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<ノベル>
銀幕市のベイエリアにある倉庫街に、その事務所はあった。
そこら一帯の管理を任されている警備会社の青年は、週に一度回ってくる倉庫街の巡回を密かに楽しみにしていた。
いつもの様に道路の脇に警備会社の車を停め、いつもの様に巡回を開始する。
ちらりちらりと視線がいってしまうのは、通りの倉庫群の一番端の建物。
そこは、映画『Michael-Angelo(ミケランジェロ)』の主人公 安城ミゲルことミケランジェロが実体化し、映画内と同じように「掃除屋」を営んでいる事務所であった。
青年は、その映画とミケランジェロの大ファンであった。
しかし、たとえ同じ銀幕市に住んでいるとは言え、そう簡単に知り合いになれる筈も無い。
何より、青年に自分から声を掛けるような勇気はなかった。
ただこうして彼の事務所の周りを巡回出来るだけで幸せだった。
一度だけ、建物から出てくる本人を見掛けた事がある。もちろん話すどころか声すら聞けなかったが、その時は天にも昇る様な気持ちだった。
ひょっとしたらまた会えるかもしれない。そんな期待に高鳴る胸を抑えつつ、青年は深く警備帽を被りなおしながら、いつもの巡回コースを歩いていた。
丁度事務所の真下を通りかかった時だった。
「任しときや! バッチリ役目果たしてきたるわ」
「……行ってくる」
何度もスクリーンの向こうで聞いたその声に、青年の鼓動は跳ね上がった。
心の準備も出来ぬまま、その場で固まる青年の前に僅かなライムラグの後姿を現したのは、銀の髪に黒のツナギ、肩にトレードマークのモップを担いだ憧れのミケランジェロ、その人の姿だった。
「う、わわっ!」
思わず声が出た。
その声に先に振り向いたのは、煉瓦色の着物の青年――
(知ってる! 銀幕市に実体化してから、ミケランジェロさんとよく一緒にいるムービースターの……!)
――昇太郎 (ショウタロウ)だった。
「アンタ……?」
怪訝そうに眉を寄せる昇太郎。
「い、いえ。あの、オレは…!」
青年は、昇太郎の事はそれ程よく知らなかった。
だからこの時、昇太郎の表情にいつもの快活さがなく、どこか不安げな様子だった事に、青年は気付かなかった。
気に留める間もなく、次の瞬間。
「あ!」
まさに神の声が掛かった。
「われ、お巡りさんやな? お仕事ご苦労さん!」
「へっ?」
青年と昇太郎のやり取りに気付き、振り返ったミケランジェロは笑顔でそう言った。
パァッと、その場が明るくなるような、見ているこっちまで元気になるような、そんな清々しい笑みだった。
「えええっ!?」
青年は目を剥いた。
確かに、目の前のツナギの男は、彼が憧れる堕ちた芸術の神 ミケランジェロであるというのに。
「ほな昇太郎、行こか」
「……あ、ああ」
爽やかに軍手を嵌めた右手を上げ、踵を返すのは誰だ。
生気に満ち溢れた瞳を輝かせ、連れの昇太郎の背を叩き促すのは誰だ?
背筋をピンと伸ばし、まるで肩で風を切るかのように颯爽と通りを歩く、あの男は誰だ!?
呆然と、警備員の青年はその場に立ち尽くした。
それは彼の知る、ミケランジェロの姿とはまるで違っていた。
気だるげで、いつも眠そうな半眼で、猫背で。それが彼の魅力でもあり、アイデンティティでもあった筈なのに。
一体彼に何が起きたというのだろうか?
目撃したあまりの出来事に、その場を動けぬ青年の頭上で、今は誰もいない筈の掃除屋「ミケランジェロ」の事務所の扉が、バタンと音を立てひとりでに閉じた。
偽者か、ムービーハザードかと慌てた警備員であったが。
真相は、そんな大それた事ではなかった。
「面倒くせェなー、おい」
それはただのミケランジェロ本人による、いつもの面倒臭がりが発端だった。
「じゃけぇ、ミゲル。受けてしまったモンはしょうがないじゃろ」
「何で勝手に電話に出て、勝手に依頼受けちまうんだよ、おまえは。ああ、行きたくねェ。あーそうだ。アイツは? ウチの不良天使。アイツに行かせ……」
「朝から姿を見とらんがの?」
「だあァッ! 使えねェ助手だな、クソッ!」
消したい物、綺麗にしたい物を承る、掃除屋兼何でも屋のこの事務所には、映画内同様この銀幕市でも以前と変わらず依頼が舞い込んでくる。
今回、この事務所に居候する昇太郎が、所長のミケランジェロに了解も得ず承諾してしまったのは、掃除屋としての表の稼業。以前にも請け負った事がある、雑居ビル屋上の落書き消しという、ミケランジェロにとってあまり面白くない仕事だった。
もちろん街中のグラフィティアート消しは、ミケランジェロの本業ではあったのだが。
「だってよ、あのクソガキ共の落書き、まったくセンスの欠片もねェもんだからよ」
つまりは、都会の芸術性に惹かれ下界に身を落とした芸術の神としては、自分達のチーム名や名前だけのヘタクソなスプレー落書きには、まったく興味がそそられなかったという訳だ。
「困っとったぞ、夜にまた忍び込まれてやられたって。困り果てとるから、わざわざミゲル指名して頼ってきてくれたってぇのにお前……」
「とにかく、今回俺はやらねェ。そんなに気になるんなら、おまえが……! んん?」
デスクに寄りかかり背中を曲げながら、気だるげに大きく手を振った所で、ミケランジェロは言葉を切った。
常日頃、眠そうに半分閉じているミケランジェロの紫の瞳が僅かに見開いている。
それに驚き、つられ昇太郎も振り返り、視線の先の生き物に目を丸くした。
「おお!?」
「なんだァ、コイツ。いつの間に……」
どこから入り込んだのか、2人の足許には行儀良くちょこんと座る赤毛の仔狐の姿があった。
赤紫色の宝玉を首から下げ、小首を傾げ見上げるくりくりの瞳は毛色と同じ燃える様な真紅だ。
仔狐の脇には、何故か小動物には不似合いなスーパーの袋に入った日本酒の一升瓶。まさかここまで咥えて運んで来たのだろうか。
愛らしさだけでなく、知性と気品漂うその佇まいに、ふと昇太郎は友人の顔を思い出し声を上げた。
「お前……」
しかし昇太郎がその正体を言い当てる間もなく、ヒョイとミケランジェロが横から手を伸ばした。
「どこから入り込んできやがった。この赤猫」
「ミゲル違っ、それは狐じゃ……!」
「あァ?」
猫だと思っていたから、ミケランジェロはその仔狐の首根っこを遠慮なく掴み持ち上げていた。
しかし本来は狐、それ程首の後ろを掴まれる事に慣れておらず、またそれ程首の後ろが猫ほど伸びる筈もなく。
「おわっ」
「ぐえぇ!」
つるんと滑った毛並みに慌てて、ミケランジェロが仔狐を取り落とす間際必死で掴んだのは、首から下がる宝玉だった。
当然、仔狐の首は引っかかり、ぎゅうっと締まる事となり――
「ぐぇっ、ゴホッ、ゴホゴホッ! コラ、離さんかいわれぇ!!」
「ぐわっ!!」
堪らず人間の姿に変化した仔狐――晦 (ツゴモリ)に、ミケランジェロは下敷きにされる羽目となった。
「おまえは…あの時の赤ギツネか……」
「晦! よお来たなぁ!」
「昇太郎! タマ! 久しぶりやな!」
「って、俺はタマじゃねェ!!」
3人は以前、足を踏み入れた人間を絵画の中に取り込む洋館の依頼で、顔を合わせた仲だった。
図らずも協力しあい依頼を解決した3人。
昇太郎と晦は、共に絵画の中取り込まれた際仲良くなっていた。
しかしミケランジェロは、あの時晦と顔を合わせたっきり。彼が元々稲荷神の狐である事や、先程の仔狐が、本来の晦の姿である事はまではまったく知らなかった。
「すっかり不義理してしまってすまんかったな。親父殿にも叱られてしもうたわ。コレ、あん時礼や。あん時はほんまおおきに」
どん、とデスクの上持参の一升瓶を置く晦。
礼というのは勿論、依頼時に助けられた事を言っているらしい。
そない気を使いなや、いやいやほんの気持ちやと、笑顔を交わす2人の様をどこかボンヤリと眺めていたミケランジェロは、ふむと顎に手をやりその下で笑う形に口許を歪めた。
「稲荷神、ねェ?」
「そや!」
「変身で模れるのは、その姿だけか?」
「うん? いや、何にでも姿変えられるで?」
「ミゲル……?」
「おーそうかそうか。そりゃーいい。うんうん。どころでよ、稲荷神ってェのは、どんな神様なんだ?」
「どんなって……。そやな。わしは偉大な親父殿のように、皆を幸せにするんがわしの役目やと思ってる。それにはまだまだ修行が足らんけどな」
「修行、修行かー。そっかー。それは頑張ねェとなァー? ……時に稲荷神殿? ここに困っている人間(人間じゃないけど)がいるんだけど、ちょーっと力貸してくんねェか?」
「え?」
「ミゲルッ!?」
突然のミケランジェロの発言に、慌てたのは昇太郎だ。
「ミゲル、まさかお前……!?」
「ピッタリじゃねェか、俺の代理にはよ。そう難しい依頼じゃない。おまえら2人でちょちょいと片付けてきてくれ」
「コラ、ミゲルお前!!」
「なんや、困り事か?」
先程のやり取りを知らぬ晦は、呑気に親切心でそう聞いてくる。その瞬間を逃さずミケランジェロは畳み込む。
「そうそう、困り事。詳しくは昇太郎に聞いてくれ。俺の代わりにな、俺の姿に変化して行ってくれりゃそれでいいから。立派な稲荷神とやらになる為の、所謂修行ってヤツよ、コレは」
「おおおっ!」
「晦……」
まんまとミケランジェロの口車に乗せられ、晦はやたらとやる気だ。
不安げな昇太郎を追い出し、事務所の扉を閉めると、ミケランジェロは大きく伸びをした。
「やれやれ…これでやっと静かになったぜ……」
口の中で欠伸を噛み殺しながら、ミケランジェロが向かったのはいつものデスク。
その上に足を投げ出し、ギシリと背もたれに体を預けると、ミケランジェロは顔の上アート雑誌を乗せるとそのまま昼寝と決め込んだ。
全ての依頼を昇太郎と――自分の姿に変化させた晦に丸投げして。
そんな訳で、巡回の警備員が目撃したのは、晦が化けたミケランジェロだった。
変身の術は、完璧だった。
昇太郎の目の前を行くミケランジェロは、毎日顔を合わせる彼自身でさえ見分けが付かないほど、完全にミケランジェロの姿をしていた。
しかし――
「昇太郎。ほいで、わしはどこに何をしに行けばいいんや?」
言葉遣いは、地の晦の口調 関西弁そのまま。
「……あ、ああ。落書きじゃ。ミッドタウンのビルの屋上にな、子供が忍び込んで落書きをするんじゃと」
「ソイツ等を懲らしめればええんか!」
ピンと伸びた背筋。快活な表情。熱い眼差し。
「いや、その……。今回は、とりあえずソレを消して欲しいそうじゃ」
「分かった。わしに任しとけ!」
そして、溢れるパワーと漲る男気。
「…………ああ」
昇太郎は、普段なら有り得ない活き活きとした親友から、思わず目を逸らした。
恐らくは知り合いか、そんなミケランジェロの姿に幾人か振り返る視線も昇太郎には痛い。
正直、気持ちが悪かった。居た堪れなさもある。
出会った時からミケランジェロはミケランジェロだった。あのやる気のなさが、彼の全てだった。
それを正反対の性格の晦が、昇太郎の中のミケランジェロ像をガラガラと壊していく。
決して晦は悪くはない。むしろこの赤き客人は、好意で昇太郎と共に依頼をこなそうとしてくれている。
それでも。
(もう…見てられん……)
「おおっ。昇太郎、見てみい! 飛行機やぞ、飛行機! あない長ーく雲ひっぱって。ははっ、あんじょう気ぃつけていきやーっ!」
青空に向け、全開の笑顔で手を振るミケランジェロなど、昇太郎は見ていられなかった。
もちろん、その中身が晦だと分かってはいても。
「……行くぞ」
「おう!」
極力その姿は見ないように俯きながら言葉少なに、昇太郎は修行とはしゃぐ晦を引っ張り、依頼のビルを目指した。
「これは酷いな……」
屋上の惨状に、昇太郎は顔を顰めた。
そこら中に転がる空き缶、空き瓶。煙草の吸殻。
そして貯水タンクにデカデカとスプレーで大きく描かれたアルファベットの羅列。
見事に荒らされた屋上に、ビルのオーナーの老婦人もほとほと困り顔だった。
「鍵は掛けているんですけどね。夜になるとどこからか忍び込んで、ここをたまり場にしてしまうようなんですよ……」
はあ、と深くため息をつく老婦人。でも、笑顔で顔を上げると彼女は言った。
「先日対策課にお願いして、忍び込んでいた子供達は捕まえていただきました。だから後はここの片付けだけなんですが」
お願いします、と頭を下げられ、掃除屋はドンと拳で胸を叩いた。
「任しときや、ばっちゃん! わしがあっちゅうまに、ココ綺麗にしたるさかいな!」
「え?」
以前とは、まるで人が変わったようなミケランジェロの様子に、老婦人は目を丸くした。
誤魔化すようにゴホンゴホンと昇太郎が咳き込み、流石にこれは不味いと気付いた晦が「ミケランジェロ」っぽく煙草を咥えようとして更に咳き込む。
なんとかその場は取り繕い、屋上に2人残された昇太郎は、晦に恨みがましい視線を向けた。
「晦…なんとかもうちょっと、その…ミゲルっぽくならんのか、お前……」
「すまん、すまん。やっぱり慣れん相手は難しいな、ははは」
「で? お前、落書き消しは?」
「うん? 初めてやで?」
「稲荷の力で、なんとか出来たりは……」
「あー、どうやろ。一応相手の能力も真似する事は出来るんやけど……」
手の平に力を入れるが、何も起こらない。
悪びれない笑顔で晦は声を上げ笑った。
「ああ、あかんかった。親父殿ならまだしも、わしはまだまだヒヨッコや。だから修行中の身、言うたろ」
カカカ、と快活に笑う晦。もちろん外見はミケランジェロのままである。
本人がいれば、芸術の神の力で落書きを消す事を簡単だったのだが。
「……やっぱり、自分らの力でやるしかないんか」
深く息をつく昇太郎の肩を、これも修行と晦inミケランジェロは笑顔で叩いた。
浅い眠りの中、浮上した意識が最後に捉えたのは電子音だった。
「――ん?」
顔を起こした瞬間、バサリと床に雑誌が落ちる。
それを拾い上げながら、ミケランジェロは静まり返った事務所内を見渡した。
「……あー、そうか…………」
昇太郎はいない。自分が、依頼を押し付け訪ねてきた晦と一緒に追い出したのだ。
窓の外に目をやれば、日はまだ高い。それほど眠ってもいなかったようだ。
晦の、あの能力は便利だな、とミケランジェロは薄く笑みを浮かべた。
何とかして今後も、自分の代わりに依頼に行かせられないだろうか。昇太郎とも仲良くやっているようだし。修行と言えば、本人も喜んで引き受けるだろう。
そんな悪い考えを巡らせながら、胸ポケットからひしゃげた煙草を取り出し、火をつけようとデスクの上視線を走らせたミケランジェロは、そのランプの点灯に気付き、器用に片眉を上げた。
「ン?」
留守番電話の着信ランプだった。
起き掛けに聞いたのはこれだったのか、と未だボンヤリする頭を左右に振る。
特に何も考えず押した再生ボタン。6件です、の電子音声にも驚いたが、さらに彼を驚かせたのは、残っていたその内容だった。
1人目は、何か言いたそうに口篭り、また連絡しますと程なくして切れた。
2人目は、何かあったのではないか、とやたらとこちらを心配していた。
3人目、4人目にいたっては、何故か大爆笑。名も名乗らず延々と笑い声だけが残されていた。
5人目は、体調やストレスなど聞いてきて、よい薬があると言って切れた。
そして6人目……。
つい数分前、電話を掛けてきたその知り合いの青年にあわててミケランジェロは折り返し、ようやく己の身に何が起きているのか知ったのだった。
暫らくは手分けしての作業となった。
昇太郎は打ち捨てられたゴミ拾い。晦はタンクの落書き消し。
粗方拾い終わり、分別も終えた昇太郎は振り返り、晦のその様子に息つきながら肩を落とした。
修行と言われたとおり、ミケランジェロの姿のまま、慣れないモップに悪戦苦闘しながら晦は必死に落書きを消していた。
決して楽な作業ではない。それなのに、何故か晦の顔に浮かんでいるのは楽しげな笑みだ。
そんな見慣れぬミケランジェロの表情に、昇太郎としては疲れが増す。
とにかく落ち着かない、気持ち悪い、見ていられない。
それ程晦のミケランジェロにはギャップがありすぎた。
「なぁ」
「うん?」
「なんでお前、そんなに楽しそうなんじゃ?」
口をついて出たのは、別の事。ただの場繋ぎの世間話だったのだが。
「……わし、楽しそうか?」
背中を向けられたままそう返され、うーんと昇太郎は唸った。
自然、左手が頭部の、漆黒の中一筋入った銀色の頭髪に伸び、指で絡めとる。指先で弄りながら、何となくじゃが、と前置きをしながら昇太郎は呟いた。
「絵画の館ん時より、晦お前楽しそうじゃけぇ、そう思った」
確かにあの時は、自分達の生死も掛かっていたから、楽しいも何もなかったが。
今日の晦は、いつも以上にどこか浮かれているように見える。
「そうか……」
へへっと声はミケランジェロのまま、晦は小さく笑った。
「嬉しいんや」
「え?」
思わず、昇太郎は聞き返した。
「人の縁が、な」
それはどういう意味か問う前に、
「晦……、え!?」
突如凄い勢いで晦が振り返った。
野性のカンが何かを捉えたのか、その目は獲物を狩る鋭さを帯びて爛々に輝いている。
「ちょ、晦、お前……っ!」
突然の晦の行動以上に、突如変わった彼のその姿に、昇太郎は驚き声を上げた。
振り返り様、一瞬にして頭と尻から音も無く飛び出たのは、赤いフサフサの耳と尾だった。
紛れもない晦の証である。
しかし今、晦はミケランジェロの姿を模っている。
(ミゲルの、獣姿……っ!?)
例えそれが本人ではないと分かってはいても、今まで積もりに積もった疲労にやられている昇太郎には、そんなマニアックな親友の姿は衝撃が大きすぎた。
ガクリとその場で両手をついて脱力する昇太郎。
そんな彼にはお構いなしに、獣耳ミケランジェロはパタパタと尾を振りながら、屋上の入り口まで嬉しそうに駆けていった。
「掃除屋さん、お疲れ様です。アラ? 今耳が……?」
顔を出したのはビルのオーナーの老婦人。
流石に他人を目の前にして、瞬時に耳と尾を引っ込めた晦だったが、その瞳の輝きは失われてはいなかった。
「あの、それ……っ!」
フンフンと嬉しそうに鼻を鳴らす。晦の視線は老婦人の手元に集中している。
「あ、ええ。一度休憩でもと思って。お茶と太巻きと稲荷寿司を持ってきたんですけど……」
「いただきますっ!!」
子供のような無邪気な笑顔で、街の掃除屋は中の人の大好物の稲荷寿司を受け取った。
「…………」
見たくない物を視界に入れない方法は、なるべくそちらの方を向かず、尚且つ焦点をぼかす事である。
本当は知覚どころか、意識から遮断するのが一番なのだが、どうしたってそれが出来ないのには理由があった。
動くのだ、尻尾が。
「美味いっ! やっぱりお稲荷さんは最高やなーっ!!」
そう言ってそれは嬉しそうに差し入れの稲荷寿司を頬張る晦は、ミケランジェロの姿のまま、やっぱり頭に耳を、後ろには尻尾を生やし、フサフサのそれを嬉しそうに揺らしていた。
恐らくは長時間の慣れない相手への変化で、疲れが生じてきているのだろう。
その割には勢い良く、ご機嫌で稲荷寿司にパクつく晦。その顔は至福の笑みで満たされている。
笑顔のミケランジェロ、プラス獣耳である。
昇太郎の中の何かは、すでに限界を迎えつつあった。
2人仲良く向き合って、ビルの屋上で食べる太巻きに、稲荷寿司。
のんびり休憩などしていられなかった。昇太郎としては今すぐにでもこの場を立ち去りたかった。どこかこの晦ミケランジェロを見なくて済む場所に。
しかし依頼人の折角の好意だ。無下に断る事も、昇太郎の性格上出来なかった。
ならば一刻も早く休憩を終え、この落書き消し作業を完了させて事務所に戻る事が、この生き地獄から脱する唯一の方法。
「おお、昇太郎。いい喰いっぷりや」
どんより圧し掛かった闇の中やっと見つけた光明に、昇太郎は大急ぎで太巻きを口に詰め込んだ。
「そういえば」
稲荷寿司ばかり10個も一気に完食し、やっと一息ついたのか、尾を揺らすのを止め晦が顔を上げた。
「さっきの、な」
言われて昇太郎は何だったかと首を捻る。
一瞬晦に視線が行き、あわてて逸らす。畜生道に堕ちた親友の姿は、あまり見たくない。
「人の縁は、わしと昇太郎の事や」
「え?」
見たくなかったのだが。
そう、言われ、思わず昇太郎は晦に顔を向けた。
どこか照れくさそうにはにかんだ、ミケランジェロの顔がそこにはあった。
「銀幕市に実体化しなければ、出会う事もなかった。あの館に行かなければ、会うのはきっとずっと後やった。そう考えると、嬉しくてな」
日頃から鈍いと、人から向けられる好意に疎いと、言われてきた昇太郎。それはこれまでの人生が彼をそうさせてきた。
「わし、嬉しいんや。昇太郎と出会えて、友達になれて」
しかし、これ程までにストレートに向けられる好意は、さすがの昇太郎でも気付く。否、気付かずにはいられない。
彼自身も、そう素直に思えるようになってきていた。誰もがこの街に来て、人の情に思いに触れ、変わったのだから。
「ほんまに嬉しいんや」
「―――!!」
だからそんな直球の好意に、昇太郎は弱い。
それがけぶるような柔らかい笑みで、親友のミケランジェロの顔で言われたとあれば、昇太郎も平常ではいられなかった。
カッと、燃えるように顔に火がついた。言い訳する間もなく、取り繕う間もなく。
そして、トドメ。
「あ、おべんと付いてるで」
子供みたいやな、と笑いながら、ミケランジェロの姿をした晦は昇太郎の口の端に付いた米粒をヒョイッと摘むと、そのまま自分で食べた。
――ぶちっ
ここにきて、昇太郎の限界は、超えた。
「何してんだ、あの馬鹿ギツネぇェェッ!!!」
目撃者から事情を聞き、顔色を変えたミケランジェロ本人は、事務所を飛び出した。
依頼場所は分かっている。以前落書き消しにいったビルの屋上だ。確か、ミッドタウンの雑居ビル。
全力で走るミケランジェロの元、続々と携帯電話の着信やらメールやらで寄せられるのは、半分は心配した、半分は面白がった友人知人達からの、「どうしちゃったのミケランジェロ!?」情報だった。
曰く、爽やかに笑ってて気持ち悪かった。口調が関西弁丸出しで意味が分からなかった。背筋が伸びていて活き活きしていた。笑顔で挨拶されてイラッとした。もしかしてイメチェン? だったら超失敗。えーと何かの罰ゲームですか?
ありえない自分の姿をした自分の言動の数々に、湧き上がるのは羞恥の入り混じった怒りだ。
「全ッ然、なってねェ! 修行どころか、この分じゃ依頼も危ういんじゃねーかッ!? クソ、俺とウチの事務所の評判落としやがって。嫌がらせか、チクショウッ!!」
自分が面倒臭くて依頼の全てを押し付けた事など棚に上げ、怒りに任せ駆け上がったビルの屋上。
「何やってんだこの馬鹿ギツネッ!!」
バターンと、開け放った扉の向こう。
「――ミ〜ゲ〜ル〜……ッ!!」
ユラリと鬼気を纏い立ち上がる影が、ひとつ。
「――ッ!?」
そこに居たのは、修羅だった。
「お、ま、え、が、つ、ご、も、り、に、あ、ん、な、阿、呆、な、事、さすからじゃああぁぁぁボケエエェェェッッッ!!!!」
「う、る、せ、ェ、お、ま、え、も、見、て、い、た、ん、な、ら、止めやがれ馬鹿ヤロオォォゴルラアアァァァッッッ!!!!」
雑居ビルの屋上は、瞬く間に戦場と貸した。
モップ内に仕込まれた刃と、黒鞘の刀と、西洋剣が激しくぶつかり合う。
互いに精神的ダメージを強いられた掃除屋ファミリー。
当の元凶、爽やかミケランジェロを銀幕市に振りまいた晦は、すっかり仔狐の姿に戻り、2人の激闘には我関せずで昇太郎の分の稲荷寿司に舌鼓を打っていた。
天をも落とす勢いの激しい戦い。既に落書きどころか、貯水タンク毎どこかに吹っ飛んでしまっている。
後に、逃れられぬ多大な請求と、膨大な片付け作業が待ち受けていたが、
「行くぞウラアアァァァッ」
「ざけんなコラアアァァッ」
この時の2人は、知るよしもなかった。
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クリエイターコメント | オファーありがとうございました! 掃除屋さんの普段なら見られない姿に、書いていて笑いが押さえきれませんでした。(笑) 楽しいご依頼、本当にありがとうございました。 少しでも気に入っていただければ幸いです。 |
公開日時 | 2009-01-09(金) 22:20 |
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