それはまどろんでいた。
 いずこでもない場所――虚無にして空虚であるディラックの空ともまた違う、いずれにも属さぬ場所、『世界の狭間』。そこに潜り込んでからどのくらいの時間が経ったのか。
 それはただ、世界の外殻を越えておのれの力を、内部へ、内部へと浸潤させていった。さまざまな情報が流れこんでくる。「かれ」にとって、それは雑音でしかなかった。だからすべて作り替えた。そしてかれ自身の意に染むような情報を流し込む。
 逆にそれは、その世界にとっては侵食であり、腐食であった。
 だが、それが、すべての世界群の摂理の外にあるかれら「落とし子」にどんな意味があろう。
 それはただ、自身の居るべき場所を求めていたに過ぎなかったのだ……。

  *

 ロストレイル11号は、インヤンガイの地下鉄構内に停車したままだった。
 なんと静かなトレインウォーだろう。
 ロストナンバーたちはせっかく列車によってインヤンガイに来たにも関わらず、車両を降りることさえなかった。
 車両内に引きこまれた『壺中天』端末を通じ、かれらの意識はネットワーク空間へとダイブしていく。
 戦場はここではない。
 どこにもない、仮想現実の世界。
 それはときに、戦場ですらなかった。だがしかし、戦いは始まっていた――。

 西 光太郎の眼前に広がっていたのは、険しい山と鬱蒼たる密林だった。
「よくわからんが……あの山を超えれば何かあるに違いない!」
 光太郎はそう言って、進み始めた。
 あとに続くロボ・シートン、緋夏、そしてアストゥルーゾ。
 まるでヴォロスかどこかに来たようだが、これは現実ではない。頭ではそうわかっていても、実際に体験しているかれらに、その区別はつかないのだ。
「! 待て!」
 ロボが声をあげた。緋夏はそれに反応し、退くことができた。
 しかし光太郎は――
「しまった、底なし沼だ!」
 足元から、ずぶずぶと泥濘に呑み込まれていく。
「周りに何かないか、探してくる」
「ほぅ、底なし沼か」
 ロボがぱっときびすを返す一方、アストゥルーゾは袖をまくると、沼に手を突っ込んでみる。
「なるほど、たしかに深い。しかし、さて。本当に底がないのか」
「うぉーい!?」
 その間にもずぶずぶと沈んでいく光太郎。
「こういう時はええと……」
 緋夏が助ける方策をもとめてあたりを見回した。

 ロストナンバーたちは、『壺中天』世界の各所で、それぞれが、なんらかの「困難」に直面していた。それこそがディラックの落とし子「ハンプティ=ダンプティ」の情報攻撃なのだ。
 たとえ攻撃には見えなくとも、目の前の仮想現実を突破しなければ、ただそのニセの現実の中をさまよい続けるだけ。

「はは、お客さんの勝ちだよ、さ持っていきなさいな?」
 慣れた手つきでチップを操るベルダ。
 葉巻の匂いと、独特の熱狂に満たされたフロア……カジノに、彼女はいる。
 ディーラーとして卓をさばきながら、ベルダの目が油断なく周囲の状況を探った。彼女は――いや、彼女たちは、このカジノを牛耳る犯罪組織に潜入している最中だ。
 そこへ至る経緯はどうでもよい。
 それが彼女たちに与えられたシチュエーション。ハンプティ=ダンプティの情報攻撃が、ベルダの意識にある記憶や感性を反映して『壺中天』につくりだしたかりそめの現実なのである。
 同じくディーラーとなっているワイテ・マーセイレ、客としてフロアへやってきた鰍に、後島 志麻。
 酔った振りをした鰍がトラベルギアのチェーンを振り回し始め、カジノの黒服のガードマンたちが飛んでくる。なにやらあやしい雲行きだ。
 この局面を乗り切れば……

「これ何てデジャヴ」
 つい最近もなんかこんなことがあった気がする、と思いながら、三ツ屋 緑郎は山のようなセクタンの群れの前に立ち尽くす。
「消すんだ、こいつらを全部!」
 秋吉 亮がなだれてくるセクタンを掴んでは放り投げている。
 どうやら一定のルールにもとづいてセクタンを消すことができるらしい。
 むろんこのセクタンは、セクタンに見えているだけで本物ではない。その証拠に、なにやら言葉を話している。
「おーいみんなぁ、段ボールとか使えそうなもの物品庫から持ってきたよ」
 枝幸 シゲルがダンボールを抱えて駆けてくる。
 どうにかしてこのセクタンたちを消す、というのがかれらに課せられたルール。
「これはおにいさんの中に流れる探検家の血がうずくぜー」
 エルネスト・セルナがセクタンの山に突っ込んでいく。
「……あ、あれ?翡翠ー?どこいっちゃったのー?」
 篠森 澪は自分のセクタンを探している。
「おー、お宝発見だぜー」
「王、オタカラ8件」
『オタカラ会場はここかぁぁぁぁっ』
 エルネストがセクタンの山の中から埋もれていた花瓶を取り出したとき、王冠を戴いた派手な格好の人物が部屋に突入してくる。それはこの場にいるもうひとり、言霊ンによる言葉がねじまげられた結果だったが……もとより混迷している状況はロストナンバーたちの行動でいっそう混乱していた。
 しかし……

 ――ピシリ――

「そぉい!」
 ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロードが渾身の力で投げた石は、目標をはるかに越えて空の彼方へ。いつにも増して現実がデフォルメされているのも仮想現実だからか?
 とにかくガルバリュートは仲間たちとともに城を攻め落とすべく、進撃を開始する。
 進軍のラッパが高らかに鳴り響き……

 キィイン!と小気味良い音とともにヒット!
 ナオト・K・エルロットたちはなぜかゾンビと野球対戦をしている。
「よし、野球は先手必勝!! ゴーストバスターが野球であろうとゾンビに負ける訳にはいかないからな!」
 一塁へ走り、ナオトは次のバッターへ期待をこめた視線を投げた。
「よし、バッター、カナメ……いっきまーす!」
 青梅 要がバットのかわりにデッキブラシを構えた。

 曇天を照らし出す閃光。
 それはアルティラスカの放った光だ。
「今だ」
 翼ある虎の怪物が、その光にうたれてのけぞった瞬間、雪深 終が氷弾を連射。
 かれらは巨大な竜――真の姿となったデュネイオリスの背に乗って、熾烈な空中戦を繰り広げているところだ。
 集中攻撃を受けた敵が轟音とともに爆散する。
 その熱風がデュネイオリスの鱗をちりちりと焦がすようだった。

 ――ピシィ……ッ――

 それはもう、まどろんでなど、いられなかった。
 たとえて言うなら無数の小さなアリが、彼の手足の指先をちくちくと刺している。
 それは最初は小さな痛みだった。
 かれはすぐに、払い落とそうとした。
 だがアリたちは、あとからあとからやってきて、そして、着実に、彼を蝕んでいこうとしている。
 かれが理解できない情報が流れこんでくる――そしてそれが臨界点を超えたとき、

 罅(ひび)が、入った。

 かれ――ハンプティ=ダンプティの殻に小さな亀裂が走ったのである。
 その罅が、すこしづつ、すこしづつ、広がり、数が増えてゆく。

 烏丸 明良たちがカップルを破局に導くたびに。
 ヌマブチたちが対峙した敵に攻撃を加えるたびに。
 ヘータたちが不思議な空間で起こる出来事を解決するたびに。
 アインスたちが城の中の財宝を獲得するたびに。
 どこかで、罅割れの音が響いたのだった。

「む、これは!」
 シド・ビスタークが腰をあげた。
 彼の『導きの書』に、新たに浮かび上がる予言。
「……おい、発車だ! ロストレイル11号、出発進行!」
「ええっ、でもみなさん、まだ『壺中天』から戻ってきてませんよ!?」
 マナが驚いて聞き返した。
「それはいい。なんとかなる。落とし子が消えたら、館長が放り出されるんだ。そいつを回収しにいくぞ」
「ど、どこへ?」
「決まってるだろ。館長がインヤンガイを出ようとした場所、この世界にできちまった綻びの場所だ。『美麗花園』だよ」

 ロストレイルが地下鉄の廃線を走り始めたそのとき、『壺中天』の中では、この戦いの勝敗が決しようとしていた。
 フォッカーたちがすべての謎を解き、その門をくぐったとき。
 小竹 卓也たちがモンスターひしめく塔を攻略したとき。
 クアール・ディクローズたちが大騒ぎのすえにようやく食卓についたとき。
 オペラ=E・レアードたちが惨劇の結末を見届けたとき。
 かれらはそれまで見ていた仮想現実の世界が粉々に砕け散っていくのを見た。

 西 光太郎たちも、また。
「色々あったけど、もうすぐ山頂ですか」
「あぁ。そこまでいけば山の向こうの様子もわかるだろう」
 ここまでくれば大丈夫だろう。言葉をかわしアストゥルーゾとロボは歩みを緩める。
「さぁ、この先に一体何が待っているのか……」
 アストゥルーゾの背より降りた光太郎が呟いた。
「さぁ、いよいよだね!」
 緋夏の言葉に元気付けられ、探検隊は山頂への道をゆっくりと進む。
 そこで探検隊を待っていたものは……、なにかが罅割れ、砕けてゆく音。そして砕けてゆく世界。
「お……おおっ!?」
 光太郎は、足元の山道が粉々になっていくのを見た。
 その向こうには漆黒の宇宙空間……? いや違う、ディラックの空だ。
 巨大な――とてつもなく巨大な何かが、ゆっくりと崩壊してゆこうとしている。
 声なき声の、断末魔とともに。
 崩れ去り、消え去ってゆく。
 巨大ワーム「ハンプティ=ダンプティ」の、それが最期だった。

 どう、と、彼は投げ出された。
 冷たい地面のうえに、よこたわっている感覚がある。
 『壺中天』をさまよっているときにはなかった、身体の重さ。ああ、戻ってきたのか。
 人が近づいてくる気配があった。
「館長!? あなたが館長――なのか!?」
 うっすらと目を開けると、一人の青年が彼を助け起こし、のぞきこんでいた。
「間違いない。広場の銅像とそっくりだもの」
 別の誰かが言った。
「そう、だ」
 言ったが、その声がひどく弱々しいことに、自分でも驚く。
「私がエドマンド・エルトダウン。……やれやれ、情けない。世界を救うつもりが、自分が助けられることになるとは。私の旅は、どうやら失敗したようだ……」
 そして彼はぎりぎりで保っていた意識を手放すのだった。

「……っ」
 報せは、ただちにアリッサに届けられた。
 彼女はしばらく、言葉を失ったように、執務室で立ち尽くしたままだったが、かなりの時間を置いて、その瞳にはみるみるうちに涙が盛り上がり、ぽろぽろとこぼれはじめたのだった。
「……み、みんなに…………伝えて」
 しゃくりあげながら、彼女は言った。
「ありがとう。ありがとうって」
 そして、わあっと声をあげて泣き出した。
 傍にいた執事の、厚い胸にすがりつくが、ウィリアムは表情ひとつ変えず、また、その肩を抱くようなことは決してなかった。ただ彼女が泣くための樹の幹か石壁にでもなればよいと思っているかのようだった。
「どう言えばいいの? ありがとうを、あと何回言えば? 千回言っても足りない気がする。でも、ありがとうしか出てこないの。……みんな、ありがとう……、ありがとう……!」

 長らくの不在が続いていた世界図書館館長、エドマンド・エルトダウンの帰還。
 その報せに、ターミナルは沸き返ることになる。
 それは新たな季節の訪れを、告げているようでもあった。

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螺旋特急ロストレイル

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