オープニング


「『トレインウォー』への参加、お疲れさまでした」
 リベル・セヴァンが、旅人たちに向かって言った。
「みなさんの協力を得て、無事、ディラックの落とし子の撃破に成功しました。ですが――」
 彼女の指が、導きの書のページをめくる。
「ディラックの落とし子は、侵入した世界内の存在に影響を与え、変質させていきます。私たちが到着する以前に、すでに同地の野生動物たちが落とし子の影響で変異してしまっていました。大半は『トレインウォー』の過程で駆逐されましたが、いくつかの群れがまだ同地に健在のようです」
 すなわち、もともと大雪山系に生息していた北海道の野生動物――ヒグマやキタキツネ、エゾシカといった生き物たちが、ディラックの落とし子の影響で変異し、まったく別の、本来は壱番世界に存在するはずのない怪物になってしまったらしい。
 変異した生物をもとに戻す方法はない。これらを放置しておけば、現地住民に被害が出ることも予測される。残念だが、すべて駆逐するしかないのだと司書は告げた。
「私たち世界司書が、それぞれの居所を特定する作業を行いました。数名ずつのチームに分かれて、対処を行います。『北海道遠征』の残務処理となりますが……、今しばらくおつきあい下さい。どうぞよろしくお願いします」


「はい、きみ達はこっち」
 声の主である女は、どすんと四角い旅行鞄を落とし、帽子を外してロストナンバー一同に軽く会釈した。
 袖無しのワンピースに手袋を揃え、まるで自ら旅行に出かけるようなスタイルだが、左手の大きな書物は他ならぬ『導きの書』であり、彼女も世界司書の一人であることを物語る。
「ガラはガラって言います。 旅に憧れる、多分27歳。 よろしく」
 そばかす顔に間抜けな笑みを浮かべ、なんだか不自然な自己紹介をした後、ガラは不器用に開いた書に視線を落とした。
「それじゃ、お話の続き。 きみ達に退治して欲しいのは、元は、『ヒグマ』と呼ばれてる熊の一種です」
 リベルの説明にも出てましたね、と、続ける。
 数は一体。 大きさは3メートルに満たない程度。
 熊らしくずんぐりした身体を覆う毛は黒褐色で、前足が異様に長いので、姿勢はどこかゴリラを思わせる。
 また、発達した前足を支える為のものか、背骨が浮き出たように、首筋から背中にかけて骨格が連なる様子が、体毛の隙間から窺える。
 主な活動時間帯は夜で、日中は目に付き難い場所に潜み、身体を休めている。
 当地では山の神とも、そして、時に悪魔とも呼ばれたヒグマだが、こんな姿で夜な夜な徘徊しているとなれば、今、連想すべきは後者だろう。
「前足を使ったパンチが厄介かも……あれ? キック? まあ、それはどっちでも良くて。 問題は、この攻撃が速くてリーチもあって破壊力抜群なことなんです」
 その一方で、長い前足が仇にもなっているようだ。
 本来の熊は四足で移動する際、馬に勝るとも劣らぬ速度で走ることができる。
「でも、この変異熊は長い前足に未だ慣れてなくて、上手く走れないみたい」
 落とし子の影響で歪んだ身体では、本来の運動能力を発揮できないのか、とにかく高速移動が不得手らしい。
「次、戦場について。 戦いの舞台は山中にある、針葉樹ばかり並んだ森になります」
 山中の森ともなれば高低差がある上に視界も制限され、更に雪深いので足場が悪い。
「加えて、最初に話した通り、相手は夜行性。 明るいうちは見付け難いかもしれないです」
 となれば、敵の活動帯に合わせて、夜間に現地へと赴くのが確実だ。
「逆に夜なら、森で明かりを灯せば、向こうから近付いてくると思いますよ。 お腹を空かせて」
 何故か嬉しそうに笑うガラが提供した情報は、変異熊を捕捉する上で有効だが、状況を踏まえれば嬉しいとは言い難い内容だ。
 なにしろ、この季節に山中をうろついていると言う事は冬眠に失敗した個体であり、空腹によるストレスで凶暴化しているに違いないのだから。
 そこに駄目押しで、ディラックの落とし子の影響による変異とくれば――。
「すごく、危険な存在。 でも、きみ達なら、知恵と勇気と頭数で圧せば大丈夫です」
 そう言うガラは俄かに表情を引き締めて、それから、今度は屈託の無い笑顔を見せた。

「ところで。 熊退治が済んだら、なんとなんと、ご褒美があるんですよ!」
 導きの書を閉じたガラが、実に大袈裟な身振りと言葉で、再び一同に声をかける。
 なんでも、トレインウォーの残務処理にあたってくれた人は、特別に道内の好きな場所を観光できることになっていると言う。
 ちなみに、本件にあたるメンバーの行き先は、どうやら、ガラが勝手に決めてあるようだった。
「きみ達は『熱気球』って、知ってますか? ガラも良く知らないけれど、空を飛ぶ為の道具だとか」
 富良野と呼ばれる土地で、早朝の短時間ながら、その熱気球に乗せて貰える。
 遥か上空から眼下に望む真っ白い富良野の大地や、大雪山系は、ロストレイルの車窓から覗える景色とは、また違って見えるのだろう。
「特に冷え込んだ朝なら、ダイヤモンドダストって言うのかな? やっぱり良く知らないけれど、何かきらきらしてて綺麗なものが舞い散る中、お空の散歩と洒落込んだりできるんですよ。 素敵……」
 頬に手を当て、暫しうっとり想像、と言うより妄想に耽るガラだったが、やがて心底残念そうに溜め息を吐いて、また、明るい笑顔でロストナンバー達を見回した。
「戦いが済んだ後、良かったら行ってみてくださいね」

「さて、ガラのお話はここまで。 しっかり頑張って、ばっちり楽しんできてください。 良い旅を」

管理番号 b08
担当ライター 藤たくみ
ライターコメント

ご機嫌よう。お初にお目にかかります。
藤たくみと申します。
皆様の素敵な旅の一助となるよう、日々努めて参ります。
何卒、よしなに。

今回は、大別して戦闘と観光の2シーンに分かれています。

・戦闘
ノベルは、森に踏み込んだところから始まります。
また、特に指定が無ければ夜間となります。
単純な力押しだと、ちょっと手強いかも知れません。
少なくともノベルの6割以上は、こちらが描かれます。

・観光
OPで示されている通り、熱気球に乗って景色を眺めます。
時間は早朝固定。
こちらはプレイング次第で、ある程度文量が増減します。

それでは、皆様のご参加、お待ちしております。良い旅を。

参加者一覧
フォッカー(cxad2415)
ふさふさ(ccvy5904)
ハクア・クロスフォード(cxxr7037)
青燐(cbnt8921)

ノベル


●異形の住む森
 藍深く、常緑樹の茂る森の中などは殊更に暗い。
 ならば明かりを灯せば良い。至極当然な結論に達したハクア・クロスフォードは、小さな魔法陣を描いて火球を宙に留め、伴なった。もっとも、今、ハクアと行動を共にしている仲間達は、暗闇などものともしない。
 赤く鈍い光に照らされた森の中は鬱蒼としており、なるほど視界も悪く、山中にしては緩やかなものの傾斜が続く上に雪深い。この雪深さを嫌ったのが、フォッカーである。フォッカーは、地上数メートル程、つまり樹上を飛び移って移動している。愛嬌のある小柄な外見に違わず、身軽である。
 身軽と言えば、一つ目が描かれた布で顔を隠している男、青燐もだ。曰く、森は得意らしく、雪上でも軽妙な足取りは、見た目以上に掴みどころが無い。窪に雪が堆積した落とし穴のようなところでさえ、歩調も変えずに跨いでしまう。 
 そして、ハクアと青燐の前には、一匹の白い犬が、黒々とした鼻をひくつかせては周囲を確かめ、深い雪を跳ねるように進む。ふさふさという名前、らしい。本犬――失礼、本人が名乗ったわけではないが、少なくともその名で呼べば「わふぅ」と応じるのだし、本名に違いないのだろう。
 いずれ劣らぬ曲者揃い。そんな四人は、真冬の真夜中、森を一歩一歩確実に進む。
 それにしても、寒い。壱番世界においても北方に位置する上、真冬の高山で夜間となれば、尚のこと。誰もが言葉少なになりがちなのは、低温のせいか、生来の性なのか。いずれにせよ、静かだ。
 澄んだ空気に沈み込む、雪を踏み締めた音。響くのは、フォッカーが樹上を飛び移る際に揺れ枝葉と、ふさふさの鼻息。
「ふんふふん。ふんふん」
 旅人達は、ふさふさの鼻を頼りに歩き続ける。異質なものを、それと意識せずとも嗅ぎ分けられる嗅覚の持ち主であるが故に。
「変わった熊、見ませんでした? 例えば、そう。腕の長い熊とか」
 更に、旅人達は、青燐の助言を頼りに進路を定める。森に住む者の足跡を、木々との対話によって知ることができるが故に。
 青燐が木々から得た情報を導としながら、ふさふさが匂いを辿る。こうして、今回の目標である変異熊の追跡は、順調だった。加えて、ふさふさは独自の『作戦』の為に日中も森へ来ており、歩き慣れているようだ。
 信頼できると、ハクアは思った。けれど声に出すことは無く、ただ、自身の息の白さを確かめる。
「うーうーうー」
 不意に先頭のふさふさがあげた唸り声に、皆、足を止めた。
――ばきんっ!
 突然、彼らの側面にある、比較的背の低い針葉樹が、痛々しくも渇いた雑音と共に勢い良く倒れてきた。
 否、倒れるというと語弊がある。まるで、立ててある棒を人が弾き飛ばしたように、木が旅人達目掛けて飛んできたのだ。暴風や落雷の仕業でも、ましてやきこりが切り倒したわけもなく。
 とにかく、ふさふさ、青燐、ハクアは思い思いに飛び退いて、辛くもこの突然の暴力を免れた。
 そして、折れて刺々しい株に前足を置く、黒影を認めた。
 夜闇に溶け込むような黒毛に覆われた巨体。不気味に盛り上がった背より続く前足が地に届くほど長く、太い。一般的なヒグマより長い面立ちは、むしろ蜥蜴など爬虫類を連想する。赤いものを覗かせる裂けた口からは、よだれがてらてらと流れて光っていた。
 悪魔が、そこにいた。かつて、この地でヒグマを神と崇めた民達でさえ、そう思ったに違いない。
 濁り、野太くて獰猛な雄叫びが、森に木霊した。


●かつて神であった者
 咆哮は、樹上で備えるフォッカーも揺さぶられるほど響いた。
 ここからは隆起した背中と、その中央に走る無闇に太い骨ぐらいしか見えないが、凶暴性は嫌になるほど伝わってくる。
 正直、恐い。だが、熱気球を心から楽しむ為にも――、
「負けられないにゃ!」
 何にも増して、空を飛びたくて引き受けた仕事。
 景気良くトラベルギアのプロペラを回す。高速回転し、透けた円を為すブレードが雲をはらんだところで、地上の熊目掛けて――放り投げた。思いの丈をぶつけんばかりに。
 プロペラは飛行機のように弧を描いて飛び、今まさに動かんとする熊の、むき出た背骨をぞりっと削いだ。ついで、軌道上の枝もばたばた落とす。
 流血のような目立つ損傷は無いものの、熊は身をよじり、天を仰いで一際激しく、長く吼える。この時、下を見ていてうっかり目が合い、フォッカーはぎくりとした。
「おっ、お、怒った……にゃ?」
 そんな主の手元に尾のような雲を残してプロペラが戻るまでに、皆、動き出した。
 先ず、フォッカーの不意打ちを機と捉えた青燐が、いつの間にか取り出した、かぶ型の香炉を掲げる。
 即座に迸る衝撃は、態勢を立て直す間も無い熊の上体を、しこたま叩く。が、これには大きな予備動作が見られず、青燐は浅いとみた。
 体毛が丈夫なのか。ならば、一点に絞った攻め手が望ましい。その為には動きを止めたいが、さて。
 一方、かすり傷といえど立て続けに攻撃された熊は、怒りを露わにしていた。
 荒々しい息と飢えた喚き声を綯い交ぜにして、青燐に反撃しようと身を乗り出す。
 そこに、それまで陣を描いていたハクアが灯り用の火球を操り、撹乱するべく熊の眼前を行き来させた。目論見通り、熊は火球へと駆け寄っては、前足を振るう。都度ばきばきばきばきと聞こえるのは、巻き込まれた木が叩き折られるからだ。いつ自分の居る木が折られるかと、上で様子を窺うフォッカーも気が気ではない。
 変異熊は決して動作が鈍重なのではなく、どうやら速く走れないだけで、一挙手一投足の全てに鋭さを秘めている。殴られた日には怪我どころの騒ぎではあるまい。
「あふっ!」
 唐突に、ふさふさが吠えた。熊にではなく、ハクアと青燐に。
「はっふ!」
 何かを伝えようと、熊の方と今来た道とを行ったり来たりしながら、再び吠えた。
「? 『熊を連れて行く』のか?」
「『囮になる』と言っているようにも見えますねぇ」
 ハクアと青燐が顔を見合わせた、その時、森は俄かに暗くなった。僅かな間、ハクアが意識を離した隙に、熊が火球を捕え、強引に潰したのだ。流石に熱かったのか、じたばたと前足で空を切っている。
 敵が態勢を立て直す前に、二人の仲間の声を聞いたふさふさが、嬉しそうに駆け回りながら尻尾を振って、肯定するように「わふっ! わふっ!」と、また吠えてから熊の元へと踵を返した。
 青燐が急いで自前の灯りを点けて、ハクアの視界が戻った時には、ふさふさが熊を挑発するように唸り声を上げながら、付かず離れずの距離を保ちながら後退している姿だった。

 少しだけ、日没前のことに触れておく。ふさふさの『作戦』についてである。
 ふさふさは、雪が堆積して見た目にはそれと気付き難い窪地に、熊を落とそうと考えた。軽い自分は例え踏み込んでも嵌り込むことは無い。抜け出せないのは体重が重い者だけだ。そして、その窪地に積もる雪中に、ふさふさのトラベルギア『浮遊する手』を仕込み、熊が嵌った瞬間、その両足を掴んで抜け出せなくする。身動きのとれぬ熊に、仲間達が総攻撃を仕掛けて倒す。大まかな流れは、こんなところだ。
 さて、前述の通り日中森を訪れたふさふさは、異質な獣の匂い漂う界隈の中から、作戦に適した窪地を決めた。それは、今、変異熊と対峙しているこの場所から、ほんの十数メートル後方。既に旅人達が通過した場所。より詳しく言うなら、先刻青燐が跨いだ、あの雪溜まりに他ならない。
 話を戻そう。
 ふさふさが熊を誘う様子を見て、青燐は、先の雪溜まりを思い出していた。「なるほど」と呟き、作戦に理解を示す。ついで、ハクアに声をかけた。
「ふさふさ殿は、一計を案じたようです。今は、彼の補佐に徹するべきかと」
 言うなり、再び香炉を構える。
「了解した」
 それとなく汲み取ったのか、ハクアも次の魔法の準備に移る。
 二人の目的は二つ。ふさふさが囮を完遂するまでの間、可能な限り変異熊にダメージを与えること。そして、その攻撃を以って、ふさふさに敵の攻撃が届かぬよう牽制することだ。あえて伝えずとも、フォッカーの攻撃も結果として同じ役割を果たす。事実、ふさふさの誘導に寄って後退する仲間達と、それを熊が追うことにより、フォッカーとしても当初の目算通り、皆と熊を挟み撃ちにすることに繋がる。
 各々の思惑が、変異熊の打倒という目的に向かい、奇妙な纏まりを見せていた。


●熊送り
 ふさふさが、熊に駆け寄る。悪魔の豪腕が届くか否かというところまで出て揺さぶり、「わぅふ、わふぅ」(※獲物は私です)と騒ぎ立てる。
 熊が振り被ったところで、やや離れた青燐が衝撃波を放つ。
 これに重ねるように、ハクアは風を操って四方より敵を切り裂く刃を合わせる。
 波状攻撃を受けて、熊が青燐やハクアに憎しみの目を向けた刹那、フォッカーはその背後を、これまたプロペラでざくりと斬る。
 背中の衝撃も覚めやらぬうちに、また、ふさふさが挑発と後退を繰り返す。
 結果として、知性の欠片も無い変異熊は、ふさふさを追う以上のことができずに居た。徐々にではあるが、肉体的な損傷も蓄積している。傷が増える度、僅かに残された獣としての意識が遠退く。代わりに熊を突き動かすものは、殺意。そして、殺意に任せた暴力への欲求である。野生動物には無い、どす黒い何か。
 それが、全てだった。

 窪地まであと少しというところで、異変が起きた。
 熊が、既に禍々しさすら帯びた雄叫びをあげながら、突然足元を何度も両の前足で叩き付けたのだ。恐らくは、そこに高度な知恵や打算などありはしない。しかし、これによって雪が幾重にも弾けるように飛び散り、ほんの一瞬、視界が霞んだふさふさは怯んで足を止めてしまったのだ。熊は、その機を逃さず前足を大きく振り被った。
「いけませんねぇ」
 逸早くふさふさの危機を察知した青燐は、熊の振り下ろす前足ごと押し戻そうと、やや近付いて衝撃波をぶつけるも、ついにそれは叶わなかった。
 殺られる!
 ふさふさも、傍に居た青燐とハクアもが固唾を飲んだその時。
 熊の真上にある枝葉から、どさーっと雪が落ちてきた。フォッカーの機転である。
 流石に虚を突かれた熊は若干動作が鈍り、間一髪、ふさふさは後ろへ飛び退いて避けることができた。窪への誘導にあたって坂道を降りる格好となったのも幸いした。直前の立ち位置を、黒い凶器が掠め、空を切る太い音がする。直後、一同の頭上に明かりが灯った。
「き、きっとそんな奴より、おいらの方が美味しいのにゃ!」
 フォッカーが、目立つように灯りを点けて、己の美味を全力でアピールする。
「そんな大きい身体じゃ、どうせこの木登れないにゃ?」
 事実、直線距離上は先の攻撃を凌いだふさふさよりも、樹上でおどけるフォッカーの方が熊に近く、果たして熊は手近な枝に前足をひっかけながら、確かに木登りを始めた。
「さ、ささささっき言ったのは嘘にゃー! おいら美味しくないのにゃー!」
 血相を変えてじたばたと前言撤回するフォッカーに対し、熊は口を開け、目を見開いて威嚇する様子は、傍目になかなか愉快な図だ。ともあれ新たな転機とみて、フォッカーと熊の間の細枝に、青燐がふわりと降り立った。
「私を無視とは、良い度胸」
 直前、青燐の一撃を意に介さぬ愚かな破壊者へ向けられた言葉。
 日頃の柔和な声音からは想像し難い、怜悧で酷薄なそれは、仲間――すなわち最寄に居るフォッカー――でさえ震え上がらせる。
 では、対峙する悪魔には? 視線は青燐に向けられており、少なくとも、青燐を獲物と認識させる程度には有効だったようだ。巨体で均整の崩れた体では、登る度に少しずり落ちる。だが、確実に上へと近付いていた。ぱきっ、ぱきっ、と耳障りな音をたてながら。
 木がしなっている。
 フォッカー、青燐、熊の負荷による、この現象を、ハクアは見逃さなかった。既に魔法陣は完成している。
「二人とも飛べ!」
 魔法を行使し過ぎて息を切らせるハクアが、それでも樹上のフォッカーと青燐に声を振り絞って、返事を待たず発動を決めた。無論、二人の身軽さを信頼してのことである。
 風が刃を成す為に旋風が起きて、しなる木と熊の背中を鮮やかに切り裂いた。同時に、青燐ははためく布の陰から鋭い眼光を放ちながら、フォッカーは慌ててプロペラを大回転しながら、熊の血飛沫と一緒に大きく跳躍した。木は斬撃のみで絶たれるほど脆くは無かったが、相次ぐ負荷に耐えかねて、とうとう、ばきっ! べきん! と音を立ててお辞儀をするように折れた。
 倒木に巻き込まれた熊は、よりにもよってあの窪地に嵌り、無様にもがく。
「わふんっ」
 作戦の完成を見たふさふさは、いよいよトラベルギアを起動し、熊が身を起こすまでに後ろ足をがっちりと掴む。ここに、高空より、フォッカーがプロペラに全体重を乗せて、青燐が爪を長く真っ直ぐ伸ばして刀の様に構えながら、熊目掛けて落ちてきた。
「にゃああああああああああ!?」「哀れな犠牲者に、静かな眠りを」
 気合のような悲鳴のような何かと、死の宣告が重なる。二人の空襲者が熊の目の前で交差し、その鼻っ面に十字傷を刻み付けた。
 身を屈めて見事に着地した青燐と、雪に突っ込み見事な人型の穴をこしらえたフォッカーの無事を確かめる間も無く、ハクアが取り出したのは辺りを包む雪に負けないくらい白銀に光る、一丁の拳銃。
 手負いの変異熊は顔面に深手を負いながらも、その痛みをすら膂力に転じて今にも這い上がろうとしている。ふさふさが後ろ足を捕えていられるのも、あと僅か。ゆっくり照準を合わせる暇は無い。だが、その必要も無い。
 無心に頭を狙い、人差し指に力を込めた瞬間。
 熊は既に、何か全く別な生き物の声音を振り絞り、悲痛なまでに高く鳴き叫んだ。できたばかりの十字傷の中心、まさに眉間を、銀の弾丸が貫いたのだ。
 あとには硝煙と血の匂いが残るのみ。
 雪に埋まるフォッカーを掘り起こすべく振り向いたふさふさは、巨体が倒れ伏した音を聞き取って、ぴくぴくと耳を二度、動かした。

 変異熊の骸は、ハクアが焼き尽くした。万に一つも人目に触れぬように、と。


●一夜明けて
 雲は方々に広がるものの、昨夜より続く晴天。それ故に、ひどく寒い朝だった。
 この、一日でもっとも寒い時間帯は大気が極めて安定しており、気球で飛ぶのに適しているという。なにしろ、微弱な風でさえ、この乗り物にとっては大きな揺れの原因となり得るのだ。
「うわぁ、こっちの空も綺麗なのにゃ……」
 ゆっくりと地上から遠ざかる籠の中、フォッカーは空を眺めてばかりいた。高く、遠い冬の空が近付くにつれて、胸が高鳴る。ところどころ薄紅が溶ける模様だが、暁を遠ざかるほど、白に藍を僅かに足したような色。雲の陰は、青燐の髪の色に良く似ていた。
 その青燐も、内心ではフォッカーに負けず劣らずはしゃいでいる。故郷には無い、空を飛ぶ乗り物があると聞いて、楽しみにしていたらしい。乗り込む前も、その外観を興味深げに観察していたものだ。
「なるほど。熱気球とは、こういう形をしてるんですねぇ」
 齢千年を重ねてさえ錆びつかぬ探究心の持ち主であることが窺える一言である。
 ハクアはふさふさを抱きかかえながら、遠く、大雪山系に目をやり「こうして景色を見るのもいい」と呟く。たった一夜のことなのに、戦場となった森から随分遠くに来たような。しかし、すぐに戻れるような不思議な感覚を覚える。ふさふさも、そんなハクアに相槌を打つように「わふぅ」と小さく鳴いた。
 やがて、気球は最高高度に達する。辺りを包むのは、あの森とは違う、穏やかな静寂。時折エンベロープの中を温めるバーナーの音の他には、何も聞こえない。
 フォッカーにとっても、青燐にとっても、空は故郷のそれに似ていた。まるで懐かしい友に再会したようで、気持ちが昂ぶり、あるいは緩んでしまいそうになる。
 白い、厳しくも美しい世界の只中を、気球はゆっくり進む。
「今度来る時は、自分の操縦する飛行機で、この空を自由にかけてみたいにゃ」
 尻尾を立てて夢膨らませるフォッカーの隣で、ふと、ふさふさの富良野の白い大地を映した瞳の隅を、煌く何かが通り過ぎた。振り向けば、きらきらと音さえ聞こえてきそうな細氷が、やや上空からふわり、空の散歩者を歓迎して舞い踊り、散っていく。
「綺麗だな……」
 ハクアの素直な感想に頷く青燐も、心から言葉をこぼした。
「大切な人と、見たいものですねぇ」
 例えば、最も愛する人と、一緒に。自分には、もう、居ないけれど。

クリエイターコメント ほんの少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
ご参加ありがとうございました。

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螺旋特急ロストレイル

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