窓の向こうでカラスが鳴いている。大きなカラスだ。ビー玉のような目でぼくを見ている。知っている、あの目玉はぼくのすべてを見透かしているんだ。心のずっと底、記憶のずっと底。思い出したくもないようなものまでも、ぜんぶ見透かしている。 ぼくは天井から吊り下がっているジイさんとバアさんを見上げた。さっきまで揃って苦しそうに両脚をバタつかせ、喉をかきむしるように暴れていた老夫婦は、今はもうだらしなく吊りさがって揺れているだけだ。口の端から血の混ざった泡を噴き、足もとには失禁した跡がある。下着を脱がせれば、その中に糞尿があるのも確認できるだろう。これまで殺してきた連中の大半がみんなそうだった。もっとも実際に確かめたのは最初のときだけだったけれども。 この老夫婦は少しばかり金を持っていたばかりに、二十数年間大切に育て上げた娘夫婦によって殺された。もっとも、実際に手を下したのはぼくなのだけれど。自殺に見せかけ殺してほしい。そんな依頼は珍しいものでもなんでもない。ジイさんバアさんにしろ、自分らの遺す金で娘がラクに暮らせるなら本望だろう。 ぼくはポケットから小さな酒瓶を取り出し、中身を一度にあおった。度数の高いそれは、いつも飲んでいるそれよりも少しばかり値のはる代物だ。仕事の成功を祝う、ささやかな儀礼めいたものだと言っても過言ではない。 窓の外にいたカラスが大きな羽ばたきを残し消えていく。彼の体でさえぎられ隠されていた外界がようやく顕わになった。 小さな店がいくつか軒を並べる、地味な路地だ。老夫婦はその路地に建つ飲み屋を経営していた。ふたりが吊り下がっているのは一階。二階は居住スペースとなっている。 ふと、窓の外に人影がひとつ、こちらに向かい歩いてくるのが見えた。――新聞で何度か見たことのある顔だ。知っている、知っているぞ。あれは「コニー・律という探偵がいるのですが」 世界司書は片眼鏡を指の腹で押し上げながら、呼びかけに応じてくれた五人の顔を順に眺めた。「まあ、小さな事件をいくつか解決している女性です。本人が言うに、事件の気配を感じ取る能力がある、とのことでして。とはいえ、予知能力とまではいかないようです。事件が起きているような気がする、程度のものだと本人は称しているようでして。鼻がきくといった感覚でしょうか。とにかく、彼女が足をむけた場所では実際に殺人事件が生じているという事例も少なくはないのです」 言いながら手の中の書に目を落とす。 司書が言うに、コニー自身が事件の被害者に遭うという予兆があるのだという。もっとも、探偵という立場に身を置いている手前、彼らの大半は総じて一転して被害者になってしまう可能性を持っているのだが。「よろしければ、皆さんにはこの酒場に足をお運びいただきたいのです。もしかすると、あるいは、コニーさんが殺される前に救出できるかもしれません」 酒場のドアを開けると、そこにはちょっとしたスペースが広がっていた。ラウンジというものに通じるような場所なのかもしれない。 左右に吹き抜けの出入り口がそれぞれ見受けられ、その向こうはどうやら酒場スペースとなっているようだ。奥にはいくつかのドアがある。厨房やトイレなどに通じているらしい。さらに奥には手狭な階段が、隠れるように備え付けられているのが見えた。その階段のすぐ手前に、ぐったりとした、意識の朦朧とした状態の少年がひとり、床に転がっていた。十代の半ばほどの見目の、一見して華奢な体躯の少年だ。「た、助けてください」 少年は酒場にやってきた五つの人影を見るなり、すがるような顔でそう言った。「先生が……コニー先生が」 ろれつの回らない口調で、少年はそれでも辛うじてそう告げる。告げながら二階へと続く階段を指で示した。
目の前に、老いた男女が天井からぶら下がり、揺れている。彼らの足下では彼らが垂れ流したものであろう糞尿が悪臭を放ち、絞まっていく縄からなんとかして逃れようとしたのだろう、かきむしった痕跡の見られる首は幾分か伸びてしまっている。 眼球が飛び出るほど見開かれた眼孔を見据え、レイ・オーランドは金色に閃く頭髪を軽く掻きまぜた。 「うわぁ、けっこうグロいですねぇ」 表情ひとつ変えないレイの隣では、テオ・カルカーデが“死体を前にした”緊迫感とは裏腹に、そう声を弾ませる。 レイは横目にテオの顔を検め、ついで、酒場に立ち入る前の段階での彼のことを思い起こした。 インパネスコートに身を包み、古びた、使い込んでいそうな旅行鞄を提げ持った男。全体的に華奢な印象の色濃いテオという男は、しかし、獣のものと同じ、長い耳を紫色の長い髪の隙間から覗かせている。見れば鞄を提げ持つ指先も、ハイビスカスの色によく似た眼光も、獣のそれを連想させる造形をしている。そのテオは、酒場に立ち入る前に、レイと同じような行動をとっていたのだ。 「あんた、さっき、やけに外からじろじろ見てたよな」 「え?」 無残な姿をさらしている老婦人からレイへと目を移したテオに、レイはちらりと一瞥を向けたのちに老婦人の遺体に目を向ける。 「部屋数でも確かめてたのか?」 訊ねたレイの言に、テオは「あー」と小さく間延びした声を発した。 「見たとこ、部屋数じたいは多くなさそうですがねえ。二階部分の居住スペースも、外から見たかぎりではせいぜい5部屋もあれば上等といった感じで」 とはいえ、インヤンガイに住む者たちの大半は見るからに手狭な空間を住居地としている。路地上で生活している者も決して少なくないという実情を鑑みれば、これだけの住居スペースを持つことができた老夫婦はやはり、相応の金を所有していたのかもしれない。もっともそれも、すでにこのふたりのものではなくなるのだろうが。 レイが椅子を運び、足場にして、天井からぶら下がり揺れている老いた女の首から伸びるロープに手をかけている。天井にはさまざまなパイプが巡り、ロープはそのパイプに通されぶら下がっていた。高さから見れば、老夫婦がふたりだけの力でこれらを用意するのは限りなく不可能と言わざるを得ない。 「……自殺っていうわけじゃあなさそうですがねえ」 レイを手伝いながらテオが独り言のようにぽつりと落とす。 「まったくだな」 枯れ枝のように軽い遺骸を抱えながら、レイは整った眉をわずかにしかめた。 階段の下でうずくまっていた少年は、もしかするとずっと年若いのかもしれない、そう思わせる見目をしていた。十代半ば――せいぜい十七、十八といったところだろう。伸びた黒髪は汗を吸って顔にはりついている。目元を隠す長い前髪の間から覗く目は黒く揺らめいていた。 「大丈夫? ここ、痛くない?」 三ツ屋緑郎は少年の手についていたすり傷に消毒液をつけながら訊ねかける。 少年の傷は、幸いにも、擦ったようなもの、あとはぶつけたようなアザがいくつか出来ている程度で済んでいるようだ。 「見たところ、階段から転げ落ちてきた、というところかね?」 緑郎の後ろから顔を覗かせ、少年の顔をしげしげと検めながら口を開いたのは紫雲霞月という男だった。霞月は紫色の双眸をゆったりと細め真摯な表情を浮かべながら、少年の顔と階段を上がった先を交互に見る。ひとり分ほどの幅しかない、手狭な階段だ。勾配もそれなりにありそうで、上がった先がどうなっているのかは窺えそうにない。ただ、壁掛けの小さなランプ様の電気が明滅しているのが見えるだけだ。 「君はコニー探偵の弟子かね?」 訊ねた霞月に続き、緑郎が口を開く。 「先生の助手だよね? 誰かから聞いたよ。最近、探偵コニーが助手を雇ったらしいって」 少年の応急処置を終えた緑郎が声を弾ませる。 「ほう、初耳だ」 レイとテオが老夫婦の遺体を天井から下ろすのを眺めていた深山馨が、右目につけたモノクルの奥で紫色に揺らめく視線を細める。 「誰から聞いたんだったかな……ど忘れしちゃった。まあ、とにかく、そんなことを聞いたような気がするんだよ。ねえ?」 処置道具を片付けながら、緑郎は「ねえ?」と問いかけながら少年の顔を覗き込んだ。少年はどこかおびえたような顔を浮かべつつ、声を震わせうなずく。 「お願いします……はやく……はやく先生を」 「それはもちろんだ。女性の救出は優先事項だからな」 老夫婦の遺体を下ろし、床に安置し終えたのか、レイが姿をあらわし、口を挟む。 「ところで少年。おまえ、コニー探偵と酒でも飲みにここに来たのか?」 「……は……?」 「おまえから酒の匂いがすんだよ。……まあいいけどな」 言い置くと、レイは再びふらりと足を動かし、老夫婦が吊り下がっていたのとは逆のフロアの中に姿を消した。それを送りながら、霞月もまた立ち上がる。濡羽色の狩衣といういでたちの霞月は、インヤンガイという世界においては明らかに異邦の空気をまとってもいるのだが、闇に潜む影のようなその黒衣のゆえもあってか、しっとりとした夜の底を思わせる。 「ところで、ここには少なくとも私たちのほかに、あと、ふたりの人命があるはずだと思うのだがね」 霞月がゆっくり慎重に、周囲に向けて気を配りながら言葉を編む。 ふたり。すなわち、探偵コニーがまだこの建物のどこかにいるはずだ。そうしてあともうひとりは、哀れな老夫婦を手にかけたはずの犯人。 「そういえば」 立ち上がり、階段の上やレイの向かった先をうろうろと見やっていた緑郎が、改めて少年の顔を覗き込み、神妙な表情を浮かべた。 「この酒場には裏口のようなものはないのかな」 「裏口?」 馨が顔を持ち上げる。 「僕らはあの入り口からこの中に入ってきた。外からこの建物とか周りとか見てたけど、怪しいような人は誰もこの建物から出て行ってないし、さっきあっちに行ったレイさんとも話してたんだよね。コニーさんはこれから起こるかもしれない事件とか、今まさに起きてるかもしれない事件とかを感じ取ることが出来るんだったよね」 「人の中には、その手のことに鼻が利く者もいるからね。まだ面識を得たことはないが、コニー女史もそういった類の女性なのだろう。別段、不思議なことではないと思うよ」 緑郎が口を開いたのに続き、霞月が静かな語調で続けた。 「裏口なんてもんはなかったぜ」 別のフロアを検めに行ったはずのレイが顔を覗かせ、緑郎の処置を受け、あちこちに絆創膏をはりつけた少年の顔に目を向ける。 「おまえさ、犯人の顔見てるよな?」 少年は階段から転落したものと思われる。現に、少年の身体には傷があった。その少年は二階を指していた。それはつまり、二階に何者かが――コニー探偵か犯人のどちらかが、あるいは両者ともが、そこにいるということを示唆しているように思われた。けれど、この場所に来た五人のなかの誰ひとりとして、二階へ足を向けようとしない。 レイは改めて階段の先に視線を向ける。 老夫婦の死体があったフロア、そしてもう一方のフロア。手洗い場や踊り場、むろん二階に続く階段やその先に至るまでを、彼は鏡面加工のサングラスの下、左目の中のカメラで“見て回った”。サーモグラフィーも搭載しているカメラは、どの場所にも人の息吹のあるのを感知しなかった。 ――コニーって女ももう死んでんのか? そんなことを思いもしたが、口にはしない。 「ところで、……よろしいですか?」 それまで口をつぐみ、何かを思索しているような面持ちを浮かべていたテオ・カルカーデが言を挟みいれる。「先ほど、あちらでご夫婦のご遺体を、その、私なりに検分させていただいたのですがね。死因は確かに絞首による酸素欠乏と思われるようですねぇ。他に目立った外傷等もないようですが」 「……ならば死因は自殺によるものだと、君は言うのかね?」 馨が目を持ち上げる。テオは小さくかぶりを振った。 「貴方は違うとお思いで?」 「どうやってあの高さに紐を吊るすんだ?」 あちこちを検分していたレイが、ようやく足を落ち着かせ、壁に背を預けてアゴをさする。 「あのジイサンバアサンの近くには足場は置かれていなかった。俺より確実に小せェあのジジイババアがだぜ? 俺でも足場を必要とした高さの天井に、だ。足場もなく、どうやって紐を吊るすんだよ」 なあ? だろ? レイは少年の顔に視線を落とし、少年に同意を求めるような口ぶりで続けた。 少年は暗い眼光をレイに向けて放ち、しかし一瞬の後には再び目を伏せて首をかしげる。 「それはそうとしてさ。コニーさんは確実に犯人の顔を見てるよね。じゃあ、一番危ないのはコニーさんなんだし、はやく助けてあげなくちゃ」 その少年の横で、緑郎が立ち上がり、皆に告げる。 「僕は貯蔵室とか調べてきてみる。地下への入り口とかもあるかもしれないし」 言い置いて、次いで、緑郎は思いついたように振り向き、少年に向かった。 「そうだ、ねえ、僕ちょっと行ってくるからさ、その間、この子と一緒にいなよ。雲丸っていうんだけど、何かあったら盾ぐらいにはなるかもしれないしさ」 ニカッと笑い、緑郎が差し出してきたのは、フクロウのように見えなくもない生き物――オウルフォーム型のセクタンだった。 雲丸は緑郎の手から少年の膝へと渡された後、のそのそっと身じろぎしてみせはしたが、特に意義を申し出る素振りを見せるわけでもなく、少年の膝の上で落ち着き払っている。 「懐いたみたいだね。よかった」 今度こそそう言い置くと、緑郎は厨房に続くドアを開き、その中に消えていった。 「そうだね。私もコニー君を捜してみよう」 馨はそう言いながら髪を後ろに撫で付けるように整え、トラベルギア――旧式のリボルバーを手にとり、その硬質なギアとはうらはらな、やわらかな笑みを残し、老夫婦の遺体が安置されている側のフロアに足を向ける。 ふたりの姿がそれぞれの部屋に消えていったのを送りながら、レイは金糸のような髪を片手でかきあげ、整った唇の片側を持ち上げた。 「それじゃあ、俺は二階見てくるかな。―-なあ、おまえ。二階にいるんだろ?」 問いかけ、少年の顔を見る。 少年は小さくコクコクとうなずいた。 「だよな」 言って、レイは躊躇すら見せず、階段に足をかける。 足もとを照らす明かりも多くなく、幅も狭い。あの老夫婦も、上るには多少難儀しただろう。 板の軋む音がする。レイは明滅する階段を上りきったところにある灯を見据えながら、わずかな音声をすら逃すことのないように耳を澄ませた。 「さて」 三人がそれぞれの行動をとった後、テオは少年の横に身を屈め、少年の顔を覗きこむような姿勢を作ってゆるゆると笑みを浮かべた。 「ところで、貴方にいくつか質問したいのですが、よろしいですか?」 テオの瞳孔は、よくよく見れば獣のそれを思わせる。それがぬらぬらと光りながら少年の双眸を捉えているのだ。 「貴方は二階を指していた。そうして先ほど、レイさんが“二階にいるのか”と確認したことに対して、貴方は“誰が”とは一言も返していませんねぇ。もっとも、彼には貴方の返事を期待していたような素振りもありませんでしたが。さて。ところで、二階には誰がいるんです? コニー探偵ですか?」 遠慮のない、どこか楽しげですらある口調だ。 「殺人は、インヤンガイという街では決して珍しいものではないそうですねぇ。もちろん、これは忌むべきものと言えるでしょう。しかし、です。コニー探偵は何らかの事件の要素を嗅ぎ取ってこちらに足を運んだ。貴方もコニー探偵の助手を名乗るのであれば、ご存知ですよねえ?」 訊ねる。少年はテオの眼孔を見つめたまま、「ぼ、ぼくは」と小さな声を発した。 「ぼくのことよりも、先生を」 「君は犯人の顔を見たのだよね? その君をここにひとり残していけるはずもないのだよ」 口を開いたのは霞月だ。テオの視線が霞月の顔に向けられる。 「犯人はまだこの酒場のどこかにいるかもしれないのだからね」 次いでそう言うと、霞月は狩衣の裾をさらさらとならしながら少年のそばに歩み寄った。 「しかし、そうだね。コニー女史がまだ無事でいるならば、彼女の保護も優先しなくてはならない。――テオ、ここは任せてもいいかな?」 「もちろんですよ」 テオが微笑む。霞月もまた頬をゆるめ、それからすぐに場を後にした。 厨房の担当は三人がせいぜいといったところだろうか。それほどの広さはなく、調理場と洗い場、それに隣接するフロアにそのまま皿を出すためのものであろう、小さな窓のようなものがついている。きちんと手入れの届いた、清潔な印象のある空間となっていた。しかし、それに反し、漂う空気中には何か薄暗いものが含まれているようき感じられる。もっとも、その空気は酒場に足を踏み入れてからずっと感じているものなのだけれども。 緑郎は冷蔵庫や調理場のあちこちを検めながらも、同時に、少年に残してきたセクタンの視界を共有し、少年の姿をも確認していた。 少年のそばにいるのはテオひとりだけとなっている。テオは少年に向けて何かを語りかけているようだが、むろん、その内容が緑郎の耳に入るわけではない。セクタンと共有できるのはあくまでも視界のみなのだ。 厨房の奥、小さなドアのようなものがあるのを見つけた。身を屈めてくぐらなければいけないような、半間ほどのドアだ。ドアノブに触れると、指先にひやりとした冷たいものが触れる。 「貯蔵庫……かな」 呟きながらドアを押し開けた。中は薄暗く、そしてひやりと冷たい空気に満ちていた。足元に下る階段を見つけた緑郎は、携帯しているゲーム機の電源をいれて光源代わりに使い、階段をゆっくりと確かめながら下りだした。 老夫婦の遺体は床に安置されたままになっている。口から垂らされた舌もそのままで、表情は苦悶そのものといった風だ。 馨はふたりの遺体に深い哀悼を送った後、改めてフロア内を見渡してみる。 テーブルや椅子はフロアの端に寄せられている。掃除をしやすくするためだろう。床は木目調で、よく磨かれていた。カウンターはないようだ。代わりにパーテーションが置かれ、その向こうに革張りのソファが置かれている。おそらくそこはいわゆるVIP席のようなものなのだろう。 他には、酒をしまうためのクーラーがあって、簡単な洗い物や調理ができそうな場所も隅にある。――残念ながら、このフロアにはコニーを隠すための空間はないようだし、それは逆に犯人が身を隠すことのできるような空間もまた無いということを示唆している。 小さな息を吐き出して、馨は上部に視線を向けた。 様々なパイプがむき出しのままになっている天井。老夫婦はこのパイプに紐を吊るし、首を吊ったのだ。 しかし、なるほど、確かにね。 ひとりごちて、モノクルの奥で目を細める。 それなりに身長のある馨でさえ、足場がなければ届きそうにない高さに、パイプはある。誰か大人が誰かを負ぶったり、あるいは支えたりしなければ、到底紐を通すことはできないだろう。 ならば、犯人はよほどの巨漢か、あるいはよほどの跳躍力を保持しているか。――あるいは、犯人に協力した何者かがいるか、という選択になるだろう。 「犯人はひとりじゃない……? いや、しかし」 言いながら、馨はふと動きを止めて思索する。 「司書は、犯人は複数だという情報はよこしていないはずだが……単独で……」 二階はやはり居住スペースとなっていた。いや、居住スペースというよりは、むしろそれを兼ねた簡易宿的な役割も持っているのかもしれない。 寝台を置いた部屋が五つ、内、シャワールームが備わっている部屋が三つ。階段を上り突き当たる一番奥が老夫婦の私室だろうか。他の部屋に比べればいくぶん広さも余裕をもった作りとなっている。ここにもシャワールームは備わっていた。 廊下に続く窓のすぐ外は隣接する建物の壁があり、押し迫るように壁を這うパイプがうねりを巻いている。とてもではないが、窓を開けたところで新鮮な空気を期待できそうにはない。――が、レイは眉をしかめて窓を開き、流れ込んできた生温い外気を吸って深く息を吐いた。 どの部屋を検めてみても、どこにも人の気配は感じられない。小さなクローゼットのようなものや、とてもではないが人が入れそうにない小さな冷蔵庫といった類のものも確認してはみたが、当然ながら、そこにコニーを見出すことはできなかった。そもそも、レイの左目に備わるセンサーがそれらしい気配を感知しないのだ。生きている人間も、死体も、双方ともにこのフロアにはないのだ。 にも関わらず。 レイの耳には睦み合う男女の息遣いや、ささやくように交わす話し声、あるいは暴行を拒む声。そういったあらゆる音を感知するのだ。――そこにあるのは、色濃く残る人の欲。それが残り香のように凝り固まり、渦をなして空気の中に満ち広がっているのだ。 「……酒場にある簡易宿っちゃあ、……そりゃそうだよなぁ」 低く喉を鳴らすように笑うと、レイはふと足を止め階段の下に顔を向けた。 霞月は馨が向かったのとは逆のフロアに足を運んでいた。 見たところ、広さ的にはこちらのフロアのほうがやや広めだろうか。テーブルや椅子は整然と並べられている。カウンターがあり、その向こうに小さな窓のようなものがある。天井の高さは隣のフロアと同じ。やはりパイプが這いずり回っている。 大きな棚に置かれたグラスやマドラー。色とりどりの酒瓶。隅にジュークボックスがあり、ダーツも用意されていた。どちらかと言えば古いタイプの酒場だったのかもしれないが、それでも、それなりに賑わう場所だっただろうことは、テーブル数や、耳に触れるさわさわと揺れる空気からも察することができる。 老夫婦はおそらく決して清廉とした営業をしていたわけではないのだろう。もしかすると買春を斡旋するようなこともしていただろうし、あるいは麻薬やそういったものの取引も黙認していたかもしれない。そもそも、人が多く集う場所には相応の欲というものもまた寄り集まるものだ。それは空気中に染み付き、その場所を形成する要素のひとつとなる。欲というものが染み付いた場所には、本来であれば不可視であるべきはずの存在もまた寄せ付けられる。すなわち、霊といった類のものも呼び寄せられるものなのだ。 霞月はトラベルギアである絵巻物が懐にあるのを確かめた後、ふと、フロアに備わった小さな窓のようなものに目を向けた。 そういえば、あの窓はどこに通じているのか。 窓のそばに足を向け、カラカラと小さな音をたてて横に開く。そこは厨房に通じる小窓だった。おそらく、厨房で用意された皿をこの窓を通じて提供し、テーブルに運ぶのだろう。 「なるほど」 呟いたそのとき、厨房の奥から強い風が吹き流れてきた。否、それは風とは似て非なるものだ。生臭いような臭気が鼻をつく。 「コニーさん!!」 緑郎の声が厨房の奥から響いた。 厨房から続いていた階段を下りきったそこには広い空間があった。ところどころ小さなランプ様の灯が壁掛けされている。酒樽があり、さらに進むと、奥に小さなドアがあった。歩き進むごとに空気が冷えていくのがわかる。それと同時に鼻をつく臭気が湿った空気の一面に満ち広がっているのも知れた。 なぜか、数多くの視線が注がれているような気がして、緑郎は意味もなく不快感を覚えた。まるで周囲を見知らぬ人々に囲まれ、さらに、いわれのない悪意をささやかれているような感覚だ。 ドアノブに手をかける。そこは肉や魚を燻製にするための室であるらしい。肉や魚が吊るされ、揺れている。そしてその奥に、両手で耳をふさぎ、ガタガタと震え上がっている女の姿があるのを、緑郎は見つけた。 「コニーさん?」 名前を呼んでみる。 女は緑郎の声に大きく身体を跳ね上げて、ガタガタと震えながら顔を覆った。 「死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない」 くぐもった声でそう繰り返す女のもとに駆け寄って、緑郎は女の腕を掴み、叫んだ。 「コニーさん!!」 同時に、周りを強いつむじ風が囲んだ。 緑郎の声が響いたとき、少年は弾かれたように立ち上がって、そうしてまるで呪文か何かを口にするかのように、早口でぶつぶつと言葉を紡ぎ始めた。 テオは少年の膝から転げた雲丸を抱き上げた後、赤く閃く双眸を少年の顔に寄せた。少年の顔は恍惚とした表情を浮かべていて、そうしてそれはやがてほどなく満面の笑みへと変じていった。 「あなたたちは僕のことを最初から疑っていたのでしょう!?」 何の前触れもなく、少年は演技がかった語調でそう口を開ける。 「僕があの夫婦を吊るしたのだと! 苦しむ様を見てほくそ笑んだのだろうと! そしてコニー先生のことも殺したんじゃないのかと! ねえ! あなたたちは僕のことを最初からそう踏んでいたんだ! あはははははははは!!」 言って、少年はぐるりと首をまわし、テオの顔に目を向けた。 「貴方は」 テオが口を開きかけたとき、同時に、少年の身体の周りを強いつむじ風が取り巻き、数多くの人間が寄り集まり低く唸っているような声が酒場の中に広がった。 「残念だったね! 僕は吊るしてなんかいないよ。僕はあの人たちの背中をちょっと押してあげただけさ! 仲間を欲しがるこの人たちの手を借りて、ちょっと手伝ってあげただけなんだよ! あははははは!」 少年は高々と笑う。つむじ風は少年の身体を包み隠すように取り囲む。 その時、 視覚的には墨字が紐のような形となって現れたように見えた。それが少年の身体を取り巻くような形を得て、そして少年の華奢な身体を床に押し付けるような格好で“捕らえた”。 振り向いたテオの目に、絵巻物を広げ持った霞月の姿が映る。霞月は小さく息を吐き出した。「失礼しました。……そのままどこかへ逃げてしまいそうな気がしまして」 しかし、少年を取り囲むつむじ風――否、それはもう既に死霊の凝固したものと変じていたのだが、その勢いは潰えていない。口々に怨嗟を吐き出し、寄り集まり、混ざり合い、まるで深い闇が腕を広げ少年を取り込もうとしているかのようにも見える。その塊の中に、隣のフロアで遺体となり横たわっているはずの老夫婦の顔があるようにも思えた。が、それもまたすぐに怨嗟の渦の中に取り込まれ消えていく。 ――と、澱んだ空気を裂くような音が響き、その次の瞬間、少年を取り込もうとしていた怨嗟の塊は弾かれたように飛散し、空気の中に消えた。 馨がギアを手に構え、眉をしかめている。その背に大きな、黒々とした翼が広がっていたようにも思えたが、しかしそれもまた瞬きの間に消え失せていた。 「コニーさんが見つかったようだ。……急ごうか」 言って、馨は少年を一瞥した後、緑郎が向かった厨房に向けて走り出す。それを追い、二階から下りてきたレイもまた同様に厨房に向かった。途中、少年に向けて視線を寄せたが、そこにさほどの関心はこめられていない。 「貴方は、どういった方なのですか?」 テオは、やはり、少年のもとに残り、膝を屈めて少年の顔に顔を寄せる。 「貴方は先ほど、自分はあのご夫婦の背中を押しただけだと、そう言いましたよねぇ。……あのご夫婦は結局、自殺であったと。……そういうことでしょうか?」 あくまでもやわらかな口調で訊ねた。少年は上目にテオの顔を仰ぎ、そして口許を歪めて応えた。 「僕たちは皆をラクにしてやってるだけさ。この街には死にたがってる人間なんてゴロゴロいる。僕らはその背中を少しだけ押してやるのさ。あははははは、ねえ、それって悪いことなのかなあ?」 緑郎が見つけた女は何かにひどくおびえ、身体を小さく丸く縮めていた。耳を塞ぎ、緑郎の声を聞こうともせずに、ただひたすらぶつぶつと独り言を繰り返している。 「いや、いや、いや、いや。死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない」 「コニーさん!」 緑郎はしばらくコニーの腕を掴み揺さぶってみたりしていたが、コニーの意識が一向に改善されないのを知ると、大きく息を吸ってから唇を強く噛み締め、そうしてコニーの頬にビンタを食らわせた。 「コニーさん!」 もう一度名前を呼ぶ。それでもコニーの意識が改善されないのを知ると、緑郎は再び手を振りかぶる。が、その手が振り下ろされることはなかった。 「おいおいおいおい、女性に手をあげるもんじゃねえよ」 振りかぶった手はレイの手によって制されていた。肩越しに振り向くと、そこにレイの姿と、その向こうに馨の姿も確認できる。 「コニーさんが」 「……ああ、意識がイっちまってんだ。怖い目にでも遭ったんだろうなあ、かわいそうに」 言って、レイはコニーの身体を片手で持ち上げ、担ぐようにして立ち上がる。 「さっさとここから引き離してやろうぜ。こんな空気の悪いとこに、いつまでも女性を置いとくもんじゃあねえよな」 言い置いて貯蔵庫を後にしたレイを送り、馨は緑郎の肩を軽く叩いた。 「よく見つけてくれたね」 「……いや……。その、……歩いてるときにさ、床音の反響を聞いてたんだ。酒場なのに、どこにも酒樽がないとか、おかしいしさ。そしたら床音がおかしいところがあってさ。……ああ、地下があるのかって思って」 「なるほど。しかし、あのままここにしばらくコニーさんをひとりで置いておけば、彼女の精神は間違いなく壊されていただろう。大事になる前に見つけ出せてよかった」 緑郎は馨の言葉を受け、「まあね」と笑うと、レイの後を追い走り出す。 とりあえずは、コニーを病院に連れていかなくてはならない。老夫婦の遺体や、少年の身柄をしかるべき場所に引き渡す必要もある。――やらなくてはならないことは、まだいくつか残っているのだ。 「皆さんのご協力を得られ、コニー探偵は無事に保護されるに至りました。お疲れ様です」 世界司書はインヤンガイから戻った五人を迎え、労いの言葉と共に淹れたばかりの熱い茶を差し伸べた。 「今回の件でおわかりいただけたかと思いますが、インヤンガイには彼のような、いわゆる殺し屋という類に属する者も、決して少なくなく存在します。……もしかすると、今後また同じような事件があるかもしれませんね」 物言いたげに大きな息をひとつ吐くと、司書はそれきり口を閉ざす。 開かれていた“導きの書”が、乾いた音をたてて頁を閉じた。
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