オープニング

 ――ど、れ……を。だれ、を……?

 此処に在る物は何だ。見失ったのは誰だった。
 ソヤか。レタルチャペか。槐か。或は――己か。己はレタルチャペか。
 ――……おれ、は、俺だ。
 終は視界に揺れるモノ達を、ひとつひとつ見据えて、目を瞑った。
 終には今、選ぶ事が出来る。選ばぬ事すらも『選択』する事が可能である。
 ――命が抗うのは其処に『選択』の余地――『自由』が無いからだ。
 最前の情景。ソヤが、槐が、多くの民が望まぬ、戦争。
 数多の命を奪っても飽き足らず、それより遥か多くの『自由』を奪う。
 ソヤは望まぬ力を振るうが侭死に逝き、レタルチャペは――ソヤの元で力を抑えられていた頃の方が『自由』だったのだろうか。今の終の様に。
 ――俺は……俺は『自由』だ。
 “雪深終”は開眼した。
 不確かな自己、朧な記憶はレタルチャペのそれと似ていた気もする。
 故、重なる事もあり、何時しか過去のレタルチャペと己の区別を見失った。
 だが、眼の前には、朱い渦中に在って尚、濡れた氷の如く青白く照り返す簪がゆらゆらと漂い、息づく様に上下している。
 確かに、其処に在る。
 ――願いと目的は変わらない。

 誰もが――誰よりレタルチャペが――救われる、『自由』が奪われない『選択』を可能な限り探し、掬い取る。それが。それこそが俺の――

「――俺の望みだ」
 終は最早自らの一部の様に見慣れて馴染んだ、虫とも華ともつかぬ意匠に手を伸ばして、てのひらにそうっと乗せて――ぎゅっと掴み取った。




 酷く懐かしい、けれどずっと手中に納まって居た様な、不思議な手触りだった。




「……?」
 気が付けば、又、数多の屍が大地を埋め尽くす、あの戦場に居た。
 だが、終の、レタルチャペの視線の遥か先、其処に立つ者は幾度も其の名を呼び親しんだ骨董品屋の主では無く――
「あれは――」
 ――己が、“雪深終”が、鬼面片手に此方を見据えていた。

 ※ ※ ※

 レタルチャペは戦場を逃れ、図らずも手に入れた力に振り回された。
 往く先先で人人を喰い散らかし、其の度に立ちはだかる兵法者――内一人は必ず“雪深終”だった――をも又、骨迄貪り尽くしては、無軌道に駆け廻った。
 百人喰った辺りで猛り狂った妖気も漸く収まり、千人喰った頃には完全に己が力として御す事が出来た。
 扱いが解ると今度は万能感が心を満たし、溢れて、人も神も自分以外の存在総ては下らぬ塵に等しく想え、レタルチャペは尚の事諸国で人を殺した。
 あまりにも簡単に死ぬので、そんな者に虚仮にされたのかと憎悪を募らせた。
 時には巫山戯て老婆の姿に化け、乞食の身形で唄をまじない、耳目に触れた者を悉く狂死させた。彼女の通り道に村落等が在ると、住民全員が死滅した。
 生きた人が一人も居ない村の中でレタルチャペは大いに笑い、死体を啜った。
 ソヤの姿で、“雪深終”の臓物をしゃぶり、頭蓋を噛み潰して溜飲を下げた。
「…………っ」
 終は眉を顰めて、自らの中に入る己を、最後迄目を逸らさず、黙って見続けた。

 ※ ※ ※

 時折、ロストナンバーと思しき一団が現れる事もあった。
 レタルチャペを止めようとする者、討伐せんと躍起になる者、呼び掛け会話を試みる者と、対応は其の人物によって様様だったが、何れ歯牙に掛けるには及ばぬ手合いばかりだった。
 とは云えレタルチャペとしても手に掛けるのは憚られるのか、彼等が来れば適当な処で退き、少なくとも其の場ではそれ以上誰も殺そうとしなかった。
 だが、槐はあれ以来一度も見掛ける事は無かった。
 レタルチャペは嫌われたに違い無いと想う様になり、悲壮感に苛んでは又殺した。
 彼女の魂には数多の犠牲者の思念が集い、それがより彼女の心を掻き乱した。

 そうして西国中に恐怖と混乱が蔓延し、生きた人の代わりに腐臭と憐れな霊魂ばかりが漂う最中、レタルチャペは旅人達と共に歩んだ道を南東へ遡った。
 凡ての元凶にして最も憎むべき怨敵、平西将軍・穐原煌耀(あきはらこうよう)を殺し、其の庇護の下ぬくぬくと暮す花京の者共全員を喰い尽くす為だった。

 ※ ※ ※

 レタルチャペは先ず、気を落ち着ける為に城下で人人を喰った。
 併し幾ら血肉を得る事にえも云われぬ快楽と愉悦を見出し、力は更に増したが、集う亡念の所為で内面は騒がしくなるばかりで、情緒は安定を欠いた。
 やがて耳を塞ぐ様に心を押さえ込む事を覚え、そうする事で己を保っっていた。
 終は亡霊に紛れて、そんな彼女に寄り添っていた。
 終は尚もレタルチャペの視界と重なってはいたが、それでも矢張り終でしか無い。
 最早己を見失いはすまい。
 だが、彼女の心の内を間近で識り乍ら委ねられぬ事は、独特の痛みを伴った。
 思うが侭虐殺に興じるレタルチャペの心に、『自由』は見出せなかった。
 レタルチャペは荒海の如き妄執と憎悪の一切を、天守へと向けた。
 見ればあの城にも夥しい数の悲痛な無念が渦巻いて、泣き叫んでいるでは無いか。
 ――ひとばしら。
 築城に際し立てた物だろうか。あれ程の量を利用すれば、穐原はおろかこの都すら呑み込んで国中呪う事が出来そうだ――レタルチャペの口が邪に歪む。
 ――愚かな事だ。
 民を、己を護る為に、民を犠牲にする等聞いて呆れる。誰が為のモシリカムイぞ。

 下衆め。

 レタルチャペは夕闇に紛れ城へと向う。
 老婆の姿で揺揺と怨み辛みの呪詛を唄い道往く者を死に逝かせ花も京も腐らせて――。
「其処迄だ」
 老婆の前に漆黒の鬼面を被った“雪深終”が立ちはだかった。
 直ぐに彼の両脇から他のロストナンバーが駆けつけ、身構える。伊勢の姿も在った。
 レタルチャペは幻術を解き、ソヤの姿で応じた。
『退けチクペニ(槐)。穐原さえ滅ぼせばすべて終わる。おまえも云っていたな。……もっと早くこうするべきだった。そうすればソヤは、』
「確かに云いました。だが、最早状況が違う。今将軍を討てば国が滅びます」
「手前が好き勝手してくれたお蔭でな、レタルチャペ」
『それが何か拙いのか? 西国が死ねば北の民が脅かされる事は無くなる』
「本当にそれが理由なのかよ。ソヤがそんな事許すとでも」
『黙れイセプ(伊勢)。おまえになにがわかる。おまえには関係ない』
「なんだと手前……!」
「お止しなさい。――御前もだ、レタルチャペ。我我が此処に来たのは西国と協力して御前を討伐する為だ。……これ以上の殺戮は、僕が許さない」
 “雪深終”がそう云った瞬間、其の顔を覆っていた鬼面が粉々に砕け散った。
『なに――!』
 この不意打ちに不覚にも怯んだレタルチャペは、直後も城の側から得体の識れぬ圧力が押寄せて来るのを気取った。木火土金水の如何なる理力とも異なる波動が、多数の読経の唱和と共に旅人達の後ろから、城を都をゆっくりと包み覆う様にして、レタルチャペを弾き、押し返す。
『おのれっ』
 レタルチャペは負けじと巨大な白虎に変化して打ち破らんと爪を振るったが、其の悉くは剣戟で弾んだ刀の如く叩かれて宙を遊び、そして其の度に、レタルチャペに群がっていた亡者の念がばらばらと剥れて、霧散していった。
『おのれええええええええええええええええええええええええええええええ!』
 触れた事の無い術。旅人達は懼らくそれが完成する迄の囮だったのだ。
 周囲を取り巻いていた霊がすっかり消えた後も、終だけはレタルチャペの魂の傍に在り、其の愛憎入り乱れた複雑で哀しい心を肌に感じた。

 レタルチャペの変化は解けて、ソヤの身体は花京の外の山野迄飛ばされた。

 ※ ※ ※

 暫くの間、レタルチャペは山林に身を隠して息を殺していた。
 今迄魂を覆っていた思念、身を鎧っていた力の多くが一夜にして失われ、剥き出しとなった心が下界の凡てに過敏な反応をしてしまい、動けなかったのだ。
 一方で生来の妖力と金の宝珠の理力は全く失われて居らず、彼女が恐れねばならぬ者等現世には在り得ない筈だった。
 それでも不安は募り、時折無作為に暴れ廻って森を薙ぎ払い、山を殺いだ。
 此の国に比類無き絶対者は、此の国の誰より弱く、何よりも脆かった。

 そんな或る日、終は蒼穹に走る蛇か龍にも似た赤く細長い筋を認めた。
「ロストレイル……」
 ――チクペニの、匂い。

 レタルチャペは其の後を追った。
 寄る辺を失って弱り切った彼女が縋る事の出来る者は、あの男だけだったから。

 ※ ※ ※

 辿り着いたのは神夷の地から幾らも離れていない、海辺の廃村だった。
 其処は紛れも無くヌマブチ、ジャック、碧、灰燕、雀、そして終が訪れた場所ではあったものの、幾つかの家の位置が異なっており、屋敷も見当らなかった。
「元より廃村だったにしては、何か」
 答える者無き問いを、終は敢えて口にする。
 レタルチャペは槐の匂いに誘われ、色町を歩いていた時の様にふらりふらりと林の方へ流れていった。
 外にも大勢の侍や術師、旅人達に、神夷の民の匂いがしたが、そして其の凡てが己に害意を向けている事も明らかだったが、それどころでは無かった。
 早くあの男に助けて貰わねば鳴ならなかった。そうしないと、私は――。
 屡身が強張り、其の都度歩みを留めた。
“我我が此処に来たのは西国と協力して御前を討伐する為だ”
 花京で云われた言葉が脳裏を掠め、予てより擁いていた不安が大きくなった。
 ソヤを失った今、もしも拒絶されたら私はどうすれば善いのだろう。
 そう想うと、生きた心地がしなかった。
 それでも、逢わねば気が触れてしまいそうだった。
「……レタルチャペ」
 終はすっかりしおらしくなった彼女を、それが過去の物と判っていても、つい気遣ってしまうそうになりつつも、重なる視界に朽ちかけた社を認めるなり先刻より感じていた違和感が極まり、俄かにそれを忘れた。
 覚えのある山道、廃鉱に続く筈の此の道から眼下に一望できる境内は襤褸襤褸ではあるものの、柵も社も拝殿も本殿も守護獣の像も備わった、壱番世界のそれと善く似ていて極ありふれた、当に神社と呼ぶべき様相だった。
 終が来た時に見た胡散臭い社とは全然違う。
 終が何かを考えんとしたところで、視界が又山道に戻された。
 レタルチャペは急な坂道を難無く、けれど相変わらずふらふらと登り、程無く廃鉱に到着した。
 終が来た時よりも大分様子が違う。周囲に大きな石くれが多数転がっている。
 不愉快な侍共の匂いが濃度を増し、彼女は少しの間足を留め、眉根を寄せた。
 だが、連中は斬りかかる気配も術式をけしかける様子も無い。
 ――ふん。浅ましい。
 レタルチャペは廃鉱に踏み込み、敵意に触れて気丈さを取り戻したのか今度は足早に奥へと、あの男の匂いの元へと進んだ。中に朱は全くみられなかった。
 中へ入った途端、背後に沢山の敵意が集まっている事等、問題にしなかった。

 やがて、此処に来た折に終が幻視した、血涙を流して崩れるレタルチャペが居たあの広い空洞の中央に着くと、“雪深終”が此方に背を向けて立っていた。

『チクペニ』
 レタルチャペが呼ぶと“雪深終”が振り向く。
 今日も鬼面を被っている。拒絶の意思表示である事は、明白だった。
 一方で、男からは彼女を前に数多の人が擁く敵意や恐れ、嫌悪感が匂わない。
 それどころか――、
『チクペニ――』
 もう一度“雪深終”の名を呼んだ瞬間、恰も穴から無数に湧き出す蟲の如く前後左右から押寄せた侍共がレタルチャペに群がり、早早に刃を振るった。

 血の宴とも形容すべき戦と謂う名の虐殺が、幕を開けた。

 ※ ※ ※

『ソヤはもういない! ソヤの魂はどこか遠くへいってしまった』
 気が付くと、レタルチャペは“雪深終”を押し倒し、鬼面を押さえつけていた。
 眼の前の“雪深終”は懼らく『術』に巻き込まれた所為で、傷を負っている。
 レタルチャペも又、数多の侍に斬り付けられ、少なからず負傷していた。
 がりっと爪で鬼面の額を掻いて、レタルチャペは云った。
『わたしは穐原をころす。わたしはいくさをくりかえすこの国をめっする。わたしは、――わたしはおまえといっしょがいい』
 ――もうおまえだけ。そうすれば、私は。おまえと一緒なら、私は。
 ばきりと鬼面に皹が入る。答えを恐れたレタルチャペが握り締めたから。
 ぱちっと破片が僅かに跳んで、ソヤの真っ白な頬を裂いた。
 見下ろす鬼面に朱い雫が落ちて伝い、右目の穴に吸い込まれる様にして消えた。
「……それが御前の望みか、レタルチャペ」
 又びしっと皹が深まる。
 レタルチャペは握力のみでトラベルギアをも砕くらしい。そんな凄まじい力を持ち乍ら、併し無力な“雪深終”の聲音を、紡がれる言葉を恐れている。
 故に力が篭る。我知らず“雪深終”の精気を吸い上げている。
 “雪深終”の濡れ羽の様だった髪が、みるみる内に色を失っていく。
『わたしとともに来い、チクペニ――』
「――戯言を申すな化生ォ!」
 檄と共に耳障りな経が発せられた。
 そして、一瞬の出来事。
 何時の間にか侍が二人の元に迫り其の後ろからは外のロストナンバー達も向って来ている――レタルチャペが終共共振り向いた時には侍の剣が振り下ろされようとして――レタルチャペは読経に因る物か金縛りに遭い――、

 ――“雪深終”は彼女の袖を強引に引き、押し退けた。
 其の勢いで自らが前へ出ると共に鬼面が、叩き割られてしまった。

「なっ――血迷うたか!」
『きさまあ!』
 侍の驚聲とレタルチャペの絶叫の交差点を鬼面の左側が飛んで貫く。
「ええい!」
『よくもチクペニを!』
 侍がもう一太刀をレタルチャペに浴びせ、終の肩口に激痛が走る。同時にレタルチャペは未だ身を戒められ乍らも無理矢理腕を振って侍の胸を抉り、更に逆手で顔を殺ごうとするも此方は刀で防がれ、弾き飛ばすに留まった。
 後続のロストナンバーの内一人が猛り狂ったレタルチャペに一撃で殺され、其の隙に“雪深終”と先の侍は伊勢を含む別のロストナンバー達に抱えられた。
「僕の事は……構わず、に」
 半ば露わとなった顔を額から流れる血で汚し、“雪深終”はそう云った。
『チクペニ! 待て!』
 レタルチャペは未だ岩窟内に響き己が身を縛らんとする経に力で抗い、傷ついた者を連れて撤退し始めていた侍達を、連れられた“雪深終”に追い縋った。
 ごつごつした岩同士が擦れ合う様な轟音が外の方からして、誰もが急いだ。
『待ってぇ!』
 そうして外の明かりが見え、レタルチャペの手先が“雪深終”に届こうとした、今一歩の処で。槐を抱えた者達が僅かな隙間から廃鉱を出た、其の直後。
『わたしを、』

 レタルチャペの眼の前で、岩戸が閉じた。

 ※ ※ ※

 それからどれほどの月日を経たのか、終にはよく判らない。
 暫くの間只只絶望に打ちひしがれていたレタルチャペは、何故かは不明だが廃鉱の中で果てた者達の屍肉を喰い、其の骨を最深部に運ぶようになった。
 後にソヤの屍蝋が安置されるようになった、あの部屋である。
 髑髏を一つ一つ丹念に並べて敷き詰めて往き、足りなければ又喰って運んだ。
 此の期間のレタルチャペは空虚としか云い様が無く、終には其の意識や感情が何も伝わってこなかった。
 併し、ある時から、彼女は嘔吐するようになった。
 初めは何事かと想っていたが、次第に腹部が丸みを帯び始めて来ると、それがソヤの身に宿った新たな生命なのだと、終にも察する事が出来た。
 だが、レタルチャペが廃鉱に封じられている現状と、生まれてくる子の父親が誰なのかと想うと、祝福する気にはなれそうも無かった。
 ところで、ソヤの肉体は酷い怪我を負っていたにも係らずすっかり元通りになっていて、老いる事も無かった。それがレタルチャペと云う神を宿す為なのか、金の宝珠の力に依るのかは、傍にいる終でさえ判然としなかった。
 其の事が――元より過去の記憶の中とは云え――終の時間感覚を益益曖昧にした。

 そんな或る日の事。

 爆発の様な凄まじい轟音と破壊音がして、廃鉱の中が激しく揺れた。
「……なんだ」
 それは骨ばかりの部屋に篭っていたレタルチャペの耳にも届き、彼女は鼻をすんと幽かに窄めると金色の眼を見開いて、
 ――!
 かと想えば出入り口へと走り出した。

 焦臭かった。岩戸になっていた巨石が、粉粉に砕け散って、煙を上げていた。
 唐突に、レタルチャペは封印から解放されたのだ。併し、
「誰が……」
 ――りゅ、う、お、う?
「何?」
 ――龍、王……。
『カンナカムイ。おまえの仕業か』
 レタルチャペが天を凝視して、うわ言の様に云った。
『成る程、理が封じられた侭では不都合と云う訳』
 まるでソヤの様に、レタルチャペは澱み無く穏やかに謎の言葉を紡ぐ。
『――なんですって? 異邦の者達がいずれ再訪する? ……締め出したのね』
 誰と話している。終には聴こえない。
『……ふん。私は私の好きにするわ』
「龍王、なのか」
 終は尚も両者の会話を聞こうとしたが、どの道レタルチャペの側しか聞けぬ遣り取りは唐突に幕を閉じた。

 レタルチャペは山道をゆっくりと下って往く。
 見下ろせば林の中にぽつんと在る境内があの胡乱な場所に様変わりしており、其処には何事を奉っていた物か村民や神職と思しき姿を幾つも認められた。
 併し、何かあったのか、騒騒と無秩序な聲が祭儀を乱しているのが遠目にも判った。
 人が住んでいる。過去も現在も廃村だった場所に、人が居る。
『ふふ……ふふふふふ。そういう事。残念だったわねえ? あっはっはっはっ』
 レタルチャペが、ソヤの様に笑う。
『でも――私を奉って鎮めようだなんて、殊勝な心掛けだわ。何かご褒美をあげないと。ねえ?』
 すっかり膨れた腹を擦り、我が子に語り掛ける。
『さぞ喜ぶ事でしょう。なにせ此の村の神は私なのだから』
 紡がれる言葉に邪な物を孕ませて。
 ソヤともレタルチャペともつかぬ女妖は、山を下りた。


 くすくすくすくす唄う様に囀る様に喉を鳴らして、いつまでも――。


 ※ ※ ※


『――じゃあ、後の事はお願いね』
「よくも抜け抜けと……! コタンには二度と近寄るなとあれほど」
『連れないマタクだ事。サポの頼みぐらい効いてくれたって善いでしょう?』
「誰がマタクか! 何時迄もソヤの姿でうろつきおって!」
『“同じ事”よ。ふふ、判っているくせに。それじゃあ、またね』
 そんな会話が耳に飛び込んで来て、終はびくりと痙攣した。
 散散聞き慣れた女と、それを突き放す――矢張り聞き覚えの在る――老女の聲。
 眼を開けると、其処には、
「おや。御目覚めになりましたか、コンルカムイ」
 嘗て一宿一飯の世話になった、神夷の里の老婆の顔が在った。
 と云う事は、此処は――、
「――ただいま」
 次いで若若しくも何処か危なっかしい男子の聲と姿が老婆の後ろ、家の入り口から飛び込む。確か、イメラと云う名の若者だったか……?
「あっ、気が付いたのか!」
「これイメラや、少し静かにしなさい」
 終の覚醒をみてどかどかと嬉しげに駆け寄る若者を、老婆が嗜める。
「あの。俺は……」
 事態が呑み込めず面喰い乍ら、終は取り敢えず身体を起こして訊ねる――と云っても何を如何訊ねた物か判らず、次の言葉が中中出てこなかった。
 老婆が察したのか、「驚かれるのも無理は無い」と優しく云った。
 何でも数日前、狩りに出ていたイメラの前に、何処からとも無く終を乗せた真っ白い獣が現れて、終を下ろすなり、又何処かへ走り去ってしまったらしい。
「此処迄背負うのは大変だったが、鹿よりは楽だった」
 イメラが冗談めかしてそう云った。
 ――大変だったのよ。何度も転びそうになるんだもの。
「――!」
 不意にレタルチャペの聲がして、終は身を強張らせた。
「どうか、したのか?」
 イメラが不思議そうな顔をする。
 老婆のほうは皺が多くて窺い切れなかったが、何か云いたそうにも見得た。
「……否。その――担がせて仕舞って、済まなかった」
 終はあからさまにぎこちなく、併し持ち前とも云える態度で、イメラを労う。
「気にしないでくれ。時にはカムイを助けるのもアイヌの役目だ」
「そうか」
「目覚めたばかりで腹も空いたでしょう。食事の支度をしましょうか」
 老婆に食事と云われ、終は酷く飢えている様な気がしてきた。
「そうだな。頼んでもいいだろうか」
「では少しの間お待ちになっていて下さい。――イメラ、水を汲んでおいで」
「わかった」
 イメラは桶を手に素早く出かけていった。
 それを見送ってから、老婆はもう一度終に向き直って、懐から棒の様な物を差し出した。
「これを」
「これ、は――」
 何時か彼女の元に届けた短刀。チクペニの、メノコマキリ。
「あれに憑かれたのなら持っていた方が善い」
 矢張り彼女はレタルチャペの気配に気付いていた。
「併し、これはソヤの、」
 形見同然だ。受け取る訳には。
 断ろうとする終に、老婆は眼を伏せて首を振った。
「コンルカムイ。貴方はカムイであり乍ら人の心をお持ちの様です。レタルチャペカムイと共に在るのなら少しはお役に立つでしょう。お受け取り下さい」
 ――貰っておきなさいな。望みを叶えたいのでしょう。
「併し、如何扱えば」
「只持っているだけで充分です。さあ」
 終は何処かで見た状況に暫し逡巡したが、取り敢えず好意を受ける事にした。
 気が変わったら後で返す機会もあるだろう。
 半ば押し付ける様にして短刀を手渡した老婆は、食事を準備し始めた。

 ――ふふふ。
(貴女は如何云うつもりで居る)
 ――どうもしないわ。それより、おまえは私を救ってくれるのでしょう? なら頼みたい事があるの。
(頼み?)
 ――コンルカムイを登るか、北の果てまで往って来てくれないかしら。
(目的は)
 ――コンルカムイには水の宝珠があるわ。そして北には金の宝珠の欠片がある。
(それを如何する)
 ――決まってるじゃない。取って来るのよ。尤も、欠片のほうはそのうちおまえのお友達が探しに来るのかもしれない。どのみち渡すつもりだから、それならそれで別に構わないわ。彼らと遊べないのは一寸つまらないけれど。
(水の宝珠は? 貴女には出来ないのか)
 ――春先にやってみたわ。でもちゃんとした依り代がないと無理ね。
(俺に出来る保障も無い)
 ――おまえなら簡単よ“コンルカムイ”。少なくとも台座には難なく辿り着けるでしょう。
(台座迄は……? 何か、居るのか)
 ――そういう事。そうね……私も手を貸すつもりだけど、不安ならお友達を呼んだっていいのよ。知ってるのよ、何時でも文が出せるのでしょう?
(……)
 ――好きなようになさい。『私』はおまえの近くで、見させて貰うから。
(好きな、様に)
 ――ああ、欠片を取りに往くなら、もう直ぐ客が来るからそれに着いて行くといいわ。それと……そうそう。持ち物を確かめたほうがいいんじゃないかしら。何かなくなってるかもね? ふふっ、それじゃあ。
(……待て、それは如何云う)
 ――……。

 一方的に会話が打ち切られた処で、「イメラは居るか」と見覚えの在る狩人の男が訪ねて来た。
「イメラなら水を汲みに往ったよ。何か用かい」
 老婆が首を傾げると、狩人は困った様に頭を掻いた。
「いや、そろそろカムイの世話役が北に出かける時期だろう。今年は隣のコタンから二人出るって話なんだが……男手が足りないらしくってさ、うちのコタンからも誰か護衛役に来てくれないかって」
「それでイメラをかい。あれには未だ早いよ」
「俺も未だ若過ぎると云ったんだが、外に適当な奴が居ないのも確かなんだよ」
「困ったねえ……」

 老婆と狩人は顔を付き合わせた侭、黙り込んでしまった。

ご案内

志にもとづき簪を選んだ終さんは自らを見失うことなく、再び過去の視点に戻り、(様々な登場人物が終さんの姿だったなど奇妙なこともありましたが)無事レタルチャペカムイの記憶をたどる旅を終えることができました。ところが、目を覚ますとそこは神夷の里だったり、姿を見せないレタルチャペカムイから頼みごとをされたりと、状況はなおも終さんを翻弄しようとします。

状況を整理します。
=====
・レタルチャペカムイは終さんの行動を制限するつもりはなさそうですが、なんらかの手段で監視しているようです。
・パスホルダー、トラベルギアなど、世界図書館の支給品は所持しており、効力を発揮しています。
・老婆から渡されたメノコマキリと呼ばれる短刀のほかに、いつの間にか手元には、槐のトラベルギアの片割れと思われる左顔面相当の黒い鬼面があります。
・簪がありません!
=====

!注意!
こちらは下記のみなさんが遭遇したパーソナルイベントです。

●パーソナルイベントとは?
シナリオやイベント掲示板内で、「特定の条件にかなった場合」、そのキャラクターおよび周辺に発生することがある特別な状況です。パーソナルイベント下での行動が、新たな展開のきっかけになるかもしれません。もちろん、誰にも知られることなく、ひっそりと日常や他の冒険に埋もれてゆくことも……。
※このパーソナルイベントの参加者
・雪深 終(cdwh7983)
※このパーソナルイベントの発生条件
企画シナリオ『【瓊命分儀】いんくんし』の結果による

■選択肢
次にとりうる行動は以下のいずれかになります。
=====
・護衛役を申し出、世話役とともに北へ向かう(欠片の回収を目指す)
・独自に北へ向かう(欠片の回収を目指す)
・コンルカムイに登り、水の宝珠の回収を目指す
・レタルチャペカムイの頼みごとは無視する
=====

雪深終さんは、「これらの中からひとつだけ」選ぶことができます。

なお、いずれを選択した場合でも、「エアメールで仲間を呼ぶ」ことが可能です(呼ばなくても構いません)。

そうしたい場合はプレイング文中に呼びたい方のキャラクター名を一人一人正確に記述してください(プレイング字数に含めます。字数の範囲で何人でも呼んで構いません)。


このイベントはフリーシナリオとして行います。このOPは上記参加者の方にのみ、おしらせしています。結果のノベルが全体に公開されるかどうかは結果の状況によります(参加者の方には結果はお知らせします)。

なお、期限までに参加者のプレイングがなかった場合、「レタルチャペカムイの頼みごとは無視する」ことを選んだうえで、帰還のために世界図書館に連絡をしたものとします。

■参加方法
(プレイング受付は終了しました)

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螺旋特急ロストレイル

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