「うわ! ちょっとそれ、待って!」 『フォーチュン・カフェ』の中でハオは悲鳴を上げて、今しも客が開こうとした包みに駆け寄った。「えっ、なにっ」 ハオの突進にふわふわの白いワンピースを着た若い娘が瞬きして手を止める。 さっきまで一緒に居た男に、どうやら別れ話を持ち出されたらしく、相手が立ち去った後もしょんぼり座って涙ぐんでいたのを見かねて、ハオが店の奥からサービスです、とクッキーの小袋を渡したところだった。「あの、ごめんっ、ごめんなさい、ちょっとそれ、手違いで、あのこっちのクッキーをどうぞ!」 ハオが慌てた様子で別のクッキーの袋を取り出す。「なんで?」「いや、あの、それ、実は失敗作が混じってて」「……どういうことよ」 泣き止みかけていた娘は一気に暗い声になった。「あたしに失敗作を押し付けたの?」「いやそうじゃなくて、僕が」「どうせあたしはだめな女よ! ばかでドジでのろまでグズなカメよ、かっぱよ、つちのこよ! いいわよ失敗作でも! これ食べるから! 食べてお腹壊したら、この店訴えてやる!」「あああ…」「……どういうこと?」 泣き出した娘に立ちすくんでしまったハオを突いて、常連客の一人が尋ねる。「失敗するなんて珍しいね」「クッキーは失敗してない、けど」 ハオは心配そうに娘を見ながら、こっそり応えた。「実はあれ、ホワイトデー用お試しクッキーで、知り合いにそそのかされて『ハードなジョークお好み用』に凶運おみくじが入ってるのも作ったんだけど」 あの袋に混じってるショッキングな緑のクッキーは青汁入り、中に『あんたなんか振られて当然』とかいう類のおみくじが入ってる。「ひどいな、そりゃ」「でも、ほら、仲のいい恋人同士だったら、それを見つけてもジョークにして笑い飛ばしてもらえるんじゃないかって。でも、今のあの子がそんなの見つけたら、もっときっと落ち込んじゃうよ」 何とか緑のやつを食べる前に取り返したいんだけど。 できたら、こっちの幸運おみくじクッキーに交換したいんだけど。「でも、今は僕の言うことなんて聞いてくれないよね……どうしよう……?」「どうしようって」 どうする? 常連客は困った顔で周囲の客を見回した。「ショックなのは振られたことなんだから、他にももっといい男がいるとか、時がたてば何とかなるとか、つまり慰めてやれば、もし凶運おみくじを見つけても落ち込まずにすむかもしれないが」「うっ、ふぐっ、えっえっ」「わああ、開けちゃう!」 娘がばり、っと袋を破ってハオが必死の形相で振り向いた。「だ、誰か」 誰か何かいい手はない…?
「い、いい手って」 ハオの必死の形相に、さっきからやり取りを心配そうに見ていた新井理恵は、セミロングの髪を揺らせて思わず連れを振り返った。 「余計なお節介だけど……このままほっとけないよね、シャルちゃん、何とかしてあげよう?」 ベレー帽がよく似合う垂れ目気味の顔、子犬のように人懐っこく見つめられて拒否出来る人間はそういない。 「せっかくの理恵とのお茶ですのに……無粋ですわね」 金髪碧眼、レイピアの名手で、すばやい突きは空中に投げたコインを一撃で3枚まで打ち抜くスピードの持ち主、シャルロッテ・長崎は瞬きをして手にしていた紅茶をそっと置く。 理恵のお人好しがまた始まった、と思いつつ、それもまた理恵の好ましいところでもありますわね、と微笑みながら頷く。 「まぁ、変な揉め事はとっとと解決してしまうに限りますけど…どうしましょうね?」 「うん、どうしよう?」 あたしとしては、素直に彼女を慰めてあげたいな。 「振られるのは辛いし……そこにそんなおみくじ開いちゃうの、もっと辛いだろうし」 でも、見ず知らずのあたしがいきなり彼女を慰めても、効果ないだろうし。 「いろいろと考えてみることですわね。発想は自由に多く持つのが解決の秘訣ですわ」 シャルロッテは心配そうな理恵に大きく頷く。 「でも、方向性としてはどうしましょう? この場をごまかす? 盛り上げる? トドメを刺す?」 「トドメって、駄目だよ、駄目だよ!?」 真面目な顔でとんでもないことを口にした相手に、理恵は慌てて釘を刺す。 「では、とりあえずクッキーをわたくしの神速のレイピアで粉々に…」 「しゃ、シャルちゃん」 「あるいはまた、強盗のふりをして店内を木っ端微塵に…そしてその中でさらにクッキーを回収……」 シャルロッテはなお真面目な表情でさらにとんでもない提案をしてのける。 「もう真面目に考えてね?」 シャルちゃんが真面目なのは分かってるけど。 理恵は溜め息をついて、破いた袋を手になおもハオと押し問答を続けている娘を見やり、ごそごそと鞄の中を探って、お気に入りの写真を入れたパスケースを取り出した。 「ねえ、この写真見せて感想聞くっていうのはどうかな」 「まあ! これはこの間の夕焼けのときの写真ですね! 遊ぶ子ども達も家路を急ぐ家族も、本当によく撮れていますわ」 「ありがとう」 理恵ははにかんで笑いながら、やっぱり『心理定規(マインド・ルーラー)』で、心の距離をあやつるのは、この場合だめだよね、と首を傾げる。 「だからね、趣味で撮ってるんだけど、どう思うって聞いてみようかな。気も逸れるだろうし、うまくいけば話もいろいろ聞けるだろうし」 愚痴とか聞かせてもらえれば、そのうち少し落ち着いてくるんじゃないかな。 「気持ちが落ち着いたら、『そのクッキー、ハオさんが友達用に作ったクッキーだから取り替えて欲しいの。駄目かな?』って言っても、聞いてくれそうでしょ?」 「名案ですわ、理恵!」 シャルロッテは感極まったように大きく笑みを広げた。 「わたくしも愚痴を聞くことならできますわ! たとえば、その夕焼けの写真を見て、彼女が相手との最後の喧嘩を思い出そうと、そんなつまらない喧嘩をどうやってできるのか不思議ですわ、と慰められますし。相手の男がどんなにカスな男か聞かされても、そういう男に巡り逢ってしまった運命を呪いなさいとか、貴方はカメにもかっぱにも見えないけれど、つちのこって何ですか、似てるかもしれませんねとか共感してあげられるかもしれませんわ!」 「シャルちゃん、それはあの」 真剣に、けれどいささかぎりぎりな慰め方を披露するシャルロッテに理恵がひきつる。と、そこへ、 「まぁ、ビデオでも見ながらじっくり考えましょう、皆様」 いきなりテーブルに割り込んできたのはディブロ。 本体は空飛ぶクラゲ、なのだが、現在は魂の入っていない赤毛の少年の体に絶賛憑依生活中だ。 「はい?」 「ビデオ?」 理恵とシャルロッテが訝しげに見返すのにも怯むことなく、ディブロは手にしたカメラを再生して見せ始める。 「これはですね、以前参加しましたお仕事でして。男女の中はかくも解決が難しいという好例といいますか、『修羅場』なる状態をかくも見事に表した状況として好例といいますか」 「わ……」 「あら…まあ…」 理恵とシャルロッテが目の前で繰り広げられる光景に茫然とする。 「よりわかりやすくするために編集作業をしているのですがね、やっぱり、任務から脱線して『嫉妬』状態の同行者の登場シーンの割合、上げたほうがよろしいでしょうか。ほら、ここ、虎部さんがトラベルギアを用いて現地のコンダクターに突き刺している場面、ここアップしたほうがよろしいでしょうか」 「ディーブロくん?」 この前の映像なら、俺にも見ーせて。 ディブロの背後にかき混ぜられて泡立ちつつあるクリームソーダを持ったまま、ゆらりと立ったのは虎部隆。 「何やってんの、こんなところでしかも女の子二人相手にきゃいきゃいわいわいと人のネタで」 そうこうしているうちに彼女、緑のクッキー食べちゃうんだよ泣いちゃうんだよ傷ついちゃうんだよ? 「楽な方で女の子ゲットしてしかも自分は無傷で済ませようとかそういう魂胆見え見えだとか思わ」 「と、緑色のお菓子を奪還すればよろしいのですね」 隆の台詞をさっくり切って、ディブロはカメラ片手に立ち上がる。 「一つ考えがありますので準備してきますね」 「っておい、そんなこと言って逃げようとか!」 ああ、もうあんなに泣いてんじゃんか。 気がかりそうに振り向いた隆は、オールバックの黒髪を軽くかきあげた。 「女の子が泣いてるのはほっておけないよな」 きゅっと唇を締めると、クリームソーダを持ったまま、ずかずか娘とハオの側に近寄っていく。 「もう何よ何よみんなしてみんなして、私を馬鹿にしてばっかりで〜!」 「あの〜っ」 破いた袋の中身を今にもつかみ出そうとせんばかりの娘と、それを必死に止めるハオの間に割って入り、隆はどん、と勢いよくテーブルにクリームソーダを置いた。 「っ!」 「何がそんなに悲しいんだい!」 隆の勢いに一瞬娘の動きが止まる。 「その男俺が殴ってやるよ」 にやりと不敵に笑いながら、腕まくりをしてみせる。 「何よ、あんた」 誰がそんなこと頼んだのよ。 娘がじろりと隆を見やった。 「あんたが悲しむのを見てられないんだ」 隆は大仰に眉を寄せてみせる。 「クッキーは最後に食うもんだぜ。まずは茶でも飲んで落ち着こう。な!」 紅茶二つ!とハオに注文し、隆は娘の横の席にぐいぐい体を押し込むように座った。 「俺は虎部隆。あんたの名前は?」 瞳を見開いて最大級の笑顔で娘を凝視すると、つられたように娘も名乗る。 「橋野、涼子」 「じゃあ、橋野さん、いや涼子さん、がいいかな?」 キラーン。 口元で爽やかな音が弾けたような明るい笑みをなお見せて誘う。 「まあ座ってくれよ」 「ここはあたしの席よ」 「今この時から俺の席でもある」 「何よ勝手にどういうつもりよ」 「あんたとじっくり話してみたいんだ」 「あたしはあんたとなんて話したくないから!」 「う」 一瞬強張った隆が視線を逸らし、こんな時兄貴なら、と小さくつぶやいたが、ふっきるように涼子を見上げて、再び気合い十分に白い歯を見せる。 「それほど捨てたもんでもないぜ? 話して初めてわかることもあるだろ?」 「だからどうしてあんたに話したりしなくちゃいけないのよっ」 苛立った様子でクッキーの袋を握りしめる涼子に、 「シャルちゃん」 「ええ」 理恵とシャルロッテが頷き合って、急いでその席に近づいた。 「どうしたの?」 「この人が何かしたの?」 善意の隆には悪いが、これ幸いと利用させてもらおうと、互いに目配せする。 「あれ? この子の友達?」 シャルロッテについ視線が動いてしまうのが隆の微妙なところでもある。鋭くその視線に気づいた涼子が、なお目の色を険しくするのに、理恵が素早く口を挟んだ。 「これから友達になりたいと思って、さっきから話しかけようと思ってたんだけど」 「あなた達、誰?」 次々にテーブルに現れた三人に、さすがに警戒したのだろう、涼子は不安そうに三人を交互に見る。 「何の用?」 「理恵は写真が趣味ですの」 シャルロッテが穏やかに微笑んでみせた。 「お茶を楽しみながら、いろいろ見せてもらっていたのですけど」 他の人の感想も聞きたいね、という話になって。 「幸い、話しやすそうな方がおられるわね、と話していたところでした」 にっこり頷いた理恵が差し出した写真に、涼子がつい視線を引きつけられる。 「…綺麗ね」 「ありがとう」 「夕焼けも綺麗だけど……このおばあさん? なんかあったかそう」 「うん、いい笑顔でしょ?」 涼子の気持ちが少し解れたと見て、シャルロッテが続ける。 「写真を一緒に眺めて、おしゃべりできたらいいなあと思っていましたの」 そうしたら、あのクッキー騒ぎが始まって。 「……」 涼子が一気に表情を陰らせた。引いてしまいそうな雰囲気に、巧みに理恵がことばを繋ぐ。 「どうしたの? 何かあったの?」 「……うん」 涼子はシャルロッテと理恵の柔らかい対応に気が緩んだのだろう、手にしていた袋を見つめながら、怒らせていた肩をしょんぼりと落とした。 「このクッキー、私が食べちゃだめ、みたいに言われて」 「まあ」 「どうして?」 「失敗作だからって……でも、そんなの、どうして渡したの?」 涼子が破ったクッキーの袋をぎゅっと握りながら俯く。さりげなくテーブルにつく理恵とシャルロッテに促され、涼子はのろのろと椅子に腰を降ろした。 「今日はうんとひどい日だった、何もかもうまくいかなくて」 くすん、と洟を啜る。 「ひどいこと、言われたし」 「何を?」 「どなたに?」 「……3年間付き合ってた彼に。……お前は女の失敗作だって。友達の紹介だから付き合ったけど、俺はとんでもないの、押し付けられたって…」 「ああ」 理恵が頷いた。なるほど、それで記憶が重なって、あれほど派手にハオの弁解に逆ギレしたのか。 シャルロッテも心からの同情を浮かべて、つぶやく。 「それはあんまりですね、真実だとしても」 「え」 「シャルちゃんっ」 テーブルの下で理恵がシャルロッテを突いて黙らせる。 「真実って」 「ううん、真実みたいな言い方してひどいよね、ってこと」 表情を硬くしかけた涼子に、理恵がそっと首を振った。 「そんなの別れて正解だよ! 最低の野郎だな」 隆がようやく出番が来たと言わんばかりに大きく頷いて見せた。 「こんな可愛い子を振るなんてな! こっちから振ってやろうぜ!」 「あ、で、でも」 涼子が隆の声にぼそぼそと反論する。 「確かに無神経だけど、ちゃんと気も使ってはくれたんだ、今度のことだって友達の顔を立てて3年は別れないでくれたし」 シャルロッテは澄んだ青い目を丸くする。 「それは、気を使ったというより面倒だったのでは」 「あ、うん、友達とあなたの関係を壊さないようにしてくれたんだよね」 理恵が慌てて言い換える。 「別れるって決めてたけど、バレンタインチョコは受け取ってくれたし」 目を潤ませた涼子にシャルロッテが深く頷き、 「チョコレートに罪はありませんものね」 「ちょ、チョコレートに込めた気持ちをわかってくれてたんだよね!」 理恵がフォロー、結構ぎりぎりなやりとりが続く。 「あんた慰める気あんの?」 突っ込みを次々回収されるシャルロッテに、隆が思わず口を挟んだ。 「ありますわ。少なくとも、慰めるいいわけに次々注文されている貴方よりは」 「注文?」 「え、あはは」 隆が涼子の冷たい視線に笑ってごまかした。うまくいけば店主の奢りになるかもじゃん、と涼子の前に運ばれてきたものを並べてやりながら続ける。 「それにさ、おいしいもの食べたら気持ちもすっきり心もくっきり」 そうやって気分を変えたら、何かいいことがあるかもしれないだろ? 「慰めて、くれてるの?」 涼子は疑わしげに隆を見返す。 「もちろん!」 そうですわ、とシャルロッテが微笑みながら、 「これだけ食べれば、体もたっぷりウェストぷっくり」 「シャルちゃんっっ」 さすがにフォローし切れない理恵に、シャルロッテがこっそりと、大丈夫、最後はわたくしの神速のレイピアがあります、と囁く。 「なんか慰められてる気しないんだけど」 涼子が恨みがましく隆を見た。 「え俺? そこで俺なの?」 「だって、彼の方がもっと優しかったし」 「なんだよもう! 結局は色男が世界の中心ですかそうですか!どうせ俺なんて世界中の女運を分配しきった後の残りかすから出来てんだよお!」 隆がヤケになったようにクリームソーダを一気に吸い上げた。これならどうだと半泣きの顔で、 「そこに持ってんの、フォーチュン・クッキー? なら俺にその幸運をくれよぉぉ! そんで失敗作だったら一緒に訴えようぜえぇぇ!」 「えええ−っ、どうしてあたしがあんたなんかに!」 勢いがありすぎたのか、思わず涼子が抵抗する。まずい、と慌てた隆が、せめてクッキーだけは回収しようと粘ってみる。 「特にその緑! 凄くおいしそうじゃん! 俺に緑ちょうだい? ねえちょうだいったらちょうだい!」 「ううう、やだ! そんなに言われるなら緑だけはあげない! ぜーったいあげないからっ!」 「あああ…」 理恵とシャルロッテは思わず呻いた。 確かに涼子の気持ちは解れたかもしれないが、肝心の緑のクッキーはぎっちりがっちり涼子に意識されたばかりか、絶対渡さないとまで言わせてしまったではないか。 「こうなったら最後の手段しかないかもしれませんわね」 「そうだな、最後の手段しかないかも」 シャルロッテがレイピアを、隆がシャーペンを取り出そうとしたその時、 「ごめん、ちょっといいかな」 するすると近づいてきたのはディブロだった。 哀れみを誘うような不安定な笑顔、おそるおそると言った様子で声をかけてくる有様はさっきまで、ビデオで『修羅場』の解説をしていた人間とはとても思えない。 「お店の人から、君が緑色のお菓子、持っていると聞いたんだけど、お願い、それをくれないか。切実に」 「え…?」 懇願するように頼まれて、涼子が瞬きしつつ、自分の掌の袋を見下ろす。 「緑の、お菓子?」 「うん。実は、これ」 ディブロが見せたのは、クッキーから引っ張り出したと思われるおみくじ、一枚。 そこには『凶、ただし、女性から緑のお菓子を貰うと末吉』と書かれている。 「ぼく、どうしてもどうしても今年試験に受かる必要があって」 困りきった顔で訴える。 「すごく努力した。睡眠時間を削って勉強もしたし、お百度も千度ぐらい踏んだし、これが効果あるって聞いたことは全部全部やって」 最後がここの店で幸運のおみくじを引き当てることだったんだけど。 「そのおみくじが」 「……凶……」 涼子が思わずディブロの掌のおみくじを眺めた。 「……ひどい店よね」 「ほんとそうだよね」 遠くで見ていたハオががっくり頭を垂れるが、それは無視してディブロは話を進める。 「でも、貴方だけが唯一ぼくを助けることができる」 「あたし、だけが」 「他の人は誰も緑のお菓子、持っていないんだ」 「そう、なの?」 顔を上げる涼子の目に、確かに店内に緑色のお菓子は見当たらない。もちろん、ディブロがハオに回収させているのだが。 「さっき、聞いたのだけど、貴方のおみくじクッキーの中に緑のものがあるらしい……それ、ください」 深々と頭を下げられて、涼子はそろそろと手を開いた。 「あたしだけが、助けられるのね?」 「うん、お願いします」 「……うん、わかった」 涼子はそっと袋を開いた。 緑色のクッキーは一つ、二つ、三つ。 「全部?」 「全部くれないか」 幸運はたくさん欲しいから。 切々とした訴えに、涼子は緑のクッキーを三つとも袋から取り出して、ディブロに渡した。 緊迫していた店内に、さすがにほっとした空気が流れる。 「ありがとう」 「その代わり!」 涼子が慌てたように顔を上げる。 「その、おみくじ、ちょうだい」 「え?」 「あたし、女の失敗作だって言われたの、でも」 あたしだって、あなたの助けにはなったのよね。あなたに幸運を上げられたのよね。 「……それを思って」 もう一度、頑張りたいから。 涼子が涙に濡れて赤くなった目元でディブロを見つめる。 「……うん、じゃあ是非どうぞ」 「ありがとう」 ディブロの手からおみくじを取り上げ、涼子はゆっくり立ち上がった。 「元気でた。ありがとう。頑張るね」 あなたに会えて、よかった。 にっこり笑った涼子はさっきより数倍生き生きして見える。 テーブルの上の紅茶に添えられたミ二タルトを一つつまみ上げて口に放り込み、 「ごちそうさま! ありがとう!」 片目をつぶって跳ねるように店を出て行った。 「……やったじゃん、回収」 ほう、と隆が溜め息をついた。 「偶然?」 「いいえ」 隆に首を振り、理恵に微笑み返し、ディブロは、このおみくじはさっき奥で作ってもらいました、と種明かしした。 「だから、おみくじ自体はここの店の本物ですよ?」 人為的に作った運命ではありますがね。 「で、どうします? この緑のクッキー」 「それにこちらの支払いはどうされますの?」 ディブロとシャルロッテの視線が自分に集まり、隆がひくりとひきつる。 「そこで俺? また俺? なんで俺?」 「幸運をくれって言ってましたよね?」 「注文されたのは貴方でしたわね?」 「ああわかったわかったわかりましたよ食べます食べればいいんでしょ凶運クッキー! でも支払いは無理だかんね!」 ぎろっと振り返った隆にハオが両手を合わせて感謝感謝と笑い、支払いはこちらで持つよ、と続けた。 「そういうことなら、いただきましょうか」 「そうですね」 「おいしそう!」 「って、何なんでそこに座ってみなさん楽しくお茶状態? 俺のは?」 「あるでしょう、そのクッキー」 「わかった食べるよ食べます食べるから、残しておいてくれよ口直し! あ、そこの中華まんじゅうとクルミタルトとマンゴープリン俺のだからな!」 「頑張るって言ってたけど…大丈夫かな」 「大丈夫ですわ、だって凶運はすべて虎部さんが始末なさるわけでしょ?」 にっこり明るく微笑んだシャルロッテに、なるほどそういうことなんですねー、とディブロがうなずく。 「なーに、俺よりはすぐに相手が見つかる…ははは(哀愁)」 だって元気そうだったじゃん、ここ来たときより数段明るくて可愛かったじゃん、と青汁クッキーを口に一気に三つ放り込み、隆は道ばたの雑草を盛大に口の中に詰め込んでしまいました的な涙目になっている。 「何だろうこの触感、青臭くてどろりとしてて苦みとえぐみがもう絶妙に入り交じって口の中に壮大な交響曲を奏でる味わいっていうか」 「おみくじごと食べるなんて漢(おとこ)ですわね」 「あ、そうだ、虎部さん、大丈夫?」 シャルロッテの指摘に慌てた理恵が隆を覗き込んだ直後、 「あーっ!」 店の奥からハオの叫び声が響き渡った。 「今度は何?」 「何ですの?」 「……ご、め……ん……」 やがておそるおそるひきつりながら、ハオが奥から出てきた。隆の前までやってきて、意を決したようにぺこり、と頭を下げる。 「ほんっと、ごめん!」 「ぬあに」 「入ってなかった」 「え」 「凶運おみくじ、それに入ってなかった」 「……えーーーっ!!!」 「最後にもう一度中身を確認してからと思って避けておいて、きっとそのままだったんだ」 今さっき、厨房の隅に落ちていたのを見つけちゃったよ。 「おい〜〜〜っっっっ!!」 じゃあ俺の苦労は。 俺の努力は。 この口の中の青臭さは。 「まあまあ虎部さん」 ディブロは滂沱の涙に溺れそうになっている隆を座席につかせて微笑んだ。 「努力はいつしか報われる。ほらここに美しい女性が二人おられる、お知り合いになれたきっかけだったと思えば」 「そ、そうかな」 そうかなそういう幸運もありって考えるべきなのかな俺? 隆が何とか立ち直って席についたのもつかの間、 「そうですよ、袖すり合って別れてしまう縁にしても縁は縁ですわ」 にこやかにシャルロッテがトドメを刺した。 「おお、さすが名手ですね、鋭いです」 ディブロが見当外れな賛嘆を向ける。 「シャルちゃん…フォローになってないと思う…」 理恵のことばにむぐむぐと必死に口の中の青汁クッキーを咀嚼しながら、 「これが敗北の味か…うまいぜ…」 再びの涙目で隆はつぶやいた。
このライターへメールを送る