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<ノベル>
セイリオスが市役所から叫びながら飛び出して行くのを遠目に見て、続那戯は対策課に入った。カウンターには途方に暮れたような植村と、麻袋のようなものが乗っている。肩ではボイルドエッグのバッキー・オーエンがしかりとしがみついて、小首を傾げる。
「何の騒ぎだ」
「続さん」
植村は那戯を認めると、まだ呆けた顔のまま事の次第を話した。眉間に皺を寄せて、那戯は短く息を吐く。
先日のアズマ山探査といい、今回の事といい、この銀幕市は不穏に過ぎる。その事で、那戯は姪と引っ越す・引っ越さないの喧嘩をしてきたばかりだ。
この何とも言えない苛つきの捌け口を見つけたとでも言わんばかりに、那戯は口元を歪めて踵を返した。
「取るもんを取ってくる。それまでに、いくらか人を集めて置けよ」
相手は動くヒト。どう拡散するか分からない。ハリスが向かい合う悪魔は、他のメンバーに任せて構わないだろう。今、最優先するのは。
「俺様だ。至急、手下共を集めろ。……仕事だ」
携帯電話を乱暴に閉じる。冷たい風が吹き付け、オレンジの髪が燃えるように靡いた。
◆
───……。
昇太郎は唐突に立ち止まった。
嗅ぎ慣れた匂いに、息詰まる程の生臭い負の気配に、オッドアイの瞳は見開かれた。
「どうした」
気怠げなミケランジェロの声。それは吹き付けた風で吹き飛ばされていく。それに乗って真正面から叩き付けてくる生臭い水の臭いに、昇太郎は駆け出した。
「おい!」
ミケランジェロが叫んでいる。しかし昇太郎は、止まらなかった。止められなかった。生臭い水の臭いに乗って、悲しい程に黒々とした『死の匂い』を感じ取ってしまったから。
昇太郎はその背中に、輪廻を負うが故に、死の来訪を感じ取れる。死は、迎える者も、見送る者も苦痛である事を、彼は知っている。
だから、脇目もふらずに走る。
翠と銀の瞳が灰色の世界を映すと、臭気を放ちながら降る生ぬるい雨がじとじとと体を濡らした。
『ナゼ、ナゼ、ナゼダ。タダアルダケ、アルダケデ、オワレネバナラヌ!』
黒い大きな犬が、頭を振って駆ける。その慟哭に、蒼い三つ編みを揺らした竜人が鋭い爪でこたえる。
──ああ。
泣きたくなる程の切なさに、昇太郎は瞑目した。
◆
「……そうでしたの、何やら街が騒がしいと思えば、そのような事が」
鴇色の着物に紅鳶の袴を纏い、結い上げた黒髪を花飾りで留めた少女藤垣静乃は、沈痛そうに瞳を伏せる。目の前に立つ殿方から目を反らす為とは言いませんよ、ええ言いませんとも。TPOは弁えておりますとも。かなり惚れっぽい静乃は、この対策課に来てもう三人に瞬間的な恋に落ちましたけれども。
「一刻も早い解決が必要です。私はハリス殿の元へ行きましょう」
真っ直ぐな青い瞳で、ギルバート・クリストフは同じく対策課を訪れていたウィレム・ギュンターを振り返る。ウィレムは少し考えるように口元に手をやって、それから青い瞳をギルバートに向けた。
「では、僕は悪魔落としの方を手伝わせて頂きます。あまり悪魔討伐の方に人数が偏っても、いけませんしね。……藤垣さん、でしたか」
ウィレムが静乃を振り返ると、静乃はまだ俯いている。
「藤垣さん、」
「は、はい! なんでしょう」
ぽん、と肩を叩かれ、静乃は頬を赤く染めて顔を上げる。
「ギルバートさんは墓地へ、僕は悪魔を落として回ろうと思います。藤垣さんは、どうしますか?」
「では、私も悪魔落としのお手伝いをさせていただきますわ。……ハリス様の方へは、足手纏いになってしまいそうですもの」
申し訳なさそうに見上げる静乃に、ギルバートは「いいえ」と柔和な笑みを浮かべた。それから顔を引き締め、姿勢を正し、一礼をして対策課を出た。
それと入れ替わりに、布で包んだ何か棒状のものを担いだ、紫の瞳にオレンジの髪というド派手な男が入った。肩にバッキーがいなければ、とても一般人には見えない。
「続さん」
「ウィレム、ユーも悪魔落としか?」
それに頷いて、那戯は静乃に目をやった。「ああまた素敵な殿方があらいけないわはしたないわ、わたくしったら(略)」と頬を染めて、静乃はそろと礼をした。それに軽く手を挙げて応え、那戯は黒い四角い物体を放った。
「無線機だ。相手は動くヒト、どう拡散するかわからん」
言いながらカウンターまで歩むと、ばさりと地図を広げた。それは、アズマ山探索の際に重ね合わせたのをプリントアウトしたものである。那戯は頂点となるアズマ山……今は黄金の城が居を構えるそこから、街へと広がる線を指し示した。
「以前から度々起こっている悪魔憑きの現象は、見ての通り末広がりになっている。俺はアップタウンを主に回る。手下共も動員しているんでな、数は多い方がいいだろう。ユーたちにはそれぞれベイエリアへ回ってくれ。悪魔憑き及びハングリーモンスターがいれば排除、なければそのまま北上していけ」
「ミッドタウンを後回しにするのは、どうかと思いますが」
ウィレムに、那戯は眉を弾き上げる。
「セイリオスとかいう小僧が回ってるだろう。一匹も逃す訳にはいかねぇんだ」
後ろでは、ひっきりなしに電話が鳴っている。それがセイリオスからのものであると、既に事情を知る那戯はわかっていた。それにウィレムが頷き、静乃もまた神妙な顔で頷く。
セイリオスが残した、アイスブルーの飴を三等分し、三人は対策課を出た。空は晴れている。
神撫手早雪は“美味しそうな匂い”に惹かれて、街を漂っていた。
急激に増えた甘やかとも言えるその匂いは、早雪の満たされる事のない腹は刺激される。すぐにでも食いついてやりたいが、それが食べていいものか悪いものか、その判断が早雪には付かない。一人でふらふら出てきてしまったのは失敗だったかと半ば後悔した時。
今時珍しい電話ボックスの脇に、一等美味しそうな匂いを醸し出す、一人の少年が見えた。
「ねぇ」
肩を叩かれ、セイリオスは振り返る。そこには銀の髪に赤い瞳をした、自分とあまり年の変わらないであろう、少年。なんだろうと思っていると、少年は何か考えるように首を傾げて、それからセイリオスを見た。
「キミも美味しそうな匂いがするね。他にも、急にいっぱい美味しそうなにおいが増えたけど」
少年の赤い瞳が怪しく光る。
「……たべていい?」
セイリオスはどう答えればいいのか、迷った。気配からして人間ではない事はわかったが、悪魔が憑いているわけでもないらしい。というか、美味しそうな匂いがするとはどういう事だろうか。たべていいと言われたらそりゃあ、
「オレを食われると困る」
言うと、少年は残念そうな顔をする。そしてふと視線をやった先には悪魔憑きの男。セイリオスが駆け出そうとした時、ふわふわと浮いていた少年はふらと近寄ったかと思うと、ずるずるとその男を引き摺って戻ってきた。あまりに悠長な、それでいて隙のない動きに、セイリオスは目を見開いた。
少年は何か喚いている男の左腕を掴んで、その手の甲を指した。
「これは?」
黒い痣に、セイリオスはもう一度少年を見る。腹が減っているのか、ものすごい腹の虫の音だ。そわそわと落ち着かない様子でまだかまだかと、じっとセイリオスの赤い瞳を見ている。男が暴れるが、見た目は細いのにかなり力があるらしい、少年はびくともしない。
「ねぇ。これは、たべてもいい?」
少年が何をするつもりかは、わからない。あまり好きになれそうにない気配を纏っている少年だけれど、セイリオスはこの少年を嫌いにならなかった。ニヤリと笑う。
「……いいぜ」
途端、少年は嬉しそうにその痣に噛み付く。男が呆然とする間もなく、崩れ落ちる。少年がその手を離した時、左手に黒い痣はなかった。
「ごちそうさま」
少年が笑う。セイリオスは少し驚きながら、笑う。
「すげぇな。……アンタ、名前は」
「神撫手早雪」
「早雪か。ノリカカッタフネだ、手伝ってくれ」
ちっちっちっちっち……と早雪の中で何かの時計が動き出す。
ノリカカッタフネ。
手伝う。
何を?
あの負の気配を食べた。
あれを食べるのは良い事?
ということは。
ピーン。
早雪は満面の笑みを浮かべる。
「いいよ」
それに頷き返して手を指しだそうとし。セイリオスは息を詰まらせ、電話ボックスに背中を打ち付けた。あまりの勢いに、早雪ですら反応が遅れたそれは、那戯だった。
「セイリオスだな」
那戯はギリとその襟を締め上げる。セイリオスはその手を振り払おうとするが、思ったように力が入らない。
「なんだ、あんた」
「自己紹介の暇はねぇ。悪魔憑きについて覚えがあるなら、簡潔に吐け」
セイリオスは深紅の瞳を細める。早雪は美味しい匂いもしないしと、とりあえず傍観を決めたようだ。
「……世界を支える一柱、『無窮』万世不易の悪魔・エルドラド。その配下。オレたちの世界でも人に憑き、侵略し、混乱に陥れてる」
「目的は」
「知らねぇ」
ギリと更に襟を締め付けられ、セイリオスは顔を歪めた。
「あんた、この後どうなる、って聞かれて…っ……わかんのか」
那戯は紫の瞳で歪む赤を覗き込み、その手を離した。セイリオスはその場で膝を付き、咳き込む。その瞳を見返す。
「この悪魔共は」
「全部落とす。これ以上は許さねぇ」
セイリオスの目が深紅に煌めき、那戯は口端を持ち上げて笑った。布を巻いた棒状のものを担ぎ直し、懐から無線機を取り出し、二人に放った。
「続那戯。ベイエリアから二人、ダウンタウン北の住宅街を俺様と手下共が引き受ける。ミッドタウンは任せた」
早口に言って、那戯は踵を返す。返事を待たなかったのは、返ってくる返事が必ずそれだとわかった。
セイリオスは背を向けた那戯の背中にボイルドエッグのバッキーを見て、彼がムービーファンだと知る。
「食べて回っていい?」
盛大に腹の虫を鳴らした早雪に、セイリオスは少し笑った。
◆
鼻の先に水の臭いが掠めた。
それはとても愉快とは言えず、ギルバートは思わず顔をしかめた。視界に灰色の世界が映り、その臭いは腐臭を伴ってその鼻へとはっきり届く。
あそこか。
更に足に力を込めた時。全身が粟立ち、ギルバートは立ち止まる。じとじとと降る雨の音に混じって、ずるずると重たいものを引き摺るような音がする。ざわざわと這い上る悪寒、瞬間的に膨れあがった殺気、途端、跳び退って転げ、構えた。
濁ったシトラス。緩慢な動きで巨大な頭を持ち上げたそこは、アスファルトが抉れて土が覗いた。
ギルバートは碧眼を細め、ハングリーモンスターと向き合う。
「武装の具現は、彼の悪魔と対峙してからにしたかったのですが」
すと胸元で輝く青の宝石を握った、その時。
──チリン──
鈴の音。
音と共に現れたのは、全身をローブで覆った者。
ギルバートはその厳かさに、思わず身を直立させる。
黒いローブの者は、右手に長い杖を持ち、その先端に頼りなげなカンテラの灯りを燈している。
──チリン──
一歩前に踏み出すと、左手に持った小さな鈴が揺れる。
ローブの中は真の闇で、目と思しきものが金色に光っている。それがわずかに細められたように感じた。
「……憐れな姿じゃのう……」
──チリン──
鈴の音が響いて。
ハングリーモンスターがゆっくりと……いや、巨大すぎてそう見えたのかもしれない。ゆっくりと、倒れていく。黒いローブの者がカンテラを捧げると、ハングリーモンスターは眠るようにその炎の中で消失した。
跡形もなくなったそこに、もう一度鈴の音が響く。
ゆるりとした動きで振り返ると、すとそのカンテラで雨の降りしきる先を指した。
「……行くがよい……道を塞ぐモノ、迷えるモノは、このカロンが導こう……」
「恐れ入ります、カロン殿。このギルバート・クリストフ、騎士として全身全霊を持って、必ずや彼の者を静めてみせます」
カロンと名乗った黒いローブの者は、現れた時と同じように幽かな鈴の音を残して去っていった。
ギルバートはもう一度直立し、今度こそ灰色の世界へと駆けていった。
反対側の道から、黒髪の男と彼を追い掛ける銀髪の男が駆けてくる。黒髪の方は自分に気づきもしなかったが、銀髪の男は自分を見ると嫌そうに顔を歪めた。
「なんだ、変態」
ギルバートの端正な顔が、銀髪の男以上に歪められる。
「その“変態”が誰を指しているのか、なんとなく察しは付きます。が、あんな“変態”と一緒にされるのは心外です」
男は首を傾げる。ギルバートは、これについて何度目かわからぬため息を吐いた。
「私はギルバート・クリストフと申します。あの男とは、演目は違うからまるで接点はないのですが、演じた者は同じだと、そういう風に説明を受けています。それに、私はあれのように巫山戯た振る舞いは断じていたしません」
あんまり強く言うので、男は笑った。
「なるほど、そいつぁ悪かった。俺はミケランジェロ。あれが昇太郎」
前を行く昇太郎に目をやって、ギルバートは頷いた。やがて墓地の入り口が見えてくる。灰色の世界に墓石がずらりと並んでいる様は、今この状況では一層不気味に見えた。
「貴方たちは、対策課からいらした……というわけでは、なさそうですね」
「依頼が出てんのか」
「ええ。セイリオスという、盗賊団【アルラキス】の一人から。こちらには、同じ盗賊団のハリスという竜人がいるそうです。そして、悪魔と対峙している……」
「悪魔?」
……オオォォオオオオオオオオオオォオオオオォォォォ………
獣の咆哮。
昇太郎の足が、更に速くなる。ミケランジェロとギルバートの足も、自然速くなった。
灰色の薄もやの中に、黒い黒い巨大な影が浮かび上がった。その前に、蒼い竜の翼を広げた男が立ち塞がっている。
「あれが」
ギルバートは思わず息を呑んだ。
その巨大な影は、黒い犬。
体のあちこちで黒い帯状のものがびょるびょると這い回り蠢いている。
『ナゼ、ナゼ、ナゼダ!』
咆哮。
ギルバートは青の宝石を握り締めた。
◆
ベイエリアに着いた静乃とウィレムは、思わず言葉を失った。
白い砂浜に転々と人が倒れている。この寒い日中、まさか日焼けに来た者たちではなかろう。
「大丈夫ですかっ!?」
「いけません、静乃さん。頭を打たれています、救急車を」
駆け寄ろうとする静乃の手を取り、ウィレムは携帯電話を握らせる。静乃はひとつ呼吸をおいて、それを受け取った。頷いて、ウィレムは声が届くように膝を折った。
「助けに来ましたよ、聞こえますか」
ゆっくりとはっきりとした声に、男は呻き声を漏らす。意識はあるようだ。
「もう大丈夫です」
「…あ、あいつら……鉄、パイプ持って……」
ウィレムは頷き、その手を握った。
「わかりました。不届き者たちは必ず捕まえ、警察に突き出します」
声と手の温度に安心したのか、男はウィレムの手を握り返す。頼む、と小さく呻く声に、ウィレムはもう一度頷いた。
「病院につながりました。すぐに来てくれるそうです。ただ、人数が多いので」
顔を曇らせる静乃に、ウィレムは無線を取った。
「こちらベイエリア、聞こえますか」
『なんだ、こっちぁ取り込み中……だぜ!』
言葉の合間に、金属音と叫びが聞こえる。ウィレムは一瞬逡巡したが、すぐに口を開いた。
「ベイエリア海岸線において、悪魔憑きによると思われる被害者が大勢います。応援を回していただきたい」
『犯人ってぇのは』
静乃は弾かれたように顔を上げる。その先には薄く笑う、鉄パイプを持つ男。ウィレムが口を開くよりも先に、静乃がその手を振る。ウィレムは細い細い糸が静乃の十指から飛び出し、男に絡みつくのを見た。静乃が十指を微かに動かすと、鉄パイプの男は面白いように突堤から砂浜へと転げ落ちた。
「……捕獲しました」
『オーケィ、怪我人はこっちで面倒見る。……五月蝿ぇ、黙れ』
何かを蹴飛ばした音がして、ウィレムは微かに眉根を寄せるが、「お願いします」とだけ言って無線をポケットに押し込んだ。
「静乃さんは、ここにいてください」
「いいえ、わたくしが」
ウィレムは静かに頭を振る。
「彼一人だけではありません。あなたはここで、広い視野を持っていてください」
その意図をわかって、静乃は頷いた。静乃の肩を軽く叩いて、ウィレムは一足飛びに芋虫のようにもがく男の傍らに立った。そこに来て、初めて男がまだあどけなさを残した少年であることを知る。ちろりと手を見やる。
左手に、黒い痣。
「……自分が何をしたのか、後でじっくりと省みることです」
大口を開けて喚き散らすその口に、アイスブルーの飴を放り込んだ。喚いていたせいか、少年は吐き出すことなくそのまま飲み込んだ。ウィレムが眉を跳ね上げた時。少年は一瞬の瞠目の後、空気を求める金魚のように口をぱくぱくとさせて、気を失った。訝しげにその手を見ると、黒い痣はもうなかった。
背中で高い糸が引く音と怒声がして、ウィレムは振り返った。二人の少年が向かい合っている。緑のジャケットを着た少年が、困惑した叫びを上げながら、青いジャケットの少年に殴りかかる。青ジャケットの少年はどうにか避けながら、しかし砂浜での事、足を取られて転倒した。そこに更に細い糸が伸びて、鉄パイプをはじき飛ばす。緑ジャケットの少年は困惑した顔のまま、青ジャケットの少年をずるずると引き摺ってウィレムの所まで歩いていった。
「自分から来るとは、良い子ですねぇ」
青い瞳が細められると、少年は怯えたように震えだした。
「良い子にはご褒美をあげましょう。さ、口を開いてください」
我ながら芝居がかっている。
そうは思ったが、面白いように怯えるので、つい遊びたくなってしまった。少年は決して開いてやるまいとしていただろうが、そこは無駄な抵抗。静乃は操り師、糸をとりつかせた対象を傀儡のように操る。よって少年はあっさり飴を飲み込まされた。緑の少年はもう暴れる気力もないのか、自暴自棄になったのか、アイスブルーの飴を噛み砕く。黒い痣は、音もなく消え去った。
ウィレムは静乃を振り返り、苦笑する。
「結構、激しい方ですね」
静乃は頬を染めて、俯いた。
車が止まる音がする。那戯の応援だ。警察と救急車とが着くのは、もうすぐである。
◆
「行け、風」
麗火が言うと、風はふわりと四人の少年を浮かび上げた。そのまま対策課へと向かって飛んで行く。麗火はそれを見送って、小さく息を吐いた。
以前。
それはボールや水風船を投げつけた子供達、その後は赤沼など、悪魔を祓い落としてきた彼は後から後から湧いて出る悪魔を落として回っていた。今回は依頼を受けてやっているわけではない。だから、落として気を失った者たちを風に運ばせていた。
焔が不愉快げに四方を見やる。幾度となく憑いた悪魔と対峙してきた焔は、その察知に向いてきた。一々麗火がその目で確認せずとも、焔が見つける。
六……いや、八か。
眼鏡の奥で深紅の瞳が苛立たしげに揺らめく。今回、悪魔に憑かれているのは子供に限らず、青年から中年、果ては老人まで居る。悪魔が無差別に走ったか、それとも……暗い隙を持つ者が、余りに多過ぎるのか。
それも詮無い事だと、麗火は少しは理解できた。
今の銀幕市は不穏に過ぎる。いや、不穏はずっと続いていた。それが今ここに来て、溢れ出たという方が正しいのであろう。
力を持たない者たちが、力が欲しいと願っても仕方がない。
力を持たない者たちが、力ある者たちを憎んでも仕方ない。
不安や不満は時として大きな動乱に繋がる。それは人の常であり、世の常である。それは、誰よりも麗火が理解していた。
だが、理解できるのと仕方がないと思うのは、まったく別の事である。麗火は、理解できるが故に、無意味で無駄な事はしない。最善を尽くす為に邪魔をするならば、力尽くで押さえ付け、黙らせる。丁寧に真面目に相手をして損をするのは自分だとわかっている。
ジリ貧は、趣味じゃない。
麗火は口の中で術式を編み上げる。軽く掲げた手に、白い光が宿る。深紅の髪が、魔力のうねりでざわめく。血色の双眸が白い八つの魂と、それに巣くう黒い魂を映す。
──バカな生き物だ。
掲げた手から白い閃光が迸る。ざわりと黒きものが蠢く。白い世界に一点、漆黒の穴が穿たれ、黒きものは一斉にそこへと飛び込んだ。待ち受けるは、罠。耳障りな絶叫が僅かに漏れたが、それは黒い水晶となって麗火の手の中に収まった。
さて、どうやって八人を集めようか。そう思った時、風が八人を麗火の足下まで運んできた。丁度戻ったところらしい。麗火が顔を上げると、風は褒めてと言わんばかりに麗火の髪を揺らした。
「……今日が終わったらな」
風は笑うように麗火の髪を揺らす。そして一枚の紙を落とした。それを見て、麗火は片眉を上げた。黒い水晶を小さな布袋に突っ込んで、風に「行け」と手を振る。
──ご協力、感謝します。ですが、これ以上は市役所では受け入れられません。各病院に連絡を入れておきましたので、以後はそちらへお願いします。植村。
◆
昇太郎は泣きたくて仕方なかった。
爪を、牙を振るうこの悪魔が……アザミが、あまりに痛切に叫ぶから。
唇を噛み、黒鞘の刀を握り締める昇太郎を横目に、仕込み刀を構えるミケランジェロは眉を潜めた。昇太郎は、アザミの苦しみに引き摺られている。それは彼の昔の癖、すなわち自己犠牲が出てしまう可能性がある。
アザミが地を蹴る。昇太郎が動かないので、ミケランジェロは小さな嘆息と共に前へ出た。怒号を上げながら振り下ろす爪を、角度を反らして受け流す。空しく空を掻いた爪を縫うように避け、ギルバートがその鼻面にライト・ブリンガーという黄金の光を纏ったバスタードソードを叩き付ける。このライト・ブリンガーは、太陽の光を封じてある聖剣である。太陽の光と同じ効果のあるこの剣撃は、アザミにかなりの消耗を与えていた。そこへ、ハリスの氷塊がたたみ掛けるように降り注ぐ。アザミの咆哮が響き、頭を滅茶苦茶に振る。黒いフィルムが傷を塞ぐべくびょるびょると音を立てて噴き出し、ぐじゅぐじゅと再生していく。
ミケランジェロは舌打ちした。先ほどから、この繰り返し。斬っても抉っても黒いフィルムで再生していく。じとじとと降る雨は、容赦なく体力と気力を奪っていった。
『ナゼダ、ナゼ、ワレヲオウ。ワレヲオウ。アルダケ、タダアルダケナノニ』
黒い犬アザミは、それを繰り返す。
昇太郎は顔を歪め、ハリスと名乗った竜人もまた眉根を寄せる。それもまた、ミケランジェロに苛立ちを覚えさせた。ギルバートは積極的だが、どこか甘い。それは、アザミをどうにか解放できないかと言ったところからも推測できる。ハリスは首を振った。それはできないと。アザミは悪魔に憑かれたのではない、悪魔に堕ちたのだと。ならばなおさら、とミケランジェロは思う。
ああ、どうして俺の周りは、バカばかりなのだ。
『ナゼダ、アルダケノワレナノニ』
「巫山戯んな」
もう我慢は出来なかった。
「在るだけ? んなわけねェだろ、現にこうして俺らと向かい合って、戦ってる」
それすらも否定する気なのか。
アザミは唸りながら、頭を振る。
「生きてるからにゃ、何らかの罪を背負ってるもんだ。それを糾弾されるかされねェかは、テメェが意志を得てからの行動次第」
真っ直ぐに刀を向けて、紫の瞳でガラス玉のような青い瞳を睨め付けた。
「お前はそこで既に脱落してんだよ。殺されたくなきゃ、戦いたくなきゃ、大人しくしてろ。それが出来ねェんなら、うだうだ言わねェでとっとと殺されろ」
息を呑む音がする。構うものか。
ミケランジェロは地を蹴った。アザミの咆哮が響き、ミケランジェロに突進する。牙が轟音を伴って迫り来る。柔軟な体で滑るように懐に飛び込み、右手を突き出した。
眼前が深紅に染まって、ミケランジェロは一瞬何が起こったのか分からなかった。胸が生ぬるく、喉の奥から熱い鮮血が溢れ出た。
「ミゲル!」
「ミケランジェロ殿!」
昇太郎とギルバートの声が遠くに聞こえる。アザミの咆哮が、いやに響いた。
◆
早雪はその浄化能力で、次々と悪魔を落としていった。初めは満足感を得る為に噛み付いて浄化していったが、その数の多さに驚き、ならば数を稼ぐ為にとその額に触れて浄化していく。
それは悪魔憑きを引っ捕らえ、無理矢理に炎で悪魔を引っ剥がし、そのショックで気抜けした人間を通常の状態に近付ける為にハリスの飴を使わざるを得ないセイリオスとは、まるで違った。
「あんた、そんなに取り込んで平気なのか」
「ん。んー……大丈夫。お腹いっぱいにならないんだ」
早雪は笑みを崩さぬまま首を傾げて、迫り来る男の腕をぱしりと取って、それを浄化した。セイリオスがやる程ではないが、やはり多少のショックはあるようで、セイリオスは飴を放り込みながら対策課に連絡した。
早雪にとって浄化とは、彼の中の【死神】を封ずる力となる。目には目を、歯には歯を、闇には闇を以て抑えるという外法により、封印維持のエネルギーへと転化しているのだ。それ故に、彼の胃袋は満腹感を得る事はない。またそれが故に、彼は負の性質──呪いや魔力を“美味しそう”と認識する。
さて、美味しい匂いはどこへあるかな、と辺りを見渡した早雪は、ふいにざわりとした音を聞いた。
──……くる。われらをもくらうものが、くるぞ。
早雪は驚き、セイリオスを抱き上げ空を飛んで距離を取った。
「ぅおわっ!?」
ふいの浮遊感に、セイリオスは素っ頓狂な声を出す。何事、と顔を上げたその先に、濁ったココアの化け物を見て、セイリオスは息を呑んだ。
「……あれ、すごく怖い……」
自身に封じた【死神】が警告する程、あれは恐ろしいものだ。早雪はじりと下がる。
濁ったココアの巨体は、飢えた獣のように爛々と目を光らせ、突進してきた。その巨体に似合わぬ素早さに、早雪は目を見開いた。セイリオスが咄嗟に腕を振り、炎の壁が立ち上がる。しかしそれをものともせず、炎の壁を突き破りその口と思しき空洞が二人の上に被さる…──!
「伏せて!」
声。続いて轟音、耳障りな奇声。
ボトボトと腐りかけた泥のようなものが降る。タイヤの擦れる音が響いて、泥沼に巨岩が落ちたような音。顔を上げると、大型バイクに跨る藤田博美がそこにいた。
「あんた」
セイリオスの声に、博美は少し笑ってみせた。
濁ったココアが奇声を上げる。博美は直径40mm、全長953mm、重量7kgに及ぶ歩兵携行用対戦車擲弾発射機、ルチノーイ・プラチヴァターンカヴィイ・グラナタミョート略称RPG-7を肩に担いだ。ちなみに言って置くが、断じて乙女の装備ではない。ロケーションエリアで獲得した装備である。その筈である。多分。おそらく……きっと。
「ぶっとぶからね、そのまま伏せてて」
言うや否や、RPG-7が火を噴く。発射と同時に後方へオレンジの炎が踊った。
「オレたちまで焼き殺す気か!」
「だから伏せててって言ったでしょ。後方噴射……バックブラストって言って、発射の反動を相殺すんの」
答えながら、轟音と煙を上げる道の先に博美は目を凝らした。ここが直線で人気の少ない住宅街で良かった。それでなければ、ハングリーモンスターに対抗しうる力を、自分は持たない。手応えはあった。射程は短く、対象も大きい。
どうだ。
これが利かなければ、博美にはもう手が無い。祈るように目を凝らしていたが、煙の中で蠢く影を見て、博美は唇を噛んだ。
「……乗って」
セイリオスが顔を上げる。
「早く」
対策課で話を聞いてから、博美はセイリオスを捜していた。盗賊だという彼に、自分の足以外に移動手段はなかったと思う。街の端から端まで走るつもりだったというなら、あまりの“不器用さ”に呆れる。実際に走り回っている所を見つけて、本当に呆れかえったのだが。
「急いで、私はこれ以上の装備は持ってないのっ!」
博美が叫んび、ハングリーモンスターが丁字路に差し掛かった時。ハングリーモンスターが横に吹っ飛んだ。弾けるように目をやれば、そこには深紅の髪を揺らめかせた長身の男が立っていた。
「麗火」
セイリオスが呟くと、麗火は片眉を面白そうに上げた。
「なに守られてんだ、おまえは」
はっとした後、不機嫌そうに顔を歪めるセイリオスにくつと笑って、麗火は片手を掲げた。その手には焔が巻き付いている。
濁ったココア色のハングリーモンスターに、麗火は僅かに眼を細める。あの女の妹は、確かこうした色のバッキーだったのではないかと、一瞬頭を過ぎる。
ハングリーモンスターがいるという事。その事実は、赤沼のそれで哀れには思う。しかし、これがこのまま暴れ続ける事とは、別の話だ。
「焼き尽くせ、焔」
焔が濁ったココアに襲いかかる。ハングリーモンスターが奇声を上げて藻掻いている。焔の炎が掻き消える事は、ない。耳障りな絶叫が響き、深紅の炎に包まれたそれは跡形もなく消え去った。
──チリン──
「……一足、遅かったようじゃ……だが、お主の炎で冥府へゆけたであろう……」
幽かな鈴の音と共に現れたのは、黒いローブを纏った者だった。それはカロンと名乗り、すと右手に持つ長い杖を掲げた。
「……我が使命は冥府へ死者を渡す事……忘却の川より水を汲み出し回帰を促してきたが、一向に減る様子がない……」
カロンが一歩踏み出すたび、左手に持った小さな鈴が幽かな音を響かせる。
「……我がロケーションエリアは、忘却の川……魂導により黒き魂を呼び集め、回帰を促そう……」
「成る程、一カ所に纏めて祓おうって事か。俺も考えていたところだ」
麗火が言い、カロンは小さく頷いたようだ。
「それ、たくさん食べれる?」
「同じ場所に集めるんだ、食べ放題だろう」
「じゃあ、行く」
事情をなんとなくだが知るセイリオスが答えると、早雪は軽く口元を拭った。
「どこに集める」
「銀幕広場が、広くていいんじゃねぇか」
それに頷いて、駆け出そうとするセイリオスの襟首を、麗火が引っ掴んだ。息が詰まって、カエルが潰れたような音がした。
「お前は、他に行くとこがあんだろうが」
眉根を寄せるセイリオスに、麗火は目線だけを下ろす。
「相手が何だろうが、取り敢えず抑え付けて手綱握ってみるのが人間だろ」
「……おまえ、いつも風と焔侍らせてよくそんな事言えるな」
「うるせぇ」
げしと靴裏でセイリオスを蹴飛ばす。面白いように転がって、麗火は鼻で笑った。
「下手糞が一人居ようと居まいと、全く関係ねぇな」
セイリオスは、眼鏡の奥を睨め付けるが、ぐいと頬を拭って立ち上がった。そこへ、ヘルメットが投げつけられる。反射で受け取ると、博美が少し笑っていた。
「ほら、後ろ。あんたの足より、早いと思うけど?」
振り返る。
行けと、目が言っている。
セイリオスはがりがりと頭を掻いて、無線機を放る。
「……那戯たちと連絡が取れる。集めるにゃ、丁度良いだろ」
それから俯くように礼をして、博美のバイクに跨った。
「飛ばすわよ、しっかり捕まって!」
エンジン音が轟き、バイクはあっという間に見えなくなった。
「……参ろう……」
頷き、銀幕広場へ向かいながら、麗火は無線機に向かった。
◆
「それがお前の答えだな」
ミケランジェロは血を吐きながら笑った。アザミは頭を一つ振る。
昇太郎はぎりと歯を噛みしめた。
──なぜ。
その問いは、彼の中にもある。この街にかかる魔法は、素晴らしいが残酷だ。
以前、アザミと同じくムービーキラーとして実体化した、昇太郎が愛した女を思い出す。白い翼と銀髪を穏やかな風に揺らしながら佇み、微笑んでいた。あの時、昇太郎は「ここでなら生きてもいいのだ」と言った。自分に出来る事ならば、手伝うと。けれど、その時すでに彼女はムービーキラーと化していた。
彼女を生かす存在でありたかった。
愛していた。
だが、だからこそ。
「……存在しているだけで、憎まれるものなど、居るはずがない」
びょるびょると黒いフィルムを纏いながら、アザミは青いガラス玉の瞳を昇太郎へと向ける。
「アンタに罪は無い。ただ、出てくる時間と場所を……間違えただけじゃ」
昇太郎は二振りの剣を構え、真っ直ぐにアザミへとその切っ先を向けた。
ギルバートはハリスを振り返る。金の瞳は揺れながら、やがて瞑目する。これで、覚悟は決まった。ギルバートもまた、ライト・ブリンガーを握り直す。
アザミはもう、ナゼと言わなかった。
昇太郎が駆け出し、ギルバートがそれに続く。アザミが吼え、氷柱が降り注いだ。避ける前に、それは中空で粉々に弾けた。ハリスはアザミと同じく水に属する。
「そういうモンは、もっと早く使え!」
「気をつけるー」
後ろからミケランジェロの怒声がして、ハリスは笑った。呆れて息を吐き捨てながら、陣を描きガラス玉に狙いを定めて打ち出す。しかしそれはアザミの一吼えで霧散する。
昇太郎は足に力を込め、尋常ならざる脚力で飛び上がった。頭上から双剣を振り下ろし、地上ではギルバートがその足目掛けてライト・ブリンガーを薙ぎ払った。
「!」
ギルバートは一足飛びにその場を離れた。アザミの体が凍り、弾かれたのだ。それは昇太郎も同じで、アザミの背中を蹴って着地する。そこへ狙い澄ましたかのように巨大な爪が襲いかかる。昇太郎は飛び退いた。その、筈だった。雨で泥濘んだ地面に足を取られる。踏み止まろうとする足を、泥濘は嘲笑うように掬い取る。眼前に爪が迫る。
「【瞬踏】」
金色が目の前に現れて、昇太郎は瞠目する。
「……【肉体強化】が間に合って良かった」
凶悪な爪を魔力によって編み上げられた鎧と、魔力を身体に練り込む事で身体能力を上昇させ人間離れした筋力を発揮する。ナルバエス王国において代々騎士を輩出してきた名門クリストフ家の騎士。そして彼の強大な魔物グラン・ニョールを封じた三騎士の一人・剣の騎士が末裔ギルバート・クリストフならではの技である。
「怪我はありませんか?」
「ない。あんた……ギルバートゆうたか、ありがとう」
「礼など。騎士として、仲間を守るのは当然です」
青の騎士はその二つ名に恥じぬ碧眼を微笑ませた。
◆
那戯は無線からの声に短く答えて、携帯電話を取り上げた。
「俺様だ。詳細は無線で聞いた通り、てめぇらは迷子がいねぇか、しっかり見て回っとけ」
今し方、気絶させた中年を見やって、那戯は紫の瞳を細める。
――どこであろうと、犯罪はあるものだ。
それは、わかっている。けれど、嫌悪せずにはいられない。
那戯は中年男のメタボリックな腹を踏み越えて、車に乗った。
「銀幕広場へ急行」
ベイエリアからプロダクションタウン、スタジオタウンを回って、ウィレムと静乃はダウンタウン南へと来ていた。
ここはベイエリアとは打って変わって、頑是無い子供たちがこの寒い中でも元気いっぱいに駆け回る、いわゆる下町といった雰囲気の住宅街。その、無邪気に笑う子供たちの左手に黒い痣を見て、静乃は少なからずショックを受けた。
子供たちは何か悪戯をするでもなく、ただ笑いあいながら遊んでいる。ただ、それだけである。
それなのに、なぜ痣があるのか。静乃にはわからなかった。
「お姉ちゃんたち、何してるの?」
髪を三つ編みにした一人の少女がにっこりと微笑んで、駆け寄ってくる。静乃はその笑みにつられるように柔和な笑みを浮かべ、目の高さを合わせた。
「いい子はいないかな、って探しているんです」
「どうして?」
小首をかしげる様が愛らしい。静乃はやはり、なぜ、という気持ちがもたげるのを抑えられなかった。
「飴を配っているんです。たくさん持っているのですけれど、みんなに分けてあげたいんです。だから、みんなに分けてあげられる、いい子を探しているんです」
少女は少し考えるようにして、静乃を見上げた。
「そのアメ、おいしい?」
「ええ、とっても」
「おねえちゃん、たべたことある?」
言われて、静乃は返答に困った。食べたことは、ない。
けれど、ここで信用を得なければ。
「うーん、食べたことはないんですよねぇ。それじゃ、ここで一個もらっちゃいましょう」
にこっと笑って、静乃はアイスブルーの飴を口の中に入れた。ほうわりと甘い香りが広がって、静乃は思わず目を見開いた。
「美味しい!」
じっとそれを見ていた少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「みんなを呼んであげる! みんなー、このおねえちゃんがアメくれるって!」
少女が声をあげると、駆け回っていた子供たちが興味津々に寄ってくる。痣がある子供と無い子供の差が、静乃にはわからなかった。皆、頑是無い子供たちに見えるのに。
「それじゃ、順番に並んでくださいね。順番に、みんなに上げますから」
静乃が言うと、子供たちは元気に返事をして一列に並んでいく。その時、痣のある少年が横入りをした。静乃が、あ、と思った時には、三つ編みの少女がその少年を叩いていた。
「あんた、ダメ。アメあげられないわ。だって、いいこにしかあげられないのよ」
「なんだと。おまえ、まえからなまいきだっておもってたんだよ」
「なによ、あんたがわるいんでしょう。いいこじゃないやつに、あげるアメなんかないのよ」
「……っこのぉ!」
辛辣に言い放つ三つ編みの少女に、少年が殴りかかろうとする。それを止めようとウィレムが一歩踏み出すと、信じられない事に、少女が少年の腹に拳を埋めた。少年は悶絶して、その場に倒れこむ。
「な……」
「はい」
三つ編みの少女はにっこりと微笑んで右手を差し出した。静乃がその顔を見返していると、少女は首をかしげる。
「横入りをしたわるいこをやっつけたの。わたし、いいこでしょ?」
少女の言に、静乃は呆気に取られた。少女はまるで無邪気に笑っている。
ウィレムは目を細めた。あの体裁き、それは一朝一夕で身に着くような代物ではない。それはこんな小さな子供が身につけられるようなものではなく、果たして危険なものだ。では、悪魔の仕業か。
静乃は悩んだ。今ここで少女に飴を与えれば、それは彼女の行為が正当である事を示してしまう。確かに、横入りはいけないことだ。しかし。
「ねえ、アメちょうだい。わたし、いいこでしょ?」
「……あげられません」
「なんでぇっ!?」
少女は素っ頓狂な声を上げた。信じられないという顔で、静乃を見上げる。
「だって、ワルモノやっつけたんだよ? それってイイコトでしょ? このまえみたエイガでもやってたよ。わるいことをしたひとには、おもーいバツがひつようなんだって。バツをアタエルひとはセイギノミカタなんだから、わたしはセイギノミカタでしょ?」
「それは……」
口ごもる静乃に、三つ編みの少女はみるみる顔を真っ赤にさせた。
「いいこにゴホウビをあげないのは、ワルいマジョなんだ! おねえちゃんがわるいこだ! ワルいマジョだ!」
少女は静乃から、飴の入った袋をひったくる。
「あっ……」
「ワルいマジョはやっつけろ! ワルいマジョをやっつけたら、いいこのわたしがアメをあげるから!」
少女はこれ見よがしに、アイスブルーの飴を掲げ、それを口に放り込んだ。「甘い!」と歓喜に目を輝かせた瞬間、少女はきょとんと小首を傾げた。
飴の入った袋と、静乃とを見て、ざっとその顔が青ざめる。静乃は咄嗟に少女に駆け寄り、ぎゅうと抱きしめた。
「あ……あ、……わた、わたしっ……っ!」
「大丈夫。……大丈夫ですよ」
「ダメ、だって、わたしとってもワルいこだよ」
小さく震える少女の体は、静乃の腕にすらすっぽりと入ってしまうほどで。静乃はさらにその腕に力を込めた。
「大丈夫です。いい子になる方法が、ありますから」
「いいこになれる?」
「はい。悪いことをしてしまったと思うなら」
少女はぎゅうと静乃にしがみつく。
「ごめん、なさ……っ」
その後は大きな泣き声に変わって、静乃はその背中を撫でた。
ウィレムは小さく微笑んで、ぽかんとしている子供たちに向き直った。
「君たちにも、飴をあげなきゃいけませんね」
「なんで?」
見上げる目に、ウィレムは微笑む。
「彼女がもっと泣くようなことをしなかったから、ですよ。それとも、いりませんか?」
子供たちは顔を見合わせる。
「いる!」
少女が泣き止んで、子供たちに飴を配り終えて、ウィレムと静乃はそこを後にした。
「お手柄でしたね」
ウィレムが言うと、静乃は振り仰ぐ。それから、小さく首を振った。
「わたくしは、何もしておりませんわ。……なにも言葉になりませんでしたもの」
少女は自分で気付き、自分で過ちを治した。そういう方が、正しいのではないだろうか。
言うと、ウィレムは「違いますよ」と薄い茶色の瞳を見つめた。
「あの少女があなたに謝罪した。それは藤垣さん、あなたのお手柄です」
ふうわりと微笑まれて、静乃もまた微笑み返した。
無線から声がしたのは、ちょうどその時である。
◆
アザミと四人の攻防は熾烈を極めた。
ミケランジェロとハリスが後方から目や関節といった急所を狙い、放たれる炎や氷の時にその影、時にその囮となって昇太郎とギルバートが確実なダメージを与えていく。即席ながら、なかなか良いチームワークだ。
しかしアザミはその元々それとして持つ生命力と、ムービーキラーの桁外れた生命力とで何度でも黒いフィルムを纏わりつかせ再生する。そしてその凶悪な爪と牙、降りしきる冷たい雨が体力と気力を容赦なく奪っていく。
その時である。
背後に冷たい気配を感じて、ミケランジェロは振り返った。
そこには、ドロが這っているのかと見紛う、二メートル超のハングリーモンスターがその空腹を満たさんと迫ってきていた。
ミケランジェロは舌打ちをした。今、四人でやっとアザミと渡り合えているこの状態で、ハングリーモンスターまで相手にしている余裕は無い。
「あそこだ!」
セイリオスが叫んで、博美はハンドルを切る。視界の先には、灰色の世界。その手前に、まるでドロ山のようなものがいて、思わずブレーキを握った。ハングリーモンスター!
「おまえは戻れ」
セイリオスの声に、博美は振り返る。
「オレは平気だ。それにおまえ、もう武器がないだろ」
それを指摘されると、痛かった。RPG-7が利かないとなれば、確かに博美には戦う術がない。セイリオスが笑った。
「ここまで運んでくれて、……その、ありがとな」
「連れて来るって言うのよ。荷物じゃないんだから」
そうか、とセイリオスは頭を掻いた。バイクから降り、ヘルメットを返す。博美は何ともいえないもどかしさに、眉間に皺を寄せた。背を向けようとするセイリオスに、博美は口を開く。
「……私、あのランプ結構気に入ってるのよ」
セイリオスが振り返って、博美はバイクの向きを変えた。
「気に入ってるんだからね」
それだけ言って、バイクは来た道を戻っていく。セイリオスは首を傾げ、ガリガリと頭を掻いた。気合を入れるように頬を叩いて、灰色の世界に飛び込んでいった。
その手に炎を纏わせ、ドロ団子のようなハングリーモンスターに叩きつける。
「セイくん?」
「ボサッとすんな、前向いてろ。こいつは、俺が引き受けてやる」
纏う炎が、腕を振るたびまるで蛇のようにハングリーモンスターを襲う。その炎はじゅうじゅうと音を上げて生臭い雨を蒸発させる。
ミケランジェロはハッと空を見上げた。その口元に幽かな笑みを浮かべて、モップを握り直した。
◆
――チリン――
銀幕広場に、カロンの鈴の音が響き渡る。
幽かな音である筈のそれはしかし、麗火の傍にある風の後押しもあって波紋のように広がっていく。
その鈴の音は、左手に黒い痣を持つ者だけに強く響く。まるで吸い寄せられるように、悪魔に憑かれた市民が銀幕広場に集まった。
──チリン──
カロンの鈴がもう一つ、それと同時にロケーションエリアが展開された。
忘却の川。またの名を三途の川という。幽かに鈴の音が響き渡り、カロンの足下から忘却の川の水が溢れ出す。
静乃は驚いて足を引く。しかしその水は靴の裏が僅かに濡れる程度で、それ以上に水位が上がる事はなかった。
「これは」
ウィレムが感嘆の声を上げる。見やれば、悪魔に憑かれた人々だけが、まるで底なし沼へ足を踏み入れたかのように、頭まですっぽりと水に浸かっている。
カロンの鈴の音が、一層厳かに鳴り響く。
墨が水に溶けるように、痣がゆるゆるとその手の甲から離れていく。完全に悪魔が抜けた人々は、その暗い底から浮上してくる。
「う、ぁ……あああああああっ!」
浮き上がった一人の青年が、頭を掻き毟って叫んだ。静乃が駆け寄る。
「ハリスの飴をやれ」
麗火の声に、静乃は慌てて袋からアイスブルーの飴を取り出し、その背を撫でる。青年はその腕を振り払い、勢い余って静乃の腕を引っ掻いた。静乃は微かに顔を歪めるが、すぐにその手を取る。青年の目が静乃に向いた。揺れるその瞳があまりに怯えていて、静乃はやるせなかった。
「……もう怖くありません。もう、怖い事は終わったんですよ」
青年は涙をこぼす。先ほどの少女が重なって、静乃は鼻の奥が痛くなるのを感じた。そっとアイスブルーの飴を差し出す。
「もういいんです。……さあ、どうぞ。少しですが、きっと落ち着きますよ。貴方が望むなら、きっと話を聞きます」
青年は肩を振るわせ、俯く。静乃が差し出したアイスブルーの飴に、暖かな涙が落ちた。
市民が次々と浮かび上がるのに、ウィレムは穏やかに、那戯は少し面白くなさそうに、早雪は時々つまみ食いをしながら、アイスブルーの飴を与えていく。時には先ほど静乃が相対した青年のように恐慌状態に陥る者も居る。それには根気よく付き合った。
麗火は主に外郭を請け負った。カロンのロケーションエリアは広域に及ぶが、やはりカロン自身より遠くなれば効果が及びにくい。それを麗火がカバーした。カロンの忘却の川により悪魔は剥がれやすくなっており、麗火の負担も、憑かれた人間の負担も、大分軽減された。
──チリン──
カロンの鈴音が響く。
ロケーションエリアが解かれたそこに、黒い痣を宿した者は一人としていなかった。
◆
雨が降る。
セイリオスの炎は、その雨を蒸発させ白煙を上げながら、ドロにまみれたハングリーモンスターを焼き払う。
アザミが咆哮を上げる。
昇太郎が、ギルバートが地を蹴り、その爪を、その牙を、その体に亀裂を生み出していく。
ハリスがそれを支援し、亀裂は徐々に大きくなっていく。
三人とも、とても無傷では居られなかった。それは、ハングリーモンスターと相対するセイリオスも同じ。呑まれそうになろうとも強固な意志で撥ね付け、歯を食いしばり向かう。
ミケランジェロは紫の双眸を輝かせる。そこにはこの灰色の世界で何よりも美しく煌めいた。芸術の神は、腐った泥濘に鮮やかな幾何学模様を描き出していく。
腹に巨大な岩を抱えているかのような鈍痛と、焼けるような熱さと、突き刺すような疼痛が交互に襲ってくる。
それでも芸術の神は、その神々しさを増していった。
ハングリーモンスターの悲痛な叫びが聞こえる。
アザミの青いガラス玉の瞳が煌煌と燦めく。
ミケランジェロの手が、最後の一筆を掻き払った。
轟音。
描き出された幾何学模様が深紅に燦めき、火柱が立ち上る。それは火龍。煉獄の業火・火龍だ。
「蹴散らせ」
火の粉を撒き散らしながら、火龍は灰色の雲へと突っ込んでいく。それを止めようと、アザミが吼え猛り、濁った氷柱が火龍を襲う。
ギルバートはライト・ブリンガーを構え、薙ぎ払った。
「【閃光の刃】(シャイン・エッジ)!」
ライト・ブリンガーに纏っていた黄金の光が衝撃波となり氷柱を砕く。唸るアザミのその一瞬の隙を突いて昇太郎が懐に飛び込み、二刀を斬り上げる。咆哮。ボタボタと落ちる生ぬるい液体は瞬時にフィルムへと変じ、それを埋めようとびょるびょるとうねった。火龍の咆哮が轟き、暗雲が爆風に流されていく。アザミの怒声が轟き、しかしその体はガクガクと震える。
「ハリス」
それは、誰の声だったろうか。
ああ、どうして。
ハリスは瞑目し、その金の瞳にかつて湖の主であったアザミの姿を映し出す。
高く、高く飛んで、ハリスはその姿をドラゴンへと変じる。暗雲から解放された日の光に照らされて、螺鈿に煌めく。昇太郎はまるで水の中に光が差しているかのような錯覚を覚えた。
蒼のドラゴンが高く澄み渡った声で天高く鳴いた。
アザミは空を仰ぐ。
その目には、何が映っただろう。
鋭い氷柱が重力をも身に付けて、黒いフィルムが蛇のようにのたうつアザミの体を貫いた。
青いガラス玉の瞳が、光を弾いて。
声もなく、倒れ伏し。
音もなく、ボロボロと崩れていった。
ギルバートは碧眼を伏せ、厳かにその冥福を祈り。
ミケランジェロは黙って、それを見送り。
昇太郎は祈るように呟いた。
「またいつか、本当のアンタの姿を、俺に見せてくれんか」
その時は、きっと優しく抱きしめて、歓迎しよう。
触れる度に感じたのは、怒りでも、悲しみでもなく。
慈愛に満ちた心だったから。
雲が流れて、光が溢れる。
蒼のドラゴンは天に揺蕩い、去っていく黒を螺鈿に照らし続けていた。
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クリエイターコメント | お待たせ致しまして、大変申し訳ありません。 木原雨月です。 皆様のおかげで、市内に溢れた悪魔憑き及び悪魔たちは綺麗に流されました。本当にありがとうございます。 何かお気づきの点などございましたら、遠慮無くおっしゃってくださいませ。 この度はご参加、誠にありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-02-23(月) 18:10 |
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