オープニング


「インヤンガイに行ってもらいたい」
 シド・ビスタークはそう端的に言って集まった人々を見渡した。
「あそこのことは、おまえたちも多少なりと聞き及んでいるとは思うが……とにかく、殺伐とした、危険な場所だ」
 世界群の中でも下層に位置するそこは、人心が荒廃し、人の命が軽々と投げ捨てられる世界で、どことなく壱番世界の一都市、香港の、治安のよくない地域に似た猥雑な雰囲気を持つ場所だ。
 当然、暴力的な事件は日常茶飯事だし、光の届かない路地裏へ一歩踏み込めば、死体など珍しくもない。平凡に、平穏に生きたいという市井の人々の願いは、様々な要因によって容易く踏み躙られる。
 インヤンガイは、そんな世界だった。
「その一角、それぞれに街区と称するんだが、そこで、連続殺人事件が起こっている。少年ばかりが、もう、三十人以上命を落としているんだ」
 シドが言うには、十二歳から十五歳程度の少年であるという以外特別な共通点もない子どもたちが、数ヶ月という短い期間の中で、次々と、無残な方法で殺されているのだと言う。
 そして、残虐な殺人鬼は、未だその正体すら詳らかにならぬまま、薄暗がりの中で犠牲者を増やし続けているのだとも。
「殺人鬼など珍しくもない世界だが、そこに住む人々にとっては脅威だ。あの街区に住む、該当年齢の息子を持つ人々はひどく怯えているようだ。それを、解決してもらいたい」
 言いながら、シドは、中年の男が映った写真を一枚、差し出した。
「おまえたちのことは、現地の探偵に助っ人として話を通してある。――探偵は知っているな? そう、インヤンガイにおける何でも屋のような存在だ。インヤンガイの人々は、困ったことがあるとまず探偵を頼る、というのが一般的なようだな」
 シドは、現地で、協力者である探偵、シュエランに詳しい説明を受けるよう促して、
「……こんな非道は止めてやりたい。誰のためにもならないことだ」
 そう、誰に言うでもなく、呟いたのだった。

 * * * * *

 シュエランと名乗った探偵は、早速だが、と挨拶もそこそこに話を切り出した。
 彼の差し出した紙束には、これまでの犠牲者に関するデータと、これまでに殺人鬼の出現したポイントを記した地図など、シュエランが集めた様々な情報が書かれている。
「殺人鬼は、少年ばかりを十一人殺害した時点で一時鳴りを潜め、そこから一ヶ月ほど経ってからまた殺しを再開している。殺害方法は、鋭利な刃物で咽喉を掻き切ったあと、四肢を切断し臓物を掻き出すと言う残虐なものだ」
 陰惨なその現場を思い出したのか、シュエランは少し顔をしかめ、
「リンシン、ユイル、ジンイェン、カオシェン、スウファン、ティエンウ、ハオライ、グオミン、ソンツイ、ハイラン、ガイユン。ここまでが初めに殺された十一人だ。それから更に二十五人が犠牲になっていて、被害は今も続いているが……残念ながら、殺人鬼の手がかりは何もないに均しい」
 そう言って深々と溜め息をついた。
 他に何か変わったことは、という問いに、シュエランはそうだな、と呟き、
「少年ばかり、と言ったが、十一人目の犠牲者ガイユンは二十七歳の男だった。殺され方もほかの少年たちとは少し違って、背後から刃物で心臓を刺されていたな。あと……十二人目からは、遺体の一部が必ず持ち去られている。全員、違う部位だ。そうだな、もうあと二三人も殺せば、人間ひとり分のパーツがそろうんじゃないか? ……それを集めてどうするのか、考えるのもぞっとしない話だが」
 そう、顔をしかめた。
 殺人鬼の出現ポイントに整合性はなく、狙われる少年たちの間に繋がりもなく、また路地裏の暗がりでの出来事だけに目撃者もなく、被害がどこまで広がるのか見当もつかないのが現状だと言う。
 住民たちは凄惨すぎる事件に怯え、街区は重苦しく沈んでいる。
「俺に出来ることと言えば情報収集くらいのものだ。自分で解決出来ないのは歯痒いが、この街区が平穏を取り戻せるのなら助力は惜しまない。どうか、殺人鬼を止めてくれ……不安に震える父親、母親たちのためにも」
 シュエランは真摯な眼差しで頭を下げたあと、
「――ああ、そういえば」
 と、ふと気づいたように言った。
「この近辺に住んでいた女で、息子を殺人鬼に殺されたあと、姿を消した母親がいたな。名前は……確か、ハイリィと言ったか」
 それから彼は、首を横に振り、
「いや……何でもない、忘れてくれ。ともあれ、現場を案内する。ついてきてくれるか」
 静かに一同を誘ったのだった。

 * * * * *

「チョウダイ、チョウダイ、チョウダイ、チョウダイ」
 『それ』はぶつぶつとつぶやきながら、地面にへたり込んだ少年を焦点の定まらないどこか茫洋とした視線で見下ろした。
「やっ……嫌だ、やめて、助けて、殺さないで……!」
 長時間追い回され、恐怖と絶望のあまり涙腺が壊れたかのような、滂沱たる涙を流して後ずさる少年は、自分が、路地の行き止まりに徐々に追い込まれていることにも気づいていない。
 自分を追い詰める殺人鬼、全身を血と肉片で汚した『それ』が、ずっと血の涙を流し続けていることにも気づいてはいない。
 無論、気づいたところで何の意味もありはしないのだが。
「誰か、誰か助けて、死にたくない……ッ!」
 少年の叫び声は、古びたビルの隙間に虚しく響くばかりで、誰にも届いてはいないようだった。
「チョウダイ」
 『それ』は茫洋と呟き、手にしたナイフを振り上げた。
 少年はヒッと息を飲み、目を見開くと、半ば呆然と、血と脂に汚れたナイフを見上げた。
「ソシタラ、アノコ、ウゴケルヨウニナルワ、キット」
 溜め息のような『それ』の声は、あまりにもかすかすぎて、薄暗がりに紛れて消えていくのみだ。
「ダレニモ、ジャマハ、サセナイ」
 憎悪すら感じ取れる独白。
 ――そして、凄惨なまでの、悲鳴。
 すぐに、辺りには静寂と、むせ返るような血臭とが、満ちる。

管理番号 b45
担当ライター 黒洲カラ
ライターコメント 皆さん今日は、初めまして。黒洲(くろす)カラと申します。
実は銀幕市からの継続ですが、ロストレイルでは心機一転、名前を変えて活動させていただいています。

血湧き肉踊る戦闘シーンや、打って変わった賑やかな日常、食卓の風景、人と人の絆、心の在りようなどを描くのが大好きです。このようなキィワードをお好みの方は、どうぞよろしくしてやってくださいませ。

さて、シナリオに関してですが、今回は陰惨なる都市インヤンガイにて、殺人鬼との対決に向かうためのロストレイルをご案内させていただきたく思います。

殺人鬼に関する情報は、OPに記してありますので、ご想像の上、対処方法をお考え下さい。倒すのか、説得するのか、別の方法を考えるのか、PCさんの行動によって結果は変動します。また、最初の十一人の犠牲者と、続きの犠牲者の違いなども、考えていただくといいかもしれません。

無論、殺人鬼とは戦闘になる可能性があります。何かしらの狂望を抱いた殺人鬼の身体能力は高く、おそらく一筋縄では行かないでしょう。負傷される方もおられるかもしれませんので、充分にお気をつけ下さいませ。

なお、プレイングによっては、後味の悪い結末になることもあり得ます。どうぞご納得の上ご参加ください。

それでは、皆さんのおいでをお待ちしております。

参加者一覧
狩納 蒼月(ccmz3201)
ルナトゥム・ウェレーニ(cbty4643)
佐上 宗次郎(crcc8413)
虎牙 こうき(cwsn1852)
三ツ屋 緑郎(ctwx8735)

ノベル


 1.罪か、咎か、愛か

「……お前たちも、大抵の予想はついてるようだな?」
 開口一番、狩納蒼月の言ったそれに、佐上宗次郎と傍らの三ツ屋緑郎が頷く。
「証拠はないけど、他に要素が見つからないってことは、ほぼ正解なんじゃない?」
 と、フリルつきのドレスシャツに黒いホットパンツ、流行のブーツという、この中では一番洒落た格好の緑郎が、手にした紙束を指先で弾く。
「えっ、もう判っちゃったっすか? 何で?」
 虎牙こうきが疑問符を浮かべる横で、ルナトゥム・ウェレーニもまた驚いていた。彼には見当もつかなかったからだ。
 宗次郎が苦く笑って頷き、蒼月と緑郎と交互に視線を交わす。
「――最初から十人目の殺人まではガイユンって人。十一人目、つまりガイユンって人から今の殺人までは、ガイユンを殺した誰か。……多分、ガイユンに子どもを殺されたお母さん」
「僕も宗次郎と同意見。行方不明になった母親……ハイリィさんだっけ? 彼女以外の誰かがいるって可能性は捨てきれないけど……この状況では不自然でしょ」
「あの周辺で行方不明者について調査してみた。初めの殺人が始まってからのこの数ヶ月、彼らに関わりのある人間の中で姿を消したのは、十人目の犠牲者であるハイランの母親だけだった」
 三人の推察にルナトゥムは黙り込み、こうきは絶句した風で目を大きく見開いた。
「でも、どうしてっすか……!? お母さんが息子を殺した犯人に復讐するのは、哀しいけど判るっすよ。だけど、何でそのお母さんが、息子と同年代の少年たちを殺しちゃうんすか……!」
 彼のもっともな問いに、蒼月が一軒のぼろ家を顎でしゃくる。
「それを確かめるために、ここに来たんだ」
 同じような状態の、あちこちが草臥れた家の連なるこの区画でも、もっともみすぼらしく小さい家だった。
「ガイユンが死んで、次の殺人が始まるまでに一ヶ月もの間が空いている。ハイリィは、一ヶ月の間何をしていた? つき合わせちまって申し訳ないが、皆にはそれを探してもらいたい」
 蒼月の言葉に頷く人々を見遣り、宗次郎がじゃあ、と声を上げる。
「俺、この辺りの人たちに事情を訊いて来る。何か知ってる人がいるかもしれないし」
「なら、私は宗次郎と一緒に行こう」
 ルナトゥムは、そう申し出た。
「人を斬ることに躊躇いはないが……わけもなく人が殺されていくのを見るのはいい気がしない」
「うん」
「それはキミもだ、宗次郎。殺人鬼の狙う年齢層に、キミも当てはまるだろう」
「……ああ」
「調査や探索は得手とは言えないが、戦うこと護ることなら、私も多少の心得がある。キミの補佐に回ろう」
 少々人見知りをする所為で、初対面の相手には無表情になってしまうルナトゥムに屈託なく笑いかけ、宗次郎が頷く。
「ありがとう、ルナトゥムさん」
 それを合図に、それぞれが動き出した。
 許されざる罪の中にある真実と、この狂おしい凶行を止めるすべを探すべく。



 2.Nobody Can ×××

 ふたりは母子家庭だった。
 働き者の母と心優しい息子の、貧しくとも幸せな親子だった。
 ハイランは大きな病を患っていて――それは父親が死んだのと同じ病気だったと言う――、ハイリィが必死で稼いだ金で手術を受け、長い間入院して、ようやく戻って来たばかりだった。
 少年は、明日からはまたお母さんと一緒に暮らせるんだ、と笑ったその三日後に、無残な骸となって見つかった。
 ハイリィの嘆きは並のものではなく、明るく気立てのよい美人と近所でも評判だった若い母親は、獣のように暴れ慟哭し自傷して、その嵐が過ぎ去ったあとには、表情をすべてなくして街をうろつくようになった。
 幽鬼のごときその様を、近所の住民たちが何度も目撃している。
 少年が死んで一週間後、また若い男が殺された。
 この辺りの人間などとは一生関わりもしないような上流階級出身の男で、その彼が何故こんな区画まで来て殺されたのか、誰にも判らないまま、恐らく殺人鬼の仕業だろうと片付けられた。
 街を徘徊していたハイリィがぼろ家に戻ってきたのは次の日。
 彼女はそのまま家に引き篭もり、一週間経ってまた家から出て行った。
 正気なのか狂気なのか、何かをぶつぶつと呟きながらどこかを彷徨っている彼女を、何人かが目撃していたが、それも、次の殺人が始まる十日ほど前にふつりと途絶え、それ以降、ハイリィの姿を見たものはいない。
 以上が、宗次郎とルナトゥムが聞き込みで集めてきた情報だ。
 そのふたりは今、殺人鬼が現れそうな場所を調査して回っている。
 また、新たな犠牲者が出たのだ。
 シュエランが情報収集に行ってくれたが、やはり、十四歳になったばかりの少年だったと言う。
「……どう思う」
 こうきがよく利く鼻で探し出した、ぼろぼろの、ところどころ血のような何かで汚れた紙を見下ろしながら蒼月が呟くと、緑郎は小さく肩を竦めた。
「ビンゴでしょ。パーツを持ち去ってるのは……新しい身体を息子に与えてやるため、ってとこかな。そういうのは、蒼月さんの方が詳しいんだっけ?」
「だけど、そんなことって可能なんすか……?」
 こうきの問いに、蒼月は苦く笑って首を横に振った。
「反魂の術ってのは確かに俺の故郷にも存在すると言われているし、孤独に耐え切れなくなった坊さんが、自分で創った『入れ物』の中に魂を封じて話し相手にした、なんて話も残ってる。だが……本当のところは、どうだろうな」
「じゃあ」
「喪った子どもを取り戻したい、という気持ちは判らんでもない。それに縋らざるを得なかった母親の思いも」
「……誰にそれを吹き込まれたかが気になるな、僕は。自分だけで思いつくようなことじゃないよね」
「そうっすね……普通は、思いつかないんじゃないっすか」
「うん、それに、どうして、ひとり殺してその死体を『入れ物』にするのじゃ駄目だったんだろう? わざわざ、こんな『設計図』まで作って、何十人も殺さなきゃいけなかった理由はなんだろう?」
 それが『誰かに唆された』ことの証明になるのではないか、と蒼月の手にした紙を見遣りながら緑郎が言い、白い綺麗な指先で自分の顎をなぞった。
 血染めの指紋がべたべたとついたそれには、人間の身体を幾つにも区切った不気味な絵が描かれている。確認すれば、間違いなく、殺された少年たちの骸から持ち去られた肉体の一部と、この『設計図』の区切られ方は一致する事だろう。
「正しさの位置は誰にでも言える。だが……真実彼女を断罪し得るものが、一体どれだけいるだろう?」
 子を想う母のことを思う時、蒼月の脳裏に蘇るのは、故郷に置いてきた弟子と、狂いながらも彼を愛し、その幸いを祈り続けた母の断ち切り難い絆だ。
 善や悪、是や非だけで語ることの出来ないもののことを、蒼月は理解している。そしてそれを否定することは出来ない。
 しかし、それが判るからこそ、
「……止めてやろう、一刻も早く」
 蒼月は、立ち向かわなくてはならないと思うのだ。
 同じく緑郎にも、何か思いがあるようだった。
「僕、ちょっと考えがあるんだ」
「考え?」
「うん。ガイユンが死んでから次の殺人が起きるまで一ヶ月空いた、ってところに、答えがあるような気がしてさ」
「ふむ……?」
「準備したら行くから、先にふたりと合流しておいてくれない?」
 部屋内の何かを探しながらの彼の言に、こうきと顔を見合わせた後、蒼月は頷いた。
「判った、そうしよう。だが……充分に気をつけてくれよ」
 言って、ぼろ家を後にする。
「急ぐっすよ、蒼月さん」
 大型犬を髣髴とさせる、気のよさそうな面を引き締めてこうきが歩みを早め、蒼月もそれに倣った。



 3.鬼子母狂乱

 ずしゃり。
 そんな音が本当にしたかどうかは定かではない。
 ただ、唐突に、周囲の様子を伺っていた宗次郎、つまり、殺人鬼の『獲物』足り得る少年の傍らに、全身を――そう、顔の判別もつかないほど――血と肉片で汚した、蓬髪の女が立っていた、それだけだ。
「宗、……ッ」
 血の臭いが鼻を刺したお陰で、最初に気づいたのはこうきだった。
 しかし、彼が警戒の声を発するよりも、
「チョウダイ」
 彼女が、手にした刃物を宗次郎めがけて振り下ろす方が早かった。
「う、わ……ッ!?」
 間一髪気づいた宗次郎は、素晴らしい反射神経で身を捻り、何とか初撃を避けたが、
「チョウダイ……」
 バランスを崩したところへ、茫洋と言って更に踏み込んで来た殺人鬼の、第二撃に米神をヒットされ、声もなく吹き飛ばされた。
「宗次郎!」
 鋭い声とともに、透き通った紺碧の剣を手にしたルナトゥムが、薄汚れた地面を転がって呻く宗次郎を庇い、殺人鬼の前に立ちはだかる。殺人鬼の突き出した大きなナイフは、ルナトゥムの剣に阻まれ、弾かれた。
「更生を説いても無意味か? 私には彼を護る役目がある……あくまで向かい来ると言うのならば、斬り捨てるのみ」
 現実味を欠いた美貌が、鋭利な戦意をまとう。
「だ、駄目だ、ルナトゥムさん……」
 よろよろと起き上がりつつ弱々しく制止する宗次郎と殺気を隠しもしないルナトゥムの前で、茫洋としていた殺人鬼の目が、爆発的な怒りと狂気に激しい光を放った。
「ジャマ、ヲ、スル、ナアアアアッッ!!」
 唐突に、瞬間移動でもしたかのような踏み込み!
 気づけば、ルナトゥムの懐に、殺人鬼が入り込んでいた。
「!」
 血で汚れ、肉片と髪の毛らしきものがこびり付いたナイフが、ルナトゥムの胸に吸い込まれ――……
「臨兵闘者皆陣列在前!」
 その一瞬前、蒼月の低く鋭い声が響くと同時に、ナイフがばちりと音を立てて弾け飛び、殺人鬼はギャッと獣のような悲鳴を上げてその場から飛び退った。
 こうきは隙を見逃さず、ルナトゥムに守護結界を、宗次郎に治癒魔術を施す。
「ジャマ、ジャマヲ、ス、スル、スルナ、シ、ナイデ、ワタシハ、」
 ぶつぶつと呟く殺人鬼が、血の涙を流していることに気づいたのも、こうきだった。
 血と肉片に塗れ、もとの顔の美醜も判らないほどに汚れてしまった彼女の、きっと切れ長で涼しげだったのだろうと思われる双眸から、どす黒い血の色をした涙が後から後から零れ落ち、彼女の顔を更に汚していく。
 胸の奥が締め付けられる。
 この人は死んじゃ駄目だ、と、駆り立てられるように思う。
「子を見失い慟哭する訶梨帝母の如き女よ。お前の嘆きを欠片も理解出来んとは言わん。だが……それは結局、堂々巡りのまま抜け出せない迷宮と同じだ」
 厳しさと憐れみを宿した黒瞳が、殺人鬼を真っ向から見据える。
「お前を斬り捨てたくはない……お前の息子のためにも。正気に返って、罪を償うんだ、ハイリィ」
 そこへ落ちる、
「ダッテ、アノ男ガ言ッタモノ、死ヌ前ニ」
 童女めいた朴訥な呟き。
「沢山ノ命ヲ、入レ物ヲ集メタラ、マタ動ケルヨウニナルッテ」
 あははははははははッ!
 不意に誰かの哄笑が聞こえたような気がして、こうきは空を振り仰いだ。
 誰もいない。
 不審な気配も感じない。
 だから気の所為だ。
 ――凍るほどに背筋が冷たいのも、きっと気の所為だ。
「そうか……あんたを唆したのは、ガイユンなのか……」
 米神を押さえながら立ち上がった宗次郎が、
「腹いせ? 悪足掻き? それとも……面白半分? あんたにも同じ罪を犯させてやろう、って? 殺人鬼に何を吹き込まれたの、ハイリィさん。それを信じるしかないほど、あんたは哀しかったんだね。今でも哀しくて堪らないんだね」
 切なげにハイリィを見つめる。
「ハイリィさん、聞いて。あんたが人を殺すことは、同じ境遇の人を増やすだけなんだ。あんたは、あんたを何人も創ってるんだ、俺はそれが切ないよ」
 ハイリィは茫洋と佇んだまま、応えない。
 ゆらりと時折揺れる上体に不安を掻き立てられ、こうきが何を言うべきか、どうすべきかを逡巡していたほんの一瞬の間に、ハイリィはパッと身を翻し、恐るべき速さで路地裏から逃げ去った。
「ハイリィさん、待って!」
 宗次郎が声を上げる横で、
「大丈夫……匂いを追えるっすよ」
 こうきは犬形態を取り、先に立って走り出した。
 まだ終わっていない。
 このまま終わらせられない。
 その思いで、こうきは汚れた路地裏を駆け抜ける。



 4.少年の覚悟が貫く

 ごちゃごちゃとガラクタが積み上げられた場所の、そこだけ整えられた一角に、『それ』は横たえてあった。
 幾つもの『パーツ』によって組み立てられた、歪な人形のようなそれ。
 頭部は恐らくハイランのものなのだろうが、すでに半ば以上腐敗して元の状態が判らなくなっていたし、腐り落ち骨を覗かせている部分も少なくなかった。恐らく、初期に殺された少年たちから奪ったものなのだろう。
 だが、それを見ても、嫌悪は感じなかった。
 ただただ哀しくて、切なくてたまらない、そう思うだけだった。
「ハイリィさん」
 不出来な人形のようなそれの傍らに蹲り、愛しげな手つきで今にも腐り落ちそうな頭を撫でるハイリィは、確かに母の顔をしていた。
 宗次郎が静かに声をかけると、ハイリィは茫洋とこちらを振り向き、『息子』の傍らに積み上げられた、血塗れのナイフを一本手に取ってからゆらゆらと立ち上がった。
「チョウダイ……」
 囁くような掠れた声に、ルナトゥムと蒼月が身構える。
 こうきは、いつでも守護結界を張れるよう態勢を整えているようだ。
「ハイリィさん、聞いて」
 静かに声をかけながら、宗次郎は周囲を視界の端で確かめる。
 さっき、メールがあった。
 もうじき『彼』が来る。
 それが吉と出るか凶と出るかは判らないけれど、試す価値はあると思う。
 だから宗次郎は、我が身を餌に、彼女を引きつけるのだ。
 と、
「チョウダ、」
 言いかけたハイリィの目が大きく見開かれたのが宗次郎にも見え、それで彼は、『彼』が来たことを知った。
「お母さん」
 小鳥の囀るような、可愛らしい声だ。
「お母さん、どうしたの、何故泣いているの」
 ハイリィを気にしつつ、ゆっくりと振り向く。
 そこには、質素だが丁寧に手入れのされた衣装を身につけた、黒髪と茶色の目の、どこかあどけなさを残した華奢な少年が佇んでいて、ハイリィに穏やかな微笑を向けているのだった。
 写真で見たハイランと寸分違わぬ姿をした少年が、そこには立っていた。
 事情を知らない者が見たら、ハイランが蘇ったのかと錯覚しただろう。
 しかし、
「ア、アア、アアアア、アアアアアアッッ!!」
 ハイリィは、もっとも歓喜するべき母は、頭を掻き毟って絶叫し、突然ハイランに……緑郎が変装した『息子』に飛び掛り、強かに彼を殴りつけたのだ。
 小柄な少年はなすすべもなく吹き飛ばされ、地面に倒れる。
 誰もが息を飲んだが、緑郎が前もって手を出すなと警告していたのもあって、咄嗟に駆け寄る者はいなかった。
「ウソダ、嘘ヨ……嘘……」
 ぶつぶつと呟きながら、ハイリィが手を振り上げる。
「嘘ヨ、嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘、ソンナコトアルハズナイ、嘘ダワ、嘘、ダッテ、ダッテ、ダッテ!」
 あれだけ求めたはずの『息子』の身体に馬乗りになって彼を殴りつけ、打ち据えながら、ハイリィはまだ血の涙を流している。
「嘘じゃない、僕だよお母さん、ハイランだよ」
 痛むだろうに、顔をしかめもせず、怖じることもなく、ハイランの姿をした緑郎が見上げると、ハイリィは絶叫し、自分の顔を、身体を掻き毟ってその場をのた打ち回った。
「ダッテ、ダッテ」
 赤い涙が滴り落ちる。
「ダッテアノ子、モウ、死ンダノヨ……!」
 血を吐くような、魂が砕け散るような、悲痛な叫びだった。
 そこに含まれている矛盾に、皆が気づいていた。
「ああ、やっぱり」
 あちこちから血を滲ませつつも、危なげなく起き上がる緑郎の声は平静だ。
「貴方は、完全には狂いきれていなかったんだね、お母さん」
 蹲り、顔を覆って啜り泣くハイリィの傍らに膝をつき、
「どうして一ヶ月もの間、殺人が起きなかったのか、考えていたんだ。……一ヶ月の間悩み苦しんで、結局どこかで何かが切れて貴方は罪に走った。答えは、つまり、そういうことなんだ。僕を蘇らせたいっていう願いと、誰かを犠牲にする罪深さの間で、正気のお母さんは、まだ生きてるんでしょ? ねえ……」
 血肉に汚れてごわごわになった彼女の髪を撫でる。
 それだけで、ハイリィの泣き声が震える。
「完璧に変装したつもりだったけど、貴方は僕をハイランではないと見破った。本当はもう、判ってるんだよね。これ以上犠牲を増やして罪を重ねたって、ハイランは戻って来ないって」
 緑郎は静かに――きっとハイランはそんな風に笑う少年だったのだ――微笑み、ハイリィの蓬髪をそっと掻き分けた。
 見開かれた彼女の目は、もう、殺人鬼の光を宿してはいない。
 そこにはただ、人間としての何かを狂わせるほどの哀しみだけがある。
「ねえ、お母さん。僕は役者だけど、お腹を痛めて生んだ子を殺された母親の気持ちは判らない。けど、狂った母親を見る息子の気持ちなら判る。実際に逢ったことも話したこともないけれど、今の僕は貴方の息子だから」
 緑郎の――『ハイラン』の、細い指が伸ばされて、滂沱たる血の涙を流す母の頬に、そっと触れる。
「僕は、笑ったお母さんが好きだよ? もう、泣かないで……」
 瞬間、ハイリィの身体が、雷に打たれたようにびくりと震え、
「アア……」
 低く長く、呼気が零れだす。
 呼気は徐々に大きく、悲痛に――生きた声に、変わってゆく。
「ア、ああ……あああ、あああああ……!!」
 それは悲鳴だった。
 慟哭だった。
 そして、彼女が、殺人鬼から人間へと戻って来た瞬間の、第二の産声とでも言うべき叫びだった。
 宗次郎はその声を、唇を引き結んで聞いていた。



 5.透き通る涙

「お母さん。貴方のしたことは罪だよ……その事実を消し去ることは、誰にも出来ない」
 緑郎がハイランになったのは、ハイリィを正気に戻したかったからだ。
 そのために上がった舞台だった。
 波風を立てない平穏な日常のため、調子よく狡猾に生きる緑郎だが、舞台に上がれば彼は役者だ。舞台から逃げることは、役者にとって死と同等だと思うから、どんなに傷つけられても退くつもりはなかった。
 それを誇るつもりはないけれど、恐らくその覚悟が、彼女の狂気を貫いた。
「わ、わたし、は……」
 生きた声を取り戻したハイリィが、地面に座り込んだまま呆然と呟く。
 犯した罪が、呪詛の声となって彼女を責め立てているのだろうか、握り締められた手が、肩が、カタカタと震えている。
「貴方は……どうするのかな。狂うの? 死ぬの? それとも……まだ先を、探すのかな……?」
 そこから先は、彼女の返すべき負債なのだと緑郎は思う。
 だから、これ以上手出しをするつもりは、彼にはない。
「わたし……」
 ハイリィの、震える肩を、
「……大丈夫」
 宗次郎がそっと抱いた。
「乗り越えられるよ……乗り越えなきゃいけないんだ。生きている限り、ずっと」
 こうきがオカリナを取り出し、吹き口に口をつける。
 優しい、物悲しい鎮魂の旋律が辺りを満たし、
「ナウマクサマンダボダナン・バロダヤ・ソワカ」
 蒼月が何かを紡ぐと同時に、静かに雨が降り出した。
 雨は温かく、やわらかく皆を包み込み、血で汚れたハイリィを少しずつ洗い流してゆく。
「……俺には、祈ってやることしか出来ないが」
 紡がれるそれは、
「オン・アボキャベイロシャナウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラハラ・バリタヤ・ウン」
 一切の罪障を除滅し、死者を極楽浄土へ導くと言われる光明真言。
 ルナトゥムは何も言わず、血汚れを洗い流されながら静かに泣き続けるハイリィに、紺碧の布をそっと被せた。
 もう、その頃には、ハイリィの涙は血の色をなくし、透き通って、清流のように彼女の頬を濡らすのみだった。
「ねえ、一緒に探そう、ハイリィさん。あんたが真っ直ぐに歩いていける道を……全部乗り越えて、あんた自身が幸せになる方法を」
 服の袖で彼女の涙を拭いながら、宗次郎が微笑む。
 緑郎はこうきに手当てをしてもらいながら、彼女が小さく頷くのを確かに見た。
 罪も哀しみも、彼女には何もかもこれからだ。
 けれど多分、彼女なら大丈夫だろう、と、根拠もないのに確信して、らしくないかな、と緑郎は笑った。

クリエイターコメント 改めまして、今日は。
βシナリオへのご参加、ありがとうございました。

陰惨なる暗闇の都市、インヤンガイにおける初めの物語を、PCさんたちの『らしさ』を活かせるよう最大限に努力しつつ書かせていただいたつもりですが、いかがでしたでしょうか。

文字数の関係で、すべてのプレイングを反映させることは出来ず、詰め込みたかったあれこれも完全には果たされていないのですが、それでも、PCさんおひとりおひとりの個性や立ち位置を大切にしながら、それぞれのプレイングに唸りつつ書かせていただきました。

そして、皆さんのそれぞれに真摯なアプローチのお陰で、殺人鬼は人間に戻り、罪を償って生きる道を選ぶことが出来ました。そのことを、伏して御礼申し上げる次第です。

ともあれ、皆さんの頼もしく力強い道行きを書かせていただきましたこと、とても嬉しく思います。どうもありがとうございました。
また、次の機会に、お会いできれば幸いです。

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螺旋特急ロストレイル

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