オープニング


「博物誌にも収載されているが」
 と前置きしてシド・ビスタークは口を開いた。
「インヤンガイという世界がある。治安の良くない場所だ。そこのとある地域――現地では街区と呼んでいるが――で連続殺人事件が起こっている。被害者はみな若い女。……俗に娼婦と呼ばれる女性たちだ。鋭利な刃物で頸動脈を切られて殺されている」
 手元の『導きの書』をぱたんと閉じ、豪放な筈の司書はわずかに顔を曇らせた。
「現地には“探偵”と呼ばれる者がいる。まあ、色々な揉め事や問題の解決を担う者たちだな。この事件も探偵が調査しているようだが、成果は上がっていない。そこで、だ。現地に赴き、探偵と協力して事件の解決に当たってほしい」
 シドはそこで言葉を切り、「司書として言うならば」と再び言葉を継いだ。
「探偵と繋がりを持っておくことは世界図書館にとって有益になる。しかし……さっきも言った通り、インヤンガイは秩序的な世界とは言えない。行政機関や捜査当局も有名無実と化している。ひとたび犯罪が起これば力を持たぬ住民たちは脅えて過ごすしかない。何とかできるものならしてやりたいと思うのは不自然なことではないだろう? ま、これは単なる独り言だがな」
 個人としての感情を吐き出してすっきりしたのか、シドは軽く肩を揺すってようやく表情を緩めた。
「知っての通り、インヤンガイは世界群の中では下層に位置する。人の悪意が充溢する場所だと言ってもいい。暴霊と呼ばれる存在による不可思議な現象も起こり得る。一筋縄ではいかない。充分に気を付けてくれ」


 窓の下に広がっているのは無秩序な摩天楼だった。摩天楼と呼んで良いほどに高く、しかし摩天楼という都会的な響きには似つかわしくない猥雑な建物群だ。子供のブロック遊びに似ているかも知れない。元あった建物の上に無計画に建物を重ねて行っただけの、どうしてこれでバランスを保っていられるのかと首をかしげたくなるようなビルディングが林立している。
 淀んだ夜空を翔けるロストレイルは徐々に高度を落とし、無機のジャングルへと潜っていく。やがて滑り込んだのは打ち捨てられた地下鉄の駅であった。
 廃墟の駅だ。無論明かりなどついてはいない。古いカビと土埃の臭気、そして湿った闇だけがわだかまっている。
 ロストナンバー達が駅の外に出るのを見計らったように、コツリ――と靴音が響いた。
「ようこそインヤンガイへ、旅人諸君」
 その男はくすんだ闇の中から滲み出すように現れた。
 小柄な男である。声の具合からして若くはない。身に付けたロングコートは黒っぽいが、はっきりしない色合いだ。中折れ帽を取って恭しく礼をし、うっそりと持ち上げた面(おもて)はネズミのようであった。
「事情は聞いてる。協力に感謝したい。おっと、僕はリャン・チーと言う。一応ここでは探偵ってことになってる」
 中折れ帽を頭に戻し、尖った顎をさすりながらリャンは小さな目を細めた。
「事件については僕も調べてはいる……が、手掛かりらしい手掛かりが掴めない。住民たちも怖がってて、悔しいがお手上げ状態だ。ということで単刀直入に話をしよう。とりあえず分かってることだけ説明させてもらう」
 一つ。ここ最近、娼婦たちが立て続けに行方不明になっていること。
 二つ。彼女たちは仕事を終えてから帰宅するまでの間、すなわち深夜から明け方の時間帯に姿を消していること。
 三つ。行方不明になった娼婦たちの身内の一部が聞き込みに応じてくれないこと。
 以上三点の説明が済むと、ロストナンバーの一人が首を傾げながら口火を切った。
「行方不明……って? 殺人事件が起こってるって聞いて来たんだけど」
「ほう」
 リャンはすいと目を細めた。「ってことは、彼女たちはもう殺されてることになるのかな。いや、それが分かっただけでも収穫があった」
 そしてくたびれたコートの内側に手を差し込み、一枚のスナップ写真を取り出した。
「今朝、僕の所に持ち込まれた新しい依頼だ。今度はこの女が行方不明になったらしい。名はアイリィ、例に漏れず娼婦だ。状況からして同一犯の仕業と見ていいだろう。依頼主は彼女の母親でね……たちの悪い病気を患ってるとかで、自分の薬代を依頼料に充てたそうだよ」
 写真の中では、少女のあどけなさを残した女が痩せた母親と一緒に微笑んでいた。


「ごらん、暁だよ。空が真っ赤に燃えている」
 うっとりと殺人鬼は言う。
「だけど……ねえ。同じ赤ならこっちのほうが綺麗だ」
 逆さ吊りにされた女の首筋目掛けて精確に凶刃が振り下ろされ、壁に、天井に、真っ赤な飛沫が散りばめられた。
 その一部始終を間近で見ていたアイリィは言葉を失っていた。歯が、膝が、がたがたと音を立てて震えていた。
「大丈夫、じきに君の番だから。ね、ちょーっと待ってておくれよ……」
 朱に染まった殺人鬼の手が伸びて来てアイリィの頬を愛撫した。
 東の果てから真っ赤な朝がやって来る。
 だが、アイリィはずっと闇の中で膝を抱えている。

管理番号 b37
担当ライター 宮本ぽち
ライターコメント 初めまして、あるいはお久しぶりです。宮本ぽちでございます。
地味でシリアスな長文を得意とする特徴のない書き手ですが、お目に留まれば幸いです。

さて、今回はインヤンガイにご案内いたします。
現地の探偵・リャンとともに殺人鬼を捕まえてくださいませ。
インヤンガイに到着したところからスタートです。

シドは「殺人事件」の存在を明示しましたが、現地では「行方不明事件」として取り扱われているようです。
どうしてこんな食い違いが起こっているのでしょうか? この点は事件のミソでもありますので、是非推理・考察してみてください。

尚、宮本のノベルは普段は長文になりがちですが、今回は字数制限の関係上短文になります。
ご了承くださいませ。

参加者一覧
流鏑馬 明日(cepb3731)
高城 遊理(cwys7778)
スタッガー・リー(cpph9956)
於玉(cdnr1267)
トリニティ・ジェイド(cnyh9960)

ノベル


「行方不明事件になっているということは」
 濁った夜風に黒髪をさらわせ、流鏑馬明日は唇を指でなぞった。
「死体が発見されていない……もしくは、死体を発見しても家族が認めていないか、ね」
「私も死体が発見されていないのだと思います」
 と軽く手を挙げるのは高城遊理だ。
「連れ去られてから特定の場所で殺害されたと考えるのが妥当かな。でなければ行方不明とは見なされないでしょう。犯行の痕がないんだ」
「諸君のおっしゃる通りさ。仏さんはおろか、殺人の痕跡すら見つかっていなくてね」
 小さく肩をすくめてみせるリャンをトリニティ・ジェイドの緑眼が慎重に観察している。
(この探偵もあの司書も嘘を言っているようには見えないわね)
「導きの書が示す事は真実の筈だ」
 という男の声でトリニティは我に返った。黒ずくめの男がリャンには聞こえないように独りごちていたのだった。
「にも関わらず探偵がそれを知らないのは何らかの隠蔽が行われているから……だろう。とすれば、聞き込みに応じなかった身内の一部が怪しいんじゃないか」
 唇の端を持ち上げてクールに笑った(つもりの)この男、名をスタッガー・リーという。何やら気障な振る舞いを見せているが、純朴な童顔との落差は滑稽だ。
「聞き込みに応じない、だって?」
 ゆらり――と不気味な影が現れる。
 影ではなかった。白髪頭の老婆が、ひび割れた唇を歪めながら引き攣れたような笑みを漏らしている。
「リャンさんや。何とか一人と会えないかね?」
 於玉という名の老婆は鶏ガラのように痩せていた。醸し出す雰囲気は妖怪じみていて、一行は――特に小心のリーは――鼻白んだ。肩の上で首を回すオウルフォームのセクタンだけが彼女がコンダクターであることを教えてくれる。
「私もそれは気になっているわ。早合点は禁物だけど、もしかしたら聞き込みに応じない身内が犯人と繋がっているのかも知れない」
「私もそう思う。本当に“行方不明”ならば生存の可能性を信じて少しでも情報を提供すると思うの。探偵に聞かれるとまずい話がある……と見ていいのかしらね。――その前に」
 明日の言葉に同調を示した後でトリニティが皆に向き直った。
「ひとつ提案があるの。選択肢のひとつにしてもらえれば嬉しい……かな」


 スラム。貧民街。そんな形容がよく似合う。この辺りは貧困層が住まう界隈らしい。痩せた体にぼろをまとった子供たちが目だけをぎらつかせて探偵と旅人達を見つめている。
(切り裂きジャックが徘徊する事すら茶飯事の世界って訳だ。胸の悪くなる話だな)
 リャンの後について歩きながら遊理は目を眇めた。於玉と明日も同行している。ギブアンドテイクとして、現地に不慣れな自分たちの案内役を務めてもらうようリャンに頼んだのは遊理だった。
 黙々と足を進める遊理はリャンから借りた事件の資料に目を通すことも忘れない。どこで誰が消えたのか、地理的な傾向がないかと考えたのだ。アイリィの活動範囲と消息を絶った場所も分かれば尚良い。現地を直接回りたかったが、その猶予はなさそうだった。深夜から明け方までに絞り込まなければ次の犠牲者が出る可能性がある。
(まずは処理場を探す線か……ないとしたら、犯行現場とイコールか)
 シックな外套の下に感情を隠し、遊理はひたすら思索に耽る。
 だが――疼く。気のせいだと思いたい。
 知らず、何かを押さえ込むかのように己が腕を抱いた。銀縁の眼鏡の奥に暗い感情が灯る。
「どうかしたの?」
 と明日に声をかけられ、遊理はふと顔を上げた。
「……何でもありません」
 遊理が明日に向けた愛想笑いはごくごく無難なものであった。
「彼女達が消えた場所に共通点はないかと思ってるんですけど、どうでしょう。私の目では街区の東寄りということくらいしか分かりませんが……ほら、こんな時、テレビや小説だと次に殺人鬼が現れる場所が推測できたりしますよね。けど現実はなかなかそうはいかないようで」
 だが、明日に資料を渡した遊理はやけに多弁になっていた。


「情報って言われてもな」
「今日のメシすら食えるか分からないってのに、他人のことまで気にしてられるもんか」
 行方不明者の周囲の人間から返ってくるのは素っ気ない答えばかりだった。口数の少ない明日がそっと唇を噛み締めていることに遊理も於玉も気付いている。
 被害者が娼婦だからといって犯人が男とは限らない。明日は刑事の視点から聞き込みに臨んだ。姿を消した娼婦と家族の仲や関係、金銭的な事情等々。粘り強く話を聞いたが、決定的な情報はなかった。消えた娼婦と家族との関係は様々で、家族と絶縁同然の者もいれば睦まじく暮らしている者もいた。また、経済的に余裕がない者がほとんどだった。病気の母親と二人で暮らすアイリィも同じだ。
「待って。おかしいわ」
 行方不明者に関するデータを時系列順に書き並べていた明日はあることに気付いた。
「女性たちと家族との関係。……最近行方不明になった何人かはみんな家族と仲が良いみたい」
 アイリィの家も家族仲は良かったと聞いている。
「面白くなってきたのう」
 於玉は引き攣れたような笑みを漏らしながら唇を歪めた。
「リャンさんや。聞き込みに応じないのはどの女の身内かえ?」
「ここと、ここと、ここだ」
 明日の手帳を覗き込んだリャンは最近の行方不明者の名ばかりを指した。
「ほならそこに向かわんと……全く、ほんに面倒臭い」
 辛辣な言葉とは裏腹に於玉は足早に一行の先頭に立った。さっきから休憩ひとつ取らぬまま動いている彼女がアイリィの生存を至上としていることには誰も気付いていない。


 リーは立てたコートの襟に童顔を埋めるようにして夜の街角に立っていた。挑発的に着飾った女たちが目の前を横切って行く。
「フッ……夜の蝶が闇に怯えるなんて、頂けないね」
 またしても気障な台詞を放つリーの隣でトリニティは苦笑した。
 ――え? 病気のおっかさんが薬代で依頼を? おらぁその子を必ず助けてみせるっちゃあ!
 先刻、そう言って勢い良く涙を溢れさせたのは他でもないこのリーだ。
「じゃ、後は頑張ってね」
「お、おら一人でか?」
「女と一緒じゃ娼婦は捕まらないと思うの。私も準備があるし……他の人とも落ち合わなきゃいけないから」
 オレンジ色の髪をなびかせ、トリニティは雑踏の中に消えた。
 途端にリーは落ち着きを失った。ぐびりと喉を鳴らし、真っ青な目をそわそわと左右に往復させる。どれくらいそうしていただろうか、やがてその目がある一点に釘付けになった。
 ――いた。
 リーは尚ももぞもぞとした後、意を決してその娼婦へと歩み寄った。


「どんなことでも良いんです、どうか教えてください。アイリィさんを助けるためにも」
「お願いします」
 明日に続いて遊理も頭を下げた。探偵と旅人たちの来訪を受けたアイリィの母親は困惑を浮かべている。
 聞き込みに応じなかった身内の元へも足を運び、そのうちの一人を説得してようやく話を聞くことができた。初めて明らかになった事実に一行は顔を見合わせた。そして最後に向かったのがアイリィの自宅だった。痩せた体の上に粗末な寝間着を纏った母親の姿は明日の胸を突いた。
(早く……止めないと)
 家族を悲しませる所業などあってはならない。両親との思い出がない明日にとって“家族”は聖域に等しい。
「娘さんの交友関係をご存じありませんか。早くしないとアイリィさんの命も危ない……」
 最後の一言は明日自身の心情の独白だったのかも知れない。
「……友達といっても、娼婦仲間くらいしか」
 やがて母親は掠れた声で口を開いた。「姿をくらます少し前、友達から大金を手に入れる方法を聞いたって言ってて……それで……」
 明日は小さく唇を噛んだ。先程、最初の聞き込みに応じなかった身内からようやく聞き出した話と同じだ。
 ――妹が言ってたんだ。もうお金に困らなくて済むからって。妹はその後すぐに行方知れずになって……しばらく経った頃、大金が送られて来た。同封された手紙には手付金だとだけ書いてあった。……俺たちが知ってるのはそれだけだ。
 その事実を知った時、家族の困窮を救うための身売りではないかと明日は考えた。だが、彼女達は殺されているとシドは言った。
(……まさか)
 考えたくはない。しかしここはインヤンガイ。人の悪意が充溢する世界。
「時間がない」
 アイリィの居宅を後にし、遊理がぽつりと漏らした。「殺害現場を……それが無理なら、せめて次の犯行現場の候補を絞り込むことができれば」
 リャンから借り受けた地図にはいくつものバツ印が記されている。娼婦たちが行方不明になったとおぼしき場所だ。街区の東側に偏っていることは明らかで、そこから運んで殺しているのならば殺害現場もこの範囲にあると考えて良いだろう。しかしそれだけでは曖昧すぎる。
 一行は言葉少なにトリニティとの合流場所へ向かった。


 安いモーテルの一室にシャワーの音が響いている。
「お待たせ」
 甘い囁き声。びくりと顔を上げたリーの目に、裸身にバスタオルを巻きつけただけの娼婦の姿が飛び込んでくる。ベッドの端に正座したリーはぐびぐびと喉仏を上下させた。
「シャワーはいいの?」
 艶然と微笑む女の手がリーの手に重ねられる。異性と手を繋いだことすらないリーの理性は呆気なく飛びそうになる。
 リーは彼女を“買った”。リーには彼女を抱く権利がある。
(いんや。時間がなかっぺよ)
 ぶんぶんとかぶりを振るも、初心な瞳はむき出しの肩や太腿に釘付けだ。
「……あのー」
 という遠慮がちな声とともに不意にドアがノックされた。トリニティだ。
「そろそろいい? みんなとも合流できたんだけど」
「あ、ああ」
 ようやく我に返ったリーは慌てて返事をした。娼婦が目をぱちくりさせている間にドアが開いて探偵と旅人たちが入って来る。
「突然ごめんなさい。聞きたいことがあって。アイリィという女性のことなんだけど……」
 娼婦の肩にバスローブをかけながらトリニティが小さく頭を下げる。リャンからもたらされた情報を元にアイリィと関わりのある娼婦に目星を付けて話を聞く。それがリーの作戦だった。
 娼婦はアイリィの名を聞いて露骨に眉を曇らせた。
「悪いけど、あたしは何も知らないわ」
「何でもいいの。どんな小さなことでも」
「知らないったら」
「おなごはなあ、弱り目をほだした方が……のう?」
 ゆらりと進み出たのは於玉だ。ちらと一同を振り返り、軽く目配せする。
「本当に良いのかえ?」
 ぎょろりと目を見開いた於玉は娼婦にぐいと顔を近付けた。娼婦は「ヒッ」と喉の奥で悲鳴を上げて後ずさる。於玉は愉快そうに、しかし底意地の悪い笑みを漏らした。
「ご同業が消え続けるのは上役さん方には大問題じゃろ。放っておけば……おめぇ、首になるかも知れんぞ? 今朝もアイリィって娘が消えた。ヒェッヒェ、未だ若いのになあ? 赤い反吐吐いて逝んでまう。誰のせいじゃろうなあぁ?」
 まんざら演技でもなさそうにねちねちと迫る於玉の後ろで明日と遊理は黙っていた。自分たちの出番はなさそうだ。
「知ってる事があったら教えてけろ。おめえさんから聞いたことは口外しねえがら」
 今度はリーが娼婦に頭を下げた。作戦ではなく本心からの頼みだった。
「口止めされてる事とか、ねえか? 消えた娼婦に共通点とか同じ客とかいねがったか?」
 於玉に揺さぶられ、リーに宥められ、娼婦はとうとう重い口を開いた。


 古い街灯が断末魔の痙攣のように明滅している。
 殺人鬼はうっとりと夜明け前の空気を吸い込んだ。視線の先には、黒髪の若い女。
 仕事帰りの娼婦だ。露出の多い服に、豊満な肢体。ああ、彼女はきっと今が一番美しい。
 こうして自ら赴くのはしばらくぶりだ。街区の東端、人気のない小路には殺人鬼と女だけがいる。
 ひたひたと距離を詰め、滑らかな肩に手をかけようとした時だった。
「ヒェッヒェッヒェ……」
 得体の知れぬ笑い声。足許に濃い靄が忍び寄る。だが、それは靄のようで靄ではない。
「ヒェヒェヒェヒェ! おなごを嬲る悪ぅい子はだぁれぇだぁああ!?」
 白髪を振り乱し、濃密な瘴気を纏ってその老婆は躍り出た。
(な――)
「悪い子には面白い話を聞かせてやろうかあぁ、そうじゃのおぉ、殺された女の怨念にまつわる話がええかのおぉ!?」
 頭をがくがくと揺すり、生き物のように蠢く瘴気とともに於玉は迫る。殺人鬼は舌打ちしてナイフを抜いた。この老婆を先に何とかせねばなるまい。
「そこまでだ!」
 その瞬間、厳しい声が夜の帳を揺らした。
 ちかりと瞬く金の色。闇を切り裂いて迫るは――鎖!
「命生まれる夜明けに命を消すなんて天邪鬼は相克もいい所だ。これ以上はやめて貰おうか」
 懐中時計のチェーンで瞬きの内に殺人鬼を捕縛し、遊理は凛と宣言した。
「はひいっ! またマーブルチョコになっちまったべー! で、でも、アイリィちゃんの為に……!」
 場違いな声は勿論リーだ。援護射撃をするべく物陰に潜んでいたのは良いが、リーの精神状態を忠実に反映する銃はポップでカラフルな弾丸を撃ちまくるだけであった。因みに「パイソン357マグナム、6連発だ。全弾喰らって平気な奴はいないぜ」とは数十分前の彼の弁である。一緒に潜んでいた明日はリーを後目に地を蹴って銃を抜いた。
「訊きたいことがあるの。この辺りで起こっている娼婦の連続行方不明事件について」
 SIG Sauer P230を構えながらじりじりと犯人に迫る。殺人鬼は慌てて視線を巡らせた。豊満な娼婦は自らの黒髪に手をかけて引き剥がした。黒いウィッグの下から現れた髪はオレンジ色だ。
「ありがとう」
 トリニティは皆に礼を言い、明日と視線を交わした。トリニティが自ら囮になることを提案した時、最後まで反対したのが刑事である明日だった。
 ――そういう役目は私が。元々、最終手段として私が囮になるつもりで来たのだし。
 ――ん。この中では私が一番娼婦っぽく見えると思うの。それに……身内への更なる聞き込みも、時間がかかってしまえばアイリィは助からないかも知れない。でもやっぱり殺人犯は怖いから、犯人が現れたら皆ですぐ助けに来て欲しいの。
 柔らかな物腰とは裏腹にトリニティの意志は固く、それを悟った明日はやむなく折れた。
 ――……約束して。囮は“最後の手段”よ。
 ――私からも約束。絶対助けに来てね。
 ――私は刑事よ。
 ――ありがとう。
 トリニティは正体を隠したまま新人の娼婦として娼婦街で振る舞い、その後皆と合流してリーが待つモーテルへ向かった。
 ――仕事帰りに街区の東端に行けば大金を手に入れられるっていう噂があるのよ。その方法を聞いた子たちが次々と消えて行くの……。
 リーが買った娼婦はそう言って唇を震わせていた。それ以上の情報は得られず、東端付近の人気のない通りで囮捜査を決行することにしたのだった。
「……アイリィだけでも生きていれば良いのだけれどね」
 チェーンを緩めぬまま遊理がぽつりと呟いた。


 その部屋に足を踏み入れ、探偵と旅人たちは凍りついた。
「連れてけって言ったのはあんた達だろ」
 遊理のチェーンで縛られたままの殺人鬼は卑屈に笑った。
 血と肉と臓物の臭気、そして薬のにおい。
 街区の東端に建つ廃ビルの一室には娼婦達の剥製が無言で並んでいた。
「この剥製を金持ち連中に売るのさ。若い女のはどえらい高値で売れるんだよ。剥製を何に使うかって? さあね、中には変態趣味の奴も居るからねえ」
「反吐が出る」
 遊理は露骨に舌打ちした。
 殺人鬼は白髪交じりの中年女だった。東に窓のある部屋で、彼女は真っ赤な朝焼けを浴びながら娼婦たちを殺していた。
「鶏の屠殺と同じさ。逆さ吊りにしてね、首をかっ切るんだ。そうすると血がいーい具合に抜けるのよ」
「……っ」
 迸る鮮血の映像が脳裏に浮かび、リーはよろめいた。思わずその場に膝をつき、そこに黒ずんだ血痕があることに気付いて「ひっ」と声を上げた。
「お金のために彼女たちを?」
「半分はね」
 明日の厳しい視線の前で殺人鬼は肩をすくめた。
「朝焼けは一日の中で最も鮮烈だ。彼女達も同じさ。唇は赤く……今が一番、燃えるように美しい。だけど後は衰えて行くだけ」
 あたしのようにね。
 そう付け加え、殺人鬼は色褪せた唇を歪めた。
「娼婦が持ってるのは自分の体だけだ。金も教養もコネもない、そんな女がまともに稼げる仕事なんてありゃしない。この街区じゃそんな連中ばかりが生活のために娼婦になるのさ。だけど若くなきゃァ娼婦なんて出来やしない。分かるかい、娼婦は歳を取ったら死んだも同然なんだ。老いさらばえて乞食でもやるよりは美しいまま死んで行った方がいいだろう? 最近は女たちのほうからあたしの所に頼みに来るようになってねえ、自分を剥製にしてくれ、その代わり代金の半分を家族に送ってくれと言って。あたしはそれを聞き入れただけさ」
「犯罪は犯罪よ」
 人助けだとでも言わんばかりの殺人鬼の弁舌を明日はきっぱりと遮った。
「アイリィさんはどこ?」
「奥の部屋に。薬で眠ってるだけだよ」
 その言葉を最後まで聞かずに明日と遊理が奥の扉を破った。
 ゆっくりと、東の果てから朝がやってくる。遊理のチェーンに代わってリャンが殺人鬼をロープで縛り上げ、一同に礼を言って当局へと連行した。
 奥の部屋で眠らされていたアイリィは明日に肩を揺さぶられて眼を開いた。少々衰弱しているようだったが、外傷はない。明日はほっと息をついて彼女に肩を貸した。
「お母さんは自分の命よりも君の方が大事だってさ。……よく耐えたね」
 遊理がかいつまんで経緯を説明するとアイリィの目が決定的にこわばった。
「死に損なったかい、悪運の強い子だねえ。おっかさんと一緒にこれでも食べてな」
 於玉はアイリィの手に素っ気なく飴玉を押し付け、骨の折れる仕事だったとぶつくさ言いながらその場を後にする。
「さあ……帰りましょう。お母さんの所へ」
 トリニティがそっとアイリィを抱擁したが、青ざめたアイリィは口を開こうとしなかった。


「世話になったね。どうもありがとう」
 夜を待って<駅>へ足を向けた一行の前にリャンが現れた。
「報告がある。先程アイリィが母親と一緒に無理心中を図った。二人とも一命は取り留めたが」
 旅人たちは息を呑んだ。
「どうも彼女は自ら殺人鬼の元に赴いたようだ。しかし殺人鬼は捕まり、大金を手に入れる方法は失われた。母親は病気、自分はあと何年仕事を続けられるか分からない。だったらいっそと、悲観したんだろう。今後もこんな一家が出てくるかも知れないな」
「何が言いたい」
 遊理は声を荒げた。「殺人鬼を捕まえるべきではなかったとでも?」
「まさか。僕らは僕らの仕事をしただけさ。もっとも、一人が死んで家族が生き延びるのと一家共倒れになるの、どちらが幸せかなんて誰にも分かりはしないがね」
「そんな条件付けは間違ってるわ」
「子を売る親もおる」
 真っ向からリャンを見据える明日の脇で於玉がぼそりと呟いた。貧困や飢饉の中で我が子を売る親なら幾度も見てきた。
「それでも」
 トリニティはそっと目を伏せた。「人が人を殺めるなんて……あってはならないことなのよ……」
 彼女の声は淀んだ闇に絡め取られて消えて行く。リーは唇を噛み締めた。彼はアイリィを一晩“買い”、母親のために代金に色を付けるつもりでいた。しかしそれでは彼女を“助ける”ことはできないのだ。
 リャンは小さく肩を揺すった。
「怖い顔しなさんな。ここはそういう場所なんだよ」
 “一筋縄ではいかない世界だ”。旅人たちの脳裏に司書の言葉が甦る。
 リャンは中折れ帽を取って恭しく一礼した。
「ようこそインヤンガイへ、旅人諸君。またのお越しを」

(了)

クリエイターコメント ご参加・お読みいただきありがとうございました。
目を疑うほど短文(※宮本基準)のシナリオをお届けいたします。

現地と世界図書館の間に認識の齟齬があった理由は「遺体が見つかっていないから」でした。
この点は大半の方が正解を寄せて下さいましたが、残念ながら、「なぜ遺体が見つかっていないのか」という点に関しては突っ込んだプレイングは見られませんでした(しかし、それはシナリオの結末には影響させておりません)。

依頼は成功です。犯人は捕まり、連続殺人事件は解決しました。
ご協力ありがとうございました。

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螺旋特急ロストレイル

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