僕の役割ですので、このご恩も何れ忘れてしまうと思いますが。またお会いすることがありましたら、その時は宜しくお願いしますねぇ」
 敵でも味方でも大歓迎ですよおと不吉な言葉を残して笑った男は、薄紅同様にその場から唐突に消えた。
「犯罪者サンと違うナラ、追いかける必要はないデスカ?」
「くっそそれでも二三発殴ってやるんだった何か釈然としねぇ!」
 ジャスパーとムジカは消えた男のほうを気にしているが、香玖耶は狙われていた猫のほうが気になって視線をやった。
 黄緑と呼ばれていた女性に抱かれている猫を護衛チームが取り囲んで、何かしら言葉をかけている。ほっとするようなその光景に香玖耶も知らず口許を緩めたが、そこから少し離れた家の屋根に灰色スーツの男性を見つける。
「ヘンリー、」
 呟いた声をまるで聞きつけたように顔を巡らせてきたヘンリーらしき人物は、シルクハットの影になって見え難い口許に笑みを浮かべ。ご機嫌ようと声なく口の動きだけで伝えると、惑わすように消えてしまった。
「どいつもこいつも、煙みたいに消えればいいと思ってるわね」
 残された側に押し付けられた後始末のことを、少しも考えていない。映画の中であればそれでもいい、場面が転換すれば何もかも片付いている。けれどここは映画の中ではないのだから、残された者が始末しなければ終わらないではないか。
「残された物も……、心情も。何にも考えないで逃げるのね」
 それができるのは、依頼人が頭の悪い案山子だからだろうか。全てを切り捨てられるのは、決して強さではない。少しでも想像力があるなら、できない所業だ。
(あんなに頑なに、預かり物を守りたがっているくせに)
 そうと溜め息をつくと、考えたって馬鹿のやることに意味なんざねぇよとムジカが吐き捨てた。
「理解できナイことをできるカラ、馬鹿なんデスよ」
「そうそうそんなもん考えるだけ無駄だ無駄。依頼も終わったんだ猫パラダイスでも眺めてりゃいいんだよ」
 それが有意義な時間の使い方だとにっと不敵に笑ったムジカの言葉は尤もで、増殖こそ収まったもののまだ大量にいる猫が気儘に遊ぶ様をしばらくのんびり眺めることにした。

クリエイターコメント 長い……。やたらと長くなりましたが、頭の悪い案山子、これにて終了です。参加してくださいました皆様に、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
 長くなりすぎはしましたが、その分、心から楽しんで書かせて頂きました。もう少し短く、は次から呪文のように唱えておきますので、またシナリオ提出した際はどうぞ宜しくお付き合いくださいませ。
 それでは、次のシナリオも早く提出できるよう精進してきます。お付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。
公開日時2008-06-21(土) 12:50
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