オープニング


「『トレインウォー』への参加、お疲れさまでした」
 リベル・セヴァンが、旅人たちに向かって言った。
「みなさんの協力を得て、無事、ディラックの落とし子の撃破に成功しました。ですが――」
 彼女の指が、導きの書のページをめくる。
「ディラックの落とし子は、侵入した世界内の存在に影響を与え、変質させていきます。私たちが到着する以前に、すでに同地の野生動物たちが落とし子の影響で変異してしまっていました。大半は『トレインウォー』の過程で駆逐されましたが、いくつかの群れがまだ同地に健在のようです」
 すなわち、もともと大雪山系に生息していた北海道の野生動物――ヒグマやキタキツネ、エゾシカといった生き物たちが、ディラックの落とし子の影響で変異し、まったく別の、本来は壱番世界に存在するはずのない怪物になってしまったらしい。
 変異した生物をもとに戻す方法はない。これらを放置しておけば、現地住民に被害が出ることも予測される。残念だが、すべて駆逐するしかないのだと司書は告げた。
「私たち世界司書が、それぞれの居所を特定する作業を行いました。数名ずつのチームに分かれて、対処を行います。『北海道遠征』の残務処理となりますが……、今しばらくおつきあい下さい。どうぞよろしくお願いします」

 * *

「……ご協力に感謝します」
 リベル・セヴァンは集まった一同の顔を見てから、予言の書を開いた。
「今回、貴方がたに頼みたいのは、ヒグマの母子二頭と、ウサギの群れ、それらの変異体の討伐です。場所はなだらかな丘陵地帯で、少なからず木々もありますので罠を張って待ち伏せすることも可能です。当然、変異体側にも同じことが言えるわけですが」
 ヒグマ、と聞いてスッと一同がリベルの話に集中し始める。慣れ親しんだ詩を諳んじるように淀みなく、リベルは説明を続けていく。
「変異体の容姿は通常のそれらと殆ど変わりありません。
 母子ヒグマの攻撃方法は同じ、突進する・噛む・爪でひっかく・圧し掛かる、の四パターンです。小熊は兎も角、母熊の方に噛みつかれれば胴体を食い千切られ、圧し掛かられれば圧死の危険性もありますので、そのつもりで対峙して下さい。
 また、小熊がウサギを含めた全体の指揮を執っているため非常に厄介です。小熊単体の攻撃力は大したことはありませんが、強力な母熊がほぼ常に傍に寄り添っています」
 ぞっとしない説明も淡々とこなすのは彼女ならではだろう。ぺらりと予言の書のページを繰って、リベルの説明はまだ続く。
「ウサギの説明に移ります。こちらは個々の能力はとても低いものの、小熊の統率に従って非常に統制の取れた動きで貴方がたを惑わしに掛ると思われます。攻撃方法は飛び付いて齧るのみです。囲まれたり、追い込まれて母熊に背後を取られるような事態にさえならなければ問題無いでしょう」
 以上です、と言いかけてから、リベルはもう一度、予言の書のページをめくる。
「―― そう言えば、ちょうどその辺りに温泉が湧いているようです。強力な攻撃力と統制力を持つ母子熊と、すばしっこいウサギを狩り尽くすのはそれなりに時間を要しますが……、帰りに少しだけ疲れを取ることぐらいならば可能でしょう。気が向いたら、雪見温泉と洒落こんで下さっても構いません」
 そう言ってリベルは予言の書を閉じ、チケットを差し出した。
「到着予定時刻は一三〇〇、あちらの天気は晴天です。なだらかな丘陵地帯とはいえ、雪崩にお気を付けて」

管理番号 b07
担当ライター 望月
ライターコメント  皆さま、初めまして。ロストレイルより乗車することになりました見習いWRの望月と申します。皆さまの後ろに背後霊の如く憑きま……もとい、熱心に旅の記録を書き記させていただきます。
 傾向といたしましては、血と血と内臓が大好きで、文章は長くくどくなりがちです。まだ駆け出しですので、さまざまな分野に挑戦していこうと思います。
 
 さて、今回皆さまに殲滅して頂きたいのは、ウサギとヒグマ、二種類の変異体です。

 ウサギ型:攻撃方法は飛びかかって齧るだけ。非常に弱く、油断さえしなければどなたにでも倒すことができるでしょう。子供の羆の指示に従って動くようです。ただし数は非常に多く居ますので、囲まれると少々面倒くさいことになるかもしれません。

 ヒグマ型:母子二頭のヒグマで、小熊がその場の変異体達の司令塔の役目を果たしています。小熊自体は然程強くありません。しかし子熊に手を出そうとすると、母熊が猛烈な攻撃を仕掛けてきます。母熊はとても強いので、策略を張り巡らせてみるのもいいかもしれません。

 尚、ご覧のように当シナリオでは戦闘部分に比重が傾いております。おまけのような温泉など記憶の彼方に打っ棄って、思う存分暴れてくださいませ。
 それでは壱番世界は北海道にて、皆様をお待ちしております。

参加者一覧
板村 美穂(chsb5558)
鰍(cnvx4116)
ウェリーシュ・ウェザーライト(czdy8410)
ロディ・オブライエン(czvh5923)
アルジャーノ(ceyv7517)

ノベル


「野生の動物というのは、此方が逃げると追いかけてくることが多いんです。だからハンターは、どれほど恐ろしくても決して慌てて逃げ出したり、背を向けたりしないのだそうです」
 板村美穂(いたむら みほ)が恐ろしげにトラベルギアを抱きしめる。その様子を見て、ウェリーシュ・ウェザーライトは慌てて付け足した。
「美穂さんは私が守ります。大丈夫ですよ」
「わたしもがんばる! ちょっとこわいけど、もちまるもいるし、トラベルギアもあるもん!」
「えぇ、頑張りましょうね」 
「うん! うぇーり……」
「ウェルと呼んでください。私もそちらのほうが嬉しいですから」
「ウェル、がんばろうね。あのね、タオル持ってきたんだよ! おわってからみんなで温泉入ろうねー!」
 笑顔に戻った美穂に笑顔を返しながら、ウェリーシュは先を急ぐ。
不意に、真っ白なローブとマントに身を包んだロディ・オブライエンがウェリーシュと美穂を呼び止めた。彼にしては珍しく呆れた表情を隠しもしないで、最後尾の二人を指差す。
「ああ、すいマセン! ちょっと遅れちゃいマシタ!」
 指された二人のうちの一人、気軽に詫びるのはアルジャーノである。アルジャーノの足を遅らせる原因、彼に引っ張られている青年は鰍(かじか)。心此処に在らずの体で、何かぶつぶつと呟いていた。
「……ぁあああやべぇ気になりだしたら超気になるモフトピアにでも行ってくれたら心休まるものを何でガチで戦闘依頼なんか請けるのあの子ッたら……!!」
 許されるなら『あの子』の所まで飛んで行きそうな様子な鰍に、辺りを索敵するロディが尋ねる。
「別の討伐隊に息子でもいるのか?」
「ちょ、俺まだ独身だから?! 子供じゃなくて同居人が他の隊にいるんだけど、これがまた危なっかしいの何のって。うっかり崖から飛び降りたり雪に埋まったりしねぇだろうなあの子」
「雪にうもれたら、ほかの人がたすけてくれるから大丈夫よおじさん!」
「おじさんじゃないよ、お兄さんな」
「ええ、それに普通『うっかり』飛び降りたりしないと思いますよ」
「いや寧ろあの子解ってて飛び降りそうなのが不安すぎる……ッ!! ……俺今から出かけてくるすぐ帰るから大丈夫すぐ帰るから気にしないでくれ」
「今からじゃ間に合いマセンヨー」
「デスヨネー」
 雪を踏む音だけが規則的に続く。

        *                                *

  ぁあああ―――ぃあ―――

 小さな丘を一つ越えようとしている頃だった。
「ちょっと待って」
 何かヘンな声がする、と、美穂が立ち止まった。

  きゅ ィ  きああああ――――

 耳を澄ませば確かに、女が泣くような高音が風に紛れていた。
「だれかいるの……?」
「いいえ」
 身を乗り出す美穂をウェリーシュが制止する。丘の頂に立った彼女が示す先、丘と丘に囲まれた僅かな平地から羆型の変異体がこちらを睨めつけていた。ざわざわと雪と見紛う兎型の変異体も動き始めている。先程の高音は子の鳴き声であったらしい。
「待ち伏せか。通りで足跡一つない訳だ」
 頂に立っただけで否応なく突き刺さる殺意に、美穂はぎゅっと、セクタンのもちまるとトラベルギアのぬいぐるみを抱きしめる。
 一撃を加えるには遠すぎる距離だが、睨みあいの膠着が始まることはなかった。
「っ心配すぎてどうにかなっちまう前に終わらせて帰る! 行くぞアルジャーノ!」
「ハイヨー」
 そんな勝手極まりない叫びと共に鰍が先陣を切ったからだ。アルジャーノが擬態するスノーバイクに乗って、軽やかに斜面を滑り降りていく。続いて三対の羽を顕現させたロディが浮かび上がり、ウェリーシュもトラベルギア【ルクシオン】を抜き放った。
「では、始めようか」
 応じるように母熊が威嚇の咆哮を上げる。

 美穂のトラベルギアであるジャンガリアンハムスターのぬいぐるみが愛らしい鳴き声を放つ。その愛らしさとは裏腹に衝撃波が遠方の兎をまとめて数体吹き飛ばした。
 「後ろ、二体来てマスヨー」
「えいっ」
 衝撃波を掻い潜って接近する兎には爪の一撃をお見舞いし、囲まれる前にアルジャーノが擬態する二台目のスノーバイクで滑って逃げる。
 決して群れの中心には近づかないように注意しながら、美穂は上空のロディに声を掛けた。
 「わたしはこのまま遠くから攻撃するよ!」
「気をつけろ、兎は足が速いからな」
「うん!」
 ロディは滑るように空を舞い、美穂が狙うのとは反対側の兎の群れの中心に降り立つ。殆ど同時に小熊の声が飛び、辺りの兎が一斉にロディに飛び掛る。しかし、最初の一体がロディの居た場所に辿り着く頃には、そこに彼の姿はない。
 密集した兎の頭上から雨のように弾丸が降り注ぐ。
 「装填が必要ないとは、なかなか便利だな」
 【デスセンテンス】からリズミカルに放たれる銃弾は次々に変異体を貫き、余波の電撃がその周囲を感電させる。無駄のない動作の繰り返しで、次々に兎の数を削り取っていく。小熊の指令が飛び、波を引くように兎がロディから離れようとする。
 それを黙って見送るはずもなく、ロディは追撃を開始した。
 その頃、鰍とアルジャーノの片割れは斜面を下りながら兎を攻撃し続けていた。彼の通る後には飛び掛った数だけ兎の遺骸が積みあがる。
「全方向から一体ずつデスー。カジカジさん大人気デスネー」
「嬉かねェよッ!」
 包囲網から逃げるという手段を鰍は執らない。右のチェーンを左に持ち替え、右手には羽のチャームを握り、我が身を抱くように交差させた腕を勢い良く開く。弾かれたように飛び出したチャーム、空を切り裂くチェーンがほぼ全ての兎を過たず打ち落とした。
「一体取り残してマス!」
 警告に振り返るも間に合わない。負傷を覚悟した鰍の視界に、赤々と燃える狐火と燃え落ちる兎。彼のセクタン・ホリさんが鰍を危機から救ったのだ。
「何だよホリさん、手伝ってくれるのがふっ」
 振り返った鰍の眉間に見事な角度からの蹴りが決まる。不思議なぐらい偉そうな態度で彼(?)は鰍に前を向けと促した。ほぼ同時にスノーバイクが減速する。鰍とアルジャーノは丘を下りきったのだ。
「っとアルジャーノ、これペダルねェけどどうやって坂道上がるんだ?」
「そんな機能ありマセンヨー」
「冗談だろ?!」
 絶句する鰍の耳に、微かな悲鳴が聞こえてそちらに頭を巡らせれば、美穂が兎の大群に取り囲まれつつあった。
「えぇいもう、あっちを手伝ってやれ。俺も追いかけるけど、人間の脚で上るよりお前の方が速ェ!」
「りょーかいデスヨー」
 鳩に擬態したアルジャーノは一直線に美穂の元へ飛び、鰍も追う。

 ウェリーシュは一人、母子熊を確認できる位置で兎を掃討していた。誰かが怪我をしたらすぐさま助けに入れるように、敵陣に深く斬り込むことを避けたのだ。
小熊の指揮で巧みに動きはするものの、速度が圧倒的に彼女に及ばない。
右、次は左、振り返って左、一歩進んで前へ。舞踏のように華麗に、優美に、白銀の鎧の重さを感じさせない繊細な足運びで進み、剣が振るわれるたびに雪原に赤が散る。
 キゅィ、と一際高く小熊が鳴いたかと思えば、雪の中に隠れていたらしい兎達が一斉に飛び出し、ウェリーシュを包囲する。それでもウェリーシュの優位は揺るがない。
 【ルクシオン】が淡い光を放つや包囲の一角が崩れ落ち、その外側に事も無げに立ったウェリーシュは微笑んだ。
「私、速さにはちょっと自信があるんです」 
 次の標的を定めながらウェリーシュは母子熊を探して、青褪めた。 
「美穂さん、アルジャーノさん! 危ないッ!!」
 【ルクシオン】が再び白光を宿す。


 美穂は、一人に戻ったアルジャーノのナビを有効に利用しながら、巧みに兎の包囲をかわしつつあった。不運があるとすれば、母子熊と彼女の進路が近すぎたことと、木立と岩石が密集した視界の悪いところだったことだろう。
「右側、五体デス」
 美穂がぬいぐるみの腹を押し込むと衝撃波が放たれ、兎を纏めて数体跳ね飛ばす。衝撃波が茂みの向こうまで到達し、指令とは違う小熊の鳴き声が弾けた。
「何デス?」
 段違いに激しい、絶叫のような雄叫びが上がる。岩石を黒い固まりが飛び越えかと思うと、美穂から十数メートルと離れない位置に怒りに燃える母熊が降り立った。ぎろりと美穂を睨めつける。よろよろと負傷した小熊が現れ、幾分弱った声で号令を上げる。即座に兎が終結し、一人も逃がさんとばかり二人を取り囲む壁になる。
「絶対絶命デスネ」
 こんな時でも楽しげにアルジャーノは人型に姿を変え、更に両腕が歪な音を立てて巨大な鉈に変化する。唐突に現れたニンゲンに変異体達は一瞬警戒の色を見せたが、あくまで一瞬のこと。小熊の一声で母熊と兎が一斉に飛び掛る。
 アルジャーノが両腕を出鱈目に振り回しただけでたちどころに十体もの兎が肉片になった。返り血が自らを真紅に染まることも気にせず母熊に斬りつける。
 一方の美穂も守られるばかりではない。トラベルギアの爪を振りかざし、衝撃波で包囲を崩していく。しかし衝撃波と爪を逃れた兎が美穂に体当たりし、美穂は体勢を崩して転んだ。
「大丈夫デスカ?」
「後ろ!」
 振り返った隙を衝いた母熊の一撃がアルジャーノを直撃する。人体サイズの物体など軽々と吹き飛び、ぶつかった勢いだけで岩石が砕け崩れた。
「アルジャーノさんっ!」
 悲鳴を上げた美穂の耳に母熊の苦鳴が届いた。
高々と血飛沫が上がっている。勿論、美穂のものではない。
「大丈夫ですか?」
「ウェル!」
 加速して美穂と母熊の間に割って入ったウェリーシュが、母熊の腕に斬りつけたのだ。
 両断するつもりでいた剣は腕の半ばで止まってしまう。すぐさま剣を引き、再び斬りかかる。
「あなたに罪はありませんっ! けれど、あなたたちを放置すればっ、関係の無い人々に被害が及んでしまう! だから、今ここで倒させてもらいます!」
 キッと眦をそばだてたウェリーシュが【ルクシオン】を何度も振るう。爪を弾き、噛みつこうと伸ばされる首をかわし、分厚い毛皮に剣を叩き込む。傷口を少しずつ広げていく。
 相手の一撃を喰らえば即死に繋がる、一瞬たりとも気が抜けないやり取りの最中、
 「すまないな、遅れた」
 聖騎士見習いの傍らに守護天使が舞い降りる。
 銃弾は吸い込まれるように全て母熊に着弾。苦悶に身を捩るも、致命傷を与えられた風情は無い。
 「羆は元より強壮な生き物だというが」
 変異体になって更に強化されたか、片手にナイフを握ったロディが淡々と感想を述べる。ウェリーシュが引き、母熊がそちらを追えば、ロディが懐へ入って至近距離から急所を狙う。母熊がロディに気を回すと、今度はウェリーシュが斬り込む。
 時折、小熊が兎を嗾けるも三者の間合いに入ったものは尽く斬り捨てられるか、蜂の巣にされる。ウェリーシュとロディは剣舞のように、母熊を翻弄し、疲労させていく。
 先に膝をつくのは羆か人間か。そんな息の詰まるやり取りを美穂はただ見ていた。母熊とウェリーシュとロディの命の削りあいは一向に終わる気配がない。しかし、それがほんの些細なことで崩れることは、美穂にも容易に想像がついた。つまるところ、ただの小学生である美穂には、羆との命を削るやり取りに入っていくことはできない。行っても、邪魔になることぐらい解る。
 けれど。 
 「……わたしだって」
 何体か兎を倒しながら、美穂は行動を開始する。



「すげェ音がしたと思ったら……」
 鰍は顔を顰めた。
 岩石に叩きつけられたアルジャーノの身体は、バラバラに『砕けて』いた。もしも砕けたそれが血肉でできていたなら、間違いなく葬儀屋を呼ぶべき場面だっただろう。
 幸いにして、アルジャーノは人間ではなかった。
「大丈夫、か?」
 鰍の問いに、バラバラになったアルジャーノの何処かから当たり前のように答えが返ってくる。
「ダイジョブデス! ……あ、違いマシタ。――アイタタタ。って言う『ルール』なんデスヨネ」
 千切れた腕が、脚が、割れた胴が、軟体動物のようにうねり、型に押し込まれるように元に戻っていく。数分前と寸分違わぬ姿で立ち上がったアルジャーノは、矢張り変わらない笑顔を浮かべていた。
「……何か色々違うだろそれ」
「そうデスカ? でも……」
「あー、いや、いいよそれで! 今は急げ!」
「りょーかいデスヨー。そうそう、吹き飛ばされてる時に、私、とってもいい案を思いついたんデス!」
「ハイハイ後でな」
 獣の咆哮と剣戟と銃声が吹き荒れる場所へ、鰍とアルジャーノは走る。



 怖い怖い怖い。
 大人に任せておけばいいのにと心が絶叫する。
 それらをねじ伏せる様に美穂は叫ぶ。
「今のうちにやっつけて!」
 母熊に背を向け逃げる――獣に対峙した時の決まりを破る。
 目の前の敵よりも、逃げる獲物を。母熊の、変異体になっても消えなかった本能が目を覚ました。
  ぐるぅうおおおおおおおおおおお
 咆哮と共に、美穂の背後からの威圧が増した。人間など頭から丸呑みにしようとする生臭い息すら感じられる気がする。
 走ることなら、友達には負けない。恐怖でバラバラになりそうな手足を懸命に動かして、美穂は走って、走った。何分も走っているような気さえする、数秒間で確実に事態は動く。
「ありがとうございます!」
 ウェリーシュの鋭い突きが母熊の肩を破壊し、ロディの銃弾が剥き出しにされた牙を圧し折る。
「かっこいいデス美穂サン!」
 図ったようなタイミングで鰍とアルジャーノが別の岩陰から飛びだす。視界を横切る新たな標的に、体勢を崩した母熊が更に戸惑った、その一呼吸が遂に致命傷に結びつく。
 鰍が放ったトラベルギアとアルジャーノが擬態する鎖が脚を雁字搦めにし、行動を制限。たまらず倒れこんだ母熊の手を、ロディのナイフが地面に縫いとめた。
 投げつけられた鰍の羽のチャームを腕の一振りで薙ぎ払う。無尽蔵に現れる羽のチャームに気をとられた、その母熊の目を美穂のトラベルギアの爪が貫く!
  g るぅぉおおああああああああああ――ああああああッ!!
 母熊が聞くに堪えない絶叫を上げる。痛みに任せて暴れ狂うも、トラベルギアとアルジャーノに戒められては満足に動けない。
 咆哮を上げ、もがく母熊の前でウェリーシュが剣を構える。
「……せめて、あなたの来世が幸せでありますように」
 一閃。
 【ルクシオン】は真っ直ぐに母熊の心臓を貫いた。
 どうっ、と地響きを立てて母熊が倒れ臥し、そのまま二度と起き上がることはなかった。
「あ……」
 最初に気づき、声を漏らしたのは誰だったか。
 小熊がよたよたと母の許に駆け寄る。キィキィと寂しげに擦り寄って、まるで甘えて、気を引こうとしているようにも見えた。そうして、母熊を取り囲む敵を睨みつける。 手足になるべき兎は近くには居なかった。
「……ごめんね、本当にごめんね、小熊さん」
 トラベルギアが小熊を引き裂き、小さな身体が母熊の脇に横たわった。
 束の間、それぞれの作法で変異体の冥福を祈る。
 しかし、休息に入るにはまだ早いのだ。

「……うわァ」
 散らばっていた兎がぞくぞくと姿を現し、一塊にまとまっていく様子を鰍はげんなりと見下ろす。初めに見た時よりも物理的な数は減っているのだが、心理的に減っている気がしなかった。
「ハイハイ! 私にいい案がアリマスヨ!」
「あー何かさっきもそんなこと言ってたな……」
 アルジャーノは彼のトラベルギア――それは拡声器の形をしていた――をブンブンと振る。
「山に来たらやってみたかったデス!」 
 アルジャーノは満面の笑みでギアを構えた。すゥ、と大きく息を吸い込み、叫ぶ。 
  『やっほ――――――ッ!!』
 叫んだままの音が文字となり、丘の中腹を直撃、雪はおろか地面ごと抉り取る。
 ずッ、小さな何かが軋むような異音は一瞬にして鼓膜を破らんばかりの轟音に変じ、真白の壁が屹立。群れた兎達は成す術もなく白い波濤に呑み込まれた。 
 「大成功デス!」
 地震と地鳴りが止んだ後、丘の斜面から下は一変していた。雪崩の発生地点より下の全ては薙ぎ倒され、押し潰され、更地と化していた。
 しかし、
 「あ! あそこ!」
 美穂が指し示す先に蠢く影が複数存在した。辛うじて難を逃れた本当に残り僅かな兎が居たのだ。良く探せば他にも居るかもしれないそれらは、数も余力も無いのは明白だが放置するわけにはいかない。今回の依頼は『変異体の殲滅』なのだ。
 鰍が肩を回す。
 「ンじゃあ、手分けして――」
「いや、必要ない。雪崩のおかげで程よく溶けた雪が広がったからな」
 パリパリと漏電するような、はぜる音が耳朶を打つ。ライトニング・コマンド、ロディが固有に持つ魔法の力が渦を巻く。
 「――これで終わりだ」
 
        *                                *

「あー酒飲みてぇ、つか痛ってェ……ッ」
 スノーバイクで斜面を駆け下り、兎を薙ぎ倒し……その他諸々、戦闘中の行為は、割と明白に鰍の(三十路の)身体に結果を残していったようである。温泉に入り続ければ傷に沁み、温まらぬ内に出れば寒い。そんな間抜けな板挟みで一人苦しむ。
「おじさーん、大丈夫?」
「俺はおじさんじゃないよ、まだお兄さんな、お嬢ちゃん。あと波立てないでくれねぇかなー?」
「わたしね、傷薬持ってきたんだよ! ケガしてるところ出して、おじさん」
 ざばざばと湯の中を歩いてナップザックを持ってきた美穂がグイグイと鰍の腕を引く。
「無視かよ?! だから波を立てるな俺はおじさんじゃなァいたたたっ?!」
 どぼりと消毒液をぶっ掛けられた鰍は悲鳴を上げる。一方、ぶっ掛けた方の美穂はふと我に帰ったように考え込んで、いくらか減った消毒液を見た。
「お母さんにバレないといいなぁ……」
「そんな貴重品なら使わなくても結構です?!」
「だめよおじさん、ケガはなおさなくちゃ!」
「だから俺はおじさんじゃねェえええええ」
 義務感に燃えた美穂の容赦ない治療は続行された。
 もちまるとホリさんが素知らぬ顔して鰍の前を泳いでいく。善意の医療現場から目を逸らして、ウェリーシュはアルジャーノとロディに尋ねる。
「温泉に入ると力が抜けますね……ああ、お二人は、怪我はありませんか?」
「問題ないデスヨー」
「此方の心配をするぐらいなら、あちらを手伝ってやるといい」
「……美穂さんが張り切ってますから、私の出る幕ではないようです」
 ウェリーシュが言うと同時に鰍の愉快な悲鳴が聞こえて、ほら、と、苦笑する。
「仲良しサンはいいコトデス!」
「……そうだな」
 アレを仲良しと言っていいのか、という正論には目を瞑る。藪蛇になる前にウェリーシュは話題転換を図り、雪よりも深く明るく輝く銀の湯を掬い上げた。
 「温泉がこんな珍しい色をしているなんて。傷に効くという話ですけど、体内の傷にも効果があるんでしょうか」
 スキットルを傾けていたロディは秀麗な眉に一筋皺を寄せた。
 「入った時は、白かったはずだが」
「え?」
「それにアルジャーノ、お前小さくなってないか?」
 指摘されたアルジャーノは、妙に芝居がかった動作で身体をぺたぺたと触ってから、真面目くさった顔で頷いた。
「溶けてマスネ」
「そうか」
 リラックスしていたウェリーシュの笑顔が凍りついた。
「そうか、ではありませんよっ?! こ、このお湯には腐蝕作用が?! 溶けた身体って癒えるんですか?! 二人とも何でそんなに落ち着いてるんですッ?!」
 慌てふためくウェリーシュは何とかアルジャーノの一部を集めてみようとしたり、その身に宿る精霊を呼び出そうとしたりと忙しない。
「少し落ち着け」
「これがどうして落ち着けますか?!」
「だいじょぶデスヨー」
 銀の液体がぞろりとアルジャーノの許に集まっていく。
「うっかり溶けちゃいマシタ」
 てへっ、という効果音が最適だろうか。どこまでも軽いアルジャーノに、ウェリーシュは湯に沈む。白さを取り戻した波間からごぼごぼと聞き取れない呟きの後に、嘆息を一つ。
「……あは、は、世界って広いですね」
「早いうちに気づけてよかったな」
 どこまでも優雅にロディは応じた。 
「あ! ねぇ、見て見て!」
 明るく元気な美穂の声が弾け、空を指差す。
「月!」
 いつの間にかぽかりと浮かんだ月が一行を見下ろしていた。

クリエイターコメント  大変お待たせ致しました。長らく北海道に引き留めてしまったことを心からお詫びします。
 この度は当βシナリオにご参加頂き、まことにありがとうございました。字数の都合でかなり駆け足での描写となってしまいましたが、皆さまのおかげで無事に依頼は完遂されました。温泉のくだりに触れられた方が多かったので、最後はこの形になりましたがいかがでしたでしょうか。

 読んでくださった皆さまに少しでも楽しんでいただければ幸いです。
 尚、訂正依頼をWRが直接受け付けることはできません。訂正依頼は事務局を通してお願いいたします。

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螺旋特急ロストレイル

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