強い匂いが満ちている。それは生臭さであり、肉が腐る時の匂いだ。 誰かが言っていた。肉は腐る直前が一番美味いのだと。腐ってしまえば腹を壊すが、その直前であれば美味を味わうことができるという。 その境界線とは何なのだろうか。 冷泉律は高い視点からフロアを見渡しながら、ぼんやりと思考していた。 そこは薄暗い食肉工場である。照明は落とされ、無機質に並んだステンレスの作業台が次の肉が置かれるのをただ静かに待っている。 作業を待つ豚の枝肉の中に彼は居た。痛めつけられ縛られ、同じように吊るされて。 なぜ、勘付かれたのだろうか。 律は痛む身体の悲鳴を聞きながら、思い起こす。 手下に捕まった振りをして潜入する、まではうまくやっていたはずなのに……。「私はね、臆病者なんです。それもとびっきりのね」 その男は淡々と言った。鉄扇の柄で律の腹に強烈な一撃を食らわせた後、表情ひとつ変えずに。「だから分かるんですよ、勘ですがね。──貴方の目は輝きが強すぎる。何か意図があって故意に我々に近づいたと、その目が語っていますよ」 金色に染めた長髪を一つに結んで背中に流している。細身だが、律にも悟らせない早業を見せた。高い身体能力も合わせ持っているのは明らかだ。 彼はダーヨウと名乗った。その名は犯罪組織フォドウ(禍斗)の知恵袋と呼ばれた男のものだ。 誘拐された振りをして、アジトとおぼしき食肉工場に潜り込んでから2日目のことだった。律は誘拐されてきた他の人々から引き離され、幹部らしき男のいる部屋に連れ込まれた。 小さなモニターの並んだ事務室の机には、鉄扇でひらひらと自らを煽ぎながら、ダーヨウが腰かけていた。 そしてすぐに──悟られた。「くっ」 とっさに飛び退いて逃げ出そうとする律。しかし先手を取った男がいた。大きなバンダナを頭に巻いた若い男で、律をこの部屋に連れてきた者だった。 彼はベルトに挟んだ肉切り包丁を二本引き抜いた。そのまま、シャランと刃を合わせて律の背中にまっすぐ斬り込む。 身をよじり斬撃を避ける律。 が、その死角から手が伸びてきて、彼のシャツを掴み床へと叩き落とした。この部屋には2人しか居ないように見えたのに、それは第三の人物によるものだった。振り返ろうとした律の鼻先をかすめる包丁。 一瞬、動きを止めた彼の右膝に鋭い痛みが走った。 ハッと見れば、膝の付け根に10センチほどの鉄針が突き刺さっていた。「もう動けませんよ、観念なさい」 針を放ったのはダーヨウだ。「さて、お名前を伺いましょうか。私は先ほど名乗りましたよね」「……」 律は返す言葉が出ず、そのまま床へと倒れ伏した。点穴を突かれたのか右膝が全く動かせないのだ。「助かりましたよ、フォン先生」「いえ」 倒れた律の背後で、第三の人物とダーヨウが言葉を交わしている。「さて、貴方はどう見ます?」「仲間か友人を助けにきたのでは」「たったの一人で、ですか?」「まだ少年だ」「ハハハ、フォン先生。貴方は“虹連総會”を知らない。赤子ですら自らの秩序を守るための礎にするような連中ですよ。少年だからといって、甘く見てはならない」 言いながら、ダーヨウは横たわった律の腹を無造作に蹴った。「名前は?」 ぐっと堪えながら、律は斜に振り返った。彼は痛みと、さらに違う感情を表に出さぬように耐えていた。 第三の人物の顔を見てしまったからだ。 いつもと同じ、黒い長袍をまとった物静かな男。それは、律が武術の教えを乞うたことのある、あの男であった。 まさか。律は理由が分からず、ただ押し黙る。 なぜ、あなたがここにいるのですか? ──ツァイレン師。「ま、仕方ないですね」 蹴られても黙ったままの律に、ダーヨウは早々と見切りをつけた。自分はそれほど暇ではないのだと言わんばかりに、傍らの包丁男に声を掛ける。「ビン。彼と少しお喋りしてあげていただけますか?」 無言でうなづく包丁男。 むろん、その後に続いたのは、お喋りなどという生易しいものでは無かった。「まずいことになったな」 桐島怜生とヌマブチを前に、カジノオーナーは眉間に皺を寄せる。 名を、ジェンチンという。カジノ「ランパオロン」の主にしてランパン(藍幇)と呼ばれる犯罪組織のボスでもある。 つまりはマフィアであり、そして彼は探偵でもあった。「フォドゥの連中に勘付かれた、と見るべきだな」「律が本当に捕まったってのか?」「最悪の事態も想定すべき、か」 律が豚と共に吊るされた頃と同じくして、彼らは異常を察知していた。律からの定期連絡が途絶えたからだ。「しかしある意味、機が熟したと見るべきでありますかな」 ぽつりとヌマブチが言う。怜生は彼の横顔をちらりと見、言葉の意を察したようだった。彼にしては珍しく考え込むように口を閉ざす。 律がフォドゥに潜入したのは、連中に誘拐された者たちを助け出すためだった。 彼の連絡によると、その食肉工場に捕らわれている人々は女子供ばかり20人ほど。他にも数箇所、同じような拠点が存在することも分かっていた。放っておけば彼らは人身売買のマーケットで、様々な欲望のはけ口として売られてしまうだろう。もしくは豚のように解体されて、臓器諸々を売られてしまうか、だ。「むろん、俺たちも手を貸す」 ジェンチンは静かに言う。「誘拐された連中を殺されたり、人質に取られぬよう極秘に作戦を行う必要があるだろう。少人数で動く──つまりお前たちが先行部隊だ」 顔を見合わせ、うなづく怜生とヌマブチ。「俺の兵隊は食肉工場を包囲する。フォドゥの幹部を逃がさないためだ。戦況に応じてお前たちの後方支援も行う。それでどうだ」「問題ない」「だけどよ、おっさん。場所が分かんねえじゃんか? どこにある食肉工場なんだよ」 そこで怜生が口を開く。律は早い段階で目隠しされて輸送されていた。フォドゥが慎重に潜伏箇所を隠していたからだ。「大丈夫だ。場所は特定できている」 表情を変えずに、ジェンチン。「実のところ、お前たち以外に別の動きもあってな。俺の手の者もフォドゥに潜入してるのさ。そいつが食肉工場に到達した。場所は特定できた。──だが」と、彼は二人の目を見て念を押すように続ける。「そいつは別の目的をもって動いている。だから今回の作戦でお前たちに協力することは無い。もし、知り合いだったとしても敵だと思って全力で対処しろ。そうすることで、そいつの身も守ることができる」「ほう、つまりその者はロストナンバーということでありますな」 じろり、とジェンチンはヌマブチを見た。「その通りだ」「参考までに、その者の名と目的を教えてもらえますかな?」「……名前はツァイレンだ」 案外あっさりとジェンチンは秘密を明かす。「彼はフォドゥの首領、リィ=フォの潜伏場所を掴むために動いている」 事態は複雑だが、収束に向かっているのは確かだった。 そもそも、三人のロストナンバーが関わったのは、ガンヂェン(貫穿)という犯罪組織の壊滅作戦からだった。彼らは人身売買や臓器売買で荒稼ぎをし、勢力の拡大をはかっていた。 三人の働きによりガンヂェンはほぼ壊滅したが、同時にガンヂェンを支援する形で武装犯罪組織フォドゥが人々を誘拐し供給していたことが分かったのだ。 フォドゥは、このインヤンガイ・ホンサイ地区で最近大きな注目を浴びている存在だった。 注目の源は、彼らが地区最大のマフィア連合体──虹連総會に反旗を翻していることだ。 虹連総會は犯罪組織やマフィアのゆるやかな連合体であり、ジェンチンのランパンも籍を置いている。そして矛盾するかと思われがちだが、総會はこの地区の秩序を守っていた。それは確かなことで、警察もその存在を認めるほどだ。 しかしここ最近、総會に反旗を翻す者たちが目立つようになってきた。 彼らは破壊活動を行い、あらゆる犯罪における需要と供給のバランスを崩した。彼らは平たく言えば、虹連総會の支配下において日の目を見ることができない連中であった。 その中心的立場に躍り出たのがフォドゥだったのだ。 彼らは、そもそもジェンチンたち虹連総會メンバーの汚れ仕事を金で請け負う武装集団だった。しかし首領のリィ=フォが勢力の拡大をはかり、自らの領分を主張し始めたのだ。 総會の首脳陣は、制裁として警察を使い彼を監獄に収監させた。が、そのことが事態をさらに悪化させた。リィ=フォは反総會運動の主役として祭り上げられ、フォドゥに同調する者たちを次々に生み出したのだ。 先だっての、地下鉄爆弾テロ未遂事件も然り。とうとうリィ=フォは警察内部にまで浸透した反総會の流れに乗り、輸送中の事故を装ってまんまと脱獄に成功した。 そして現在に至るわけだ。 フォドゥは息を吹き返し、リィ=フォは何処かに潜伏している。幹部たちは巧妙に身を隠しながら、様々な破壊活動と自らに利をもたらす犯罪行為に明け暮れた。 今や、頭を潰さねばこの荒ぶる大蛇を殺せない。皆がそう──思っていた。「おい」 意識を失っていたのだろう。律は顎を小突かれて目を覚ました。 両手を縛られ吊るされた彼の目前に、肉切り包丁を手にしたビンが立っている。バンダナで眉まで隠した彼は暗い光を放つ目で律をじっと捉えていた。「お前が誰の手引きで来たとか、何をしに来たのかもどうでもいい。殴ったことを詫びてもいい。ただ一つ聞きたいことがある」 シンと静まり返った肉工場には彼ら以外に誰も居ない。 何を言い出すのかと、律は男をただ見下ろした。「お前の持っていたあの本。あれと同じものを持ったやつに会ったことがある。お前は違う世界から来たんだろう? 電車に乗って」 律は意外そうに目を瞬いた。ビンが言っているのはトラベラーズノートのことだ。彼はたまたまロストナンバーに関わったことがあったのだろう。 しかし、律はただ押し黙ったままだ。「ダーヨウはすごく頭のいいやつだし信頼している。だがおれたちが相手にする存在はあまりデカすぎる。頭の良くないおれにでも分かる。いくらダーヨウでも勝ち目は薄いだろう」 声を潜め、辺りを見回してからビン。「おれたちのボス、リィはいいやつだ。おれはあいつに命を何度も救われた。あいつのためだったら死んでもいい。なあ、リィを電車に乗せてやってくれないか」 その提案に、さすがの律も目を見開いた。 ロストレイルにインヤンガイの人間を乗せる? そんなことできるはずがない。そうは思ったが彼は口を開かなかった。「あいつだけでいい。乗せてくれるなら、お前を解放してやってもいい。無論、お前はこの世界に残り、代わりにリィが電車に乗るってことだぞ。あいつが電車に乗ったことを確認できたら、お前を開放してやる。どうだ? 悪い取引じゃないだろ」 おれは必ず約束は守る。と、ピンは秘密の提案を締めくくった。 応えようとして、身体の痛みにうめく律。彼は痛がっているフリをして、どれだけ自分の身体の自由が利くのか確かめた。右膝は──ダーヨウに鉄針を穿たれた膝は、どうにか動かせるようになっていた。しばらく時間を掛ければ点穴が解けるというわけか。「まず、ここから降ろしてくれ」「駄目だ。返事を聞いてからだ」 まあ、そうだろうな。律は長く息を吐いてから最後に言ったのだった。 ──すぐに決められない。考えさせてくれ、と。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>桐島 怜生(cpyt4647)冷泉 律(cczu5385)ヌマブチ(cwem1401)=========
桐島怜生は路傍に腰掛け、チョコレートバーをかじっていた。ボリッ、ボリッ。アーモンドが口の中で粉々になっていくのをゆっくりと意識する。 彼の頭の中では先程まで様々な情報が飛び交っていたが、今では嘘のように治まっていた。 怜生は、ただ待っていた。 焦りで仕損じることが無いように。落ち着き払って時が来るのを待つ。 やがて、背後に現れる影。ヌマブチだ。 「頼んだものが全て揃った。始めよう」 ああ、と怜生は答えた。 ヌマブチは小さな違和感を味わっていた。 怜生、そしてランパンのボスであるジェンチンと作戦の確認をしていた時だ。三人はタブレット端末を覗き込み、短い言葉を交わした。 ヌマブチはいつもと何も変わらなかった。やるべき任務があり、それをより良い方法でこなすだけだ。 「腕のいい電脳技師を雇ってある。これを見ろ」 ジェンチンは二人に食肉工場の地図を見せ、一点を指さした。 「地下室の奥にデカい爆弾があるようだ。そこから女子供を離れさせろ」 それなら、と怜生が代換案を出し、ジェンチンは納得した。 「お前たちに任せる。連絡は適時よこせ」 彼はそう言って煙草を取り出すと火を付けた。 おや? とヌマブチは思ったのだ。彼は煙草を吸うのだったか──? だが、それが何だというのだ? 軍人は思考を元に戻した。 * 「これでいいか?」 食肉と一緒に吊された冷泉律は軽く首をひねってみせた。目前にはフォドウ幹部のビンがいて、ぺこりと頭を下げてくれる。 彼が謝ると言うので、ひとまず頭を下げさせてみたのだが、どうもしっくりこない。 時間稼ぎもここまでか。律は思考を切り替えた。 「電車に乗る方法を教えてもいい」 「本当か?」 「だが確認させてくれ」 律は冷静そのものだった。時間を掛ければ、怜生が必ず助けにくると信じていたからだ。 「本当にリィ=フォを逃がしていいのか。そうなれば虹連総會はお前たち一族朗党皆殺しにするだろう。頭が消えればフォドゥは総會に対抗しきれない。違うか?」 彼は話のすり替えを狙う。「それなら総會へ幹部全員を差し出してリィ=フォを見逃すように嘆願したらどうだ?」 「お前はわかってない」 だがビンがついたのは大きな溜め息だ。 「すでに来るとこまで来てる。この先どっちに転ぼうが俺らは皆殺しだ。だが、フォドウは無くならない」 語気を強め、「最後の一人になっても必ず未来へ残るだろう。それに、リィの作戦が成功すれば、無くなるのは奴らの方だ」 「無くなる?」 「リィは一緒にいる連中と死ぬ気だ」 一緒にいる……? まさか。思った言葉が口を突いて出る。 「奴も人質を!?」 「?」 ビンは不思議そうな顔をした。それは律の問いを肯定するものだ。 なんてことだ! 人質はここにいるだけではないのだ。律は強く目をつむった。新たに判明した事態に動揺しまいと息を整える。 「分かった。なら乗車権利を譲る代わりに、そっちの人質も解放しろ」 「おれは構わんがな」 下唇を舐め、ビン。 彼は何気なく傍らに置いてあったノートを手にとった。律のトラベラーズノートである。と、律はその変化に気付いた。 「着信だ。仲間からメッセージが入った」 そう言われ、ビンはぱらぱらとノートを開いて中身を確認した。 あるページに文字が浮かんでいる。むろん彼には読めない異世界の文字だ。 「何て書いてあるんだ」 「仲間が、この工場に潜入したそうだ。豚の搬入口からな」 どうする? と吊されたままの律は問うように相手を見た。 * 「なら、貴方が見に行ってきて下さい。それからその少年は用済みです。すぐに殺しなさい」 と、いう命令をビンはダーヨウから受けた。しかし彼は敵を確認しには動かず、代わりに手下に行かせた。 もう一つの命令も実行しないと律は踏んだ。なぜなら、ビンは彼なりの計画を立て、律を組み込んだからだ。 「いいか、リィの居場所はここから遠い。抜け出してもすぐには無理だ。まず電話でおれが話す」 ビンは首領に連絡を取るという。 同じ頃、フォドゥの手下数人が、豚の搬入口に駆けつけた。 しかし侵入者の姿など全く見えず、隠れる場所のないホールの空洞には鼠がチョロチョロ行き交うばかりだ。 「やっぱりガセ情報か?」 報告をしようと一人が腕の交信機のボタンに触れた。その時。 誰も居ないはずの空間で、大きな爆発が起こった。 ──始まったか。 ヌマブチと怜生は別々の場所で、その爆発音を聞いていた。 彼は別の搬入口から工場内に侵入していた。懐には特殊な液体の入った小さな袋をいくつも忍ばせている。 特定の動物を引き寄せるフェロモン剤である。これを使って爆発物を身につけた動き回る“生きた爆弾”を操作すること。それが彼の作戦の根幹だった。 生きた爆弾。それは彼の放った大量の鼠たちだ。 今の爆発による陽動と、ジェンチンの電脳技師のおかげで彼らの姿は防犯カメラには映らないはずだった。それを信用するほかなく、ヌマブチは一つしかない地下室の階段へと進む。 ひたりと壁に張り付いて様子を伺えば、階下に気配を感じる。見張りが数人か。 軍人は躊躇しない。包装物の束を掴んで戻ると、それを階下へ放ってみせる。 「誰だ?」 一人が顔を見せた瞬間、ヌマブチは銃の引き金を引き、跳んだ。 悲鳴を上げる間もなく男が頭を撃ち抜かれる。その身体をブーツで踏み台にし、彼は脇へとステップを踏んだ。 耳元をかすめた銃弾で相手の位置を知れば、狙いもつけずにそちらへ弾をばらまいた。 壁の陰に身を隠し息をつくヌマブチ。あとは残り一人のようだ。彼は相手に体勢を整わせる間を与えず、動く頭に狙いをつける。 タンッ。短い銃声ののち、場が静かになった。ヌマブチは慎重に死体の数を数えた。 と、その時だ。 背後に風を感じ、反射的にヌマブチは前へと跳んだ。頭上の何かをやり過ごし、床で回転してから背後を振り返る。 そして黒い影に銃剣を突き出し、ようやくヌマブチは相手の正体を知った。 ツァイレンである。 黒い長袍の裾をパンッと払い、構えをとる。 嗅ぎつけられたか。ヌマブチは冷たい目で相手を見返した。しかし相手が誰であろうと彼は遠慮などしない。 ヌマブチがサッと懐に手をやると、突如、辺りが暗闇に包まれた。 時は数分遡る。 あの最初の爆発が起きた直後だ。怜生は外からある一室へと向かっていた。地図は頭にたたき込んである。 回り込んだその部屋には窓があった。見張りも居ない。 それを見た瞬間、彼は次の行動を決めた。 ガシャアァン! 大きな音を立てて窓を割り、彼は室内へと身体を躍らせた。 中にはむき出しの太いパイプと埃だらけの管があるだけだ。埃でむせまいと口を袖で覆い、怜生は目指すものを探す。 しかし、ぐるりと室内を見回して数秒。彼はボリボリと頭を掻く。壱番世界とテクノロジーが違い過ぎるのである。 「ちっとも分からねえや」 あっさり諦めた彼は、足を開き息を整えた。一瞬である。充分な氣を蓄積した彼は、それを室内のあらゆる機器に向かって容赦なく放った。 ヒュウゥゥン……。数回の爆発音の後、照明と動力が落ちる。彼のいる場所も暗闇に包まれた。 これでエレベーターや監視カメラが動かなくなったはずだ。地下に仕掛けられたという爆弾も遠隔操作を封じたはずである。 「寿限無、行くぞ」 暗闇の中でオウルフォームとなった自らのセクタンを呼びよせ、怜生は音もさせずそこを後にした。 * 「いや、だから……」 律の前をうろうろしながら、ビンは話をしている。リィ=フォを説得しているのだ。 片目を閉じ、律はその会話を聞いている。 彼らにとっては異世界は理想郷と同じ響きを持つのだろう。彼らはインヤンガイで迫害され、マイノリティで有り続けたのだから。 しかし壱番世界にも同様の差別はいくらでもある。新天地を求めればいいという話でもないのだ。彼らがこの世界で穏便に生きていく道も残されているはずである。 そんなことを思っていると、ふいにビンが律を見る。 「おい。リィがお前と話をしたいとさ」 渋々と彼は律の耳に電話を近付けた。リィ=フォと直接話せというのだ。 「よう。口を割らないとは大したモンだな」 初めて話すリィ=フォはあっけらかんとした口調だ。「お前、どうせジェンチンか白聖母の手先だろ?」 「……」 「そのノートとやらで、連中に伝えな。俺らに朱川港を寄越すか、息子や娘の命を諦めるか二つに一つだ。フォドゥは妥協しない。以上だ。切るぞ」 「待て!」 思わず律は声を上げる。 「なぜ自滅を選ぶんだ、総會と戦わない道だって──」 フッと電話の向こうの男が笑った。 「無理だよ坊や。俺らは何千年もこうしてきた。禍斗の血を繋ぐためにな」 「死体を積んでか?」 「そうだよ。いつか積まなくてもすむ日がくる」 「リィ!」 話を聞いていたビンが割り込む。 「何でだ、あんたが死ぬ必要ねえはずだろ!」 バツッ。 その時だ。照明が一斉に落ち、室内が暗闇に包まれた。 停電が起こったのだ。 律は予想していた事態に気を引き締めた。刹那、彼は腹筋で両足を跳ね上げ、頭上の鎖に足を絡めて身体を丸めた。 尻ポケットのパスホルダーに手を触れた時、閉じていた片目を見開く。律は痛みに耐える振りをして目を暗闇に慣らせておいたのだ。 驚き、数歩後退したビンが見える。 律は素早くトラベルギアの棍を取り出し、鎖を断ち切った。 そして背を伸ばし律が着地したのは、ビンのすぐ背後だった。彼は振り返りざまに腕の鎖を取り去ると、小刀を出した棍で相手の足首を薙いだ。 「くそッ」 前のめりに倒れるビン。今ので足の腱を切ったはずだ。しかし圧倒的優位に立ちながら、律は追い討ちをかけなかった。すぐに踵を返して走り出す。 彼にとっては、敵よりも大事なことがあるのだ。 停電になった瞬間、ヌマブチは暗視ゴーグルを装着して階段を駆け上った。 ツァイレンが追ってくるのを察し、ヌマブチは銃剣を握り締める。相手の目が暗闇に慣れる前にやるのだ。 彼は階段の最後で振り返り、武器を横に薙ぎ払った。確実に当てるためだ。 ザクッ。手応え有り、だ。 さらにヌマブチは懐から取り出したものをツァイレンめがけて投げつけた。動きの素早い相手だが、液体の入った袋の一つが当たって弾ける。 「だが充分だ!」 最後の虎の子を取り出し投げつけると、ヌマブチは後ろを顧みず全速力で走った。投げつけたのは鼠数匹だ。外したとしても彼らは自ら目標に取り付くはずだ。 ──ドォンッ!! 背後で起こった爆発が風を起こし軍人の身体を数メートル吹き飛ばす。 * 「敵襲だ! 手先が逃げるぞ!」 ビンが上げた大声を聞き、手下たちが律の前方から現れた。非常用のランタンを揺らし、明かりと共に集まってくる。 はッ! 気合いと共に一気に間合いを詰め、棍を振るう律。銃を向けられる前に男達を跳ね飛ばし、正面の者には膝蹴りを見舞う。 着地したところに刀を振り下ろされれば、さっと身を翻し、持ち手側で相手の胸を突く。 そこで背後の気配に振り返る。ガキッ。構えた棍が肉切り包丁を受け止めた。 追ってきたビンである。 「逃がさねえぞ!」 よろめきながら吼えるビン。腱を切られたというのに、それでも常人以上の動きだ。背後からも襲いかかられ、律は棍を薙刀に変え氣の刃で薙ぎ払う。 「一つ教えろ」 と、ビン。「リィが電車に乗れる可能性はあったのか? あれは嘘か」 返答に詰まる律。が、その虚を突かれた。ビンが滑り込んでくるのに手元が遅れる。 懐に入られた! 肝を冷やす律。 切られると思った瞬間、包丁がガクンと手前で止まった。 「律!」 懐かしい声と共に彼は気付いた。ビンの腕を鎖で絡め取っている少年の姿に。 駆けつけた怜生は鎖を引き寄せ、ビンのバランスを崩す。しかしその無茶な体勢で、ビンはもう片方の包丁を翻した。 怜生の首筋に滑り込んでくる包丁。 パァン! 素早く放った怜生の右拳が、包丁の腹を打ち大きな音を立てた。勢いに床に投げ出されるビン。当然、怜生は相手に起き上がる隙を与えない。 間髪入れず相手の肘を踏みつけ、もう一度、彼は親友の名を呼んだ。 ひょいと身体を脇にずらせば、そこには棍を構え宙を舞う律の姿がある。 ビンは目を大きく見開いた。 ゴヅッ。鈍い音をさせて、律の棍がその鳩尾を打った。身体をくの字に折り、意識を失うピン。 「よっしゃ、確保!」 そこでようやく怜生は笑った。ふと淡い明かりが点灯し、その不敵な笑みを照らした。非常用電源の類が灯ったのだ。 その顔を見、律もようやく微笑む。 「じゃ、さくっと片付けっか」 指をポキポキと鳴らし、怜生は残った手下たちをぐるりと睨んだ。 * 冷蔵庫の鍵を銃床で壊し、ヌマブチは重いドアを開いた。中は暗闇だが、多くの人の気配がする。 攫われてきた女子供たちだ。 「助けにきたでありますよ」 皆が息を殺しているのを察してヌマブチ。彼らが足を鎖でつながれているのが分かる。 ヌマブチは手際よく鎖を断ち切って、彼らを解放していった。皆、恐怖に怯えているが、一人が震える声で言う。 「そっちに女の子がもう一人いるわ」 指差す先には冷蔵庫があり扉は開かなかった。鍵を壊せるタイプでもない。覗き窓から中を覗くと、青いワンピース姿の少女が膝を抱えて座っていた。 仕方ない、後回しだ。行くぞと声を掛けヌマブチは彼らを室外へと連れ出した。 廊下にはもう電灯が付いている。逃げるには問題ないはずだ。 軍人は一人の少年を選び、皆を連れて脱出するようルートを指示した。少年は頷き、人々を連れて走り去っていく。 その背中を見ながら、一息ついたヌマブチはジェンチンに連絡を取った。 さて、次はあの少女を──。と、振り向いた時。 シャッと風を切る音と共に、彼は自らの右肘に突き刺さった鉄針に気付く。 「ははあ、こんなところに鼠が」 声だけが背後から聞こえた。 この技──フォドゥ幹部、ダーヨウか。 ヌマブチは自らが隠れる物陰を探すが、何も無い廊下である。右腕も動かせない。諦めた彼は、ゆっくりと壁を背に寄りかかる。 「鼠はなかなか優秀な生き物でありますよ」 「ほう、例えば人語を操るとか?」 「その通り」 それに、とヌマブチ。気配を探りながら、「自身を省みず、何倍も大きな敵に襲いかかることもある」 「身体が動けば、ね」 ザクッ。さらに鉄針が飛んできてヌマブチの膝下に突き刺さる。 「手ぶらはマズいのでね。死んでもらいますよ」 しかし軍人はニヤと笑った。民族服にジーパンの男が姿を見せたからだ。無骨な鉄扇を手にゆっくりと近づいてくる。 「さて──」 彼が何か言いかけた時、遠くで爆発音が響き、建物が揺れた。目を見開いたダーヨウが顔を上げれば、もう一つ、二つ。工場のどこかで爆弾が炸裂する轟音が届く。 「ここも崩れそうでありますな」 「いやそれは無いでしょう」 それでも余裕を取り戻し、即座に否定するダーヨウ。 「貴方は自分の近くに爆弾を仕掛けたりしない。いや、“走って来ないように”しますよね」 こいつ、とヌマブチは目を細める。鼠爆弾のことを察している──。 「つまりはここが一番安全、というわけです」 ドガッ。いきなりヌマブチの頬を強烈な一撃が見舞った。ダーヨウが動けない彼の顔を鉄扇で殴ったのだ。無言でもう反対側からも軍人を殴る。 しばらく殴り続けた後、満足したようにダーヨウは鉄扇を開いた。縁の刃で彼の喉を掻き切るつもりなのだ。 鼻血を拭くことすら出来ないというのに、突然ヌマブチはくっくっと笑い出した。 何がおかしい! とダーヨウが声を荒げる。 「ここが一番安全? 笑わせる」 言いながらヌマブチは自らの襟を引いた。ぽとりと床に落ちた何かを相手に向かって蹴る。 それは鼠だった。 「な──!」 驚くダーヨウ。しかしもう遅い。 手が動かなくても襟を引く程度は出来る。落ちた鼠を蹴ることは出来る。ヌマブチはそれを実行したのだ。 二人の間で、まばゆい閃光が炸裂した。 * 「危ねぇ、危ねぇ」 怜生は抱え上げた軍人の身体をゆっくり下ろす。爆発の時、咄嗟に割り入ってヌマブチを助け出したのだ。氣を放出しながら飛び込んだおかげで傷は少なく済んだが、それでも裂傷は避けられない。 頬を拭えば、ぱっくり裂けた傷の血が付着する。 「俺、今回こんな役ばっかりだな」 「大丈夫か!?」 そこへ律が駆け寄ってくる。ヌマブチが生きていることを確認し、ほっと胸をなでおろす。 奴は? と怜生が問うと、律は階段を見た。赤い影が下へ姿を消すところだった。ダーヨウだ。 「そうだ!」 ふと思い出す怜生。「奥には抜け道と爆弾が──」 律が反応し、怜生は気を失ったヌマブチを脇に寝かせ、親友の後を追う。 二人は階段を駆け下りようとして、足を止めた。階下に黒い影が立っていたからだ。 ボロボロの長袍に、手足の応急処置が痛々しい。満身創痍のツァイレンである。その背後をよろめきながらダーヨウが歩いていくのが見える。 ツァイレンは無言で構えをとった。 「俺が行く」 時間が無い、とばかりに怜生が間合いを一気に詰めた。 グンッと伸ばした蹴りで足払いを掛ければ、相手は脇に退いて攻撃を避けようとする。 が、怜生は蹴りを放たなかった。 パパンッ! ツァイレンの目前で氣を打ち大きな音をさせたのだ。 いわゆる猫だましである。 目を瞬き、ペースを崩されたツァイレンが必要以上に跳び退いた。 そこを疾風のように駆け抜ける律。阻止しようと武道家が身体を向けると、怜生がその右腕を掴む。振り向き手を外そうとするツァイレン。怜生の顔面に拳を突き出せば、彼は器用にその下をくぐる。 「あんたとは本気でやりあえたらって思ってたんだ」 返答は微かな笑みと、鋭い膝蹴りだ。ガツッ、と手甲でガードする怜生。 ツァイレンが奥に視線をやるのを見、彼は氣弾を放って牽制した。相手が避けて動けば、レスリングの要領でタックルをかける。 肘撃ちを返すツァイレン。しかし怜生は執着せずにパッと身を翻し、また逃げる。武道家の技は空を切るだけだ。 ツァイレンは嫌そうな顔をした。本気でやるんじゃないのかよ、とその顔に書いてある。 ペロッと舌を出す怜生。彼はそんなことには構わない。相手を足止めすればいいと分かっていたからだ。 見れば、律がダーヨウに追いついていた。 鉄針を棍で弾き飛ばし、背中を突く。必死の形相で振り向いたダーヨウは鉄扇を投げつけ、抜け道だという奥の扉を蹴破った。 広がる暗闇に飛び込もうとして、彼は一瞬、動きを止める。が、そのまま闇に身を投じた。 追おうとした律もハッと足を止めた。人の気配がする、と思った瞬間、ぬっとアサルトライフルの銃口が突き出したのだ。 「まずい、新手だ!」 律は叫び、素早く身を伏せる。その頭上をフルオートの銃弾が駆け抜けた。たまらず彼が曲がり角まで撤退すると、謎の敵は床に何かを放った。 それは──爆弾だった。 「伏せろ!!」 律が叫ぶのと同時に、爆弾が炸裂した。 閃光とつんざくような大音量。しかし爆発力は思ったよりも小さかった。皆、かすり傷も負わずにお互いの無事を確かめる。 しかしそれが決定的な間となった。 律と怜生が動き出すのを、戸惑った様子のツァイレンはただ見送った。意識を取り戻したヌマブチもそろそろと二人の後を追う。 彼らは慎重に奥の扉を開き暗闇に足を踏み入れた。 抜け道は階段となり、下水道へと繋がっていた。爆弾で避難したのか、ここで張っていたはずのランパンの手下達もいない。 見れば、下水に一艘のボートが浮かんでいた。中を覗き、アッと声を上げる律。そこに男が一人倒れていたからだ。 それは喉を掻き切られ、絶命したダーヨウだった。 「これは……」 さすがのヌマブチも困惑して死体を見つめる。謎の人物はこの男を逃がそうとしたのではなかったのか? 「仲間割れか?」 しん、と静まり返った下水道は何も答えてはくれない。 と、そこでタイミングを図ったかのようにヌマブチの交信機が光った。ジェンチンだ。彼は応答ボタンを押す。 「こっちで女子供、それとビンを確保した」 ヌマブチは淡々と彼に現状を報告する。ダーヨウの不審な死にも彼は興味を示さなかった。 「それよりも、早く撤収しろ。外でコトが動いた」 「何かあったのか?」 「──リィ=フォが自爆した。人質たちと一緒にな」 思わぬ報告に、息を呑む律。 「何だって!?」 たった数分前に電話で話したばかりではないか。あのリィ=フォが最悪の結果を選んでしまったのだ。 呆然と彼は天を仰ぐ。捕まった人々を助けたくて自分は── ガツッ、律は自らの拳が傷つくことも構わず壁を殴った。 そして、ただ首をゆるゆると振ったのだった。 * リィ=フォは虹連総會の子女だけを選んで人質にしていたのだった。要求は朱川港という領地との交換。交渉は決裂し、彼は虹連総會の後継者と共に爆死した。その死体すら見つかっていない。 総會は数日中にフォドゥ殲滅作戦を実行するという。 そんな混乱の中で、ジェンチンの娘、リウリーは難を逃れていた。彼女は偶然にもあの食肉工場に監禁されていたからだった。 「──あの青い服の娘か」 ツァイレンからその話を聞き、ヌマブチは自分が見かけた少女のことを思い出す。 まだお互いの傷も癒えていないままの二人は、カジノの屋上にいた。ツァイレンが話がある、と彼だけを呼び出したのだ。 「おそらく、彼女の父親は娘一人を助けるために、ダーヨウと取引したのです。女子供の虐殺を避ける手段でなく、安直な取引をね」 ヌマブチは驚かず、合点がいったようにうなづいた。 「あの時、抜け道にいたのはジェンチンだと?」 「そうです」 「証拠は?」 「有りません。私の勘です」 ツァイレンは眼下の街を見下ろす。 「彼に直接問い正します。返答次第では、私は彼を生かしておけない」 ヌマブチは答えなかった。息をついただけだ。 「あの二人には話した方が?」 「お任せします」 ヌマブチはぼんやり、律と怜生の姿を思い起こした。あんなことがあった後でも二人は頬を引っ張り合い、再会を喜んでいた。素直で純粋な友情。自分には無いものだ。 ただそれが眩しかった。 少し時間が欲しいな、と彼は思った。 (了)
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