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<ノベル>
水平線の向こうに微かに見える黒い靄。それに気を取られそうになった灯里に、後ろから待ての声が掛かった。
「おいおい、気になるからって、あんまりひとりでそっちに行くんじゃないぞ」
「あ、すいませんっ」
声に気付いて、慌てて灯里は後ろを振り返った。
そこには、彼女と共に穴の中へと進む、探索部隊のひとり、桑島平がいた。彼は灯里に、いつもの調子で些か荒っぽい言葉を掛けながらも、そこに見せている瞳はどこか緊張を帯びたものになっている。
桑島は、彼の相棒が穴への探索隊に参加しようとしているのを見て、自分が行くから、お前はここで待っていろ! と相棒に告げて、彼女の代わりにこの探索隊へと加わったのだ。
その桑島の横から、ひとりの青年がそうだよ、と灯里に諭すように告げながら現れる。吾妻宗主だ。
彼がここを訪れるのは初めてでは無い。だから、さほど身体に力が入った様子も無く、自然に海の上を歩いていた。
そう言いながらも、その緑の瞳をすっと細め、灯里が先程まで気に掛けていた、水平線の向こうへと目を凝らしていた。
彼の両手には黒い革の特注グローブが嵌められ、そして同じ色のコートの下には、鎖帷子を着用済みという重装備である。
一歩歩けば、ちゃぷ、と足元で立つ漣。
「……さて、一体この不思議な世界で、何が見つかるんだろうね」
不思議な暗さを保つ空を見上げながら、アストヴィールタ・ウェトゥムアーラはぽつりと呟いていた。彼は探索隊の中での事実上の年長者だからか、とても落ち着いた動きで、海の上を歩いている。その手には、美しい黒塗りの鞘から見ても分かる通り、骨董商から仕入れた日本刀を持っている。
「……う」
そんな彼に近付きそうになって、慌ててざざっと後ろに退いた青年がいた。スルト・レイゼンだ。どうやら例の如く、アストヴィールタの容姿が本能的に苦手なようである。スルトは今の行動を誰かに気取られてやいないか、と辺りをキョロキョロと見回し、そして誰も見ていないであろうとの結論が付くとほっと息を吐き、そしてゆるりと、海の下の光景に目をやった。
彼は町の危機を黙って見過ごせないと探索隊への参加を申し出た。おそらく彼自身の能力も封じられてしまうと刀を持ってきている。
だが、この穴に入ってから、どうにも彼の表情は複雑なものとなっていた。
その灰の背中に、ずんぐりと、巨大な剣を背負い、さらには腰にもひとつ剣を提げ、無表情のまま探索隊の後ろを歩いているのは、ノアクティ・スパーニダ。彼はいつもの無表情のまま、だがどこか覚悟を決めた表情で、ゆっくり前へと漣を進めている。その彼の表情には、少ないながらも、何かを決心している、確固たるものがある、そんな表情が浮かんでいた。
「歩ける、海……か」
そうぽつりと言葉を落としながら、少年(本当は青年)のバロア・リィムは、ちょん、と足先で下を歩く海をつついていた。
水溜りのように、広がる波紋。それは他の波紋とぶつかって、そして歪んで広がっていく。その様子をじっと見つめている事が、水面に映り込む、彼の真剣な表情からも見て取れる。
興味の赴くままに進もうとした灯里をひとまず留めた桑島は、くるりと振り向いて全員を見回した。
「いいか! お前ら、言うまでも無いと思うが、仲間がピンチな時は個人プレーすんじゃなくて、協力して助けっからな!」
そこには、自分が(外見的に)年長者であるから、と言うやる気というか気合いが身体中に溢れている。
「……そうだな。穴の中では、絆が大切だと思うんだ。だから、少しでも皆の力にする為に仲良くしてくれると助かる、かな」
桑島の言葉にスルトも頷き、茶目っ気たっぷりに瞳を輝かせてそう言った。そして、ちらりと腕輪の形にして装着されている、ゴールデングローブを眺める。
他の面々も、それぞれに二人の言葉を受け取ったようで、笑みを浮かべたり、表情は変えなかったが、頷いたりして不満の声を上げるものはいなかった。
全員が皆で協力するという意志を見届けた後、宗主がさて、と口にした。
「これからどう動いていこうか。俺としては、灯里さんが見ていた、黒い靄のようなものが気になるんだけど、どうだろう?」
「わたしもそれは気になっていた。折角皆の助けを借りてここまで来ることが出来たのだから、気になった事は徹底的に観察した方が良いんじゃないかな?」
アストヴィールタが同意する。
何を見つける事がこの町の為になるのだろう、自分は何をすべきなのだろう。彼の頭の中でそう考えながらの言葉だ。
「俺もあの靄、というものは調べるべきだと思う」
それまで皆の輪の中から一歩引いた形で話に加わっていたノアクティがぼそりと呟いた。その隣では、バロアがそうだな、と頷いて賛成の意を示している。
「よし、じゃあそれぞれでこの世界の観察をしながら、あの水平線まで歩いていくぞ! そうだ、スターのお前ら! 絶対、ゴールデンなんとかは身に着けて外すんじゃねえぞ!」
最後に桑島がそう宣言し、一行は黒い靄の辺り目指して歩き出した。
★ ★ ★
ざざざ。ざざざ。ちゃぷ、ちゃぷ。
一見すると、心地よい水の音がその空間に響き渡っている。だがその目に映るのは、どこか暗い、そして不気味な、空と海の空間。
どこまでも広がる、絶望の空気。
足元の水面にぽつりと浮かぶのは、紫のフード。
バロアは水面に目を落としていた。そこには、いつものおちゃらけた表情は一切見られない。あるのは銀幕市に住むものとしての、真剣さと、ほんの少しの魔導師としての探究心。
この世界は一体何なのだろうか。
ネガティブゾーンとは一体どういう仕組みなのか。
何故このような現象が起こっているのか。
水面下のゆらり、と奇妙に屈折した光の世界では、もうひとつの銀幕市の姿がそこにある。
「……やはりバロアくんも気になるかい?」
斜め上からそう声を掛けられて、バロアは顔を上げた。そこには、バロアと同じく水面に目を落としている宗主の姿がある。
「まあね。僕はこの水面下の街にも重大な何かがあるんじゃないか、と思ってるんだけど」
水面下に広がるのは、朽ちた、生気の無い銀幕市。奇妙に屈折した光の中で、ゆらゆらと揺れている。
「バロアくんは……、この世界をどう見ているんだい?」
宗主の言葉に、バロアは眉根を寄せた。しばしの間の後、口を開く。
「僕にもよくは分からないな。これは誰かの夢なのか。それとも神が作り出した世界なのか」
「夢、ね……」
宗主もしばし口を閉じた。その時、二人が見つめている水面に、唐突にふい、と浮かび上がるものがあった。二人は同時に反応し、その場から飛び退く。
何かが襲ってくるのかと思っていたが、それがただ浮いているものであった事が時間をおいて分かり、しばしの時間を置いてまたそっと近付いてみた。
「……」
それは、何とも表現し難いもの。白い、例えればトイレットペーパーのような細長くて、でも片栗粉のようなとろみを持ったものだった。
それは二人が見ている前で、奇妙に形を変えていく。ナイフのように鋭利になったかと思えば、ドーナツのように丸くなる。
どこか肌寒さを受けるようなものだ。
「……これは。前にも見たことがあるのと、同じ仲間なのかな」
「こんなものが?」
「……そう。こう、どことなく不気味なものが、ね。……これも負の塊が形になったものなんだろうか」
宗主はそれをじっと見つめて、そう呟いた。彼の脳裏では、今までのこの世界の足取りとを重ね合わせ、考察を繰り返している。
水面下に広がる海。その上を歩く事は出来るが、入ることは出来ない、奇妙な海。
どうして、穴の向こうには、この世界があるのか。もうひとつの銀幕市が、何の為にあるのか。
ゆったりと波がやって来る。ゆらゆらと揺れる、海面。
「それにしても。随分この辺りは静かだね」
アストヴィールタは、くるりと辺りを見回して、そう呟いた。確かに、入る時にはディスペアーの攻撃があった所もあったのだし、自分達は随分と穴の中へ、いわば他人のテリトリーへ侵入してきたのだから、何かしらの迎撃反応があってもおかしくはないはずだった。
だが、まるで嵐の前の静けさみたいに、ここは奇妙に静かな空間が広がるのみである。
「……確かに」
アストヴィールタの隣を歩いていたノアクティも、その静けさに同意した。
そして、この異空間とも言えるべき世界でも、興奮も、恐れも、欠片も面に出すことの無い、アストヴィールタの様子に、ほんの僅かに驚きを示す。
「珍しいな。おまえはここに来たのは初めてなんだろう?」
「……そうだね」
「それにしては、随分と落ち着いている」
ノアクティがそう言うと、初めてアストヴィールタはいたずらっぽく、微笑を見せた。そしてその表情のまま、そりゃあね、と呟く。
「わたしがかつて生きていた世界が生まれて、そして滅びる……を二度経験しているんだもの。並大抵のことでは動じないよ?」
だから、何が起きても恐れない。そう呟いて、水平線の向こうを見つめた。
そこには、ただ真っ直ぐに空と海が交わっているだけである。
「あの街に、未来をもたらしたいからね。事実と真実を客観的に見極めて、有能な情報として街に持ち帰ろうと思う……けど、やはり特殊能力はかなり制限されてしまっているね……」
アストヴィールタは、掌をかざして何事かをしようとしているようだったが、どうやら失敗に終わったようである。
「そうか……」
ぽつりとノアクティは呟いていた。そんな彼に、アストヴィールタは、きみはどうなんだい? と言うかのような眼差しを向ける。
ノアクティはその眼差しを受けてか、足を止めた。
そしてそっと、自分の掌を見つめる。その腕には、腕輪型のゴールデングローブ。
「……俺はこれを過信しない。ただこの中で、俺を信じているあいつを信じて、俺は進もうと思う」
「……それは悪くない考えだと思うよ? ここへ来た理由は、彼女の為、だからかな?」
柔らかく問いかけたアストヴィールタに、ノアクティはしっかりと頷いてみせる。
「……俺はあいつを殺さないと誓った。その代わり、あいつが生きていく上で邪魔な奴はこの手で始末する」
その確固たる想いの言葉。アストヴィールタは柔らかに笑みを浮かべ、それに耳を傾けている。
「あいつも俺も、絶望など吐く程味わってきた。……だから、あいつが掴み始めた希望をなくさせはしない」
絶望の中にひっそりと煌く希望が、彼の言葉には滲んでいた。
スルトは、普段だったら巻いてあるはずの、頭の呪布に触れようとして、その手を止めた。
彼の呪布は元々能力を抑える効果もあるものなので、今日は両手に巻いてある呪布以外は全て外してきているのだ。
どことなく薄気味悪い、薄ら寒さを覚える空を見つめるその面は、いつもと違い、どこか憂くような、何かを考え込むような、そんな表情が浮かんでいた。
その肩をばしりと叩く者がいた。振り向くと、そこには小型のデジカメを手にした桑島の姿がある。
「そんな暗い顔して空ぁ見上げちまってさ、どうしたんだ?」
「……――俺の能力のひとつに、人の負の感情を感じ取れる、というものがあるんだ」
彼は腕を見下ろした。そこには、腕輪型のゴールデングローブが嵌められている。
「今まで負の感情を感じ取れていい思いをした事はないし、無い方が良い、と思ってる。だから、今、能力を抑えられてこうして感情が感じ取れないこの今が良いのか、悪いのか……。ここには確かに、前面に負の感情が漂っているのが分かるが、きっと能力を抑えられていなかったら、もっと負の感情を感じているんだろう」
抑えた声音で呟くスルトに、再びばし、と桑島がその肩を叩く。
「まあそりゃあ、確かに俺にはおまえの気持ちまでははっきりとは分からないけどよ……、何て言うか、その、気持ちの持ちようによる所もあるんじゃねぇか?」
ま、せいぜい悩め、青年、と言い残して彼は先に歩いて行き、そして水面にカメラを向けていた。
それを見ていたスルトは、初めはどこか釈然としないムッとした気持ちでいたのだが、その言葉が、この絶望の空間で落ち込みすぎないようにとの桑島の配慮である事に気がつき、ふと笑みを浮かべた。
そして、一歩前へ踏み出す。
「……さっきから一体何を撮っているんだ?」
水面にカメラのレンズを向けてシャッターを押していた桑島が顔を上げる。
「ああ。いやさ、俺の相棒が、ここにはムービーキラーを治す方法が見つかるかもしれない、って言うもんだから、そいつの為に何か関係のありそうなもんを探してるんだ」
桑島はそう言って、そうだそうだ、これも持ってきたんだから使おう、とポケットから小型のボイスレコーダーを出し、録音のスイッチを入れた。
カチリ、と小さな音がして、その機械は動作を始める。
「ムービーキラーか。……そうだな、ここでもし何か持ち帰る事が出来るものがあったら持ち帰りたいが……どうだろう」
スルトも視界一杯に広がる水面に目を落とした。
★ ★ ★
しばらく観察や考察を繰り返しながら進んだだろうか。彼らが入ってきた穴は、やや最初に見た頃よりも小さくなっていた。
その時不意に、スルトがその足を止めた。元々殺気などには敏感な彼は、前方に何かの気配を感じたのだ。
ややあって、それぞれ気配に聡い面々も、前方の気配に足を止める。
「……そういえば、もうそろそろ灯里が見たと言っていたあの黒い靄とやらの場所の付近でもおかしくはないね?」
「……そうですね……あ!」
アストヴィールタの言葉に頷き返した灯里は、何かを発見したらしい。やや小走りな足取りで進んでいく。
「だからあんまりひとりで行くと危ねえって言ってるだろ!」
桑島はその行動を心配して彼女の後を追いかけていった。皆も、それぞれ彼女の後を追いかける。
そして、目の前に現れた光景に、思わず彼らは足を止めた。
「これは……」
宗主が目の前の光景に、何かを思い出そうとしているような仕草を見せる。
彼等の目の前には。
ぽっかりと。
また、穴。
それはどこか異様な光景だった。
並々と湛える海の中に、ぽかりと穴が開いているのだ。まるでその中に吸い込まれるかのように、海の水が流れ込んでいっている。だが、奇妙な事に、滝のようにごうごうと流れ落ちた時に上がる音は無い。
異様な静寂。
その穴を前に、宗主がそうだ、思い出したと声を上げた。
「この穴、俺達が入ってきた、あの銀幕市にある穴に似ていないかい?」
その言葉に、皆が一様にその穴をまじまじと観察して、頷く。
「そう言えば、そっくりだ」
「……ああ」
「これ程までに似ていると、何だか異様に感じるね」
確かに、その海原に開いている穴は、その形と言い、大きさと言い、銀幕市に開いた、今こうしてここにいる発端となっているあの穴にそっくりだった。
奇妙に似通っている。
「……中も、あの穴のように、漆黒なのかな?」
バロアはそう呟いて、そろりそろりと警戒しつつ、穴に近付いていった。
そして、その穴を覗き込もうとした体勢で、そのまま固まる。
「……? どうしたんだ?」
そのまま固まったバロアの姿に疑問を抱いたスルトも、そろそろと彼に近付いていった。そしてバロアの隣に並ぼうとして、その先にある気配に、固まった。
「?」
他の面々も、そろりそろりと穴に近付いて、そして固まる。
その穴から背中をぞくりと撫で回す、寒気が広がったから。
それは殺気と似ていて違う、異様な、そして奇妙な気配。
「……なんだ?」
ノアクティがぼそりと呟いて、そしてその穴の中を覗き込んだ。
そこには。
不気味なごつごつした背中が。
大きな鱗が。
ところどころに白い、膨らんだ何かが。
とぐろを巻いて。
あの、レヴィアタンが、そこには、いた。
「……ひっ」
穴の中を覗いた途端、灯里はカメラを持ったまま、後ろに転がるように尻餅をつく。灯里以外の者達は、皆さすがに灯里程の動揺は見せなかったものの、出会ったものへの驚きにその身体を張り付かせていた。
だが、その中でもアストヴィールタは、あまり動揺らしき動揺も見せず、落ち着いた目つきでレヴィアタンがいる穴の中を覗いている。
「それにしても……随分と大物に当たったみたいだね。眠っているのかな? わたし達は気付かれてはいないみたいだ」
その横でも以前にも穴に入り、この大物と一戦をまみえたことのある宗主が、落ち着き払った様子でそのレヴィアタンの身体を眺めているようであった。
「……確か前に会った時には、東博士が爆弾をぶつけたと思ったんだけど……どうやらその時に受けた傷は治っているみたいだね」
なるほどよくよく見てみると、その身体には傷のようなものは無い。
頭から尾まで、海のような、藍色が続き、腹と思われる部分は白い色が続いている。
「なるほど……このレヴィ……なんだっけ? このフウセンウナギみたいな奴は、この穴をねぐらにしてるって事か」
そろそろとアストヴィールタの隣までやって来た桑島がぽつりと言う。
「対峙出来るものなら、情報を掴めるだけ掴みたかったけど……流石に大きいな……」
バロアはどこか悔しそうにその巨体な身体を見下ろしている。バロアの言葉に、ノアクティも、そうだな、と冷静に頷いていた。
「これだけの大きさに、何も分からないままぶつかるのは無謀だろうな」
「……それに、レヴィアタンに遭遇したら直ぐに撤退、と言われているしな」
スルトもそのレヴィアタンをじっと観察しながら言う。
「ひとまずレヴィアタンがこの穴にいる、という事は分かったし、気付かれる前に一旦この穴から離れようか」
宗主がそう言った時、カシャリ、と奇妙に高い音がした。
それはその場に訪れていた静寂を破るには十分な音で。
「ひっ……!」
尻餅をついていた灯里の手で、彼女はそのシャッターのボタンに触れていないのに、いくつもそのカメラのシャッターが切られている。
カメラの液晶画面に映るものは。
丸い灰色の円に、まるで地蔵のように目と鼻と口が浮かんだもの。
意味を成さない、白い小さな、手。それがいくつもいくつも。
同じ時、桑島のポケットに納められていたボイスレコーダーからも、まるでそれがマイクになったかのように、奇妙な音が響き出した。
ギィィイィィィイイイイ。
七人は、そっと穴の中を見下ろす。
そこには、さっきまでは無かった、一対の目が。
ぎょろりと、七人を睨みつけていた。
その青黒い皮膚が、初めて邂逅した時と同じように、ぶくぶくと膨れ上がる。
「まずい! 徹底するぞ!」
その身体の変化にいち早く気が付いた宗主が、叫んだ。
★ ★ ★
ざわざわと、海面がざわめいていた。穴からは、津波のように、波が起こっている。
七人は戦闘能力のない灯里を先頭に、その場からの撤退を試みようとしていた。
「私は普段は使貴を呼べるから、もしここでも呼べれば、灯里に乗って欲しかったんだけど……」
アストヴィールタが、自らの影を見下ろしながら言う。確かに彼の影に棲んでいる証に、その影は揺ら揺らと蠢いていたが、彼の期待通りに使貴達が出てくる事は無かった。
「まあ、仕方ないね」
彼はそう言って、腰に提げていた、黒塗りの漆の鞘から、す、と刀を引き抜いた。
周りでも、同じく刀、剣を引き抜く、独特の金属音が響き渡る。ノアクティの、身長程もあろうかという長いクレイモアと、スルトがどこからか借りてきた刀が引き抜かれる音だ。
穴の中から、バチン、ブチッ、バチンという、あの、皮膚がつぶれる音が響く。
そして、穴から、異様な長いひれのようなものを付けた、顎がやたら大きく、歯が生え揃っている生物の群れが溢れ出てきた。
それは空をすいすいと泳いで、そして一斉に、ムービースターへと襲い掛かっていった。
ごうっ。一歩前に出たスルトに、顎をかっと開いたディスペアーが襲い掛かる。スルトは両手で刀を握り、斜め右から斜め左下へと刀を一閃した。
ディスペアーは綺麗に真ん中で二つになり、そして空気が抜けたかのように破裂する。
それを横目で見ながら、今度は背後から襲いかかってきたディスペアーへと斬りかかった。
後方へと下がっていたバロアは、掌を複雑な形に組む。きらりと、指にしていた指輪型のゴールデングローブが、光を受けた。
「真なる世界の支配者、空に眠るもの、その形を依り代に。そしてこの場に現れ給え」
彼の詠唱が終わると共に、バロアの影から黒いものが蠢き、そして数体の影となって辺りへと散っていった。その影に幾つかのディスペアーが食いついていくが、彼が想像していたよりも早く、その影は霧散してしまう。
「く……」
やはり制限されているか。そう考えながらも、すぐにポジティブな方面に脳内を切り替え、走り出した。
そうしながらも懐に手を差し入れ、彼の宿敵から譲り受けた短刀を手にする。
丁度その時、暖かい何かに触れた気がした。
「……」
懐にはもうひとつ、彼の居候先から貰った、兎のお守り。
バロアはそれを指先でスッと触れると、瞳を細め、短刀を掲げていた。彼の周りに集まりつつある、ディスペアーに向けて。
ぶん、とクレイモアを振るうと、風を切る音が大きく響いた。その音と共に、幾つかのディスペアーがぶつぶつと斬り飛ばされる。
ノアクティはじりじりと後方へ撤退しながらも、冷静に、空を泳ぐディスペアーの群れを追っていた。
「どうやらあまり俺には攻撃されないようだね。きみ達がいるからかな?」
その横で、宗主はディスペアーの群れを冷静に見つめつつ、す、と足を右に出し、体重を流すかのように移動させて、黒い革の特注グローブが嵌められた右手を前に出した。
それは宗主の体重を綺麗に載せ、ディスペアーにぶつけられる。ディスペアーはその重みを受けて、容易く潰れていった。
それを確認した彼は横に目線をやり、そして駆け出した。
七人の中で、まあ言わば一番緊張感のないアストヴィールタだが、その細身の身体で、重量のある刀をすいすいと操って、ディスペアーを斬り捨てていた。
表情は穏やかなまま、幾つもディスペアーが弾き、斬り飛ばしていく。
その動きは、ムービースターの能力、という訳では無く、幾重にも重ねてきた年月が成せるものであった。
「……よくそんな細い腕で、ヒョイヒョイと重いもんを操れるな……」
隣では、額に薄っすらと汗を浮かべながらも、相変わらず纏わりついてくる、顎が異様に発達したウナギを斬り捨てていた。いつもは呪布に覆われている筈の黒の髪が、ふわふわと舞っている。
「まあね? これでも一応、星の数ほどの時を生きているからね。そうそう腕の力でも負ける気はしないよ?」
そう言ってアストヴィールタは微笑んだ。
手にしている刀をひらりと閃かせて。
桑島は、真っ先にムービースター目掛けて飛んでいったディスペアー達に銃を向けていた。幾つかは空を切って向こうへと飛んでいくが、乾いた音が響くと同時に、泳ぐ力を失った。ディスペアー達が海の底へと沈んでいく。
時々自分の周りにも襲ってくるディスペアーは、全神経を集中させ、確実に撃ち落していた。
幾つもの轟音が波間に響く。
「――!」
桑島が確認の為に全員の姿を見回し、とある事に気が付いた彼は駆け出していた。
ディスペアーの群れは、一斉にムービースター達に襲い掛かったので、戦闘力を持っている彼らはそれの退治に掛かりきりになっていた。
だから、気付いていても、幾重にもディスペアー達が纏わりついていて抜け出す事が出来なかった。
戦闘力が皆無な灯里に、僅かだがディスペアーが向かってきていたのだ。灯里も何とか動き回って逃げているが、何も無いところで突如躓き、すてんと転んでしまう。
「危ねえっ!」
桑島が真っ先に灯里の前に駆けつけ、そして今にもその大量の歯を開いて襲い掛かりそうなディスペアーに、銃口を向ける。
桑島が引き金を絞るのが早いか、ディスペアーが桑島のその引き金を絞る手を噛み千切るのが早いか――。
その瞬間、時間が止まりそうな中で、確かに彼はその声を聞いた。
銀幕市で知り合ったばかりの筈なのに、昔から知り合いだったかのように仲が良い、いつもその陽気なペースに引き摺られそうになる、友人の声を――。
ダァン――――。
「危ないっ!」
桑島が引き金を引くと同時に、横合いから飛び出してきた宗主が、ディレクターズカッターを振り下ろしていた。
二つの攻撃を受けたディスペアーはその攻撃に耐え切れず、空中で粉々に破壊されていく。
宗主は人外とも呼べる速さの動きで、灯里の周りをうろついていたディスペアーを斬り捨てると、まったく、と呟いて桑島の前に立った。
「仲間がピンチの時は個人プレーじゃなくて、協力して助けるって言ったのは、どこの誰だい?」
口調は柔らかかったが、その目は真剣な光を浮かべていた。
それを見て、桑島はついつい出てしまった自分の悪い性格に、頭をかいて縮こまる。
「いや、すまん……つい……」
「……まあ、仕方ないか。でも……、皆で協力して助け合う……だよね?」
桑島がそろりと見上げた先には、宗主のどこかいたずらめいた、でも柔らかな微笑。桑島もその笑みに、に、と笑って返す。
そして立ち上がった。銃を手に。
「よし、皆で協力していくぞぉ!」
絶望にまみれたその空間。上空には、ディスペアーの群れがひしめいている。
――その中に、明るい声が響き渡る。
★ ★ ★
ぶ、ち。
穴から顔を覗かせたレヴィアタンのその皮膚が再び膨らんで、そして弾けた。
絶望の空間に、薄気味悪い音が響き、そしてディスペアーの群れが舞い上がる。
「くそ! またあの薄気味悪い生き物がくるぞ! おまえから先に退け!」
「は、はいっ」
桑島がそう叫びながら灯里を出口へと促した。そのディスペアーの群れは先程と変わらない習性のようで、ムービースター目掛けて飛び掛っていく。
それを前方で、ある程度の戦闘力を持つ者達が主力となって、それらを潰していった。そしてじりじりと後方へと後退していく。
「……どうやらあのレヴィアタンとやらは、穴からは動かないようだな」
もうひとつ持ってきていた、普通の長さの剣を横に振りぬいて、ノアクティの前方にいる群れを一息に海に沈めながら、彼はぼそりと気付いたことを呟いた。
その後ろから再び襲い掛かってきた大量のディスペアーの群れに、その剣を一度鞘にしまい込むと、再び背中に背負っているクレイモアを一息に抜き放つ。
抜刀すると同時にそれを海まで垂直に振り下ろし、ざぱり、と空を泳ぐ魚達を切り裂いた。
重い剣が、刀が風を切る独特の鋭い音が二つ。
「そうだね。できればレヴィアタンの弱点を見つけ出したかったけれど、この状態ではちょっと難しいね?」
相変わらず落ち着き払った様子で、アストヴィールタは刀を構え直した。その美しい曲線美を持つ刃が幾重にも宙を舞うのだが、異様な数を誇るディスペアーの群れが減ることはない。
彼はとん、と身軽に後ろに蹴って後退すると、そのまま膝を付きながら刀を振り下ろしていた。鮮やかな閃光がひとつ、舞う。
「この世界に住まう風の精、遠きから来、空を見つめるその神の吐息よ、どうかこの場に舞い降り、そして軽やかに舞い給え」
ふわ、と詠唱を続けているバロアの掌で、微かに風が珠のように巻いていた。それと同時に七人の身体がほんの僅かだが、軽くなり、動きやすくなる。
「僕的には、地面から浮くつもりで詠唱してたんだけど……、まあ、仕方ないか」
バロアはそう独り言のように呟くと、肩を竦めてくるりと桑島の方を向いた。桑島は全体の動きを見つつ、特に灯里の周りに群がろうとするディスペアーに向けて銃弾を放っている。
「ねえ、その銃もう一丁持ってたりしない?」
桑島はバロアの唐突な問いに、怪訝な表情を向けた。
「そりゃあ、ねぇかと言われればもう一丁持ってるけどよ……。どうするんだ?」
「僕にそれを貸してくれないか?」
バロアは真剣な眼差しを桑島に向けた。桑島はそれを見、もうもうひとつしまっておいた銃を取り出す。
「分かった。だけどな、この場限りだからな?」
「ああ。助かるよ」
バロアは笑みを見せ、そしてくるりと身体を反転させると、彼に向かって飛び込みつつあったディスペアーに向けて、その引き金を絞った。
轟音が二つ、響き渡る。
ひとつは外れたが、もうひとつはディスペアーに命中し、その生き物は空中で霧散していった。
「やっぱり勘じゃ、なかなか当たらないか……」
彼はそれでも屈する事無く、再び銃を構えた。
――確かに僕達はこの世界からしてみれば、ちっぽけな存在に過ぎないのかもしれない。
だが、潰されてたまるものか。
掴んでやる。次の、一歩を。
右横から襲ってきた気味の悪いウナギをスルトは、その刀を一閃して斬り捨てた。だが、刀を振って無防備になって反対側から、もう幾つかのそれらが飛び掛ってくる。
「!」
スルトはとっさに、今までの戦闘で外れかけていた左手の呪布を外し、そこから血の霧を出そうとした。
だが、何秒か血の霧は出るものの、それは直ぐに血の珠となって足下の海へと落ちていく。
ぽつり。
ぽつん。
海に落ちた赤が、綺麗に、舐めるかのように拡散して消えていく。
それと同時に、右手に鋭い痛みが奔った。気を取られている隙に、スルトの右手に、そのガッチリとした、やたらとギザギザした歯が食い込んだのだ。
「ち……」
小さく舌打ちをしたスルトだが焦ることなく、だが素早くそれを振り落とそうとする。丁度その時、横合いからぶわりと風が吹き、彼に食いついている魚に漆黒が閃いた。
ぶちゅり、と嫌な音を立ててそれは潰れ、それと同時に、スルトの左手の痛みも引いていく。
「……助かった。ありがとう」
「いえいえ。怪我の具合はどうだい?」
スルトの隣まで来ていたのは宗主だった。
彼は気遣いの言葉を掛けながらも、相変わらずの滑らかな、無駄が一切無い動きで、彼の目の前を囲んでいたディスペアーを一掃していた。
「さあ、もう一息ってところかな」
宗主は、彼らが入ってきた入り口を振り返る。
★ ★ ★
ざわり、と水面に波紋が立ち、それは幾重にも連鎖を起こして遠くまで広がっていた。
七人は襲い掛かってくる、と言うよりはまるで飛び掛ってくる、と言った表現が正しいかもしれない、ディスペアーの群れを何とか掻い潜りながらも、じりじりと入ってきた所に向かって後退しつつあった。
灯里は仲間の中でも一番先頭を走りつつも、チョロチョロと動き回っては六人の闘う姿をカメラに収めていた。バロアの掛けた風の魔法により、いつもはどこか鈍い彼女も、数倍の速さで機敏に動くことが出来る。
一番前、つまり最後尾で戦っている彼らには、未だにその奇妙な群れは襲い掛かっていたが、それも最初の頃に比べて数が減っていた。彼らはそれらをチャンスに、撤退するスピードを上げる。
「よし、このまま何とか撤退出来るといいね……?」
アストヴィールタは、レヴィアタンとの距離を見やる。あの奇妙に、入ってきた穴と似通っていた穴の中にいたレヴィアタンを見た時は、それは自分の身体の数倍もの大きさがあった筈なのに、今こうして見ると、その巨体は半分以下に小さくなっていた。
その距離を冷静に見やりながらも、彼は刀を横に出す。相変わらずのスカスカな手ごたえと同時に、その空を泳ぐ魚に刀が突き刺さる。
その時、遠くから、つまりレヴィアタンから、どこか不吉な音が響いた。
ぶち。ぶちゅ。ぶちゅ、ちゅ。
「……あれは一体どのくらい身体にディスペアーを溜め込んでいるんだ? 懲りずに飛び出てくるな……」
ノアクティがぼそりと呟く。彼の視線の先には、空を埋め尽くすほどの、魚達の大群がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。
漆黒が、蠢く。
「あともうちょっとだ! 全力で走りきれっ!」
桑島が、皆に発破を掛けた。皆が待っていてくれるはずの入り口は、すぐそこだ。
灯里の斜め後ろを走っていたバロアが、行け、とばかりに灯里に手を振った。灯里は一番に、その穴へと飛び込んで。
――誰かの手が、がしりと彼女の腕を掴んでいた。そして、穴の向こうへと引っ張られていく。
次に入り口についたバロアと桑島は、そこでお互いにくるりと振り向き、銃を構えた。
銃弾が飛ぶ。乾いた音が、薄暗い空間に響く。
それは、最後尾の面々とぶつかり合っているディスペアーの幾つかを撃ち落していく。
「さあ! スターの方が狙われやすいから、先に行って!」
宗主は彼らに襲い掛かるディスペアーへ拳を繰り出す。その横を今まで最前線で剣や刀を振るってきた面々が走り抜けていく。
宗主の背後では、彼らを支援してくれる皆が、騒がしくディスペアーと闘っていた。
ここは、絶望の中。それは深く、暗く、果てしないと思ったけれど。
――けれども、その中のちっぽけな希望は、ここには幾重にも集まっている。
彼はふ、と口の端を上げると、その中へと飛び込んでいった。
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クリエイターコメント | 大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。 そんな訳で、この穴はレヴィアタンとの邂逅と相成りました。お疲れ様でした。 皆様方は基礎戦闘力がかなりある方々ばかりでしたので、かなり特殊能力を押さえ気味に描写させて頂いております。とは言いましても普通にバッサバッサ闘って頂きましたがvv それでは、この後は集合ノベルの皆様方の支援をお待ちしましょう。 ご参加、ありがとうございました!
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公開日時 | 2008-06-28(土) 23:00 |
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