オープニング


 愛しい、愛しい、と歌声が響く。
 優しく甘く、ゆるやかに、それは死を招き寄せる。

 カンツォーネの震えを持って、聴く者の郷愁を誘う、美しい女の歌。
 夜霧に包まれて淡く、幻想的な光を宿す水面に、歌は反響する。幾重にも重なり、船を取り囲んでいく。
 初めはただのハミングであったそれは、海の男達の心に沁み入り、彼ら一人一人に見合った詩を得ていった。或る者には故郷の海の青を、或る者には街に残した愛しい女を。彼らが心に残す愛惜を、女達は歌い上げる。
 四方を囲む海の全てから響いてくるかの様なそれに、卑小な船は抵抗する術を持たない。女のしなやかな腕の如くに、慈悲深く彼らを抱き、包み――変質を遂げる。
 濃霧から溶け出す様にして現れた、数人の女達。甲板に軽やかに降り立って、歌と共に優雅に微笑む。その姿は、或る男の愛しい妻であり、或る男の契りを交わした恋人であり、或る男の何にも代え難い娘でもある。ひとりひとり違った姿形をした女達は、それぞれ男達に優しい手を差し伸べる。男達は夢に浮かされる様に、覚束ない足取りで彼女達に近付いて、その手を取った。
 かえりましょう、あの海へ。女達が口々に誘い掛ける。甘く優しいその声は、やはり美しい歌の様だ。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。
 ――その夜、また一艘の船が、波の狭間に消えたという。


 晴れ渡る空と光躍る海面、二つの異なる青を抱く世界『ブルーインブルー』。
 世界図書館と提携を結ぶ海上都市『ジャンクヘヴン』のすぐ傍に、暖かく乾いた潮風と晴れやかな陽射しに恵まれた、小さな都市島が在る。
「ランゴバルディア」
 世界司書リベル・セヴァンはその名だけを呟いて、言葉を切った。
「ジャンクヘヴンの近くに在りながら、あまり交易を持たない都市です。……皆さんには、その島へと向かう商船の護衛をしていただきたいのです」
 旅の目的を簡潔に説明しながらも、彼女の表情は常にも増して芳しくない。
 二つの都市を結ぶ海域は、暖かなブルーインブルーの気候には珍しく、常に深い霧に覆われている。それだけでも航海に向かない海域ではあるのだが、問題はそれだけでは無い、とリベルは続けた。
「海魔が、出るのです」
 手袋に覆われた指が、『導きの書』の白い紙面をゆるゆると撫でる。
「現地の人々はその海魔を『霧の女・シレーネス』と呼び、件の海域には滅多に近づこうとしません。獲物となる人間に最も近しい女性の姿を取り、美しい歌で惑わせ、戯れに船を沈める。戦闘力はまったくありませんが、性質の悪い海魔です」
 美しくも醜悪な歌声を持つ、海の魔物。
 霧の奥から現れ、人の心を映し出して姿を変える女達。
 その海魔の群れが、二つの都市の間、濃霧の中に棲み付いている。先日もランゴバルディアからの船が一艘、件の海域で行方不明になったと、リベルは険しい顔で言った。
 彼女達が存在する故に、近しい場所に在る二つの都市は大きな交易を持てないでいる。今回の依頼を成功させる事は、ジャンクへヴンにとって多大な利益をもたらすらしい。
「……性質は悪いですが、所詮下等海魔に過ぎません。皆さんが意思を強く持っていれば、籠絡される事はないかと。船の乗員を魔の手から護り、無事航海を成功させてください」
 そう締め括って、世界司書は頭を下げた。


 愛しい、愛しい、と歌声が響く。
 母なる海は美しく、大きな腕(かいな)を広げてその帰りを待っている。

管理番号 b22
担当ライター 玉響
ライターコメント 皆様、初めまして。
新たにロストレイルよりWRとして乗車させていただく、玉響(たまゆら)と申します。
文章傾向としては不条理やアクションなどを好いておりますが、大体はOPを見ていただいた通り、静かで淡々、あるいは殺伐としたものになります。
皆様のお目に留まりましたら幸いです。

此方のノベルでは、無限の海洋・ブルーインブルーにて、とある商船の護衛をしていただきます。
護衛とは言っても、今回の海魔『シレーネス』には物理的な攻撃能力は一切ありませんので、戦闘に自信の無い方も御安心ください。
大切なのは、誘惑に屈しない強い意志です。

プレイングには主に、「どんな女性の姿を見るか(※PC登録されている人物は対象外とします)」「対峙した時のPCさんの反応」「海魔の誘惑を退ける・船を護る方法」などをお書きいただければと思います。
是非、ご自由にお考えください。

参加者一覧
エドガー・ウォレス(cuxp2379)
グラン・リーフガルダ(chzw4983)
バジル(cuxt3806)
黒山羊(ctcs7198)
リーリクストウラ(cwbz9373)

ノベル


 朗らかな陽射しと潮の香りを運ぶ風を身に受けて、エドガー・ウォレスは心地良さそうに目を細めた。
 空は彼の瞳と同じ程に爽やかな青い色を広げ、それを遮る雲の一つさえ今は見受けられない。
 甲板に立ち海の空気を堪能するエドガーへ、穏やかな声が投げられた。
「ああ、此処に居たのか」
「……バジル」
 こちらへ歩いて来る影――人とは違う形のシルエットが見えて、エドガーは穏やかに笑った。
 背の高い兎の姿をした人形は、人間が溜息を吐くのに似た仕草で首を振った。赤いボタンの瞳が彼へと向けられ、エドガーも開いていた書物を閉じて、彼に向き直る。
「潮風と言うものはどうも好かない。塩気が肌に纏わりつく」
「海に囲まれているからね。君は乾燥した場所の方が好いのではないかな?」
 柔和に目を細めたエドガーに、全くだ、とバジルは表情を変えぬまま頷く。白く長い耳が、首肯に合わせて軽やかに跳ねた。シャツの胸元に飾られたリボンが潮風に揺らぎ、それにも兎は無表情のまま、眉を顰める様な動作をする。
「エドガー、だったか。……他の者は?」
「黒山羊なら、あそこに」
 甲板の先端を指差して、バジルの問い掛けに応える。ボタンの視線がエドガーの指に沿って動き、ああ、と得心がいったかの様な声が漏れた。
 風に長い衣装の裾を靡かせて、黒い影が凛と佇んでいる。二人に背を向けてはいるものの、照りつける太陽の下の漆黒は見紛う事も出来ぬ程だ。丁寧に撫で付けられた髪の両脇から、太い角が二本、緩い弧を描きながら伸びている。それはまさしく、彼の名にふさわしき獣の物だった。
「ああして、監視と警戒を怠らないでいてくれるんだ」
 黒山羊の右手には、頼りなささえ感じさせる細身の枝が握られている。『目覚めの小枝』と名付けられ、朝焼けの滲む夜空に似た色の蕾を抱くその枝は、彼のトラベルギア――武器で、あるらしい。
「頼もしい限りだ」
 高く昇る太陽を睨(ね)めつける様にして立つその姿は、威厳に溢れ堂々としている。
 隣に立つ人形から、ふ、と笑みが零れた様な気配に、全くだ、とエドガーは微笑んで頷いた。

「船に料理人は付き物だろう? ここは俺に任しときな、あんた達がしっかりと海魔に対抗できるようスタミナ料理を作ってやるぜ!」
 軽やかに舌を滑らせて、フライパンを繰る手は止めぬままグラン・リーフガルダは饒舌に語る。片手でワインの栓を器用に開けてフライパンへと流し込めば、鮮烈な色の炎が勢いよく燃え上がった。
 子供の背丈程の小さなひよこが見せる鮮やかな手つきに、見守っていた船員達から感嘆の声が漏れる。
 リーリクストウラは愛用の煙管を手に、感心した様に目を眇めた。
「ほぅ……殊勝な事よの」
「んー? いや、俺にはこれしか出来ねえからな」
 性根の底から、グランは料理人である。こうして調理場に立っている事が何よりも幸せだと思う度、彼は自覚するのだ。自分にあるのは、ただこればかりだと言う事を。
 小さなひよこが慌ただしく調理場を駆ける様を眺め、蛇神はくつりと笑って煙管を吹かす。縦に割れた瞳孔を有した金眼を、愉しげに歪ませた。
「……我はもう寝るとしよう」
「え、こんな真っ昼間から?」
「海魔が出たら、起こしてくれぬかえ?」
 長い裾と長い髪を引きずって、気侭な男は踵を返す。後に残されたひよこは、まあいいか、と深く考える事無く調理を再開した。

 やがて、高かった陽は水平線の彼方へと落ちて――果ての無い程に暗い、宵闇が訪れる。
 かかる霧は深く、隣に立つ人間の顔さえも知覚出来ぬ程だ。
 そろそろか、と誰かが呟いて、誰かがひとつ頷いた。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。
 ――夜霧は穏やかに船を覆い、包み込んで、逃がさない。

 立ち込める夜霧の奥、或いは彼ら自身の内側から響くかの様な歌声に、真っ先に気付いたのは黒山羊だった。
「乗員、避難せよ!」
 よく透る低い声が、霧の狭間に張り上げられる。鋭い警笛に、船が震えた。
 甲板の上で各々の仕事をこなしていた船員達が、声に応えて船内へと逃げ込む。的確に彼らを誘導しながら、エドガーは口元に小さく笑みを乗せた。
「とうとう来た様だね」
「ああ、待ちくたびれたぜ」
 歌声の隙に微かに呟きを零す。ただの独り言でしかなかったそれへと返された声に、エドガーは不意に振り返った。
「……君は」
 夜霧に包まれ、金の髪が淡く光る。
 二十を幾つか過ぎた辺りの、青年とも若者ともつかぬ男の姿が、そこに在った。
 若者は緑の瞳に快活な輝きを燈して、悪戯だが無邪気な笑顔を見せる。
「さぁ、誰でしょう?」
「グランかな」
「って即答かよ!」
 迷う素振りすら見せなかった返答に大袈裟に項垂れて見せ、小柄なひよこであった青年は苦笑を零した。柔らかな金髪が、昼間の彼のふわふわとした羽毛を思い起こさせる。そして――、
「ワインの香りがする。先程料理に使っていただろう?」
「……あんた、探偵の素質あるんじゃね?」
「それは光栄」
 褒め言葉に鷹揚に笑って、エドガーは頷いた。

「黒山羊、無事か」
「ああ。未だシレーネスは姿を現していない様だ」
 重みを全く感じさせぬ動作で――全身が綿であるから、そもそも大した重量は無いのだが――隣に降り立った人形に、黒山羊は静かに首肯する事で答えた。ならば良かった、とバジルは安堵した様に頷き返し、彼の武器を取り出す。長い柄の先に奇異な形の刃物が取り付けられたそれに、黒山羊が興味深そうに目を細めた。
「槍か……否、斧だろうか」
「ヴォウジェと言う。とても手に馴染む、いいものだ」
 まるで己の事の様に、誇らしげにバジルは語る。音を立てて軽く得物を振い、ボタンの眼を再び黒山羊に向けた。
「……さて。彼らが現れる前に、気侭な蛇神を起こすとしようか」
「頼めるか?」
 バジルは頷いて、再び甲板を蹴って跳び上がる。
 それを見送り、ふと振り返った黒山羊の瞳に――彼女は、映り込んでいた。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。

「……ああ」
 知らぬ間に、エドガーの口から嘆息が零れる。
 蒼穹の色をした瞳は、夜霧の向こう側から静かに歩んでくる一人の女性から、離す事が出来ないでいた。
『エドガー』
 夜霧に包まれた女性が微笑み、彼の名をその唇に乗せる。
「……ミリアム」
 それに応える様にしてエドガーが名を呼べば、霧の中で朧げだった女性の姿が容易く色を、形を得ていく。エドガーにまっすぐ手を差し伸べるその女性は、今や彼の記憶の中のミリアムそのものだった。
 左手に今尚嵌めたままの、婚約指輪をそっと撫でる。
「ミリアム、君なのかい……?」
 再び震える声で名前を呼び、その声に応えて頷くミリアムの姿に、エドガーは強く揺さぶられた。肩の上で彼のセクタンが威嚇するかの様に身を強張らせているが、それを気に留める余裕すら、今の彼には無い。
 これは幻だ。
 判っている。判っているが、こうして直に彼女の姿を目にして、幻でなければ良い、と心の奥で強く願う自分が居る。それを幻だと跳ね退けるには、彼女を想う気持ちが強過ぎるのだ。
『エドガー、かえりましょう』
 此方に手を差し伸べたまま、霧の中の恋人は誘いの言葉を囁いた。
『……あなたが居ないと、寂しいの』
 心細げな声が、霧の中に溶けて消える。エドガーは彼女を力づける様に、ひとつ頷いてみせた。
 ――だが、頷いたエドガーが手に取ったのは、彼女の指先では無い。
「ミリアムはそういう事を言う女じゃないんだ。……致命的なミスだね」
 手に馴染む重みは、彼のトラベルギアである医学書だ。
 尚も微笑んだままのミリアムをしっかりと見据えながら、指先だけで目的のページを探し当てる。容姿だけは、愛しい彼女のままであるのだ。――目を逸らす事など、出来ようものか。
 手繰る様に開かれた紙面には、人体の頭部、その横顔の断面と、壱番世界の文字で、『咽喉部』と書かれていた。
「その喉を潰せば、私達を誘う事も出来ないだろう」
 静かに言って、指先に力を込め、本からページを破り剥がした。
 ミリアム――霧の女が、聞くに堪えない悲鳴を高く長く響かせて、やがてそれさえも途絶える。
 後に残るのは、不気味なまでに濃い夜霧ばかりだ。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。

 とにかく聴かなければいいのだろう、と単純に考えて、グランは夜霧の合間から流れる女達の歌声に対抗する様に、声を張り上げて歌を歌っていた。
 海魔の幻影に捕まった仲間達にはそれすらも聴こえていなかった様だが、船内から恐る恐る状況を伺っていた乗員達が目を丸くしている事に、グランは気付かない。歌を歌っているグラン自身が、耳に栓をしているからだ。――人用の耳栓しか用意していなかったから、海魔が夜に現れてくれたのは幸いと言えるだろう。
 グランの歌声は、御世辞にも上手いと言えるものではない。メロディも歌詞も思いついたまま滅茶苦茶に歌うから、それは歌と言うよりも、いっそ騒音と呼んだ方が正しいものとなっていた。もちろん、本人はそれにも気付かない。
 ふと、歌い続けるグランの服の袖を、何者かが引っ張る。良い気分で歌い続けていた所を邪魔されたので不機嫌になりつつも、グランは大人しく口を閉じ、振り返った。
「なんだよ、今いいトコなんだか……ら」
 抗議の声が、最後まで告がれる事無く途切れる。
 緑の瞳をいっぱいまで見開き、グランはそのまま動きを止めた。
『おにいさま』
 そこに居たのは、此処に居る筈の無い姿。
 柔らかな金色の羽毛に包まれ、グランと同じ獣の耳を持った、丸いフォルムの幼い小鳥――グランの、たった一人、愛するべき妹だった。
「お前、」
 驚きと感激に、声が詰まる。わなわなと震える手で耳栓を外し、その勢いのまま妹を抱き上げた。
 覚醒して以来、当然の事ながら彼女に逢えない日々が続いていた。それは妹をこよなく愛するグランにとっては耐え難いものであり、故にこの思いもよらぬ再会に、継ぐ言葉が喉を通らない。
「……戻って来たのか!?」
 ふわり、と頬を擽る羽毛の感触さえもが、彼には懐かしく愛おしい。感動を全身で表現しながら、グランはただ妹を抱き締めて離さない。
「寂しい思いをさせたな……待ってろ、今俺の料理をご馳走してやるぞ!」
 身体を離し、妹の顔を確りと見据えてそう宣言すれば、とても幸せそうに笑み崩れる。夜霧に金色の羽毛がふわりと揺れて、グランは力強く頷いて見せた。
「お兄様に任せなさい、腕に寄りをかけて作ってやるから!」


 リーリクストウラは未だ残る微睡みに目を細めて、夜霧に包まれた甲板をゆるりと端から端まで眺め回した。甲板に残っているのは彼の仲間である旅人達で、それぞれの前に、靄がかった影がゆらゆらと立ち昇っている。
 彼を叩き起こしに来た筈の兎は、夜霧の奥へと走り去っていってしまった。愛しい女の名を叫んで。
「……ほほぅ。これがシレーネスとやらか。中々に面白い」
 どうやら、対象となる者以外に、海魔が取った姿を視認する事は出来ないようだ。それを把握して、リーリクストウラは悠然と煙管を吹かす。自らが見る事になるであろう女の姿を思い浮かべながら、唇を吊り上げた。
「我を誰と心得る。――神を舐めるなよ、小娘どもが」
 穏やかだが毅然とした『神』の言葉に、夜霧が竦み、震えた。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。

『バジル』
 幼く、聞き馴染んだ声が、バジルの耳に触れる。それが誰のものなのかと考える必要さえもなく、彼は歓喜に顔を跳ね上げた。
「ミス・ローズ!」
 縫い止められた口元から零れたのは、万感の思いが込められた、ただ一人の名。
 ヴォウジェを自らの背中に隠して――万が一にでも彼女を傷付ける訳にはいかない――、愛しき少女、彼の全てとすら言える娘の元へ、駆け寄る。
 少女は幾分か目を丸くした様子で、それでも駆け寄ってくるバジルに慈しむ様な微笑みを返した。地に付くほどに長い髪が、ふわりと揺れる。
『貴方がそんなに大きな声を出すなんて、珍しいわ』
「当たり前だ……ミス・ローズ。寂しい想いはしていないか?」
 硝子細工を手に持つかの様に繊細に、けれどこみ上げる愛おしさのままにその名を呼ぶ。ミス・ローズは鈴の音を転がす様に笑って、バジルが差し伸べた手を取った。
『貴方が居ないのは寂しくて仕方ないけれど、皆が居てくれるから』
「そうか……良かった」
『バジルは? 私が居なくて、寂しかったかしら』
 少女特有の無邪気さで、悪戯に首を傾げてミス・ローズが問い返す。バジルは頷き、ゆっくりと言葉を継いだ。
「今まで時間を意識したことなどなかった。お前の存在を感じられない場所での生活は、随分と長く感じるのだな」
 ――けれど、こうしてまた出逢えたのだから、その時間さえもが愛おしくて堪らない。
 ふたりを包み込む夜霧は淡く、暖かだ。
『……ねえ、バジル。この霧の向こうに、私達の箱庭があるのよ』
 不意に少女が語りかけた言葉に、バジルの耳が高く跳ねた。
「箱庭?」
『そう。……かえりましょう?』
 隠しようの無い違和感が、バジルを覆う。しかし人形故に表情が崩れる事は無く、微笑んだままのミス・ローズはそれに気付かない。
 取ったままの少女の手を、そっと離す。幼い顔が驚きと不安に揺らいだが、バジルはただ首を横に振った。
「……ミス・ローズは誘わない。誘うのは私達人形の役目だ。ミス・ローズはただ求め、ただ享受する存在」
 その言葉を聞いても、少女の顔は揺るがない。
 海魔は気付かない。己が間違いを起こした事にさえも。霧の女は、いざなう事しか知らぬのだから。
「お前は、ミス・ローズではない」
 静かに置かれた否定の言葉を受けて、ミス・ローズが霧散する。
 穏やかな微笑みと、バジルの胸に愛惜を残して。
「……礼を言おう。悪くない夢だった」

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。

 根元から毛先へ向け、緩やかに色を喪っていく灰色の髪は、同じ色彩を持つ彼から見ても美しい。縦に割れた瞳孔は彼らが同胞である事を何よりも雄弁に語り、紅がかった金色はただリーリクストウラだけを見詰めている。
 その女は、彼の師であり、彼の友である。
 誰よりも彼の傍に居た、誰よりも大切な――彼の、先代にあたる『蛇神憑キ』だ。
 男女の差異、顔立ちの差異はあれ、ふたりの姿は鏡に映したかの様によく似ている。
 リーリクストウラは小さく、驚きに目を瞠った。
「久しいのぅ、イルエ。……死して尚、我に会いに来てくれるか?」
 しかし、直ぐに唇を歪め、女へと語りかける。問いにさえも答えが返る事は無く、女は微笑んだままだった。
 その沈黙に、突き放された様な感覚を覚える。
「……そうよの、お主が我を忘れるわけが無いか」
 煙管を吹かし、立ち昇る煙に寂しげに眼を伏せる。ハーシェ、と煙管自身の名を呟いて、その名を持つもう一つの姿を思い浮かべた。
 自らに言い聞かせる様に、彼は呟く。
「お主は……我が殺したのだからな」
 それは忘れてはならぬ、棄ててはならぬ、役割と共に彼が担わなければならない記憶だ。
 ハーシェ、ともう一度、煙管の名を口に乗せる。
 呼び掛けに応えて、立ち昇る煙が長く長くうねり――彼に馴染み深い、白灰の蛇の形を象った。
 夜霧の合間を縫う様にして滑った蛇が、イルエの姿をした女を捕らえ、締め上げる。
「――貴様程度の力で、神を欺けるとでも思うたか?」
 鱗に包まれた頬を歪め、男は壮絶な笑みをその顔に浮かべる。
 紅を帯びた金の瞳に睨みつけられて、女が息を呑んだ。瞳孔の細い蛇の眼を、彼女自身も持っているにも関わらず。そんな小さな差異にさえ、彼女とは違うのだと認識させられて、リーリクストウラは失望に眉を顰める。
「貴様の負けだ――真の姿を現せ、シレーネス」
 煙の蛇に締め付けられていたその姿が揺らぎ、ふ、と掻き消える。
 煙と霧とが混ざり合い、息を吐く彼を白が覆い尽した。

 愛しい、愛しい、と歌声が響く。

 鮮烈な緑の色が、眼に美しい。
「お前、は」
 目の前の常盤色を見詰めたまま、黒山羊は唇を戦慄かせた。
 ――かつて彼が治める筈であった、常夜の国を覆う、大樹。
 その精霊である娘は、慈母の様に穏やかに微笑み、そこに居た。常盤色の髪が踊る度、鏤められた青紫の花、夜明けに似た色の花が、柔らかく咲き綻ぶ。胸を叩く郷愁に、黒山羊は手にしていた『目覚めの小枝』を握り締めた。彼女の髪に添えられた花と同じ色の蕾が、彼の戸惑いを映して揺らぐ。
『かえりましょう、   。あの海へ』
 愛しい唇が、棄てた筈の彼の名を口ずさむ。歌の様なその響きは、黒山羊の強靭な決意さえも、容易く打ち破ろうとする。それは甘美で愛おしく、抗い難い。
 大樹を覆う木皮と同じ色、同じ質感を持った指先を、大樹の精霊は黒山羊へと伸ばす。当惑に一歩足を退いて、ひゅ、と黒山羊は息を吸い込んだ。
 鼻を擽るのは潮の匂いと、肺に浸み入る深い深い霧。
 彼女の纏う、鮮やかな緑の香などでは、決してない。
「……違う」
 若枝に似た美しい指が彼に触れる、それを、喉の奥から絞り出した声によって黒山羊は制した。ぎりぎりと歯を噛み締め、漆黒の瞳で愛しき常盤色を睨めつける。
 違う。彼女ではない。こんな霧に包まれた海に、大樹の精たる彼女の姿が在る筈が無い。何故ならば、此処は彼の故郷、彼の世界では無いからだ。
 彼は未だ、あの美しき大樹の元に帰る術を知らない。
「帰り道を知らぬ者に『帰りましょう』などという言葉……皮肉に等しいな」
 凛と森を駆ける一陣の風の如くに、黒山羊の君は言葉を紡ぐ。
 その瞳には最早、惑いの色は無い。
「小賢しい霧の女よ、懐かしい幻影の礼に慈悲をやろう」
 ふ、と唇を歪めて、目の前の愚かな女を嘲り笑う。
「――お前達の誑惑の罪、その耳障りな歌と共に消し去ってくれる!」
 手にした枝を、振り翳した。
 その先に咲かんと膨らむのは、愛しき彼女の蕾。

 降り下ろされた『目覚めの小枝』が、船全てを揺るがす程の衝撃波を放つ。

 海魔諸共立ち込める濃霧をも振り払う気迫で、海面がびりびりと波打った。
 それと共に抱き締める妹が掻き消えて、空虚をグランの手が掠める。
「……あれ、」
 妹の名を呼んでみても、応えは無い。
「未だ幻を見ているのか、グラン」
 近くへとやって来ていたバジルにそう問い掛けられて、ようやく目覚めた様に瞬きをする。
「そっか、幻だったんだな……」
 一抹の寂しさを胸に抱いて、近くに転がっていた己のフライパンを握り締めた。
「海魔は去ったのか?」
「ひとまずは、そうだろうね」
 肩に乗せたセクタンをゆるゆると撫でてやりながら、エドガーが答える。
「船員を呼べ。もう進んでも良い頃合いだ」
「またシレーネスが出たら、どうするんだ?」
 黒山羊の毅然とした物言いに、グランが小さく問いを発した。未だ茫然とした様な面持ちで、それでも彼はフライパンをしっかりと手放さずにいた。
「心配は要らぬじゃろう。……弱き妖は、強き者が居る場所には近付かぬ」
 我の様なな、と悠然と笑みを浮かべるリーリクストウラは、言いながらも既に眼を細め、今にでも眠りに落ちそうな様子だ。微笑みを零して、それに、とエドガーが言葉を付け足す。
「一度幻を打ち破った者の元に、再び姿を見せると思うかい?」
「いや」
 グランは頷いた後、首を横に振った。未だ手に残る妹の感触を想い出して、静かに拳を握る。柔らかでふわりとした手触りと共に覚えた、細かな水滴と霧の匂い。
 霧の女の正体が何であったのか、彼には判らない。だが、あの幻にはもう出逢えないのだろうと、それだけは判っていた。
 愛しい妹の感触を振り払って、グランは笑う。
 ――いつか、必ず彼女の元に戻れる日が来るのだと、そう信じているから。
「見ろ。……霧が、晴れるぞ」
 バジルが船の行く先を指で指し示し、全ての視線がその先に向けられる。暖かな潮風が強く吹き抜けて、濃霧の残滓を取り払っていった。
 水平線の向こうに、小さな都市島がその姿を見せていた。それが彼らの目指した『ランゴバルディア』であると、誰に確認を取るでもなく、旅人達は知っている。

 ――遙か彼方に見える暁の光が、濃紺の宵闇に鮮烈な赤を灯した。
 禍々しくも愛おしい、邂逅の夜が終わる。

クリエイターコメント 五名様、この度は御参加ありがとうございました!
夜霧の中での青く懐かしい邂逅、皆様が喪った世界に残した愛惜を、記録させて頂きました。
一人一人に違った想いの形が在り、違った美しさが在り、違った尊さが在るのだと感じました。皆様の大切な想いを描く事が出来て、とても光栄に思います。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

皆様と同じく、記録者にとってはこちら(と、もう一本)が初めてのシナリオとなります。
手探りながらも、とても楽しく書かせて頂きました。ありがとうございました。
御縁が在りましたら、また何処かの階層で御逢いしましょう。

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螺旋特急ロストレイル

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