★ 【崩壊狂詩曲】ソリティア・ウィステリアの献身 ★
<オープニング>

 その日、銀幕市で行われた神音(ジンネ)の屋外コンサートには、市内外からたくさんの観客が訪れた。
 神音という歌手は、謎が多く、情報などの露出が少なく、歌をうたう以外のことは何も知られていないに均しいが、その歌声の美しさ、5オクターブを超える凄まじい音域と、音を幾重にも重ねたかのような不思議なハーモニー、独特の、宗教音楽を思わせる神秘的なメロディは、人々の心を鷲掴みにし、陶酔させて放さないのだ。
 コンサートが始まっておよそ二時間、青々と澄んで深遠すら思わせる秋空には、ゆったりとした夕闇の帳が降りかけていたが、誰もが、時間の経過を忘れて、不思議で神秘的な音の世界に酔い痴れていた。

 FahrenSire,Fahren Sirene Vidare Je Nahme.
(愛しい人よ、あなたはどこに)
 FahrenSire,Fahren Sirene Ahdal Je Nahme.
(愛しい人よ、あなたは誰)
 Nahme Je Il Signowerta,Da Ar Rila Nieme.
(あなたが沈黙だとしても私はあなたを愛する)
 Tiera! Nahme Je Che Fosteallia Re Che Grouvia,Da Ar Rila Nieme.
(そう、あなたが終焉だとしても)
 Ar Rila Nieme,Zare Arle,“Ar Rila Nieme Un Ar Theche Nieme Yelt Rilate.”
(私に愛を教えたあなたを)

 それは、とある映画のために神音が提供した、特別に甘美な歌だった。
 その映画のことを、神音は今でもくっきりと覚えている。
 『ソリティア・ウィステリアの献身』。
 愛を知らぬ――それゆえに欲する――孤独な“知の魔王”リアティアヴィオラと、誇り高く誠実な“黒の勇者”ジグノヴェルトの戦いを、命とは、生とは、愛とは、存在とはなんであるか、という問いを交えて描いた、激しくありながら静かで哲学的な物語だ。
 そこで神音は、運命を告げる語り部を演じ、物語の一端を担った。
 もう何年も前に公開されたその物語の映像を隅々まで追憶しながら歌声を響かせ、思う。
(生きることは愛することだ、と、人は言うが)
 高く、遠く、低く、静かに、時に激しく。
 メロディは、歌声は、コンサート会場の外にまであふれ、流れ出してゆく。
 時折、顔を覆って泣き崩れる者がいるのは、感極まって、ではなく、神音の歌声、人為的に――神音にとって、そのほとんどは無意識だが――脳内麻薬を発生させることの出来るそれに、心の傷を揺さぶられ、同時にその痛みを甘美な赦しの中に浸すことが出来たからだろう。
 神音の歌声は、たったひとつの方向を向いて紡がれる。
 神音はそのために存在するのだから。
(……それは、歌わぬ私は私ではない、ということと、同じだろうか?)
 ぽつりと思い、ほんのわずか、目元を和ませる。
 だとすれば、それは、幸せなことなのだろうと思ったからだ。
 緩やかで穏やかな自己肯定。
 疑いようのない存在意義。
 “知の魔王”リアティアヴィオラが、物語の最後に得たのと、同じものだ。
 この会場にいる誰にも、それがあるのだろうと考えれば、静かな共感が滲み出て、神音の胸を満たす。
 ――それが起きたのは、その時だった。
 広いコンサート会場ゆえ、後ろの方まで神音の姿が見えるようにと、神音の背後及びステージの両脇には巨大なモニターが設置してある。
 ぱっ、と、画面が切り替わったその瞬間、そこに映ったのは、
『……! ! ……!! ……、……!!』
 慟哭しながら、金の髪の美しい女にナイフを突き立てる、少女の姿だった。

 ざわざわざわッ!

 モニターの映像を目にした観客の間に動揺が広がる。
 悲鳴が、怒号が、――慟哭が、神音の耳に飛び込んでくる。
 モニターの中で、少女は、泣きながら、もがくように足掻くように、女を切り裂いていく。
 ――華やかですらある赤に染められ、事切れた女が、フィルムに変わる。
 ああ、ではあれはムービースターだったのだ。
 そう思うより早く、一体何故、と思うよりも早く、スタッフが、警備員が、事態の収拾のために飛び出して行った。
 ざわめきが熾き火のようにくすぶる観客席に、制服を着た人々が到達し、人々に避難を促し始める。

 か、しゃああああぁあぁんッ!

 唐突に響き渡るのは、ガラスの割れる、甲高い、断末魔のような、絶叫のような、破砕音。
「……?」
 見遣れば、今回のコンサートのお祝いに、と贈られた――ただし贈り主は不明だ――、一対の美しい姿身、『ソリティア・ウィステリアの献身』で使われたのと同じデザインの、ステージの両脇に設置してあった大きなそれらが、ふたつとも粉々に砕け散っていた。
 ぎょっとなった人々が動きを止めるが、一瞬後には我先にと会場から逃げ出して行き、――その恐慌一歩手前の力にスタッフも警備員たちも抗し切れず、泣き叫びながら女を殺した少女の姿は、人の波に飲み込まれてしまっていた。
「……割れた」
 粉々に砕け、ステージに散らばる鏡の破片を見て、何故か肝が冷えた。
 鏡の持つ意味。
 真実という暗喩。
 それが割れた。
 ――何か、とてつもなく不吉なことが起きているような気がして、神音は眉根を寄せて周囲を見渡した。
 そこへ、マネージャーの久我正登が走り寄ってくる。
「神音、何をしているんですか、ここは危ないですから早く逃げてくださ――……」
 正登は強引に神音を楽屋へ戻したかったのだろうが、それは果たせなかった。

(巫子よ、巫子)

 愛を囁くような、蠱惑的な声が、じわり、と聴こえ、
「……え?」
 正登が間抜けなほど不思議そうな顔で周囲を見渡した、その時。

(あの男は、どこ)

 割れた鏡の破片が、銀の色をしていたはずのそれらが、血のような真紅に、変わった。そして、しゃらしゃら、からからと音を立てながら、ひとつの場所に集まっていく。
 ぞく、と背筋を悪寒が走る。

(あの静寂は、どこ)

 不意に、ざわあああ、と風が吹いた。
 夜空なのにそれと判る、真綿に墨を吸わせたような雲が、周囲を覆い尽くし、それに合わせるかのように、暗闇が不自然なほどの速さで忍び寄ってくる。
 風は斬りつけるような鋭さと冷たさを伴っていて、それを浴びた人々、逃げ送れてこの場に残っていた観客やスタッフ、警備員たちが、その場にばたばたと倒れ伏していく。
 そこにいたのは、それほど大人数というわけではなかったが、それでも両手では数え切れないほどで、一体何が、と思ったところで倒れたのが女性ばかりだと気づき、神音はまた眉根を寄せる。
 男たちは、不安げに、もしくは訝しげに、辺りを覆う異変を見渡している。

(どこに隠した、どこに)

 覚えのあるその声、深い知性と孤独に彩られていたはずのそれは、いまや、怨念を思わせるどろどろとした情念によって、淫靡にかすれて、ひどく熱っぽい。

(どこにいる)

 声の主が探しているものが何なのか、神音には判る。
 探しやすいように女たちを眠らせたのだろうとも。
 地面にわだかまる真紅のガラス片が、徐々にかたちを変えていく。
 少しずつ少しずつ、人のかたちをなしてゆく。
 ――見覚えのある、姿に。
「では、あれはやはり。――ならば、きみは」
 名を呼びかけて、唐突に胸を押さえる。
 何ひとつとして意図してはいないのに、そんな予兆があったわけでもないのに、心臓を、背骨を、肺腑を、まるで抉るかのように、激烈な感情が駆け抜けていく。
「なんだ、これ、は、」
 それを何と呼ぶのか、神音は知っている。

(ほしい)

 昏い熱情をはらんだ声。
 同じ声が、神音の中でも聞こえている。
 ――同じように、この場に巻き込まれ、意識を保っている人々も、同じものを聞いている、感じていると、意味もなく確信している。

(ほしくてほしくてたまらない、手に入れなくては――どんな手を使ってでも)

 昏い昏い、深い深い、渇望。
 絶望すら覚えるほどの。

(邪魔をするならば、すべてを、敵と)

 何故、という問いは、今は遠かった。
 全身を斬り裂かれるような胸の痛みに苛まれ、意識が明滅する。
「穏やかに、眠る、道を……」
 目の前に傲然と佇む人物を視界の端に捉えながら、神音はゆっくりと崩れ落ちる。
「選んだのでは、なかった、のか」
 冷ややかな敵意と殺意と、絶望的なまでに深い渇望と。
 それらを、目の前の人物が放っていることに、危惧ばかりが募ったが、神音になすすべはなかったし、――いつの間にか、正登の姿が消えていたことにも、気づけなかった。



「……と、言うわけだ」
 唯瑞貴(ユズキ)の、不思議な色合いの双眸が、その一帯だけが深い闇に覆われた、元々は神音のコンサート会場であった場所を見遣る。
「あれの内部には、神音を初めとして、恐らくまだ数十人が取り残されている。こちらから入ることは出来るが、出ることは出来ない。――ああ、中に、何かいるんだろうな」
 コンサート会場で起こった殺人事件は、様々な方面に影響が波及しつつあった。
 あちこちで、何かが起きている。
「魔王陛下が、放っておくと大変なことになると仰せでな、私が派遣されたんだ。神音は、『天獄聖大戦』で冥王陛下を演じた人物でもあるしな」
 要点は、簡潔だ。
 あの、闇の檻の中へ入り、中にいる何かを斃す、もしくは説得して、逃げ遅れ捕らわれた人々を助け出す。
 中には、何か、よくないものがいて、恐らくは戦いになる。
 まず間違いなく、楽な依頼では、ない。
「――……正直、あまり気は進まないが、やるしかないだろうな」
 惨劇と、苦痛と、慟哭を予感させる暗闇を見遣り、息を吐いたのち、歩き出す。
「ああ、それと、もうひとつ。中にいるのが何なのか、私には判らないが……あそこへは、男しか入れないようだ。いかなる種族であっても、性別が女であるならば、中に入ろうとすると弾き飛ばされる。――ああ、そうだな、どうせ血腥い戦いが待っているのなら、痛い思いをするのは男だけでいいと、やせ我慢をするのも悪くない。別に、戦うのは男で、女は家にいるべきだと思っているわけではないが、……女というのは、笑って、幸せでいてほしいと、思うからな」
 闇を見つめる唯瑞貴の眼差しは、静かで、深い。

 待ち受ける強大な何か。
 暗闇を満たす、激しい渇望。
 ――手の届かないものだからこそ、欲するのだろうか。



(ほしい、ほしい、ほしい)
(どうしても、手に入れたい)
(どうしても……叶わないからこそ)
(手に入れなくては、壊れてしまう)
(手に入れなくては、狂ってしまう)
(……壊れるくらいなら、狂うくらいなら、壊そう)
(この手で壊して、抱いていよう)
(裁くものさえ、いないというのならば)

種別名シナリオ 管理番号787
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメントこの度、ありがたくも神無月まりばなWR、高槻ひかるWR様おふたりの胸をお借りしまして、三名によるコラボ企画とあいなりました。

当シナリオでは、コンサート会場に取り残された人々を捕らえて『何か』を探すムービースターと相対し、神音を筆頭とした人々を救助することがメインになっています。

ムービースターがなにものであるのか、何を望み、何を欲しているのか、どう戦い、どう斃すのか、もしくは説得を試みるのか、それらを各方面からアプローチし、捕らわれの人々を助け出してください。

ご参加の際には、1.唯瑞貴とともに依頼を受ける 2.神音とともに巻き込まれる のどちらかのシチュエーションをお選びいただければ嬉しいです。

戦いは激しいものになるだろうと思われますので、戦闘系でないPCさんは充分に活躍していただけない可能性があります。ご注意ください。

同時に、どんなに強い心をお持ちのPCさんであっても抗えぬ、強い強い渇望の力が闇の中には満ちています。望まぬ胸中を白日の下に晒され、滑稽で醜悪な自己を突きつけられ、踊らされて、他者を傷つける覚悟を充分にお持ちの上、挑んでくださいませ。

なお、こちらのシナリオは女子禁制となっております。
拘束力はありませんので女性の方にも入っていただけますが、入っていただいたとしても、ほとんど描写されない・活躍できない、添え物的扱いになってしまうことを覚え置きください(性別『その他』の方で、男性寄りの性質の方は恐らく大丈夫だろうと思われます)。

そして、こちらのシナリオは、プレイングの優劣・濃淡によっては登場率に極端な偏りが出る可能性があります。十枠開けてございますが、時と場合によっては、半数程度しか活躍していただけないかもしれません(必ずそうなる、というわけではありませんが、100%採用される確率は低いです)。
そちらもまた、ご理解・ご納得の上、挑んでいただければ幸いです。


*お願いとご注意点*
今回の三シナリオはすべて、同時系列による事件でございます。
同一PC様による複数参加はご遠慮ください。
また、募集期間も短めの4日間となっておりますので、お気をつけ下さいませ。

それでは皆様のご参加を、切にお待ちしております。

参加者
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
アル(cnye9162) ムービースター 男 15歳 始祖となった吸血鬼
狩納 京平(cvwx6963) ムービースター 男 28歳 退魔師(探偵)
フェイファー(cvfh3567) ムービースター 男 28歳 天使
千曲 仙蔵(cwva8546) ムービースター 男 38歳 隠れ里の忍者
紫檀(cehy5501) ムービースター 男 24歳 呪われし者
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
黒光(ctmb7023) ムービースター 男 18歳 世界の外側に立つ者
取島 カラス(cvyd7512) ムービーファン 男 36歳 イラストレーター
<ノベル>

 1.In the Dark

 中へ入るのは、ほんの一瞬。
 そこは、不安ばかりが掻き立てられる闇の中だった。
 先ほどまで感じていた、潮の香りは欠片も残されてはいない。
「魔術による照明は……可能か」
 辺りをぐるりと見渡した黒光(こくこう)が、何ごとかを小さく唱えると、彼の掌に静謐な明かりが灯り、周囲を仄かに照らし出した。
「ついさっきまで、コンサート会場だったはずなのに……」
 取島(とりしま)カラスは眉をひそめる。
 美しい海辺の光景が垣間見えるコンサート会場、半日前まで、美しい音楽と喧騒、そして生気に包まれた清潔な場所であったはずのそこは、今や、襤褸切れのような黒い木々に覆われた、沈鬱な闇の森へと変貌していた。
 この事態を引き起こしたムービースターの故郷の姿なのか、それとも、誰かの心象を映しているのか。
 いずれにせよ、見ていて楽しいものではなく、長居をしたいと思う場所でもなかった。
「位置で言えば、正面入り口誘導路付近、と言ったところか。ステージに至るまでおよそ五百メートル……のはずだが、どうも、そうは思えない雰囲気だな。まぁ、内部の構造が歪んでいたら、これもあまり意味はないが」
 屋外コンサート会場の見取り図を取り出し、図面と周囲とを見比べて、
「……寒々しい光景だな」
 シャノン・ヴォルムスが呟く。
 その隣のアルは、小さく頷いたものの、何か不具合でもあるのか、眉根を寄せて胸の辺りを押さえている。
「空気が、重い……」
 普段は穏やかな光を宿した銀眼を、今は何故か昏(くら)く沈ませて理月(あかつき)が言う。
 銀幕市の人々に、包帯姿がデフォルトとすら思われている理月だが、今回も、先だって受けた依頼でまたしても傷を負ったらしく、あちこちに痛々しいほど白い包帯が巻かれている。
 受けた傷の所為とは思えない、理月の沈鬱さに、普段の、無邪気な、可愛らしいと言って過言ではない性質を知る人々が、不思議そうに――訝しげに彼を見ていたが、理月はそれにも気づいていない様子だった。
「このままここに立ち尽くしていたとしても埒が明くまい。手分けをして、中に取り残された者の探索と救助、そしてこの場を創り出している者への対処を行うべきだろう」
 黒光が淡々と提案すると、周囲から同意の首肯が返る。
「ふたり一組が妥当だろうな、この場合」
 言って、シャノンが傍らのアルを見遣る。
「アル、一緒に行こう。気心の知れた者が隣にいてくれた方が、俺としてもやりやすい」
 シャノンの言葉にアルがまた小さく頷く。
 義理の兄弟として、また恋人同士として、深い信頼と絆とを互いに抱くふたりだ、その道往きは、どちらにとっても心強いものとなることだろう。
「はい、シャノン。では、ご一緒します」
 アルの表情はやはり少し暗く、また、滑らかな白皙はいつにも増して白く、冴えなかったが、シャノンにそう声をかけられたことで、少年吸血鬼はどこか幸せそうに、はにかんだように微笑んだ。
 それを微笑ましげに見詰めたあと、カラスは理月を見遣る。
「理月君、よかったら俺と――……」
 カラスと理月は友人同士だ。
 カラスは理月の実力を知っているし、やわらかい心根に好感を抱いてもいる。
 だから、探索を一緒に、と思ったのだが、
「俺は……ひとりでいい。ひとりで行く」
 返った言葉は、静かだったが、断固とした拒絶を含んでいた。
「でも、理月君、この先何があるのか判らないんだ、ひとりでは危険だよ」
 勿論カラスは、理月の強さを知ってはいるし、彼ならばどうとでもするだろうと思いもするのだが、大丈夫だからと言う理月の、頑なですらある――多分に闇を孕んだ――眼差しに、却って不安が募り、眉をひそめて再度声をかけたが、理月は小さく首を振った。
「……怖いんだ」
「え?」
「俺の中で声がする。それが怖いんだ」
「なんだって、理月君?」
 ぽつりとこぼされた小さな言葉、ひどく聞こえ難いそれを訝しみ、カラスが再度問いを口にするよりも、理月が歩き出す方が早かった。
 漆黒の、しなやかな後ろ姿が、あっという間に闇の中へと消える。
「……理月君……?」
 伸ばしかけた手を宙に彷徨わせ、カラスが呟く。
 唯瑞貴が、追うに追えずにいるカラスの肩を叩き、小走りに彼の傍らを行き過ぎる。
「私が行こう。カラスは、黒光と行ってくれ」
 カラスは頷き、気をつけて、とだけ言った。
 言い知れぬ不安が、冷気のように足元を這い上がって来る。
 一体何が起きているのかと思いつつ、パートナーとなった黒光に視線を移す。
「よろしく、黒光君。足手まといにはならないつもりだから」
「……ああ」
 黒光の声音は平坦で、焦りや不安とは無縁に思える。
 彼と連れ立って歩き出しながら、カラスは、重苦しい何かが圧し掛かって来ているような錯覚に捕らわれていた。
 胸の奥を掻き回されるような、思考を掻き毟られるような、狂おしい何かが、周囲を包んでいるような気がする。
「……なんだろう、これは」
 小さな、独白に近い呟きに、黒光がちらと視線を寄越す。
 カラスは苦笑して首を横に振り、表情を引き締めて前を見据えた。
 何かが起きている。
 その何かを知ることが、第一歩だ。



 2.Saturation

 それが起きた時、千曲仙蔵(ちくま・せんぞう)はコンサート会場のただ中にいた。
 彼は、自分が――引いては彼の一族が、すべてを賭して仕えることの出来る唯一無二の主人を探すために、こういったコンサートや大規模な講演、人通りの多い街角などにはよく足を運んでいるのだ。
 今日の、神音のコンサートにも数千人規模の観客が訪れると聞き、運よくチケットが手に入ったのもあって、観客として音楽を楽しみながらも人間観察に精を出していたのだが、そこであの惨劇が起きた。
 少女が泣き叫びながら美しいムービースターを殺し、周囲が騒然としたあと、暗闇が辺りを包み込んだ。
 逃げ遅れてその場に取り残された人々の中で、女性だけが意識を失って崩れ落ちたのを、危険のないよう移動させた仙蔵は、一緒に取り残された男たちが不安げに周囲を見渡している中、ステージ上で倒れた神音が気にかかり、そちらへと飛び乗った。
「神音殿、どうした、しっかりしろ」
 力を失ってぐったりとした身体を抱き起こし、呼ばわるものの、返事はない。
「一体、何が……」
 異常というべき状況に、仙蔵が眉をひそめた時、
「閉じてやがるな」
 何故かモップを手にした、銀髪に紫の目の、細身の男が、顔をしかめながらステージに上がって来る。
 ジャーナルでもよく見かける顔だ。
 名を、確か、ミケランジェロと言ったか。
 仙蔵は小さく首を傾げ、名乗ったあと、ミケランジェロを見上げる。
「閉じているとは、一体……?」
「『場』がな。内向きになってやがる。――まァ、簡単に言や、ちょっとやそっとじゃここから出られねェってこったな」
 先ほどまでの快晴ぶりが嘘のような、もう百年も二百年も朝日を忘れたままのような、沈鬱な暗闇の中で、辛うじて残ったステージの明かりだけが、拠りどころのように弱い光を灯している。
「ふむ……」
 仙蔵は周囲に気を配りつつ思案する。
「先刻割れたあの鏡といい、この暗闇といい……一体、何が起きている……?」
 あの、鏡が割れた、寒々しい音は、断末魔の絶叫のように今も仙蔵の耳にこびりついており、不吉ばかりを彼に届けるが、ともかく、神音を初めとした、意識のない人々の身の安全を守ることと、そしてこれを引き起こした何かへの対処及びここからの脱出方法を考えるしかないだろう。
 取り乱して右往左往したところで、何かが変わるわけではないのだ。
「ミケランジェロ殿、ともに探索を――……」
 仙蔵が言いかけた辺りで、観客席から悲鳴が上がった。
 ふたり同時にそちらを見遣れば、ムービースターと思しき青年が、何ごとかを喚き散らしながら、手にしたナイフを振り回し、逃げ惑う人々を追い回し、執拗に、必死に攻撃を加えていた。
 悲壮な、絶望すら漂う眼差しに不安が募る。
 ――同時に、背中を、何か重苦しいものが撫でていく。
「チッ」
 小さく舌打ちをしたミケランジェロが、ステージから飛び降り、彼らに駆け寄ろうとして、
「……ッ!?」
 その手前で驚愕の表情を浮かべ、がくりと膝をついた。
 軍手に包まれた手が、胸の、心臓の辺りをきつく押さえる。
 ――まるで、中から何かよくないものがあふれ出て来る、とでも言うように。
 不意に、別の誰かが悲鳴を上げ、泣き叫びながら、その場に落ちていたガラス瓶を拾い上げた。握り締められたそれが、ミケランジェロの後頭部に躊躇なく叩きつけられる。
 どれほどの勢いだったのか、瓶は粉々に砕け、ミケランジェロが呻き声を上げて倒れたのが見えた。
 銀髪に、じわりと赤黒い液体が滲む。
「ミケランジェロ殿……!?」
 仙蔵は無論、彼の元へ向かおうとしたのだ。
 今、危機にさらされている隣人を、放ってはおけない。
 しかし。
「ぐ……!?」
 ぞわり。
 何かが背筋を撫でた。
 その途端、仙蔵は身動きが取れなくなった。

(ほしい)

 聞こえてきたのは、誰の声だったか。
 聞き覚えがあるような、ないような、曖昧な声だった。

(手に入れたい。手に入れなくては)

 聞こえて来るそれに、心臓を握り潰されるような気分になる。

(そうでなくては、壊れてしまう。――あの日のように)

 ――声は、いつしか、自分のものになっていた。
 脳裏を巡る、懐かしい、慕わしい、故郷の映像。
 仙蔵様、と、自分を呼ぶ、年若い忍たちの声と笑顔が蘇る。
 未だ果たされぬ渇望が、不自然なほどに強い、身を切る痛みとなって仙蔵を襲う。
「俺は……」
 視界がぶれる。
 思考が緩慢になる。
「何を、するべき、だった……?」
 ここがどこだったのか、今の自分が何をしていたのか、自分がどんな状況に置かれているのか、それすらも判らなくなる。
 ただただ、手に入れなくてはならないものへの激しい欲求、頑是ない子どものように欲しがる気持ちばかりが募り、胸が苦しい。
 ぞわり。
 闇が濃くなる。
 ――衣擦れの音がした。

(そなたの求めるものを、与えよう)

 情念と熱にかすれた妖艶な美声が、仙蔵に投げかけられる。
 神音の身体を抱いたまま、仙蔵はゆるゆると視線を上げた。
「貴殿、は……」
 そこには、漆黒の、シンプルなドレスを身にまとった、真紅の髪と目の、凄絶なまでに――ひと目見ただけで魂までも呪縛されそうなほど、絶対的な、圧倒的な力を持った――美しい女が、佇んでいた。
 彼女は、大女優SAYURIと同じ顔をしていたが、今の仙蔵にとってそれはどうでもいいことだった。

(わたくしはリアティアヴィオラ。“最果ての虹”に住まう、知の魔王)

 鮮やかな赤の、宝石のような瞳が、仙蔵を見詰める。

(そなたを信頼し、すべてを委ねよう。そなたの望むすべてを与えよう)

 それだけで、仙蔵の思考は痺れ、目の前の女に意識を支配されていく。
 すべてを賭して仕える絶対の主人。
 それが仙蔵の欲するものだ。
 そして、素晴らしい主に仕えることで、己の属する隠れ里に日の目を見せてやりたい、ばらばらになってしまった一族を再びひとつにまとめ、確固たる絆で結び付けたい、そんな願いによって仙蔵は『出来て』いる。
 彼女は、知の魔王リアティアヴィオラはそれを叶えるという。
 叶えてくれるはずだ。
 叶わないはずがない。
 だとすれば、自分のすべきことなど、決まりきっている。

(わたくしの元へ、偉大な忍よ)

 白い、美しい繊手が差し出される。
 ――仙蔵は、それを、迷いなく取っていた。
 何かがおかしいと躊躇するだけの思考は、今の彼にはなかった。
 腕の中から、神音の身体が滑り落ちたことにも気づいてはいなかった。

(わたくしを守り、わたくしを助けて。わたくしの願い、渇望のために)

 女の言葉が、鎖のように仙蔵を縛ってゆく。
 仙蔵は彼女の傍らに跪き、陶酔の眼差しで彼女を見上げた。

(わたくしの敵を、滅しなさい)

 絶対的な声が、仙蔵に命ずる。
「――……御意」
 仙蔵は重々しく――しかし陶然と――頷いた。
 今やリアティアヴィオラの敵は、自分の敵だ。
 主人を危機に晒すもの、主人の願いを妨げるものを、仙蔵は倒さなくてはならない。
 恐らく、激しい戦いが待っているだろう。己にすべてを預け、任せてくれる主人のために、仙蔵は死力を尽くさねばならないのだ。
 しかしそれは、何という充足だっただろうか。
 仙蔵はいつしか、満足げに微笑んでいた。
 ――それが、この『場』によって不自然に増幅された感情なのだということにも気づけずに。
 誰かが、嗤っていることにも気づけずに。



 3.a mad desire

 狩納京平(かのう・きょうへい)は呆然と立ち尽くしていた。
 ――目の前で、愛し慕った師が死ぬ様が何度も繰り返されていた。
 今にも触れそうな位置にありながら、手を伸ばしても、叫んでも、慟哭しても、何ひとつとして届かない場所で、師が何度も死んでいく。
 満開の桜の下で、誰よりも信じ愛した師が、血にまみれて事切れる。
 最期の晴れやかさ、笑顔が、尚更哀しくて、京平は打ちひしがれ、闇の中で蹲る。

(ほしい、ほしい、ほしい)
(どうしても、手に入れたい)
(どうしても……叶わないからこそ)
(手に入れなくては、壊れてしまう)
(手に入れなくては、狂ってしまう)
(……壊れるくらいなら、狂うくらいなら、壊そう)
(この手で壊して、抱いていよう)
(裁くものさえ、いないというのならば)

 どろりとした情念に彩られた渇望の声が聞こえて来る。
「違う……そうじゃねぇだろう……」
 蹲り、膝を抱えながら京平は弱々しく首を横に振る。
「愛するのは、簡単だ。だが、愛されるってぇのは難しいんだ……誰かに愛されてる、って気付けなきゃ、あんたは永遠に虚無を抱えたままだ……それでいいのかよ……?」
 そう、自分は確か、神音という歌手のコンサートに来ていたはずだ。
 そして、並々ならぬ渇望を抱いた何者かが、この暗闇を創り出したのを見た。
 あの声を聴き、それは違うと言ってやろうとした。
 ――それが、何故、自分は、師の死を何度も見せ付けられているのだろうか。
 吹っ切ったはずだった。
 あの少年が、それを教えてくれた。
 だが、目の前に、己が無力を突きつけられるたび、不自然なほどの重苦しさで、黒い何かが胸のうちに沈殿していく。
 目の前で、また、師が崩れ落ちる。
 悲鳴を飲み込む。
 ほしい、と熱っぽく囁く声が、辛うじて京平の意識をつなぎ止めている。
「違う……たとえ、力ずくで奪っても、そいつぁ真におまえのものにはならねぇんだ……。裁かれないからって何してもいいってもんでもねぇ」
 自分に言い聞かせるように、自分を鼓舞するように、一言一言、しっかりと口にする。
 目を覆いたいのに、身動きが出来ない。
 絶望がじわじわと足元を這い上がってくる。
 どうして、と、頑是ない子供のように泣き喚きたくて仕方がない。
 我を忘れて叫べれば楽になれるのに、それを、あの声が阻む。
 理性が、必死で、自分を見失ってはいけないと叫んでいる。
 ――それすらも、彼を堕とすための細工なのだと、気づかずに。
「俺は、あんたを知らねェが……あんたには……大切な人がいたんじゃねぇのか? そいつはこんなことを望んでいたのかよ。そいつを哀しませて何になるってんだ……」
 それが、自分を追い詰めていることにも気づかずに、京平は、声の主に語りかける。
 間違った方向を向いたまま、昏い願望に身を焦がしたところで苦しいだけだと、京平は身を持って知っているからだ。
「誰かに裁かれるまで、ってなァ……虫のよすぎる話じゃ、ねぇのか……? そんなもんを理由に、勝手なことして、誰が救われるって言うんだよ……?」
 繰り返される幻の惨劇に、胸が痛い。息が苦しい。
 無力感が己を苛む。
 あなたの所為ではないのだと、誰かが教えてくれたはずなのに、それも今は遠かった。
『だったら』
 唐突に、師が、こちらを見た。
 く、と、血をこぼす唇が笑みのかたちを刻む。
 それが嘲りだと気づいて、
「師匠、」
 呆然とした京平が何か言葉を紡ぐよりも、早く。
『虫がいいと他者を断罪しておきながら、自分は他人の死を願うお前は、何だ』
 血塗れの唇が、厳しい断罪を突きつける。
『仇だろうが何だろうが、切れば血が出、死ねば哀しむ誰かがいる人間の死を、ただ自分の復讐のために願うお前は、何だ。――王か、絶対者か。それとも、神か?』
 京平を孤独にし、京平からたくさんのものを奪った男。
 京平が世界を動かすという予言を拒絶し、自らが現人神たらんとした土御門家の当主だ。
 母も、居場所も、師も、彼と彼を取り巻くものたちが奪っていった。
 殺してやりたい。
 死んでしまえばいい。
 死ぬべきだ。
 死ななくてはならない。
 鬱々と、怨念が叫ぶ。
『お前のそれもまた、罪だ』
 突きつけられた指が、いつの間にか、京平の頬に触れていた。
「あ……?」
 師の眼差しは優しい。同時に、冷たい。
『お前の望みを知っているぞ、京平』
「な、」
『――……俺がいつ、蘇りたいと言った?』
 京平は息が止まるかと思った。
 師の全身から、真っ赤な血が滴っている。
「それ、は……」
 十六歳の春だった。
 彼を、満開の桜の下で看取ったのは。
 喪いたくなかった。
 彼だけが、京平にとっての家族だった。
 師は何も後悔せず、何も恐れずに笑って逝った。
 それでも、京平の絶望と怒りは、深かった。
 不可能なことだと、魂の奥底に封印していたけれど、本当は、今でも、もう一度彼に会いたい、傍に戻ってきて欲しい、生き返って欲しいと、子どものような願望を抱いている。
『……戻って来て、欲しいのか』
 師の静かな声が浸透し、思考に靄がかかる。
 京平が素直に頷くと、師は彼に、形見であった退魔の太刀、鬼斬丸を渡し、周囲で右往左往する人々を指し示した。
『なら、あいつらを殺せ。ひとり残らずだ』
「な、え……」
『俺に戻って欲しいんだろう。命を戻すには命の糧が必要だ』
 見上げると、師の瞳は、冷ややかな愉悦を宿して京平を見ている。
 京平はのろのろと首を横に振った。
「そんなこと、出来る、はずが……」
『なら、俺は二度と戻らん。それだけのことだ』
「……!」
 こんなことを言う人ではなかった、こんな冷たい目をする人ではなかった、と、何かがおかしいと気づく余裕は今の京平にはなかった。
 重苦しく圧し掛かる、深い深い渇望、意識の奥底に封印していたがゆえに激しく強いそれが、京平の魂を揺さぶり、彼の思考を狂わせる。
 ぐにゃり。
 視界と意識とが歪む。
『気づけ、京平。ヒトは皆身勝手だ。あの魔王も、俺も、お前も。己のために他人に犠牲を強いる姿こそヒトの真実。――その、何を恥じる必要がある』
 微笑む姿は、ありし日の師そのものだ。
 ――還って来てくれるのだ。
 京平が、犠牲を捧げさえすれば。
 その覚悟を持ちさえすれば。
 今や正常な判断を失った京平は、鬼斬丸を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
 くくく、と、師が嗤う。
 京平もまた、すこし笑った。
 もう一度、彼と同じ時間が生きられるのなら。
 それだけが、今の京平を満たしていた。

 * * * * *

 紫檀(したん)はこめかみを押さえて小さく溜め息をついた。
「……凄まじい情念が渦巻いているな」
 紫檀は、偶然友人からチケットを譲られてコンサート会場を訪れ、巻き込まれた。
 音楽は確かにどれも素晴らしかったが、結果がこれでは締まらない。
「まったく、運のない」
 自嘲気味に苦笑し、周囲を見渡す。
 事件が起きる前は、観客席の中央辺りにいた紫檀だが、どこからともなく響いてくる音の反響具合や、風の吹き方、空気の動きなどから、コンサート会場そのものが変質してしまっていることを感じ取ることが出来た。
 恐らくは、暗闇とともに顕れたなにものかがもたらした、ムービーハザードの一環なのだろう。
 何が起きたのか、完璧に理解しているわけではなかったが、人間とは異なる生き方を強いられ、そう存在し続けてきた紫檀は、様々な知識と技能に長けている。
 砕け散った鏡の欠片が真紅に変わったのも、暗闇に閉ざされたコンサート会場が何か別のものへと変貌していることも、今や沈鬱な闇色の森となったここに、咽喉がひりつくような錯覚を伴う激しい渇望が満ちていることも、紫檀には見えたし、感じ取ることが出来た。
 そして、先ほどまでステージであった場所、もうすでに闇に飲まれて見えない向こう側で、何か深刻な事態が起きていることも。
「聞こえてきた、あの声――……」
 恐らく神音に向けて発せられたのであろう声を、紫檀もまた聴いていた。
 紫檀は、神音が先刻までうたっていた歌が主題歌として使われたという、今回のこの事件の発端となったと思しき映画を知っているわけではないが、歌詞と、言葉と、状況とを鑑みるに、
「激しい渇望に身を焦がし、精神の均衡を失った、か……?」
 どうやら、少々厄介なことになっているようだ。
 四方から壁が迫ってくるかのような感覚は、この『場』が閉じていることを表している。この中で起きている『何か』を解決しない限りは、外へ出ることすら出来ないだろう。
 どうすべきかを思案しつつ、割れた鏡と、真紅に変わった破片とを思う。
 あの真紅の欠片は、まるで、声の主の心が流した血を吸い上げたかのようだった。
 それほどまでに強く欲する、手に入れなくては己が壊れてしまうと言う渇望を、紫檀はどこかで知っているような気がする。長い長い永遠を生きるうちに、過去と同様に綺麗に忘れ果てたと思っていたが、その実、彼の内側に根を張って居座るものだ。
「強さに差こそあるが……深刻な乾きのようだ。まるで、全身を焼かれるような――……」
 あまりに激しいそれに、酔いそうになる。
 こんなものに晒されて、長時間正気を保ち続ける自信は紫檀にはなく、悠長に構えている暇はないと、彼は辺りを観察しながら歩き出した。
 知の魔王の求めるものとはなんだろう、と思う。
 愛、と口にしてしまえば、陳腐な響きしかなくなる『何か』を探しているのだろうか、とも。
「私……俺にも、あったはずだが」
 それは、長い時間を生きる発端となった感情のはずだ、紫檀にとっても。
 だが、彼にとってのそれは、遙か昔にかたちを変え、歪み変質してしまった。
 今もそれが生きる糧であることは確かだが、決して肯定的な意味での『糧』ではない。
 だからこそ、尚更、紫檀は、この事件の中心と思しき知の魔王リアティアヴィオラが、歪み狂った愛に踊らされ、道化を演じさせられて、苦しいままで彷徨うことを憐れだと思うのだ。
「苦悩と狂おしい渇望を抱いたまま眠らせるのも酷だ……できれば、どうにかしてやりたいが」
 求めるものが愛だとして、愛を与えてくれた男を探しているのか。
 だが、他者を巻き込み、無関係な人間を傷つけて、最後に何が残ると言うのだろう。
 歌詞と、神音の言葉から伺える、本来のリアティアヴィオラからは、あまりにもかけ離れているように思える。
 それとも、本来の自分さえも判らなくなるほどに、もう、狂ってしまっているのだろうか。
 しかし、そもそも、この狂おしい『場』を創り出したのは、リアティアヴィオラ本人なのだろうか? 彼女が顕れたからこの『場』が出来たのか、彼女とこの渇望の『場』とは実は別物なのか。
 後者と考えれば、リアティアヴィオラの変質にも、納得は行くのだが。
「狂い、壊れる前に自ら壊す……か」
 彼が人間という存在を逸脱するきっかけとなった、はるか昔には愛していたはずの女を思い出しながら、呟く。
「だが……己の手で壊そうとも、残骸に囲まれようとも、乾きは深くなるばかりだ。結局のところ、望むものを手に入れることも癒されることもない」
 紫檀を他者に渡したくないあまり、死の間際に紫檀を縛り、彼を永遠の責め苦の中に落とした彼女を憎み恨みつつも、愛していた自分を、かすかに覚えている。
 確かに幸せだった、遠い遠い自分のことも。
「壊すことは何かを他の誰かから奪うことかもしれないし、新たに手に入れる可能性も自ら潰すことになる。……それにすら気づけぬほど、歪んでしまったのか。一体、何が、そう歪ませてしまったのだ……?」
 不可解に満ちる、この渇望。
 紫檀もまた、己が内に根ざす、絶対的な渇望に気づいてはいる。
 終焉を願う己に気づいている。
 だがそれは、常に内へ内へと向かうものだ。
 それゆえに、彼はまだ正気だった。
 無論、このまま内なる渇望が強くなりすぎれば、どうなるかは判らない。
「……意識が危うくなる前に、進むとしよう」
 ひとまず、リアティアヴィオラと神音を探して状況を進展させよう、と、紫檀は闇の向こう側に向かって踏み出す。
 ――どこかから、絶叫と慟哭、悲鳴と怒号が聞こえて来る。
 のんびりしては、いられない。



 4.drown

 フェイファーは全身の激痛に耐えていた。
 パニックを起こし凶暴化した人々が、波のように押し寄せ、彼は幾度も、強かに打ち据えられた。
「う……」
 エネルギー体である彼の傷口は黄金の色をしている。
 赤い血は流れないが、ダメージは受けている。
「何で、だ……?」
 神音の声に誘われて、会場を取り囲む鉄骨の縁で、ごろりと寝転び、音楽を聴いていたところに起きた事件だった。
 少女が泣き叫びながらムービースターを殺す惨事と、倒れてゆく人々、そして暗闇に包まれてゆく周囲に驚いて会場へと飛び降りたフェイファーは、心臓を鷲掴みにするような『問い』に晒され、身をふたつに折って蹲った。
 自分などどうなってもいいと思うくらい深く恋うた娘の、透き通るような笑顔が脳裏を過ぎった。
 壊れるくらいなら壊そうという言葉がどこかから聴こえ、それは違うと言い掛けて思わず口を噤んだ。
 その無意味を悟ったからだが、同時に、己の抱える古い願望を刺激されて苦しくなったからでもある。
 本当に大切なものならば守ろうと思うはずだ。
 自ら壊し、欠片を留め抱くなど、自己陶酔にしかならない。
 愛するとは即ち、真実相手の幸せを望むことが本質なのだと、思う。
「……答え、訊かねぇと……」
 低く呻きながら身を起こそうとしたところで、ステージの一部をへし折ったと思しき金属の棒を手にした男、彼自身も誰かに打ち据えられたらしく、全身を傷だらけにした青年が、泣き喚きながら駆け寄って来て、何ごとかを叫びながら、その棒をフェイファー目がけて振り下ろした。
 ごつり、という、鈍く生々しい音がして、目の前を星が飛ぶ。
「……ッ!!」
 エネルギー生命体であっても、肉の器を創ってその中に収まっている状態のフェイファーには痛覚もあるし、ダメージも受ける。
 咽喉の奥に熱いものが絡んで、ごほっ、と咳き込んだら、金色の光が唇からこぼれた。
 ――だが、反撃しよう、という意志に、その激しい痛みはつながらない。
 この事件の中心となったムービースターが何を思ってあの哀しい言葉を紡いでいるのか、訊きたいという願望はある。説得し、穏やかに事態を収束させたいという思いもある。
 そのためには戦わねばならないことも、本当は判っている。
 だが、胸の奥からあふれ出す激しい渇望が、フェイファーから戦意をそぎ落としていく。
「……リタ……」
 唇が、恋しい娘の名を呼んだ。
 生きて欲しくて、禁忌を犯して命をつないだ。
 幸せになってほしい、もっともっと、生きる楽しさを知ってほしいと、そう望んで掟を破った。
 神のエネルギーを彼女に与え、彼女を生かした。
 それは天使たちにとって大罪で、フェイファーは罰を受けた。
 『凍って』いた間のことは、もう、どうでもいい。
 そのあと、彼女がきちんと幸せに生きられたのか、満ち足りて死ねたのか、確かめることは出来なかった。見守ることも出来ず、彼女が幸せの中で最期を迎えられたのかも判らない。
「リタ、おまえは、どうだったんだ」
 あれは結局、自分の自己満足でしかなかったのかも知れない。
 彼女はそれを望んではいなかったのかも知れない。
 もしかしたら彼女は、自分を置き去りに姿を消した、無責任なフェイファーを憎んでいたのかもしれない。
 魂が揺らぐ。
 胸が苦しくなる。
 彼女と一緒に生きたかった。
 彼女を守り、彼女の笑顔を見ていたかった。
 自分は、本当なら、すべての人々に幸いと愛を注ぐ使者でなくてはならない。天使とは、そういう存在なのだから。人間たちの幸いのために彼らはいるのだから。
 それなのに、今のフェイファーは、たったひとりを恋い、たったひとりの幸せだけを願っている。
 ただそれだけの渇望が、あとからあとから湧き出してくる。
 こんな自分は、天の使者など名乗れないのかもしれないと、天の使者である資格などないのかもしれないと、苦悩が胸を掻き乱す。
 恐らく、フェイファーと同じような渇望、苦悩にさらされて自失しているのだろう、手に手に武器を――それは『武器』と呼べる立派なものではない場合がほとんどだったが――持った人々が、八つ当たりのように自分を襲っても、フェイファーの戦意は奮わなかった。
 問いと渇望が、フェイファーから意志を削いでいく。
 意識が危うくなる。
 恋しい気持ち、手に入れたいと言う思い、それが叶わないことを知っている苦しみ、あまりにも激しい感情の奔流が、フェイファーの肉体と精神とを傷つける。
「……それでも……」
 必死で意識を凝らす。
 脳裏を美しいメロディが巡っている。
 ――絶望したくない。
 歓びをもたらす存在であり続けたい。
 自分自身のアイデンティティのため、彼を大切に思ってくれる人々のためにも。
 唇がかすかに動いた。
 人々に打ち据えられ、棒きれや石ころのように地面を転がりながら、フェイファーは、自分を覚醒させるための何かを、懸命に探し続ける。

 * * * * *

 ミケランジェロは、全身を襲う激しい痛み以上に、背筋を這い上がる悪寒に震えていた。
 彼は今、パニックを起こした人々が、何故そうなったのか、それを、身を持って味わっている。
 ――声が聞こえるのだ。
 自分の内側から、抗い難い声が。

(人間はいつまでも何も変わらない、どうしようもない阿呆のままだ)

 人間たちは、常に争い、傷つけあって苦しんでいる。
 傷つく痛みを理解出来ないはずがないのに、何度も何度も同じことを繰り返す。

(いつまでも愚かなままでいるのなら、いっそすべて『消して』しまえばいい。そうすれば、彼らの苦しみを消してやることが出来る)

 己が内側から響く声。
 ミケランジェロは、その、今までにない、強い感情に揺さぶられ苛まれている。
「違う……」
 倒れ伏したままで伸ばした手が虚しく空を掴む。
 その手を、狂ったようにけたたましく笑った誰かが踏み躙り、ミケランジェロは、骨の砕ける寒々しい感覚と、それを追いかけるように弾けた激痛に悲鳴を噛み殺した。
 何もかもを消してしまえ、何もかもをなかったことにしてしまえ、という声は、徐々に強くなるばかりだ。
 ――それは、恐らく、この銀幕市に実体化したからこそミケランジェロが得た感覚だった。
 かけがえのない存在と、失えないものと、大切に思うたくさんの事象、神であった自分や故郷の世界では得られなかったそれらの『光』を手にしたからこそ、失われたものや、流された涙や血や、大地に叩きつけられた無念の拳が、『翳』となってミケランジェロの中に凝っていったのだ。

(人の苦しみがどうあってもなくならないものであるのなら、もう何もかもを終わりにして、無という名の平穏を与えてやればいい)

 人が愛しいからこそ、与えてやりたい。
 与えるべきだ。
 与えなくてはならない。
 声は強くなっていく。
 あまりに強い感情に意識が飛びそうになる。
 身体がばらばらになりそうだ。
 いっそ声に任せ、無慈悲な『無』の体現として狂ってしまえば楽になれるのだろうかと思いもするが、ミケランジェロには、どうしても正気を失い、自分をなくして暴走することも出来なかった。
「違う、違う、違う!」
 倒れ伏したまま、身体を丸め、頭を抱えて叫ぶ。
「それだけが人間の本質じゃ、ねぇだろう!」
 叫んだら、ほんの少し頭の靄が晴れ、ミケランジェロはモップを掴んで飛び起きた。
 あちこちの骨が折れた手は、柄を掴むだけで激しく痛んだが、それに頓着しているような余裕はなかった。
 襲い掛かってくるのは、ミケランジェロと同じく、獰猛な渇望に身を焦がされ、己を見失った人々だ。それを傷つけるわけにも行かないと、刃を向けることはしなかったが、攻撃をかわし、また眠らせてやることは出来る。
 絶叫とともに突っ込んできた男が、スタッフ用のものだろうか、パイプ椅子を振りかぶるのへ、素早く脇へと回り込み、手刀を首筋に叩き込んで彼を沈黙させて、ミケランジェロは周囲を伺う。
 暴行を受け、吹き飛ばされ転がるうちに、一体どれだけ離れてしまったのか、先ほどまで神音と仙蔵がいたステージは、今はもう暗闇に呑まれてどこにも見えない。
「どこだ……リアティアヴィオラ。おまえだろう、これをなしたのは」
 闇の向こう側から聞こえてきた断片的な言葉から察するに、この事態を引き起こしたのは、先ほどの歌にあった知の魔王だろう。
 彼女は、静寂を探していると言った。
 恐らくそれは、北の勇者ジグノヴェルトだ。
 愛した男を探して、こんなことをしているのだろうか、彼女は。
「……たったひとりを探すために、こんなたくさんの人間を傷つけるのか」
 呟き、顎から滴り落ちる汗を拭う。
 秋ももうじき終わるはずなのに、何故か汗が止まらない。
「それが愛だってんなら、そんなモン、知りたくもねェ」
 荒い息を吐いて、断じる。
 それだけで、意識は少しはっきりした。
 あの渇望は、今も、ミケランジェロを食い破りそうな激しさで、彼に無を創れと叫ぶが、それをどうにか抑えつけ、リアティアヴィオラを探してよろめくように歩き出す。
 ――横から突っ込んできた男に対処しきれず、彼にぶつかられた。
 そう思った瞬間、脇腹を、痛みというより灼け付くような熱が襲う。
 刺されたのだ、と理解するのに時間はかからなかった。
 血が噴き出し、身体から力が抜けてゆくような錯覚に陥る。
 がくり、と片膝をつき、傷口をきつく押さえて呼吸を整え、ゆっくりと血が止まり、傷口が小さくなってゆくのを待つ。
 いつもなら、わずかな時間でふさがるそれも、回復に数分を要した。
「治りが、遅ぇ……」
 ここが、あまりにも重苦しい感情で満ちているからなのか、それとも魔王のフィールドであるからなのか、堕ちてはいても神として、人間を超越した肉体を持つミケランジェロの身体は、普段より格段に機能が落ちている。
「……だから、何だ?」
 しかし、ミケランジェロは怯まない。
 あの時聴いた、リアティアヴィオラの悲痛な声を放っておくことは出来ない。
 彼女に罪を重ねさせてはいけない、と、思う。
「手に入らないなら、いっそ壊して『消して』しまえばいい? ……馬鹿じゃねェのか。見守るだけで、そこに在るだけで、いてくれるだけで嬉しいって、そういうもんだろ、何かを愛するってのは」
 闇の向こうのリアティアヴィオラに語りかけながら――何故か、声が届いている確信ばかりがあった――、重く冷えた身体を引きずって進む。
 それは彼女への言葉であると同時に、自分自身への戒めでもあった。
 ミケランジェロは、確かに、どうしようもない人間たちを愛している。
 ともにありたいと、見守りたいと、思っている。
 その事実だけは、決して忘れまいと、心に誓い、更に一歩進んだ、その時。
 目の前を、漆黒がよぎった。
「……おまえ」
 全身を黒と包帯に覆われた、目だけが白銀の、端正な顔立ちの男だ。
 名を、確か理月と言った――ミケランジェロは基本的に人の名前を覚えないが、彼に関しては、天敵から、きちんと覚えないと恐ろしい目に遭わせると脅されたのだ――はずだ。
「理月、だったか」
 ミケランジェロに気づいて立ち止まり、こちらを見詰める彼の眼差しは、驚くほどに冷ややかで、温度がなかった。
 こんな目をする男だっただろうかと、ミケランジェロは眉をひそめた。
「ああ、タマ、あんたも……いたのか」
 理月が小さく呟き、かすかに笑みを浮かべた。
 笑みは彼らしくなくひどく寒々しく、タマじゃねェミケだ猫つながりで持って来るんじゃねェといつも通りの言葉を口にしようとして不審に思ったミケランジェロは、彼の手にした美しい刀が、その白銀の刃が、赤い液体に濡れていることに気づいて息を飲む。
「おまえ、」
「あんたも、終わらせたくて、来たのか?」
「――なんだって?」
 思わず訊き返すと、
「全部終わらせなきゃいけねぇんだ。そうしなきゃ、俺が、壊れる」
 理月は、銀眼を虚無めいた笑みに細めてそう言った。
「……!」
 ミケランジェロの呼吸が途絶する。
 今も、ミケランジェロをけしかける、あの渇望。
 恐らくは、ここに満ちる何かが増幅し、ひとりひとりに突きつけている、魂の奥底に根ざした願い、己を食い破って今にも溢れ出てきそうなそれが理月を満たしているのだろう。
 あんなに穏やかな、無邪気な彼が何故、と思いもするが、ヒトは様々な過去と哀しみを抱いて生きている。その傷口が、この『場』からもたらされる渇望によって開き、彼を変質させてしまったのかもしれない。
「待て理月、おまえは、」
 渇望に操られるまま他者を傷つけて、一番傷つくのはきっと理月自身だ。
 ミケランジェロは、彼の、やさしい笑顔を知っている。
 だから、止めなくてはならない、と手を伸ばしかけたら、
「邪魔をするのか」
 温度のない、銀の刃のような目がミケランジェロを見る。
 血に濡れた刀が、わずかな光を受けて凶悪に輝いた。
「それなら……あんたも、俺の敵だ」
 まるで選択肢がそれしかないとでも言うような断言。
 ――刹那のあとには、刀を構えた理月が懐に踏み込んで来る。
「な……速……ッ!?」
 神速を身上とする男だとは知っていた。
 しかし、ここまでとは。
 ミケランジェロが、何ひとつとして防御の態勢を取れなかったほどに、それは速かった。
 それは恐らく、穏やかな感情を取り除いたがゆえの、躊躇のなさが生んだ速度なのだ。
「――退(ど)け」
 いつもの彼ならば絶対にしないような、冷ややかな物言い。
 ひゅ、という、風を斬る音。
 身構える暇も、跳んで逃げる時間もなかった。
 一瞬のブランクのあと、鳩尾の辺りを、鈍く重い衝撃が襲った。
 一体どれだけの力が込められていたのか、ミケランジェロは軽々と吹っ飛び、地面に叩きつけられた。
 息が詰まるような、身動きをするだけで全身が砕けそうな衝撃に、
「ぐ、ゥ……!」
 身を折り、激しく咳き込んでのた打ち回る。
 ――だが。
 ミケランジェロは、そこに含まれた希望に気づいていた。
 理月はミケランジェロを敵と言いながら殺さなかった。
 柄の部分で強かに打ち据えながら、切っ先で貫くようなことはしなかった。
 やろうと思えば出来たはずなのに。
「まだ、間に合う……!」
 ならば、理月の本質、やさしい彼は、まだ生きている。
 完全に眠りについてはいない。
 あの、刃についた血もまた、命を奪ったがゆえのそれではないと断言出来る。
 嘔吐感に悶えて地面を這いずり、何度も咳き込みながら、ミケランジェロはモップを掴んだ。全身に力を込めて、飛び起きる。
「……止める。魔王の女も、理月も」
 強く強く思う。
 そのたびに、あの狂おしい渇望は遠のいた。
 己がアイデンティティと、哀しむ人間を減らしたいという望みのために、ミケランジェロは、激痛を訴える身体に鞭打って、走り出す。

 どこかで、誰かが、くすくすと嗤った、ような気がした。

「『器』と、結晶と。今日はその双方が見つかりそうだ……君のそれは偉大だね、クロノス」
「私の偉大さと言うよりは、ヒトの愚かさのお陰と言うべきかも知れんがな。だが……我々にとって都合のいい状況であることは確かだ、精々利用させてもらうとしよう。――貴様も励め、瑕莫」
「ああ、無論だとも」
 しかし、それらの会話は、ミケランジェロの耳には、入らなかった。



 5.pray

 シャノンもまた、激しい渇望に身を焦がされ、息が詰まるような思いを味わっていた。
 隣を行くアルの、細い、綺麗な首筋のラインが目に入る。
 首筋だけではない。
 仄かな光を受けて輝くような白い髪も、最高級の宝石のような赤い目も、氷細工のような白皙も、通った鼻梁も小さな唇も、華奢な肩や細い手指も。
 それらが目に入るたびに、シャノンは、アルをこのまま誰にも渡したくない、どこかに閉じ込めて自分だけのものにしてしまいたいという欲求に駆られ、何を馬鹿なことをと嘲る理性と激しく戦っていた。
 それと同時に、古い傷を引きずる魂の一部が、救われたい、喪いたくないと泣き叫んでいる。
 リィナの笑顔が脳裏を過ぎった。
 醜い権勢欲の一端に殺されたに均しい彼女は、しかし何も恨まず、ただシャノンを愛し信じて、清らかな心のまま死んだ。
 きっとリィナは、空の上の、あの明るく美しい、幸いに満ちた場所で、今も歌をうたい、鳥や花とともに暮らしているのだろう。
「……神よ、もしも真におわすのならば」
 知らぬ間に、手が首もとのロザリオに触れていた。
 唇からこぼれたそれはほとんど無意識で、すがるような響きすらあった。
 隣を歩くアルは気づいていないのか、真っ直ぐに前を見詰めたままだ。
「呪われし我が身を祝福し給え……と、言ったところか」
 ぽつり、と呟き、真っ暗な闇に覆われた空をほんの少し、仰ぎ見る。
 ――どれだけ足掻いても、リィナのいる場所へ到達できない自分を自覚している。
 シャノンはたくさん殺しすぎたし、憎しみや侮蔑や怒りや苦悩と親しくしすぎた。
 彼の魂は、軽やかさとはほど遠い。
 それを常に理解している。
 そして、常に悩んでいる。
 アルという恋人が出来、信ずるに足る友人や仲間が出来、愛する喜びと愛される幸いとを身を持って知り、満ち足りた日々を送っていてなお、リィナの足元に跪いて許しを乞いたいと渇望する時がある。
 その渇望は、すぐにアルを独占してしまいたいという願望にシフトする。
 アルが、自分を赦してくれることを知っているからだ。
 アルが、自分を救う、唯一絶対足り得ることを理解しているからだ。
 今この場において、自分に安らぎと幸いを与える存在を、誰にも触れさせたくない、自分だけのものにして隠しておきたいという、滑稽なほどに強烈な独占欲を自覚するたび、シャノンは自分が軋むのを感じていた。

(愛しているからこそ、すべて自分のものにしたい。もう二度となくさずに済むように、自分だけのものにして、自分だけを見つめるように、自分だけが見つめられるようにしたい)

 内なる自分が、仄暗い欲望を吐露する。
 救われたいという思いと、赦されたいという願いと、喪いたくないという恐れ、それらが、シャノンに、醜い自己を突きつけ、その渇望にしたがってしまえとけしかける。
 ――この声に耳を傾けてはいけない。
 自分は臆病で滑稽だ。
 心底そう思う。
 超一流のヴァンパイアハンター、孤高の始祖吸血鬼などという、自己を飾る言葉をすべて取り払い、ただの、シャノン・ヴォルムスというひとりの男に立ち戻ってみて、心底思うのだ。
 愛すること、信じることの何たるかを思い出し、それに包まれて生きているから、なのかもしれない。
 この瞬間、シャノンは、ひどく心細く、自分が地面に足を着けて立っているのかどうかすら曖昧になり、また己が頑是ない赤子であるかのような、浮遊感を伴った無力感に苛まれていた。
「……『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』」
 思わず呟き、頬を歪めて嗤う。
 もとより、何故と問う間もなく、神は彼を愛してなどいないではないか。
 もとより、救おうとなどしていないではないか。
 ――そうだ。
 この呪われた命を救ってくれるのは、アルだけだ。
 アルだけがシャノンにとっての拠りどころで、よすがなのだ。
 ならば、やはり、『そう』しなければ、シャノン自身が壊れてしまう。
 この手の中に抱いて、永遠にふたりきりで。
 強い強い衝動、あまりにも強烈で唐突なそれを訝しく思う暇もなく、シャノンはアルに手を伸ばす。
「……アル……」
 情念に掠れた小さな声に、真っ直ぐに前を見ていたアルがこちらを振り向いた。
 先刻まで、顔色が冴えないようだったが、どうやら調子は戻ったらしい。
 綺麗な、と表現するしかないような、穏やかな微笑を浮かべるアルの姿に、よかった、と、安堵している自分に気づき、そのあと、シャノンは愕然とする。
「俺は今、何を……?」
 自分は、アルに何をしようとしていたのか。
 愛しいという気持ち、守りたいという思い、大切にしてやりたいという温かな感情、それらはシャノンを幸せにした、シャノン自身の内から湧き至った自然な心の動きだ。
 それを無視して、自分は今、何をしようとしていたのか。
「まさか、この『場』が……?」
 不自然なほどに強いその渇望に、何かがおかしいと思い至ることが出来たのは、シャノンが、常に悩み苦しんできていたからなのかも知れない。シャノンが、常に、現在と過去とを鑑みて、苦しみながらも、今の自分になすべきことを考え続けていたからなのかもしれない。
 この暗闇が、中にいる人々に『何か』を与えている。
 さっきまでのシャノンのように。
「アル、ここは危険だ、なにかおかしい」
 だとすれば、一刻の猶予もないと、警戒を発しようとして、アルを見詰めたシャノンは、絶句した。
「……シャノン」
 とろりとした情念に潤む真紅の眼差し。
 ――そう、先刻のシャノンと同じ、不可解に強い渇望に我を見失った目だ。
「アル、」
 アルに正気を取り戻させようと手を差し伸べた瞬間。
「欲しい……シャノン」
 陶然とした言葉とともに、白い少年の姿が掻き消えた。
「……ッ!」
 はっと思った時には、シャノンの懐に入り込んだアルが――それは、こんな場面であってもなお、長年逢えずにいた恋人の胸に飛び込む幸せなワンシーンのようだった――、シャノンの首筋に喰らいついていた。
 ずぶり。
 牙が、肉に埋まる。
 弾ける痛みと熱。
「アル……」
 しかし、驚愕よりも、シャノンの中にあったのは、共感と慈しみだった。
 アルもまた、この暗闇に心の奥底の何かを刺激され、こうせざるを得なかったのだという思いが、シャノンの中の愛を、むしろ陽光のように温めた。
 ――アルは、自分に身を投げ出してくれたのだ。
 渇望に衝き動かされてのことではあれ、他の誰でもない、自分に。
「心配は、要らない」
 シャノンは、乳飲み子のように己の血を啜るアルをそっと抱き締める。
「俺など、すべてお前にくれてやる……アル」
 熱っぽく、真実と誠を込めて、囁く。
 結局のところ、今の自分に意味を求めるとしたら、アルの傍らにいるというそれに尽きるのだろう、と、唐突にシャノンは悟っていた。
 そしてそれは、とてつもなく幸せなようなことのような気がして、思わず微笑んだシャノンの腕の中で、アルが、びくり、と震えた。

 * * * * *

 アルには、暗闇に包まれたコンサート会場に踏み込んだ瞬間から、ずっと声が聞こえていた。

(わたくしは魔の髄。力の凝った玉(ぎょく)。この世に在るだけで、わたくしは世界のバランスを歪め続ける)
(それと望んだことすらないのに、生まれながらに存在してはらない存在だと烙印されたわたくしは、一体、なにものなのだろう)
(わたくしは眠らなくてはならなかった。世界のために、すべての生命のために。けれど――……)
(ならば、わたくしの意味とは、なんだったのか。造物主は、何故、在ってはならぬわたくしをお創りになり、ただ捨て置かれたのか)
(意味が欲しかった、意味が。せめて何かの、意味が)
(――……そう、人間たちがそのために命を捨てて悔いない、あの、愛とかいうもののような)
(確かに得たと、思ったのに。いっときは、それを)
(どこへ行った……どこへ。わたくしを置き去りに、一体、どこへ)
(わたくしは眠らなくてはならない。けれど……せめて、もう一度)
(けれど……どこにもいない、どこにも感じられない。わたくしには判る――わたくしは独り)

 淡々としていながら哀しみに満ちたその声は、まるで、己や己が相棒のことを言っているかのようで、切なかった。
 愛。
 その言葉を聞くと、アルの未成熟な心には不可解な色の光が灯る。
 愛。
 よく判らない言葉だ。
 難しい言葉だとも思う。
「シャノン……」
 同時に、その言葉を思う時、脳裏に浮かぶのは、金の髪をした美貌のヴァンパイアハンターだ。
 恋人、という関係になってもなお、まだはっきりとは自覚し切れていない、アルのシャノンへの感情。
 愛すること、大切に思うこと、愛されること大切に思われること。
 それらは均等ではなく、アルの愛の天秤は、常に自己犠牲というかたちで傾き続けてきた。
 だが、シャノンや、大切な人たちに会って、それは少し変わって来た。
 変えてくれた人たちに、アルは感謝している。
「シャノン」
 名前を口にすると、心臓が不可解な熱に包まれる。
 幸せ、とはその熱が持続することを言うのかもしれない。
 ――しかし。

(欲しい)

 暗闇に包まれ、シャノンとともに歩くうち、その熱が自身を侵してゆくようになった。
 欲しい、と、身の内にある吸血鬼としてのアルが囁く。
 シャノンが欲しい、全部自分のものにして、喰らい尽くしてしまいたい、と。
 未熟で幼い精神は、初めての衝動になすすべもなかった。
 食欲による吸血衝動ではなく、愛欲に基づくそれは、初めての経験であるのも手伝って制御できないほど激烈で、狂おしいほどに激しく、あっという間にアルの感情を飲み込み、己を喪わせ、そして衝き動かした。
 それは本当に刹那のことだった。
 アルの意識は、瞬時に渇望に飲み込まれた。
 ――アルには、いつの間に自分が、シャノンの胸の中に飛び込み、その咽喉笛に喰らいついて、熱い血潮を啜っていたのか、それすらも判らなかった。ただ、咽喉を滑り落ちてゆく温かな液体の感覚を、夢うつつに、陶然と感じていただけだ。
 だが、アルは、吸血鬼でありながら、己が血を吸われた過去への恐怖のゆえに、他者の血を身体が受け付けない。
「ぐ……!」
 猛烈な嘔吐感が身体を突き抜け、アルは激しく咳き込んだ。
 そして、血を吐き出す。
 それが血だということに、吐いてから気づいた。
 シャノンに、自分が、まるで何もかもから守られるかのように、やさしく抱きしめられていることも。
「シャノ、ン……」
 咳き込みながら名を呼ぶと、首筋から血を滴らせながら、シャノンが微笑んだ。
 透明な微笑に、アルの胸は締め付けられる。
「僕は、何を……」
 口の中に、血の味が満ちている。
 それの意味するところは、ひとつしかなかった。
 アルは切れるほどに唇を噛み締めたあと、シャノンの腕から離れた。
「気にしなくていい……俺も同じだ、アル。俺も、この暗闇に、捕らわれるところだった。だが、お前への思いが、俺を踏み留まらせてくれた。俺は、それを感謝しよう」
「……」
 シャノンの言葉はやわらかく、眼差しは穏やかだ。
 それゆえに、アルの胸は痛む。
 ――覚悟は、すぐに決まった。
 血に濡れた口元を拭い、深呼吸をひとつ。
 そして、拳を、力いっぱい地面に叩き込む。
 ごぉん、という、鈍い音がして、アルの意識は更に鮮明になった。
「……すべては、結末を見届けてからに」
 己が未熟さで大切な人を傷つけた。
 同時に、自分がシャノンを『欲しがって』いることをも突きつけられた。
 自分がどれだけ、この人に捕らわれているのかを。
 ――しかしそれは、今のアルには諸刃の剣だ。
 アルも、シャノンも壊してしまいかねない、危険な剣。
「まずは……閉じ込められた人たちを、助け出さなくては」
 自分の不甲斐なさを嘆くことはいつでも出来る。
 動揺も、した。
 だが、アルには、彼の心の闇を司る片割れがいる。
 その存在が、アルを強くしなやかにしていた。
「……行きましょう、シャノン。魔王リアティアヴィオラを止めることが、解決の第一歩です。彼女は、この奥にいます」
 どこか満ち足りたように微笑み頷くシャノンとともに走り出す。
 ――そう、そして、あの、声の主を、放ってはおけないとも思うのだ。
 強い強い、哀しい、切ないあの渇望を、そのままにしてはおけないと。
 強過ぎる願いに我を忘れて愛するものを傷つける苦しみを、アルは身を持って知ったから。



 6.intersect

 どれだけの時間、ぼんやりと異様な『木』が浮かび上がる暗闇の中を歩き続けただろうか。
 ムービーハザードか何かの影響で、空間がねじれてしまっているのか、それとも方向感覚を狂わせる何かがあって同じ場所を何度もぐるぐると回っているのか、ステージがあるはずの場所にはなかなか辿り着けなかった。
 暗闇の奥へ奥へと踏み込むたびに、自分がどこにいるのか判らなくなる。
 何か、強大な力を持つ存在が、奥の方にいるのかもしれない。
「どう思う、黒光君――……うん?」
 この事態を引き起こしたなにものかについて問おうとしたカラスだったが、つい先ほどまで隣を歩いていたはずの黒光がいつの間にかいなくなっていることに気づいて眉をひそめた。
 立ち止まり、周囲を見遣るが、青年の姿はどこにもない。
「……はぐれた、の、かな……?」
 それにしてはあまりにも唐突だったような気もするが、今はそれを云々している場合ではない。
 カラスは油断なく周囲を伺い、わずかな変化も見逃さぬようにしながら、今やそこがコンサート会場だったとは誰も思わないだろう暗闇の中を進む。
 ざわり、と、足元から冷気が這い上がってくる。
 それとともに、重々しい何かが圧し掛かってくるような気がして、妙に息苦しい。
 カラスは、暗闇の中を歩くうち、この事態を引き起こしたのは、『ソリティア・ウィステリアの献身』というファンタジー映画の主人公のひとり、知の魔王リアティアヴィオラだろうという予測を立てていた。
 カラスも、あの映画は見に行った。
 魔王と勇者の戦いと、ふたりの間を通い合った感情を覚えている。
 リアティアヴィオラは問い、ジグノヴェルトは答えた。
 そして彼女は安らぎを得、永遠の眠りに就いた。
 それが映画のストーリーだったはずだ。
 ――その眠りから醒めてしまった所為で、彼女は歪んだのだろうか。
 愛を教え、与えた男を手に入れたいと願うあまり、狂ってしまったのだろうか。

(ほしい)

 小さな呟きが聴こえたような気がして、また立ち止まる。

(ほしい、手に入れたい)

 それは一体、誰の声だったのだろうか。
「……ほしいもの、か……」
 ぽつり、と呟く。
「俺にも……ある、の、かなぁ……?」
 よく判らない。
 自分が何を望んでいるのか、それは自分が望んでもいいものなのか。
 愛するもの、近しい人たちの幸せならば、いつでも願っている。
 大好きな人たちの笑顔が、カラスにいつも活力を与えてくれる。
 だが……自分の、となると、途端にその願望は失速し、カラスの足元で力なく項垂れる。その資格が自分にあるのかどうか、カラス自身、よく判らずにいるからだ。

(ほしい。……壊れてしまうくらいに)

 また声が聞こえた。
 それだけの願いを抱けることそのものに羨望を感じ、カラスは苦笑する。
 いつの間に自分は、こんなに停滞し、沈殿してしまっているのかと自嘲気味に思う。

『何を言ってる? あれは、お前の声だろう?』

 唐突に聴こえた声には、聞き覚えがあった。
 記憶にないのに、聞き覚えがあった。
「な、」
 目を瞠る。
 ――目の前に、見覚えのある男が立っていた。
 知らないはずなのに、見覚えがあった。
 ひゅ、と、息が詰まる。
「なんで、……!?」
 おかしい。
 彼がこんなところにいるはずがないのだ。
 そんなはずが。
『……迎えに来たぜ』
 にやにやと笑って男は言った。
 カラスの表情が凍る。
 ずしり、と、胃の腑に鉛が満ちたような感覚。
 ――これは、恐怖だ。
 何故怖いのかも、わからないのに。
「く、るな……」
 いつの間にか、カチカチと歯が鳴っていた。
 いつの間にか、手が、サバイバルナイフを握り締めていた。
 誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方がいい。
 そう思って生きてきた。
「やめろ、来るなッ!」
 叫びは悲鳴のようだった。
「来たら、絶対にあんたを傷つける。俺は、誰も傷つけたくないんだ……!」
 威嚇するように、切っ先を男に向ける。
 だが、男はまったく動じることなく、
『傷つけたくない? ――ハッ』
 にやにやと嗤ったあと、唐突に、真っ直ぐに、鋭い眼光でカラスを見据えた。
 それだけで、膝が折れてその場に崩れ落ちてしまいそうになる。
 何故なのかも、判らないのに。
『それは、違うな。傷つけたくない、じゃないだろう、お前のそれは』
「え……」
『自分が傷つきたくないから、踏み込みたくないだけだ』
 断罪のように告げられる、己が奥底の闇。
『臆病で醜悪な自分を押し隠して、表面だけ穏やかに、『凍った』ままで生きているだけだ、お前は』
 ひゅっ、と、引き攣れたような息が漏れる。
 男は、憐れみと侮蔑の眼差しでカラスを見ている。
 ――そんな目で見られる謂れはない、と、叫んでしまえたら、よかった。
 自分もまた真っ直ぐに彼を睨み据え、断罪してやれたらよかった。
 だが、それをするには、今のカラスでは、まだ、脆い。
「う……」
 吐き気が込み上げる。
 男が再度嗤い、カラスに向かって一歩踏み出した。
『俺がお前を所有してやる。お前が揺らぐ隙もないくらいに、強く』
 傲慢で断定的な言葉が向けられる。
 逃げたいと思うのに、足がすくんで身動きも出来ない。
 恐怖と絶望と嫌悪感に心臓が破裂しそうだ。

(ほしい)

 小さく呟く誰かの声。
 それは、強く強く脳裏に差し込んでくる、強烈な衝動だ。
「……ああ」
 ようやくカラスは理解した。
 あの男の言うとおり、あれは、自分だ。
 自分の奥底が抱き続けてきた、身勝手で、しかし素直な自分自身。

(ほしい、他の何を犠牲にしてでも)

 不自然なまでに強い渇望が胸を塞ぎ、泣きたいくらい苦しい。

(たとえ誰かを傷つけてでも、手に入れたい。なにものにも脅かされない、凪のような平穏がほしい)

 そのためには、ここにあってはならない人間がいる。
 彼の、穏やかな日々を邪魔するものは、ここに存在してはならない。
 カラスはそれを排除しなくてはならない。
 排除するべきだ。
 それこそが十全で、絶対。
 自分のために他人を犠牲にすることを厭わないその流れに、何かがおかしいと思う暇もなかった。
 自立した自己防衛人格であるクロウが立ち入る隙さえなかった。
 今この時、カラスは、弱く醜悪で臆病な自分を肯定していたし、自身の奥底に根ざしたその渇望にひどく納得もしていた。自分は、本当はそれを望んでいたのだと、それを叶えたかったのだと、むしろ安堵すらしていた。
「成就させないと。……俺が、壊れてしまう前に」
 呪文のように、願いがカラスを縛ってゆく。
 男の姿は目前に迫っている。
 ――カラスはサバイバルナイフを握り直した。
 そして、踏み出す。
 躊躇や恐怖は、今この時には、消えていた。

 * * * * *

 立ち止まったカラスの様子がおかしいことに気づいた黒光は、何ごとかを低く呟いた彼に、唐突にサバイバルナイフを向けられ、片眉を跳ね上げた。
「邪魔をするのなら、許さない。――あんたを殺してでも、俺は俺の願いを叶える」
 虚ろに、しかし熱っぽく呟くカラスの目は、黒光を見据えながら、黒光ではない誰かを見ている。
 ――カラスに何があったのか、彼が何を叶えようとし、何を願っているのか、黒光には判らない。彼の中にどんな願いがあり、どんな渇望が彼を捕らえて閉じ込め、盲目にしてしまったのか、黒光には判らない。
 恐らく、今のカラスに、黒光の声は届かないだろう。
 そしてカラスは、黒光を邪魔者と見なし、排除しようとしている。
 無言の中に滲む本気の殺意を感じ取れぬほど、黒光は未熟なわけではない。
「……なるほど」
 黒光はかすかに溜め息し、己が得物、黒帝剣をすらりと引き抜いた。
 黒光と長い時間をともにあるこれは、漆黒の刀身に、金と銀の文字が輝く、美しい刃だ。
「こういう厄介さは……正直、予想していなかったが」
 黒光にも声は聞こえている。
 あの、何かを欲する声、手に入れるためならばすべてを犠牲にしてしまえ、手に入れられないのなら壊してしまえ、と唆す、あの声だ。
 カラスは、その声に捕まったのだろう。
 無論、背骨から内臓を押し潰そうとでも言うような、激しく重々しい、狂おしい渇望に、黒光もさらされていた。暗闇を歩きながら、いっときは、吐き気や苦悩に息が詰まるような思いを味わった。
 ――黒光にも、誰にも譲れぬ渇望がある。
 手に入れられないのなら、壊してしまえばいいと断じるような昏い渇望が。
 だから、声の主には、親近感すら感じたほどだ。
 しかし、だからといって、それがこの災厄を招いた理由として許せるわけでもない。
 たとえ手に入れるために犠牲を厭わないとして、激しい渇望に身を焦がすものは、他者を巻き込み、傷つけて得た『何か』が本当に自分のものになるのか、それは真実の意味で得たと言えるのか、その結果自分は何を喪うのか、その結末を見据えなくてはならない。
「……」
 無言のまま、カラスが鋭い呼気とともに踏み込み、一息に距離を詰めてきた。
 黒光は静謐なまま滑らかに黒帝剣を操り、サバイバルナイフの切っ先を逸らしていく。
 突き込まれるナイフには一片の躊躇も容赦もなく、
「なるほど……それほどまでに望むか」
 黒光は口元を緩く笑みのかたちにした。
 取島カラスとは、先ほど顔をあわせ、ほんの少しの時間ともに歩いただけの関係に過ぎないが、穏やかな、誠実そうな雰囲気を持ちながら、どこか寂しげな空気をまとった彼が、何か、切実な願望を抱いていても、決しておかしくはないと思う。
 どうすれば彼を正気に戻してやれるのか、思案しながら黒光は口を開く。
 歪んだ熱情に双眸を潤ませながらこちらを見ていたカラスは、一瞬後には疾走、跳躍し、素早く黒光の背後に回り込むと、逆手に握ったサバイバルナイフを彼に突き立てようとする。
 黒光はそれを素早く回避し、短い呪文で不可視の障壁を紡ぎ出してカラスの周囲に撃ち放った。
 魔法の障壁に阻まれ、カラスの動きが一瞬鈍くなる。
「……俺は、な」
 呟きながら、一瞬で距離を詰めると、先ほどカラスがそうしたように、彼の背後に回り込み、黒帝剣の柄の部分で首筋を一撃する。
「……ッ!」
 カラスの身体がびくりと震え、そのままゆっくりと崩れ落ちる。
 大きく見開かれた目は、驚愕と苦悩とを鈍く宿していたが、そこに、誰かを傷つけずに済んだ安堵と感謝もまた見ることが出来た……と思うのは、黒光の早とちりだろうか。
 カラン、と音を立てて転がったサバイバルナイフを拾い上げ、カラスの背のディパックに仕舞い込みながら言葉を落とす。
 ディパックの中にちょこんと入っていたバッキーが、小首を傾げながら黒光を見上げ、この寒々しい、虚ろで熱っぽい場所には似合わない牧歌的な光景に、黒光は思わず微苦笑した。
 バッキーに、というわけでもないのだが、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
 それは自己確認でもあった。
「俺はな、ひどく利己的で醜い。一緒に不老不死となったあいつを誰にも渡したくないし、死を迎えさせるのも俺でなくてはと思っている。そして、追いつけぬ一年を手に入れたい、ともな」
 彼の渇望は驚くほど単純で、しかし根深く、強固だ。
 それを自身で見据え、認識しているがゆえに、彼は冷静でいられた。
 もしもここに、彼の執着を一心に受けるもうひとりの“世界の外側に立つ者”がいたら、話は違っていたかもしれないが、彼を唆すあの声は、あまりにも当たり前の、黒光にとっては不変の真理のようなもので、それゆえにか、今の黒光は揺らいではいなかった。
 渇望を初めから自覚しているものには、効果が弱まるのかも知れない。
「……ふむ」
 カラスを、少しでも危険のないよう、元は建物だったのかそれともこのハザードが起きた起きた段階で発生したものなのか判らない岩陰に横たえながら黒光は思案する。
 この中には数十人が取り残されているとの話だ、恐らく、今のふたりと同じようなことがあちこちで起きているに違いない。
「犠牲者が増える前に、根源をどうにかするしかないだろうな」
 ほしい、ほしくてたまらない、と嘆いていたあの声を、許すわけには行かないと思いつつ、同時に憐れにも思う。黒光自身、いつあの声に呑まれて他者を傷つけるか判らぬ狂おしい願望を抱いている。
 叶わぬ願いに身を焦がす日々は辛いだろう。
「説得するか、それとも……力尽くで止めるか」
 どちらにせよ、選択肢は多くない。
 それでも、ひとまず先へ進もう、と、カラスを一度ちらりと確認してから歩き出した黒光の前に、ひとりの青年が立った。
 中肉中背の、鋭利な印象を宿した、端正な面立ちの男だ。
「――……あァ、ここにもいたか」
 黒光には、青年に見覚えはなかったが、熱っぽく、愉しげな声と眼差しから、彼が、先ほどのカラスと同じく、あの『声』によって堕ちたのだということは理解出来た。
 青年は、手に、一目で業物と判る、美しい細工の施された太刀を持っている。
 青年自身の隙のなさ、手練れの雰囲気に加えて、抜き身のそれが、ひどく不吉に輝き、黒光は溜め息をついて黒帝剣を構えた。
「犠牲が要る。――俺は、迷わねぇことにした」
 いっそ晴れやかですらある、それが天地の理だとでも言うような宣言のあと、青年が鋭く一歩を踏み込み、太刀を一閃する。
「……先は、長そうだ……」
 低くごち、黒光はそれを、黒帝剣で受け止めた。
 ぢぎっ、と、鋼の啼く音がする。

 響き渡る剣戟の音の向こう側で、ありえない色のバッキーを肩に乗せた男が密やかに――ひどく愉しそうに嗤っていることを、誰も知らない。



 7.acute

 終焉のために、走り続けている。
 自分が今、どこまで正気で、どこから狂っているのか、理月には判らなかった。
 頭の中で、声がする。
 ――壱衛を演じたという神音が気懸かりで依頼を受けた。
 つい先日、鬼女に捕らわれ、危うく殺されそうになった時の傷はまだ癒えていなかったが、傷や傷みというものは理月の親しい隣人だ、それで理月の行動が改まることはない。
 だが、理月が最初からどこか上の空だったのは、傷の所為ではなかった。

(あなたさまのお心にも、ぽっかりとした虚無がございやすねぇ)

 何度も、言葉が脳裏をリフレインして、苦しい。

(あなたさまのようなお方を糸で括れば、あるいはよい人形が出来るんでやんすかねぇ)

 黒い男の声が、理月を縛っている。
 道中に聞こえてきたたくさんの言葉と、どこからともなく流れてきた歌の内容から、顕れたのは魔王リアティアヴィオラで、彼女が探しているのは勇者ジグノヴェルトだということは判っていた。
 リアティアヴィオラは、眠りに就かなければならない存在だった。
 そこにいるだけで世界のバランスを崩してしまう彼女は、世界のために、“最果ての虹”と呼ばれる狭間にひっそりと暮らしていたが、そこにいてもなお、彼女の存在によって、世界は少しずつ傾いていたのだという。
 事態を憂慮した人々によって討伐隊が編まれ、それとは別にジグノヴェルトが“最果ての虹”へ赴いた。
 討伐隊がなすすべもなく蹴散らされたあと、リアティアヴィオラとジグノヴェルトは出会い、戦い、言葉を交わし、真実と愛とを見い出し、そして別れの時を迎えた。
 その終わり方は、幸せのひとつだっただろうと理月は思う。
 安らかに眠れる、という終わりは。
 銀幕市に実体化したのなら、別の道が模索出来るのだろうか。
 それとも、銀幕市もまた、彼女が存在することでバランスが崩れるのだろうか。
 彼女はそれを知っていて、だからこそ、愛した男、勇者の手で静かに眠らせて欲しいと思っているのだろうか。それが叶わないなら、壊したくなどなくとも壊れてしまうのなら、その手ですべてを壊してしまおうと?
 ――ならば、勇者は、一体どこに?
 それが判らないから、苦しくて、狂ったのだろうか、魔王は。
 彼女の気持ちは判る気がする。

(どうして)

 そればかり、思っている。
 ままならない人生、喪失ばかりの運命、決して手には入らないすべてのもの。負の面ばかりが胸を刺す。
 ぐるぐると、あの男の声が回っている。

(どうして俺は、どうしようもなく、俺なんだろう)

 愛されている。
 許されている。
 必要とされ、温かい思いを向けられている。
 それなのに、胸の奥に、ぽっかりと虚無が口を空けている。あの男が指摘した通り。
 この暗闇に足を踏み入れた瞬間から、理月はひとりだった。
 たくさんの慈しみに包まれていながら、ひとりだった。
 寒くて寒くて、凍えそうだ。
 くくられてしまえばいいのだろうか、あの糸に。
 そして、手に入らないのなら、全部壊してしまえばいい?

(違う……そうじゃない、そうじゃない、はずなのに)

 大切な人がいる。
 大好きな人がいる。
 天人たち。『兄』。ちいさな狸。友人たち。――そして老吸血鬼。
 彼らが、理月を救ってくれた。
 彼らがいるから、理月は生きている。
 それなのに、それらを全部、掌に包み込んで、壊してしまいたいと、今の理月は思っている。壊れた欠片を抱いて、何もない静寂の中に眠りたい、と。
 渇望は強くなるばかり、己を押し潰さんばかりに大きくなるばかりだ。
 それが不自然なのか、それとも当然のものなのか、理月には判らない。
 ただ、そうすれば、楽になれるのだろうか、と思う。
 苦痛のあまりぼんやりとする思考の中で。
「終わらせよう……終わらせてしまおう」
 ぽつり、と呟き、前を見据える。
 暗闇の向こう側にリアティアヴィオラがいる。
 それは確信だった。
 風のように――風よりも速く走り、闇を掻き分けた向こう側にステージはあった。
 一切光沢のない黒の色をしたツタでびっしりと覆い尽されたそれは、禍々しく不気味だったが、理月は今更恐怖などには頓着しておらず、彼は軽く地面を蹴って跳躍し、ステージへと飛び上がった。
 ――その途端、鋭く空気を切って飛来する刃の音。
 理月は相棒『白竜王』をわずかに掲げてそれを弾き飛ばした。
 カツン、という甲高い音がして、鈍く輝く手裏剣がセットの一部に絡み付いていたツタの茎に突き刺さる。
「……来たか」
 低く重々しい声が聞こえた。
 見遣れば、威風堂々たる体躯の男が、理月の『白竜王』とよく似たつくりの刀を手に、こちらを睨み据えている。
「我が主に害なす不逞の輩を、許すわけには行かん」
 男の背後に、漆黒のドレスを身にまとった美しい女の姿を見い出して、理月は仄暗く微笑んだ。
 彼女がリアティアヴィオラ。
 終わらせるために、挑むべき存在だ。
「……邪魔をするなら、あんたも敵だ」
 手の中で『白竜王』がチリリと鳴った。
 何故かそれが嘆きのように聴こえ、わずかに心が痛んだが、すぐにその痛みを意識から締め出す。
「我が名は千曲仙蔵。知の魔王リアティアヴィオラが懐刀なり」
 どこか誇らしげに男が名乗り、
「――傭兵団『白凌』が一刃、“黒暁”理月」
 理月もまた、決まりきった呪文のように、掌から零れ落ちていった、理月が今の理月になる一番の要因となった、大切な場所の名前を告げる。
 じわり、と、双方から殺気が滲み出した。
 お互いに、躊躇するつもりも、手加減するつもりもない。
 そこへ、
「待てっ、理月!」
 モップを手にステージへ飛び込んできたのは、ミケランジェロと唯瑞貴だった。ミケランジェロは、あれからまた誰かに襲われたのか、さっきよりも傷が増えている。
「『声』に踊らされて誰かを傷つけて、苦しい思いをするのはお前だろうが!」
 ミケランジェロの苦しげな叫びに、理月はほんの一瞬動きを止めたが、
「御託は不要」
 仙蔵と名乗った男が刀を八双に構えた姿勢で踏み込んだのを目にして首を横に振り、仙蔵と同じく、地面を蹴った。
「ッッ……この、馬鹿野郎どもが……ッ!!」
 舌打ちをしたミケランジェロがふたり目がけて突っ込んで来る。
 唯瑞貴は手を出せずにいるようだ。
「はは、タマ、あんたもやるのか……?」
 理月はそれを視界の隅に留めながら、かすかに笑った。
 他人のために傷つこうとするお人好しのミケランジェロを、たまらなく慕わしく愛しいと思いながらも、掲げた刃を退けるつもりはなかった。
 ――三つ巴の乱戦を、リアティアヴィオラが、真紅の静かな眼差しで見詰めている。
 そこに狂気など感じ取れなかったのは、理月だけだっただろうか。

 * * * * *

 どんな夢を見ていたのか、覚えてはいない。
 ただ、懐かしい、古い旧い記憶に満たされていたような気はする。
 哀しく、愛おしく、寂しく、狂おしく、過ぎ去っていく時間と景色を見ていたような気はする。
「しっかりしろ、フェイファー」
 抱き起こされ、揺さぶられて、吐き気を堪えながら目を開けると、不思議な、ブロンズ光沢のある漆黒の目が、彼を見下ろしていた。コンサートが始まる前、言葉を交わした時と何ら変わりのない、静かな目だった。
「……神音」
 目が覚めたのか、と言おうとして、フェイファーは全身の痛みに呻いた。
「手酷くやられたようだな」
 背を支えられ、上半身を起こすと、そこは沈鬱な暗闇の中だった。
 だとすれば、まだ、何も終わってはいない。
「そういうおまえも……起きた、のか。大丈夫か?」
 あの時倒れた神音の様子は、尋常ではないように思えた。
 咳き込みながらも何とか立ち上がり、周囲を見渡すと、闇の向こう側で、誰かが争っている音がする。裂帛の気合と殺意が、暗闇を切り裂かんばかりの鋭さで交わされているのが判る。
「ああ、すまない、恥ずかしいところを見せた。あまりにも唐突に、激烈な感情に襲われて、意識を保っていられなくなっただけだ。少々不慣れでな。だから……他は、大事ない」
「……そっか」
 今も胸中には痛いほどの渇望が巡り、フェイファーの全身をきりきりと締め上げるが、こうして自分以外の誰かと言葉を交わしたことで、ほんの少し意識はクリアになっていた。
 気を紛らわせるため、また情報を得るために、フェイファーは再度口を開く。
「おまえは……判るのか、何故、こんなことが起きたのか」
「凡そは。向こう側にいるのは知の魔王リアティアヴィオラだ。彼女は存在することそのものが罪だった。彼女がいるだけで、世界は傾き、やがては滅びてしまうからだ」
 神音の淡々とした言葉にフェイファーは眉をひそめた。
「ああ……どんなに寂しかったろう、そいつは」
 生きることは喜びだとフェイファーは思う。
 天の使いは、その喜びのために存在しているからだ。
 無論、生き物は喜びのみでは生きられないが、時と場合を選ばずに訪れる艱難辛苦の中にも、その端々にも、幸いや愛や慈しみの感情は紡がれ、与えられる、と、思う。
 かの魔王はそれすらも許されなかったのだろうか。
「北の勇者ジグノヴェルトは魔王に救いをもたらした。存在そのものが罪と言われたリアティアヴィオラに、世界のために狭間に在り、世界のために眠りを選択しようとしていた彼女を美しいと言い、世界の根幹たる彼女に愛と感謝を捧げた。彼女は理解し、救われ、“真実の鏡”として眠る道を選んだ」
「哀しい終わりだな。でも……少し、ホッとする終わりだ」
「ああ。私は、その眠りの最中に復活させられたがゆえに混乱し、暴走したのではないかと思っている」
「だったら……その、勇者ってヤツを連れてくれば……?」
「どうだろう。魔王がそれを考えなかったとは思えないが、どちらにせよ彼女が再び眠りに就かなくてはならないことに変わりはない。この場に満ちる不可解な渇望を抜きにしても、彼女には、何か、これを引き起こさざるを得ない事情のようなものがあったのかもしれない。――だからと言って、許せるものでもないだろうが」
「そうだな、自分のためにヒトを傷つけたって、自分が苦しいだけだ。他人のために眠りを選んだ魔王がこんなことするなんて……一体、何があったんだ……?」
 存在として、個々としての本質など、そうそう容易く変化するものではないとフェイファーは思う。他者のために自分を犠牲にした魔王が、まったく逆のことをしている理由は何なのか、考えてもまだ答えは出ないが、ひどくそれが切ない。
「まぁいいや、おまえと話せてちょっと楽になった。魔王のところに行こう……今も誰か戦ってる音が聞こえる。早く何とかしねーと」
 頷く神音とともに、闇の中を進む。
 先ほどまで泣き叫び、パニックを起こして周囲を傷つけ破壊していた人々も、その大半が倒れたのか――彼らが命を落としていないことを祈るばかりだ――、周囲には不気味な静けさが満ちている。
 その向こうから聞こえて来る、激しい剣戟の音、伝わってくる息遣い、殺気、時折響く誰かの叫び声。
「この声……」
 ぽつり、とフェイファーは呟いた。
「聞き覚えが、ある」
 音は少しずつ近くなっていく。
 やがて……闇の向こう側に、黒いツタで覆われたステージが見えた。
「ミケ、理月……何で」
 ステージの上では、モップを手にしたツナギの青年と、漆黒の傭兵と、そして隆々たる体躯の男とが、激しい戦いを繰り広げている。
 ミケランジェロはフェイファーが居候している先の家主と親交がある男で、芸術の神だという。理月とは、一度、女王の開催した花見パーティで一緒になったことがある。
 こんな風に争う理由などないはずのふたりだ。
 恐らく、もうひとりのあの男も。
 男の容赦のない拳の一撃が理月を襲う。
 軽やかに身を捻り、それを避けた理月が、男に刃を突き入れようとしたのを、ミケランジェロがモップの柄で防ぐと、理月は冷ややかな目でミケランジェロを見据え、返した刀の柄で彼の肩を打ち据える。
 ミケランジェロは顔をしかめてよろめいたが倒れることはなく、理月に斬りかかろうとしていた男と切り結んだ。
 目を覚ませ、というミケランジェロの叫び声が聞こえて来る。
 理月にも男にも、それに応える様子はない。
 ――これもまた、この場に満ちる渇望のなした業なのか。
 ずしりと圧し掛かる、この渇望の。
「何で、こんな……」
 止めなくては、そう思うのに、悲壮でありながら優美ですらある戦いに魅入られたように、身体が動かない。
 ぞろり、と、再度狂おしい感情が咽喉元を這い上がる。
 リタの声、リタの眼差し、リタの笑顔がフェイファーを切り刻む。
 けれど。
 けれど、フェイファーは。
 どんなに苦しくても、彼女と出会えた自分を否定したくはなかった。
 どれほどの苦悩に責め立てられようとも、彼女と愛し合った自分を拒絶したくはなかった。
 どこにでも希望があることを、誰でも希望を持ち得ることを、そして誰もが希望を与える存在になり得ることを、その真理を確かめたかった。
「……レイラ。俺に力を与えてくれ」
 祈るように呟き、空を見上げた。
 自分を好きだと言ってくれる人間がいる。
 もう一度会いたい、会って笑い合いたいと思う人たちがいる。
 自分が帰らねば哀しむ少女の、透き通った晴れ間のような笑顔が胸を打つ。
 そう、今この時、フェイファーはひとりではなかった。この銀幕市で得てきたたくさんの気持ちが、フェイファーに寄り添い、彼を支えていた。
 フェイファーは、全身を押し潰してしまいそうな渇望の中、それを唐突に理解していた。
 自分が生かされていること、許されていること、そして必要とされていることを。
 胸の奥に金の光が差す。
「それでも、絶望したくねーんだ。諦めたくねぇ……希望を、かたちにしたい」
 背に、二対の翼が広がった。
「神音、もう一度歌ってくれ、あの歌を」
 言葉はそれだけだったが、意味は伝わったようだった。
 頷いた神音が息を吸うと同時にフェイファーもまた同じ動作をしていた。
 大気に満ちるすべての喜ばしいものを身の内に取り込み、己が力となすために。

 そして。

 フィーア…… ヴィラヴィーディー…… パーソンディーユ……
(Fahren Sire,Fahren Sirene Vidare Je Nahme)
 ディー……ヴォーリヴィデュー…… パー……ショヴュ…… フィーェアー……
(Fahren Sire,Fahren Sirene Ahdal Je Nahme)
 イブン フュー…… アァー…… シランシュ アーラーヴィ
(Nahme Je Il Signowerta,Da Ar Rila Nieme)
 イブン フュー…… アァー…… ソディー……アーデイュ……
(Tiera! Nahme Je Che Fosteallia Re Che Grouvia,Da Ar Rila Nieme)
 フィュー…… トゥ ガットゥ…… ラー……リュー……
(Ar Rila Nieme,Zare Arle,“Ar Rila Nieme Un Ar Theche Nieme Yelt Rilate”)

 次の瞬間、神なる歌い手たちの、天なる歌声が響き渡る。
 神なる言葉で紡がれるコトノハが、そのメロディが、鮮烈に、津波のように、瑞々しく、闇に閉ざされた会場を渡ってゆく。
 透明感のある、力強い、明るい、希望と力に満ち満ちたテノールが、フェイファーの身体全体から、神威エネルギーとして放たれ、聞くものの心を磨ぎ澄ます。
 ――世界の色が、変わった。
 運命もまた、動く。
 ミケランジェロが、理月が、男が、唯瑞貴が――そしてその向こう側にいる魔王が、ヒタと、動きを止めたのが、見えた。



 8.Devotion of the Solitaire-Wisteria

「俺、は……一体」
 低く呻いた仙蔵が、何かを振り切るかのように頭を振る。
 こちらを見た漆黒の双眸に、理性と正気の光が瞬き、彼が『戻ってきた』ことを理解して、ミケランジェロはかすかに安堵した。
 傷つき疲弊した身体を引きずって、ふたりの手練れを相手に、どちらにも殺させない、傷つけさせないように立ち回るのは、肉体的な意味でも精神的な意味でも、さすがに骨が折れる。
「……気にすんな、何でもねェ」
 頬の血を拭ったミケランジェロが言うと、すべての事情を察してか、仙蔵は瞑目し、詫びるようにひとつ、頭を下げた。ミケランジェロは苦笑し、首を横に振る。
「神の歌声、か……」
 仄かな証明に照らされたステージ周辺には、神々しいメロディが満ちていた。
 身体を奥底から温めるようなそれを歌っているのが誰なのか、ミケランジェロにはすぐに判った。
 観客席に、その姿が見える。
 それは、彼が特別に気に入ってアトリエに招きいれすらする美大生の友人と、今日のコンサートの主役だった人物の、まるで世界の色彩が変わるかのような、凄まじい合唱だった。
 背に四枚の翼を広げたフェイファーの歌声が、スピリチュアルなエネルギーを高め、大気を震わせて人々の心に染み渡り、神音の普段より低い歌声がフェイファーの紡ぐ天の言葉を更に引き立てる。
 二次元に属する事象ではなくとも、それは凄絶な美であり、価値であり、力だった。
 耳から全身を貫く歌が、正気の線をつなぎ、理性を揺さぶり、確固たる己を強引なまでの引力で連れて来る。
 仙蔵が正気に返ったのはそのお陰だった。
「……理月」
 ではもうひとりはどうなのかと、漆黒の男を見遣ると、彼は、白銀に輝く刀を手にしたまま、苦しげに瞑目していた。
「おまえ、もしかして」
 ミケランジェロが呟くと、眩しい銀眼が、空虚さとやるせなさ、哀しみと揺らぎとを宿して彼を見つめる。
「正気を失ってたわけじゃ、ねェのか……」
 理月から返ったのは、微苦笑と、悪ぃ、という言葉だけだったが、恐らくそれは事実だったのだろう。
「終わらせるために、って……そりゃァ、」
「馬鹿なことはやめろって、出来もしねぇくせにって俺の半分は笑う。でも、俺の半分は、もういっそ俺なんか終わりにしちまえ、って、言ってる」
 自棄……とは少し違うのだろう、それは。
 『自分』そのものを終わりにしたいなどという渇望は、神であるミケランジェロには判らない。だが、今の彼が一番に心を砕く修羅の青年を見ていれば――かの修羅は、虚しい枷から解放されたようだったが――、内へ内へと向かう身食いの苦しみを理解することは出来る、とも思う。
 そして恐らくそれは、この『場』に不自然に増幅されるまでもなく、理月を常に縛り、終焉を望ませるものだったのだろう。
「全力で挑んで返り討ちに合うんなら、皆も許してくれる、って思ったんだ」
 こちらを見詰める銀眼は、寄る辺のない、頑是ない子どものそれだ。
 それどころではないのに、痛い目にも遭わされたのに、ミケランジェロは、理月を全力で抱擁してやりたい気分になった。
 肩を叩くと、弱い微笑が戻る。
「だけど……ホントは知ってる。それも全部俺なんだ。自分のことばっか考えてる、汚なくて狡い、臆病で醜い俺も俺なんだ。俺はそれを受け入れて、受け止めて、生きるしかねぇんだ」
「あァ、それでいいんじゃねェか」
「……え」
「悩み苦しんで馬鹿やって、でも最後に綺麗なものを見せてくれンのが人間だ。だったら、おまえのそれも、その中のひとつなんだろ」
 ミケランジェロのその言葉に、理月はまた瞑目した。
 唇が何かを堪えるかのように引き結ばれる。
「……ありがとう」
 次いで返ったのは、感謝と、静かな微笑だった。
 理月の全身に、力強い何かが戻ってくるのが判る。
「いーや、別に?」
 ミケランジェロは肩をすくめた。
 事実それは、理月自身の力だろうとも思う。
「知の魔王よ!」
 唐突に、轟と声が響いた。
 見遣れば、真紅の髪と目の、我が目を疑うほど美しい、同時に膝が砕けてしまいそうな威圧感をも持った女に向き合い、仙蔵が膝を折っていた。
 魔王リアティアヴィオラは美しい微笑を浮かべて、ステージに集った彼らを見ている。
「望むものを与えようと約束してくだすった貴殿のお心、疑うつもりはない。事実、俺は、満たされていたのだ。――だが」
 すっくと立ち上がった仙蔵が、忍刀を腰から引き抜く。
「我が弱さが引き起こしたこととは言え、己が望みのために他者を蹂躙するわけには行かぬ」
 仙蔵の言葉を聞きながら、ミケランジェロは、視界の隅に、こちらへ向かってくる幾つもの人影を見ていた。
「我が望みは一族の望み。しかし同時に、我が誇りでもある。わずかな間とは言え、貴殿にお仕え出来たは望外の喜びなれど――」
 背の高い金髪の男と、白い少年と、黒い刃を手にした青年と、紫の目の青年とが、ステージに上がって来る。
 彼らの表情を見れば、何のためにここに来たのかは明白だ。
「それゆえに、俺は、貴殿をお止めしよう」
 仙蔵がそう告げると同時に、周囲にぴりりとした緊張感が満ちた。
 ――魔王の微笑が深くなる。
『ならば……』
 発せられた声は、聴くだけで虜になってしまいそうなほどに美しかったが、どこか、寂しげでもあった。
 少なくとも、そこに、狂気を見て取ることは出来ない。
『来るがいい、人間たち』
 白く美しい手が掲げられる。
 それが、戦いの始まりを告げる合図だった。

 * * * * *

 それは、殷々と歌声の響く、美しい戦場だった。
 リアティアヴィオラの繊手が宙を撫でる。
 瞬間、光沢のある黒い炎が、身の丈十メートルを超える竜の姿を取って現れ、牙を剥いた。

 ごぉ、お、おおおぉううううぅう。

 鼓膜が痺れるかのような咆哮。
 魔王がもう一度宙を撫でると、今度は真紅の炎が全長五メートルを超える鷲となって現れた。
 周囲に熱が満ち、咽喉と頬がひりひりする。
 だが、誰も、それに頓着してはいなかった。
 再度、轟と咆哮した竜と鷲が、熱風を伴って襲いかかる。
 それは恐ろしく速かった。
『冷厳よ渦巻け、鎌首をもたげよ』
 黒光が呟き、軽く印を切ると、切りつけるような冷たさを持つ、青白い身体をした蛇が無数に現れ、炎の顕現へと一斉に飛びかかった。
 炎の動きがわずかに緩慢になる。
 だが――この炎は、冷気では押し留め切れない。
「ち、重い……か」
 一瞬の後には、蛇は竜と鷲に呑まれて消えた。
 竜のあぎとに噛み砕かれそうになった黒光は、舌打ちとともにその場を跳んで避け、黒帝剣を抜き放った。
「ならば……薙ぎ払うのみ」
 とん、と地を蹴り、鷲へと向かって行く。
「なるほど……厄介だな……」
 続いたのは紫檀だ。
 彼の手には、呪力で持って作り出した闇色の剣がある。
「顕現せよ……腐食する如くに」
 紫檀が唱えると、剣がぐつぐつと沸き立つ。
「斬り裂き滅せよ」
 跳躍しながら剣を一閃する。
 ぶぅん、という、不吉な、羽音のような唸りとともに、『力』の波動が跳んで、鷲の片羽をバターのように切り裂いた。
 痛みだったのか、怒りだったのか、咆哮が上がる。
 しかし、片方の翼を失いながら、鷲の動きに変化はなかった。
 鷲は、一気に紫檀との距離を詰め、彼を、大きな嘴で貫こうとしたが、しかしそれは、真紅の糸によって阻まれた。
 紫檀はその隙に後退し、鷲と距離を取る。
「もうやめてください、リアティアヴィオラ! あなたにも判っているはずです、他者を傷つけて得た平安に、癒されるはずなどないということが!」
 血を編んで作った糸で鷲を絡め取りながら、アルが呼ばわる。
 赤糸は炎によって今にも焼き切られてしまいそうだ。
 だが、佇むリアティアヴィオラは応えず、身じろぎひとつしない。
「リアティアヴィオラ! 僕は判り合いたい……あなたと! あなたを殺したくはないのです!」
 アルの懸命な呼びかけ。
 返ったのは――静かな微笑と、彼女の手から生まれた、拒絶のような、二羽目の赤い鷲。
 咆哮する鷲に、シャノンが氷結弾を撃ち込む。
 鷲の周囲を氷の結晶が覆い尽くし、炎の勢いを弱めていく。
「無理はするな、アル」
「はい、シャノン。……あなたも」
 シャノンの伸ばした指先が、アルの頬に触れる。
 アルはほんのわずか頬を赤らめて頷き、それからまた、もがく鷲と向かい合う。
 黒光と紫檀は、仙蔵とともに竜と対峙していた。
 竜が大きな口を開き、溶岩流のようなブレスを放つのを、軽やかに跳んで避け、竜の元へ走り込んだ黒光が、漆黒の剣で咽喉を薙ぎ払う。
 手応えは……あった。
 浴びれば骨まで溶けるだろう熱気の『血』が噴き出すのを、黒光が後方へ逃れると同時に、呪力の剣に『力』を乗せた紫檀が得物を一閃する。
 竜の身体が削れて、黒い溶岩のように溶けて崩れ落ちていく。
 だが、間髪を入れずに、魔王が更に生み出した青い炎の狼たちが突っ込んで来て、紫檀は勢いよく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 咽喉を食い破られそうになり、また、毛皮の炎に燃やし尽くされそうになった紫檀を仙蔵の腕が軽々と掬い上げ、その場から跳び離れる。
「……すまん」
「いや」
 軽く言葉を交わし、態勢を整えたのち、また炎の顕現へと向かって行く。
 竜がいつの間にか二体に増えていた。
 竜の放ったブレスに巻き込まれ、アルと、それを庇ったシャノンが吹き飛ばされた。
 アルを腕の中に抱え込みながら地面へ叩きつけられ、低く呻くシャノンと、シャノンの名を悲鳴のように叫ぶアルの前に、ミケランジェロが立ちはだかり、モップの先端で陣を描いた。
 瞬間、それが光を放ち、白い竜の姿を取って、炎の竜へと襲いかかる。
「大丈夫か?」
「……大丈夫ではない、と答えたところで、やるべきことにかわりはなかろう」
「ハ、違いねェ」
 飄々と笑みを向け合い、また離れる。
 黒光の紡いだ呪縛の魔術が竜の一体を捕らえ、高々と跳躍した紫檀が呪力の剣で竜の首を一撃のもとに切断する。
 竜はもがくこともなく、黒い炎に戻って吹き散らかされて行った。
 ――それと同時に魔王から放たれる激烈な衝撃波。
「ぐ……ッ!?」
 ミケランジェロもアルもシャノンも、仙蔵も紫檀も黒光も、不可視のエネルギーに全身をしたたかに打ち据えられ、もんどりうって転倒し、受身も取れずに全身を強打して、声もなく地面を転がった。
 全身を激しい疲労感が襲い、口の中が金臭くなる。
「くそ、さすがに、キツいな……」
「まったくだ。世界が違うとこれだけ色々あるのかと、興味深くも思うが」
「ああ……それは、確かに」
 黒光と紫檀、長い時間を生きているふたりが、身体を起こしながら、妙に冷静にそんな言葉を交わしているのを聴きながら、理月はリアティアヴィオラを見詰めていた。
 理月もまた吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて息を詰めたひとりだが、彼はリアティアヴィオラが泣いていることに――白い頬を、涙が伝っていることに気づいて、息を呑んでいた。
 ――理月は確信している。
 魔王は正気を失ってはいない。
 理月と同じく、あの渇望によって狂うことは出来ていない。
 狂えていれば、きっと、もっと楽だったはずだ。
 だが、狂えなかったから、余計に苦しんでいる。
 ――声が聞こえる。
 寂しげな声が。

(どこにもいない。どこにも、感じられない。ジグノヴェルト、わたくしに意味を与えた男。……眠らなければならないのだとして、せめてもう一度逢いたかった)
(わたくしは知の魔王、全知のもの。だから……彼がこの世界にいないことは判っていた。――けれど、逢いたいという思いをかたちにせずにはいられなかった)
(意味が欲しかった。わたくし自身がすべてを受け入れて眠るための、たったひとつの意味が)
(そして、それが叶わないのならば――もう)
(わたくしを憎みなさい、わたくしの弱さと愚かさ、この醜い自己愛を。わたくしが観念して眠れるように、せめて……どうか)

 北の勇者ジグノヴェルトが孤独な魔王に与えた無償の愛。
 せめてもう一度だけそれに触れたいと、そのぬくもりに包まれて眠りたいと、そう彼女は願ったのだ。
 勇者がどこにもいないと判っていて、この会場中の女を眠らせ、男たちをひとりひとり確かめたところで見つけ出せはしないと――たとえ銀幕市中でそれをなしたとしても願いは叶わないと――判っていて、せめて、探さずにはいられなかった。
 それは、他者を、世界を犠牲にしてでも生き延びたいとは思わなかった女の、たったひとつのわがままだった。
 そしてそれが叶わないのならば、いっそ、自分を誰かに無理やり終わらせてもらおうという利己から、この事件を起こしたのだ。
 理月はそれを責められない。
 彼もまた、同じように、醜いわがままで人を傷つけようとしていたからだ。
 自分で気づき、自分で叶えるしかない願いを、他人に押し付けようとしていたからだ。
 そして、それと同時に、理月は、
「『ソリティア・ウィステリアの献身』……」
 映画のタイトルの意味が、判ったような気がしていた。
 ソリティアとはひとり遊びを意味する。
 ウィステリアとは藤。
 藤の花言葉は、『あなたの愛に酔い痴れる』。
 孤独な魔王の、愛のゆえの献身。
 ――それは、世界のために眠りを選んだ彼女を指す言葉なのだ。
「もう……いい」
 理月は『白竜王』を腰に戻した。
「もういいんだ、リアティアヴィオラ」
 炎が舞い踊る中を、彼女に向かって歩き出す。
 炎は無論、彼を襲ったが、理月が何かをしようとしていることに気づいたミケランジェロが魔法陣を編み、防御の『壁』をこしらえて、その炎を見事にそらしてくれた。
 タマはホントお人好しなんだからな、と、理月の唇に微苦笑が浮かぶ。
「あんたの所為じゃない」
 佇む彼女に、真っ直ぐな視線を向ける。
 静かに涙をこぼすリアティアヴィオラは美しく、そして悲壮だった。
 存在することが罪で、滅びという彼女の胸中、孤独はいかばかりのものだったのか、理月に図ることはできない。己が絶望と比べて、彼女のことが判る、と軽々しく言うのもまた、憚られる。
「眠りてぇなら、眠らせてやる。――だから、もう、嘆くな」
 炎を潜り抜け、魔王の元へ辿り着いた理月は、両手を伸ばしてリアティアヴィオラを抱き締めた。
 華奢な身体が、理月の腕の中に、何の抵抗もなく収まる。
 それと同時に、炎の獣たちも消えた。
 視線が、ふたりに集まる。
「あんたの誠(マコト)に、敬意と感謝を」
 静かに一言。
『ああ……』
 魔王が安堵の溜め息を漏らした。
 ――理月の手には、いつの間にか、玻鋼の守り刀がある。
 大切な友人が、理月を慈しんで鍛えてくれた刃だ。
 こういうたくさんの熱が、自分を生かしているのだと、今更のように、思う。
 守り刀を逆手に持ち、その切っ先を、リアティアヴィオラの背に当てる。
 止める声はなかった。
 誰にも、止めることは出来なかった。
 それは、リアティアヴィオラ自身の決断でもあったから。
「あんたこそ、憎んでいいんだぜ。何で自分だけが、って、泣いてよかったんだ」
『――いいえ』
 返った声は思いのほか力強く、どこか満足げだった。
『ありがとう……ごめんなさい。わたくしのわがままを叶えてくれて、ありがとう』
 紡がれる感謝の言葉に理月は瞑目し、そして、
「――静かに、眠ってくれ……」
 玻鋼の刃を、彼女に、与えた。
 魔王の華奢な肢体が、ほんのわずかに揺れ、ゆっくりと崩れ落ちて――……
「……あ?」
 しかし彼女は、プレミアフィルムにはならなかった。
 他者によって滅せられることまでが、彼女の役割だからなのだろうか、彼女はフィルムには戻らず、瞠目する理月の腕の中で、華奢で美しい、真紅の鏡へと姿を変えていた。
 銀とルビーで織り上げられたかのような枠と、すべての偽りを見抜くかのように透き通った鏡面の、美しい姿見だった。

(あなたたちの善意に報いるため、いずれこの世界を襲う災厄のために、せめて欠片を残しましょう)
(わたくしは真実を見通すもの。渇望を知るもの。呪いのような狂願が、誰かを捕らえて離さない日が来る時、わたくしを使いなさい)
(わたくしは、狂おしい渇望の中の、一条の光を映し出しましょう)

 どこからともなく声が聞こえて来る。
 闇が、少しずつ晴れてゆく。
 闇の向こう側に、夜明けが見えた。
 魔王は眠りにつき、闇は晴れて結び目を解き、捕らわれていた人々は解放される。
 そう、事件は解決したのだ。
 ――心は、晴れないが。
 取島カラスに肩を貸したフェイファーと、狩納京平を支えた唯瑞貴とが、神音とともにステージに上がって来る。
「黒光君、ごめん……迷惑をかけちゃって」
「俺もだ、面目ねェ」
 肉体へのダメージ以上に気落ちしている風のふたりへ、黒光が静かな目を向けた。
「おまえたちの抱いていた渇望が何なのか、俺に量ることは出来ない、が」
 そこで言葉を切り、ほんのわずか、笑みを浮かべる。
「俺にもまた、それはある。――だから、気にするな。今回は、こうだったというだけのことで、次があれば、逆の立場になっているかもしれない」
 この試練は、魔王との戦いではなく、己と向き合うことだった。己の奥底に巣食う、身食いの、身勝手な渇望を知り、それとどう付き合ってゆくのか、模索することだった。
 これは、そのために用意された『場』なのかもしれなかった。
 上ってゆく朝日が、目に痛い。
 心にも、痛い。
「帰る……か」
 誰かが、ぽつりと呟いた。
 あちこちから、小さな、力のない頷きが返る。
 帰れる場所があることは、救いだ。
 そして、許されていることと、同義だ。
 だれもが、やるせない、切ない思いとともに、それを実感していた。

 ――少しずつ、太陽は、光を強めていく。



 9.The Knell

「あ」
「……おう」
 角を曲がったところで鉢合わせ、カラスとミケランジェロは互いに眼を瞬いた。
「この間は、どうも」
「ああ」
 あの事件、コンサート会場を発端とし、いくつもの場所へ飛び火した惨劇から、数日が経っていた。
 幸いにも、コンサート会場に捕らわれていた人々の命に別状はなく、誰もが病院で手当てを受けた後、それぞれにしこりを残した胸の奥の痛みと向き合いながら、日常へと帰還して行った。
 リアティアヴィオラが変化した鏡は対策課に安置され、必要とされる時を待っている。
 コンサート会場には、もう、あの事件を伺わせるものは何も残ってはいない。
 ただ、足を踏み入れると、胸が苦しいような、切ないような、そんな気分になるだけだ。
 少なくとも、表面上は、平穏が戻ってきていた。
「……誰か探してんのか」
「そういうミケランジェロ君も」
「ああ、ちょっとな」
 言いつつ、何となく、ふたり並んで歩く。
「久我ってヤツなんだが」
「久我正登君って」
 同時に口にして、顔を見合わせる。
「……おまえも気になってたのか」
「うん……報告書を読んで、ちょっとね。話をしてみたいなぁって思って」
「事務所にゃあいなかったな」
「携帯電話にかけても、出なかった」
「……」
「……」
 久我正登。
 神音の、この国での音楽活動を補佐するマネージャーだ。
 最近の彼の行動は、明らかに、おかしい。
 あの事件が収束したあとも、電話を寄越しただけで、結局姿を見せなかった彼のことが気になって、ふたりはめいめいに久我を探していた。そしてここで出会ったというわけだ。
「他に……どこに行くだろうな」
「そうだね、銀幕市は広いから……」
 言いつつ、大きな建物の角を曲がろうとしたところで、眉をひそめたミケランジェロが、カラスの襟首を掴んで壁に張り付いた。
「何、」
 抗議の声を上げるより早く、静かにしろ、と目で制される。
 息を呑んで耳を澄ますカラスの耳にも、それは聞こえてきた。

「首尾はどうなのだ、瑕莫」
「上々だとも、クロノス。幾つもの結晶が得られた……素晴らしいことだ。間もなく、あの方をお迎えするための陣は完成するだろう」
「『器』はどうする?」
「それなら、今、私の翼が迎えに行っているよ。かの場、君の紡いだ渇望の中において、何ひとつ揺らがなかった人間……あの虚ろならば、相応しい」
「なるほど、準備は万端、ということだな」

 くくく、とこぼれる低い笑い声には聞き覚えがあった。
 話している内容の一部にも、心当たりがあった。ありすぎたほどだ。
「何を……」
 まずは話をしないことには始まらない、と、張り付いた壁から踏み出し、向こう側を見やって、ミケランジェロは眉をひそめた。
 そこに佇むふたりの男。
 異様な威圧感が空気を震わせている。
「……おや」
 壮年の男が、金の目を細めてミケランジェロを見る。
「招かざる客という奴だな」
 酷薄に笑う男は、久我正登に違いなかった。
 肩には、ラベンダーカラーのバッキーがいる。
「どうしようか、クロノス?」
「クロノス? それは一体何の……」
 のんびりとした壮年の男の声に眉をひそめ、カラスが何かを問おうとするよりも早く。
 にゅるり。
 そうとしか表現出来ない動きで、バッキーが、唐突に変質した。
 やわらかなラベンダー色の擬態は脱ぎ捨てられ、アッシュグレイの本体があらわになる。
「ありえない色の、バッキー……!」
 それは、巷を騒がせている存在だ。
 確か、対策課の邑瀬が、何か少しでも変わったバッキーを見かけたら連絡してくれ、と広報していた。
 しかし、
「埋め尽くせ、アイオーニオン」
 知らせなくては、行動しなくては、と思いはするものの、久我正登なのかクロノスなのか判然としない男の足元から黒々と伸びてきた影がふたりを包み込み、身動きを取れなくしてしまう。
「、な……!?」
 驚愕する暇もなく、バッキーの、毒針めいた尾が、ふたりに埋め込まれる。
 ――ゆっくりと浸透していく、渇望の毒。
 同時に、記憶と意識が、遠ざかる。
「今は、まだ、眠らせておこう。――いずれ、機が熟すれば、また」
 そんな声を最後に、視界は暗転し、くつくつという愉悦に満ちた笑い声とともに、ふたつの足音が遠ざかる。
 数分後、正常な意識を取り戻し、訝しげに首をかしげたふたりから、クロノスと瑕莫の記憶は、綺麗に抜け落ちてしまっていたが、無論ふたりに、それを知る由など、なかった。

 * * * * *

 角を曲がったところで、シャノンと鉢合わせた。
「……おや、すまない」
 ぶつかりそうになって、唯瑞貴が詫びると、シャノンは首を横に振った。
 何故か、彼から重い疲労が感じられ、
「どうした、顔色がよくないが」
 尋ねると、シャノンは苦痛を堪えるようにわずかに眉根を寄せた。
 そんな表情も様になる男だ。
「……アルを見なかったか、理月、唯瑞貴」
「アル? いや、見てねぇけど……なんかあったのかよ?」
 理月が首を傾げると、シャノンは、手の中の何かを握り締めた。
 銀のチェーンと、ほんの少し覗いた金属の形状から、クロスのネックレスだろうと思われた。
「どこにもいないんだ」
「え?」
「アルが、いなくなった」
「それは、どういう――……」
 理月が眉をひそめる。
「ルイスを少しだけ頼む、と、先だっての事件の別れ際に言われたんだ。おかしいとは思ったんだが……」
「でも、何でそんな、」
「理由は……判る。判っている、と、思う」
 普段の、自信に満ちたヴァンパイアハンターとは思えぬ、弱々しい、不安げな声を漏らすシャノンを放ってはおけず、当然のように、白い吸血鬼の少年を探すことになる。
「じゃあ俺はシャノンと一緒に向こうまで行ってから、そこのT字路で分かれて反対側を探すわ」
「判った。では、私はこちらを」
「……ありがとう、すまない」
「や、謝ってもらうようなことじゃねぇだろ。俺たちだって、アルのことは心配だしな」
 かすかに笑ってシャノンの肩を叩き、理月が彼と連れ立って通りの向こう側へ歩いてゆくのを見送ってから、唯瑞貴もまた白い少年の姿を求めて歩き出した。
 あの狂おしい渇望の場で、何かがあったのだろうか。
 姿を消さなくてはならないような、何かが。
「渇望、か」
 自分には難しい言葉だ、と、他人事のように唯瑞貴が思ったとき、
「虚ろなおまえにそれは理解出来まい、『器』」
 凛々しい声が背後からかかり、唯瑞貴は立ち止まった。
「……神音? いや、違うか……」
 振り向き、そこに、色鮮やかなガラムカールで仕立てられた上質なコートを身にまとい、背に大きな翼を負った、神音とよく似た顔立ちの少年の姿を見い出して、首を傾げる。
 少年の背後には、赤と青の髪をした、そっくり同じ顔の少年がふたり、佇んでいた。何もかもが同じ黒ずくめの衣装を身にまとい、ともにピュアスノーのバッキーを肩に乗せていて、彼らがムービーファンだと言うことを教えてくれる。
「神音とやらがなにものなのかは知らないが、僕は師のための翼だ、それ以外のことはどうでもいい。――いっしょに来てもらうぞ、『器』。我らが大願の成就のために」
 有無を言わせない強い言葉に、身構える余裕どころか、危険を感じる暇もなかった。
 ――気づくと、赤と青の少年が、背後にいた。
「な、」
「心配すんな、殺しゃしねぇから。――今は、な」
「はは、そうだな」
 まったく同じ顔、同じ声で笑った少年たちの手刀が、恐るべき速度で唯瑞貴の首筋に叩き込まれ、彼の意識を刈り取る。
「いつもながら見事な手際だな」
「そりゃどーも」
「さて、帰っておっしょさんに褒めてもらおう」
「ん、そうだな」
 有翼の少年が、ぐったりと意識を失った唯瑞貴の長身を軽々と抱え上げ、踵を返す。
 赤と青の少年がそれに続いた。
 あとには、不吉な静寂が残るばかりだった。

 その数十秒後、
「忘れていた、唯瑞貴、西の方はもう探し――……うん?」
「あれ……ルートから言ってこっちに来てるはず、だよな……?」
 向こうの通りから顔を覗かせたシャノンと理月は、唯瑞貴の姿がどこにもないことに首を傾げ、顔を見合わせあったが、何が起きたのかなどは、知る由もなかった。

 クロノスと瑕莫の記憶は失われ、埋め込まれた渇望の行方は不明瞭で、アルと唯瑞貴の消息は、依然として、知れない。

 ――そして、運命は、また動く。
 抗い難い引力を伴って。

クリエイターコメント今晩は、ノベルのお届けに上がりました。

このたびは、神無月まりばな・高槻ひかる両WRとのコラボシナリオ、【崩壊狂詩曲】にご参加くださいまして、どうもありがとうございました。

コンサート会場一帯を巻き込んだ『渇望』の物語は、やるせない思いを孕みつつも、ひとまず、このようなかたちで幕を下ろすことと相成りました。

皆さんの、たくさんの真摯なお言葉に胸を打たれながら、それぞれに抱かれた渇望に共感し痛みを感じながら、全身全霊を持って執筆させていただきました。

皆さんの誠と素晴らしいプレイングに伏して感謝しつつ、入り乱れる『渇望』と、もたらされた混乱、苦しみ、それを乗り越える光などを、楽しんでいただければと思います。

コラボシナリオ自体はこれのみですが、クロノスと瑕莫は、更なる何かを目論んでいる様子。この先、彼らが何かを引き起こしました際には、ご助力を願いたいと思う次第です。

さておき、ご参加、どうもありがとうございました。
また、次なる物語で、出会えることを祈りつつ。
公開日時2008-11-22(土) 22:50
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