「待って、ペッシ、待ってっ!」「だめだ、今しかないっ!」「だってっ、だって、あの人が…っ!」「今しかチャンスがないんだ、リオっ!」「っっ!」 がしりと体を抱え込まれ、世界樹が覆う街の高みから、背中の羽根を広げて一気に飛び出すペッシに、アクアーリオは必死にしがみつく。 リオ。 その呼び名をどれほどの重みでペッシが口にしたのか、よくわかっている。 リオ。 懐かしい、温かな声。優しい微笑み。切なげな愛おしげな指先。 見上げた顔が怒りに染まっていない『父』など、今まで出会ったことなどなかったのに。 ファーザー、と呼ばれることもあるよ。 君を守ろうとしてくれている友人を、忘れてはいけない。 静かに話してくれた、敵、なのに。『彼は君達が大事だから、こちらへ加わったそうだよ、けなげだね』 パパ・ビランチャに聞かされたときの衝撃。 だから、旅団の侵攻に加わるつもりだった。侵攻に加わって世界図書館の中に入り込んで、いつか出会った人達に、ごめんねって謝って。いつかきっと、連れ戻すって約束して。なのに。「だって……っ」 耳元で唸る風の音、翻る自分の青いドレス、胸に呑み込んだ輝く宝石がどくりどくりと脈打つようで体が震えて止まらない。しがみつく指がリボン化して解けようとする、追いかけて来る『父』の呪詛のように。それを感じてペッシがなおも強く抱き締めてくれる、この先どこへも行けないのに。「ぼくの……せい…だ……っっっ」 リオの悲鳴のような声にペッシはきつく唇を噛む。 できるだけ遠く、世界樹から離れる、そうして万に一つのチャンスに賭ける。 戦争が終わった後、アクアーリオを生き延びさせられる方法があるとしたら、ただ一つ。「…」 呻くように呟いた少女の名前を呑み込む。閃いた笑顔も心の隅へ押しやる。 世界図書館の柔らかでしたたかな強さに、賭ける。 今まで数々の世界を蹂躙し侵略し、思う存分その甘い果実を貪ってきた世界樹に、とても叶うまいと思われた世界図書館のロストレイルが次々と飛び込んでくる。車輌から飛び立つあらゆる姿の戦士達が、自分達の能力の全てを生かして、何と見事に戦い切っていくことか。「…」 必死の飛翔を続け、炎を上げ、傷みに体を震わせるような世界樹から離れていきながら、ペッシは思う。 世界樹旅団の最大の敗因は、各自が世界樹の部品になってしまっていたことだ。それぞれの本来もっていた能力を、世界樹は自らが使いやすいように変形させ、世界樹が望む力の形に当てはめてきた。だが、世界図書館は、それぞれの本来もっていた能力を、出会いと別れ、様々な経験の中で変化させ充実させ発展させてきた。 そこにいつの間にか、奇跡を生み出す「未知の可能性」が生まれていたのだ。 侵略に特化していた世界樹が、こんなふうに侵略途中で身動きできない状態で、壊滅的な攻撃を受けるなんて、誰が予想しただろう。「………っっ!!」 胸で声にならない悲鳴を上げて、アクアーリオが身悶えして絞り出す名前に、ペッシは顔を引き攣らせる。背後で何が起こっているのか、一瞬見えた視界で十分に察知できる。その中に、誰が呑み込まれたのかも。 でもだからこそ、止まるわけにはいかない。何とかしてアクアーリオだけでも救い出してやらなければ、あんまりだろう、何もかも。 飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。果てしないチェス盤を必死に飛ぶ。 が。「ペッ…!」 警告を受けるまでもなく、いきなり真上に出現した気配に全身粟立った。「こんなところで何をしているのかね。戦場放棄は悪くない決断だが、私の手から逃れられると思うのは間違いだ」「がっ!」 激しい衝撃、全身を巨大な手で叩き付けられるような打撃に制御を失い、鼻と口から血が吹いた。それでもアクアーリオを抱えたまま、必死に羽ばたこうとする。 駄目か、まだ近かったのか、あいつの支配下だったのか。 斜めにきりもみ状態になりながら、次の打撃を覚悟する。もう少し地上に近づけるなら、そこでアクアーリオを離し、そこからは一騎打ちだ、我らが『父』、パパ・ビランチャと。 かろうじて飛行を立て直し、身構える。 だが、打撃は来ずに、逆に彼方から白いリボンのようなものがするすると押し寄せてきて、ペッシの頭上に出現した黒服の男に絡み付くのに目を見開いた。「ママ…っ!」「おや、君まで来てどうしたのだね」「世界樹は終わりよ、パパ・ビランチャ」 甘い声がリボンから零れた。「戦争は終わり。私達も偽物の親子からまた元の恋人同士に戻りましょう、『天秤』」 次々と流れ寄ってくるリボンはあちこち焦げ、千切れかけている。もう原型には戻れないのだ、傷つきすぎて。「それは残念だ。あれは本当に世界を量るに適していたのだが」 ぎりぎりとリボンにくるまれながら、黒服の男は低く嗤った。「しかし、時は過ぎたのだよ、君はもう恋人ではない、ただのリボンだ」「『天秤』…っ!」 リボンに巻き込まれたパパ・ビランチャが一瞬にして細かな黒い霧となってリボンを振り解き、逆に相手を包み込むように覆った。そのまま発火し、一気にリボンを焼き尽くしていく。「ママーッ!」「リオっ、黙れっ!」 胸でもがくアクアーリオを抱き込み、ペッシは紅に曇る視界を瞬いた。力が急速に失せていく。パパ・ビランチャがママ・ヴィルジネに負けるはずもないが、時間稼ぎにはなる。まるで別の機械を背負ったように重くなっていく羽根を必死に動かして、何とかその場を逃れていく。 それでも高度はどんどん下がる。「く……そっ…!」 どれほど飛んだのか。「ペッシ!」「リオ……すま…ないっ…」「ペーッシ!」 吐く息一つ一つが熱くて重くて、抱えたアクアーリオを手放しそうになって、ペッシは呻いた。抱え直す、それでももう羽根が動かず、突っ込んで行く、目の前の。「…森……?」「きゃああっっ!」 葉に叩かれ枝に乱暴に受け止められ、二人は旺盛な木々が天空を覆うような場所に突っ込んだ。派手に転がり落ちる、打ち据えられて投げ出され、しばらく気を失って気がつけば、周囲はうっそうとした森林。「世界樹…じゃ…ない…な」「動いちゃだめだよ、ペッシ」 アクアーリオはドレスの下着を裂いた包帯で傷の手当をしてくれる。涙とかすり傷とで汚れた頬で必死にペッシに笑ってみせるのに、何とか立ち上がろうとしたが動けない。「早く逃げないと…奴がくる」「……そう、だね」 アクアーリオはふわりと両手を上げてみせた。その指先をリボン化するのにぎょっとするペッシに、静かに笑った。「その時は、ぼくが相手をする」「止めろ、リオ」 そんなことをしたらお前は。「だって……ぼくのせい、でしょ…? ぜんぶ……ぼくの…せい」 微笑んだ顔にぼろぼろ零れる涙にペッシはことばを失った。「だからぼくが……パパを始末する」「幾つかの目撃情報から、アクアーリオを抱えたペッシが、ナラゴニアを離脱したことがわかりました」 鳴海は難しい顔で『導きの書』を見下ろす。「彼らは樹海に逃げ込んだのですが、どうやらペッシがパパ・ビランチャの追撃を受けて負傷し、身動きとれなくなったようです」 そこに、今パパ・ビランチャが近づきつつあります。「パパ・ビランチャの目的は不要になって目障りになった『道具』の始末です」 鳴海は静かに顔を上げた。「言動から見て、アクアーリオとペッシは、世界図書館へ逃げ込もうとしているようです。パパ・ビランチャの追撃を退け、彼らを保護して頂けないでしょうか」 ようやく終わった戦争、傷が癒えていない者もまだ多い。なのに、再び戦いを依頼することに一瞬ためらうように口を噤み。 それでも、思い切ったように付け加えた。「パパ・ビランチャには旅団の残党が従っている恐れがあります。十分に注意をお願いいたします」=======================このシナリオは『天秤を壊す』とセットになっております。片方にご参加頂いた場合、もう片方へのご参加はご遠慮お願いいたします。=======================
「一つ、確かめたいことがあるんですけど」 チケットを受け取ったのに、すぐに離れて行こうとしない相沢 優に鳴海は戸惑った顔になった。 「何でしょう」 「リオのリボン化、どうしたら止められるのか、『導きの書』に現れていませんか」 「え…あ、なるほど」 鳴海は急いで『導きの書』を指先で辿る。予言の中に、起こる事件と解決の糸口が示されているのなら、確かに優の言う通り、リボン化を止める方法があるかも知れない。 「うーん…リボン化はパパ・ビランチャの武器化の能力によるもの、としかわかっていません。それがどういう原理なのかははっきりしていない…ただ」 鳴海は忙しく『導きの書』を捲った。続いて抱えていた他の報告書も開き、考え込みながら顔を上げる。 「以前、アクアーリオがインヤンガイの依頼で姉に再会した時、彼はほとんどリボン化して解ける寸前だった」 優は頷く。必死に握った小さな手、今はもう傍らに居ない恋人が守ろうとした存在を目の前でビランチャに連れ去られた苦さが湧き上がる。 「けれど、そこではリオは解けなかった。リボン化が一方的に進むものなら、そしてまたあの時のパパ・ビランチャのことばによれば、もっと早くリボン化が進行してもよかったはずです。なのに、彼は今もその形を保っている。どういうことでしょう?」 「……何かが、引き止めている…?」 優は呟き、はっとしたように瞬きして鳴海を見返す。脳裏に過ったのは、アクアーリオの胸に呑み込まれていく眩い光、『胡蝶の石』の輝きだ。一旦解けたアクアーリオの胸はあの宝石を守るように包み込むように再び塞がっていったではないか。 「『胡蝶の石』が?」 「これは推測ですが」 鳴海は考え考え頷いた。 「アクアーリオのリボン化が外へと崩壊していく力によるもので、それが彼の意志によって左右されるものだとしたら、今彼が完全に解けないのは、その宝石を手放すまいとしているからじゃないでしょうか」 ああ、皆、聞いたか? 鳴海に礼を言って離れていきながら、優の背筋を震えが駆け上がった。 忘れていない、覚えている。『胡蝶の石』とインヤンガイに関わる友人達の繰り返しの関わりを。そしてまた、『銀青瞳』でのペッシとの邂逅を。 あのロストレイル襲撃の日に出会ってから、心を閉ざし、世界を憎み、全てを崩壊させようとしていたアクアーリオを、幾人ものロストナンバーが説得し、守ろうとし、繋ごうとしてきた。その数々の関わりがあってこそ、アクアーリオは再び手の届くところに現れ、その命は願いの結晶である宝石によって繋がれている、そう言えるのではないか。 「皆が……守ってるんだ……この今、も」 視界が滲みそうになり、歯を食いしばった。 あのロストレイル襲撃の時、リオを案じていた二人はもういない。でも二人とも本当にリオの幸せを願っていた。二人の想いを引き継ぐ為、優自身もリオには幸せになってほしいから、持てる力のすべてでリオ達を助けようと思っていた。 だが。 だが、これほど確かな形で、願いはちゃんと、アクアーリオの中に育っていた。 「ジャックさん…ワイテさん……ジューンさん」 優は零れそうになる涙を噛みこらえる。 「力を貸して…下さい……俺は絶対……絶対、リオ達を…ターミナルに連れ帰る…っ」 そのためなら、何でもする。 俯く優の肩をぽん、と竜人の手が叩く。 「『導きの書』に場所が出てないの残念だネー。そしたら、上から飛んでいけばいいんだけド」 「テメェの占いは信用するゼ…なンて出てる」 ぱつん、とジャックが優の頭をはたきながら、ワイテにウィンクした。 「他の人に良い手があるならそっちでいいんじゃないかナー。占いは当たるも八卦当たらぬも八卦だシ……信じル?」 きょろり、とワイテが目だけを動かすが、手は既に素早くカードをシャッフルしている。 「本物の占いはプレコグの一種だからナ…信じるに決まってンだろ」 ジャックのことばを待つまでもなく、空中に円状に、ワイテの大アルカナが裏返しのまま22枚、均等間隔に配置された。次の瞬間、噴水のように一斉にひっくり返されたそれを、ワイテは素早く読み解く。 「パパさんは正義、戦車も揃ってるネ……そして、月はあそこにあル。月は導きで選択、そして危険と敵だヨ」 ワイテの示した方向に顔を歪めながら振り向いた優が、ジャックのPKで浮き上がる。 「行こうぜ、相沢」 あのクソ野郎どもに一泡吹かせてやろうじゃねエか。 ジャックがにやにや笑いつつ誘うように顎をしゃくり、カードを回収したワイテが緩やかに飛翔を始める。その優にハンカチを差し出し、同じようにジャックのPKで浮いたジューンが、静かな顔で晴れ渡った無垢な空を見やった。装備はファーストエイドキット、コロニーの修復機材も兼ねる体の能力は今、人命救助に集中される。 「本件を特記事項γ1−2戦闘中の救助活動に該当すると認定。リミッター解除、敵性存在に対する殺傷コード解除、事件解決優先コードA7、A12、B6。保安部提出記録収集開始」 ワイテの示した方向にジューンが見つけたのは、空を鋭く切り裂く悪意。 「エレキ=テックがどういうものか世界の違う私には想像する事しかできませんが。ジャック様、私のレーダー探査を貴方は直接視られる筈です。ビランチャへの先制攻撃にお役立て下さい」 ジャックがふざけた道化のように空中で一礼した。 樹海は広大だ。通常ならば、ジューンのレーダー探査や索敵能力があっても、ジャックの精神感応があっても、その中に紛れ込んだ少年二人の存在など感知はできないし探し出せない。だが、今は彼らが狙われているという悪条件が幸いした。 「ビンビン感じるぜ、辺り一帯を舐めてくるような感覚」 これがパパ・ビランチャとやらの力の一端なんだろうナ。 空中を翔るジャックが吐き捨てるように嗤う。 「ヘドが出るゼ」 その感覚がどんどん絞られていく先に二人が居るのは間違いない。方向を定めて飛び出しているのが幸いして、弾丸のように空中を裂いていく相手より僅か先行できているようだ。 「後方より別働隊接近」 ジューンが淡々と報告した。 「展開しつつ高速で近づきますが、パパ・ビランチャには10.75秒早くこちらが接触。いえ、5.3秒後遭遇、進路を変えました」 同じものは優のタイムのミネルヴァの眼でも確認できた。勝負は一瞬、トラベルギアを抜き放って防御壁を展開、ぐおっ、という嵐の気配が近づいた次の瞬間には目の前を黒い霧が覆っていた。 「くっ!」 広い、大きい、そして重い。一枚の防御壁で足りないのは想定内、次々と幾重にも防御壁を生み出して衝撃を防ぐ。とめどなく周囲に広がっていくのに、密度がほとんど変わらない気がする。まるで巨大な投網に絡まれていく小魚のように感じる。隙を狙って優の体に近づき、絡みつこうとする黒い霧に必死で防御壁を生み出し続ける。その自分の背後で、アクアーリオ達を見つけたのだろう、ジューンが素早く樹海に降りていくのを感じた。 (相沢、守れっ!) 「クソがぁ! 吹き飛べ、テンペスト!」 「っっ!!」 脳裏に響いた声の意味を察する間もなく響いたジャックの叫び、咄嗟に防御壁を自分の回りに張り巡らせた次には、ジャックが放った特大の暴風に霧もろとも吹き飛ばされて息を詰める。 「ビランチャの本格的な足止めは別働隊に任せりゃいい! 俺らはビランチャの手下叩きのめしつつ奴のちょっかい払いのけつつガキどもターミナルに届けるのに全力を注ぎゃァいい!」 くるくると空中を吹き飛ばされ、かろうじてバランスを保った耳に、ジャックの声が届いた。乱れた髪を押さえてようやく目を開けると、吹き飛ばされた黒い霧に次々と突っ込んでいく見覚えのあるロストナンバー達が居る。空中に巨大な獣が立ち上がり咆哮し、真下の森が一気に焼かれて空を紅蓮に染めるのが見える。 「間に合った、かっ」 パパ・ビランチャの足止めを駆けつけた仲間に任せて、優はワイテ、ジャックに続いて眼下の樹海に舞い降りた。 降りるに従って、リオ達の状態は、降りたというより樹海に叩きつけられたという方が近いのに気づく。周囲の木々がひどく叩き折られている。幹が裂け、枝が砕かれ、それらが落ちてぐしゃぐしゃになった地面に、血に染まったペッシと彼に屈み込みながら、アクアーリオを説得しているジューンが居る。 「ありがとう、アクアーリオさん。私たちはそれでもペッシさんと貴方の力になりたいのです。別働隊がビランチャの足止めに向かっています。お願いです、一緒にターミナルに来ていただけませんか。ターミナルで怪我を癒しながらこれからの事を考えましょう。絶対貴方たちを一人ぼっちにしませんから」 「で、でもっ…」 「私がペッシさんを背負います。アクアーリオさんは他の方にお願いします。大丈夫…今はまだ体力を温存すべき時ですよ?」 戸惑い混乱するアクアーリオに優しく微笑みかけ、ジューンはペッシの手当を始める。 「生体サーチ起動…肋骨、右上腕、左大腿…全身に複数の骨折を確認。腹腔内にも損傷を確認。そうですね、装甲車に跳ねられたというのが1番近い状況かと。ここでビランチャ迎撃に無駄な時間を費やせば確実に悪化し場合によっては死に至ります。私達に治癒魔法の持ち合わせがない以上、即刻ターミナルへ撤退すべきかと」 ごふっ、とジューンに抱えられたペッシが鈍い咳き込みとともに、真っ赤な血の塊を吐き出した。顔色はひどく悪い。ジューンが次々と止血を行っていくが、体内の傷はかなり深いようだ。閉じた瞼がどんどん白くなっていく。 「外傷への応急措置を…気休めですが。ペッシさん、羽を外すことは可能ですか。必ず後で回収してお返しします。貴方が望まなければ外しません」 それでも意識はあるのだろう、ペッシは微かに首を頷かせた。頷いたジューンがペッシの背中を確認する。金属の太い帯が体をぐるりと回っている。ぴったりしたスーツのようなものが肌を覆っていて、その上から金属の装置が着けられているように見えたが、翼の付け根部分はスーツではなく体に空いた金属の穴に突き刺さっているようだ。 「構造確認、神経組織と類似の回路による飛行装置、生体部との接続は特殊培養組織による構造体。損傷交換のための離脱部分確認、システム破損により離脱不可能。構造部は破損により一部溶解も切断可能、現状保存による生体組織損傷率上昇中。治療システム優先コードWO2に該当、強制切除します」 「あぐっ!」 ガギッ、ととても人体から出るとは思えない音を響かせてペッシの背中から金属の羽根が引き抜かれた。跳ね上がったペッシが一瞬息を詰まらせて意識を失うが、てきぱきとしたジューンの処置に次第に呼吸が落ち着いてくる。 「はーイ。そこまデ」 既に両掌をリボン化しかけていたアクアーリオには、ワイテが話しかけていた。覗き込みながら、 「アクアー君の身体、リボン化なら念力で止めれないかナ」 なおも解けて行こうとする手首を掴んでじっと念を凝らす。もし、意志の力でリボン化していくものならば、救助の手が届いたというこの状況はアクアーリオを力づけたはず、加えて自分の念力で内側へと集約させていくように働きかければ、少しでも補修できるのではないか、そう考えたのだ。 「うン、引き寄せとかでモ」 「あ、ぼ、ぼく」 茫然としながらも、見覚えがある相手だけに一気に振り払えない、そういう顔でアクアーリオが瞬きするのに、ワイテはひょいと肩を竦めてみせる。 「まだ聞きたい事あるから死んだら困るんだよネー。ほら、アリエーテって誰?」 ま、純粋に二人を助けたいって人達ばかりだけどネ。 自分は興味本位だけど、そう言いたげな口調は、満更突き放してもいない。 「あ、アリエーテ? アリエーテはぼくらと同じで…赤ん坊で…っ」 遠くで激しい爆発音が響いた。別働隊がパパ・ビランチャを叩いている音、不安そうに空を見上げたアクアーリオが降りてきた優に気づいて息を呑んだ。 「リオ!」 「あっ…」 駆け寄る優に大きく見開いた青い瞳、涙と血で汚れ放題の顔に眩いほどの光を宿してよろよろと立ち上がる。抱きとめようと差し伸べた優の手を、逆に手首から先がリボン化した両手で抱えて、アクアーリオはすがるように座り込んだ。 「…ご、めんっ!」 「リオ」 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっっ!」 悲鳴のような謝罪が響く。 「ぼくのせいなんだぼくがころしたんだぼくがあの人もぼくがっっっ」 悲痛な叫びが優の胸を貫く。 「ぼくがしんじゃえばよかったんだぼくが…っ!」 「リオっ!」 たまらず優はアクアーリオを抱き締めた。腕の中で相手の体がぼろりと崩れていきそうで寒気が走り上がる。こんな体を抱えて逃げようとしたペッシの恐怖と不安が胸を詰まらせる。 「護るからっ!」 「っ!」 抱き締められたアクアーリオがびくりと仰け反った。この温かな体も、次の一瞬には腕の力で砕け散るかも知れない、それでもその恐怖に耐えてなお強く抱いて、震える声を保つ。 「これ以上、力を使うな。俺達が必ず二人を護るから」 「でも、だって…だって…!」 「『あの人』は」 「っ」 ぎくりとアクアーリオが体を震わせて動きを止める。胸のあたりにじんわりとした温もりが、何だか濡れて広がっていくような感触がある。怪我をしていたのだろうか。それとも優には見えないが、今アクアーリオは掌だけではなく、全身リボン化を始めていて、解れていってしまっている中身が零れ落ち、優の体を濡らしているのだろうか。 今この手で優はアクアーリオを殺そうとしているのだろうか。 恐怖に歯の根が合わなくなる、脚が震えて立っていられなくなる。抱えたままへたり込む、だが、手に抱えた命を失う気など毛頭ない、届くものなら祈りよ届け、アクアーリオの胸の『胡蝶の石』に強く願いながらことばを続ける。 「『あの人』はリオの幸せを願っていた。『あの人』の事を想うのなら、『あの人』の事を忘れずに、これからの日々を生きてくれ」 脳裏に過る顔は笑っている、幸福そうに、嬉しそうに。妻とまだ見ぬ我が子のことを夢中になって語る穏やかな瞳、砕かれて跡形もなく消えてしまった、あの。 「生きてくれ、『あの人』の分まで」 他に何を願っただろう、失った多くの命に向かって、そして今も周囲に居る多くの友人達に、優はそれ以外の何を望んだだろう。 「明日を、生きてくれ」 見守っていたワイテは気づく、アクアーリオの手が元に戻りつつある。小さな掌が形を取り戻し、細い指先が空中に編み上がって作られていく。 「ぼくも……?」 「ああ、そうだよ」 震える手がすがりついてきて、優はようやく体を離す。アクアーリオの胸は解けていない。手も元に戻っている。その代わり、新たに流れたたくさんの涙が汚れた頬を次々と洗う。その中に、自分の涙も混じっているとふいに気づいた。 「ぼくも……生きていいの…?」 「うん。そして」 リーラに今度はちゃんと会いに行こう。 「お…ねぃ…ちゃん……に……?」 呟かれた声は痛いほどに幼く、それでも必死の希望に満ちて。 「おねぃちゃんに…会える…?」 「じゃあ、行こうゼ」 「あっ」 さっきからずっと上空を感知していたジャックはアクアーリオを片腕で抱えた。 「あっちもかなり派手なことになってる。こっちがぐずぐずしてると足手まといになる」 「大丈夫かい?」 「コイツを抱えたまま動けるのは俺サマだけだろォが」 肩越しに笑ったジャックが、再びペッシを背負ったジューン、優をPKで浮かばせる。不安げにこちらを見やってくるペッシににやりと笑って、精神感応とことばで話しかける。 (残念だったなァ、羽根付き坊主? 『あいつ』がテメェを探しにナラゴニアに行ったのに行き違いなンてヨ?) 「…ほんと…か」 ペッシが驚いたように瞬きして、蒼白な頬に薄く血の色が戻った。 「ま、生きてりゃ会えるだろ…女にそこまで想われてンだ、石に齧りついても死ぬンじゃねェゾ」 こくり、とペッシが頷く。抱えられて震えるアクアーリオにも笑みかけた。 (姉貴が陰陽街で待ってンだろ、お嬢チャン? ここで死ンでる暇なンぞねェだろ) 「テメェを助けたい奴ァ一人じゃねェンだヨ…人を信じて素直に助けられろ、テメェは。死ぬ覚悟があるなら岩齧りついても生きる覚悟も持ちやがれ!」 「…うん…わかった」 戻った指先で、アクアーリオは自らぎゅっとジャックの服にしがみついた。 目的はただ一つ。 アクアーリオとペッシを無事ターミナルに生還させること。 「…来やがったゼ」 樹海に浮かび上がった六人の進路を遮るように、なおも続く黒い霧と別働隊の戦闘空域が広がり、じわじわと押し寄せてくる。いつの間に呼び寄せられたのか、まるで砂糖に群がる蟻のように十数人の旅団員らしき連中が黒い霧の周囲を飛び交い、中の数人が気づいてこちらに向かってくるようだ。 「樹海の低空を掠める、ついて来いよ、ワイテ」 ジャックは追手を回避し、戦闘空域を迂回して飛ぼうとする。重傷のペッシ、不安定なアクアーリオを連れてでは、パパ・ビランチャと正面切ってやりあえるはずもない。 「いいけど、方向はそっちじゃないヨ」 ばらっと広げた大アルカナを読み解いて、ワイテが首を振った。 「審判の逆位置、恋人の逆位置」 「アン?」 「烏合の集団、保身に走るけド、心変わりも早いってコト」 だから突っ込むのは、こちらに向かってくるあいつらの方だヨ。 ワイテはジューンの周囲にカードの壁を配置する。優と自分の周囲にも数枚のカードを浮かせる。 「霧相手じゃカード投擲の物理攻撃効果ないっぽいけド、あっちには効くよネー」 「避ければ、パパ・ビランチャに追い込まれる」 両手を広げ、大きく息を吐き、再び吸い込んでトラベルギアを構える優の目には、もう涙はない。美しく輝く刃が次々と防御壁を生み出し始める。 「連れて帰る、運命を覆しても!」 こちらに向かってくる数人は手に手に剣を掲げている。古めかしい装束、背中に羽がある。 「うおおおっ!」 近くまで来ると急に速度を上げて突っ込んでくる、隙がなく、統制の取れた動き、だが、それよりも優の放つ防御壁の動きが速い。 「ぐわっ!」「があっ!」 樹海を低空高速で進むジャックとジューンの頭上、優の防御壁が次々と敵を弾く。跳ね飛ばされてもすぐに舞い戻る敵、ワイテはその舞い戻った瞬間の緩みをついて、巧みにカードを飛ばす。狙うのは剣や体ではない、背中で羽ばたく羽根だ。カードは小さく薄く素早い。剣に向かうには頼りなく見えるが、背中に数枚回られて次々飛び交わされて切り裂かれると、羽根はまず無事で済まない。 「ぎゃああっ!」「げひいっ!」 飛行手段を失って仲間にしがみつき、絡まれて斬りつけあい、絶叫して樹海へ落ちる。 もちろん、アクアーリオを抱えて超低空の飛行を続けるジャックも大人しくしてはいない。優やジューンの位置が危ないと思えばPKで支えたまま連続転移、たまたま突っ込んできた相手にはゲイル、ライトニングを駆使して叩き落とす。 だがしかし、じわりじわりと黒い霧が広がる戦闘空域へ引き込まれていく。攻撃をしかけてくる配下にどういう支配を授けているのか、突撃してくる攻撃をどれほど跳ね飛ばし、弾き飛ばし、叩き落としていても、広範囲に漂い広がった黒い霧の一端へじりじりと引き寄せられていく。 「クソッタレ! 相沢、テメェの防御も乗せろッ! 合わせろジューン…ここで押し切るッ! レールガンッ!」 ジャックの叫びに空を電撃が走る。ジューンがピンクの瞳を煌めかせた。背負ったペッシを防御しつつ電磁波を放って攻撃を倍加する、が。 「霧の移動速度20.57秒上昇、修正可能範囲越えます」 霧は緩やかにそれをかわし、一方で別働隊と激しく戦闘を繰り広げながらもジューンとジャックに汚れた闇の手を伸ばしてくる。転移、転移、なお転移、しかしまだ霧が立ち塞がる。 本当にこれは、あの人の形をとっていたもの、なのか。 「先に行って下さい!」 優は身を翻した。ほんの僅かな時間を稼げば、もう少しジャックが転移を重ねられる。肩で息をしている自分がいる、だがここでは退けない、何があっても。 「リオを頼みます!」 「チィッ!」 (ふざけんなッ、テメエ!) 高い舌打ち、返ってきた罵倒、それでもジャックは戦闘を知っている、霧の前に残る優を振り返らず、ターミナルへ飛ぶ。 「霧と言うことは細かく見れば軽い物質の集合だよネ。あっしに動かせないかナ」 一人でも、と意気込んだ優の隣に気配が現れた。 「ワイテさん!」 「戦闘員じゃないんだけどナー」 溜め息まじりの呟きとは裏腹に、押し寄せてきた霧にワイテは全力で念を凝らす。散らばろうとする力、それに拮抗し、力を打ち消して、元の人型に戻そうと試みる。そして気づく。 「あ、なーんダ、リボンと同じなんダー!」 黒い霧は本体ではなく、中心にある何かから弾かれるように広がっている。リボンも同じ、リボンを元に戻そうと働きかけるのではなく、中心に力を加えればいい。 「中心はそっちカ!」 力が結びあわされている部分がある、その部分にワイテの念が衝撃を加える。 「止まった!」 霧の拡大が止まった瞬間、優はたて続けに防御壁を放った。攻撃を弾き返す激しいものではなく、何層にも何層にも重ね、霧の一粒一粒を呑み込むように、防御壁で広がる霧を侵食していく。 「む、んっっ!」 最後に放った防御壁は巨大な波を思わせた。動いた直後の空間に真空を生み出すような重さのある防御壁、それが霧を呑み込んで封じた防御壁を激しい光とともに巻き込み砕き崩壊させながら、全てを押し流していく。逆巻く波によって全てが洗い流されるような防御壁、光波壁とでも言おうか。 巨大な霧の一画が欠けた。予想外のことだったのだろう、うろたえたように霧は彼方へ引いていく。 「そういうことだったのカ」 ワイテは急いでトラベラーズノートで別働隊に連絡を送る。 「霧は目くらましだったんダ。本体は別にあル」 いつかの夜、後ろの壁に吸い込まれるように消えたのは、体を縮めて霧化して飛ばしたのかと思っていた。けれど、それこそが手品の翻る指先のようなもの、本体は実は消えもせず、ただそこに居たのかも知れない、ただ『見えなくなっただけ』で。 樹海の上を黒々と覆っていた霧は見る見る範囲を狭めつつあった。攻撃は止まない、むしろ、最高の山場は今からだと言いたげに雷撃が轟き、炎が広がり、無数の氷の粒が空域を飛び回る。 そして今、樹海に現れたマグマの海に一塊の影が落ちていき、続いて巨大な雪豹が地面に降り、煌めく光が突き刺さるのが見えた。 「どう、なったんだろう」 不安に体を竦め、息を呑んで優は待つ。ひょっとして、まだもう一度、戦わなくてはならないかも知れない。今度はもう、凌げないかも知れない。 「大丈夫じゃないかナー」 ワイテがカードを一枚開いた。 「世界の正位置ダ」 それはどういう意味だと尋ねようとした矢先、ワイテがトラベラーズノートに現れた文字を掲げた。 『パパ・ビランチャ撃破』 そこに重なるように新たな文字が浮かび上がっていく。 『ターミナル到着。二人とも無事だ、さっさと帰って来い!』 一瞬唇を噛み、両手のこぶしを握りしめて天を仰ぎ。 「……やったぞおおおおお!」 優は声高く、晴れた空に吠えた。
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